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2004年08月31日(火) ■
近鉄が「集客下手」なのか、それとも「儲からない商売」なのか?

「Number 609」(文藝春秋)の記事「合併→1リーグの虚しさを知って欲しい。」(ナンバー編集部・文)より。

【だいたい近鉄の経営が破綻したのは誰のせいでもない。近鉄のせいです。よく選手の年俸が高いと取りざたされますが、これは要因の一部にすぎません。近鉄の赤字は年に約38億円。選手会所属の人件費は約19億円。これを約半分の10億円に削ったって、まだ30億円近い赤字が残る。収入が少なすぎるんですよ。ファンを球場に呼ぶマーケティングが全く下手なんです。
 近鉄の小林(哲也)球団社長は、意見交換会の場で球団の努力の内容について、「選手を集めてファンの集いをやった。けれどもイベントをやるには金がかかるから、より財務体質が悪くなった。ファンが球場に来やすいようにチケットの割引をした。単価が下がってより状況を厳しくしてしまった」と説明しました。しかしスポーツマーケティングの理論からすると、これは当然の失敗です。中村紀洋選手の人形を作って先着3000人に配ってみた。その試合では観客が増えたが、その顧客にさらに別の試合に来てもらう誘因のきっかけを作ることができない。効率が悪すぎる。人形を配るなら、なぜそこで顧客のデータを集めないのか。例えば人形のプレゼントは抽選にして1万人に応募してもらう。そこで細かくファンの嗜好をデータベース化すれば、球団はいくらでも有効に使えるんです。岩隈投手が先発の時には岩隈ファンの会員に先発の予告をすることもできる。選手からのメッセージをファンに配信することもできる。IT技術の進歩で顧客に対するアプローチコストが下がっている現在、それを活用しないのは怠惰と言っていいんじゃないでしょうか。】

〜〜〜〜〜〜〜

 実際には、どこの球団もそれなりに手を打ってはいるとは思うのですが、確かに、この近鉄の赤字額を考えると、「これでは、どうあがいても黒字になりようがない」というのが本音なのではないでしょうか。選手の年俸は、僕は「高すぎる選手がけっこういる」とは思いますけどね。
 それでも、仮に選手が全員タダ働きしたとしても、年間20億円も赤字になるというのは、「なぜ?」という感じがします。
 「王ヤメロ」と罵声をとともに生卵が投げつけられてきた時代からダイエー・ホークスを観てきた僕としては、いまや「福岡の宝」になってしまったのは、まさに隔世の観があるのです。ただし、それは「強いチームを作るために投資をして、福岡ドームという魅力的な器をつくった」という、努力の結晶でもあるわけなのですが。
 それでも、ダイエー球団は赤字で(実際、福岡ドームはいつもほぼ満員みたいなので、このチームはやっぱり年俸が高すぎるのかもしれません)、売却の噂が絶えません。
 野球チームの運営というのは、ここまで「儲からない商売」なのでしょうか?
 もっとも、「オリックス」とか「ニッポンハム」なんていう企業名は、もし球団を所有していなかったら、はるかに知名度は低いでしょうから、そういう意味では「宣伝効果」という点では、かなり価値が高いとは思うんですけどね。
 僕は「マーケティング理論」には疎いですし、一観客としては、ことあるごとにアンケートに協力を求められるような野球観戦にはあまり魅力は感じませんが、ここに書いてあるような「企業努力」は、ひとつの方向性なのではないでしょうか?不思議なことに、球団の経営者たちは、経営の専門家のはずなのに、「球団経営は金食い虫」という先入観に凝り固まって、「黒字にできる(もしくは、赤字を宣伝効果で相殺できる)可能性」をまともに探ろうとしていないようにも見えます。
 場当たり的な対策をやって「やっぱりダメだ」なんて言われても、そんなの当たり前です。

 その一方で、野球というのは斜陽産業なのではないか、という気がするのも事実。
 観客動員数はともかく、テレビの視聴率は毎年下がる一方ですし、優秀な選手はどんどん特定球団やメジャーリーグに流れていってしまいます。
 そもそも、巨人戦なんて、僕が子供のころは「自分の贔屓チームの途中経過を知るために」観ていたりしたものですが、現在ではネットでいくらでもリアルタイムの情報を知ることができますし、テレビがなくてもビデオもゲームもあるのですから、好きでもない巨人の試合をわざわざ観る義理なんて全くありませんから。

 ところで、この文章を読んでいると、「ライブドア」というIT企業そのものは、社長のいかにも売名っぽい振る舞いを考えなければ、「新世代の球団経営母体」としては、かなり向いている企業なのではないかな、と僕には思えてきました。
 「自分のメディアでお抱えチームの情報を集中的に流すことによって、そのチームへの注目度をアップさせると同時にそのメディアそのものも利益を得る」というのは、まさに「読売方式」で、「新時代の読売方式」をやるためには、IT企業というのは、ものすごく有利ですしね。

 でもね、本当に「スポーツマーケティング」とやらが、ファンを幸せにしているかといわれると、僕はちょっと疑問なのです。
 「企業の宣伝にもなるし、地元の人たちに喜んでもらえたらいいよ」っていうような「タニマチ体質」と「年俸が高すぎる選手は、即自由契約」というようなシビアな球団経営を比べるれば、いくら「考えが旧い!」と言われても「本業がボロボロで、球団経営で金儲け」って企業よりは、「本業がしっかりしていて、球団経営はあくまでも地域社会への還元」という企業にオーナーになってもらいたいなあ、と思うのは、あまりに日本的な発想なのかもしれませんけど。
 



2004年08月30日(月) ■
「恨まれるマスコット」と「愛されすぎるマスコット」

共同通信の記事より。

【プロ野球、北海道日本ハムファイターズのマスコット「ブリスキー・ザ・ベアー」(愛称B・B)が、球団の公式ホームページの書き下ろしコラムで、一部の心無いファンによるいたずらの悩みを打ち明け、「僕たちマスコットにだって人権がある」と訴えている。
 コラムは8月23日から掲載。頭や体を強くたたかれる、言葉の嫌がらせなどは日常茶飯事で「信じられないのは子どもばかりではなく、いい年をした大人にも多い」と嘆いている。大人の女性に、背中のファスナーを開けられそうになったこともあったという。
 B・Bは行為の悪質化を危ぐする一方で「できる限りファンとの距離の近いマスコットであり続けたい」と願う。そして「笑顔の向こうには、あなたたちと同じような感情があるという事を忘れないでほしい」と呼び掛けている。】

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 マスコットも大変だ、という話なのですが、確かに、ああいうマスコットって、イタズラの対象になりやすいみたいです。ただでさえちょっかいを出されやすいのに、野球チームのマスコットだったりすると、チームの成績や試合内容が悪買ったりした日には、まさに「ストレスの捌け口」になってしまうことも多いようですし。
 本心としては、選手たちを殴ってやりたいとか思うのでしょうが、さすがに警備もあるし、だからといってその辺にいる一般の人に手を出したりすれば警察沙汰。ということで、「ちょっかい出されるのも給料のうちだろ!」と、こういったマスコットに対して、八つ当たり行為が絶えない、というわけです。「顔が見えない」っていうのは、こういうときの罪悪感を軽くしてしまうんでしょうね。

 ところで、このマスコットといえば、僕が知るかぎり最も悲惨な目にあっているのは、この「ターフィー君」だと思います(ちなみに、今の「ターフィー君」は2代目)。彼がどうしてそんな酷い目に遭い続けているかというと、それは、公営ギャンブルの雄である「中央競馬」のマスコットだから。
 要するに、「命の次」を失いまくった人々は、この「にっくき競馬場の犬」(馬だけど…)ともいうべきマスコットのターフィー君に、憤りをぶつけていくわけです。
 ドツキ、はたき、蹴りなど、その「ファン(?)の暴挙」は、多岐多様にわたるのです。
 お金がかかっている「鉄火場」ですから、ターフィー君への仕打ちは、そりゃあもう「マナーが悪い」なんてものじゃないのだとか。
 ちなみに、先代ターフィー君はこんな感じですから、2代目が妙にかわいいキャラクターになったのは、目の敵にしてくるファンの敵愾心を少しでも抑えたい、という願いのあらわれなのかもしれませんね。

 まあ、いずれにせよ、本当の「責任者」は、マスコットの中になんかいないわけで、そういう「捌け口」になってしまう中の人って大変だなあ、とつくづく感じてしまいます。
 「それも仕事のうち」と言えなくもないですが、やっぱり、それにも限度があるでしょうし。
 みんなに愛されるかわりに、僕のようなオッサンにもハグしないといけない某●ッキー●ウスの中の人なんかも、それはそれでキツイだろうあ、なんていう気もするんですけど。



2004年08月29日(日) ■
スポーツ選手にとって、「結婚は力になる」のか?

時事通信の記事より。

【アテネ五輪では日本の女子選手の健闘が目立ったが、その中で既婚選手も金メダルを獲得したり、初勝利を挙げたりと大いに活躍した。
 「結婚が力になる」と話していた柔道48キロ級の谷亮子選手(28)は2大会連続で優勝し、日本の女子で初めて2個目の金メダルを手にした。五輪の野球に出場した夫の佳知さん(31)と夫婦そろって金を目指したが、野球は銅に終わった。
 アテネ五輪の全競技のトップを切って11日に行われた女子サッカー予選リーグのスウェーデン戦では、宮本ともみ選手(25)が中盤で攻守に活躍。日本女子として初の五輪勝利に貢献した。
 楠田香穂里選手(30)は女子バスケット代表では初の既婚者。予選リーグで敗退したが、最後の試合となった強豪、中国との試合では敗れたものの司令塔として走り回り、チーム最多の13点を挙げた。
 女子バレーボールの成田郁久美選手(28)は守備専門のリベロとして活躍。大きな声で若い選手を盛り上げ、準々決勝まで進んだ。
 トライアスロンの関根明子選手(28)は「シドニー(五輪)では力み過ぎたが、今回は平常心で臨めた」といい12位に。14位だった庭田清美選手(33)は「できる限りのレースをした」と満足げに話した。
 夫と二人三脚で練習してきた陸上1万メートルの弘山晴美選手(35)は3大会連続の五輪出場。シドニー五輪は1万メートル決勝で最下位だったが、今回の決勝は出場31人中、18位でゴール。「満足しています」と笑顔を見せた。】

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 「ミセス選手が活躍・結婚が力に?」というタイトルでYahooに取り上げられていた記事なのですが、こちらの日本のメダリスト一覧を見ると、活躍している選手に比較的20代前半までの選手が多いこともあって、「結婚は女子選手にとって力になる」という結論は、なかなか出しにくいところです。
 谷亮子選手が優勝したときの、夫のほうの谷選手の「足、大丈夫?」には、僕も「やっぱり夫婦なんだなあ」とホロリとしてしまいましたが、精神的な繋がりはあるにせよ、彼らは実際には多くの時間は別居してそれぞれの競技生活を送っているのですから、「結婚生活」と「選手生活」の両立というのは、なかなか難しいものなんでしょうね。
 その他の「結婚して活躍している選手」も、多くは夫がコーチでサポートしている、なんてことが多いみたいですし。

 以前、スポーツ選手は男子禁制!(男の場合でも禁欲!)なんて噂を聞いたことがあるのですが、確かに、競技に集中するにはそういうのは「邪念」になってしまうのかもしれません。
 
 ただ、そういう「結婚」「恋愛」に限らず、オリンピックに出場して、そこで結果を出す、というのは、やっぱり「異常な世界」なんですよね。
 あの、男子ハンマー投げのハヌシュ選手のドーピング疑惑に対して、僕は「そんなリスクを侵してまで、記録を伸ばしても仕方ないんじゃない?バレたら、今回みたいにかえって本人にとってマイナスにしかならないんだから…」と考えてしまいます。
 でも、本人は、「ドーピングをやっても、1センチでも、1ミリでも記録を伸ばしたい、金メダルが欲しい」という精神状態に追い込まれてしまっているんですよね、きっと。実際に違法な薬を使わなくても、用具の改良などによって、記録を伸ばすための「本人の能力以外のところでの戦い」というのは続いているわけだから。

 僕は「結婚」というのは、現役のスポーツ選手にとっては、必ずしもプラスになるものではないだろうな、と思っています。「普通の人」と同じく、「結婚がプラスになる面」と「プラスにならない面」の2つの要素が存在しているのでしょうが、どちらかというと、制約のほうが大きいのではないか、あるいは「夫婦平等な生活」なんていうのは、難しいだろうな、と。
 もちろん、「平等」=「幸福」とは限りませんが。
 普通に生きて、特別な結果を残せるほど、甘いものではないはず。

 でもね、やっぱりみんな「自分と同じところ」を見つけたいのだろうし、そういう面を強調したいんだよね、きっと。テレビを観てたらつくづくそう思います。
 同じ日本人のメダリストよりも、ギリシャの普通のオジサンのほうが、生き方としては、よっぽど僕に近い「人種」なのかもしれないのに。



2004年08月28日(土) ■
演劇>テレビ番組、映画、小説、マンガ

「名セリフ!」(鴻上尚史著・文藝春秋)より。

【『演劇は時代の鏡である』という言い方があります。演劇には、その時代がまるで鏡のように映されているという意味でしょう。
 では、テレビ番組や映画、小説、マンガは時代の鏡ではないのでしょうか?
 そんなことはないはずです。その時代、その時代が、テレビ番組や映画、小説、マンガにも刻印されているはずです。
 ただ、もし『時代の鏡度』なんて単位があるとすれば、演劇は、他のメディアよりは鏡度の数値は高いはずです。
 もちろん、理由があります。

(中略)

 演劇は書いてから1ヵ月後に発表できるメディアです。だからこそ、観客の数は少ないのです。テレビに比べたら、何千、何万分の一です。映画のように長く愛されるものでもありません。公演が終われば、風に記された文字のように消えていきます。
 書いたものに対して、一番、修正を求められないのも、一番、動く金額が少ないからです。
 酒酔い運転で交通事故死なんていうテレビシナリオは、自動車会社やビール会社がスポンサーでは、間違いなく修正を求められるでしょう。
 演劇はタバコの害を語るのも、アル中の人間が出てくるのも、牛乳の効用に疑問を呈するのも自由です。それは、逆に言えば、巨大な金額が動いていないからです。(とほほほ)
 演劇をやっている自分が言うのもなんですが、メディアで世の中を変えようなんてすごいことを思った場合は、テレビ番組でまず訴えないとだめでしょう。次は、売れている雑誌に載っているマンガですか。次が全国メジャー公開の映画。かなり落ちて、小説。
 ま、演劇で訴えている限り、なかなか、広範には届かないと思います。
 で、なかなか届かないから自由度が高い、となるわけです。
 で、自由度が高いから、作家の直接の思いを刻みやすいメディアだということです。
 そして、広範に届かない代わりに、深く深く届くことがあるメディアなのです。
 時代のまさにその瞬間、時間差もなく、スポンサーの修正も入らず、作家の思いが直接届くことがあるのです。
 その作品には、奇跡的に時代の息吹がまるごと込められています。
 演劇は、そういう作品が生まれる可能性が、他のメディアより一番高いのです。だからこそ、『時代の鏡度』の数字が一番高いのです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 長くなってしまったので(中略)にしてしまいましたが、その部分には、【映画では企画から実際に観客が観るまで、平均2年くらいはかかるし、テレビでは動く金銭が大きいためにスポンサーの意向を反映せざるをえない面が大きい、小説、マンガでは、コンクールに応募して入選、発表まで1年以内くらい】という、それぞれのメディアの「時間差」が書かれています。
 鴻上さんは「演劇人」ですから、当然、演劇という表現方法のメリット、デメリットは知り尽くしているはずです。そして、これがそのひとつの結論なのでしょう。
 しかしながら、この『時代の鏡度』について考えると、「多くの人の目に触れる」とか「商業的に成功すれば儲かる」という要素と「表現の自由度」とか「リアルタイム性」というのは、常に反比例しがちなのだな、ということがわかります。
 テレビ局のアナウンサーは、「多くの人に語りかける機会」を持っていますが、アナウンサーたちには、基本的に「自分の表現」というのは許されていないわけです。まあ、それは極論としても、放送作家たちだって、「お約束」があるのでしょうし、「自殺は描けても、交通事故は出せない」というような制約だって、スポンサー側の意向によって出てくる、ということになります。要するに、TVというのは「報道の自由」と言いながらも「検閲済み」のものが流されているわけです。
 映画にしても、「表現の自由」のほかに「商業的成功」が期待できないものについては、人目に触れるような形にすることは難しそうです。「キル・ビル」や「華氏911」のような映画を製作することが許されるのは、彼らがタランティーノやマイケル・ムーアだからでしょうし。
 もちろん、これらの映画が完成後に高い評価を得たり、ファンに愛されているのは、製作者側の実力と努力のたまもの、ではあるのですが。
 さて、全く無名の新人が同じ企画書を持ち込んで、はたして採用してもらえたかどうか?

 僕も最近舞台を見に行くことが多いのですが、この鴻上さんの書かれているような「時代の空気感」というのは、確かに劇場には濃密に漂っているような気がするのです。まあ、その要因のひとつには、劇場に来る観客のほうの、テレビを観るような受動的な態度ではなくて、「自分は舞台も観に行くような、アンテナの高い文化的な人間なんだ」という「あるいは、ちょっと鼻につくような文化エリート意識」みたいなものも入り混じっているとしても。

 そして、「これはスゴイ!」と感じされられるものが多いのと同時に、「なんじゃこりゃ?」と思うようなものに出くわす可能性も、舞台というのは映画やテレビよりも高確率のような気がするのです。
 すぐにチャンネルを変えられないだけに、これは辛い。

 玉石混合で、当たりは少ないけれど、ときどき、とんでもない大当たりが隠れている、そんな世界。

 そういうふうに考えていくと、個人サイトの世界って、ある意味「演劇的」なのかもしれませんね。「お金が動かない」だけに制約が少ないところとか、『時代の鏡度』の高さとか。
 
 裏を返せば、「やっぱり、社会を変える力」なんてのは無いよなあ」ということも言えるんですけどね。
 



2004年08月27日(金) ■
「伝説のロッカー」が、教えてくれたこと。

「シティ情報ふくおか・No.625」(プランニング秀巧社)の「ザ・ハイロウズ」のボーカル、甲本ヒロトさんへのインタビュー記事より。

(ザ・フーの初来日公演の話題になって)

【僕はピート(ザ・フーのギタリスト)を何十年か前ね、生で観たことがあるんだよ。最後に『無法の世界』をやった時に、腕がちぎれるぐらい回してたんだ。本当にそこには自分の中から沸き上がる衝動が爆裂してて、”かっこいいでしょう!”なんか微塵もなかった。そしたら失敗して、ギターに手が当たって、ジャーって血が出たの。翌日の新聞を見たら、骨が見えてたんだ。でもその時は、また立ち上がってぶんぶんやり続けたの。僕はその日のフーを観てさ、かっこつけることは恥ずかしいことなんだって思った。”こんちきしょー!”って全身全霊をこめてやるもんなんだってさ。その時のことを、ピートは5年くらい後に雑誌で答えたの。その内容がヤバいんだ、俺にとっては。痛かったって言うんだ。けど「たかがイテーぐらいで止めれるかよ。今立ってる場所は自分で選んで立ってる。ボクサーが痛いってリング降りる奴がいるかよ」って。今回もきっとそれを見せてくれるよ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ボブ・サップさんに聞かせたいなあ、なんていうのはさておき。
 僕は「ザ・フー」というバンドには全然興味がなく、初来日が話題になっていたときも「ふーん」という感じだったのですが、この甲本さんが語ってくれたエピソードにはビックリしました。
 「ジャーって血が出て」しかも、「骨まで見えていた」っていうんですから、ピートさんはそのとき、ステージの上で激烈な痛みに襲われていたはずです。ヘタしたら命にかかわるかもしれない状況なのに、彼はステージをまっとうしたわけです。
 こういうエピソードに類するものは、ステージに立つ人にはけっこうあるみたいで、「骨折しながらも続きを演じた」とか「病をおして舞台に立った」なんていう話は、そんなに珍しくはないですよね。
 それでも、このピートさんの5年後のコメントが、僕はなんだか大好きなのです。
 【たかがイテーぐらいで止めれるかよ。今立ってる場所は自分で選んで立ってる。ボクサーが痛いってリング降りる奴がいるかよ】
 考えてみれば、バカですよね、この人。ボクサーがそうだからって、別にミュージシャンが痛みに耐えなければならない、なんてことはないはずです。それは、「守備範囲外」のことのはずなのに。
 でも、「やりたいことをやるには、痛みが伴うことだってあるんだ」という、ピートさんの「覚悟」というのは、日頃から「忙しくて自分の時間がない」とか「人間関係に疲れた」とか「仕事の成果が出ない」とかいうようなことで「もう辞めたいな…」と、ついつい考えてしまう僕にとっては、なんだかとても勇気づけられるような気がするんですよね。
 「そうだよな、なんのかんの言ったって、僕だって『自分で選んだこと』をやっているはずなのだから、多少辛いことやイヤなことがあったくらいで、リングを降りちゃダメだよね」って。
 ピートさん、あなたは真のロッカーです!

 ※危険なので、善男善女のみなさんは、マネしないようにしましょう。
 あくまでも「心意気の問題」だからね。



2004年08月26日(木) ■
主義主張としての『恋愛感情』

サンケイスポーツの記事より。

【女優、寺島しのぶ(31)が、中国映画「ションヤンの酒家」(フォ・ジェンチイ監督)のDVD日本語吹き替え版で主人公のションヤンの声を務めることになり25日、都内のスタジオで公開収録を行った。

 アフレコ初体験の寺島は、とくにラブシーンに苦労したようで、「“チュー”の音とか、『ア〜ン』のあえぎ声は1人だとすごく過酷だった」と苦笑い。自身の恋愛については「私のモットーでいつも恋愛はしていないと…」と、照れ笑いを浮かべていた。】

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 すっかり演技派女優としての地位を築いた感じの寺島さん。
 この記事だけ読んでいたら、「ションヤンの酒家」って、ポルノ映画なのか?とか僕はつい思ってしまったのですが、コチラにあるように、「エロスの要素もある」というくらいの作品みたいです。
 こんなふうに、そういう要素ばかり特筆されると、なんだか勘違いしてしまいますよね。
 ところで、このコメントの中にある、【私のモットーでいつも恋愛はしていないと…」】、某ゴージャス姉妹などもそうなのですが、僕はどうもこういうのって違和感を感じてしまうのです。あと「灰になるまでオンナ」とか。
 「恋愛」って、モットーでするものなのだろうか?とか「女」って、ポリシーとして続けるものなのだろうか?って。
 もちろん僕も恋愛自体の効用を否定するつもりはありませんが(やっぱり、日々の活力が出たり、新鮮な刺激を受けたりすることも多いのでしょうから)、「いつも恋愛している」というのは、ものすごくエネルギーもいるだろうし、相手の都合ってものもあるから、難しいのではないかなあ、という気もします。
 誰かと別れたら、「他に好きな人ができるのを待つ」のではなく「恋愛をするために新しい人を探す」というのは、なんだか不自然なような…
 「いつも恋愛をする」ために、別れた後に空白期間ができないよう、常に「恋人ストック」みたいなのがあって優先順位がつけられていたりしたらイヤだなあ、と思うし、自分が誰かの「好きな人」ではなくて「恋愛をするための相手」だったら、ちょっと感じ悪いなあ。そういう「感情」って、買いだめしておいたり、自分でコントロールしたりできないから面白いのでは。

 中島らもさんが引用していた外国の思想家の言葉に「女性にとって、男は愛を引っかける釘である」というのがありました。
 もちろん、男にもこういうタイプの「恋愛ジャンキー」みたいな人はいるのでしょうし、寺島さん相手だったら、釘になってもいい!っていう男はたくさんいるんでしょうけどねえ…

 「いつも恋愛をしている人生」って、「ブレーキの壊れたダンプカー」みたいで、僕はちょっと怖いです。



2004年08月25日(水) ■
「中立を保つ」という危険な選択

「マキアヴェッリ語録」(塩野七生著・新潮社)より。

【わたしは断言してもよいが、中立を保つことは、あまり有効な選択ではないと思う。
 とくに、仮想にしろ現実にしろ敵が存在し、その敵よりも弱体である場合は、効果がないどころか有害だ。
 中立でいると、勝者にとっては敵になるだけでなく、敗者にとっても、助けてくれなかったということで敵視されるのがオチなのだ。
                       −『手紙』−】

〜〜〜〜〜〜〜

 「結果さえよければ、手段は常に正当化される」という「マキアヴェリズム」の語源となった、ニコロ・マキアヴェッリの著作の言葉を塩野さんが抜粋したもののなかに、この一節は出てきます。

 僕は子供のころから、「人間は、なるべく中立(あるいは、「公正」と言い換えたほうがいいかもしれません)であるべきだ」と思っていました。他人に対して自分の感情で贔屓をしてはならないものだ、と。
 でも、今、ひとりの大人として考えると、人間というのは、「公正さ」に魅かれるものではないのだなあ、という気がするのです。もちろん、対象が赤の他人であれば「公正な判断ができるなんて、すごい」と素直に感動できるのですが、その「公正な判断をされるべき対象」に自分が含まれている場合には、やはり「自分の味方をしてくれる人」や「自分を評価してくれている人」というのを「公正な人」以上に好ましく思ってしまうのです。
 「公正な人に評価してもらえる」というのが、いちばん良いことなんでしょうけどねえ。
 そして、「敵がいない人」というのは、逆に「友達もいなくなる」のではないかという気もします。
 誰かと仲良くするというのは、往々にして、その仲間の敵を自分の敵にしてしまう、ということになりがちです。
 逆に「自分はみんなと仲良くするんだ!」「他人に迷惑はかけないんだ!」とかいうタイプの人が、いざというときに自分が頼れる人がいない、という悲喜劇は、けっして少なくないのが現実で。

 「中立を保つ」というのは、安全かつ平和的にみえるのですが、確かに、本当はものすごく危険な選択なのかもしれません。勝った側からも負けた側からも「日和見主義」とか「味方してくれなかった」なんて恨まれるのだから、いちばん「割に合わない戦略」なのです。
 スイスが「永世中立国」を宣言しているのも「まあ、あのくらいの規模の国だから可能なこと」と言える面があるのかも。「中立国」と言いながらも、軍隊は持っていますし。
 「中立」っていうのは、簡単そうに見えて、ものすごい「覚悟」が要ることみたいです。
 争っている両者が疲弊したところに乗じる、なんてしたたかさがあれば、話は別なんでしょうが。



2004年08月24日(火) ■
意外と、いろんなものを信じて生きている一般人

BARKSの2004年8月23日の記事より。

【マドンナは、レストランに出かけてもそこでは食事を取らないそうだ。何が入っているかわからないものは食べられないと話している。

マドンナは、誕生日の8月16日、夫で映画監督のガイ・リッチーと共にロンドンのトップ・レストランSketchに姿を現した。しかし「食事はどうだった?」という『The Sun』紙の質問に彼女はこう答えている。「食べなかったわ。レストランで食事はしないのよ。何が入っているか、分からないでしょ」

マドンナは、有機栽培の野菜、魚、穀物などを使ったマクロビオティック・ダイエットを実行していると言われている。この食事療法では、乳製品や精糖もご法度だ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 最初に見出しを読んだときは、「マドンナは、誰か毒を盛るんじゃないか…」なんて妄想にとらわれているの?なんて心配したのですが、実際のところは有機食品ダイエットを徹底するためみたいですね。
 それなら、わざわざ「ロンドンのトップ・レストラン」に来なくてもいいような気もしますし、「Sketch」のスタッフにとっては、風評被害だってあるんじゃないか、とすら思うのですが。
 まあ、この話もネタ元がかの有名な「大衆紙・サン」ですから、どこまでが事実かというのは今ひとつ信憑性に描ける印象もあります。

 今回のマドンナの「レストランで食事をしない宣言」というのは、糖尿病の人がカロリー摂取量がわかりにくい外食を避けるようなものですから、そんなにヘンなものではないですが、あらためて考えると、日常生活というのは、数多くの「暗黙の信頼」によって成り立っているものですね。
 僕は昔から床屋が苦手で、その理由が、カミソリをあてられているときに、理容師さんの手が滑ったり、他人を傷つけたいという衝動が急に発動したら…とか想像すると、ものすごく緊張してしまうからです。
 食物だって、最近流行りの「偽装事件」というのがありますが、僕たちは原則的に店で売られているものを口にする、もしくは外で食事をする際には「毒見」なんてしませんよね。それこそ、誰かが毒を入れようと思えば、それはそんなに難しいことではないはずなのに。
 車を運転される方は理解していただけると思うのですが、車というのは、「お互いが交通ルールを守る」という暗黙の諒解によって、なんとか機能している乗り物です。逆に「あの車はブレーキを踏まないかもしれない」とか「赤信号でも無視して突っ込んでくるかもしれない」といろいろなケースを想像しはじめたら、怖くて運転なんてできません。もちろん、その反面、ある程度までは「他の車が予想通りに動いてくれない可能性」を予見して、それに対応できるようにしていなければならないわけですが…

 どんなに「俺は他人なんて信じない」という人でも、コンビニで買ったパンの毒見をしたり、ハンバーガーショップで「先に会計なんてまっぴらごめんだ!」なんて叫ぶ人はほとんどいませんから、基本的には、人間は「信じていないようで、意外といろんなものを信じている」ということなのでしょう。
 もちろん「信じているというよりは、そんなことやってもメリットはないだろうから」というくらいの「信頼関係」なのかもしれませんけどね。

 たぶん、世界というのは僕に対して、期待しているほどの善意も持っていないかわりに、心配しているほどの悪意も持っていない、そういうことなのでしょう。ごくありきたりの、One of them。
 「外に出るときにはSPが警護」「食事には毒見が必要」というような特別な存在に、ときどき憧れてみたりもするんだけれど。



2004年08月23日(月) ■
ムンクの本当の「叫び」は、誰にも聴こえない

読売新聞の記事より。

【オスロ市内のムンク美術館から、エドバルド・ムンクの代表作「叫び」など2作品が22日、強奪された事件で、犯行グループが作品を持ち去る姿が、偶然通りかかった目撃者に写真撮影されていた。
 ノルウェー警察の発表などによると、犯行グループは計3人で、覆面姿の2人が2作品を強奪、もう1人が運転する盗難車で逃走した。この車はその後、市内で乗り捨てられているのが発見された。市内の別の場所では、壊された額の破片などが散乱していた。
 美術専門家によると、「叫び」は6000万―7500万ドル(約66億―82億5000万円)の価値がある。美術館関係者は「有名すぎて売れないため、犯人は金を要求してくるのでは」と見ている。2作品は美術館の壁にワイヤでくくりつけられていただけで、非常ベルも鳴らず、犯人はやすやすと持ち去った。】

〜〜〜〜〜〜

皆様すでに御存知とは思いますが、「叫び」というのはこの絵(いちばん上、クリックすると拡大されます)です。
エドバルド・ムンクの略歴はこちらを御参照ください。

 有名な絵画を狙うというのは、アルセーヌ・ルパンからルパン3世、キャッツ・アイまで、東西の怪盗の十八番なのですが、まさか、「叫び」ほど有名な作品が、白昼堂々とこんなにアッサリ盗まれるなんて!何か裏でもあるんじゃないか?とすら勘繰りたくなるほどです。
 ノルウェーという国は、そういう点に関して良く言えばのどか、悪く言えば隙だらけなのかもしれませんが。
 おそらく、犯人たちは警備が杜撰なのを知って、この「叫び」を奪うことを思いついたのでしょうけど、この記事にもあるように、あまりに有名な絵画は、売り物にはならないですよね。もちろん絵画収集が趣味の好事家はいるとしても、誰にも見せびらかせないし(ヘタしたら、お縄ですから)、ひとりで眺めてニヤニヤするにはあまりにも暗い気分になりそうな、この「叫び」は、あまり欲しがらないかな、とも思います。
 ところで、ムンクの「叫び」というのは、美術に疎い僕ですら知っているくらい有名な作品なのですが、実際にこの絵が有名なのは、美術品として以上に、さまざまなマンガやパロディなどで、「ムンクの『叫び』のような」という比喩として、耳に手をあてて顔と体が歪んだイラストなどを見て知っている人が多いからなのではないでしょうか?「嘆き、落ちこんでいる人」の代名詞みたいな感じで、非常によく引用されている作品なのです。

 上記リンク先のムンクの略歴にもあるように、彼は【自らの絵が傷ついていくということに無頓着だった】と言われています。もちろん、それが本心だったのか、あるいは芸術家としての彼のポーズなのかは、僕には判断がつきかねますが。
 「盗まれるのも、作品の完成の一過程にすぎない」
 ムンクがもし生きていたら、そう言うかもしれませんね。

 でもね、正直なところ、この絵のことを調べていたら、僕はものすごく実物を観てみたくなったんです。今まで、ネタとしてのイメージしかなかった「狂人にしか書けない絵」の本物を。



2004年08月22日(日) ■
「ちっちゃい女の子」に生まれて

「150cmライフ。」(たかぎなおこ著・メディアファクトリー)より。

【この本を書くまで私は、身長150cmってことを深く考えたことがなかったのだけど、よくよく考えてみれば「こういうことによく困っているよね。」とか「こういうことって当たり前かと思ってたけど、普通の人はそうじゃないんだ。」とか、いろんなことに気付かされました。
 あとけっこう驚いたのが、身の回りのちっちゃい仲間たちにいろいろ話を聞いてみると、みんなけっこう同じ経験をしていたり、同じ不満があったり、同じことを考えていたりしていたことです。
 反対に、身長が大きい人に話を聞いてみたら、大きい人には大きい人なりの、私には考えられない悩みがあったということ。映画館などで座るときには後ろの席の人に気をつかい、彼氏と歩くときはヒールの低い靴をはくように心がけ、酔い潰れてもおんぶしてもらえないから飲み過ぎないように注意し、服のサイズが大きすぎたら小さく直せばいいけど、小さすぎるのはどうすればいいんだよ?!などなど。
 背が大きい人には大きい人なりの悩みがあるらしい……。】

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 ♪金もいらなきゃ女もいらぬ、わたしゃも少し背がほしい〜
 というのは、玉川カルテットの有名なネタなのですが、男性としては平均よりやや低め、というくらいの身長の僕も、「もっと背が高かったらなあ」というようなことを中学・高校時代くらいは、よく考えていたものです。
 「背」というのは、自分の努力だけではどうしようもないことですし。
 背が高いことのメリットとしては、「カッコいいし、モテる(はず!)」「バレーボールやバスケットボールなどのスポーツで有利」くらいで、考えてみたら、スポーツ選手になるつもりじゃなければ、そんなにものすごく良いことばっかりあるわけではなかったんですけどね。
 それでも、当時(いわゆる「バブル時代」は、三高(身長・収入・学歴が高い男)というのがもてはやされてもいたわけですし、背が高いっていうのは、それだけで羨ましいことだったのです。
 しかしながら、実際に背の高い友人に話を聞いてみると「大きいね〜」なんて言われるのはイヤだ、という人はけっこう多かったような気がします。いわく、「入り口で屈まないと通れす、よく頭をぶつける」とか、ここにもあるような「席に座るときに、周りに気をつかわないといけない」とか、そもそも「席が狭い」なんて問題もあるみたいです。いつも屈んでいなければならないので、猫背になりがち、なんて話もよく聞きます。
 「大きい」にせよ、「小さい」にせよ、「他人と違う」というのをいちいち他人に指摘されるのは、あまり良い気分のものではないわけで。
 「大きい」なんてのは、言われている側はコンプレックスを刺激されているにもかかわらず、言っている側は褒め言葉だと思いこんでいることがけっこう多いのだろうし。
 それでもやっぱり、多少日常生活に不自由があるとしても「背の高さ」というのには、憧れてしまいます。

 たかぎさんの目から見た「身長150cmの世界」というのは、「背が低いというのは、けっこうたいへんなのだなあ」と読んでいて感じさせられます。残念ながら世界というのは「平均的な人々」を基準につくられている場合が多いので、満員電車でオジサンたちに埋もれてしまったり、網棚に手が届かなかったり。子供扱いされてしまうこともあるみたいですし。

 ところで、男からみると「背の低い女の子」というのは、むしろ「ちっちゃくてカワイイ」という目で見る人が多いのです。
 そんなの差別だ!という向きも当然おありでしょうが、女の子が「背が高い男」を好む場合が多いのと同じように。
 それも、けっこう背が高い男性ほど、「ちっちゃい女の子」を好む傾向が強いような気がするので、お互いのコンプレックスが反映されているのかもしれません。「背があまり高くない男」からすれば、「そうかよ、みんな背が高いほうがいいって言うんなら、オレはどうすればいいんだよ!」とか思ってみたりもするみたいですが。

 まあ、僕みたいな「普通サイズ」というのも、「なんだかみんなと一緒で個性がなくてイヤだなあ」なんて考えたりもするので、結局、こういうものに「完璧」なんてありえないのかもしれませんけどね。

 でも、やっぱり「わたしゃも少し背もほしい」なあ…
 



2004年08月21日(土) ■
オリンピック中継に対する大先輩からの妙な苦言

毎日新聞の記事より。

【高視聴率を続ける五輪放送。各局は有名アナウンサーを起用しているが、元NHKの鈴木健二氏(75)が20日、後輩たちをしかった。福島県郡山市で開かれた読書フォーラムでの一幕。鈴木氏は「文意をつかまず文字だけ読んでいる」と苦言を呈した。選手の言葉にも「言葉が一律で薄っぺらい」と指摘した。】

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 オリンピック中継も、大先輩アナウンサーからみると、こんな感じなのかなあ、なんて思いました。僕はむしろ「文字すら読んでないんじゃない?」と感じる場面も多いんだけど。
 日本選手団の絶好調で前半を終わろうとしているオリンピック、日本の放送だからやむをえないにしても、日本贔屓を通り越して、アナウンサーが単に日本選手を応援しているだけ、というような中継がけっこう目立つような気がするのです。某プロ野球チームの中継と違って、視聴者もみんな日本ファンだから、あまり問題にならないのかもしれませんが。
 それにしても、柔道中継で、解説者の人が「行け!頑張れ!やったーー!!」とか叫んでいるのを耳にするたびに、気持ちはわかるけど、応援は応援席でやればいいのに、とか思ってしまうのです。それが「解説」なのか?って。
 もちろん、自分の知り合いの選手にはエールを送りたくなるんでしょうが、それにしても「試合を観ていたら、思わず声が出た」という感じではなくて、最初から確信犯的に「○○ガンバレ!」みたいな姿勢で喋るのは、アナウンサーとか解説者の役割ではないような気もします。

 日頃メジャーではない競技に関しては、オリンピックというのは競技人口を増やすいい機会ですし、「ガンバレ!」という応援演説ではなくて、その技をきめるには、どういうプロセスが必要なのか、とか、この競技の難しいポイント、差が付くところはどこなのか、というような競技そのものに興味を持てるような解説をしてもらいたいなあ、と思うのです。
 僕は弓道をやっていたのですが、アーチェリーで銀メダルを獲った山本選手の決勝をテレビで観ながら、あの照準を決める機械の存在意義だとか、ああやって的の中心を射続けることがいかに難しいか、少し狙いがブレただけで、どれだけ的の中心から外れるのか、そういうことについて(マイナー競技だから、中継時間そのものが短い、という制約があるにせよ)、こういう機会に解説してくれればいいのになあ、と感じました。
 せっかくの世界最高レベルの競争が「当たった、外れた」「勝った、負けた」だけで語られてしまうのは、ちょっと寂しくもあるんですよね。
 景気づけには、「応援放送」も必要なのでしょうし、煽りマイクが視聴者のニーズなのかもしれませんが、もう少しトーンを抑えて、試合の内容を忠実に実況することを考えてもいいのではないかなあ。人を感動させるのは、「ゴーーーーーーール」とかいう狙いすました言葉ではなくて、選手たちの技術と精神力によって生み出されたゴールシーン、そのものなのだから。

 あの「前畑がんばれ!」という実況が有名になったのは、あれを喋っていたアナウンサーが、「公正な中継をやらなくてはならない決まりなのに、デッドヒートにわれを忘れて『がんばれ!』という言葉が口をついて出てしまったから、なのです。
 始末書の心配も覚悟もなく、ただ「応援してるだけ中継」って、やっぱりプロの仕事としては疑問が残ります。
 アナウンサーたちも個人個人としては、みんな一生懸命やっている、とは思うのだけれど。

 あと、「選手の言葉が薄っぺらい」なんてのは、余計なお世話です。
 彼らは、「気の利いたことを喋る」よりもはるかに説得力のある方法で、もう表現しているんだからさ。



2004年08月19日(木) ■
「顔のないホームページ」と「情報公開幻想」

京都新聞の記事より。

【京滋など全国の小学校のインターネットホームページ(HP)から児童の「顔」が次々と消えている。個人が特定できないよう写真にモザイクを施したり、顔が出ていないか各校の更新を逐一チェックする教委も。教委や校長は、個人情報保護や児童の安全確保の観点から必要とするが、現場の教員らからは「学校の主役である児童を登場させられないなんて」と戸惑いの声も聞かれる。
 京都市立の178小学校はいずれもHPを公開しているが、明確に顔を判別できるケースはゼロ。遠景写真や後ろ姿の撮影で顔を見えにくくしたり、画像サイズを小さくするほか、写真全体をぼかしたり、アップの顔にモザイクをかけている学校もある。
 同市教委の情報化推進総合センターは、写真を安易に掲載しない−などとした「HP作成・活用ガイドライン」を1998年に策定。昨年10月には「アングルの工夫や加工により個人が特定できないものにする」などとさらに厳格化した。
 同センターは担当職員を置き、各校がページを更新する際に内容をすべてチェック。改善指導にも及んでいる。
 こういった措置について、京都市内のある校長は「個人情報保護に加え、児童が犯罪に巻き込まれないためには当然」とみる。一方、別の学校の情報担当教員は「神経質になりすぎでは。生き生きした子どもの写真を使ってこそ、情報発信になる」と困惑する。
 ■森毅京都大名誉教授の話
 開かれた学校づくりと個人情報の保護はもともと矛盾した命題で、それを教委などが一律に規制するのは事なかれ主義。モザイクなどの処理は、受け手にかえって悪いイメージを持たれ、良くない。】

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 【開かれた学校づくりと個人情報の保護はもともと矛盾した命題】と森先生はおっしゃっていますが、まさにその通りだと思います。個人サイトでも、あまりに個人情報を公開するのをおそれるあまり、抽象的になりすぎてどんな人が書いているのかわからないと親しみがわきにくいですし、その一方で、「読む人が読んだら一発でわかりそうなのに、こんなこと書いても大丈夫?」と感じてしまうような場合もありますし。
 まあ、こういう学校サイトの場合は、写真にうつっている人たちは、本人たちに自覚のないまま無防備にさらされている、というのが問題なわけですけど。
 「覚悟の上」であれば、実名でも顔写真でも何でも晒して構わないわけですし、有名人のサイトなどは、情報公開のメリットのほうを優先しているわけです。

 しかし、この「顔写真はモザイク」の学校のホームページって、なんだか異様ではありますよね。悪いことでもやっているみたいで。
 確かに、過去には「ホームページで写真を見て可愛いと思ったので」なんていうトンデモナイ理由でストーカー行為に及んだ人の話もありますので、まったく的外れな防御策でもないのですが、だからといって、ここまで神経質になるのが正しいのかどうか。
 いっそのこと、会員制にしてしまうか、ホームページの公開そのものを止めてしまえばいいのでは?という気もするんですけどね。
 
 そういえば、前に勤めていた病院では「情報公開の一環として、スタッフの顔写真入りのプロフィールをホームページに公開する」という方向で話が進んでいたのです。でも、その途中で、「顔出し」はリスクが高いのではないか?という反論が出て、結局、その話はお流れになりました。僕としては「カッコ悪いから、世間に顔出ししなくてすんで助かった…」というのが本音だったのですが、スタッフの中には「医者だとわかると、子供が狙われたり、妙な勧誘とかが多くなるかもしれない」という反応もあったのです。
 おそらく、大多数の患者さんからすれば「顔写真でもあったほうが、親しみを感じる」のではないかとは思うのですが。

 とはいえ、正直なところ、情報を発信する側の大多数にとっては「情報公開のメリット」というのは、ほとんどないのです。小学校の生徒たちにしても、患者さんが多少増えても給料には関係なく、セキュリティ上の不安ばかりが増す医者たちにしても、「自分にメリットのない顔出し」なんていうのは、極力辞退したいものでしょう。それによって多くの患者さんに来ていただいたり、来院する人たちに安心感を与えようということなら話は別ですが、それでもリスクのほうが目についてしまうのが現実で。
 ましてや「世間に開かれた学校をアピールする」なんてことは、子供たちが望んでいることではなく、むしろオトナの事情なわけですから。

 いっそのこと「不必要な情報公開そのものを止める」という選択肢も、ときにはあってよいのではないかと思うのです。
 「モザイクに興奮する」なんて趣味の人だって、いないとは限らないんだし。
 



2004年08月18日(水) ■
「オリンピックは、消したい記憶でした」

毎日新聞のコラム「学校と私」の8月18日、バルセロナ五輪平泳ぎ200mの金メダリスト岩崎恭子さんの回より。

【金メダル後は、学校で私のものが次々になくなったんですよ。防災ずきんまで。家の周りでは見知らぬ人に追いかけられました。「普通でいたい」と思うようになったこともあり、その後2年間ほど自分がどうしていたかほとんど覚えていません。オリンピックは消したい記憶でした。
 オリンピックをもう一度目指すようになったきっかけは、高1で参加した次世代育成の遠征でした。同世代の選手たちと練習しながら「泳ぐのって楽しいな」と素直に感じられました。アトランタでも周りから期待されましたが、バルセロナ(自己記録を約4秒更新)のようなことがないことは自分ではわかっていました。それでも「連れて行ってもらった」バルセロナに対し、「行きたくて行った」アトランタは大きな満足感がありました。大学の途中で選手を辞めましたが、水泳部の監督がその時言った「やれることをやりなさい」という言葉が今につながっています。
 最近は学校のプール開きなどに招かれることも多いのですが、「競争はダメ」という風潮が気になります。大事なのは負けて悔しがって努力することや、やってできない時に自分にできることを見つけていく過程です。教育の場でそういった機会を奪うことは、子供の可能性を摘むことにならないかなと心配です。】

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 アテネオリンピックが開催されている最中ということもあり、最近テレビで岩崎さんを目にする機会が非常に多いのです。僕は岩崎さんが14歳で日本の史上最年少の金メダリストになったシーンは記憶にあったのですが、その後の半生(というには、現在まだ26歳というのは若すぎるけど)については、この記事を目にするまでほとんど知りませんでした。
 アトランタオリンピックに出場されていたことも、そうだったっけ?という感じで。
 しかしながら、あの「今まで生きてきたなかで、いちばん幸せ!」とインタビューに答えていた「お人形さんのような女の子」が生きてきたこの12年間は、けっして平坦な道のりではなかったみたいです。
 プールを離れれば「14歳の普通の女の子・岩崎恭子」なのに、【自分のものが次々となくなったり、見知らぬ人に追いかけられたり】というような状況になってしまえば、それはもう、平静でいられるわけもなく。

 岩崎さんが「アトランタオリンピックで感じた充実感」には、「一度金メダルを獲っているから、そんなふうに思えるんだ」という面もあるのだとは思います。結果を出せない人間は「参加することに意義がある」と簡単には悟れないでしょう。
 今回のオリンピックでも柔道の代表選手の「勝った人」と「負けた人」それぞれの選手たちの様子とメディアの扱いを観ていてもそう感じますし。

 それでも、「オリンピックで金メダルを獲っても、人生はそれで終わりではないのだなあ」と、この記事を読んで、つくづく考えさせられました。
 岩崎恭子という人は、一度金メダルを獲ってしまったばっかりに、それからの人生で、「やれないことをやらされてきた」のだろうな、って。

 最後の「競争」についての言葉も「彼女は勝ち組だから」と言ってしまえばそれまでです。しかし、彼女は「負けによって学ぶこと」の大事さをここで語っています。確かに北島康介選手も、谷亮子選手も、「生まれてから一度も負けたことがない」わけじゃないんですよね。そして、「勝ち負け」を競うオリンピックにここまでみんなが熱狂していて、「勝ち負けなんて教育上良くないから、順番決めるのなんかやめようよ」なんていう人はほとんどいないのがオトナの、そして世界の現実。
 「競争のないところに向上はない」のは、歴史が証明しているわけですから。

 とはいえ、僕もマラソン大会とかで「勝負」するよりは、みんな一緒にダラダラ走ったほうがラクだよなあ、とは思うんですけどね。
 自分が得意じゃないところで競争するのが苦痛であることは、やっぱりまちがいない!



2004年08月17日(火) ■
カーテンコールの拍手が聞こえないように

「三谷幸喜のありふれた生活3〜大河な日々」(三谷幸喜著・朝日新聞社)より。

【千秋楽のカーテンコール。僕はステージには上がらなかった。舞台上でお客さんの拍手を浴びるのは、実は悪いものではない。そこに至るまでに経験した幾多の苦労が、充実感へと昇華する瞬間である。
 しかし最近思うのだ。僕は誰のために芝居を作っているのだろう。すべての人を笑わせるコメディーなんて作りようがない。だから、僕は稽古場では、お客さんのことを念頭には置かない。自分がまず面白いと思うものを作ろうと考える。それから、その作品に関わったスタッフとキャストが喜んでくれるものをと考える。観客のことを考えるのは三番目だ。そんな僕にお客さんの拍手を浴びる資格はないのではないか。
 去年(二〇〇二年)、自分の作品の千秋楽が二本重なったとき、僕は両方のカーテンコールに出た。どちらの拍手も温かかった。でもその時、気づいたことがあった。この拍手は諸刃の剣なのだ。幸い今は、自分が面白いと思うものと、お客さんがそう感じるものが、あまり離れてはいない。しかしこの蜜月がいつまで続くというのか。笑いに関する僕の感性とお客さんの感性にずれが生じてきた時、千秋楽の幕が下りて客席から聞こえてくる拍手の音が、力のない儀礼に変わる。それを聞いてきっと僕は平静でいられなくなるに違いない。もっと大きな拍手が欲しいと思った時、僕は僕が本当に作りたいものが作れなくなる。だからそれを最後に僕はカーテンコールに出るのをやめることに決めたのだ。】

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 僕は当然「拍手する側」なのですが、がんばって作り上げてきた舞台の上で、万雷の拍手のなかで喜んでいる観客の顔を見るのは、ものすごく幸せな体験だろうな、ということは想像できます。表現する側にとって、あれはまさに「至福のとき」なのではないかな、と。
 でも、三谷さんは、それを自らシャットアウトする道を選んでしまたのです。
 【幸い今は、自分が面白いと思うものと、お客さんがそう感じるものが、あまり離れてはいない】もちろん、三谷さんは三谷さんなりに、「自分が面白い物をお客さんにうまく伝えるための努力」は、されてきたのだと思います。それでも、ある種の「運」というか「時流」みたいなものがないと、表現者というのは世間に受け入れられるのは難しいのでしょう。
 そして、三谷さんも「観客に拍手をもらうために、自分を見失ってしまった表現者」をたくさん知っているのではないかなあ。
 もちろん、「観客の求めるものを提供してみせるのがプロだ」という考え方もあるのでしょうし、そういう意味では、三谷さんは「プロ意識に欠ける」のかもしれません。そして、本当に意志が強い人間なら、「観客の拍手に熱意がなくなっても、そんなものに影響されずに自分の作りたいものを作る」ことだってできるはずです。

 まあ、僕のようなしがないサイト管理人ですら、「たくさんの人に読まれたい」「反応が欲しい」なんて思うと、ついつい「みんなが知っているような芸能ネタ」とか「下ネタ」を書きたい衝動に駆られますし、実際にときどきは書いてしまうくらいなのですから、三谷さんクラスの反響の大きな作家となると、「影響されないためには、なるべくリアクションを遮断するようにする」しかないのかもしれません。また、そういう三谷さんが自覚している「人間というものの弱さ」みたいなものが反映されているのが、三谷作品の魅力でもあるのでしょうし。

 その一方で、「リアクションを遮断する」という行為は、「ひとりよがり」の危険性を孕んでいることも事実なので、そういうバランス感覚は、とても難しいことなのでしょうけど。



2004年08月15日(日) ■
「オリンピックに出る」という生き方

「シドニー!(1)コアラ純情篇」(「村上春樹著・文春文庫)より。

(シドニーオリンピックの男子マラソンに出場した、犬伏孝行選手へのインタビュー記事より。)

【高校に進んで陸上競技を志したときから、犬伏はすでにオリンピックに出場することを人生の目標に据えていた。オリンピック・ゲーム、それが彼の野心の軸になった。そのためにも彼はサッカーをやめて、陸上競技をとった。その方が早く目標に到達できそうだったからだ。
「種目はべつになんでもよかったんです。でもとにかくオリンピックに出ようとは思っていました」、二人で並んでジョグしながら、彼は僕にそう言った。とにかくオリンピックに出ようとは思っていました。
「それは、フルマラソンじゃなくても?」
「何でもよかったんです」と彼は言った。ごく当然のことのように。】

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「オリンピック」の魔力。
「政治とスポーツとは無縁だ」という唱えながら、限りなく政治的で、無名の選手が一夜にして英雄となる一方で、それまでに積み上げた数々の栄光を「でも、オリンピックで金メダルを獲れなかった」というひとつの挫折で無にしてしまう、4年に1度のスポーツの祭典。
 僕は、昔から自分の運動能力に全く自信の無い人間でしたから、オリンピックに自分が出場するなんて、現実問題として意識したことはありませんでした。もちろん、そういう「妄想」を抱いたことも皆無だ、とまでは言いませんが。
 しかしながら、その一方で、「オリンピックに出場する人々」に対して、必ずしも好意的ならざる想い(それは、「嫉妬」でもあったのでしょう)も持っていました。
 「野球やサッカーみたいな、『プロとして稼げる』競技ならともかく、射撃とか馬術のような(柔道くらいまであてはまるかもしれません)、『4年に1度しかチャンスのないオリンピックでメダルでも獲らない限り、世間から気に留められることもなく、しかもその『注目』もごく一瞬の光芒でしかないようなスポーツに一生を捧げるなんて愚かなことだ。しかも、その人生のピークは早ければ20歳くらい、晩成の選手でも30代。まだまだ、そのあとで何十年も生きていかなければならないのに」
 もちろん、テレビ画面の向こうの選手たちに対する応援の気持ちはあったのですが、その一方で、そういう「苦労の割には報われることの少ない(と思えた)、オリンピック人生」への懐疑も強かったのです。

 でも、自分が「ただの人」として30代を迎えてみると、「オリンピックに賭けた人生」というのは、なんだかとても美しく、意義深いものに感じてしまうのです。それが人気競技ではなく、「4年に1度の光芒」でしかないとしても。
 アテネオリンピックに出場する選手は、312人(男子141人、女子171人)と海外でのオリンピックでは過去最多なのだそうです。
 それでも、日本国民全員の中で約40万分の1で、この割合には、明らかに「オリンピック参加対象年齢」から外れる小さい子供や高齢者を含むとしても、「選ばれた人々」しか、その舞台には立てません。

 大部分の人間は、舞台に上がることもなく、一瞬のスポットライトにも縁遠い人生を送っています。それは良いとか悪いとかいうことではなくて、単なる現実で、多くの人はそのかわりに「大きな挫折も失敗もない、安定した生活」を得ています。
 しかしながら、「一瞬だけでも、スポットライトがあたる人生」が、4年間のうちのこの時期だけは、とくに羨ましく感じられるのも事実。

 たぶん、自分がこの年になって、彼らが「失ってきたもの」「捨ててきたもの」の大きさ、重さを実感できるようになったからこそ、今の僕には、選手たちの「一瞬の光芒」が、より眩しく思えるのでしょうね。



2004年08月13日(金) ■
”偶然”など存在しない世界

「月下の棋士・文庫版」(能條純一著・小学館文庫)より。

【「それじゃ…滝川君!!キミは、あのポカを…ぼくの実力とでも言うのか!?」
「そこまでは言ってません……しかし…」
「しかし!?」
「将棋においてのミスは、必然性があってのこと……あなたが”武者小路和清”である限り……今日、あの時間にあのミスを、必ず私の前で犯していた……」
「滝川君!!何が言いたいのだ!?きみだってぼくの実力をわかっているだろ!!偶然だよ、偶然!!あの一手は、魔が差しただけなんだ!!」
「将棋界に”偶然”など存在しない……」
「な、何が……存在する!?」
「宿命なら……ある。」】

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 ライバルであったこの二人ですが、「宿命なら……ある。」と言ったほうの滝川は、この6年後に棋士の頂点である名人位に就くのです。
 
 人間生きていればやっぱり「人生の後悔ポイント」のひとつやふたつはあるものだと思いますし、「もしあのときに戻れたらなあ…」なんて回想する場面を全然持たない人間は、多分少数派だと思います。
 世の中には、「選択肢の数だけ、その人の未来は枝分かれしていて、それぞれパラレル・ワールドがある」という考え方もありますし、マンガ「ドラえもん」のひみつ道具人気ランキングで、自分の想像上の仮想の世界を実現できる「もしもボックス」というのが常に上位にランクインするのも、そういう「自分が選べなかった選択肢」に対する憧れに起因するものだと思います。

 でも、その一方で、僕は今までの人生において、「その時点における自分にとってのベストチョイス」をやってきたような気がするのです。
 残念なことに、それらはすべてベストな結果をもたらしてくれたわけではないのですが(それどころか、ワーストの結果さえしばしばもたらしています)、もしその瞬間に戻れたとしても、僕は結局同じことをして、同じ人生を歩んできたのではないでしょうか。
 もちろん、結末を知っている現在の僕が、このまま当時の僕と入れ替われるなら話は別ですが、おそらく「未来の自分がアドバイスしに来た」という程度では、やっぱりその選択の大部分は、「そんなの嘘に決まってる!」ということで、当時の自分が選んだものと同じになると予測されます。
 
 「魔が差す」ことだって確かにあるでしょうし、野球で言う「ブルペンエース」みたいに、「実力はあるはずなのに、試合で発揮できないタイプ」という人は確かに存在するみたいです。
 ただ、そういうのは「試合で実力を出せない」のではなくて、「試合で結果を出せないというのが実力」であるとも考えられます。
 ほんとうの「実力」がある人たちは、もちろん結果を残しているから、そういうふうに評価されているわけですし。

 もっとも、僕も「ブルペンエース系」の人間なので、こういう話は本当に気分が暗くなるんですけどね。
 それでも、いや、だからこそ「魔が差す」ことがなるべく少なくなるように、気をつけていきたいとも思うのです。
 よく考えてみたら、この「魔が差す」ほど意味不明で理不尽な「理由」ってないような気がしますし。

 「人類は進歩している」のか「人類は同じことをただ繰り返している」のか?
 そして、僕が僕である限り、過去も未来も変えることはできないのではないか?

 とりあえず、何が起こっても「魔が差した」なんて他人に言い訳をするのは止めて、これから生きていきたいものです。



2004年08月12日(木) ■
失望のローレライ

「鳥頭紀行〜くりくり編」(西原理恵子・ゲッツ板谷・鴨志田穣、角川文庫)より。

(「ドイツロマンチック街道・団体ツアー」に参加した西原さんたち一行が、有名な「ローレライの岩」を船で通ったときのエピソード)

【おお おお おお…
 ローレライの岩にさしかかったとたん、船内500人の世界の老人観光客が反町。
 みんな泣いてました。

「シンガポールのマーライオンより」
「ベルギーのしょんべん小僧より」
「サッポロの時計台より」
「コペンハーゲンの人魚姫より」
「おとうさんうちの近所のお寺さんのほうがなんぼええか」
「ワシはフマンジュウの方がええな」
「高知県のはりまや橋とはタメかも」

 ただ山がめくれて地びたが見えてるだけのローレライ岩。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ああ、わざわざドイツまで行って船にまで乗って、こんな「脱力系観光スポット」にヒットしてしまうなんて…と思いつつも笑ってしまいました。
 本当に「名所」と呼ばれるところが、必ずしもすべて「誰が観ても面白い」というものではないことは確かで、むしろ、こういう「脱力系」のほうが多いような気もするくらいです。
 ちなみに「ローレライ伝説」というのは、【ローレライが歌を歌って、船を迷わせて沈めてしまうという、ライン川を通る船の事故があまりにも多いために生まれた伝説】なのですが、なんでも、このローレライ岩の付近は川が急カーブしていてあまりに危険なので、数度にわたって河岸を爆破しているため、現在観られる風景は、伝説が生まれた時代のものとはだいぶ様相が異なっているらしいですけど。
 そして、この「ローレライ岩」は、「世界三大ガッカリスポット」と一部で言われているとかいないとか。
 確かに、わざわざライン川を下ってきて「山がめくれて地肌が見えるだけ」では、ガッカリもしそうな感じです。
 あとふたつは、確か、ベルギーの小便小僧と何かもうひとつだったような…
 ちなみに、僕の知る範囲での日本の「三大ガッカリ観光スポット」は、この文章内にも出てくる「札幌の時計台」(イメージよりも小さいし、5分観ていれば飽きる)、「高知のはりまや橋」(行ったとき、「えっ?これ、っていうか、どこが橋?って感じでした)、長崎のオランダ坂(単なる石畳の短い坂以外の何物でもない)です。次点としては「中途半端に広い砂場」という感じだった「鳥取砂丘」でしょうか。鳥取砂丘の場合は、交通の便が悪いだけに、「ガッカリ度」が倍増してしまったような気もします。
 まあ、「人は美味いものを食べると沈黙するしかないが、不味いものには雄弁になる」という言葉もありますから、話の種としては「ガッカリ観光スポット」というのは、なかなか悪くないんですけどね。
 むしろ、楽しそうに「ガッカリしたよ!」なんてコメントする人は多いですし。
 …などと、気を悪くされたかもしれない関係各位のために、フォローしてみたり。

 ガッカリできるのも、実際に自分の目で見た人間の特権ですから。



2004年08月11日(水) ■
「なぜ日本で私小説がしぶとく生きつづけるかわかる?」

「文藝春秋・2004年9月号」の塩野七生さんのコラム「日本人へ・十六〜プロとアマのちがいについて」より。

(音楽の分野で「絶対音感」という音に対する絶対的な感覚が重要ならば、その他の分野でも、そのような絶対感覚がモノを言うのではないか、という前置きのあとで)

【そのようなことを考えていた時期に、ジョルジュ・アルマーニと話す機会があった。私はこのイタリアのデザイナーが、われわれならばグレイで一括してしまうところを、種々様々な多くのグレイに色分けしたのにはまず感心した。グレイにもこんなに多くの色があるとは知らなかったからである。だがもっと感心したのは、色分けしたグレイを、これとこれ、あれにはあれ、という具合に合わせて見せてくれたときだった。この人には絶対色彩感覚がある、と思ったのだ。

 ならば、私の棲む出版の世界ではどうだろう。処女作当時の担当編集者が、こう言ったのが忘れられない。
「なぜ日本で私小説がしぶとく生きつづけるかわかる?縁側に立って庭の梅の樹を眺めている著者の心境なんて、ほんとうのところは彼以外の人にはわからないことなんだ。それなのに、関係ないはずの他人までが読む。しかも読んだ後で、他人事ではないのだと思うようになる。文章が上手いからなんだ。そして日本では今だに、文章の巧者は私小説の作家に多い」
 しかし、私は私小説を書いているのではなかった。その私に彼が教えようとしたのは、私的な心情を表現するのに適した文章があるならば、戦争や政治を叙述するのにもそれに適した文章があるはずだ、だからそれを見つけ、文学的でないと批判されようともかまわずにそれで書け、ということであった。つまり、出版の世界での勝負を決めるのは文章に対する感覚の冴えであり、言い換えれば、書く対象に適した文体をモノにできるか否かにかかっている、ということだろう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 塩野さんは、1937年生まれで、1969年に「ルネサンスの女たち」でデビューされています。ですから、この担当編集者の言葉は、いまから35年前くらいに塩野さんに向けられたもの、ということになりますね。
 
 僕はこの文章を読んでいて、故黒澤明監督のあるエピソードを思い出しました。
 黒澤監督は、映画のあまり重要ではなさそうな1シーンを「これではダメだ」と何度も何度も撮り直しをさせることがあったそうです。そして、ようやく監督がOKを出した映像を「ダメ」と言われたものを比べてみても、周りの人たちは「どこが変わったのか全然わからない」ということがときどきみられたのだとか。
 たぶん、黒澤監督にも「絶対映画感」みたいなものがあって、それは常人には判別できないけれど、確かに映画の完成度に影響を与えるものだったのでしょう。

 現代は35年前よりは小説のジャンルは広がりをみせているのではないかな、とは思うのですが、「他人にインパクトを与える文章」というのが、必ずしも「文学的」であることばかりにこだわりすぎしまっている、虚飾だらけのものではない、という点においては、今も昔も変わらないような気がします。
 僕もこの年になってようやく少しわかってきたのですが、大人にとって「心を動かされる文章」というのは、「自分の記憶のなかから『共通体験』あるいは『共感』を引き出せるものなのではないでしょうか。
 恋愛小説を読んだり、映画を観て「共感」できるのは、おそらく、その内容が自分の実生活・あるいは想像の世界における「経験」とシンクロするからです。
 例えば、自分の大事な人を失った実体験のない小学生は、そういう「喪失体験」について書かれた小説を受け止めにくいように。
 年をとると涙もろくなったり、感情の抑制が効きにくくなるのは、そういう「感応する実体験」が増えているからかもしれません。

 僕は、こうして文章を書くときに、つい「巧い!」と他人に褒められるような凝った文章を書きたいと意識してしまいます。でも、実際には凝った比喩や長ったらしい言い回しに感心しているのは本人だけ、という状況は珍しいものではありません。
 ここで塩野さんが書かれている「巧い文章」というのは、あくまでも「伝えたい内容に向いている文章」であって、「読み手を意識して、満足させるのがプロ」ということなのでしょう。もちろん、それは「さまざまな表現方法」を否定するものではなくて、「巧い文章」というのは、「目的」ではなく「手段」でしかないのです。
 
 そういえば、僕は以前、スポーツライターの草分け的存在である山際淳二さんのデビュー作「江夏の21球」をはじめて読んだとき、「なんて簡潔で突き放したというか、客観的な文章なんだろう」と感じ、この作品を「スポーツライティングの金字塔」を、どうしてみんなこんなに評価するんだろうか?と思ったことがありました。
 でも、今は山際さんの「巧さ」がわかるような気がします。
 あれは、「場面を客観的に伝えることによって、かえって、そこに潜んでいる感情を浮き彫りにしているのだな」と。
 もし山際さんが「自分の文章の巧さ」をアピールしよう冗長な説明を書いていれば、かえって「事実の重み」は失われていたでしょう。

 「自分が満足する文章」よりも「読む側に伝わる文章」のほうが、「本当に巧い文章」なんです、きっと。
 そんなふうに意識しなくても自然に「伝わる文章」が書けるのが「絶対文章感」の持ち主なのかもしれませんけど。
 



2004年08月10日(火) ■
「安全なサイト」と「危険なサイト」との境界線

毎日新聞の記事より。

【小学館発行の児童向け月刊誌「小学六年生」の最新号(9月号)の特集記事に、出会い系サイトなどにつながるサイトが掲載されていることが分かった。同社は謝罪広告を載せるとかえって子供がつないでしまう可能性があるとして、次号に電子メールに絡んで最近発生した事件などインターネットの危険性を知らせる特集記事を掲載する。
 問題の記事は巻頭の特集記事「メール&レター達人道」で、電子メールや手紙を書く際に役立つ情報をまとめたもの。その中で絵文字や着信メロディーを紹介した六つのサイトのうち三つの画面上にある広告を選ぶと、18歳以上かどうかを問う画面などを経て、メル友を募集する出会い系サイトやエステを紹介するサイトに行き着くという。
 特集記事の中では問題のある広告部分を塗りつぶした画面の写真を掲載したが、3日の発売直後に9月号を購入した保護者が実際にホームページを開いて気づき、同社に連絡してきた。同誌は発行部数6万4000部という。
 同誌の赤星一朗編集長は「広告があることは分かっていたが実際にどんなサイトにつながるかまでは調べなかった。認識が甘く反省している」と謝罪している。】

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 「小学六年生」って、発行部数6万4000部なんですね。これは「けっこう売れている」と考えるべきなのでしょうか?
 まあ、その学年限定の雑誌としては、僕の時代からある「老舗」ですが、正直なところ、僕は自分が小6のときは、この説教臭い雑誌は「卒業」してしまっていたような記憶があります。「こんな子供っぽい雑誌、読んでられねーよ」って。
 今から考えたら、当時の僕は見まごうことなき「子供」だったわけですが、逆に子供というのは「大人のイメージする子供像」みたいなものに、ものすごく抵抗感があるものだと思います。
 「学習雑誌」なんて言われていた「小学○年生」より、「PTAの敵」であり、「子供には見せられない残酷なマンガ」であった「週刊少年ジャンプ」を当時の僕たちは、少し背伸びをして読んでいたものです。

 それにしても、この記事から伺える「インターネットへの危機感」みたいなものには、ある種偏執的なイメージすらあるのです。
 こうして自分のサイトを持って、ネットに接している僕からすれば、この世に存在するサイトのなかで、「アダルトサイトとの接点を全く持たないサイト」というのは、意外と少ない気がするから。

 無料スペースでの個人サイトには、そういうアダルト系のポップアップ広告が出るところはたくさんありますし、テキストの中にも「性的描写」を含むものは本当に星の数ほどあるのです。そもそも”Yahoo”とか”ビッグローブ”などのポータルサイトの中にも、トップページからお薦めのアダルトコンテンツに直結しているところはたくさんありますし、「雑誌で小学生に直接アダルトサイトを紹介」するのはあんまりだとしても、「そのサイトのリンク先にアダルト・出会い系サイト」というレベルでここまで「不祥事」になってしまうのは、あまりに「インターネットの現状」に対して無知かつ狭量すぎるのではないかなあ、という気もするのです。

 たぶんこれで、「雑誌上でサイトを紹介する」という記事は、ごく一部の「安全なサイト」を除いては、載せられなくなるのではないでしょうか?
 それ以前に、「100%安全なサイト」というのが存在するのかどうかは、非常に疑わしいところです。
 どんな「真面目なサイト」でも、リンクを辿っていけば、どこかでアダルトサイトに繋がっていることもあるでしょうし、逆に「どこにも繋がっていない、孤立したサイト」では、ネット上での存在意義が乏しいのではないかと感じてしまうのです。
 そして、そうやって、「危険なサイトへの接点」を奪おうとしても、ネットの世界では、いくらでも「危険なサイトへの扉」は開かれているのです。「隠す」よりも「正しい知識を持たせる」ことのほうが、長い目でみればはるかに有益なはずなのに。
 そういう意味では、「インターネットの危険を知らせる」というのは、正しい判断だと思います。内容が面白くないと、すぐ飽きそうだけど。

 実際には、子供たちはネット上の掲示板などで、その「噂のサイト」の情報をやりとりして、「なーんだ、全然たいしたことないなあ」なんて言い合っているんじゃないかな、と僕は予測しているんですけどね。

 一般的に、子供は大人が思うほど子供じゃない。
裏を返せば、大人だって子供が思うほど大人じゃないわけですが。
 



2004年08月03日(火) ■
375分の5の「人食い鮫」

「シドニー!(1)コアラ純情篇」(「村上春樹著・文春文庫)より。

(村上さんが、オーストラリアのシドニー水族館で考えたこと)

【鮫もうようよといる。全長三メートルもある「グレイナース・シャーク」がガラス張りの回廊のまわりをゆうゆうと遊泳している。見かけはジョーズそのままでおっかないんだけど、実はこの鮫は人を襲わない。しかし見かけの恐ろしさの故に、オーストラリアではつい最近まで危険だと信じられていた。
 オーストラリアではグレイナースを殺すと、巨額の罰金が科せられる。しかしこんな怖い外見の鮫が網にかかったら、殺したくなるのが人情だろう。オーストラリアで交通事故で死ぬ人は年間5千人だけど、鮫に襲われて死ぬ人は平均して約一人。一般に知られている三百七十五種類の鮫のうちで、人を襲うのはたった五種類だけ。だからそんなに怖がることはないんだよ、と言われても、泳いでいる最中に巨大な鮫に近寄ってこられて、「大丈夫、こいつはその五種類に入ってないもの」とか、きちんと見分けられるような冷静な精神を持った人は世の中にそれほどいないはずだ。むしろ普通の人は恐怖のあまり心臓発作を起こすだろう。
 鮫は一般的に信じられているほど食欲旺盛ではない。二日に一度餌を与えるだけでじゅうぶんだ。だからシドニー水族館では、それぞれの鮫がちゃんとご飯を食べていることを確認するために、ダイバーは毎回手から直接魚を食べさせている。】

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 つまり、「ダイバーがきちんと確認しておかないと、放っておいたら餌を食いはぐれるくらい、鮫というのは「食に無頓着な生き物」であるということなんでしょうね。
 しかしながら、僕ももし海で鮫に会ったら、たぶんパニックに陥りまくると思います。あのザラザラした肌の感じとか、鋭角なフォルム、感情の無い眼、鮫というのは、基本的に人間にとって、理解しかねる生き物のような気がします。
 実際のところ、僕は鮫に親しく接したことはありませんから、「本当に彼らが凶暴なのかどうか?」なんてことは体験したこともなく(体験したくもありませんけど…)、彼らに対するイメージは映画「ジョーズ」などによるものが大きいのです。鮫たちにとっては、スピルバーグ監督は「天敵」といえるかもしれません。
 
 この村上さんの文章を読むと「鮫より車のほうがはるかに怖いよなあ」なんて僕も思うのですが、でも、実際問題として、僕の中の「鮫差別」が解消されるかというと、やっぱりそんなこともなさそうです。
 375分の5の確率であっても、見分けようとしている間にガブッとやられてはかなわないですし。

 結局、どんなにこうやって「知識」を仕入れても、僕の中での「鮫」は、「積極的には関わりたくない生き物」であることはまちがいないし、「見かけが怖い」とか「怖そうなイメージを持たれている」というのは、なかなか一筋縄では解消できないものだよなあ、なんて思います。
 一度「差別」されるようになってしまうと、その状態から抜け出すのって難しいですよねえ。

 鮫の立場としては、人間に芸とかさせられているイルカを見て、「俺たちはヘンに愛されなくて良かった…」なんて内心喜んでいるのかもしれませんけど。
 



2004年08月02日(月) ■
「アップルを創った、伝説の男」と「リンゴの理由」

「思わず話したくなる 社名&商品名の謎」(田中ひろみ著・日本文芸社)より。

(「アップルコンピューター」の社名の由来について)

【果物の、リンゴのマークでおなじみのコンピュータメーカーである『アップルコンピュータ�蝓戞�リンゴとコンピュータとは何の関係もなさそうに思えるが、なぜリンゴなのだろう?
 それは、リンゴは「フレッシュで斬新な感じがするので革新的な会社のイメージに合う」ということで、「アップル」にしたのだそうだ。また、創業者の一人であるスティーブ・ジョブスさんがリンゴ好きで、ビートルズのファンだったという説もある。
 また、マークのリンゴが七色ではなく六色なのはなぜかというと、アメリカでは「虹」といえば六色だからだそうだ。
 では「なぜ虹なのか?」というと、虹は「美しく色彩も生き生きしている」ということで、現在のデザインになったようだ。
 そして最後の疑問は、マークのリンゴにかじった跡があるが、どうしてなのか?
 これは「かじる」を英語では「bite(バイト)」というので、情報量を表す単位の「byte(バイト)」とかけているのだ。
 ちなみに同社の製品名の「マッキントッシュ」とは、カナダ産の姫リンゴのこと。どこまでも、リンゴにこだわった由来だ。】

参考リンク:スティーブ・ジョブス(ちえの和WEBページ・コンピュータ偉人伝)

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 スティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアクという2人の若者が、「自宅のガレージで造ったコンピュータ」だった「アップル2」は、1977年に発表され、パーソナルコンピューターの歴史を変えました。僕も小学生のころ、このアメリカのコンピューターで遊べるゲームの画面を見て、英語なんて全然わからないのに、このコンピューターが欲しくてたまらなかったものです。もし手に入っていれば、もう少し英語が得意になっていたんじゃないかな、と思うくらいに。
 おそらく、この2人の若者が、自分達の会社とコンピューターに「アップル」と名づけたのには、「わかりやすい名前にしよう」という以上の意味はなかったのではないかな、という気がします。
 「このコンピューターの名前どうする?」
 「うーん、あっ、俺リンゴ好きだから、『アップル』でいいんじゃない?覚えやすいし」
 そんな感じだったのかもしれないなあ、なんてね、

 ジョブス氏が「コンピューターの未来を信じていた」のは確かでしょうけど、自分たちがガレージで造ったコンピュータが、こんなに世界を動かすようになるなんて、夢にはみても想像もつかなかったのではないかなあ、と。
 まさに「虹を掴むような話」を実現してしまったわけで。

 「アップル」の由来というのは、僕も以前に「ジョブスがビートルズのファン(リンゴ・スターの?)だったから」という話を聞いたことがあるのですが、この本からすると、あまり「これが由来!」というハッキリしたものはないみたいですね。
 ただし、「バイト」の話とか「マッキントッシュ」の由来を考えると、一度リンゴと決めてからは、けっこうこだわっているみたいなのですが。

 今日、アップルの創始者の1人で、現在同社のCEOである、スティーブ・ジョブス氏が「すい臓がん」の手術を受けた、という記事を読みました。「手術はうまくいって、抗がん剤も放射線治療も必要ない」ということで、とりあえず一安心、ではありますが、1955年生まれのジョブス氏は、まだ50歳にもならない若さ。
 正直、僕が子供の頃から「伝説の男」だった人が、まだ50歳にもなっていないという事実には、不思議な感じすらします。
 
 それにしても、アップルはまだまだ若い会社です。【創業者の一人であるスティーブ・ジョブスさんがリンゴ好きで、ビートルズのファンだったという説もある。】なんて、本人に直接聞けばすむ話なのに!なんて僕は思ったんですけどねえ。

 つくづく、コンピューター業界は、時間の流れが早いなあ…
 なんて考えてしまいました。
 



2004年08月01日(日) ■
理科の勉強なんて、実生活では役に立たない!

西日本新聞の記事より。

【「理科の勉強は実生活では役に立たない」と感じている子どもは小学六年で四割弱、中学三年で五割強に上ることが、福岡県教育委員会の二〇〇三年度学力実態調査で明らかになった。結果を受け、県教委は「日常生活と関連づけて学習することが必要」として八月二十三日から福岡教育大で理科教師を対象とした研修を行う。

 調査は昨年十一月に中学三年約二千八百人、今年二月に小学六年約三千八百人を対象に、県教委が作成した学力テストとアンケートを実施。教科ごとに、学習内容が「生活の中で役に立つと感じることがあるか」と尋ねたところ、理科は「ない」「どちらかといえばない」との回答が小六で38・9%。算数(12・8%)、国語(22・9%)、社会(29・8%)を大きく上回った。

 さらに、同じ質問を中三にしたところ、理科は53・2%が否定的な答えで、国語(33・5%)、英語(34・3%)など主要五教科で最も高かった。学力テスト結果は、中学理科の平均正答率が53・9%と最も低く、県教委が難易度に考慮して設定した理科の「設定通過(正答)率」の62・5%を大幅に下回った。県教委は「科学の基本概念を覚えることに重点が置かれ、実生活でのかかわりを考察させることが不十分だった」と分析。

 一方、理科を「好き」「どちらかといえば好き」と答えたのは小六で72・1%、中三で69・5%と、いずれも全国平均を上回った。県教委義務教育課は「一概に“理科離れ”が進んでいるとはいえない。教師の努力次第で子どもは変わる」とし、八月二十三日から三日間、福岡教育大で小中学校の教師四十人を対象に理科の研修を行う。大学教授らが講師となり、実験データのまとめ方や教材の工夫などを指導する。】

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 「こんなこと勉強したって、大人になっても役に立たないよ」
 僕もそういう学生生活を送ってきましたし、おそらく現在でも、大部分の学生はそうなのではないでしょうか?
 そして、このアンケートで「理科」は役に立たない、と答える子どもたちの気持ちは、なんとなく理解できるような気がします。
 国語だったら「やっぱり漢字が読めたり、ある程度は正しい日本語が使えないと恥ずかしい」と思う機会はあるでしょうし(最近はワープロがこれだけ普及してきましたから、僕もすっかり漢字に弱くなってしまったのですが)、数学は「身近な金額の計算くらいはできないとみっともない」、英語は「これからの国際化社会には必要」、社会は「日本の歴史くらいは常識かな?」まあ、こんな感じなのでしょう。
 でも、理科というのは、学科そのものが「薀蓄の学問」みたいなところがありますし、確かに「何の役に立つのかよくわからない」かもしれません。というか、「具体的に役に立つ情景が思い浮かべにくい」という感じです。
 理科の先生というのは、なんとなく学究肌で世慣れていない人が多かったような記憶もありますしね。
 「危険」ということで、あまり実験もさせてもらえなくなった昨今では、さらに興味が低下してしまっているのも仕方ないかなあ、なんて思えてくるのです。

 しかし、大人になって考えてみるに、学校の授業のなかで、実生活の役に立っているのは、本当にごく一部なのです。それも、「知らないと生きていけない知識」なんていうのは、ものすごく少ない。
 あれだけ「国際社会に生きる日本人としては大事」だと学生時代にみんなが信じこんでいた英語なんて、多くの日本人にとっては「海外旅行とか外国人に道を聞かれたときにちょっと困るくらい」のものです。ちょっとかじったくらいでは、免税店で「高い!」と叫ぶオバチャンにかなわないくらいの実用性でしかないし。
 そもそも、「学校の勉強なんて、役に立たない」ものなのです。

 でも「役に立たないからこそ、面白い」というのもまた、一面の真実だとも思うんですよね。
 今の人類を支えている自然科学というのは、その「役に立たない学問」に魅せられてしまった人たちが創りあげてきたものですから。
 それでもやっぱり、勉強を「面白い」と感じられる人は少数派だし、そう感じられるようになるためには、「まず勉強して、ある程度理解すること」が要求されるのです。全然わからないと、どうしようもないわけで。

 実際のところ、「小学生や中学生に『役に立つ』と思われるようなレベルの勉強」なんていうのは、長い目でみれば、あんまり深みがないのです。本当は、その時代の勉強というのは、内容そのものよりも「勉強の仕方」のトレーニングみたいなものですし。
 
 まあ、結局あとになってから「あのとき勉強しておけばよかった…」と思うのは、いつの時代も変わらないものかもしれませんが。

 今やれば、何でもわかりそうな気がするんだよなあ…