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2004年04月30日(金) ■
初恋の人、マイク・タイソン

日刊スポーツの記事より。

【ボブ・サップ(29)が、マイク・タイソン(37=ともに米国)とのボクシングマッチ受け入れを宣言した。30日(同5月1日)のK−1ラスベガス大会に向けた公式会見が当地のホテルで行われた。7月31日(同8月1日)に米国内で予定されるK−1・Dynamite!!への参戦交渉が最終段階に入っているタイソンに対して、サップは「ボクシング戦でも構わない」と呼びかけた。昨夏から対決を熱望してきた野獣は、圧倒的な不利を覚悟の上で元祖・野獣に挑む決意を固めた。】

参考リンク:マイク・タイソンのこれまでの戦歴

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 マイク・タイソンといえば、現在でも知名度としては現役(なのか?)ボクサーの中では圧倒的なものがあるのでしょう。もっとも、その「知名度」の半分は、レイプ事件とか乱闘事件のような、「困った人」というもので占められているわけですが。
 昨今のK−1の「タイソン関連騒動」を観ていて僕が感じるのは、主催者側のタイソンに対する「熱意」と僕のような日和見格闘技ファンのあいだの温度差なのです。
 というか、「どうしていまさらタイソン?」と思わずにはいられない。
 高額のファイトマネーを積んでK−1のリングに彼を上げても、「今のタイソン」を観たい人がそんなにいるのでしょうか?

 参考リンクの年表にあるように、マイク・タイソンの「全盛期」は、彼の20代前半、1980年代の後半でした。あのころのマイク・タイソンは、そりゃあもうべらぼうに強くて、挑戦者たちをあっという間にKOし、「こんなに早く終わっては、入場料が勿体無い!」とか、みんな呆れ顔でぼやくくらいだったのです。
 しかし、東京ドームでバスター・ダグラスに敗れたことをキッカケにタイソンは、転落の一途を辿っていきます。
 王座転落の翌年に婦女暴行で逮捕され、3年間の収監生活を送ったあとに一時は復活して世界王者になりますが、そのあとは今ひとつピリッとしない試合が続き、1997年には、イベンダー・ホリフィールドに対する「耳噛み事件」を起こし、その後も暴行容疑で2階の収監。最近は自己破産もしてしまいましたし、この「世界最強の男」の後半生は、本当に「どうしようもない」状況で。

 それにしてもK−1、どう考えても「落ち目」であり、「全盛期の力はない」タイソンにどうしてここまでこだわるんだろう、と思いませんか?
 タイソンvsボブ・サップの「ボクシング対決」なんて、引退した横綱とサッカー選手が相撲対決をやるようなもので、どう考えても「最高の勝負」になりようがないのに。
 たぶん、この「世紀の対決」の実現をもっとも望んでいるのって、K−1の関係者なのだと思います。ほとんどゼロのところからK−1を築き上げてきた彼らにとっては、「憧れのタイソンをK−1のリングに上げる」ということ自体がひとつの「夢」なのでしょうし。もちろん、彼らの「プロの目」としては、「今のタイソンはどうなのかなあ…」という迷いだってあるとは思うのですが、それでも、K−1立ち上げのときからの「夢」が手の届くところにまでやってくれば、なんとかしたいという気持ちもわからなくはないのです。たとえ「初恋の人」に昔ほどの輝きがなくなっていたとしても、いままで思い続けてきた気持ちの積み重ねというのは急激に醒めるものでもないだろうし。それって、第3者からみれば理解不能なものかもしれないけど。

 そういう意味では、「K−1も、悪い女に引っかかっちまったよなあ」なんて思うんですけどね。

 本当は、「憧れ」は「憧れのまま」で終わってしまたほうが良い場合も多いのかもしれません。



2004年04月29日(木) ■
「買い物のための買い物」

共同通信の記事より。

【三洋電機は26日、洗濯や食事の用意が好きな女性が5年前に比べて増えたことを盛り込んだ家事に関する生活実態調査の結果を発表した。
 乾燥機能付き洗濯機や電磁誘導加熱(IH)クッキングヒーターといった高機能の家電製品が普及し、家事が楽になったことが背景にあるようだ。調査は昨年実施し、1997年の調査結果と比べた。
 好きな家事を3つ選んでもらったところ、2位の「一般衣類の洗濯」が97年より5・3ポイント高い34・9%、3位の「(調理など)食事の用意」が3・9ポイント多い33・2%。「食材料の買い出し」は、前回と同じく今回も首位だが、前回より3ポイント減の37・3%だった。
 一方、3つの嫌いな仕事も尋ねたところ、1位の「アイロンがけ」が8・3ポイント増の31・5%と目立った。2位は窓ガラスの掃除だった。】

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 確かに、家電製品の進歩というのは、かなり「家事への好き嫌い」に影響しているのでしょうね。自動洗濯機ができる前の洗濯板を使っていた時代などは、冬に洗濯をするのが「好き」な人は少なかったような気がしますし。
 「アイロンがけ」「窓ガラスの掃除」なんてのは、僕が子供の頃から、あまりやることは変わっていませんからねえ。アイロンとか火傷しそうで怖いというのもありそう。
 ところで、僕がこれを読んで思ったのが、やっぱりみんな「買い物」が好きなんだなあ、ということです(とはいえ4割弱くらいなわけですが)。
 服とか本とか、そういう装飾品や嗜好品を買いに行くのが楽しい、という気持ちは僕にも理解できます。もっとも、服を買いに行くのは僕自身は「店員アタック」が苦手なので、できれば避けたい行事のひとつなのですが。
 コンビニで日常の買い物を済ませてしまう僕にとっては、たまにスーパーマーケットに行くと、いろんなものが置いてあって面白いんですけどね。
 しかし、先日「評判の安いスーパー」というのに連れて行かれて、僕はもうビックリしてしまったのです。そこはまさに戦場で、店内は人でごった返し、タイムサービスには人が群がり、レジの前は大行列。正直なところ、「こんな劣悪な環境で『安くて新鮮な品物』を買うよりは、多少高くてももっとラクに買い物をできるところに行ったほうがいいのでは…」と思いました。そこまでして、ここで買い物をするメリットってあるんだろうか?って。
 そういえば、学生時代に安いガソリンスタンドを見つけるのが大好きで、わざわざ遠くまで給油しに行く同級生がいました。「それって、結局そのスタンドに行くまで使うガソリンの量とか、かかる時間を考えたら、得なの?」と内心考えていたものです。
 うちの父親とかも、ギャンブルにお金を使うわりには、スーパーで安いものを買うのにこだわるようなところがあって、「そんな10円、20円をケチケチするのなら、ギャンブルとかやらなきゃいいのに」とか子供心に感じていたのですが。

 でも、そういうのってたぶん、「安いものを探して買う」ということ自体がひとつの楽しみなんだろうなあ、と今は思うんですけどね。必ずしも「節約」だけが目的ではなくて。僕だって、ゲームショップで「これは安い、掘り出し物だ!」と思ったゲームは、「これはトクだ」というヨロコビで、別にそれを買うつもりでなくてもついついレジに持っていったりもしますし。結局そういうものは「いい買い物をした」ことで完結してしまって全然遊ばなかったりもしますから、結果的には損をしているのかもしれませんけど。

 買い物にはきっと、「良いものを手に入れる」のとはちょっと違った「買い物のための買い物」という楽しみ方もあるのでしょう。
 とはいえ、それも自分に全く興味のないものでは面白くないでしょうし、その「興味の対象」が、日用品とかではなくて高級ブランドや貴金属、絵画とかになってしまうと、それはそれで困ったものではあるのだよなあ。



2004年04月28日(水) ■
”無人島に持ってゆく1枚”を語ること

KAWADE夢ムック「トリビュート特集・ナンシー関」(河出書房新社)より。

(能地祐子さんの「ナンシー関さんと音楽」についてのテーマ・エッセイの一部です)

【歌謡に限らず、何らかの音楽を溺愛している人間はたいてい、その音楽を定義する持論を掲げていたり、ヒーローと仰ぐフェバリット・シンガーがいたりするものだ。ナンシーの場合はどうだろう?とつねづね思っていたわたしは、2000年、各界著名人に”無人島に持ってゆく1枚”を挙げてもらうオムニバス・コラム集『無人島レコード』(能地祐子+本秀康・編、ミュージック・マガジン)で彼女に原稿を依頼した。果たして、ナンシー関が選んだ1枚は、あろうことか清水健太郎のファースト・アルバム。なるほど!さすがナンシー!我々ナンシー・ファンが歓喜するツボを逃さぬセレクトである。が、そのコラムを彼女は「なんでこれにしたのか、もうすでに自分でもわからないが。」と結んでいる。やっぱり教えてもらえないのね。ナンシー関の”歌謡魂”を解く、ブラックボックスの中身は。彼女は同コラム内で、無人島へ持ってゆく1枚を選んで論じることは「どんな1枚を選んでも、それによって何らかの人格を読まれるわけだ。というより『私はこういうレコードを選ぶ人間であると思われたい』という自己演出なわけである。」とも書いている。もちろん、例のニヒルかつユーモラスな語り口で。】

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 実はこのナンシーさんが”無人島へ持ってゆく1枚”について書いていた話は、他の人のエッセイにも取り上げられていました。きっと、読んだ人たちはみんな、今までなんとなく自分の中で消化しきれなかった「みんなに向かって、1枚を選んでみせること」への難しさとか気恥ずかしさをうまく言葉にしてくれた、と感じたに違いありません。
 僕も「そう、そうなんだよ!」と思わず頷いてしまいました。

 僕たちは初対面の人に対して「どんな音楽を聴かれるんですか?」とか「どんな本を読むのですか?」というのを尋ねることがあります。
 それはもちろん、「自分と共通する話の糸口」がないかどうかを探る、とか「相手の好みを知る」という目的があるのですが、僕の場合、自分がそれを尋ねられた場合「なんとなく答えにくいなあ」と感じることが多かったのです。だから、人に尋ねられると「まあ、いろいろと…」みたいな答えかたになることも多くって。

 「他人に対して自分の好きなものを語る」というのは、多くの場合「自分を語る」という意味を持っているのです。「自分はこういうものが好きだ」というのを語るということは、それと同時に「自分はそういうものが好きな人間だ」というのを語ることでもありますし。
 もちろんそれは、語る側にとって、意識的な場合もあるでしょうし、無意識な場合もあるでしょう。受け手の好みや都合なんてのもありますしね。好きな食べ物を尋ねられて「お寿司」と答えた女の子を「和食が好きなんだな」と解釈する人もいれば「贅沢な人」と解釈する人もいるように。

 とくにこういう”無人島に持ってゆく1枚”というようなものは僕にとっては決めることが難しいのです。たくさん挙げて良いのなら「いろいろな角度からの自分という人間」を提示することもできますが、”1枚”となると、あんまりありきたりのものを選んで「ありきたりの人間」と思われるのもイヤだけど、奇を衒いすぎて「そんなもの、どこがいいの?」と冷笑されるのも辛い。そんなふうに考えて「通が選ぶ1枚」の典型例みたいなものを「無難に」選んでしまったりもするのです。そういう「よそゆきの1枚」って、本当に選びにくい。
 いつも家で聴いているのがB'zとかサザンとかの人でも、”無人島に持ってゆく1枚”には、そういう作品は、「メジャーである」というだけで、なんとなく選びにくいのではないかなあ。僕のような自意識過剰な人間にとっては、そういう”1枚”って、確かに「自分の好み」というより「他人にこう見られたい自分」を反映している気がします。
 音楽って「自分が良いと思っている」という理由以外にも「自分はこういう音楽を聴いている」ってアピールするために聴かれていることも、けっこう多いのではないかな。
 「自分の中のナンバーワンの小説」が、本棚に並べられているだけで満足で、いつも実際に読んでいるのは東海林さだおさんのエッセイだったりするように、「他人に見せたい自分」というのは「本当の自分」とは乖離しているものなんですよね、きっと。

 たぶん、こうやって書いている文章に出てくる「僕」も、「無人島に持ってゆきたい自分」なのだと、ときどき思います。



2004年04月27日(火) ■
「これもイラクをめぐる悲劇」

Asahi.comの記事より。

【ブルガリアの首都の北120キロにある小さな村で、同国軍のイラク派遣について口論となった男性2人がナイフで刺し合う事件があった。同国はイラク中部カルバラに兵士約470人を派遣しており、23日には民兵の襲撃を受けて兵士1人が死亡。同国軍の死者は計6人になっていた。

 地元メディアの報道によれば、事件があったのは24日。警察によると、男性2人は友人でブドウ畑で仕事をした後、酒を飲みながら「ブルガリア軍はカルバラから撤退すべきか」について議論を始めた。70歳の男性は「撤退すべきだ」、48歳の男性は「とどまるべきだ」と主張して口論となり、互いにナイフを出して刺し合い、重傷を負ったという。

 病院へ駆けつけた48歳の男性の父親(72)が「息子に何をした」と怒り、医者の目の前で70歳の男性ののどを刺して殺害。殺人の疑いで逮捕されたという。地元メディアは「これもイラクをめぐる悲劇」と報じた。】

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 「これもイラクをめぐる悲劇」なのかどうか?
 この記事を書いた記者も疑問に思えばこそ「現地ではこのように報じた」と書くにとどめた、ということなのでしょう。
 この事件に関して「ブルガリアがイラクに派兵しなければ、こんなことにはならなかったのに」と言われても、さすがにちょっと違和感があるのです。
 この2人の男性は友人だったそうなのですが、彼らがこんな「殺し合い」に至った理由というのは「祖国のイラク派兵に対する意見の相違」であったようです。でも、別にその問題について異なる意見を持っていたのは彼らだけではないでしょうし、ブルガリアの国内でもいろいろな場所で議論はされていたのでしょうけど、だからといって「刃物で刺してもいい」ということはないはず。もしそれが「イラク派兵がもたらした必然的な悲劇」であるならば、日本国内は「バトル・ロワイヤル」の世界になってしまいますから。
 極論すれば「贔屓の野球チームの相違」によって刃傷沙汰になったりすることだって、盛り場ではそんなに珍しいことではないような気もしますが、そういう人々に対する世間の見方というのは、「プロ野球なんてものがあるせいで、こんな悲劇が起こるんだ…」ではなくて「野球のことでそんなふうに我を忘れて暴力ふるったりするなよ…」というのが大部分であると思うのです。人それぞれ「意見の相違」があることは仕方ないにしても、それを理由にして人を傷つけてもいい、というわけではありません。議論をするのは悪いことではないけれど、こういう方法で相手を「負かそう」とすることには、全然意味がないのに。
 そもそも「こういう血の気の多いひとたち+酒のイキオイ」というやつは、別に理由がなんであれ(イラク政策とは関係なくても)、今回のような「悲劇」を起こしてしまう可能性があるのではないかなあ。
 今回の件については、「470人中6人」という、「治安維持部隊」としては高率の死者を出してしまったブルガリアの人たちの苦悩と嘆きが背景にあったとしても。

 この記事に対しては「それで殺しあっては、本末転倒だろ…」と感じる一方で、この人たちを笑えないところもあるのです。世の中には「自分と違う意見の人を片っ端から『説得』していけば自分の意見が認められるはず」と考えている人が、けっこう多いみたいだし。
 冷静に考えれば、目の前のひとりを力づくで自分の意見に従わせようとしたところで、本当に自分が変えたいはずの「世界」は、何一つ変わらないなんてことは自明の理なのに。
 「まずは目の前のひとりから」というのは正論なのかもしれませんが、それは、今の時代では、あまりに非効率的です。
 僕は近頃、「本当に世界を良くしたい人」なんてほとんどいなくって、「他人を打ちのめして自分の正しさを認めさせたい人」ばかりなのではないか?などと感じています。みんな、わりに合わないから刃物とか持ち出さないだけのことで。
 自分が嫌いな誰かを叩いても、そこからは何も生まれないなんてことは、ちょっと考えてみればわかりそうなものなのにね。
 結局、僕たちが指差して笑っているのは、「鏡の中の自分」なのかもしれませんよ。



2004年04月26日(月) ■
ネットは、「罪悪感」をも希薄化するのか?

共同通信の記事より。

【製菓大手の不二家の店舗で「ペコちゃん」の人形を盗んだとして、群馬県警大胡署は26日までに、窃盗の疑いで住所不定、無職の男(42)を逮捕した。
 不二家によると、今年1月から東日本の9都道県31店舗で「等身大」(高さ110センチ)のペコちゃん人形が店頭から盗まれる被害があり、同署は関連を調べている。
 調べでは、男は22日午後3時半ごろ、大胡町堀越の不二家大胡店で、ケーキを注文しているすきに、ショーケースの上からオルゴール付きのペコちゃん人形(高さ約50センチ)を盗んだ疑い。「ネットオークションで売るつもりだった」と供述しているという。
 人形は非売品だが、マニアの間で取引され、等身大のものは10万円以上するという。】

〜〜〜〜〜
 
 「ネットオークション」というのは、本当にすごいものだなあ、と僕はこのニュースを聞いて思いました。何がすごいって、「普通に売っていたら、まず買い手がみつからないようなもの」もしくは「普通に売ること自体が困難なもの」が平然と売られていて、それにけっこうな高値がついたりするわけですから。
 以前、「2ちゃんねる」が売りに出されたことがありましたが(これは冗談だったのですが)、卒業アルバムとか「処女」なんてのも売られていましたし。そういえば、「有名人の結婚式の引き出物」なんてのも必ず出てきますよね。僕の同僚の先生は「有栖川宮御成婚記念」の引き出物を一生懸命落札しようとしていましたし。ちなみに、「もし本当に落札してしまったらどうしようかと最後はドキドキしたよ…」というくらいの高値になったみたいです。
 
 ペコちゃん人形がいくら好きでも、「等身大のものは10万円以上する」というのは、僕の感覚からすれば「信じられない!」という気がします。おそらく店に置いてあるものの原価は10万どころではないのでしょうが、1メートル以上のペコちゃんなんて、ものすごく邪魔なこと間違いないと思うのだけど。

 ネットオークションのおかげで、「自分にとって要らないもの」が「他人にとってものすごく必要なもの」であったりする、というのが理解されつつあるようです。フリーマーケットみたいにお客さんとやりとりをしたり、体を使うややこしさはないし、いろんな品物を見て回るのは、それだけでも楽しいしね。

 ただ、こんなふうに「犯罪行為」とのグレーゾーンを見極める感覚というのが、「ネットを経由することによって、ものすごく曖昧になってしまっている人も中にはいるのでしょうね。「援助交際」なんて、カタギの普通の大人ができる行為ではなかったのに、出会い系サイトなどを利用すれば、ごく普通の大人が「買春」をあまり罪の意識もなく行えてしまったりとか、このペコちゃんのように「出どころがはっきりしない商品」に対しても、「問題のある品物だったらどうしよう」なんていう危機意識がマヒしてしまうこともあるみたい。

 ネットはあくまでも便利なツールであり、ネットを通したからといって、すべてが浄化されるわけではない、ということは、頭に入れておいたほうがいいでしょう。別に「どうしてそんなものを欲しがるんだ!」とか言うつもりはありませんが。ペコちゃんのいる生活というのも、人によっては潤いがあるのかもしれない。

 それにしても、いくらなんでもこれはバレるだろう、というような手口だし、いっそのことレジから現金でも奪ったほうがはるかに手っ取り早いと思うのだけど、「盗んだペコちゃんを売る」ほうが、この犯人にとっては「より犯罪的ではない行為」なんでしょうか?
 それはちょっと、不思議だなあ。



2004年04月25日(日) ■
「マイナーだからおもしろい」という命題

KAWADE夢ムック「トリビュート特集・ナンシー関」(河出書房新社)より。

(「ナンシー関 名言&名バック集」のうちのひとつ)

【「マイナーだからおもしろい」というテーゼがクセ者である。
 「マイナーでおもしろい」ものもあるが
 「マイナーでもつまらない」ものや
 「メジャーでもおもしろい」ものもある。】

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 僕は基本的に、自分が「マイナー」を好む人間だと思っています。ビデオはベータだったし、パソコンはMacを使っていましたし(今はwindowsに「転んで」しまいましたけど)、野球は広島ファン。ベストセラーなどや人気歌手なども、心の中では「一般ウケ狙いのつまらないもの」という感じで、ちょっと割り引いて考えていました。
 でも、今では「メジャーなものは全部ダメ!」という発想は、「メジャーなものは全部すばらしい!」という考え方の正反対なようで、実は同じものなのではないかなあ、という気がするのです。
 「売れている本」というのは、確かに「大衆に媚を売っている」のかもしれませんが、実際は「大衆に媚を売っている本」なんていうのは、それこそ腐るほどあるのです。本100冊のうちの1冊だけが「媚を売っている本」でベストセラーになって、残りの99冊は全部「媚を売っていない、マイナーな本」というようなわけではないんですよね。
 100冊のうち、「メジャー志向」の本が50冊だったとしても、その中でベストセラーになるのは、ほんの一握りなわけですから。
 それに「売れた本」に対して、「どうしてこんな本が売れるんだ!」と文句を言うのは筋違いで、本来は読者に「どうしてこんな本を買うんですか?」と問うべきなのだと思います。
 もっとも、現代ではごく一部の「口コミで売れる」作品を除いては、なんらかの形で宣伝されていないと売れませんし、本やCDなどは、店頭に並べられていなければ(もしくは、ネット通販でラインナップされていなければ)、選択の対象にすらならないんですよね。

 僕たちの「マイナー志向」というのは、所詮、「マイナーというキャッチコピーで商売をしようとしている人々」の掌中で踊らされているようなものなのかもしれません。少なくとも、そこらへんの書店やCDショップで簡単に買える程度のマイナー作品なんていうのは、本当の「マイナー」の範疇には入らないものです。
 中には筋金入りの「マイナー好き」の人もいるのですが、彼らは、ものすごく苦労して自分の好きな作品を探し求めているのですから。
 もちろん、「苦労すればいい」というものではないんでしょうが。

 「メジャーなもの、売れているものはダメ」という発想は、たぶん、自分の世界を狭めているだけだと思うのです。妄信的に「売れているから凄い」と解釈してしまうのも問題ですけど。
 きっと「マイナーだろうが、メジャーだろうが、面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない」のです。それはもう、なるべく先入観無しで、自分の感性に照らしてみるしかないのでしょう。

 結局、極端なマイナー志向、メジャー志向なんていうのは、「自分は他人と違うということをアピールしたい」か「自分はみんなと同じ『良いもの』がわかるということをアピールしたい」かだけの違いしかないのです。

 ベストセラーになろうが自費出版だろうが、「売れたこと」や「売れなかったこと」によって本やCDの中身が変わるわけではないんですけど、やっぱり、先入観というのは大きんだよなあ。



2004年04月24日(土) ■
絶品!『ひじきの二度めし』

「食味風々録」(阿川弘之著・新潮文庫)より。

※あの、今日はちょっとシモ系の話なので、お食事中の方やそういう話が苦手な方はオススメできません。申し訳ない。

(作家・向田邦子さんとの「美味について」という対談の中で、向田さんが紹介していた「美味しいもの」の話)

【「こちらの話は、もう少しお品が下るんですよ」
 向田さんが言った。つまり、糞は糞でも人間の大便がからむ、食事中いいですか、婉曲にそう断って置いて、ひじきの話を始めた。
 「ひじきがやはり、食べても殆ど消化されずに、ちょっとふくらんだかたちで体外に出て来ます。それを集めて、洗ってもう一度煮たのが『ひじきの二度めし』、本当かどうか知りませんけど、最高に美味しいんですって。昔、海べで暮している貧しい人たちにとって、ひじきは大事な食べ物だったんでしょ。ただで手に入るし、おなかは充分くちくなるし、しかも二度使えて、二度目の方が味が良いっていうんですから」

(中略)

旧友Oの話で向田さんを思い出して、今これを書いている。「蚊の目玉」と「栗鼠の糞」と「ひじきの二度めし」と三つに共通しているのは、哺乳動物の腸管を未消化のまま通過した物質は、食品として絶品になるらしいという一点で、おそらく本当なのだろう。】

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 食通で知られる阿川さんも「残念ながら今なお、一つも試みたことが無い」そうなのですが。
 ちなみに「蚊の目玉」というのは、蝙蝠の糞を集めて漉して、その中の蝙蝠が食べた蚊の未消化のまま排泄される目玉を洗って乾燥させたもので、中華料理の高級食材として珍重されるそうです。
 「リスの糞」というのは、「コーヒーの実と花を食べたリスの糞を集めて乾かしたもので、東インドで最高の品質のコーヒーとされていた」そうですよ。
 まあ、どこまで本当の話かはわからないんですけどね。

 でも、僕も「イヌイットのごちそう」(アザラシのお尻の穴から中身をすするとか)の話は耳にしたことがありますし、そういう「美味」があってもおかしくはない気はします。うーん、しかしいくら美味しくても「ひじきの二度めし」だけはちょっと勘弁していただきたいのですが。

 食べ物の味というのは、舌だけで味わうように思われがちなのですが、実際は、においとか見た目というのはすごく大事なのですよね。そして「イメージ」というのも。
 東南アジアではご馳走とされている孵りかけの卵料理・ホビロンなんていうのは、多くの日本人にとっては、その味以前に外見による拒絶反応を示すものなのではないでしょうか。僕もたぶん、いかに「美味しい」と言われても、食べられないと思います。卵も食べるし、鶏肉も食べるのに「中間のもの」となると、どうも気味が悪い。食べ物というのは生活と密着しているだけに「慣れないものを食べる」というのは、けっこう勇気がいるものです。
肉だって、同じ動物の体の一部でも、「レバーはダメ」「ホルモン(腸)は苦手」という人は、けっして少なくないですし。

 逆に、「鶏肉だと思いこんで食べたらカエルだった」なんていうのもよくある話で、見かけでわからなかったら、僕だって人間の肉を食べてしまってもおかしくないなあ、とも思うのです。だいたい、食べた経験がないから、食べてみて「しまった!」と思うこともないでしょうから。
 まあ、あまりいろいろ疑わないから日常の食生活が送れているのかもしれません。その一方で「ミミズバーガー」なんていう都市伝説も生まれてくる、と。
 あらためて考えると、けっこう怖いものですね。

 まあ、フォアグラは脂肪肝だし、活け造りは外国の人からみたら残酷な見世物でしょうし、「美味しいもの」というのは、けっこう不健康だったり、ヘンなものだったりするのかもしれません。

 とはいえ、いくら美味しくても、やっぱりねえ…



2004年04月23日(金) ■
あげパンは、青春の味!?

琉球新報の記事より。

【南風原町立南星中(松元憲雄校長)の2年生で生徒会副会長を務める川畑厚子さんの“公約”、「(給食で)あげパンを食べよう! 」が22日実現した。設備がないなど断念しかけた公約が、友人や家族、学校、町関係者など多くの人の力でかない、校内は喜びで沸き返った。
 川畑さんが副会長に立候補したのは昨年12月。「学校をもっと楽しくしたい」と友人と“政策”を話し合うなかで、小学校低学年のころまで給食に出ていたあげパンの復活を思いついた。そして「あげパン復活」の目玉公約を訴えた厚子さんは見事当選した。
 しかし、いざ取り組んでみると壁は厚かった。パン業者には町内の小学校4校、中学校2校の計約4200食分のあげパンを作る設備はなく、川畑さんは「もうだめだと思った」とあきらめかけた。
 一縷の望みを託して3月上旬、母親の克子さんが城間俊安南風原町長に事情を説明。その結果、試験的に同中と南風原中の給食に出されることが決まった。
 22日、川畑さんが在籍する2年3組では欠席者が1人おり、余ったあげパンをめぐり、男子7人が争奪戦を繰り広げた。熾烈しれつなじゃんけんに勝った平健太郎君(13)は「もう最高。(欠席した友人に)怒られるだろうが、それでも食べたかった」と勝利の美酒ならぬあげパンに大喜びで、川畑さんに感謝していた。】

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 ああ、あげパン懐かしいですね。僕も小学校のときはよく食べてました。正直言って、やたら大きくて喉につまるし、油っぽいし、「大好き!」とまでは思っていませんでしたけど。まあ、普通のパンよりはマシ、という程度で。

 学校給食というのは、時代によってけっこう変遷があるみたいで、僕が小学校の頃に通っていた中国地方の小学校では、給食にご飯が出ることはありませんでした。九州に引っ越してきてから、転校先の田舎の小学校で「ごはん給食」というのをはじめて体験したのです。日頃あのボソボソのパンに悩まされていた僕には嬉しいことではあったのですが、そのとき強く印象に残ったのは、田舎(というか、米を作っているところ)の子どもたちはものすごくお米を大事にするんだなあ、ということでした。
 食器にポロポロとご飯粒を残していた僕にとっては、彼らの米粒ひとつない茶碗は、ものすごくインパクトがあったのです。あれはカルチャーショックだった…

 最近は「給食にお米」は当たり前になったし、先割れスプーンとかも「犬食い(食器に口を近づける食べ方)を助長するという理由で、使われなくなったらしいですね。僕はむしろこの記事で「最近の中学校では、あげパンって出ないのか」と知ったくらい、給食とは縁遠い生活をしていることを実感させられました。

 まあ、小学校ならともかく、中学校の生徒会の「公約」として「あげパン復活」が妥当かと言われると「もうちょっとオトナになれよ!」と苦言を呈したくもなるんですが、こうやって「公約」を実現すること自体には、けっこう大きな意味もあるような気がします。こういうプロセスから学べることも多いはずだし。

 実は、僕も先日あげパンをコンビニで見つけて、「懐かしいなあ、久々に食べようかな」と思ったのです。でも、そのパンのカロリー表示を見て挫折してしまいました。油で揚げてあるだけに、普通の同じ大きさのパンの倍くらいのカロリーがあるんですよね。

 やっぱり、あげパンは「青春の味」なのかもしれない。
 僕にはもう、怖くて食べられません…



2004年04月22日(木) ■
「半数が満足している」のか、「半数が不満」なのか?

読売新聞の記事より。

【陸上自衛隊が復興支援活動を行うイラク南部のムサンナ県民の約半数が、自衛隊の活動に満足していないことが21日、地元紙「アルサマワ」の世論調査でわかった。

 自衛隊の活動への過剰な期待はかねて心配されていたが、評価が数字に表れたのは初めてで、同紙のナフィ・エルファトリス編集長(34)は「期待が大き過ぎる一方で、自衛隊の支援があまりに遅く小さ過ぎた結果」と分析している。

 世論調査は、陸自の本格支援が始まった後の3月27日から4月7日にかけて、サマワ市などムサンナ県内11市村から無作為抽出した2000人に面接して行われた。

 それによると、「自衛隊の派遣は有益か」という質問に対し、「思わない」と答えた人が51%に上り、「思う」の43%、「どちらとも言えない」の6%を上回った。また、「自衛隊の駐留に賛成か、反対か」という質問では、「賛成」が49%、「反対」が47%、「特に考えはない」が4%で、賛成と反対がほぼ同数だった。

 一方、「自衛隊に何をしてもらいたいか」との質問では、「失業問題の改善」を挙げた人が45%と最も多く、次いで「復興」33%、「投資」17%の順だった。

 陸自がサマワ入りする前の今年1月前半に行われた世論調査(1000人対象)では、「自衛隊の派遣を歓迎する」が86%を占めていた。】

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 「サマワの人々の半数以上が、自衛隊に不満を持っている!」という記事のようなのですが、僕がこれを読んだ印象としては、「半数の人が『有益と思う』と答えているのだから、上々なのではないかなあ、と思うのですが。地元紙の世論調査ということで、それなりに信頼できる数字でしょうし。実際は「役に立つ」「立たない」の二元論で結論づけられるものではなく、答えた人もみんなそれぞれ「役に立っている点」「役に立っていない点」を持っていると思うのですけど。

 「復興支援目的」ではありますが、軍備をした他国の組織に「駐留」されるというのは、どこの国の人にとっても、けっしてプラスに考えられる状況ではないと思います。そうすると、派遣前の86%という数字のほうが、むしろ「異常な結果」であっただけで、現時点で少なくとも半分の人から支持されているという結果は、悲観すべきではないでしょう。もちろん、これが「本当の本音」かといわれると、それはそれで微妙なところなのかもしれませんけどね。

 それにしても、「自衛隊への希望」のところを読むと、なんだかなあ、とも思うんですよね。【「失業問題の改善」を挙げた人が45%と最も多く、次いで「復興」33%、「投資」17%】というのは、「復興」に関してはアメリカを支持している日本にも責任があるとは思うけど、「失業問題」とか「投資」なんていうのは、「復興支援」の範疇なのだろうか?って。最初に自衛隊が駐留するための用地を借りるときには、現地の地主から、相場よりかなり高めの金額を吹っかけられたそうですし、イラクの人たちも、現状は現状として、したたかに生きているなあ、と感心してしまいもするのです。その一方で、こういう「ちょっと厚かましい気がする要望」が出てきているというのは、現地の人の自衛隊への「敵愾心」が比較的薄いのかな、とも感じるのですが。「占領軍」だと思っていたら、もっと違う要望が上位に来るのではないかなあ。
 
 とりあえず、現状では自衛隊の人たちは、危険もある中、頑張ってくれているなあ、と僕は思います。ほんとうに現地の半分の人が「役に立っている」と感じてくれているなら、これはもう上々なのではないでしょうか。よそ者がいるだけで不満な人もいるでしょうから、住民全員が感謝、なんてありえないんだし。
 ただ、「復興支援の目的と見通し」についての現地でのアナウンスが不足しているのではないかな、とは思いますけどね。

 常に「100%満足」を基準とする必要はないし、ただ数字を並べるだけじゃなくて、その数字の意味を考えることって、大事なのです。そりゃ、「お客様の満足度」が高ければ高いにこしたことはないですが。

 それと、あとひとつ気がついたこと。
 イラクの人たちって、「どちらでもない」の回答率が低い。
 日本人だったら、この形式の質問って、もっと「どちらでもない」が多そうな気がします。そういう意味では、白黒ハッキリつけたがるお国柄なのかな。

 基本的には、「助ける人」「助けられる人」という枠組を超えて、お互いに協力して復興にあたれるといいなあ、と僕は思っているのです。少なくとも、サマワの人々を「一方的な弱者」よばわりするのはかえって失礼な気がしますから。



2004年04月21日(水) ■
「友情」と「恋愛」と、もうひとつの「男女の関係性」

「わたくしだから改」(大槻ケンヂ著・集英社文庫)より。

【僕はサクラが好きだ。
 サクラもきっと僕を好きなのだ。
 お互いに「好きだぜ」「好きよ」と想いを告げたこともあったかもしれないが。いやあったな。あったあった。
 しかし、サクラと僕が恋人同士かと言えばそうではない。「好き」にもいろいろある。「いろいろ」それぞれに対応する言葉がないのが困ったところだ。特に男女の関係性を表す言葉の一つが、この世の中に決定的に欠けているのは大いに困る。
 お互いを想い合う気持ちが男同士に生まれた場合、二人がホモでなければ「友情」という言葉で言い表すことができる。
 ところが男と女の間に想い合う気持ちが生まれると、「それは恋だろう」ということになり、ワクワクしたりデレデレしたりヤキモキしたり、世間で言うところの「恋愛関係」に「ならねばならない」という義務感にかられたりして、すると恋愛関係というのは何かとややこしいものであるから、付きあったはいいが双方共に妖刀村正で果たし合ったかのごとく身も心もズタズタになって、結局、「俺たち、出会わなければよかったね」などと、鼻からタバコの煙プカプカはきまくる午前二時の失恋レストランby清水健太郎……ってな悲劇が生まれることも少なくない。
 これは、男女が想い合う関係性を表す言葉が、一つ、決定的に欠けているために起こる惨劇だと思うのだ。
 この世の中には、「友情」と「恋愛」の他にも、もう一つ、男女の関係性を表す言葉があってしかるべきだと思う。
 だって実際に、それは僕とサクラの間には存在しているのだから。】

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 「わたしたち友達。だからセックスしません」という衝撃的な(いや、当時は本当に「衝撃的」だったんだってば)キャッチコピーのメグ・ライアンの主演映画「恋人たちの予感」が公開されたのは、1989年でした。この文章を読んでいて、あの映画のことを思い出しました。もっとも、あの映画を観ても全然結論は出なかったのですけど。

 あれから15年経っているのですが、「男と女のあいだに『友情』は成立するのか?」というのは、永遠の課題なのかもしれません。極論すれば「まったく性的欲望のない男女関係というのは成立するのか?」と。

 僕はここ大槻さんが書いてある言葉の意味、なんとなくわかります。それは僕が「恋人たちの予感」を観た10代末期ではなく、30を超えたオジサンになってしまって、性欲が減退してしまったのかもしれないし、もともとそういう欲求が薄いタイプなのかもしれないけど。

 正直なところ、僕のようなインドア系の男にとって「男同士の友情」ってやつは、いささか手に余るものです。アウトドア系の人間なら、男同士で「じゃ、キャンプに」とか「野球でもやるか」とか「女の子のいる店にレッッゴー!」という「遊び場」があるのですが、インドア系の男にとっては、「男友達」というのは、いささか持て余してしまうというか、別に休みの日にいつも会わなくても、たまに飲みにでも行って「男同士ってのもいいもんだねえ、あはは」とかいう気分を味わえれば十分だったりするわけで。
お互い信頼していても、男2人で映画とか(そりゃ、一部の映画なら、そのほうが都合がいいかもしれんけど)美術館とか観劇とかは、やっぱりなんとなくしっくり来ないのです。インドア系の男同士って、本当にやることないんだよなあ…

 「それなら彼女と行けばいいじゃん」と言われるかもしれません。しかし、その行きたい対象に彼女がまったく興味を示さなかったり、彼女そのものが存在しなければどうでしょう?そして、自分の身の周りに、気が合って、自分が観たいものに興味がある女性がいたら…

 僕はときどき思います。恋人はひとりで十分だけど、友達は何人いてもいいのではないか、そして「恋愛感情や肉体関係をお互いに追求しないから、ずっと続けられる関係」というのも存在するのではないか?」って。大槻さんも書かれていますが、恋愛というのは、なんらかの「結論」を必要としてしまう関係ですから、そこには「〜しなければならない」という状況が、遅かれ早かれやってきます。
 でも、ずっと「恋人ではない、異性の友人」でいたい、というのが、お互いの気持ちであるとは誰にも保障できないし、そういった微妙なバランスというのは、非常に脆いものなのかもしれません。

 ムシのいい話かもしれませんが、僕には彼女がいますし、もう恋人は要りません。そりゃ、今後の人生の流れによっては必要となることもありえますが、とりあえず今は。
 でも、「たまに好きな映画を観に行ったり、遊んだりするのにつきあってくれる異性の友達」が、彼女以外にいてくれればいいなあ、とは思うのです。もちろん、肉体関係ナシで。「恋愛」でなければ、結婚しなくても、別れなくても、ずっと一緒にいなくてもいいわけですから。
 ただ、そういう場合に、どちらかが「その気」になった場合にどうするんだ?というのは、常についてまわる問題です。現実的に「キライでもない、気が合う異性」が相手であれば、その時限爆弾というのは、いつ爆発するかわからない。
 そもそも「全然性的対象にならない異性」と一緒にいて楽しいのか?と問われたら、男としてはちょっと考えます。やっぱり「恋愛」と「友情」の線引きというのは難しいのかも。
 
 「友情」と「恋愛」の他にも、「男女の関係性を表す言葉」が必要だ。
 そういうのって、いちばん「男にとって都合のいい話」なんだろうなあ、というのは、なんとなくわかるんですけどね。
 なんのかんの言っても、【ワクワクしたりデレデレしたりヤキモキしたり】するのが好きな人って、けっこう多いですし。

 それでも、そういう「もうひとつの男女関係」というのは、僕にとってはひとつの理想なのです。



2004年04月20日(火) ■
「80年代に青春時代を過ごしたかった」

日刊スポーツの記事より。

【女優柴咲コウ(22)大沢たかお(36)らが主演する映画「世界の中心で、愛をさけぶ」(5月8日公開、行定勲監督)完成披露試写会が19日、東京国際フォーラムで行われ、柴咲らが会見を行った。原作の作家片山恭一氏の同名小説は、今月200万部を突破したばかり。小説の帯に書かれた「泣きながら一気に読みました。私もこれからこんな恋愛をしてみたい」という柴咲のコメントが、10代、20代の女性を中心に爆発的に売れた要因の1つといわれている。
 柴咲は「発売されてすぐに読んだので、撮影前には細かい描写の半分は忘れちゃった」と苦笑い。物語は高校時代に恋人を病気で亡くした傷が癒えない朔太郎(大沢)と婚約者律子(柴咲)の愛の葛藤(かっとう)を描いた切ないラブストーリー。柴咲は「80年代がすごくすてきな時代に描かれている。もう少し早く生まれて80年代に青春時代を過ごしたかった」と話した。】

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 僕は1970年代の最初のほうの生まれですから、「80年代に青春時代を過ごした人間」のひとりなわけです(正確には、80年代後半から90年代前半にかけて、かもしれませんが)。まあ、中学校では勉強と塾通いと男の友達と遊んでばかりで、高校時代は全寮制男子校だった僕にとっては、「青春」って何?というのが実感ではありますが。
 最近、80年代というのが取り上げられることが多くて、それはレコードからCDへの転換期であったり、ファミコンに代表される「遊びの転換」であったり、いわゆる「トレンディドラマ」が生まれた時代であったりするのです。
 まあ、実感として高校までは「ロマンチックな恋愛」などというのは僕には無縁で、ひたすらファミコンやパソコンをやったり、ラジオの深夜放送を聴いていた記憶しかありません。バブルだろうが清貧の時代だろうが、モテナイ奴はモテナイのです。
 「バブルの時代」であった80年代というのは、ある意味、「見栄と建前の時代」だったのかもしれません。たぶん経済的に恵まれていた(とみんな思いこんでいた)だけに「お金が大事だよ〜」なんてCMが似つかわしくなかった時代。
 大学に入ったのが、ちょうどバブルの末期ともいえる80年代の終わりくらいだったのですが、そういえば、1年生のときに同級生の男が、当時付き合いはじめの彼女と初めてのクリスマスイヴの夜を迎えるために、高級シティホテルを予約したという話と、その宿泊費を聞いて悶絶した記憶があります。彼の名誉のために書いておきますが、彼はそのために一生懸命バイトしたらしいのですけどね。もちろん、今だってそういう「誠意」を見せる男はいるのでしょうけど、当時は「それが当たり前」という時代の空気みたいなものがありました。まだ20歳前なのにね。

 80年代が僕たちをセンチメンタルにさせるのは、そういった「バブルの幻影」もあるのかもしれませんが、もしかしたら、あの時代は「便利さ」と「不便さ」のバランスが取れていた時代だったのかもしれないなあ、と僕は思うのです。
 あの頃はテレビゲームはあったけれど携帯電話はおろか、ポケベルもありませんでしたし、援助交際とかもそんなに問題視されていませんでした。もちろん、当時は当時なりに「若者の風俗の乱れ」を指弾する論調はあったのですけれど。
 ちょうど「留守番電話」というのが普及しはじめた時代でもあります。
 おそらく今の若者たちにとっては「誰かに電話をかける」というのはそれほど大きな問題ではないのでしょうが(だって、携帯電話にかければ相手の親とかが出てくることはないし)、当時は、実家に電話をかけるというのは、ものすごく緊張したものです。相手がひとり暮らしでも、今の携帯ほど気軽なものではなかったような気もしますし。それでも、留守電ですれ違ったりしながらコミュニケーションを取るのは、なかなかドキドキしていたっけ。
 逆に80年代のテレビドラマを今観ていると「このふたり、携帯持ってたら別れずにすんだのにねえ…」とか思ったりもするのです。
 
 当時はインターネットも一般には普及してはいませんでしたし、「いろいろなものが便利になってきたけど、まだまだコミュニケーションがもどかしい時代」だったんですよね、きっと。
 でも、今から考えると、そういうもどかしさが、なんだかとても懐かしいような気がするのです。

 もっとも、現代だってコミュニケーションはもどかしいし、僕だって携帯電話を手放せない、要するに、そういうのって単なる「懐古趣味」なのかもしれませんけど。

 それでも、「80年代というのは、便利さと不便さのバランスがとれた時代だったのかな」とか、ついつい考えてしまうのですよね。
 「80年代に『青春』を過ごしていても、そんなドラマチックな恋愛はできなかった」というのが、僕にとっての現実であったとしても。



2004年04月19日(月) ■
アクセサリーの起源

共同通信の記事より。

【人類最古の装身具とみられる約7万5000年前の貝殻ビーズを南アフリカの洞窟(どうくつ)で発掘したと、ノルウェー・ベルゲン大のクリストファー・ヘンシルウッド教授ら欧米の研究チームが、米科学誌サイエンスに15日発表した。
 これまでに見つかった最も古い装身具は約4万数千年前のビーズで、今回のビーズはそれよりも約3万年古い。現生人類である新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)が比較的早い段階で、装身具使用の前提となる抽象的思考を獲得していた証拠として注目される。
 貝殻が出土したのは南アフリカ南部のインド洋岸にあるブロンボス洞窟。中期旧石器時代の地層で約40個が数個から十数個ずつまとまって見つかった。1センチ以下の豆粒大で濃いオレンジや黒色。どの貝殻もほぼ同じ位置に穴が開けられ、こすれたような跡もあり、糸などでつなぎ身に着けていたとみられる。】

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 ビカビカ光る大きなダイヤや耳たぶが千切れそうなイヤリング、鼻が曲がりそうな香水…子供の頃は、「アクセサリー」とか「化粧」というのは、ものすごく苦手でした。どうしてあんなことするんだろう?なんて真剣に悩みましたが(さすがに母親にそれを聞いてはいけない、というくらいの危機管理能力はありましたけど)、今となっては、まあ、あまりに華美なものでなければ、かえって魅力的だな、なんて思うことも多くなったような気がします。
 日頃化粧っ気がない女性が、休みの日とかにしているお洒落って、ハッとさせられますし。
 ましてやそれが、自分と会うという目的のときならば、「心意気」というか、「ああ、僕のことを大事にしてくれているんだなあ」と内心感動してみたりもするわけです。「キムタクじゃなくてごめんよ…」などと申し訳なく思ってみたり。

 まあ、それはさておき、「アクセサリーのルーツ」って何だったのでしょうか?この記事を読みながら、僕はそんなことを考えていました。現代では暗黙の諒解として、「公の場では、女性は多少なりとも化粧をするのが一般的」とされていますが、人類で最初にアクセサリーをつけたり化粧をした人は、当然「礼儀として」やっていたわけではないと思うのです。最初にそれをやった人は「美しい」と思われたか「何それ?」と思われたかというと、おそらく後者なのではないかなあ、なんて考えてみたり。
 たぶん、アクセサリーの最初の意味って、「差別化」だったのではないかという気がします。「自分を美しく見せる」というより、とにかく「他人と違う自分」をアピールするための方法だったのではないかなあ、って。似合うとか似合わないとかなんて、ある程度の「規範」がないと、誰にもわからないでしょうし。7万年前の「新人」のメンタリティなんて、正直、想像もつきませんけど。

 そういう意味では、現代ではむしろ、みんなと同じブランド物を持つよりは、ノーメイクでTシャツとジーンズでパーティ会場に乗り込んで行くほうが「本質的な差別化」につながるような気もします。
 まあ「差別化」以前にそれ以前に、宝飾品というのは、人間の心を惹きつける何かがあるんでしょうけどね、きっと。
 ただし、僕の場合には、アクセサリーの引力よりも値札の反発力のほうが強いときが多いのですが。



2004年04月18日(日) ■
“死にたくない”という夢

「週刊アスキー」2004・4月13日号の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。

(脳の研究で有名な東北大学教授・医学博士の川島隆太さんとの対談の一部です。)

【川島:これはね、言うとみんな笑うんですけど、僕の中学校のときの夢で。それは“死にたくない”という夢だったんですけどね。
進藤:おっ、それはおもしろいですねぇ!
川島:ハハハ。なんでそんなことを考えたのかは覚えていないんですけどね。たぶん、自分の死、人の死をすごく真剣に考えたんでしょうね。死イコール、自分の存在がこの世からなくなるということに、ものすごい苦痛を感じていて。それでいろいろ本を読んだりしてみると、自分というのは、どうも頭の中にいるんじゃないか。だったら自分の脳を研究しようと思ったんですね。それで、たぶん“記憶”というものが重要だと。自分の過去がわかっているということが、自分を形成しているように思えたので。それで、コンピューターの中に自分を入れればいいんじゃないかと思ったんです(笑)。
進藤:ふぅ〜む。
川島:そうなれば電気がなくならない限りは、人が死に絶えるまで、自分は機械の中で人間の歴史を見ていられるんじゃないかって。そんなことを考えて。
進藤:その、死にたくないという理由は、世の中の成り行きを全て見通したいということですか。
川島:それもありますね。いま考えると、すごく哲学的な理由なんだなと自分でも思うんですけど。人はどこから来て、どこへ行くのかっていうことを知らずして、自分が歯車のひとつで終わるのがイヤだって思っていたんです。
進藤:中学生の男の子が。
川島:2年生くらいでしたね。ヘンなこどもだったんです(笑)。】

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 川島先生は1959年生まれだそうですから、ちょうど僕とひとまわり違う40代半ばなのです。この記事を読んだとき、僕は思わずハッとしてしまったのですが、その理由は「自分と同じことを考えていた人がいるんだなあ」ということでした。僕の場合は、そうやって「永遠の命」を手に入れるということが漠然とした望みだったのに対して、川島先生はそれを実現するために行動されているのですから。まあ、現在の時点で、川島先生が「機械の中の観察者」という立場での「永遠の命」を本当に求めておられるかはわからないんですけどね。
 それにしても、まだコンピューターなんでものが海のものとも山のものともわからないような時代に、そういう発想をされたことには、先見の明があったといえるでしょう。

 僕は子供の頃「死ぬ」というのがものすごく怖くて、それはどうしてなのだろう、とずっと考えていました。そして得たひとつの結論が「自分の知らないところで世界が動いてしまうことの恐怖」だったのです。川島先生も言われているように、ひとりの人間というのは、人類全体からすれば「歯車のひとつ」ですし、そういう歯車の古いものと新しいものが入れ替わりながら、「人類」という機械は動き続けています。それはもう、種としての必然、とでも言うべきことで。
 でも、ひとりの人間としては「自分がいなくなっても、世界が動き続けている」というのは、なんだかとても口惜しいところもあるのです。明日のプロ野球の結果を知ることができないとか、「ドラゴンクエスト8」を遊ぶことができないとか、そういう些細なことが、きっと口惜しいと感じると思うのです。誰でも生きているかぎり、「世界の中心は自分」なのに、その主役を差し置いて歴史が進んでいくなんて!

 おそらく「霊魂」というのも、「自分がいなくなっても、世界が動いていくことの恐怖」から生まれてきた発想ではないでしょうか?
 実際に「何もできない、意識だけの存在」が、はたして人間にとって幸せな状況なのかどうか、「自分の存在が無くなってしまうよりマシ」なのかどうか、今の僕には、正直よくわからないのですけど。
 そうやって「生きていく」というのも、もどかしいことばかりなんじゃないかなあ、なんて思いもしますし。

 もし機械の中で生きていくことができたとしても、それはそれで「電源が切られる恐怖」の追われることになるのかもしれませんが…



2004年04月17日(土) ■
「魚の向き」と「作法の理由」

「中島らもの特選明るい悩み相談室・その2〜ニッポンの常識篇」(中島らも著・集英社)より。

(「夫が料理された魚の向きにこだわるので辛い」という女性の悩みに対する答えの一部です。)

【魚の盛りつけの作法では、たしかに頭を左に、尾を右に、腹を手前に、背を向こうに置いて出すのが決まりです(ただし、カレイの場合は頭が右です)。これは縁起がどうこういうことではなくて、おいしい部分を強調して出すからです。江戸時代に魚河岸が設けられたときに、魚を箱詰めにする際、頭を左にして入れることが定められました。そうしますと、上側の身はいいのですが「板つき」と呼ばれる下側の身は魚の重みで身割れがし、水けもたまりやすいので味が落ちます。ですから人にすすめるときには、おいしい上身の部分が上にくるように、頭を左にするわけです。川魚は背の部分がおいしいといわれていますから、この場合は頭が左でも背が手前になるようにして出します。
 切り身のときには、食べやすいように、皮のついている方を向こう側にし、背の方の身を左に、腹側の身を右にして出すのが作法です。ただし、皮の模様がきれいな切り身の魚なら、皮を上にしてもかまいません。】

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 そういわれてみれば、料理に魚が出てくるときって、ほとんど「頭が左」のような気がします。自分で魚料理をする側になったことががなくて、食べる側専門の僕は、とくに意識したことはなかったのですが。
 そういうのが「作法」だというのは知っていたんですけど、なるほど、こういう意味があったのか、とこの文章を読んであらためて知りました。
 昔の人が「頭が左」という「決め事」をつくった理由というのは「そう決まっているから」というようなものではなくて、それが理に適っていて、より美味しく食べやすくするため、なのですね。

 「作法」というのがキライなのは、なにも僕だけではないと思うのです。この世の理不尽の多くが「それが作法だから」「そういう決まり事だから」というような「意味のない伝統」に由来しているのではないか、と考えたことって、きっと誰にでもあるのではないでしょうか。
 「魚なんて、どっち向きに置いたって変わらないのに、煩わしい人だなあ」なんて。
 もちろん、料理されてしまった時点では、どっち向きに置こうが魚の味は変わらないでしょうし、あまり礼儀作法にばかりこだわっていると、美味しく食べるという点からは本末転倒になってしまうのでしょうが、そういう「もてなしの心」みたいなものは、すごく貴重な気がするんですよね。
 「魚の向き」ひとつにしても、いろんな「想い」が込められていて、「作法」というのは、もともとそれを目に見えるようにするための手段だったということなのでしょう。

 「礼儀作法」について考える、もしくは他人に教える機会があれば、頭ごなしに「そういう決まりだから」と言うのではなく「なぜそういう作法ができたのか」を同時に伝えていくことが必要だと、この話を読んで考えさせられました。
 「それが作法だから」というのはなんとなく反発を覚えるのですが、こういうふうに「作法の理由」を知ると、伝統というのはバカにできないものだな、なんて感動してしまいます。
  



2004年04月16日(金) ■
「傲慢な人質」と「優しい日本人」

日刊スポーツの記事より。

【15日にイラクで解放された人質の1人、高遠菜穂子さん(34)は、今後もボランティア活動を続ける意向を示した。

 バグダッドのイラクイスラム聖職者協会の事務所でアルジャジーラの取材を受け「今後も活動を続けますか?」という問いかけに対し「続けます。すごく疲れてショックなこともたくさんあるけど、イラク人のことを嫌いになれない…です」と話し、泣き崩れた。

 また、解放後、家族に電話で「今後もイラクにとどまって写真を撮りたい」と話したフリージャーナリストの郡山総一郎さん(32)は報道陣からカメラを向けられシャッターを次々と切られる状況に「(自分は写真を)撮るのが仕事なんだよな、おれは」と苦笑するシーンもあった。】

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共同通信の記事より。

【イラクで解放された日本人人質側から今後もイラクで活動したいとの希望が示されたことに対し、日本政府内で16日、不満や戸惑いの声が広がった。

 政府高官は「信じられない」と驚き、「どうしても(帰国が)嫌だと言うなら、イラクに亡命してほしい。あれだけ国費を使っているのだから損害賠償させたい気持ちだ」ときつい表現で今後の活動を控えるよう促した。

 別の政府関係者も「またイラクに戻りたいと言っているようだが、今度は政府も保護できないと言っておく必要がある」と強調。外務省幹部は「特殊な環境にいて、世間の感覚がまだ分かっていないのではないか」と冷ややかな反応をみせた。

 川口順子外相も16日午前の記者会見で「助かった命だから大事にしてほしい。退避勧告が出ている今はそういう(活動継続の)時期なのかどうか」と指摘した。

 解放された3人は帰国を拒否したり、直ちに再入国する意向を強く主張しているわけではないが、政府高官らの発言は解放による安堵(あんど)感に加え、人質事件と自衛隊撤退論が結び付けられたことへのいら立ちが背景にあるようだ。】

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 とりあえず、まず3人、無事に解放されてよかった。

 まあ、この解放された人々のリアクションというのは、「常軌を逸して」いますよね。周りからすれば「あんなに苦労して助けてあげたのに…」と思われてしまうのは、いたしかたないところでしょう。せっかくの自分たちの努力を水の泡にされてしまうような気持ちにもなるでしょう。
 「反省の色がない!」って。

 考えてみれば、解放されたばかりの3人は、自分たちが誘拐されたことによって、どんなに日本国内が騒然としていたかとか、家族も含めてバッシングの声も強かったことなども知らないのですから、多少なりとも不用心な発言になるのもやむをえない気もします。「そのくらい考えればわかるだろ!」と言ってみても、拘束された状態では自分たちのことで精一杯でしょうし、もともと「日本の世論」とかに気を遣う人たちであれば、こんな時期にイラクに行ったりしなかったでしょうし。

 ただ、僕は彼らの「またイラクで活動がしたい」という意志を「身の程知らずのバカ」と一笑に付してしまうほどの自信もないんですよね。いくら「危機意識が低い人々」であったとしても、今のイラクが危険なところだというくらいは当然理解していたはずだし。
 今回の事件の前に、僕はある雑誌(たぶん、週刊「SPA」だったと思う)で「イラクで活動している民間人」として高遠さんが取り上げられていたのを読みました。日本で自分の生きがいを見つけられなかった彼女は、イラクのストリート・チルドレンのなかに自分の安息の場所を見出して、そこで救援活動を続けていたのです。3人の「戦時下のイラク」でのああいう活動も、テレビのドキュメンタリーとかで感動的なナレーションとBGM付きで放映されれば、多くの視聴者が感動の涙を流していたのではないでしょうか。

 ロバート・キャパという有名な戦場カメラマンがいます。
 彼はスペイン内乱での「崩れ落ちる兵士」という作品で一躍脚光を浴びたのですが(ちなみに、この写真には、後々まで「ヤラセ疑惑」があったそうです。まあ、人間の考えることというのは、70年やそこらではあまり変わらないのかもしれません)、1954年にベトナムで地雷を踏んで亡くなりました。しかしながら、現代ではキャパに「キケンな戦場にノコノコ出かけていくなんてバカだ!」とう人はいません。多くの人は「彼には、戦場に身を晒すだけの『理由』があった」と理解しているのです。もちろん、彼が生きた時代には、「戦場に行くなんてバカだ!」と言っていた人はたくさんいたんでしょうけど

 今回人質にされた3人はキャパではありませんが、たぶん彼らにも「イラクのような危険な土地に行くこと」に意味があったのでしょう。むしろ「そういう危ないところだから、行きたかった」のではないかなあ。
 名声を得ているかいないかの違いだけで、「そういう危険な場所で何かをすること」に生きがいを見つけ出す人というのは、少なからず存在するはずです。

 僕はジェットコースターに対して、「なんで金を払って怖い思いをしないといけないの?」しか考えられませんが、それが好きな人にとっては、「このスリルがどうしてわかってくれないの?」という感じなのと同じように。
 そういう「価値観の差」というか、「温度差」みたいなものは、おそらく厳然として彼らと僕の間には存在しているのです。
 山で遭難しても登山を止めない人がいるように、イラクで誘拐されたからといって、そういうキケンな場所に惹かれてしまう人だって、いるんだろうなあ。

 今回のことで、僕はいろんなことを考えました。
 そして、考えも変わっていきましたが、今の時点でのひとつの結論は、「彼らがイラクに政府の勧告を無視して行ったことは『自己責任』には違いない」ということです。彼らは誰に強制されたわけでもないのに、自分たちの意志でイラクに行ったのですから。
 でも、そのこと自体は「彼らの勝手」です。他人が非難すべきことではないでしょう。彼らは彼らなりの「イラクに行く理由」を持っていたのでしょうから。それが、僕たちに理解可能な理由かどうかはさておき。
 本来「自己責任」というのは、「自己責任だろ!」と他人を責める言葉ではなく、例えば冬山で遭難した人などに「自己責任だから、しょうがないね…」と、嘆息交じりに呟かれる言葉のような気もしますし。
 「日本に迷惑かけやがって!」とか怒るというのも筋違いなんですよね。3人や家族に対して「どうしてイラクに行った!」と責めるより、日本政府に「好きで行った人たちなんだから、放っておいていい、救出しなくていいよ」と訴えるほうが、より彼らの希望にも沿っている気がします。
 要するに、彼らの意志を尊重し、責めることもしなければ、助けることもしない。ただ「放っておく」だけ。自衛隊撤退とかは、全然別問題。
 けっこう文句を言いながら3人を助けるために全力を尽くした日本政府は、それなりに優しくておせっかいなのかもしれませんね。

 それでもね、やっぱり3人が無事解放されて、僕は安心しています。こう言ってはなんですが「あの人たちを助けるためだって、日本政府はこれだけ頑張ってくれたんだから、きっと僕が乗った飛行機がハイジャックとかされたら、全力で助けようとしてくれるよね」って思いますから。
 それに、実際に自分が迷惑を被ったわけでもないし。
 「税金をムダにして!」とか言う人もいますが、税金を集める用途のひとつは、本来「そういう不測の事態に対応する」ためでもあるはずです。一種の生命保険の掛け金みたいなものですから、僕はそれは「無駄遣い」だとは思いません。とはいえ、その救出費でイラクの子供たちはかなり大勢助かるのではないか、などとも考えなくはないのですが。
 それでも、自分が誘拐されたら、いくら税金使っても助けてもらいたい。
 わがままですみません。

 どんなに渡航を禁止しても「行く人は行く」のだと思うのですよ、たぶん。となると、日本政府としては「これから勝手に行くやつはどうなっても知らないよ」とアピールしておく必要はあるでしょうね。
 まあ、そんなことしなくても、この人質バッシングを目の当たりにすれば、イラクに行って一旗挙げようなんて人は、ほとんどいなくなるでしょうけど。
 そういう意味では、今回の事件の「予防効果」は、ものすごいモノがあると思うし、まあ、これはこれでよかったのかもしれません。
 なんのかんの言っても、みんなけっこう気にしてたしねえ。



2004年04月15日(木) ■
日常生活というレベルでは、どちらもたいした違いはないのだ。

「ノルウェイの森」(村上春樹著・講談社)より。

【いずれにせよ1968年の春から1970年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのかと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。】

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 昨日から、村上春樹さんの「ノルウェイの森」を再読しているのですが、読むたびに(というか、僕が年をとるにつれて)読んでいて感じることは変わってくるものだなあ、なんて感慨深い気持ちです。以前と同じことを思うところもあれば、「あの頃は、ここを読んであんなふうに感じてたよなあ」なんて、初めてこの作品を読んだ高校生の頃を思い出してみたり。
 まあ、再読のきっかけは、片山恭一さんの「世界の中心で、愛をさけぶ」が200万部を突破したという報道のなかで、「世界の中心で…」の前に純文学で200万部を突破したのは、17年前の「ノルウェイの森」にさかのぼる、という話を聞いて、なんとなく読みたくなった、ということですから、あまりたいした理由でもないんですけど。

 ここに引用した一節は、高校生の僕にとっては「どうでもいい部分」だったと思います。記憶になかったし。主人公が大学入学直後から住んでいた「とある政治団体が母体となって経営しているという噂の寮」についての描写の一部です。

 イラクでの日本人人質事件について、「自己責任論」「陰謀論」から「自衛隊撤退論」「人命至上論」など、さまざまな言説が、メディアやWEB上で繰り広げられています。中には、自分の「正義」に酔ってしまって、被害者の御家族に執拗なイヤガラセを行う人まで出る体たらく。どうせなら、テロリストにイヤガラセをやればいいと思うのですが。「税金で助けてるんだ」とか言うけど、僕だって人質になったら、税金でも何でも使って助けてもらいたいしね。本来税金というのは、そういう「不測の事態」に使われるべきものだろうし。そんなの生命保険をもらった人に「あなたが貰ったお金の一部を払ったのはオレだ!」とかクレームをつけるようなものですよ。まあ、今回はコストがかかりすぎではありますが。

 しかし、そんなふうに人質問題について激論が闘わされているにもかかわらず、僕たちの日常はまったく静かなものです。それこそ、あっけないくらいに。考えてみると、こんな世界情勢では、日本でこうやって日常生活を送っている僕ですら、テロやなんらかのトラブルに巻き込まれる可能性が劇的に増していると思うのですが、やっぱりそれを自覚するのは難しいし、「それよりも来週のプレゼンテーションのほうが大事」だったりするわけです。

 たぶん、僕がこうやって日常接している人の中にだって「自己責任という名目で、家族を犯罪者呼ばわりする人」もいれば「自衛隊即時撤退を唱える市民運動家」だっていると思うのです。でも、ここに書かれているように、そういう「主義・主張」なんてものは、僕たちの現在の日常にとっては「どうでもいいこと」なんですよね。
 「プロ市民」でも「人質家族にイヤガラセをする人」でも、コンビニに行ってお金を払えば買い物を拒否されることはないし、病院に行けば普通に治療してもらえます。どんなに自分の主義を主張しようが、よほど過激なものでないかぎり、反対派に命を狙われたり、日常のコミュニティから除外されたりするようなこともないのです。もちろん、多少ご近所に敬遠されたりはするでしょうけど。
 そういう意味では、「イラク人がイラクで自分の主張をすること」と「日本で日本人が自分の主張をすること」というのには、ものすごく温度差があるんですよね。どちらかにつけば、もう一方から命を狙われるような状況で旗幟を鮮明にするのと、今の日本のように「多少のことでは、何を言っても日常生活に支障がない」状況で自分の意見を主張をするのとでは、全然その「重さ」が違うのです。
 もちろん、それは悪いことではなくて、今の日本の素晴らしい面だと思うんですが。ほんとに「自由」だよ日本は。

 「どっちについてもたいして違わない日常を送れる」というのは、幸せなんだよ、きっと。何も犠牲にしないで好きなことが言える時代、言える社会というのは、人類にとってむしろ稀なのだから。
 所詮、多くの日本人にとっては、自分が傷つくことはない、画面の向こうで展開される「ゲーム」なんですよね、これは。
 僕には、今回の人質事件って、これから起こるさまざまなことの単なるプロローグだとしか思えないのだけど。



2004年04月14日(水) ■
「小説の面白さ」を言葉で説明する難しさ

「書きあぐねている人のための小説入門」(保坂和志著・草思社)より。

【本当の小説とは、その小説でしか得られない何かを持っている。小説だけでなく、優れた音楽や美術など、芸術とはすべてこういうもので、それらに接したときの「感じ」は、私たちがふつうに使っている言葉では説明できない。
 先日も私はある現代彫刻展に出かけたのだけれど、最初に見たときの率直な感想は「まったくわからない」だった。けれども、見終わったあとの帰り道で、大げさにいえば世界の見え方が変わっていた。
 「まったくわからない」芸術に出くわすと、人はその制作者に向かって、よく「その意図を説明せよ」と言うけれど、それはとても無意味なことだ。日常の言葉で説明できてしまえるような芸術(小説)は、もはや芸術(小説)ではない。日常の言葉で説明できないからこそ、芸術(小説)はその形をとっているのだ。日常と芸術の関係を端的に言えば、日常が芸術(小説)を説明するのではなく、芸術(小説)が日常を照らす。】

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 この文章を読んで、僕はなんだかすごく納得してしまったのです。
 「面白い本を読んだ」なんて誰かに話すと、多くの場合「それって、どんな話?」って聞き返されるはずです。それで、あらすじを「こういう話」と説明すると、「ふうん」と面白くなさそうな顔をされて悔しい思いをしたことってないですか?
 いや、説明している途中で、自分でも「なんだか面白くない説明だなあ」なんて気がついてしまう場合も多いのですが。

 それって、僕の「語り部としての才能」なのだとずっと感じていたのだけど、この考えでいくと、「小説の面白さというのは、それを読んだ本人にしかわからない性質のものだ」ということですよね。
 今流行の「あらすじ本」を読んで「そんな話だったのか」という発見があるとしても、どれもみんな似たような話に思えて、「小説」として面白くないのは、あらすじにしてしまった時点で、すでにその作品は異質であるということなのでしょう。
 小説というのは、あらすじでは略されてしまうような枝葉末節の部分に、本当の魅力があるのかもしれません。

 「人気小説の映画化」というのが概して原作ファンに評判が悪いのも、やはり「小説」と「映画」とは根本的に違うもので、最大公約数的なイメージを映像として目に見える形にすることはできても、「小説としての面白さ」というのを映像化するのが不可能だからなのでしょう。
 あの「ロード・オブ・ザ・リング」の映画化にしても、原作ファンの声には、「イメージ通りだ!」という絶賛よりも「よくあそこまで頑張った!」とか「原作への愛を感じる」とかいうような賞賛の声が大きいようですし。

 「言葉にすれば、嘘になる」というのは、ひとつの宿命なのでしょう。言葉というのは、人間にとってひとつの便利な道具でしかないし、同じ「青い空」という言葉でも、思い浮かべる空は、人それぞれ違うはずですから。
 それでもやっぱり、「言葉では伝わらないはずの何か」をなんとか言葉で伝えてみたいと思って、みんな話したり書いたりしているのですよね。

 それにしても「面白さを他人にうまく説明する」というのは、とても難しいことです。本当は、その説明の内容より、教えてくれた人が誰か、とか、説明してくれる人の熱意などに、興味を引かれるものなのではないかなあ。



2004年04月13日(火) ■
キムタクと宮崎アニメと「声優」という仕事

スポーツニッポンの記事より。

【宮崎駿監督(63)の新作アニメーション映画「ハウルの動く城」で主人公の1人、ハウルの声をSMAPの木村拓哉(31)が担当することになった。12日、配給の東宝が発表した。木村は声優初挑戦で「完成した“ハウルの動く城”が早く見たい」と意欲を見せている。また、ヒロインのソフィーに倍賞千恵子(62)、荒地の魔女には美輪明宏(68)が決まった。】

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 そうですか、キムタクですか…という感じなのですが。
 「役者」としての木村拓哉さんに関しては、様々な評価があるのは間違いないでしょうが、彼が当代随一の「視聴率を稼げる男」であることに異論を挟む人はいないと思います。出演したドラマが軒並み20%台後半から30%台に達する役者は、今の日本では他にはいないわけですから。
 でも、今回の「声優」としての起用は、ちょっと疑問なんだよなあ。

 実際に過去のスタジオ・ジブリの作品にもたくさん有名な役者さんや文化人などが出演していて(そういえば、昔とんねるずと杉本清さんがやっていた「ハンマープライス」というオークション番組に、「ジブリ作品への声の出演権」というのが売りにだされたこともありました)、それはそれで、作品のひとつの「アクセント」になっていたところはあると思うのです。「千と千尋の神隠し」では、菅原文太さんが「釜爺」の声をあてていたり、「となりのトトロ」では、糸井重里さんがお父さん役をやっていたり、「おもひでぽろぽろ」では、今井美樹さんと柳葉敏郎さんが、主役をやっていましたし。
 その一方、最近は、「声優」という職業も「声の演技」だけではなかなか難しいところがあるみたいで、とくに女性に関しては、「アイドル並みのルックス」が求められたりもするみたいなんですよね。
 僕が昔、「機動戦士ガンダム」のシャアの声をやっている人の写真をみて「えっ、このオッサンが…」と絶句したようなことは、最近の声優界ではほとんど無いのではないでしょうか。
 もちろん、「どうせなら声だけじゃなくて、見かけも良い」という付加価値があるのは、悪いことではないんですけどね。

 でも、こういう傾向というのは、ちょっと寂しいというか、「じゃあ、本職の『声優』って何なのだろう?」とも考えるのです。
 「声優って、声だけの仕事だからラクなんじゃない?」という印象を持たれがちなのですが、実は、「声だけでいろんなことを表現する」というのは、すごく専門的で、大変なことなのではないでしょうか。僕は今、臨床医と基本的には「診断書」という文書でのやりとりだけでコミュニケーションをとる仕事をしているのですが、逆に「文書だけ」となると、細かい言い回しや誤字・脱字に関して、ものすごく気を遣います。例えば、日頃顔を合わせている医者と患者であれば、多少のいさかいがあっても、「あの先生は日頃一生懸命やってくれているから」なんて、気持ちを抑える場合もあると思うのです。もちろん、逆の場合もあるでしょうけど。
 しかし、「診断書一枚の関係」というのは、「そこにあることがすべて」なわけですから、その内容にミスがあれば、何の言い訳のしようもありません。そういうのは「特化した専門職」の怖いところなのです。
 きっと「声優」という仕事は「声だけですむ仕事」というよりは「声だけでなるべくたくさんのことを伝えなければならない仕事」で、プロの声優さんたちは、そのために並々ならぬ苦労と努力をしていると思うんですよね。

 「ジブリ作品の主役」というのは、「声優という仕事の頂点」にあたるものではないか、というのが僕のイメージです。きっとたくさんの「プロの声優」たちが、それを目標にしているのではないでしょうか。
 でも、「ハウルの動く城」での主人公役は、「声優」という仕事に関しては門外漢の木村拓哉さんに決まってしまった。
 もちろん、ヒットすることが宿命づけられてしまっているジブリ作品としては、少しでも話題になるキャスティングをするのは当然のことなのかもしれませんが、「作品の質」という観点からすれば、「声の仕事のプロ」がやった方が良いのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか?
 今までの作品でも、本職の声優さんではない人が演じた声は、なんとなく画面から浮いていたような印象がありました。「隠れキャラ」的なものなら良いかもしれませんが、さすがに主役というのは…

 僕はもっと「プロの声優」を大事にしてあげてほしいな、と思います。
 「声優」というのは、そう簡単に初挑戦でうまくやれるような仕事ではない気がするのです。
 それに、やっぱり「キムタクの声」だと、どうしても主人公=キムタクというような先入観が大きくなりそうだし。
 「個性」がイメージを限定してしまう場合もあるわけですから。



2004年04月12日(月) ■
プロポーズ決死隊!

日刊スポーツの記事「日曜日のヒーロー」(第408回・「雨上がり決死隊」の宮迫博之さんのインタビュー記事より)

【宮迫のネタによく登場するのが「嫁」さんだ。「勝気な性格」という夫人とは、15年前に知り合い、96年に結婚した。ちょうど、宮迫が大阪から東京に移り住んだころだ。

 「ある日突然、嫁から電話が掛かってきて。で、いきなり『結婚するか、一生会わないかどっち?』と聞かれたんです。でもそのとき、嫁とは前に別れた状態。ただ僕がすごく落ち込んでる時だったんで、思わず『うん』と言ってしまった〜。一応電話を切るときに『もうちょっと考えさせて』とは言っといたんですが…」。

 しかし次に電話で話したときには、式場も結婚衣装もすべて決まっていた。

 「そんなアホなぁー! ですよ。驚きました。僕は結婚願望がなくて、嫁と別れたんも、それが理由。嫁に細かく聞くと、どうやら(嫁の)妹が原因やったんです。イケイケの性格の妹が『そんなんやったら、(結婚)したらいいねん』って、けしかけてたんです。結婚して良かった? はぁ〜、へぇ〜、う〜」。 】

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 宮迫さんの話ですから、かなりネタの要素が入っているのかもしれませんが、それにしてもすごい「結婚秘話」だなあ、と。
 ある日突然別れた彼女から電話がかかってきて、「私と結婚するか、二度と会わないかどっちかにして!」と聞かれたら、普通は「何言ってるの?」という感じですよね、ほんとに。
 落ちこんでいるときだったから「うん」と言ったというのも、なんとなくわからなくはないんですけどね。やっぱり、誰かにそばにいてほしいというときって、ありますし。極論すれば、「誰でもいいから」ってときも。
 そんなときに、そんな電話を受けてしまったのが運のツキ、だったのかもしれません。
 よく「結婚というのはタイミングだ」とか言われますけど、確かにそうなのかなあ、なんて考えてしまいました。

【次に電話で話したときには、式場も結婚衣装もすべて決まっていた。】なんていうのは、今となっては笑い話なのかもしれませんが、自分がその立場だったら、絶句してしまうこと請け合いです。
 そこで、「まあいいか」と受け入れてそのまま結婚してしまった宮迫さんは、いいかげんなのか諦めていたのか、それとも運命を感じていたのか…

 それでも、今の宮迫さんはけっこう幸せそうですから、結婚のキッカケなんて、必ずしもドラマチックである必要はないのかもしれませんね。「結婚する適性」と「結婚生活を続ける適性」は、また別物なんでしょう。少なくとも、あれだけネタにできているんだから、芸人・宮迫にとっては、いい結婚だったのではないかなあ。縁というのは、ほんとうに不思議なものです。

 考えてみれば、別れた恋人相手なら「どうせ断られてもダメモト」なのですから、一度は試してみるのもいいかもしれませんね。
 まあ、ストーカー呼ばわりされない程度に。
 男だって、「別れる前にもう1回!」とか言ったりするらしいですし(という噂はよく聞きますが、本当なのかな…)



2004年04月11日(日) ■
民主主義を持ち込まないほうがいい場所

「心が雨漏りする日には」(中島らも著・青春出版社)より。

(中島らもさんが、自らの鬱病との闘病体験を書いた本の一節です。)

【二十代のころからバンドは何回も組み、そのたびに長く続かず解散させてきた。解散の理由は「政治」にあった。人が三人集まればもう政治が始まってしまうのである。音楽の嗜好やバンドの方向性、あるいはギャラの配分をめぐり派閥が生まれ、疑心暗鬼や裏切りが生まれる。それでうまくいかなくなってしまうのだ。
 おれは思うのだが、バンドには民主主義を持ち込まないほうがいいようだ。リーダーの言うことが絶対である、ということにしておいた方が、責任の所在もはっきりする。
 経験則から導き出されたおれの独善的リーダーシップのおかげで、今回のバンド『PISS』は現在に至るも活動を続けている。CDの在庫は山のようなままではあるが。】

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 この文章を読んだ後に考えてみたのですが、確かに「ずっと長い間第一線で頑張っているバンド、というのは「強力な個性と才能を持つリーダーとその他のメンバー」というものが多いような印象があります。
 サザンオールスターズは「桑田圭祐+原由子とその他の人々」というのが多くの人のイメージでしょうし、僕の世代では、MR.CHILDRENやスピッツなんてのもそうですよね。音楽的に強力なカリスマ性を持ったリーダーが他のメンバーを引っ張っていくようなバンドのほうが、長続きできるのかもしれません。まあ、実際には目に見えないところでは他のメンバーがみんなをまとめていたり、音楽的に支えていたりもするんでしょうけど。ドリフのコントを支えていたいかりや長介さんのように。
 逆に、ビートルズのように「個々の才能が衝突しあって、バンドの寿命を短くしてしまう」なんてことも多そうです。もちろん、「それぞれの才能の衝突」がなければバンドの意味はないかもしれませんが。
 「民主的であること」「公平であること」というのは、ひょっとしたら何かをやろうとするときには、かえって足枷になるものなのかもしれません。「俺が俺が!」ではなくて、お互いを尊重しあうような「民主的」であれば、人間関係はうまくいくかもしれないけれど、何かを生み出すエネルギーには欠ける面もありそうだし。
 そういう面では、ひとりの強力な才能を他のメンバーが信じて盛り上げていくような形のほうが、少なくとも人気バンドを長続きさせるには向いているということなのかな。

 でも、らもさんのバンドが「独善的なリーダー」の下で長続きしている最大の原因は「CDの在庫が山のようにあるから」なんじゃないかなあ。ケンカしてまで奪い合うものができてしまえば、またいろんなことが違ってくるのかもしれないし。



2004年04月10日(土) ■
「会っても話すことは何もない」なら、会うべきだ。

共同通信の記事より。

【外務省は10日午前、小泉純一郎首相との面会を求めていたイラクの日本人人質事件の被害者家族に対し「首相は会うつもりはない」と連絡した。
 これを受け家族側は記者会見し、面会拒否の理由として外務省が「会っても話すことは何もないだろう」と説明したことを明らかにした。また、面会拒否の方針は今後も変わらない、との説明も受けたという。
 外務省幹部は「首相官邸側の意向を踏まえた上で、現段階での首相との面会について家族側に『難しい』とは応答した」と述べたが「将来にわたっても面会できないと、拒否を示したわけではない」としている。
 家族は9日の上京以来、川口順子外相を通じるなどして小泉首相との面会を要請。犯人グループが要求している「自衛隊のイラクからの撤退」を人質救出の選択肢として検討するよう、首相に直接求めることを決めていた。】

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 この記事を読んで、「きっと、小泉さんは『会いたくない』に違いない」と僕は思いました。
 もし小泉さんがこの御家族のみなさんと会って、直接話をしたとしても、「日本の国策」というのは変わらないと思います。たとえ「あなたが自衛隊を派遣したのが悪い」と面罵されても「息子をなんとか生きて返してください、お願いします…」と泣かれたとしても。
 万が一、御家族との対面で、今まで「変更はない」と繰り返してきたのに、アッサリと自衛隊撤退を決めるような人だったとしたら、それはそれで首相に不適な人物ではないか、という気もしますしね。
 「会っても話すことはない」というか、「会っても現実的には何も解決しない」というのは事実でしょう。

 でも、僕は「小泉さん、会ってあげればいいのに」と思うのです。
 たぶん、その対面の時間は、内閣総理大臣にとって、ものすごく不愉快な時間になると予測されます。「あなたたちの身内が政府の勧告を無視して勝手に行ったんじゃないか、こっちこそ迷惑してるんだ!」という湧き上がる気持ちを抑えつつ、彼らを慰め、勇気づけ、それでいて彼らの要望には答えられないことを説明しなければならないんですから。
 そんなクレーム処理班みたいな仕事は、本来首相の仕事ではないかもしれませんよね。

 僕はこんな話を聞いたことがあります。
 飛行機のスチュワーデスは、お客さんに「新聞ありませんか?」と尋ねられたら、例え自分が直前に新聞置き場の横を通っていて、それが無いことを知っていたとしても、その場で「ありませんでした」と言わずに、ちゃんと自分の足で確認しに行ってから、お客さんに「すみません、ただいま切らしているようです」とお詫びするそうです。
 医者も基本的に毎日、とくに訴えがない入院患者さんに対しても「だいじょうぶですか?」と声をかけ、聴診器をあてます。これはもちろん、身体の変化を把握するために必要なことですが、それと同時に、患者さんに対して「あなたのことを忘れずにちゃんと見ていますよ」と伝える意味もあると思います。

 理論的には「さっき見て新聞ありませんでした」と言っても「とくに自覚症状もないし、毎日聴診器あてなくてもいいや」と言っても、そんなにおかしいことではないような気がしませんか?あるいは「それは非合理的なのではないか?」と。

 でも、人間関係には、そういう「誠意」というのが必要なのです。
 ときに「誠意と呼ばれるもの」は、正しい理屈の何十倍、何百倍も人の心を動かすことがありますし。
 「自衛隊を撤退させて」という要望が無理難題であることくらい、たぶん、人質の家族の方々も、内心理解されているのではないでしょうか?
 それでも「会っても意味がない」と門前払いをされるよりは、首相に会って「あなたのせいだ!」とやり場の無い気持ちをぶつけることによって、少なくとも気持ちの上では多少は違うはずです。

 こんな偉そうなことを書いていますが、僕だってそんなふうに責められるために誰かと会うのはイヤですよ、きっと。
 しかし、あくまでもこの御家族の方々は「被害者の家族」なのだし、そんなに邪険にしないで「話すことがないからこそ、首相自ら時間を割いて、この御家族と会う」ことが大事なのだと思うのです。

 この御家族と「会って、話を聞く姿勢をみせる」「首相みずから責められてみせる」という行為は、多くの日本国民に対して、小泉首相の「誠意」をアピールする、大きなチャンスなのではないでしょうか?「こういう事件が起こっても、政府は被害者のことを考えているよ、見捨てないよ」というパフォーマンス。

 僕は、ものすごくズルイことを書いています。
 でも、そのくらいの虚飾というのは、生き残るために必要な知恵なのではないのかなあ。それで誰かが不幸になるわけじゃないし。
 「話すことがない」からこそ「会う」というのが大事なことは、きっとあるのだと思うのです。
 「首相が会って話を聞いてくれた」というだけでも、「伝わるもの」はあるのでは。
 ミルコ・クロコップと会うより楽しくないかもしれないけど、その「不快な対面」は、はるかに「日本国民のためになること」なのではないでしょうか。



2004年04月09日(金) ■
「人質となった日本人」と「命の重さ」

時事通信の記事より。

【イラクで日本人3人が武装グループの人質となったことに対し、イラク戦争に反対する活動を続けてきた市民団体やジャーナリストからは9日、自衛隊の即時撤退を求める声が次々と上がった。日本国内で大規模な反戦集会やデモを展開してきた「ワールド・ピース・ナウ」実行委員会は、「わたしたちが十分に起こり得ると指摘し、最も恐れていたことが起こった」と指摘。小泉首相に対し「イラク攻撃支持と自衛隊派兵がイラクの人々と日本人の双方を傷つけると知りながらブッシュ政権に追随した責任を取り、直ちに自衛隊を撤退させて」と訴えた。】

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 今回の「イラク人質事件」のニュースを聞いて僕が最初に思ったのは「ああ、これで日本は引くに引けなくなったな」ということでした。
 「自衛隊の撤退」が「テロリストの要求に屈する」ということとイコールになれば、かえって「撤退させる」なんてことはやりにくいでしょうから。
 暴力団と一緒で、一度弱腰になってしまうと、どんどんつけこまれてしまうおそれもありますし。
 「ちょっと脅かせば、何でもいうことを聞く」と相手に思われるのは、かえって危険極まりないことです。

 しかし、その一方で、僕が今回少し驚いているのは「今回の事件に対して、日本人はみんな冷静に受けとめている」ということでした。
 「彼らは退避勧告が出されているイラクに自分から行ったのだから」
 「国にとっては迷惑千万」
 「頭がお花畑のプロ市民」
 なんて言葉が(さすがに、大きなメディアで流されることはないとしても)けっこう聞こえてくるのです。
 僕も、人質にされた人々を「一方的な被害者」とは考え難い気持ちがあります。
 「入るとキケン」とさんざん注意されている地雷原に自分から踏み込んでいって、地雷を踏んだからといって「助けてくれ!」とか言うのは筋違いではないか?って。

 でも、そんなふうに判断してしまう自分を少し怖いとも思うのです。

 こちらの日記にもありますが、今回の事件で、僕も「よど号事件」のことを思い出しました。もちろんリアルタイムでの記憶はないのですが、どこかで耳にした「人の命は地球よりも重い」という言葉に感動したことを覚えています。
 たぶんあの頃は、日本人にとって、そういう時代だったのでしょう。

 多くの「無知な日本人」たちは、戦争は悪いことだと刷り込まれ、自分たちの先祖の悪口を教えられ、東を向いても西へ向いても腰を屈めて生きていました。
 そのことに対する「反省」の機運というのが、少しずつ高まってきているような気がするのです。
 現在では、こうやって「自衛隊撤退!」と叫ぶ彼らのことを「平和ボケしてしまった愚かな人々」だと感じる人は、けっこう多いと思うし。

 ただ、僕は最近ちょっと思うんですよね。
 「人の命は地球より重い」という言葉を素直に受け入れられなくなった日本人というのは、果たして幸せなのだろうか?って。もちろん、「よど号事件」で人質になったのは普通に日常の中の「ただその飛行機に同乗していた一般市民」であり、イラクで「キケンを承知の上で」活動していた人たちとは違いますし、同時多発テロでも明らかになったように、人間にとっては「戦場での死」より「日常での死」のほうが、よりリアルな恐怖を喚起するのかもしれません。
 それでも、「人の命」には違いないわけですし、僕も含めて「死んでも仕方ないんじゃない?」とか思えるようになった日本人というのは、ある意味すごく危険なところにいるのではないでしょうか。
 久米宏さんが、「ニュースステーション」の最終回で「日本のテレビというメディアは、少なくとも国民を『戦争』という方向へミスリードしてこなかった」と発言されているのを僕は興味深く聞きました。
 考えてみると日本のメディアというのは、戦後、確信犯的に「反戦」という「偏った方向へ国民をリードしてきた」とも考えられるのです。「公正な報道」ではなくて。たぶん久米さんには、そういう気持ちがあったのではないかなあ。

 「よど号」と今回の事件では状況が違うとはいえ、日本では「人の命の価値」というのが、どんどん軽くなってきているのは間違いないことです。そして、「戦争反対」というのに拘泥するのもおかしい、という意見も一般的なものになりつつあります。
 だいたい、僕はデモとかやっているような「善意の人々」は苦手なのです。ついつい「そんなことやって何になるんだ?」とか思ってしまいます。
 しかしながら、たぶんそういうヒステリックなまでの「反戦意識」というのが、日本をこれだけ長い間「戦争」という禍から遠ざけてきたのも否定できないような気がします。今回の事件については、「一番悪いのは、まずテロリストだろ…」と言いたい気もしますけどね。
 
 僕は今回の件で、テロリストたちの要求を受け入れて自衛隊が撤退すべきだなんて思いません。それはおそらく日本国民にとっての「負の連鎖」を生むだけでしょうから。
 それでも、「あんな無防備でみんなに迷惑をかけた連中は、死んでもいい」ともやっぱり思えない。彼らは「変わった人たち」ではあるかもしれないけど、その程度の変わった人は、僕たちの身のまわりにだって、たくさんいるはずですから。

 結局、「テロリストの要求に屈しない形で、やれるだけのことをやるしかない」のでしょう。それはそれで、「救出する人の数よりも多くの犠牲を強いるかもしれない救出作戦に意味があるのか?」というようなジレンマに陥る可能性もあるわけですけど。

 確かに、今までの日本人は、ミスリードされてきたのかもしれません。
 ただ、その「ミスリードされてきた時代」というのは、果たして僕たちにとって不幸な時代だったのでしょうか?

 もうそんな甘い時代じゃない、というのはよくわかります。
 でも、「人間の命を大事にしようという気持ち」まで、アメリカ式の「世界標準」に引き下げなくてもいいのではないかなあ。
 
 僕はそういう時代に生きてきましたから「平和」が好きです。
 こんな時代だから、あえて問いたい。
「人の命は地球より重い」という言葉って、そんなにナンセンスですか?


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<付記>この内容について、「よど号事件」と「ダッカ事件」を混同しているのではないか、という御指摘がありました。確かにその通りで、僕は「人命は地球より重い」という発言は「よど号事件」の際になされたものだと勘違いして書いてしまいましたので、お詫びとともに訂正させていただきます。ちなみに、この発言は「ダッカ事件」に関連したもので、2つの事件の概略については、
「よど号事件」
「ダッカ事件」
上記のリンクを参考にしていただければ幸いです。



2004年04月08日(木) ■
「妹の不倫」と「家族思いの兄」

日刊スポーツの記事より。

【不倫騒動の渦中にあるRマドリードMFデビッド・ベッカム(28)の相手とされる女性の家族が不倫関係を認めた。ベッカムの不倫相手と報じられたレベッカ・ルーズさんの兄ジョン・ルーズ氏が「報道が出た朝(4日)に妹と電話した。実際に彼女はベッカムと浮気したことを認めた。今回の報道で彼女は傷つき、裏切られた気分だった」と報道が間違いではないことを明らかにした。
 ベッカム自身も今回のことに関して声明文を発表した。「過去数カ月間、プライベートについてばかばかしい記事を何度も読んで、そんな記事を読むことに慣れてしまった。今回もまた1つの例だ。僕は現在、幸せな結婚生活をしている。特別な妻と子供が2人いる。この事実を第3者が変えることはできない」。しかし、不倫を否定も肯定もせず、記事内容を告訴する姿勢も見せない声明だったため、報道に拍車をかける結果となった。】

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 あの、正直言って、僕はベッカムが不倫しようがしまいが、そんなことはどうでもいいのです。なのにどうして、この記事のことを取り上げたのかというと、この「不倫相手のお兄さん」に対して、この人はどうしてこんなことをするのかと、疑問に思えて仕方がなかったからなんですよね。
 だって、おかしいと思いませんか?もし僕の妹がベッカムと不倫していたとして(そんなことはまずありえませんが)、そのことを告白されても、普通マスコミにベラベラ喋ったりしないと思います。直接ベッカムを責める手段がないのかもしれませんが、それにしても、どうして「妹の不倫」をマスコミに向かって告白する必要があるのでしょうか?
 それで幸せになれるのは、マスコミから謝礼がもらえるこの人だけのような気がするのですが。

 もともと僕自身が血縁関係に対する意識が乏しい人間なのかもしれませんが、「身内」というのは、どこまでプライベートに立ち入ることが許される存在なのだろう。
 ワイドショーなどでは、よく「被害者の気持ちを代弁」してくれる家族や近所の人というのが登場しますが、それをテレビカメラの前で喋ることって、何かのメリットになるのかなあ。それでも、犯罪の被害者に関することなら「誰かに今の気持ちを吐露したい」とかいうのも確かにあるのかもしれませんし、それを発信することによって、加害者に対する厳しい世論の形成に役立つこともあるでしょう。
 でも、今回の件では、「ベッカムも悪いけど、ムリヤリそういう関係に持ち込んだわけではなさそうだし…」というように、「お互い様」という印象もあるんですよね。ベッカムが有名人で叩かれやすい立場だということを除けば。
 そうすると、妹への風当たりが強くなることだって、容易に想像できるのではないでしょうか?(実際にバッシング報道も出てきているようです)
 それとも、イギリスではこういう場合に「とにかく男のほうが悪い!」という結論になるの?

 不倫とか痴話喧嘩は当人たち同士でやればいいことです。そりゃ、離婚問題ともなれば、お互いの「家」が関わってくることも事実ですが、少なくとも、このお兄さんのような「身内」の行動って、「おせっかい」か「売名行為」でしかないと思います。
 妹さんにとっては、いかにも遊んでいそうなベッカムに裏切られるより、自分の兄に「売られる」ことのほうが、ある意味悲しいんじゃないかなあ。
 でも、こういう「自称・家族思いの人」って、けっこう多いですよねえ。
 「お前のため」「家族のため」って言いながら、やることはすべて「自分のため」。
 本当に「妹思い」なら、もうお互い大人なんだから、放っておけばいいのにね。



2004年04月07日(水) ■
イチロー選手が語る「子どもが宿題をやる意味」

「キャッチボール〜ICHIRO meets you」(「キャッチボール〜ICHIRO meets you」製作委員会著・糸井重里監修)

(日本で前人未到の7年連続の首位打者に輝き、メジャーリーグ(シアトル・マリナーズ)移籍後も大活躍を続けているイチロー選手へのインタビュー番組を書籍化したものです。聞き手は、糸井重里さん。)

【イチロー:これね、大事なことなんですよ。
 僕がよく小さい子に言うのは、「野球がうまくなりたかったら、できるだけいい道具を持ってほしい。そしてしっかりとグラブを磨いてほしい」ということと、「宿題を一生懸命やってほしい」ということ、なんですね。
 宿題をやる意味は、宿題そのものだけではないんですよ、実は。
 なんでぼくがそれを大事だと思っているかというと……大人になると、かならず上司という人が現れて、何かをやれ、と言われるときがくると思うんですね。
 子どもにとっていちばんイヤなことは、勉強することなんです。
 よっぽど勉強が好きな人はおいておいて、キライなことをやれと言われてやれる能力っていうのは、後でかならず生きてきますよ。
 ぼくが、宿題を一生懸命やってよかったなと思うのは、そこなんですね。
 プロ野球選手という個人が優先される場所であっても、やれと言われることがものすごくあるわけです。だったら、一般の会社員になって、そんなことは毎日のことのはずです。だから、小さい頃に訓練をしておけば、きっと役に立つと思うんです。
 やれと言われたことをやる能力を身につけておけば、かならず役に立つ。
 「自分は野球が好きだからそれだけやっていればいいや」といって宿題を放棄してしまったら、おそらく、後で大変な思いをすると思うんですよね。】

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 「天才」と呼ばれる男、イチロー選手が語る「子どもが宿題をやる意味」。
 イチロー選手は、このインタビューのなかで、「自分は『天才』ではない」と言っています。その理由は「自分がどうしてヒットを打てるか、ってことを説明できるから」なのだとか。「本当の天才は、『なんでこんなヤツがこんな打ち方でヒットをたくさん打てるんだろう』と思わせる人」なのだそうです。

 画面の向こうのイチロー選手というのは、すごく冷静でマイペースな人のようなイメージがあります。「天才」についての分析にもあるように、確かに、いろんな物事を客観的に見ようとしているのは、間違いないみたいです。
 誰でも子どもの頃って「どうして宿題をやらないといけないの?」って思ったことがあるはずです。そこには大人からの「社会人としての常識を身につける」とか、もっともらしい説明がある一方で、「最低限の加減乗除くらいわかれば、微分積分なんて全然解らなくても普通の人生では使うことはないし、歴史なんて、ただ覚えるだけで何の役に立つの?」というような「疑問」を拭い去れないのも事実だったのではないでしょうか。
 大人になってみて「学校で勉強した内容は役に立ったの?」と問われれば、確かに人間関係とかでは「勉強になった」と言えても、授業の細かい内容なんて、ほとんど記憶に無い人が大部分のはず。

 でも、イチロー選手が言われていることは、確かに事実だと思います。
 もちろん、「勉強がわかる子」と「わからない子」では、勉強することに対する拒絶反応の度合いが違うのかもしれませんが、ほとんどの子どもは、「勉強しなくて良いなら、勉強したくない」のが本音なのではないでしょうか。
 そこで「自分では納得いかない気持ちを抱えつつも、やれといわれたことをきちんとやれる能力」というのが、鍛えられるんですよね、きっと。
 「やりたいことだけやれ」という「個性を伸ばす」という「教育」がもてはやされている面もありますが、あれだけの特別な能力を持っていて「個性のカタマリ」のようなイチロー選手ですら、【キライなことをやれと言われてやれる能力っていうのは、後でかならず生きてきますよ】と口にするほど、「キライなことをやれと言われている」のですよね、今までの人生で。
 もっと「マイペースに、やりたいことをやれ!」みたいな考えを持っているのかな、なんて思っていたのになあ。

 どんな優れた能力を持っていても、協調性の欠如や、やるべき努力をしないことによって埋もれてしまう人というのはたくさんいるはずです。その一方で、【キライなことをやれと言われてやれる人】というのは、それによって自分を磨いたり、他者から引き立てられることだってあるのです。「ワガママでみんなに嫌われる人」よりは「上司の覚えがめでたい人」のほうが、重要な仕事に抜擢されて自分の力をより大きなところで発揮しやすいでしょうし。

 確かに、子どもの頃に「イヤなことをイヤだと思いながらもやれる訓練」を積んでおくというのは、大事なことなのかもしれません。
 もちろん、犯罪とかは別ですが。

 とはいえ、子どもが「これは訓練なんだ」と自分に言い聞かせて黙々と宿題をやる姿、というのは、それはそれでなんとなく物悲しいものではあるのですけどね。



2004年04月06日(火) ■
みんな、電子メールに対して無防備すぎると思う。

読売新聞の記事より。

【携帯電話でメールを送り、奈良県生駒市鹿ノ台東、無職徳本晋一被告(40)(殺人罪で公判中)が女性を殺すのを“激励”したとして、殺人ほう助の罪に問われた東京都世田谷区、飲食店アルバイト竹村歩被告(24)の判決公判が6日、大津地裁であった。

 大西良孝裁判長は、竹村被告に懲役3年、執行猶予4年(求刑・懲役4年)を言い渡した。

 判決によると、竹村被告は昨年7月13日未明、徳本被告が大阪府吹田市の女性(当時21歳)の殺害をためらって送ったメールに対し、「大丈夫、深呼吸して」「これしかないし、それが一番」などと返信。徳本被告は同日午前4時ごろ、大阪市東淀川区のマンションで、女性の頭などを金づちで十数回殴り、ネクタイで首を絞めて殺した。

 公判で竹村被告は「私の言葉が被告を左右するとは思わなかった」とメールの影響力を否定。一方、徳本被告は「やりとりがなければ、女性を死なせることはなかったはず」としていた。】

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 ああ、この人たちは、どっちも救いようのないバカだなあ、としか言いようがありません。そんなの他人にメールで聞くなよ、とも思うし、そんなの励ましてどうするんだ、とも思うし。挙句の果てに「メールで励まされたせいだ」「メールくらいで本当に影響があるとは思わなかった」と罪のなすりあい。

 この事件のことを聞いて、多くの人は、僕と同じような感想を抱くと思うのです。しかしながら、僕たちは、あまりに「電子メール」というコミュニケーションツールに対して無防備なところがあるのは、否めない事実のような気もします。
 メールの最大のメリットは、比較的リアルタイムのコミュニケーションがとれるわりには、書きたいときに書けて、読む側は読みたいときに読めるという点。このメリットは、残念ながら「携帯メール」には無いことが多くて、「可及的すみやかな返信」を要求されることが多いのですが、それでもその場で受けなくてはならない電話などに比べると、はるかに「送るほうも、受け取るほうも気軽」であることは間違いないでしょう。

 しかし、メールというのは、相手の顔が見えず、声が聞こえない分だけ、送り手のほうは、無自覚なうちに大胆な言葉を投げてしまいがちなツールです。例えば「出会い系」なんて、女性には「お誘いメール」が山ほど来るらしいのですが、その「お誘いメール」を送信している人の大部分は、おそらく、現実世界で身近な女性に積極的に声をかけたり、路上でナンパしたりという行為とは、縁のない人のはず。
 でも、「相手の顔が見えない、声が聞こえない、メールの世界」では、そういう言葉を比較的安易に投げられてしまうものなのです。相手の顔が見えない、ということは「何アンタ!」と相手に「拒絶される恐怖」からも解放されますしね。

 その一方で、誰でも「もらって嬉しいメール」や「感動したメール」のひとつやふたつは持っているはず。「言葉」というのは、それを受ける側の状況によって、送り手の意図以上の力を発揮してしまう、ということもあるんですよね。
 例えば、誰かから「愛してる」というメールをもらった場合、全く同じ文面でも「嬉しい」と受け取られる場合もあるでしょうし「気持ち悪い」と思われる場合もあります。会って、もしくは電話でなどの「生の」コミュニケーションでは、相手の態度や言葉の響きによって、受け手にはさまざまな情報が与えられるわけですが、残業中に相手のことを想いながら送っても、浮気現場から送っても、そこに表示される文字は、同じ「愛してる」なのです。
 もちろん、返信までの時間やタイミングなどで、携帯メールにも「相手の気持ち」が浮かび上がってくる場合もあるのですが。

 メールの場合はとくに、「自分が送ったことを同じように相手が受け取ってくれるかどうか?」と「自分が感じたことと同じことを相手が送ったのかどうか?」を意識しておいたほうがいいでしょう。電子メールというのは「証拠」が残ってしまうツールですし。
 実際、もし目の前に被害に遭われた女性がいる状況で「どうしよう?」なんて聞かれたら、どんなにヒドイ人間でも、そう簡単に「大丈夫、深呼吸して」なんて言えないでしょうしね。何が「大丈夫」なんだか。

 「簡単なツール」というのは、メリットがある一方、使う側が油断しすぎて、逆に怖いところもあるのです。どんなに「むじんくん」の手続きが簡単になっても、お金を返さなくていいわけじゃないのと同じですよ。



2004年04月05日(月) ■
「似たものどうし」と「ベターハーフ」

読売新聞の記事より。

【ペットの犬が飼い主に似ているのは気のせいではなかった――。人が飼い犬を選ぶ際、外見的に自分に似た犬種を選ぶ傾向があるという調査結果を、米カリフォルニア大サンディエゴ校の研究チームがまとめた。近く心理学の専門誌に掲載される。

 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、研究を行ったのは同校の心理学者2人。ペットの犬と飼い主の写真を別々に撮影し、被験者の学生に組み合わせを当てさせたところ、高い正答率が得られた。

 正答率は犬が純粋種の場合に高く、雑種では低かった。雑種の場合は成長後の外観の予想がつきにくく、飼い主が自分と似た犬種を選びにくくなるためだという。

 同紙によると、ペットと飼い主の「類似性」の謎に迫る研究は過去にもあり、肥満気味の人は太った犬を選んだ。また髪が長い女性はビーグルのような耳の長い犬を好み、ショートヘアの人はハスキーのような耳の短い犬を選ぶという研究もある。

 今回の研究を行った学者によると、人は夫や妻を選ぶ時も自分と似た人を選ぶ傾向があるという。この結果、配偶者とペットも似ることになるが、「この事実は多くの配偶者をアンハッピー(不幸)にするだろう」と学者は話している。】

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 なるほど、「ペットは飼い主に似る」とよく言われますが、実際は「飼い主が自分に似たペットを選んでいる」ということなのだなあ、なんて僕はこの記事を読んで思いました。
 まあ、「肥満ぎみの人は太った犬を選ぶ」なんていうのは、どちらかというと自分を基準にペットに餌をあげすぎるせいなのでは?という気もしますが。
 ところで、【人は夫や妻を選ぶ時も自分と似た人を選ぶ傾向がある】というところを読んで、僕は昨日読んだ中島らもさんの本に書いてあったことを思い出したのです。
 らもさんは、結婚式のスピーチを頼まれると、哲学者プラトンの「ベターハーフ」の話をすることがあるそうです。
 これは、「人はこの世に生れ落ちる前は一つの球であり、それが2つに分かれて誕生する。そして、別れてしまっためいめいが自分の半身を求め続ける」という話。ちなみに、らもさんはスピーチの最後に「お互いに自分の『半身』が見つかってよかったね」と締めるそうなのです。
 
 僕は、なんとなく理想の「ベターハーフ」というのは、「性格が全く違っても、自分が持っていないものを持っていて、お互いに補い合える人」だとずっと考えていたのですが、ひょっとしたら、それは間違った解釈だったのかもしれません。
 「ベターハーフ」というのは、あくまでも「自分の一部なのだけど、今の自分にはないもの」なのですから、「自分と全く同じ」でもなければ「自分と全然違う」というものでもない。いくら「自分とは違った人を」と思っても、やっぱりその相手の中には、「自分となだらかに繋がるもの」がないと、うまくいかないのかもしれませんね。
 でも、きっと人間って凸凹しているから、お互いに全く同じ形の「半分」では、うまくくっつかないし、あまりにお互いの繋がりが滑らかすぎる組み合わせというのも、かえって外れやすいのかな。

 自分の一部だけど自分じゃない、似ているけど同じじゃない、そんな不思議な「ベターハーフ」。
 そう考えると、女性が「今度は絶対あんなタイプの男とは付き合わない!」なんて言いながらいつも同じような相手を選んでしまう理由も、わかるような気もします。
 この世界のどこかに、完璧な「ベターハーフ」っているんだろうか?

 まあ、現実問題としては、ときには自分のほうの形を変えて相手に合わせることも必要なのでしょうね、きっと。



2004年04月04日(日) ■
恥ずかしい、この1枚の写真!

日刊スポーツの記事より。

【女優国仲涼子(24)が3日、都内の書店で写真集「国仲涼子写真館〜風の記憶」(主婦と生活社)の発売記念握手会を行った。同写真集は3月26日に発売され、国仲の幼少期や中学、高校時代、成人式など、プライベートな思い出の写真を収録している。
 国仲は「沖縄の実家からかき集め、2歳のころの水着姿など恥ずかしい1枚もあります。懐かしく、楽しい写真集作りでしたね」。最近の写真は2月に故郷沖縄県で撮影。母校の中学では後輩の男子学生との記念写真も。「撮影中に知人と偶然出会ったり、昔に戻れた感じです」と笑顔で語った。会場には子供連れの親子など約600人のファンが集まった。】

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 そうか、国仲さんの「恥ずかしい1枚」は、2歳のときの水着写真なんですね。
 僕はこれを読んで、ちょっとだけ意外な感じがしました。
 だって、「2歳のころの水着写真」なんて、そんなに恥ずかしいものでしょうか?もちろん、自分ですら覚えていないような自分の姿(たとえば、「酔っ払っているときの自分の姿」なんて、ものすごく気恥ずかしいとは思うけど、2歳のころの写真なんて、他人から見ればおそらく「カワイイ!」というくらいのもので、別に恥ずかしがるようなものじゃないような気もします。
 むしろ、現在(24歳)の自分の水着姿とかのほうが、恥ずかしいんじゃないのかなあ。そんなこと言ってたら芸能人なんてやってられないのかもしれないけど。
 たぶん他にも、友達と一緒に撮った笑える写真とか、カッコ悪い姿なんてのもあると思うのですけどね。

 うーん、でも自分の子供の頃の写真って、やっぱり誰にでも見せられるものじゃないのかな。つきあいはじめの友人の「お宅訪問」のイベントのひとつが「アルバム鑑賞」であることからも、「昔の自分を見せる」というのは、すごくプライベートなものなのかもしれませんし。

 若い頃の自分の写真を見せたがる人は、過去に縛られがちなのかもしれませんから、昔の写真を「恥ずかしい」と思える国仲さんは、現在が充実しているのかな、などとも思いますけどね。

 これを読んで、「僕のとって、いちばん恥ずかしい写真」って何だろう?としばらく考えてみたのです。でも、正直あまり「これ!」というのは思いつきませんでした。というより、あまり「自分が写った写真」というのをじっくり眺める習慣もないし。
 ひょっとしたら、写真を撮られ慣れた人には「写真の撮られ方も知らない、無邪気な自分」が恥ずかしかったりするのかもしれませんね。

 しかし、いくら本人が恥ずかしがっていても、見る側としては、2歳の水着姿じゃなあ…
 「カワイイ!」としか反応のしようがない!



2004年04月03日(土) ■
「人にとってのいちばんの感動」とは?

「週刊ファミ通(2004.4/2号)」の「ドラゴンクエスト�后廚砲弔い董▲轡蝓璽困了困澆凌討里劼箸蠅任△詼抂耆再鵑気鵑離ぅ鵐織咼紂宍�事より。

【今回『�后戮鬟螢瓮ぅ�するにあたって、仲間のモンスターや遊びの要素を追加しましたが、ゲームの本質はまったく変えていません。本質とは、人が感動することです。人にとってのいちばんの感動は、もうひとつの別の人生を体験できることじゃないかと思います。】

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 「人にとってのいちばんの感動は何か?」という問いに対して、「ドラゴンクエスト」の産みの親である堀井さんは、こんなことを仰っていました。
 人間生きていれば、いろんな「感動」があるのです。
 それは、仕事での成功であったり、恋愛の成就であったり、自然の中での憩いのひとときだったりするわけですが、ビル・ゲイツでもキムタクでも等しく言えることは、「人間は、自分の人生しか体験できない」ということではないでしょうか。
 誰も、他人になることはできないのです。
 そして、僕たちは本や映画の中で、登場人物に「感情移入」して、感動するのです。自分のものではない、もうひとつの人生に。

 ゲームの世界、とくに「ロールプレイングゲーム」というのは、プレイヤーが主人公になり代わってゲームをすすめていくものです。ゲームの中で、プレイヤーは世界を救う選ばれた勇者であったり、モンスターを集めて旅をする冒険者だったりするのですが、そのゲームによっては、主人公が自分が操作する「記号」になってしまっていて、プレイヤーにとっては感情移入できないものも多いのです。
 まあ、それはそれで、一種の「育てる快感」もあるんですけどね。
 「ドラゴンクエスト」が、シンプルなシステムなのに長い間人気を博し続けているのは、たぶんそこに「もうひとつの別の人生」が詰め込まれているからなのでしょうね。

 それにしても、小説、映画、ゲーム、そしてインターネット…
 人間にとっての「頭を使う娯楽」というのは、みんな「もうひとつの別の人生」を体験させてくれるものだよなあ。



2004年04月02日(金) ■
「本当に危険な仕事」と「本当は危険な仕事」

日刊スポーツの記事より。

【中央競馬の竹本貴志騎手(20=古賀史)が脳挫傷のため2日午前1時12分、入院先の船橋市内の病院で死亡した。

 竹本騎手は今年3月にデビューしたばかりで、3月28日の中山競馬5Rの障害戦でミツアキオペラオーに騎乗し、1周目の障害を飛び越す際に落馬。その際に頭部を強く打ち、意識不明のまま千葉県船橋市の船橋市立医療センターに搬送された。その後も意識が戻らず、事故から6日目のこの日、息をひきとった。

 中央競馬の騎手が競走中の事故で死亡するのは93年の故岡潤一郎騎手(当時24)以来11年ぶりで、54年のJRA設立以来19人目となる。

 竹本騎手は広島県出身。騎手デビュー翌日の3月7日には、競馬学校出身の新人で初勝利一番乗りを果たした。事故に遭ったレースは15戦目、障害レースは2戦目だった。】

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 竹本騎手のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 ハルウララのレースに騎乗する際に武豊騎手がコメントされていたのですが、騎手というのは一見華やかなようで、非常に危険を伴う職業なのです。
 今年の中央競馬の新人騎手は12名(うち2名は、地方競馬からの移籍)なのですが、競馬学校ができてからは、毎年騎手になる人の数は、だいたい10人前後、というところです。
 JRA(日本中央競馬会)ができてから50年で19人目の事故死、というのは、さて、多いのか少ないのか…
 ’93年に命を落とされた岡潤一郎騎手も、将来を嘱望された騎手でした。彼は、あのオグリキャップの手綱を任されたこともある、有能な若手騎手だったのです。
 最近は騎手の安全対策もすすんできて、以前に比べたら悲劇的な事故が起こる可能性は減りましたが、それでも「レースは生き物」ですから、どんなトラブルが起こってもおかしくはありません。命を落とさないまでも、後遺症が残るような大きな怪我をすることだって、けっして珍しいことではないのです。
 100人のうち1人は事故で命を落とす職業(しかもまだ若くて健康なのに)というのは、やはり、「危険な職業」であるのはまちがいないでしょう。

 「安全対策を」と言っても、まさか馬にエアバックを装備するわけにいかないだろうから。

 僕たちは、「騎手」とか「警察官」「消防士」などは「危険な職業」だと認識しています。
 でも、実は「危険な職業」というのは、けっしてこれだけではないのです。
 僕が医者になって感じたのは、「これは、かなり危険な仕事だなあ」ということでしたから。さまざまな病気が集まってくる病院で働き、患者さんと接するのですから、針刺し事故や飛沫感染などの危険も普通の職場よりは大きいですし、ミスをした場合に受ける社会的制裁も、例えは悪いかもしれませんが「コンビニの店員が、お釣りを間違えること」に比べれば、はるかに大きいものでしょう。病気の人であれば、その人が暴力団員であっても、原則的には受け入れないといけません。
 「医者は高収入」だと言われますが実際はたいしたことはないですし、僕はそれって「危険手当」のようなものだと思うのです。
 
 あと「風俗で働く」というのも、非常に危険な仕事なのではないでしょうか。
 面識のない男に対して、無防備な体勢で相対しないといけないし、いろんな病気をうつされる危険もあります。事件に巻き込まれる可能性が高いような印象もありますし(ただしこれは、職業との因果関係はわかりませんが)。
 そういう仕事で「売っている」ものは「身体」と「プライド」だけではなくて、「自分の身の安全」もなのです。

 僕は竹本騎手が「騎手にならないほうがよかった」のかどうかは、正直なんとも言えません。彼はおそらくリスクを承知で、夢を追ってこの仕事を選んだのでしょうから。そして、スーパースターである武豊騎手から、薄給でも馬を全力で追っている地方競馬の騎手まで、みんな、そのリスクを抱えて働いているのです。
 アイルトン・セナが事故死したからといって、「彼はF1マシンになんか乗らなければよかった」と言い切れる人は少ないはず。

 世間には、自覚もなしに「危険な職業」をやっている人がけっこう多かったり、「安全でクリーン」だと思われている仕事にたくさんの危険が潜んでいるものだよなあ、などと僕は最近つくづく思うのです。政治家だって、ある意味「危険な職業」なのだし。
 「危険を承知で危険な仕事をする人」もいれば、「危険に気付かずに危険な仕事をする人」もいる。みんな一度は、「自分が仕事で得られるものというのは、その危険に見合ったものか?」ということを考えてみるべきなのかもしれません。
 
 同じ「危険な仕事」なら、自分の夢のために散った竹本騎手の20年間の人生は、そんなに悪いものではなかったのではないか?僕には、そんな気がします。



2004年04月01日(木) ■
アクセス数から、サイトの現状を考える。

「ホームページのアクセス数を確実にアップさせる112のコツ」(岡崎久美著・エムディエヌコーポレーション)より。

(「ヒット数をもとに、サイトの現状とこれからを考える」という項目から)

【1日にどれぐらいのアクセス数があれば、成功と言えるのでしょうか。サイトのテーマによって、満足できる数字は変わってきますが、以下に一応の目安を挙げておきます。

・1日10ヒット以下
  内容の良し悪し以前に、サイトの存在が知られていません。「プロフィールと掲示板だけ」などでなく、メインの内容があり、更新もしているなら、もっと増えてもいいはずです。まずは、サイトに合ったジャンルの検索エンジンへの登録から始めてはどうでしょうか。

・1日10〜25ヒット
  そこそこ告知活動ができています。ただ、他のサイトと内容的に差がないため、訪問者が集まらない状態です。アクセスを集めているほかのサイトを参考にしつつ、自サイトならではのコンテンツを増やしていきましょう。

・1日25〜50ヒット
  告知活動が進み、内容もできてきて、軌道に乗り始めました。

・1日50〜100ヒット
  訪問者のニーズのある情報を、うまく発信できています。

・1日100〜200ヒット
  ここまできたら、優良サイトとして世間に評価されたと考えていいでしょう。

・1日200ヒット以上
  多くのサイトで紹介され、訪問者が訪問者を呼んでくれる状態です。】

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 せっかくのエイプリルフールなので、ちょっと生臭い話など。
 「個人サイトは、1日50ヒット、年間2万ヒットで成功の部類と言われている」と著者は書かれていました。何年か前に読んだ本には、「1日30ヒット、年間1万ヒット」という記載があった記憶がありますから、ここ数年でのネット人口の増加もあって、「成功の基準」というのも、少しレベルアップしたみたいです。
 たぶん、この新年度から、新入生・新社会人になったのを機にサイトを始めようという人たちがたくさんいるでしょうし(さすがに今日早速、というのは厳しいかもしれないけど)、こういう具体的なデータというのは貴重なものだと思うのです。
 サイトをやっていると、本当に「アクセスしてもらうというのは、本当に難しいことだ」ということを実感することが多いのです。よほど奇抜なコンテンツや強力な「人脈」がなければ、普通、できたてのサイトを訪れてくれる人はほとんどいません。「面白い」「面白くない」以前に、「知られていない」わけですから。僕のようなネット依存症の人間でも、1日に新しいサイトをいくつ観ているだろう?なんて考えると、正直なところ、おなじみのサイトを回るだけで手一杯でもあるのです。まずは、知られないとどうしようもないわけで。

 できてすぐの個人サイトというのは、ウミガメの卵みたいなものです。大人のウミガメになってしまえば、ちょっとやそっとのことではビクともしませんが、卵のうちはとてもはかなくて弱くて、ちょっとした刺激や環境の変化などで、すぐに命を落としてしまいます。
 こうしてこの文章が誰かに読まれているというのは、まさに偶然(と少しの努力)の産物であるわけで。ほんと、「人が人を呼ぶ」という状況になってしまえば、昔の自分を忘れて、一生懸命宣伝している人たちのことを「みっともないなあ」なんて思ってしまいがちなものですし。

 僕も日頃自分が観ているサイトと比較すると「うちは閑散としてるよなあ」なんて寂しくなることもあるのですが、考えてみると、「僕が観ている」という時点で、けっこう世に知られているということなんですよね。だから、そういうサイトと比較すること自体が間違っているのでしょう。

 個人サイトというのは、ツボにはまる人にとっては、すごく楽しいものだと思います。
 でも、その一方で、「大人のウミガメ」になる道はけっこう厳しかったりもするのです。
 「誰も来なくても続けられる」という人は、そもそも、紙の日記帳に書けばいいものね。

 実際、アクセスの多さと内容は短い期間で比例するものではなくて、例えば僕が別の名前で他のレンタル日記スペースで、この「活字中毒R。」と全く同じようなことを書いても、誰も見に来てくれないでしょう。
 人が来ないのは「内容」だけじゃないのです。
 みんな最初は「卵」だったわけだし。

 なんとか、その辛い「卵の時期」を乗り越えて、面白いサイトが大海にたくさん姿を見せてくれることを心より願っております。
 まあ、「大人のウミガメには大人なりの辛さがある」のも、一面の真実なのですが。