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| 2004年12月29日(水) ■ |
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| 「バカバカしくもマジメな」節約術 |
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「トンデモ本・女の世界(下)」(と学会著・扶桑社文庫)より。
(『月14万円で夫婦2人が暮らす法』(吉田浩著)への田原総一郎さんの書評で、引用されていた「節約術」あれこれ。)
【とはいえ、夫婦二人が月14万円で暮らすというのは、現代日本の物価事情から考えると、とてつもなく困難であるということはまちがいない。なにしろ独身男でも月14万円で暮らすのは至難のワザなのだ。それを二人で、となるとその茨の道は想像を絶する。そして実際、想像を絶しているのだ。本書を彩る我が目を疑いたくなるような豪華絢爛な節約術のオンパレードは、貧しいころ誰もが一つや二つは実践したかもしれないが、おおむね見栄と外聞が災いして、捨ててしまったものばかりである。中でも印象的なものを一部あげてみよう。
1.タバコは人にめぐんでもらえ。シケモクを使って地球に優しいリサイクル。
2.飲食店では財布を忘れたふりをする。1円でも持っていれば食い逃げにはならない。
3.小銭はたびたび借りて忘れよう。借りるなら気の弱い人から借りるべし。
4.ジャンボメニューに挑戦しよう。ラーメン・カレー・餃子など「食べるとタダ」
5.雨水も用途に合わせて利用しよう。雨の日は天然シャワーを楽しむ。
6.終電がなくなったら代々木公園に行け!ホームレスと仲良くなればタダ酒も飲める。
7.家の中ではじっとしていろ。老人の生活を見習えば消費カロリーも少ない。
8.病気にだけは絶対になるな。長年の苦労が一瞬にしてパーになる。
9.子供は家で産もう。ただし、周囲の協力がある場合に限る。
10.究極のトイレ術は3回に1回流す。昔は荒縄1本でお尻を拭いていたのだ。
11.飲み会では率先して幹事になろう。苦労もあるがさまざまな特典もある。
12.お金持ちの友達を作ろう。エビダイの論理でビッグなプレゼントをもらう。
13.友達の会社の保養施設で遊ぼう。会社の福利厚生を利用してレジャーを楽しむ。
肝心なのは、こうして本書で紹介される一連の節約術が「バカバカしくもマジメな」もの、要するにユーモアの観点から発案されているということだ。したがって本書は厳密な科学データや緻密な理論から導き出された財テクといったひたすらマジメな倹約術の類似本とは縁もユカリもない。 自分(たち)の大事な何かを捨ててしまえば、頭を使わなくてもできるかもしれない、いや、できたらいいなあ、そんな選りすぐりの「バカバカしくもマジメな」節約術を実に懇切丁寧にレクチャーするところに、本書の真骨頂がある。】
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まあ、ここに挙げられている「節約法」については、「ネタだから、あんまり本気にしないでね」という感じです。確かに「節約」にはなるかもしれませんが、こんなの全部実践していたら、体も壊すし、友達もいなくなること確実ですから。 それにしても、「いきなり!黄金伝説」の「1ヵ月1万円生活」などの影響もあって、いろんな「節約術」というのが世間に溢れています。ああいう番組の内容には極端なものはあるとしても、実際に生活に取り入れている人も、けっして少なくはないのでしょう。 しかしながら、ああいう番組で取り上げられている「100グラム1円の肉」とか「1個1円のじゃがいも」なんていうのは、確かに安いのですが、僕は実際にあれを買いたいとは思いません。「安いから質に問題がある」ということは無いと思うのですが(「客寄せのための商品」ですから、それで食中毒でも出たらえらいことだし)、その「安い品物」を手に入れるために、あのオバチャンたちが密集している中に自分が入り込んで商品を手に取るだけの気合があるかと問われたら、「うーん、お金出すから、ああいう鉄火場に関わりたくないなあ」と答えます。 「お金の節約」とはいうけれど、その一方で、その「節約」のために「時間」とか「体力」を「お金の節約分」以上に削ってしまう場合も多いのではないでしょうか。逆に言えば、「お金というのは、時間とか手間を節約するために使うもの」とも言えるのだし。 「収入を増やす」ことができれば「支出を減らす」のと相対的には同じ効果がありますから、「そんな時間があるなら、バイトでもしてもっと稼げばいいのに」とも思うのですが、現実には、なかなかそんな都合のいい「稼ぐ方法」がないから、「節約術」をやるしかないのかもしれませんけどね。 ネット上に氾濫している「サイドビジネス広告」をみると、「これだけばら撒かれているというのは、運営側にはそれだけのメリットがあるんだろうなあ」とも思いますけどね。もちろん、一般の「参加者」は食い物にされるだけでしょうが。 でもなあ、確かに「見栄」っていうのが無ければ、けっこう節約できるのかもしれないな、という気もするんですよね。 節約するのが生きがいっていうのは、他人からするとちょっと寂しいけれど、実際は、スーパーで「1円でも安く!」なんて言いながらパチンコ屋で千円札をどんどん投げ込んでいる人なんてのもたくさんいるのだから、「節約」というのも一種の快楽なのかもしれません。
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| 2004年12月28日(火) ■ |
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| 僕の上を通り過ぎていった家電たち。 |
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「ITmediaニュース」より。
【三洋電機は12月27日、主婦を対象に実施した「家電意識調査」の結果を発表した。 これによると、「家で一番働き者だと思う家電は何か?」の質問では、洗濯機と答えた人が36%で一番多く、次いで冷蔵庫(23%)、電子レンジ(13%)と並んだ。 「思い出深い出来事があった家電/感動した家電」には、電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機、食器洗い乾燥機、炊飯器などが挙げられたが、どれかが突出して多いという結果にはならなかった。具体的な思い出の例としては、電子レンジの場合、それで作った料理を家族や友人が喜んでくれたことや、子供といっしょに調理したなど、主婦ならではの視点による答えが多く見られた。 「今年購入した家電と来年購入したい家電」をたずねたところ、今年購入したという割合に対して、来年購入したいという割合が大きく上回ったのは、薄型TV(今年:8%、来年:20%)、DVDレコーダー(今年:14%、来年:19%)、食器洗い乾燥機(今年:5%、来年:13%)だった。 特に食器洗い乾燥機に関しては、すでに使っている人が節水や手荒れの改善、家事負担の軽減などで良さを実感しており、「家族や友人に薦めたくなる/薦められた家電」でも第1位となっている。 同調査は、同社製品愛用者で構成される「ウフ・クラブ会員」から約500人の有効回答を得て集計した。】
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「働き者の家電」かあ… 確かに、あの洗濯機の音と振動は、「がんばってくれてるなあ…」と実感できますし、冷蔵庫も「寒いだろうに、地味な仕事を休まず続けてくれてありがとう」とか思うし、電子レンジも一瞬のうちに温かいものが食べられるようになるのだから、ほんとうに便利ですよね。でも、このアンケート結果からすると、やはり主婦層というのは、「実際に生活や家事の役に立つもの」を評価する傾向があるのかもしれません。まあ、それがなかったら、家事もだいぶ手間がかかるようになりますしね。
ところで、僕がはじめて「感動した家電」は、ビデオでした。ビデオができる(というか、家にやってくる)前までは、テレビ番組は放送されている時間にリアルタイムで観るしかなくて、しかも、一度観たらそれっきり、でした。今から考えたら不思議な話なのですが、当時はそれが当たり前のこと。何日も前から放送予定や時間をチェックしたり、テレビを観るために早く家に帰ったり、塾で観たい番組が観られないと、激しい憤りを覚えたりしていたものです。 そういうわけで、はじめて家にビデオがやってきて、マニュアルを熟読しながらニュース番組か何かを数分間くらい「録画」し、それを「再生」したときの驚きは、当時小学生だった僕には、本当に言葉にならないくらいだったのです。ビデオというのが、小さなタイムマシンみたいに感じられました。 「今やっていたテレビが、何度でも観られるなんて!」と。 それはそれで、当時はレンタルビデオもない時代でしたし、ビデオ化されているソフトも少なく、1万円以上もするという状況だったから、「録りたい番組を録り損ねたときの落胆」というのも、ものすごいものだったりしましたけど。 でも、考えてみれば、そういう一喜一憂みたいなのは、「別に録画に失敗しても死ぬわけじゃない」ですから、主婦たちの「生活がラクになった」という実感とは、ちょっと違ったものなのかもしれませんね。 それにしても、僕の周りの男たちには、「なくてもできることが、より効率よく、ラクにできるようになる家電」よりも「いままでできなかったことが、(たとえちょっとめんどくさくても)できるようになる家電」を愛する人が多いのです。
ところで、このアンケートの中には、パソコンは選択肢として含まれていなかったのでしょうか?単にランクインしなかっただけなのか、それとも、三洋電機がパソコンを製造していないから、「家電」のアンケート対象から外したのか。 ビデオだって出始めのころは、好事家が買う趣味の機械だったのだから、そろそろ、パソコンも「家電」になりつつあるような気もします。
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| 2004年12月27日(月) ■ |
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| 「スタート地点に戻るための人生」 |
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共同通信の記事より。
【長崎県佐世保市の小6女児事件で犠牲となった御手洗怜美さん(12)の父で毎日新聞佐世保支局長の恭二さん(46)が事件を振り返って書いた記事が、27日付同紙朝刊に掲載された。記事には「親として記者として」との見出しが付けられ、普段は取材する側の記者が取材を受ける立場になった際の戸惑いも記されている。 記事によると、6月1日の事件直後は思い付いたことをメモに書き残していた。6月4日のメモには「怜美にも原因があるかのような印象を消せるか?1つ1つ報道をチェックできないし、反論は嫌」と書かれていた。 恭二さんはこうした記述について、今回の記事の中で「殺人事件で、記事は加害者の供述が中心になることが多い。しかし、供述が被害者に非があると取れるような『言い分』があるとき、被害者は傷つくばかりである。反論したくても被害者は精神的に対応できない」と説明している。】
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今まで「報道する側」だった御手洗さんが、「報道される側」になられて、いったいどんな気持ちを味わっただろう?そんなふうに考えると、御手洗さんの立場というのは非常に辛いものではなかったかな、と思えてなりません。報道関係者は、よく「知る権利」という言葉を使っていますが、例えばああいう形で人生を奪われた子どものプライベートなことを世間に発信する必要があるのかな?と僕は思いますし、被害者が若い女性でもあれば、日頃の行動とか交友関係とかがばら撒かれ、「どうしてこんな悲惨な事件が起こってしまったのでしょうか?」というキャスターの問いかけの裏に「夜遊びばかりしているからだろ」とか「ヘンな男と付き合っていたからだろ」とか、「出会い系なんかにかかわるからさ」というような「作り手の意図」を感じることがあるのです。 そういうのも「こういうことに気をつけましょう」という社会へのアピール目的だと言われるのかもしれませんが、本人の名誉が傷つけられたり、遺族が世間の好奇の視線にさらされてまで「アピール」すべきことなんだろうか?とも思います。遺族の中には、自分でアピールする人もいるみたいだし、こういうのは一概には言えないのでしょうけど、「アピールしたがる人」を基準に考えるのは、あんまりだと思います。だいたい、「知らない人に励まされ続ける」というのも、実際にそんな状況になれば、かえってストレスになりそうな気がしますし。「ありがとうございます」なんて、いちいち相手に礼儀を尽くすのは、けっこう大変なことでしょう。
正直、「報道番組」の名の元に、被害者のプライベートな情報を垂れ流すようなのって、けっこう多いですよね。まあ、それを観て「まあかわいそうねえ」とか「私も気をつけなくちゃ」とか言いながら、自分の幸せをかみしめる視聴者というのは少数派ではなさそうなんですが。 今回の怜美さんの事件にしても、ああやってさまざまな内容が報道されることによって、お父さんには大きなプレッシャーがかかっていたのでしょう。中には「怜美さんが加害者の女の子に冷たくあたっていた」なんて話もあれば、ふたりの掲示板でのやりとりなんていうのもありました。そんな掲示板でのやりとりなんて、とくに12歳くらいであれば、他人の目にさらされるのなんてイヤでイヤでしょうがないはずなのに。そして、「加害者のプライバシー」は優しい人々によって保護されているのに、被害者のプライバシーは、「悪いことをしたわけじゃないんだから」という名目のもとに晒され放題です。 もちろん、報道関係者の大部分は、そんな人ではないと信じたいのだけれど、そういう「数字をとらなければならない」「センセーショナルな記事を書かなければならない」という現場の状況をよく知っている恭二さんとしては、ひとりの父親としての立場とひとりの報道人としての立場の板挟みで苦しまれてもいるのでしょう。
「相手の立場を思いやる」というのはものすごく大切である一方で、あまりにそれにとらわれすぎていると何もできなくなってしまう、というのも現実なのかな、とも思います。医者は患者さんの痛みを思いやることは大事ですが、手術で切られる患者さんのことを想像しすぎて必要な手術を薦められなくなっては本末転倒ですし、電器屋に勤めていて、お客の身になりすぎて「ウチよりライバル店のほうが安いですよ」なんていちいち教えていては商売になりません。おそらく、家族のことを慮って「書かない」記者より、読者の興味を引くために「書ける」記者のほうが、「良い記者」なんですよね、きっと。
「隙があるから、被害者になってしまうんだ」「運が悪かったねえ」 でも、そのくらいの「隙」があるのが普通の人間なのだし、宝くじに当選することを信じられる人間が、自分や家族に偶然の不幸が襲いかかる不安に駆られないのは、それはそれで不思議なんだよなあ。
僕は拉致被害者の家族の方々を見ていて、いつもこんなふうに思うのです。この人たちは、自分のせいでもないのにこんなに辛い目にあいながら前進しているにもかかわらず、なかなかゴールにたどり着けません。しかも、そのゴールは、他の「普通の人」にとっての「スタート地点」でしかない。 「スタート地点に戻るための人生」っていうのは、なんだかとても悲しいけど、そこにたどり着かないと、すべては始まりすらしない。
本当は、恭二さんに今回の報道のありかたのおかしいところについて、具体的に指摘してもらいたいのだけれど、実際にはなかなか難しいのでしょうね。結局どこの世界でも、同業者を告発するのってやりにくいものだし、自分も同じことをやったかもしれない、なんて、つい考えてしまうからなあ…
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| 2004年12月26日(日) ■ |
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| 私にやさしくて、自分にもすごくやさしい人だった。 |
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「上京ものがたり」(西原理恵子著・小学館)より。
【私の彼は 私にとてもやさしい人だったのでー 毎日がとても楽ちんだった。
ある時一週間後に二人のお金がなくなる事に気づき 私は日払いのコンパニオンのアルバイトに行く事にした。
その日は道が大渋滞で私を乗せた送迎バスはおくれにおくれー 宴会場についた時 お客さんは全員できあがっていた。
私はお酌した三倍の数、おっちゃんたちにさわられた。
コンパニオンママに今日はごめんなさいねと、日給8千円と焼ギョーザを1パックもらって家に帰った。
アパートに帰って今日の事をしゃべると彼は 「へえー」「仕方ないねえ」と言った。
8千円は次の日お米を買って水道代を払うとなくなってー
私の彼は 私にやさしくて 自分にもすごくやさしい人だった。】
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「やさしさ」っていうのは、いったい何なのでしょうか? 「やさしい人」というのは、長年異性の理想像の上位を占めているのですが、ここで売れない時代の西原さんのヒモをやっていた男の「やさしさ」というのは、端から見ると「甘いだけなんじゃないの?」とか感じてしまいもするのです。 誰にでもやさしい人、というのは、距離をおいて付き合う分にはありがたい存在なのだけど、逆にその人に近い存在になればなるほど、その「やさしさ」が、自分以外の人にばかり向けられていることに苛立ちを感じることも多いような気もしますし。「困っている友達を助けるために、家を飛び出していく人」だって、家族からすれば、「そんなヒマやお金があるなら、自分たちのために使ってよ!」と言いたくなるような「外面のいいだけの人」だったりもするんですよね。 「優柔不断」という言葉に「優しい」が入っているように、「やさしさ」というのは、けっして良い面だけではないのかもしれません。だからといって、「愛のムチ」とか言って自分の考えを押し付けるのが「真のやさしさ」だとも思えないのですが。 でも、やっぱり「やさしくしてもらいたい」のだよね、みんな。
僕は自分がもっと若かったころは「お互いに高めあえる関係」が理想だと考えていました。 今は正直、そういう「高めあう」という理想のもとに、常に緊張感を強いられるような関係」というのは、なんだかとても辛いなあ、と感じています。 そういう「ぬるま湯」みたいな関係って、人生においてプラスにはならないのかもしれないけれど、今日を生きていくためには、とりあえずそういう「やさしさ」がないと辛いな、とも思うし、毎日「もっと頑張りなさい!」と言われながら生きていくのは、本当にやりきれないのではないかなあ。 「そんなダメな男、別れたほうがいいんじゃない?」と思うような関係でも、実際はそういう「甘すぎるやさしさ」がないと、生きていけない人は、けっして少なくないんですよね。 たぶん僕も、そうなのでしょう。
昔は、「なんで大人って、こんなわかりきったバカバカしい『やさしさ』に騙されるんだろう?」って思っていました。 でもね、自分が大人になってみてわかったよ。 わからないから騙されているんじゃなくて、わかっているのにどうしようもなくて、騙され続けてしまう。
本物の「やさしさ」というのは、いったいどこにあるのだろう?
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| 2004年12月25日(土) ■ |
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| 「常識」としての「相田みつをの世界」 |
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毎日新聞の記事より。
【書き初めの宿題に書家、詩人として著名な相田みつをの詩を書いたところ、中学の男性国語教諭(53)に「やくざの書くような言葉だ」などとばかにされ、これが原因で卒業文集にもほおに傷のある似顔絵を描かれたとして、横浜市立中学の元女子生徒が市に慰謝料など350万円の支払いを求めた訴訟で、横浜地裁の河辺義典裁判長は24日、教諭らの責任を認め、市に計25万円の支払いを命じた。元生徒は別の男性教諭(46)から部活動中に腰をけられており、支払額はこの賠償5万円を含む。 判決によると、元生徒は3年生だった01年1月、「花はたださく ただひたすらに」と書いた書き初めを、国語の授業に提出した。書家で詩人だった相田みつをの詩だが、国語教諭はこの詩を知らず、ほおに指を当てて(傷跡を)なぞる仕草をして「こういう人たちが書くような言葉だね」と発言した。同級生は笑い、元生徒は「やくざ」などとからかわれるようになった。 その後、生徒たちが卒業文集で互いの10年後を想像した似顔絵を描き合った際、元生徒は、ほおに傷がある絵を描かれた。担任の女性教諭(38)は、絵を見ていながら修正せずに文集を配った。 学校はその後、元生徒の母親の抗議で文集を回収し、印刷し直した文集を配り直した。 判決は教諭の発言を「(発言で)嫌がらせを受けるのは当然予想され、不適切で軽率」と批判。似顔絵についても「(担任が)訂正の必要性を認識すべきだった」とした。】
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確かに、この先生はちょっと(というか、かなり)軽率ですよね。生徒が書いた書き初めに、そんな言葉を投げつけるなんて。その点については、責任があるということに異論はありません。 でも、僕がこの記事を読んでいて感じたのは、「相田みつをさんのこの詩って、そんなの有名なの?」ということでした。この記事の見出しが、【<国語教諭>相田みつをの詩知らず、女子生徒けなす】だったものですから。 そりゃ、僕だって、「にんげんだもの」くらいは暗記はしていなくても読めば思い出しますが、【「花はたださく ただひたすらに」】という言葉を、あの独特の字体ではない字で見せられて、「これは、相田みつをの詩だ、素晴らしい!」なんて思う国語教師というのは、そんなに多数派なのでしょうか?僕のイメージでは、夏目漱石とかへミングウェイ、カフカといった大家の代表作の読書経験があり、題名・あらすじくらいは知っていて然るべきだとは思いますが、相田みつをさんまで「当然の守備範囲」と言われてしまうのは、ちょっとかわいそうな気がします。少なくとも、その先生自身がファンでもなく、予備知識のない状態で読めば、【「花はたださく ただひたすらに」】というフレーズを「感動的」と思うか、「自意識過剰の人の落書き」と思うかは、まさに「個人の自由」なのではないでしょうか?だいたい、読んだことのない作品を、作者名も題名もわからない状態で絶対評価をするなんて、至難のわざでしょう。だから、有名な文学賞でも下読みをする人がいて、その上で選考委員が何人もいるわけですから(トンデモナイ選考委員というもの、いるみたいだし)。 【「花はたださく ただひたすらに」】というフレーズに対する「やくざが書くような」という感想は、生徒たちの前で公然と言うのは無思慮極まりないですが、一個人の感想としては、「許容範囲」なのではないかなあ、という気もするのです。じゃあ逆に、国語の先生はみんな、相田さんが有名作家だから、相田さんの作品を批判してはならず、崇め奉らなければならないのでしょうか? いや、僕も正直、相田さんの作品世界の魅力って、あんまりよくわからないのです。ああいうのがツボにはまる人がいるというのには理解できるんだけどねえ。そんな当たり前のことを仰々しく言わなくても…とか、つい考えてしまいます。 この記事の先生の生徒への対応は論外だったとしても、これからの時代は、先生は生徒が書いたものに対して、なんらかの評価をする前に、まずそれが有名作家のものではないかどうか検索しなくてはならないのかもしれませんね。 「あっ!これは村上春樹の15年前の未発表作の一節をパクったのか!」とか調べておかないと、ヘタに感想を言ったらとんでもないことに…
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| 2004年12月24日(金) ■ |
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| 「メリー・クリスマス」を救え! |
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読売新聞の記事より。
【クリスマスを堂々と祝うべきか、それとも、非キリスト教徒への配慮から、慎むべきか――。キリスト教徒が国民の8割強を占める米国で、「12月のジレンマ」と呼ばれる議論が、例年以上に過熱している。
▼サンタクロースや「ジングルベル・ロック」はOKだが、イエス・キリスト、「きよしこの夜」はダメ。
▼オフィスで開くのは「クリスマスパーティー」ではなく「年末パーティー」。「クリスマス休暇」ではなく「冬休み」。
「政教分離」と「信教の自由」を憲法修正第1条で定める米国では、クリスマスの宗教色はかなり薄まっていた。政府庁舎など公共施設ではクリスマスの飾り付けが見られない。イリノイ州の小学校は昨年から、スクールバスの中でクリスマス曲を流すのを禁じた。
クリスマスツリーについてさえ、「宗教的なシンボル」として、「私企業のオフィスなら良いが、公共の場では禁止」(フロリダ州パスコ郡)や「コミュニティーツリーと言い換えるべきだ」(カンザス州ウィチタ市)といった、日本人にはにわかに信じがたい条例もある。
今年は大手デパート、メーシーズが顧客への宣伝で「クリスマス」の表現を取りやめたことから、ついに不買運動が起こった。
不買運動「メリー・クリスマスを救え」創始者の1人、カリフォルニア州サクラメントのマニュエル・ザモラノさん(56)は「26日になれば手のひらを返したかのように『アフター・クリスマス・セール』をやるくせに『クリスマスは禁止』かね。政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)を追求しすぎて、大半の消費者を敵に回している」と憤る。 これに対し、メーシーズの親会社、フェデレーテッド・デパートメント・ストアーズ(オハイオ州シンシナティ)のキャロル・サンガー副社長は「1950年代のアメリカではない。非キリスト教徒もいれば、宗教と距離を置く世俗的な人々も多い」と主張するが、2万人以上が参加する運動の広がりは脅威でもある。 こうした騒ぎや訴訟は、今年に入って700件以上にのぼるとされる。 ブッシュ大統領再選に影響力を持ったキリスト教右派ら保守派は「行き過ぎ」に猛反発し、巻き返しを図る。宗教関係者は毎日、ラジオのトークショーなどで批判を展開。「史上最悪と言えるほど過激な検閲だ」(宗教団体、「米国・法と正義センター」)といった主張は、「どこかおかしい」と感じる市民に浸透し、不満層を奮い立たせる。 宗教問題に詳しいラザフォード研究所のジョン・ホワイトヘッド所長は「ハヌカ(ユダヤ教の神殿清め祭)、クワンザ(黒人の収穫祭)は認められているのに、なぜクリスマスはいけないのか。逆差別されていた多数派(キリスト教)が怒り、振り子は逆方向に戻っている。このような不満に宗教右派の存在が火をつけた」と、例年になく騒がしいクリスマスを分析する。】
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「宗教に対して寛容な日本人」である僕としては、ここまで「クリスマス」で争うわなくても、やりたい人はやればいいし、やりたくない人は放っておけばいいんじゃないかなあ、とも感じるのですが。 まあ、僕も含めた大部分の日本人にとっては、「クリスマス」というのはひとつの「イベント」でしかなくて、そこにある宗教的な色彩というの意識している人は少ないのではないでしょうか?とくに1980年代末から、1990年代前半に大学時代を送っていた僕としては、クリスマスというのは、「一緒に過ごす恋人がいるかどうか?」で、「勝ち組」と「負け組」に分かれる、あまり嬉しくないイベントだったような気がします。「今日は用事があるから…」なんてそわそわしながらいつもより早く帰り支度をはじめる部活の同級生たちに、「お前らの『用事』って、いったい何やねん!」と似非関西弁で問い詰めたくなる気持ちでいっぱいだったのを、よく覚えています。当時は、学生でも「高級レストランと高級ホテルを予約して2人っきりで…」なんてのが、「常識」だった時代でもありますし。 そして僕たちは、「キリスト教徒でもないのに、なんでクリスマスとか関係あるんだよ!」と毒づきながら、みんなで集まって性質の悪い酒など煽ったりしていたわけなのです。
しかしながら、今から考えると、まあ、ああいう日が1年に1日くらいあっても悪くはないかな、とも思うんですけどね。少なくとも、朝起きて、枕元にプレゼントが置いてあるのを発見したときは、けっこう嬉しかったし。見慣れたデパートの包装紙で包まれていたとしても、やはりそこには、ちょっとした夢みたいなものもあったような気がするし、若い恋人たちが、公然とイチャイチャできるような日というのもいいかな、と。「負け組」にとっては、精神鍛錬に役立ちました。
それはさておき、このアメリカでの「クリスマス論争」というのは、本当に難しいところですね。確かに「少数派に配慮」するというのは大事なことなのですが、その一方で、「キミたちは多数派で勢力も強いのだから、少数派に対して譲歩したまえ」というのが、多数派にとって「逆差別」という印象を与えるというのもよくわかります。本来ならば、「宗教的少数派も、多数派も同様の権利を有する」のがスジなのでしょうが、実際にそうなってしまうと、多数派のプレッシャーが強くなりすぎて、少数派にとっては生きにくい世の中になってしまうのだろうし。とはいえ、「宗教色のないクリスマス」というのは、もともとキリスト教の宗教的行事であったのだから、「そんなの意味あるの?」とも思えます。この背景には、イラク戦争に対するブッシュ大統領の「十字軍」発言により、アメリカ国民の「政教分離」に対する危機感が煽られたため、なんて話もあるようです。 そう考えると「そこまで神経質にならなくても…」と感じる一方で、「そんなに神経質になるほど、不安が広がっているのか…」とも考えてしまいます。気軽に「そんな細かいこと気にせずに、楽しくクリスマスをやればいいのに」なんて言うのは、「平和ボケ」「宗教ボケ」してしまった、日本人の感覚に過ぎないのかもしれません。 でもねえ…別にクリスマスを排除したからって、アメリカでのキリスト教徒の「宗教的影響力」には変わりないのだから、そういう「目に見えるものだけを覆い隠す」という行為が、本当に意味があるのかどうかには、ちょっと疑問もあるんですけどね。 そういう「形だけかもしれないけど自制していること」を評価すべきか、ナンセンスだと笑いとばすか…「宗教」というのは、非常に難しい問題ですよね。 たぶん、一般のアメリカ人たちは、こういう「クリスマスを救え!」とか「クリスマスは差別だ!」という「問題意識を持つ人々」の論議とは別のところで、「ま、クリスマスはクリスマスだから」と、楽しんでいるのだろうし、それはそれでいいとも思うのですが。
別に、サンタクロースやトナカイが悪いことをしたわけじゃないのにね。
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| 2004年12月23日(木) ■ |
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| スナック菓子業界での「暴君ハバネロ」のヒット要因分析 |
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「日経ベストPCプラスデジタル」(日経BP社)の2005年1月号「朝倉千夏の極楽!ストレンジャー」より。
(「暴君ハバネロ」の話題)
【<暴君ハバネロ・ヒット要因分析> ☆辛さと旨味のバランス(→辛いのに後ひくうまさ!) ☆パッケージの小型化(55g)!(→女性も食べきれるサイズ) ☆おつまみとしての需要(→スナックを買わない世代にも買ってもらえる) ☆日本人のし好の変化(→キムチ、チゲ鍋…辛いモノ好きになってきている)
なんと、なんと暴君ハバネロは、スナック菓子業界では実に8年振りのヒット商品! ※新ブランドが、1年以上お店に定着するのは難しいらしい… じゃあ、8年前のヒット商品は何だったかというと… カルビー・じゃがりこ そういや、私、大学3年のとき、毎日食べてた… やはりスナックに関して”思うツボ的客”になっていた私…】
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ちなみに、大ヒット商品となった、この「暴君ハバネロ」は、2003年11月17日の発売、1年後の今年、2004年の11月15日には、辛さがハバネロの5分の1という「暴君ベビネロ」が発売され、こちらも大ヒットしているようです。 この文章を読んであらためて思い出してみたのですが、ポテトチップス、かっぱえびせん、カール、キャラメルコーンと、実際にコンビニのスナック菓子のコーナーで現在も主役の位置を占めている「定番モノ」って、僕が小学校のころからあったものたちばかりなんですよね。「じゃがりこ」は、僕がもうスナック菓子とは縁遠くなってしまった時期の商品なので、あんまり口にした記憶はないのですが。 もちろん、この間にも、さまざまな「新製品」は間断なく発売され続けていたはずですから、このスナック菓子の世界で生き残っていくというのは、非常に難しいということなのでしょう。逆に、一度「定番」になれれば、安定して売れ続けるという面もあるんでしょうけどね。 僕が「ハバネロ」を初めて食べたときの感想は「辛すぎる」「量が少ないんじゃない?」だったのですが、少し食べなれてくると、逆にあの辛さが後を引き、お酒のつまみに向いているのも確かですし、あの小さいパッケージにも「女性も食べきれるサイズ」という戦略があったのですね。ヒットするには、それだけの理由がある、ということなのでしょう。 もっとも、この「ハバネロ」だって、あと何年かすれば「一過性のブーム」に終わってしまう可能性だってあるんだよなあ。「あの頃は、なんであんなに辛いのを好きこのんで食べてたんだろう?」とか、みんな回想したりして。 それにしても、とくに食べ物の世界では、「定番モノ」というのは、本当に強いみたいです。考えてみれば、カップラーメンでも、あれだけ毎年新製品が出ているのに、僕は「やっぱりカップヌードルは美味しいなあ」なんて、何度も「原点回帰」してしまっているのです。
それにしても、「8年ぶりのヒット」とは、スナック菓子に対しては、とくにみんな保守的なんだなあ。
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| 2004年12月22日(水) ■ |
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| そのドッジボールから、「屈折」が始まった。 |
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「桜玉吉のかたち」(コミックビーム編集部著・エンターブレイン)より。
(漫画家・桜玉吉さんと現コミックビーム編集長・O村さんの対談。玉吉さんが小学校時代を振り返って)
【桜玉吉(以下:玉)あと、もうひとつ人格形成に影響を及ぼした事件はね、小学校のときの転校生で、一点の曇りもないぐらい、顔もダンディーで、体格もオレよりもよくて、勉強もまたよく出来てっていう、非のうちどころのないヤツがいたんだよ。
O村(以下:O)すげえな、許せねえけど。
玉:それで、運動も出来んだよな、家が商社か何かに勤めているところの息子で、いっぺん遊びに行ったことあるけど。
O:いいヤツ?
玉:非の打ちどころがなさ過ぎてつまんないっていうのはあるんだけど。それでも、一緒に遊んだりはしてたわけで、小学校ぐらいだとさ。で、ドッジボールがあって、相手のチームになってて、オレが外野にいてさ、ぶつける側。相手方の方も10人くらいいたんだけど、次々に当てられて、最後にそいつだけになったのよ。ところが運動神経いいから、どんな球投げても捕るのよ。
O:憎いぐらい。
玉:憎いよ。オレ、結構球投げるの大好きだからさ、いいタイミングでボールがパスされて、パッて捕って、そのときに彼がさーっと逃げてったところで、スリップして、オレの足元のところでこけたのよ。で、倒れてるそいつに、もう無慈悲に思いっ切り振りかぶって、ボールをバーンとぶつけた!でも………そいつ捕りやがんの。
O:格好わるーーっ!。引き立て役じゃん。
玉:そのときから屈折が始まったと言ってもいいかもしれないな、もしかしたら。
O:いつもより4割増し力入れたのに、捕りやがんの。
玉:こっちは卑怯なことやったのに負けてる。あれは、その後の人生ですごい影響与えてるような気するよ、オレ。卑怯つっても、オレもバカ正直だから、ちゃんと上から振りかぶって、倒れてるのにお腹めがけて投げてるところも、バカなんだけどさ。】
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ごく日常的な場面のようでも、本人にとっては、衝撃的な「負け犬の刻印」を押されることもある、という話。他人からすれば「たかがドッジボールの中のひとつの出来事」なのですが、玉吉さん御本人が、このエピソードを20年くらい経った時点でもこれだけハッキリと覚えているということは、やっぱり忘れられなかったんでしょうね。 この話を読んでいて、確かに、僕にもこういう同級生とかいたなあ、と思い出していました。勉強もスポーツもできて、生徒会の役員とかやっていて、バレンタインデーのチョコレートを独り占めするようなヤツ。それでまた、そいつが性格の悪い男ならまだ(嫉妬心を打ち消すという意味では)救いようがあるのですが、また「いいヤツ」だったりするんですよねこれが。ほんと、そういうのって本人のせいではないと頭では理解しつつも、自分のコンプレックスが刺激されまくるので、内心「コノヤロー!」とドス黒い感情を抱いていたりするのです。まあ、僕の場合は、そういう「チャンス」が訪れなかったので、このような「復讐の記憶」というのはないんですけどね。 しかしながら、このせっかくの「チャンス」に全力投球をしたにもかかわらず捕られてしまうなんて、確かに玉吉さんは、「自分の卑怯さ+カッコ悪さ+無力感」によって、かなりのダメージを受けたに違いありません。このあとの2人の対談にも書かれているのですが、大きく振りかぶって投げたために、かえって向こうも体勢を建て直す時間ができて、さらに球筋が読みやすくなってしまったのだとしても。それこそ、倒れているところに足とか狙ってコツンと当てにいったら、まちがいなく「競技的には勝てた」んだろうけど、やっぱりそれじゃあねえ… 「自分は生まれつきの『引き立て役』なのか」と子供心に深い傷を負ってしまったという気持ち、同じようなコンプレックスのカタマリの「負け犬」の僕にはわかるような気がします。 実際は、こういうのって、大人になって話してみると、「出来杉くん」だって、当時はいろんな悩みやコンプレックスを抱えていたりしたものみたいなんですけど。
ほんと、子供の頃は、こういう、端からみれば「ドッジボールの普通の場面」の中にも、大きな葛藤とトラウマの種が潜んでいたんですよね。 子供は子供で大変なのです、たぶん。
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| 2004年12月21日(火) ■ |
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| 「寄付」する人々 |
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FLixの記事より。
【バージニア州でスティーヴン・スピルバーグ監督の新作『ウォー・オブ・ザ・ワールズ』(原題)を撮影しているトム・クルーズが、立ち寄ったアイスクリーム屋で5000ドルを越える寄付金を置いていったという。アイスクリーム屋のレジには、ゴーカートで大けがをした地元の女の子の医療費補助のためビンが置いてあり、これを見たクルーズはビンの中に多額の現金を入れてから店を後にした。クルーズの寄付を知った両親は心から感謝しているとコメントしている。】
毎日新聞の記事より。
【新潮社は21日、インターネット掲示板「2ちゃんねる」から生まれた本『電車男』の著者、中野独人さんら関係者が、同社出版の単行本を除いたコミック、テレビ番組、映画での原作使用料を新潟県中越地震の被災者に全額寄付すると発表した。 同社宣伝部によると、きっかけは、中野さんら複数の「2ちゃんねらー」から「『電車男』で得た収益を社会に還元したい」との話が持ち上がったこと。コミックの原作料と単行本化時の印税、テレビや映画の原作料が義援金の対象となり、総額1000万円を超える見通し。現在、漫画雑誌3誌での掲載が決まっており、30件以上のテレビ、映画化の申し出も来ている。同社が窓口となり、一定の額になり次第、中野さんの名義で寄付される。 同社の単行本は発売約2カ月で50万部を突破している。】
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まあ、こういう「寄付」の話というのは、個々のケースで言えば、いろいろ感じるところもあるんですけどね。「トム・クルーズさん、あなたいつも50万円ポンと寄付できるくらいの現金を持ち歩いているんですか!」とか。ほとんどやっかみですけど。 新潟県中越地震には、あのヨン様をはじめとする韓国スターたちも多額の寄付をしてくれているようなのですが、ついに「電車男」まで!「電車男」(新潮社)は、税込1365円ですから、著者印税が10%とすると、中野さんのもとには、すでに6500万円以上の印税が転がりこんでくることが決まっているわけですから、少しは社会に還元しようかな、という気持ちになるのもわからなくはないんですけどね。そもそも、「電車男」の作者の多くは「2ちゃんねる」の住人たちなのですから、この大ベストセラーも「他人の褌で相撲を取った」ようなものなのかもしれないし。僕には、この中野独人さんというのが実在の人物なのか、ひとりなのか複数なのか、それもよくわかりませんが。 先日、数億円の財産を日本赤十字社に寄付するという老夫婦を採り上げたテレビ番組を観たのですが、それを観ての正直な感想というのは、「寄付」というのも、なかなか複雑なものなのだなあ、ということでした。インタビューで、「わたしたちは子供がいないから…」と仰っているのを観て、「それなら、子供がいたら、やっぱり財産は子供に遺すんだろうなあ」とか思ったり。実際、どんな大金持ちでも、あらゆる寄付の要請に応えていては、童話「しあわせの王子」のようになってしまうでしょうし、何に対して寄付するか、匿名でするのか、それとも自分の名前を出してするのか、そういう点でも、同じ「寄付する人」でも、個人差がありそうです。芸能人などは、もちろん「善意」もあるでしょうが、「優しいヨン様」というイメージアップ効果を考えると、長い目で見れば、マイナスにはならないのかもしれません。 それでも、「寄付なんて偽善だ」とか言ってみせるよりは、やっぱり身の丈なりにでも、困っている人たちのために何かをしてあげる、というのは、すばらしいことだと僕は思います。 だって、「偽善で買ったおにぎり」だって、食べればお腹はいっぱいになるのだし、「偽善の毛布」だって、くるまれば温かいのだから。 実際は、匿名での寄付でも、それで心の平安を得られるのならば、それもまた「見返り」なのですけどね。 あと、これらの「多額の寄付をする人々」の共通点は、「自分は幸運である」という自覚を持っている人たちだということでしょう。ヨン様だって、こんなに日本で人気が出て稼げるとは思ってもみなかったでしょうし、中野さんだって、狙っていた面はあったにせよ、ここまで本が売れるとは予想もしていなかったでしょう。でも、彼らはその「幸運」に対して、やっぱり不安な気持ちも持っているのかもしれないなあ、とも僕は少し感じてもいるのです。「こんなにうまくいって、いいのだろうか?」って。 でもきっと、そういう人のほうが、長続きするものなのかもしれませんよね。「全部自分の力だ」と天狗になってしまうよりは。少なくとも、助けてもらった人は、「ヨン様」のことを忘れないはずだし、仮に売れなくなっても、そうやってかすかにでも人々の記憶に残るというのは、人間として生まれたからには、喜ぶべきことではあるのでしょうから。 僕は、寄付するお金があったら、東京タワーの上からばら撒いて、下界でみんなが奪い合うのを見たいと思うほうなので、たぶん、そういう善行とは縁がないんだけどさ。
とはいえ、「電車男」の第二作が売れるか?と考えると、「しっかり貯金もしておいたほうがいいんじゃない?」と言ってみたくもなるんですけど。
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| 2004年12月20日(月) ■ |
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| 「アルコール・ハラスメント」の伝統 |
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熊本日日新聞の記事より。
【一九九九(平成十一)年、熊本大医学部漕艇(そうてい)部の新入生歓迎会で一年生の吉田拓郎さん=当時(20)=が酒を飲んで死亡したのは、上級生らが飲酒を強要し適切な処置を怠ったためとして、拓郎さんの両親が当時漕艇部長だった教授や上級生ら十九人に計約五億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が十七日、熊本地裁であった。永松健幹裁判長は「死因について急性アルコール中毒だったとは認めがたい」として教授らの責任を否定、両親の請求を棄却した。 判決によると、拓郎さんは九九年六月、熊本市内で開かれた新入生歓迎会に参加。二次会の居酒屋で焼酎などを飲んで酩酊(めいてい)状態になり、終了後に上級生らが別の一年生部員のアパートに運び込んで寝かせたが、翌朝死亡した。 訴訟で両親側は「上級生らは二次会で次々に焼酎の早飲み競争を仕掛けて、拓郎さんを急性アルコール中毒によるこん睡状態にさせた。危険な状況だったのに病院に搬送するなど適切な処置を怠った」と主張。 これに対し、被告側は死因はアルコールに起因しない重症急性膵(すい)炎だったと反論した上で「一部に飲み比べはあったが、一年生は自発的に参加した。拓郎さんは酔って寝込んでいただけで危険な状態ではなく、死亡は予見できなかった」と争っていた。 拓郎さんの死亡をめぐっては、両親が九九年十二月、教授や上級生ら十九人を民事提訴。同時に、このうち十六人について傷害致死罪や保護責任者遺棄致死罪などで刑事告訴したが、熊本地検は〇二年十二月、全員を不起訴(嫌疑不十分)処分にしている。 】
参考リンク:熊本大学漕艇部で、急性アルコール中毒死事件!(事件のあらましについて書かれているサイトです)
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上記参考リンクによると、亡くなられた吉田さんについて【前夜、医学部学友会漕艇部の新入生歓迎コンパ(二次会)で、医学部上級生とOB医師から焼酎の「バトル(早飲み競争)」を次々としかけられて、1時間ほどの間に、25度の焼酎を8合以上(血中濃度5.5mg/mlから推定)飲まされました。】そして、【死体検案時の血中アルコール濃度は5.5mg/ml。法医学書では4.5mg/ml以上で死亡としており、驚くべき高濃度でした。その後の再検査では、さらに高い数値(大腿部の静脈血で8.1mg/ml、脳脊髄液では9.6mg/ml)が検出されました。 】という結果が出たとのことでした。1時間に25度の焼酎を8合も飲ませるなんて、それはいくらなんでも無茶苦茶です。とはいえ、そこは酔っ払いの集団でもありますし、おそらく「集団の力」というやつで、参加者はみんな「とにかく飲め!」という雰囲気で、新入生たちも、新しい部活への「通過儀礼」として、この手の行事に参加していたのでしょう。ほんと、そんなことで死ぬ必要なんてないのに…という、バカバカしい「伝統」なんですけど。 しかしながら、僕も大学時代に、これほどハードではなくても、こういう「酒による通過儀礼」に強制される側としてはもちろん、強制する側としても参加した経験がありますから、あまり彼らを非難するわけにもいかないだろうな、とも思うのです。確かにああいう「場」にいると、(とくに新入生であれば)「避けられない雰囲気」というのもあるし、1時間に8合では、「危険な兆候が出る前に、飲みすぎてしまった」のかもしれません。残念ながら酔っ払いという人種は、相手の血中アルコール濃度に注意しながら飲ませるなんて芸当はできない人がほとんどですし。
僕は、この事件に関しては、やっぱりその場にいた人間に責任があると思います。だって、「無理強い」したのは事実だし、飲ませたあとに適切な処置をしていなかったのも事実。 しかしながら、だからといって、これが「刑事責任」とか「5億円の慰謝料」にあたるか、といわれると、ちょっとそこまではどうかな…とも思うのです。もちろん「道義的責任」というのはあるけれど、彼らにとっては、「いつもと同じ新入生歓迎コンパ」をやっただけ、という感じなのでしょうから。そして、こういう「危険な通過儀礼」というのは、現在でもいろいろな大学で行われており、病院で当直などをしていると、「どうしてこんなになるまで飲ませるんだ、ほんとに死ぬぞ!」と怒鳴りたくなるような例には事欠きません。一緒にバカなことをやるというのは、結束を深めるには良い方法なのかもしれませんけど、命を賭けてまでやることじゃないだろうと思うんですけどねえ。「医学部なのに情けない」という面はありますが、実践的な応急処置なんて、学生レベルではまず不可能です。この例では「救急病院に連れて行くように」とOBに指示されたそうですが、結局、被害者を連れて行った先輩が、自分の判断でそのまま「介抱部屋」に連れていった、とのことですし。 それでも、こういう「飲み会で潰れた話」なんていうのを「武勇伝」にしている先輩というのは、けっして少なくはないんですよね。本来、「酒に強い」なんてことには、酒代がかかるくらいのもので、何のメリットもないはずなのに。
結局、「日本人は酔っ払いに甘い」としか言いようがなく、「無礼講」とか「酒中別人」という概念は、まだまだ強いような気がします。そして、酔っ払っての犯罪(飲酒運転除く)は、「責任能力の低下」として、情状酌量されてしまうのです。そんなの、好きで飲んでいるんだから、自分でやったことにも責任を取ればいいと思うんだけどなあ。 それでも、日本中でこの手の事故というのは、毎年起こっていて、医者もみんな憂鬱になっているのです。急性アルコール中毒ほど、診ていて虚しくなる「病気」ってないからさ。 この事件に関しては、せめて、「同じ轍を踏まない」ということは、みんな頭に入れておくべきことでしょう。死んでしまった人はもちろん、死なせてしまった方だって、一生の心の傷になるだろうし。
けっして「酒嫌い」ではない僕としては、「誰が悪いのか?」と言われると、「正直、運が悪かったのかも…」と答えてしまいそうで、反省しなくてはならないと、あらためて考えているのです。
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| 2004年12月19日(日) ■ |
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| アメリカと中国への「親しみ」 |
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読売新聞の記事より。
【内閣府は18日、今年の「外交に関する世論調査」結果を発表した。中国に「親しみを感じる」と答えた人は前年より10・3ポイント減の37・6%で、同様の調査を始めた1978年以来、最低となった。 「親しみを感じない」は同10・2ポイント増の58・2%に上った。 内閣府は「中国が東シナ海でガス田開発を行ったり、小泉首相の靖国神社参拝に激しく抗議したりしたことに加え、サッカーの試合で日本チームにブーイングを浴びせた中国人観衆の対応が影響しているのではないか」と分析している。 一方、韓国への親近感は「韓流ブーム」などの影響で前年比1・7ポイント増の56・7%となり、過去最高を更新した。 この調査は、今年10月、全国の20歳以上の男女3000人を対象に行われた。回答率は68・9%。 日中関係が良好だと思う人は28・1%で、前年の46・9%から18・8ポイント減少した。天安門事件の影響などで前年比16・2ポイント減だった89年を超え、過去最大の下げ幅となった。良好だと思わない人は61%で18・1ポイント増加。 日韓関係が良好だと思う人は前年より4・3ポイント減少したが、55・5%と依然、高水準を維持した。 その他の国・地域に親しみを感じる人の割合は、米国が71・8%、東南アジア諸国が41・5%、中東諸国が13・4%などだった。 北朝鮮についての関心事項(複数回答)を聞いたところ、日本人拉致問題が88・3%と最も多かったが、前年より1・8ポイント減った。】
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「日中関係が良好だと思う人」が、28%もいるというのは、かなり驚くべき結果のような気がしなくもありません。あのサッカー・アジアカップでの大ブーイングとか、靖国参拝問題に対する姿勢とか、潜水艦がやってきたりするのをみれば、どう考えても「良好」ではないのでは。まあ、「北朝鮮よりはマシ」というようなところで、判断している人もいるのでしょうけど。 先日、知人が上海に行ってきたのですが、上海はすごい近代都市でビックリしたと話してくれました。ただ、ちょっと空気は汚れている感じだった、そうなのですが。 もちろん、中国というのは広くて人口が多い国ですから、比較的都市化された上海などと内陸部の都市では全然状況は異なるのでしょうけど。 ところで、彼女が話してくれたことで、ひとつ印象に残っているのは、「中国語は全然わかんないんだけど、漢字で書いてあるから、だいたいの意味はわかるのでそんなに苦労しなかった」ということでした。「中国語」というのは、世界でも使っている人の数が最も多い言語らしいのですが、「漢字」というのは日本人にとっては常日頃から親しんでいるものだから、ニュアンスはわかるようです。もっとも、そのつもりで中華料理店で注文すると、ちょっと日本人には抵抗のある食材(蛇とか猫とか)が出てくる、なんてこともあるらしいんでけどね。
それにしても、「漢字」のみならず、日本と中国という国は、歴史的に深いつながりがあるのはまぎれもない事実です。その歴史の大部分は、日本にとって中国というのは「先進国」であり、中国から見た日本というのは、「わざわざ占領しに行くほどの価値もない、東の小島」であったとしても。 「三国志」とか「西遊記」というような物語は、日本古来の文学作品より広く人口に膾炙していますし、「漢文」なんて、「国語」の1ジャンルとして扱われているくらいですから。 中華料理というのは、もはや日本人にとっては懐石料理よりはるかに日常的な食べ物なのだし。
そういうふうにして考えてみると、「中国に親しみを持っている」かどうかにかかわらず、日本という国は、中国と切っても切れない縁がある、と考えざるをえないのです。いや、正直なところ、今の中国の姿勢というのは、「日本が全部言いなりにならないと、納得してくれないの?」と疑問に思うようなものではあるのですが。 とはいえ、中国というのは、文化的には、アメリカと並んで、今でも日本の文化に大きな影響を与え続けている国であることは、間違いないことなのです。親近感は薄くなっても、そういう伝統は一朝一夕には払拭できるものではないでしょう。
現代の日本で生きる僕からすると、日中戦争は不幸な歴史だけど、それはそれとして、両国にとって新しい関係を築いていったほうがプラスになるんじゃないの?と思うのですが、「親しみを感じる国」として、米国が71・8%なんて数字を見ると、むしろ、日本人のほうが「忘れっぽい民族」というだけのことかもしれないな、とも思えてくるのです。いくら昔のこととはいえ、原爆を落とした国のほうに、サッカー場でブーイングをした国よりも圧倒的に「親しみを感じる」というのは、なんだか違和感もあるのです。
まあ、どっちも「正しいことばかりやっている国」ではないということだけは、事実なんでしょうけど…
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| 2004年12月18日(土) ■ |
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| 「法を遵守している」って、そんなに偉いことなの? |
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「道草食う気」(原田宗典著・角川文庫)より。
(1994年11月16日の日記より)
【山篭りをしているといつもそうなのだが、長いこと人に会わないために、ふと気づくとテレビを相手に文句を言ったりしている。最近得意の台詞は「お前間違ってるぞ」。テレビに登場するほとんど全ての人物に対して、この台詞はぴったりくるものらしい。例えば政治家。この人たちは何かというとすぐに政治資金規正法には触れてないとか言って、法律や規制やルールを守っていることを盾にするけど、馬鹿じゃないのかと思う。まあ政治家に限らずほとんどすべての人が、法律は正しくて善だと思い込んでいるみたいだけど、そこが間違いの元。極端な話、法律というのは必要悪だと僕は思う。人間が持つ悪しき部分を抑え込むために定められているのが法律なんだから、それを遵守したからといって偉そうにするなんて、馬鹿丸出しである。政治家がこの調子だから、デートクラブに出入りする女子高生も「体は売ってない」と胸を張るし、テレビ局の連中も「差別語はピーという音で消した」と解決したかのような顔をするし、学生たちも「電車の中でディープキスして何が悪い」と開き直るのだ。人間にとって、ルールでは決められないことのほうが大事なのだと、どうして分からないのだあッ。と、連日テレビに向かって怒っている自分にふと気づき、今日は早めに寝ることにする。】
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今から10年前に書かれたものですから、たぶん、今の原田さんの「間違っているぞ」の回数は、さらに増えているのではないでしょうか?「デートクラブ」どころじゃないものね… この文章を読んで、僕も常々感じていた「だって、法律違反じゃないだろ!」という言葉への違和感の正体が、少しわかったような気がしました。 「法律」というのを盾にする人は多いのだけれど、実際のところ、「法律」って、「人間として最低限守らなければならないこと」であって、守ったからといって、本来は大声でそれを自慢するべきことではないんですよね。むしろ、「法律に触れているかどうかを問われる状態に置かれていること」そのものが、恥ずべきことのような気がします。それなのに「法には触れてない!」なんて開き直る人が、なんて多いのだろう。 そして、そういう「法律の網目」みたいなのを利用している人というのも、今の世の中では、けっして少なくないのです。本来は「弱者の権利を守る」ための法律が、強者の盾になってしまっているケースが目につきます。
本来、「法律を守る」なんていうのは、ごくごく当たり前のことで、普通の人が普通に生きていれば、法の存在を意識する必要はないはずです。でも、こんなにみんなが「法律・法律」なんて言わなければならない時代というのは、なんだかとても不自然な気がしてなりません。法律がない時代は不幸だとは思うけど、法律の境界線ばかりが語られる世の中も、やっぱり不幸なのではないでしょうか?
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| 2004年12月17日(金) ■ |
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| 「100円ライター」の落日 |
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共同通信の記事より。
【伊藤忠エネクスは17日、使い捨てライターの草分けで子会社の東海(東京)を、米国の投資会社「ミングマネジメント」に売却すると発表した。「100円ライター」のヒットで急成長後に破たんし、いったんは再建を果たしたが、安価な中国製の流入で業績が悪化。米国でライター販売会社を持つミングの傘下で再び立て直すことにした。 売却金額は非公表。来年3月をめどに売却し、伊藤忠エネクスはガソリン卸売りなどに経営資源を集中する。2005年3月期の連結決算で約90億円の売却損を計上、純損益は今年9月に公表した40億円の黒字から、40億円の赤字に転落すると予想している。】
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株式会社「東海」のサイトはこちら。
僕はタバコを吸わないので、ライターというものにはほとんど縁がありませんでした。でも、この「100円ライター」というのが子供のころはじめて世に出たときには、けっこう驚いた記憶があります。「100円」で、あんな複雑な機会が買えるなんて!と。 当時は、あの100円ライターというのは、子供心には非常に魅力的なもので、あの丸くてぎざぎざした部分シュッ!と勢いよくまわすと、ポッ、と赤い火が点るのが、なんだかとても魅惑的で、「どのくらい点けていたら、油が切れるのだろう?」なんて、しばらく火を眺めていたりもしたものです。当時はいろんなところに、まだ油が残っている使い捨てライターが転がっていたような気もしますし。マッチだと、どうしても「使い終わったあとのマッチ棒をどこに捨てるか?」というのが問題になりますしね。 「火遊び」と言われては身も蓋もありませんが、少なくとも子供のころの僕たちにとっては、「100円ライター」というのはけっこう魅力的な道具だったのです。そもそも、高級ライターは、道端に転がってもいなかったし。 もっとも、そんなに簡単に「火を点けられるもの」が手に入るというのは、なんとなく怖いという気持ちもあったんですけどね。
ところで、この「東海」という会社、100円ライターのみならず、アウトドアの必需品の「チャッカマン」とか、「コン郎」なんて商品も作っていたのですね。そういう意味では、ライターとは縁遠い生活をしている僕にとっても、意識したことがないだけで、けっこう身近な存在だったと言えるかもしれません。でも、「100円ライター」というのは、20年以上前からあると思うのですが、当時同じように100円だったジュースが120円になったり、それとは逆に、100円ショップでどうみても原価が100円以上の品物が100円になったりしても、頑なに「100円の牙城」を守り続けているわけです(正確には、税込105円)。それが、今の世の中の間隔として高いか安いかというのは微妙なところで、20年前は、「100円なんて安い!」とみんなが思っていたものが、20年経っても同じ値段にもかかわらず、そんなに安くは感じられなくなってしまったところに、この20年間の時代の閉塞のようなものがあるような気もします。喫煙率も、どんどん低下し続けているし。
正直、この会社のサイトの古式ゆかしきデザインを見ていると、「ああ、やっぱり業績厳しかったのかな…」なんて、つい考えてしまうんですけどね。
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| 2004年12月16日(木) ■ |
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| 「ゆり子」と「ひかり」という姉妹の意外な軌跡 |
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スポーツニッポンの記事より。
【女優の石田ゆり子(35)がデビュー17年目で初めて妹・ひかり(32)と対談をした。18日に幻冬舎から発売する責任編集本「セ・ジョリ」で実現。「石田姉妹って呼ばれるのは嫌だった。だから頑(かたく)なに一緒の仕事はしなかった」と女優姉妹ならではの思いを吐露。頑固オヤジとして有名な父、二郎さん(63)からの手紙も初公開するなど心温まる内容になっている。 10代の頃から芸能界を歩いてきた石田姉妹。ともに30代を迎え、姉は女優として、妹は妻、母として別々の道で充実した日々を送る中、初の対談が実現した。 対談を行ったのは今夏。ひかりは第2子のおめでたが分かり、おなかもふっくら。ゆり子は映画「北の零年」のロケなどで大忙しの日々と、2人の「現在」を象徴するタイミングだった。 芸能界に入る以前から、ピアノ、水泳など「とにかく、ずっと同じことをして育てられた」と明かすなど幼少時代から振り返り、3歳の年の差がいつの間にか縮まって今では「姉も妹も関係ないって思えるようになった」(ゆり子)と告白。特に「姉の肩書がつくと、いい子でなければいけない気がした」というゆり子は「“石田姉妹”って呼ばれるのは嫌だった。だから頑なに一緒の仕事はしなかったし、一緒にインタビューなんて絶対に受けたことがなかった」とこれまでの思いを吐露。「でもお互いに30歳を過ぎて、面白いかもって思った」とデビュー17年目で実現した初対談の理由を明かした。 ほかにも結婚観、男性観など語り合い、出版元いわく「最初で最後」の対談。涙もろい頑固オヤジとして知られる名物パパ、二郎さんからの手紙も初公開しており、姉妹から親子のきずなまで考えさせてくれる内容に仕上げている。 ゆり子は、この本の名ばかりの「編集長」ではなく、自分で取材に行き、ゲラ作業まで行った。成熟した女性のライフスタイルをさりげなく提案しており、姉妹対談もその中の1つ。暮らしにかかわる、うれしい情報やアイデアも豊富で、かなりのラツ腕編集者!?】
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「頑なに一緒の仕事はしなかった」そうなのですが、僕は以前、ふたりが一緒に写真集を出していたような気がするのですけど…まあ、それでもこのふたり、「ゆり子・ひかり姉妹」がテレビの同じ画面の中にいる姿は、観たことがありません。僕はふたりのコアなファンではないので、そういう機会が全然なかったのか?ということは、明言できないんですが。
この2人に関しては、まず、妹・ひかりさんのほうが、10年前くらいにドラマ「あすなろ白書」の園田なるみ役で大ブレイクしたという記憶があります。あのドラマが放映されていたころ、僕は大学4年生で、ちょうどドラマの登場人物たちと同世代だったものですから、シンクロしてみたり、「こんな、『あすなろ会』なんて、ありえない!」とか画面に向かってブツブツ言ったりしながら、ずっと観ていたものです。そういえば、このドラマ、キムタクが取手君役で役者として大人気になった作品でもあるんですよね、ああ懐かしい。 あのころの石田姉妹のイメージというのは、おとなしくて上品な感じの姉・ゆり子さんと、活発で親しみやすい感じの妹・ひかりさん、でした。ゆり子さんのほうは「お嫁さんにしたい芸能人」の上位を毎回争っていて、「お姉さんのほうは、仕事に生きるっていうより、早く結婚して引退してしまいそうだなあ、妹のほうは、仕事に燃えてそうだけど」とか、考えていたんですけどねえ。 実際は、「良妻賢母型」と思われていた姉のほうは35歳の現在でも独身(まあ、過去にはいろいろあったみたいではありますが)で、「結婚より仕事」という雰囲気だった3歳年下の妹(最初のころは、ひかりさんのほうが売れてましたし)のほうは、結婚して、もう子供もいらっしゃいます。そういう意味では、このふたりが辿ってきた「美人姉妹の軌跡」というのは、人生なんて、傍からみたイメージ通りには、なかなかいかないものだなあ…なんて考えさせられるものではあるのです。僕の10年前の「イメージ通り」なら、2人の立場は逆になっているはずだったのに。 確かに、僕の周りでも、「良妻賢母型」だと思い込んでいたのに、いつのまにか仕事にのめりこんでしまった人もいれば、「仕事に生きる」と言いながら、アッサリ結婚して、子育ての間にパートタイムの仕事をやっている人もいます。それは、どっちが正しいとかそういうのではないのですが、「意外だなあ」と感慨深いことも多いわけで。 それにしても、こうやって常に比較されていること自体が、この2人にとっては苦痛だったんでしょうね。身内なだけに「負けたくない!」という意識は一層強かった面もあるだろうし。
僕は最近、テレビで石田ゆり子さんを観ていると、「なんだか、石田ひかりに似てきたなあ」と感じることがあるのです。ひかりさんも、少し「お姉さんに似てきた」ような印象もあるし。 そういうのをお互いに「姉妹なんだから、しょうがない」と受け入れられるのに、これだけの時間がかかった、ということなのかな。
それにしても、このふたりについて考えてみると、「ほんとに、先のことなんて、誰にもわからないよなあ…」とつくづく思うのです。
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| 2004年12月15日(水) ■ |
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| 孤独感を「共感」してくれたって、何の救いにもならない。 |
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「新ゴーマニズム宣言・第14巻〜勝者の余裕」(小林よしのり著・小学館)より。
(小林さんの秘書をされている、キシバタさんのコラム・「みな・皆・見な」の一部です。)
【一見、感情の赴くままに全速力で走り続けているように見えた先生(小林よしのりさん)ですが、秘書になり先生の想いや考えを聞くうちに、先生が抱える孤独感や虚無感といったものが見えてきました。それは多くの表現者が共通して抱く苦悩のようですが、大半の表現者はその苦悩と闘いきれず、逃げてしまうそうです。初めの頃、表現者ではない自分は、先生の孤独感を理解はできるけれども、共感することは一生できないだろうということが、無性に悔しく感じていました。しかし、そんな私に先生は、「お前の加護ちゃんのような無邪気な笑顔は、わしに明るさと希望を与えてくれる。その笑顔は天才的だ。孤独感や虚無感を共感してくれたって、わしには何の救いにもならない。」と言ってくれ、天才・岡本太郎を支え続けた女性の話を聞かせてくれました。それを聞いて、(加護ちゃんと言われようが、子供のように笑い続け、本当の信者になろう)と心に誓ったのでした。】
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僕は「(少なくともプロの)表現者」ではないのですが、この小林さんの秘書の方の文章を読んで、「誰かを支える」ということの意味が、ちょっとだけわかったような気がしました。 ちなみに、この「岡本太郎を支え続けた女性」に関する記述は【太郎氏を讃え 太郎氏に「ばくはつだ!」のポーズをさせ ポラを見てとびはねてミーハー少女のようにはしゃいで喜んでいた 太郎氏の理解者であり 世話係であり 信者である女性… やたら彼女の美しさがわしの心に残った…】というものでした。まあ、普通の人生を送っていれば、「信者」なんて人ができるということは、まずありえない話なんですけどね。
人と人との付き合いのなかで、「あっ、その気持ちわかる!」というような「共感」というのはものすごく大事なことなのですが、その一方で、僕は「その気持ちわかる!」という人に対して、「わかってくれて嬉しい」という感情と同時に「本当にわかってる?」という疑念が心に浮かんでくるのも事実です。当たり前なんですが、僕は君じゃないし、君は僕じゃないから。 実際、簡単に「わかる!」って言ってくれている人の中には、「自分で勝手に『わかっている』と思い込んでいるだけの人」っていうのは、けっして少なくないような気もしますし。とはいえ、「どうせ他人の気持ちなんてわからないよ」と開き直られてしまうのも、それはそれで寂しい。
しかしながら、「共感」というのは、必ずしもプラスにばかり働かないのも事実です。ここで書かれているように、ネガティブな感情への「共感」というのは、ときには「一緒にズブズブと深みにはまっていくだけ」というような結果を生み出すことも多いから。小林さんの【孤独感や虚無感を共感してくれたって、わしには何の救いにもならない。】という言葉には、彼自身の実感がこもっているような気がするのです。そういう「ネガティブな感情への共感」というのは、必ずしも人を幸せにするものではなくて、むしろ「シンプルな応援」のほうが、元気ややる気を与えてくれることもあるわけです。 実際、「孤独感を共有」してみたところで、「僕は孤独だ…」「そう、あなたは孤独、人間ってみんな孤独なのよね…」「そう、どうしようもなく孤独だ…」というようなネガティブ・スパイラルに陥ってしまうだけだったりして、結局、「2人でわかりあっているつもりになって、お互いに慰めあっている」状況になるだけで。 「僕は孤独だ…」「何カッコつけてるのよ!さっさと仕事しなさい」というようなやりとりのほうが、「現実的な救い」になる場合も多くて、「なにもわかってないくせに、ケッ!」とかボヤきながら、けっこう気持ちが切り替えられたりするものかもしれません。
現実には、同じひとりの人間でも「共感」してもらいたいときもあるし、「シンプルに応援」してもらいたいときもあるのだから、どちらが正しいというよりは、状況に応じて使い分けられれば、それがいちばん良いのでしょうけど。 どんなに「その気持ちはわかる」と言ってみても、「共感」だけじゃ救われないんだよね、きっと。
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| 2004年12月14日(火) ■ |
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| 「ドン・キホーテ」の悲劇 |
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共同通信の記事より。
【さいたま市のドン・キホーテ浦和花月店の火災で焼け跡から遺体で見つかった3人は、客の誘導や消火活動に手間取るうち、惨事に巻き込まれた可能性がある。 同店で買い物をしたことのある流通関係者によると、店内の商品は「ジャングル陳列」「圧縮陳列」と呼ばれ、天井近くまで積み上げられ、避難経路は確保しているものの見通しは悪く、「自分で見つける楽しさ」を売り物にし、通路は迷路状で商品表示もなかったという。 出火当時、店内には20数人の客が買い物中、店員やアルバイト27人が接客や商品陳列に追われていた。不明者の大島守雄さんは南東側の電気製品の担当、小石舞さんと関口舞子さんは接客担当だった。】
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お亡くなりになられた3人の御冥福をお祈りいたします。
この事件に関するニュースを朝のワイドショーで観たのですが、近所の人たちの話として「夜は深夜まで煌々と明るくてうるさかった」とか、「最初は営業時間が27時までだったけど、地域からの苦情などで26時までに短縮された」というのがありました。そういうふうに「地元の人」から考えると、「ドン・キホーテ」のような「深夜まで賑やか」な店というのは、あまり快いものとはいえないのかな、と僕はあらためて感じました。ひとりの外部からの買い物客としては、夜遅くまで開いていて、いろんなものを安く買える「ドン・キホーテ」という店は便利なのですけど、確かに、毎日そこで日用品を買うわけではない地元民からすれば、「遅くまで騒がしいし、いい迷惑」なだけなのかもしれませんね。いくらパチンコ好きな人でも、家の隣がパチンコ屋だったら、やっぱり「それとこれとは別」という話にもなるだろうし、「人気のある店」というのは、近所に迷惑駐車をするお客が増えたりして、本来の商品の質を保つ以外のところでも、苦労が絶えなかったりもするみたいです。 もちろん、だからといって「放火してもいい」なんていうことは全くありませんし、今回の連続火災が放火であるならば、責められるべきは当然その犯人なのですけど。 確かに、「ドン・キホーテ」の人気の秘密というのは、安さのほかに、この斬新な「ジャングル陳列」という方式で、「面白いものを見つける楽しみ」をお客に提供している面も大きいとは思うのです。僕も最初に入ったときには、そのあまりの雑然としたレイアウトに驚いたのですが、実は、そのレイアウトそのものが「計算づく」であるのだと聞いて、さらに驚きました。確かに、「買い物」には、そういう「掘り出し物を見つける楽しみ」というのがあって、そういうのが、どんなにネット書店で好きな本が家にいるままで買えても(しかも、安いのに)、本屋に足が向いてしまう理由なのかもしれません。とはいえ、「安全性」という面から考えると、不安があるのは事実でしょう。 「見通しが良くて、スペースが広い」ほうが、一般的には安全でしょうから。
「ドン・キホーテ」は、深夜営業とオリジナリティのある商品構成・前述した「ジャングル陳列」などの手法で、ここまで業績を拡大してきました。でも、その一方で、最初に上げたような、地域住民からの批判や近隣の商店主からの怨嗟の声もあるようです。「出るくいは打たれる」というのが世間の常としても「商売がうまくいくためには、どこまで許されるのか?」と考え始めると、外部の人間である僕にとっては、ちょっと怖いような気もしてくるのです。 最近は、24時間営業のコンビニの影響なのか、どの店も営業時間が延長されて、22時、23時は当たり前になってきました。夜遅くまで仕事がある僕にとっても便利は便利なのですが、その一方で、「ここで働いている人は、大変だろうなあ」とも感じるのです。そもそも、深夜まで開いていても、その夜の時間帯は閑散としている店だって、たくさんあるのだし。でも、そんな20年前にはなかった深夜営業が当たり前の世の中になっても、働く人間の数とか一人一人の体力は、20年前とそんなに変わっていないのではないでしょうか? そして、夜に働く人が増えると、さらに夜に開いている店が必要になり…というふうに「人間の活動時間」というのは、どんどん広がっていく一方です。 「人がやらないことをやるのが成功のための秘訣」でしょうし、客としても便利には違いないんですが、僕は、こういうのってそろそろ限界なのではないかなあ、と感じてもいるのです。このままでは、みんなパンクしてしまうのではないかな、って。 お客というのはワガママになりがちで、そのニーズに応えるようにしてきたけれど、これからは、お客のほうも「働いている人や地域の人のことも考えて、ガマンする」という時代になっていくべきなのではないか、という気がします。他人に迷惑をかけてでも、深夜に買わなければならないものなんて、そんなにたくさんはないでしょうし。 もちろん、「ドン・キホーテ」に限ったことではなくて。
それにしても、今回亡くなられた方は、20歳前後の女性が2人と30代後半の男性が1人。 経営とか営業方針とかにはほとんど関係のない最前線の店員さんが、お客さんの安全を確保するために犠牲になったということに対して、僕は激しい憤りを感じます。 犯人は何が目的だったのかはわからないけど、どうして、末端の自分の生活を守るために働いているだけの人々ばかりが、こうして犠牲にならなければならないのだろうか?
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| 2004年12月13日(月) ■ |
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| 「新選組!」が遺したもの |
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毎日新聞の記事より。
【12日に終了したNHK大河ドラマ「新選組!」の平均視聴率が17.4%(関東地区)だったことが13日、ビデオリサーチ社の調査で分かった。過去10年間で最低だった昨年の「武蔵MUSASHI」(16.7%)を0.7ポイント上回った。】
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歴代大河ドラマの視聴率はこちらです。
初回は26.3%と好調だった、この「新選組!」なのですが、初期は視聴率低迷にあえいでいました。脚本の三谷幸喜さんも「三谷に大河の脚本はムリだ」なんてかなり叩かれていたみたいですけど、ネットで昨日の最終回を取り上げた人の多さとその賞賛ぶりからすると、「結果的には成功」と言っていいのではないでしょうか。少なくとも「今まで大河ドラマを観なかった世代の開拓」には成功したと言っていいでしょう。 まあ、それでも全体の視聴率が「武蔵よりちょっとマシ」というレベルだったということは、逆に「今まで大河ドラマを観ていた人」で、この「新選組!」にはついてこなかった(あるいは、ついてこられなかった)人が、けっこういたということにもなりますよね。そういう意味では、この「新選組!」が、大河ドラマの流れに与えた影響は、視聴率以上に大きなものなのかもしれません。キャスティングにしても、今までの大河ドラマが「とにかくできるかぎり有名俳優で固める」というものだったのに対して、若手の舞台を中心に活躍してきた俳優を積極的に起用するというのは、おそらく三谷さんの意向だったのでしょうが、大きな転換点だったと思います。
ところで、昨日の最終回で、「本当は、近藤勇たちがやったことの『評価』は、100年、200年経たないとわからない」というセリフを聞いて感じたのですが、新選組というのは、「何かをやらなければならない」という使命感にとらわれた若者たちが集まって、いつのまにか大きな組織になったのだけれど、最後は時代の波に流されて悲劇的な結末を迎えてしまった、という集団です。彼らが徳川家のために闘ったのは、そのイデオロギーに惹かれてというよりは、彼らの前には「幕府=正義」という価値観しか無かったからなのだという気がします。逆に、薩長側だって、「幕府を倒して外国に負けない近代国家をつくる」という新しい価値観に触れることによって、「倒幕=正義」という価値観を持つに至った、「何かをやらなければならない」という若者たちだったわけですから、結局「強迫的なまでの使命感」の前に現れた「価値観」が何だったのか?という違いにしか過ぎなかったのではないでしょうか。 立場が逆だったら、近藤勇が倒幕の志士になっていたり、高杉晋作が新撰組の局長になっていても、全然おかしくない、そんなふうにも感じます。
こういう比較をすると怒られるかもしれませんが、僕は、「新選組!」を観ながら、オウム真理教の信者たちのことを考えていました。彼らは「いかがわしい教義」に魅了されてしまった人々ではありますが、その一方で、もし彼らがオウムに入る前に、もっと反社会的ではない「価値観」に出会っていたら、全然別のことをやっていたかもしれないなあ、とも思うのです。 そういうのを「運」の一言で済ませてしまうのはあんまりなのだけど、「絶対的な価値観」には、そういう「危うさ」もあるのだし、ある種の「運」と言わざるをえない面を持っていたのではないかなあ。
ただ、そんなふうに考えていくと、自分がどこに向かっていけばいいのか、ものすごく不安になるだけではあるんですけど。 一生懸命に目標に向かってやってきのに、35歳という若さで自分が信じるものが崩壊していくのを見ながら刑死した近藤勇と、たぶん彼より長生きして、安楽に暮らせるであろう自分とを比較してみると、この先、死に臨んでも「悔しい、と言えるほどのものが何もない」かもしれない自分が、ちょっと悲しくも感じられるのです。 それにしても、滅びゆくものというのは、どうしてこんなに美しく見えるのだろうか…
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| 2004年12月12日(日) ■ |
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| そんなに騒ぎたければ、自分の葬式で騒げ! |
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「ああ、腹立つ」(阿川佐和子ほか、新潮文庫)の評論家・長山靖生さんのエッセイ「お義理で来るな」より。
【いくら出不精でも、葬式だけは失礼するわけにはいかない。ところが、葬式には人付き合いのいい人もたくさんやってくる。だいたい彼らは、愛想がいい。もっとはっきりいうと、口数が多い。ここぞとばかりに弔問外交を展開したり、旧交を温めたりする。葬式は久しぶりに懐かしい顔と会う機会でもあるから、下手をすると、同窓会の様相を呈する。「おお、元気だったか」「この後、暇か」などという大声がホールに響く。耳が御不自由になってきているのか、やたらでかい声の人もいる。「お元気で何より」と笑ったりする。ご遺族に聞こえはしないかと、はたで心配になるほどだ。
(中略)
ある葬儀(私には大恩ある方だった)で、ずっと大声で話している夫婦がいた。葬儀の後、競馬に行くつもりらしく、その予想やら、花輪の数やら、誰が来ているだの、「読経が長い」「何時終わるのかしら」などと言い合っていた。聞き耳を立てていたわけではないが、話はよおーく聞こえた。いい歳をした夫婦である。「騒ぎたければ自分の葬式で騒げ」と言いたかったが、とうとう言えなかった。こちとらはシャイなのである。 しかし心の名かでは叫んでいた。お前らなあ、少しは出不精になれよ。】
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よく、「葬式を見てみないと、その人の真価はわからない」なんて言いますよね。そして「自分の葬式をみてみたい」という人も多いのではないでしょうか?どのくらいの人が本当に悲しんでくれるのか、というのは、自分の思い込みとはだいぶ違っていそうな気もしますし。 それにしても、僕自身もこの「葬式でのマナーの悪さ」というのに閉口する機会は、けっこうあるのです。ほんと、遺族側からすれば、「それ、聞こえてますよ」というような不躾な言動をする人というのは、けっして少なくはないのです。それも、若い人だけではなくて、かなりご年配の方まで。 まあ、葬式が同窓会みたいになってしまうのは、けっして悪いことだけではないですし、故人の思い出話を集まった人々がしているのは、ある程度「寿命による死」だった場合には、かえっていい供養になるのではないかな、なんて思うこともありますから。 実際、僕が弔問させていただくときにも、「読経が長いなあ」なんて考えることもあるし、お焼香を済ませて一歩外に出ると、不謹慎ながら「これから何食べようかな…」なんてすぐに悩みはじめたりもするものだから。だからといって、そういう自分の気持ちを式場で表に出すことは、絶対にありません。それは、最低限の礼儀のはずだから。 葬式という場にいると、イヤでも「自分の順番」なんてことが頭に浮かんできて、それを払拭したくなるから、かえって「ご年配の方」のほうが、明るく(悪く言えば傍若無人に)ふるまっていることが多いのかなあ、とも思うんですけどね。 遺族としては、そういう「同窓会の人」たちはそれほど実害はないのですが、会場で「故人の噂話」とか「遺産が…」とか「嫁と姑の仲が」とかいうような話をしたがる人(信じられないことに、遺族に直接そういうことを聞く人までいるのです!)というのは、本当に腹が立ちます。「亡くなった理由」を尋ねられて、「そうですか、癌で…私も気をつけなくっちゃ…」って、どこからそういう結論に達するのか、僕には全然わかりません。故人は気をつけてなかった、とでも言いたいのかよ。
こういう、「仲良くもなかったのに弔問に来る人」とか「つきあいもないのに年賀状を出す人」なんていうのは、どうも「そういう儀礼的なことが好きな人」がけっこうな割合を占めているようです。逆に、「葬式に参列しているからといって、故人への弔意を持っているとは限らない」とも言えるわけで、単なる「善意の押し付け」みたいなことも多いんですよね。で、家に帰って「あの家は、弔問に来てやったのに、お茶も出さない」とか。 まあ、確かに「お義理で」で出席しなければならない冠婚葬祭の席というのは存在します。でもね、自分がそうだからといって、本当に悲しんでいる人たちの邪魔をするようなことは、やめましょうよ。黙って焼香だけして帰ってくればいいのに。
葬式というのは、「故人に弔いの気持ちを伝える場所」であって、「自分が弔意を持っていることを生きている人にアピールする場所」じゃないんだからさ。
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| 2004年12月11日(土) ■ |
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| 幼年期と老年期だけの大作家 |
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「百年の誤読」(岡野宏文・豊崎由美著、ぴあ)より。
(内田百�里気鵑虜能蕕虜酩塀検慳重咫戮僚馼勝覆箸いΔ茲蝓�内田さん本人の話題なのですが)の一部です。)
【豊崎:『ノラや』で見せる、猫がいなくなった時の悲しみぶりは尋常じゃない。だって一日中泣いてんですよ。真正のペットロス症候群(笑)。
岡野:そのくせ、人間には厳しいんだよ。もの凄い癇癪持ちで、編集者かたら怖がられてた。
豊崎:怒ると両耳がひくひく動いたんですって。で、自分でそれに気づいてからはコツを覚えて、立腹するたびにわざとひくひくさせてたらしい。お茶目?
岡野:僕は苦虫をかみつぶしたようなお茶目って呼んでんだけど。この先生、玄関先が書斎を兼ねてた時期があったんだよ。戸を開けると、あがりがまちに机置いていきなり仕事してる(笑)。そのくせ人が来るのが嫌いで、晩年の『日没閉門』てエッセイによると、<世の中に/人の来るこそうるさけれ/とは云うものの/お前ではなし>って蜀山人の狂歌のパロディを、玄関脇の柱に貼ってたんだって。いわく<百鬼園「世の中に/人の来るこそうれしけれ/とは云ふものの/おまえではなし」>(笑)。最高。そいで、日没には閉門だから、暗くなったらもう誰も入れない。ところが、人が来なきゃ来ないでさびしがってるみたいだし。いいよねえ。子どもみたいだ。
豊崎:なんか、幼年期と老年期だけの作家ですよね。それは、デビューが遅い作家なので、若書きの作品が読めないせいもあるとは思うんですが。】
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百鬼園こと内田百�里気鵝複隠牽牽后腺隠坑沓院砲離┘團宗璽匹任后F眦弔気鵑箸い�作家は、黒澤明監督の「まあだだよ」でも描かれていることでも有名です。ほんとにもう、これだけ読んだだけでも、内田さんの「困った人なんだけど、憎めない」というキャラクターが伝わってきます。 なかでも、この蜀山人のパロディの<百鬼園「世の中に/人の来るこそうれしけれ/とは云ふものの/おまえではなし」>なんて、蜀山人の「最初にドキッとさせて、次に安心させる」というものとは、まったく正反対の性格になっていますから、これを見た人はさぞかしいたたまれない気分になったことでしょう。でも、そんなに人嫌いなら、山奥に住んで、奥の間で仕事をしていればいいものを、わざわざ玄関先で仕事しながらこんなことを言っているんですから、そのひねくれっぷりもおして知るべし。とはいえ、仕事上の理由もあるとはいえ、「電話なんて嫌い」と言いながら電話自体は引いているし、携帯も持ち歩いているし、「年賀状なんてめんどくさい」と言いながら、全然来ないとそれはそれで心配になる僕としても、こういうひねくれ方というのは、微笑ましくも思えるのです。もちろん、実際に日常接していた人たたちにとっては、「たまらない人」だったのかもしれませんが。 それでも、こんなめちゃくちゃな言動を日頃やっていて、編集者から恐れられていても周りには人の姿が絶えなかったというのは、やっぱり彼の「寂しがりやの面」を愛すべきところとして許容してくれた人というのも多かったのではないかなあ。ひょっとしたら、「本当は寂しがりやの自分」をプロデュースするのが、ものすごく上手だった人なのかもしれません。 もちろん、百�寮萓犬里茲Δ丙庸修�あればこそ、こういうのが許されたという面もあるのだろうとは思うんですけど。
ほんと、「客観的にみればヒドイのに、憎めない」って人、やっぱりいるんですよね…
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| 2004年12月10日(金) ■ |
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| リメイクじゃなかった!「オーシャンズ12」 |
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日刊スポーツの記事より。
【豪華キャストで注目を集める映画「オーシャンズ12」(スティーブン・ソダーバーグ監督、日本公開来年1月22日)のワールドプレミア上映会がハリウッドで行われた。ジョージ・クルーニー(43)ブラッド・ピット(40)らギャラ総額120億円以上のスターが集結。クルーニーは「もし次があるなら日本でやるべきだ」と続編構想を明かした。 「オーシャンズ12」がハリウッド最大級の規模でお披露目された。会場となったチャイニーズ劇場前の大通りに敷かれた長さ250メートルのレッドカーペットに、オーシャンと仲間たちが降り立った。全世界から集まった報道機関は150社。約3000人のファンが沿道を埋めた。最も歓声が大きかったブラピは「素晴らしい」と会場の盛り上がりにほおを緩めた。 「オーシャンズ12」は、日本で興行収入70億円を記録した「オーシャンズ11」(02年)の続編。出演料の相場が2000万ドル(約21億円)以上といわれるクルーニーとブラピ、2500万ドル(約26億2500万円)のジュリア・ロバーツ(この日は出産間もないため不参加)、1700万ドル(約17億8500万円)のマット・デイモン、1000万ドル(約10億5000万円)のキャサリン・ゼタ・ジョーンズの主要メンバー5人だけで計96億6000万円。プレミア上演にも姿を見せた特別出演のブルース・ウィリス(2500万ドル)を合わせると総計は120億円を超える。「12」で支払われた実際のギャラは不明だが、だれにもマネーできない?布陣だ。 窃盗団の元締役のクルーニーは「日本を舞台にするのはベストアイデアだね」と、シリーズ化に乗り気。前作の舞台はラスベガスで今回は欧州。次回作の舞台がアジアでもおかしくない。近い将来、120億円軍団が日本で暴れ回る可能性が出てきた。】
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豪華なキャストですねえ、「オーシャンズ12」。しかしながら、僕は最初にこの映画の話を聞いたとき、「何年か前にリメイクされたばかりの映画をまたリメイクするの?」とか思ってしまいました。 あれは、「オーシャンズ11」で、今回は「12」なんですね。 前作もものすごく話題になった映画で、日本でも70億円の興行収入を記録したというのですから、大ヒット作品なのですが、僕にとっては、実のところ、「11」か「12」かの区別がつかないくらいの印象しかないのです。「そういえば、ラスベガスのでっかい金庫から大金を盗み出す話、だったよな」というくらいで。 かなり昔の作品のリメイクですから仕方がない面があったにせよ、観終わっての感想は、「こんなに大スターがたくさん出ているのに、この程度の話なのか…」というものだったような。 今から考えると、大スターを揃えればギャラだけでもすごい金額になってしまうし、なんといっても大スターを5分で死ぬチンピラの役に使うわけにもいきませんから(厳密には、カメオ出演で、そういう登場のしかたをする場合もあるのですが、それは除くこととして)、みんなにそれなりの「見せ場」をつくらなければならないのでしょうし。 でも、そうやって「出演者に遠慮しながら作られた映画」というのは、シナリオ的には制約が多くなるはずだし、「無難な内容」になるのも仕方がないんだろうなあ。 そういえば、昔の「東映まんが祭り」とかで、「マジンガーZ対グレートマジンガー」なんてのをやっていましたが、やっぱり、どちらかを贔屓するわけにもいかなかったみたいで、「どちらが強いんだろう?」とワクワクしていた子供時代の僕は、なんだか消化不良なもどかしさでいっぱいだったのを覚えています。そもそも「対」なんてタイトルについていても、実際に戦ったりしないことも多かったし。
まあ、「座長公演」みたいなもので、豪華な役者たちの競演を観るだけの映画だって、当然あってもいいと思うのです。たぶん、彼らの顔を観ているだけで幸せになる映画ファンもたくさんいるのだろうから。
とりあえず、次に「オーシャンズ13」ができるときには、僕が「あれっ?これってつい最近の映画のリメイク?」とか思わないくらい面白い映画だったらいいなあ、と思うんですけど。
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| 2004年12月09日(木) ■ |
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| 年賀状の季節に、自分の人望の無さを知るということ。 |
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毎日新聞の記事より。
【県議会の会議規則にご留意下さい――。県議会の古沢時衛・議会運営委員長は7日午前、午後の本会議に向けて開かれた同委員会で、異例の注意を呼びかけた。 前日の本会議で、議場で年賀状を書くなど“内職”する議員が目立ち、遠回しに注意した。会議規則は「議会の秩序及び品位を重んじなければならない」「参考のためを除いて、新聞、雑誌、または書籍などを閲覧してはならない」と規定、“内職”は違反だという。 6日夕の本会議は104億円の増税の是非などをめぐり、議論していたが、出席議員は在籍106人中77人だった。 古沢委員長は「議会の本旨は議論だ。忙しいとつい(内職を)やりたくなるがルールは守ってもらわなければ」。注意の効果か、7日は“内職”も目立たず、議会終了時の出席議員も87人。】
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これは、神奈川県議会での出来事なのですが、正直、「そんなに年賀状が大事なのかよ…」という感じではありますね。委員長の「忙しいとついやりたくなる」なんていうのも、そんなことに理解を示してどうするの?とか考えてしまいます。試験前の高校生じゃないんだから、社会人として、その「内職」は、さすがにマズイのではないでしょうか? それにしても、これだけ「年賀状書き」に追われるというのは、議員の人たちというのはものすごくたくさんの年賀状を、しかも(全部ではないとしても)手書きで書いている、ということがうかがい知れます。今の時代であれば、パソコンを使ったり、印刷に出したりすればはるかにラクだと思うのですが、そういう「手書きという礼儀」にこだわるのが、議員としては大事だということなのでしょう。確かに、これだけ印刷の年賀状が増えると、「手書き」というのは、ものすごくありがたいような気もしてきますしね。たぶん、この議員たちは、夜も一睡もせずに年賀状を書き続け、それでも時間が足りないあまりについ議場でも書いてしまうんでしょうね。なんだか、年賀状書くために議員やっているようなものですが。 確かに、外部の人からはほとんど見られることもない議場の中で熱心に討議に参加するよりも、支持者ひとりひとりに心を込めて年賀状を書くほうが、はるかに「有意義」だというのは、「議員でいるため」には正しい判断なのかもしれません。
まあ、僕も毎年、「今年こそは凝った年賀状を書くぞ!」と心に決めてインクジェットの年賀状を買ってくるものの、結局は「相手の年賀状が着くまでに出せれば、気分的にはセーフ」ということで、大晦日の夜に「紅白歌合戦」をBGMに、あわてて年賀状ソフトを起動する、ということを繰り返しているのですけど。
正直、手紙だけではなくて、電話、メールなど、「本当に用事のある人とコミュニケーションするツール」がこれだけ多種多様になった世の中ですから、あえて「年賀状」にこだわる必要もあるのかなあ、なんて気もします。ただ、あれって実際に書いていると、「百枚も年賀状を書く相手がいる自分の人脈」とか「百枚も年賀状が来る自分のVIPっぷり」に酔っているだけ、なんてことも多いのかもしれませんね。僕だって「年賀状不精」ですけど、「来るものは拒まず、というか嬉しい」から。 ところで、僕は毎年自分の中で「年賀状帰還率」というのを計算しています。これは「大晦日までに出した年賀状の枚数」÷「元旦に来た年賀状の数」で算出され、何をあらわす数値かというと、要するに自分の「人気度」だったりするわけです。この数字が「1」より大きければ大きいほど、「世間から人気がある(ような気がする)のです。もちろん、宣伝用のダイレクトメールは集計対象外とします。 しかしながら、僕の記憶の限りでは、身内に不幸があって全く出さなかった年以外では、「帰還率」って、100%を超えたことがありません。だいたい、60〜80%というところ。 おそらく日本人の平均は100%になるのでしょうから、毎年「平均より人気のない自分」に打ちのめされ続けているのです。
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| 2004年12月08日(水) ■ |
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| 超人気ブロガー・眞鍋かをりさんのカミングアウト! |
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「はじめよう!みんなのブログ vol.2」(インプレス)の巻頭インタビュー記事「ブログってこんなに楽しい!」から、眞鍋かをりさんへのインタビューの一部です。
(眞鍋さんが、自分のブログを「携帯電話で仕事の移動中に10分、次の移動で10分などと小刻みに書いたり、お風呂で書いたりしてる」という話に続いて)
【インタビュアー:うーん、お見事ですねえ。芸能人でそこまでできる人、ほかにいないんじゃないかなあ?
眞鍋:なんだか最初からブログ慣れしている、と言われて。あの書き方は、テキストサイト(*)を参照しているに違いない、なんてよく言われるんです。(*テキストサイト…日誌、小説、評論など、文章が中心の「読ませる」ホームページのこと)←これは、引用先に最初から書かれていた「注釈」です。
インタビュアー:改行の入れ方なんて、うまいですよね。
眞鍋:それもよく言われるんです。ネット系の文章だって(笑)。顔文字も使うし。友達にブログをやっていた人がいて、そこを見ていて。その書き方が自分のスタンダードになっているのかも。
インタビュアー:”テキストサイト”を知っているとは…ただものじゃないですね?
眞鍋:…実は、大学時代、自分で自分のファンサイトをやっていたことがあるんですよ。
インタビュアー:ええっ!?匿名で?
眞鍋:いえいえ、ちゃんと名乗って(笑)。
インタビュアー:自分で自分のホームページを運営ですか!
眞鍋:学校の授業でホームページの作り方を勉強したので、それで、作ってみようと。Wordで書いてたんですよ。
インタビュアー:Wordで!?
眞鍋:学校でそう習ったので…私のホームページを作ってくれているファンの方がいて、何かしたかったんですけど、特定のファンの方の掲示板に書き込んだりすると、迷惑がかかるでしょう?一生懸命書いてくれているのに、私から何もできないんじゃ申しわけないな、という気持ちがあって。
インタビュアー:全部、自分で?
眞鍋:全部ひとりでやってましたよぉ。トップページのイラストも描いて。掲示板もつけて。すごく地道な作業を、コツコツと…
インタビュアー:じゃあ、そのころホームページを自分で作ってたのに比べたら、ブログは全然ラクですよね?
眞鍋:そうなんです、カンタンですよぉ!ケータイからメール送るだけですもん!】
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眞鍋さんのブログ「眞鍋かをりのここだけの話」はこちら。
眞鍋かをりさんのカミングアウト!という感じのインタビュー記事です。 僕がこのインタビューを読んでいて思ったのは、「これは筋金入りだな…」ということでした。まあ、みんなから言われているうちに頭に焼きついてしまった可能性もありますが、いきなり「テキストサイト」なんて言葉がポーンと出てくるなんて! むしろ、雑誌側が「テキストサイト」という言葉に注釈つけてるくらいですからねえ… 眞鍋さんのブログが「テキストサイト的」なのに対して、僕は内心、「マニア層獲得のために、ゴーストライターが書いているのでは?」なんて疑っていたのですが、「Wordで書いた」とか、「自分で自分のファンサイトをやっていた」なんていう話は、涙ぐましいというか、親近感が湧いてくるというか。確かに、最近の大学では、「自分のホームページ作成」なんて講義があったりするみたいですものね。僕の後輩たちもそういえば、サイトを作っていたような記憶があります。その多くは、単位が取れてしまえばすぐにゴーストタウン化してしまいましたが。 先生も、せめてホームページビルダーくらい使わせてあげればいいのに、という気もするんですけどね。 あと、ここで語られている内容のなかで、僕がとくに興味深く思ったのは、眞鍋さんが「自分がファンのサイトに書きこみをすると、迷惑がかかる」というような、「ネットマナー」というか、(ヘビーユーザー的な)「ネットの常識」を熟知されている、ということです。こういうのって、一朝一夕に身につけたものではないだろうし。 それにしても、自分で自分のファンサイト作る人も珍しいよなあ。
ちなみに、このインタビューの中には、眞鍋さんの「匿名での個人ブログ体験」も語られています。やっぱり「好き」なんだなあ、と実感。 眞鍋さんが特殊な存在なのか、それとも、ちょっと自分の言葉で表現してみたい若者にとって、個人サイトとかブログというのが、ごく一般的な方法になっているのかは、今の時点では、なんともいえないところではありますが、やっぱり、本人が楽しんでやっていないと、芸能人サイトとはいえ、なかなか面白くならないのは、まちがいないみたいです。
ところで、「眞鍋さんが影響された友達のブログ」って、いったいどのブログなのでしょうか?それがすごく気になっている今日この頃なのです。
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| 2004年12月07日(火) ■ |
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| 子どもが、「勉強しなくなった」わけじゃない。 |
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読売新聞の記事より。
【経済協力開発機構(OECD)は7日、加盟国を中心とする41か国・地域の15歳男女計約27万6000人を対象に実施した2003年国際学習到達度調査(略称PISA)の結果を世界同時発表した。 2000年に続く2度目の調査で、日本は前回8位の「読解力」が加盟国平均に相当する14位に落ち込み、1位だった「数学的応用力」も6位に順位を下げた。文部科学省は「我が国の学力は世界トップレベルとは言えない」と初の認識を示し、来夏までに読解力を向上させる緊急プログラムを策定する。 調査は、覚えた知識や技能を実生活でどれだけ活用できるか、を評価するのが目的。「読解力」「数学的応用力」「科学的応用力」に加え、今回は直面した問題に対処する力を測る「問題解決能力」を初めて調べた。日本では昨年7月、全国143校の高校1年生計約4700人を対象に行われた。 その結果、文章を読みとる力を測る読解力は、加盟国平均を500点と換算すると、日本は498点。前回の522点から24点も下がり、各国中で最大の下落幅となった。1位のフィンランドとは45点もの大差がつき、特に成績最下位層の割合の高さが顕著だった。 数学的応用力も557点から534点に下がった。これは1位の香港(550点)などと統計的には差がないとして、データを集計した国立教育政策研究所は「1位グループであることは変わりない」と説明しているが、断然トップを走っていた日本が、1位集団に吸収された格好だ。 このほか、前回2位だった科学的応用力は、フィンランドに次いで今回も2位を維持。600点を超す上位層の生徒は各国中、最も多いという結果だった。 また、初調査の問題解決能力は、1位の韓国とわずか3点差の4位だった。 調査と同時に行われた生徒へのアンケートでは、通常の授業以外に、自分の勉強や宿題をする時間が週平均6・5時間で、加盟国平均の8・9時間よりかなり短いことなども判明した。 文科省はこれまで、日本の学力を「世界トップ水準」としてきたが、今回の結果を受けて、「我が国の学力は国際的に見て上位にあるが、読解力の低下など、世界トップレベルとは言えない状況」と、初めて“陥落”を認める分析結果を公表。すでに表明している全国学力テストの実施や学習指導要領の見直しなどに加え、新たに読解力向上のためのプログラムを来夏までに策定することを明らかにした。】
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共同通信の記事より。
【中山成彬文部科学相は7日の記者会見で、OECDの学習到達度調査の結果について「要するに勉強しなくなったんじゃないですか。低下傾向にあることをはっきり認識すべきだ」と述べ、世界トップレベルからの脱落を認めた。 さらに「もっと勉強しないと駄目だということを徹底しないといけない」と指摘。「日本が停滞している間に近隣諸国が追い上げてきて取り残されてしまう。東洋の老小国になってしまってはわれわれの子や孫たちに申し訳ない」と述べ、学力向上策に徹底的に取り組む姿勢を示した。 文科相は「『僕は勉強したいから塾に行きたい』と子どもの方から親にお願いするぐらいでないといけない」と持論を展開した。】
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以下の【ことば】は、毎日新聞より。
【ことば】OECD学習到達度調査 知識量や計算力を測る国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学・理科教育調査と違い、実生活への応用力を測る。00年から2年おきに実施。重点的に調べる分野を毎回変える(前回は読解力、今回は数学的活用力)ため、分野別の問題量も毎回違う。対象は無作為抽出。今回、国内で約4700人が参加した。】
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おそらく、僕を含めて、多くの人の「日本人観」というのは、「勤勉で、突出した能力の人は少なくても、平均的な教育レベルは高い」というものなのではないでしょうか。この結果は、まさにその「日本人のプライド」にかかわるもの、ではあるんですよね。 しかしながら、中山文科相の発言の「子どもが自分から『塾に行きたい』と親にお願いするようにならないとダメだ」というのは、やっぱり理想論だろうなあ、という気もするのです。 僕が中学校くらいのとき(もう20年くらい前)だって、「勉強したいから塾に行く」なんて同級生は、周りにはほとんどいなかったものなあ。正直、みんな「このままだといい高校に行けないから」と親に言われて無理やり、とか、「自発組」にしても、「同級生に負けたくない」とか「成績が落ちて不安」だとかいう、「今、そこにある危機」を回避するために、遊びたい気持ちを抑えて塾に行っていた、という感じでした。そもそも、そんなに「塾に行く」という行為そのものが、「家にいたら勉強しないから」でもありましたし。僕だって、勉強するよりは、家でファミコンをやっているほうが、はるかに楽しかったですし。 正直、「勉強をする」というのは、一種の強制であり、習慣なのではないか、と僕は考えています。僕はそれなりに勉強してきたつもりではありますが、それは「勉強が好きだったから」というよりは、「見かけが悪く、スポーツの苦手で、芸術的センスにも乏しい人間」にとって、唯一周りの同級生と比較してマシだったのが、この「勉強」というジャンルだったから、というだけなのです。どちらかというと、「これで自分の生きる道をなんとかしないと、生きていけない」というような強迫観念に、ずっと追われ続けていたような気がします。そして、多くの僕のような人間たちが勉強していたのは、おそらく、「少なくとも、自分の才能では、プロ野球選手になるために野球の練習をやるよりは、勉強したほうが生きていく武器になる」と判断していたからだと思うのです。
僕は今の時代の実情はよくわからないのですが、この結果からすると、「みんなができなくなっている」というよりも、「できない子どもは、ひたすらできなくなっていく」という状況なのではないでしょうか?そういう意味では、現代の「個性を伸ばす」と言われている教育が、一面で、安易に「できないことを容認する」という風潮になっているのかな、という感じもするのです。勉強している(させられている?)子どもたちは、物心がつくかつかないかのうちから「お受験」の準備をさせられて、そうでない子どもたちは、劣等感だけが増幅してしまうという現実。親は「勉強なんか、しなくてもいい」と「寛容な親」を演じながら、「勉強」以外の生きかたを提示できないという事実。そして、行き場のない子どもたちを「援助交際」などという名目で、さらに搾取しているオトナたち。 もちろん、勉強だけが正義ではありません。他に自分が生きる道を見つけられるのならば、別に勉強ばかりにこだわる必要もないし。でも、この「学力低下」は子どもたちの責任というよりは、「勉強してもムダ」な世の中を作りあげて、「勉強ばかりが人生じゃない」とわかったようなことを言っているオトナたちの責任なのではないかと、僕は考えているのです。 「いいよね、女子高生は、勉強できなくても援交で稼げて」 そんなオトナたちは、「寛容な大人」なんじゃなくて、単に「無責任」なだけ。 しつけをしなければ、誰だってトイレで用を足せないように、「生まれつき勉強したい子ども」なんているわけがないのです。もちろん、「勉強」というものに対して、向き不向きとか、好きになりやすいかどうか、という個人差はあるとしても、それは、やってみなければわからないこと。そして、子どもたちに「やらせてみる」のは、大人の責任なのではないでしょうか? 子どもが「勉強しなくなった」のではなくて、子どもを「勉強させなくなった」だけなのでは。 もちろん、極端に「勉強漬け」にするのは問題ですが…
みんな、騙されるなよ。今の日本は、勉強も努力もしなくても、そりゃ、なんとか食べてはいけるさ。でも、どんなに頑張ってもそれが反映されないような仕事は、ずっと続けるには退屈すぎるよ。
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| 2004年12月06日(月) ■ |
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| 忘れられない、父と子の食事の記憶 |
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「笑っている場合」(原田宗典著・集英社文庫)より。
(原田さんが、小学校1年生のころ、映画館の帰りに中華料理店で父親と二人きりで外食をしたときの記憶を書かれたものです。)
【暖簾をくぐって店に入ると、父親は僕と向かい合わせに座り、何が食べたいか訊いてきた。手元にメニューがあるわけではなく、困惑して壁に目をやると、品名を書いた短冊がべたべた貼ってあった。慌てて目を凝らしてみたが、「うわーッ、難しい漢字ばかりで、何が何だかさっぱり分からなーいッ!」というシンプルな感を得た。おかげでぼくはますますアガり、歯車の狂った頭で炒とか麺とか酢とか脂とかの難しい漢字を解読しようとしたために、たちまち耳から煙が立ち昇りそうになった。その様子を見かねてか、父親は、「チャーハンでいいか」と助け船を出してきた。ぼくはチャーハンとはどんなものなのか、よく分からなかったけれど、「それでいいですそれでいいです」と顎をがくがくさせてうなずいた。同時に、大人はあの暗号めいた難しい漢字が全部読めるのか、すごいもんだなあ、と恐れ入った。父親は白い割烹着を着た店員のおばさんを呼び寄せると、ぼくの分のチャーハンとバヤリースオレンジを注文し、最後にこう付け加えた。 「おれは……天津丼にするかな」 その品名は、ぼくの耳にやけに鮮やかに響いた。 テン・シン・ドン。】
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これは、昭和40年頃の話だと、原田さんは書かれています。まだ、外食そのものがひとつの「行事」だった時代のこと。このあと、原田さんはチャーハンの具の中の嫌いなものを取り除きはじめたり、お父さんの「天津丼」と取り替えてもらったりと、落ち着かない「父親との食事」の時間を過ごすのです。それにしても、こんな詳細な情景まで記憶に残っているのは、きっと、この体験が原田さんにとって印象深いものだったからに違いありません。
僕にも、いまでも覚えている父親との二人きりの食事の記憶があります。原田さんみたいに小さいころの記憶ではなくて、もう半分大人になりかけた時期の話です。うちはけっこう家族が多かったので、子供のころはあまり誰かと二人っきりで家で食事をするということはありませんでしたし、大きくなってからも、母親と二人ということはあっても、仕事や酒でいつも帰りが遅い父親と二人で食事をする、という機会はほとんどありませんでした。まあ、その原因としては、中学生とか高校生という時期相応に仲の良くない父子だった、ということもあったのですが。 当時、大学に入ったばかりの僕は、母親の病気の見舞いに実家に帰ってきて、ちょうど病室で一緒になった父親と、近くの寿司屋に入りました。当時の僕は、母の病気に対して、父になんらかの「責任」のようなものを押し付けようとしていて、なんとなく気まずい雰囲気のなか、男二人はカウンターに並んで座りました。 そして、最初の突き出しに出てきたナマコを、父は「お前、これ食べられるか?俺はもう歯が弱って、こういうのはダメなんだ…」と手もつけずに、僕のほうに押しやってきたのです。なんだか、その瞬間、僕は自分の親の年齢というものを痛切に感じてしまって、平静を装いながらも、ものすごくせつなくなりました。その後は、あまり言葉を交わすこともなかったのですが、父は僕が自分の寿司を一人前食べ終わると、「お前にはこれじゃ足りないだろう」と言って、あと一人前の寿司を追加注文し、自分は黙ってお茶をすすっていました。そして、僕がもう少しで食べ終わるというときに、「お母さん、難しいかもしれないな」と、何か見えない壁に向かって呟くように、僕のほうに向かって言ったのです。 たぶん、僕はあのとき、少しだけ大人になったのだと思います。それは、今まで自分にとって「壁」だと思っていたものが、予想以上に脆く、がらがらと崩れ落ちてしまって、自由だと思っていた世界は、守ってくれるものがいなければ、痛みと困難に満ち溢れた顔も持っている、ということを知った日でもあったから。
今はその父も鬼籍に入ってしまったのですが、たぶん、僕がこんなことを覚えているなんて知ったら、「もっと美味しいもの、たくさん食べさせてやっただろ!」なんて怒っているのではないかなあ。 でもね、あの日の親子二人での食事のことは、もう十数年も経つのだけれど、ずっとずっと、忘れることができないのです。
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| 2004年12月05日(日) ■ |
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| 「イエローキャブ」の内紛と出る人、残る人 |
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日刊スポーツの記事より。
【内紛劇で揺れる芸能事務所イエローキャブの野田義治前社長(58)と佐藤紳司新社長(48)が2日、別々に取材に応じた。佐藤氏は「野田氏が大株主に無断で増資した責任を取り辞任した」と経緯を説明。取締役を一新し、新体制で同事務所を運営する意向を示した。タレントの移籍は本人の意思に任せる方針だが、現在のところ山田まりや(24)雛形あきこ(26)MEGUMI(23)以外は残留することになるという。 一方、野田氏は「言えることは経営方針の違いで辞めた。船頭は1人でいい」とだけ話した。野田氏はイエローキャブとは別の芸能事務所サンズを保有しており、今後はサンズ社長として雛形らのマネジメントを行う。】
デイリースポーツの記事より。
【タレントの根本はるみ(24)が4冊目の写真集「N2」(11月24日発売)の発売記念握手会を4日、都内で開いた。 所属事務所「イエローキャブ」の野田義治社長(58)退任問題で揺れた数日だったが、「デビューからお世話になってる人なんで、これからもよき相談相手です」と人としてのつながりは切れていないことを強調。イエローキャブ残留については「手続きがすごく大変そうなので、今までどおりです」と話した。】
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あの「イエローキャブ」の内紛劇、外から見れば、結局何が変わるんだろう?という感じでもあるのですが、いわゆる「名前が売れている」人では、山田まりや、雛形あきこ、MEGUMIの3人が野田前社長についていって、小池栄子、佐藤江梨子、根本はるみの3人をはじめとする、山田さんたち以外のタレントは、残留することになる、というのが今の情勢らしいです。 まあ、こういうニュースを聞くと、「山田さんたちは、きっと野田社長派というか、野田社長にかわいがられていた人たちで、小池さんたちは、どちらかというと「冷や飯を食わされていた」人たち(まあ、自分でそう思っていた、というのも含めて)なのだろうな、とか、僕はつい考えてしまうのです。 また、【「新イエローキャブは、ピークをすぎた山田や雛形の“リストラ”も視野に入れていて、野田社長は、親兄弟の面倒を見ていた山田と、離婚して子供を育てている雛形を助けたい気持ちが強い」】というような関係者の話もあるようですし。 ただ、この根本はるみさんの「手続きがすごく大変そうなので」というコメントを読んで僕が思ったのは、「残る、残らない」というのは、ものすごく複雑な事情が絡んでいる一方で、単に「手続きがめんどくさいから」とか「現状に満足しているから」というような理由の場合もあるのだろうな、とも思います。残った人間が、必ずしも「野田社長が嫌い」だったわけでもなく、ついていく人間が「社長に恩義を感じている」という理由だけでもなく。どんなにいい貸家を見つけても「引っ越す手間」を考えれば、なかなか引越しには踏み切れないように(僕のようなめんどくさがりはなおさら)、もともと、そういう「変化」に対して積極的な人がいれば、消極的な人もいるだろうし。
「リストラ候補」に挙げられていた人たちは、「出て行かないと、自分の出番は失われていくだけ」だし、残る人は、「残留することによって、事務所内での自分のポジションが自然にアップしたり、仕事が増える可能性がある」という面もあるわけで。
結局は「野田社長に対する個人的感情」だけが残留するかどうかの決め手ではない、ということなんでしょうね。もちろん、それは大きなファクターのひとつだとしても。 それでも、雛形さんとかがついてきてくれるんなら、僕も会社辞めてもいいなあ、とか考えたりもするのですけど。
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| 2004年12月04日(土) ■ |
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| 「ハウルの動く城」における「世界の約束」 |
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映画「ハウルの動く城」パンフレット中に、児童文学作家・佐藤さとるさんが書かれた文章「約束事の世界」より。
【童話を書くようになり、主にファンタジーを手がけているうちに、気付いたことがある。それは、自分の書く非日常の世界には、その特殊な世界のリアリティーを支える、特殊な約束事がある、といことだ。
(中略)
そこでふと思い起すのだが、私がまだ子供だったはるかな昔、昭和の初期に見た短編漫画映画の一シーンに、こんなのがあった。 天才少年科学者が主人公で、この少年は自分の研究所を持っている。その研究所へ、オープンカーに乗った少年が颯爽と登場してくるが、自動車から降りた少年は、まったく思いがけないことをする。乗ってきた車を折り畳んでしまうのだ。二つに折り四つに折り、まるで布団を畳むように畳んでいって、やや大型のカバンほどになったところで、少年は手に提げて研究所に入っていく。
(中略)
漫画映画のことだから、わざわざ畳まなくても、自動車を小さくできるだろうに、少年は自動車の前を持ち上げ、具体的に手順を見せながら畳み上げていく。現実にはありえない出来事だが、観客は意表を衝かれながらも、自動車がカバンになってしまうという非現実を、大喜びで受け入れ納得する。『手順を尽くすところを見せる』というのが、この漫画映画に潜んでいた約束事の一つで、特に『見せる』というところが重要なのだろう。アニメーションだから当然といえば当然だが、どの時点でどのような見せ方をするか、そこが難しいにちがいない。】
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やっぱり、実際に書いている人の視点というのは違うものだなあ、と僕はこれを読んでいて思いました。ファンタジーのような「架空の世界」であれば、基本的に「何でもできる」という設定でもおかしくはないし、それこそ「必要に応じて、車が出たり消えたりする」というような「お約束」だってありえるのでしょうが、それだと、観客としては「リアリティーに欠ける」ような印象を受けてしまうのですよね。「自分の研究所を持っている、天才少年科学者」という設定そのものが、すでに、現実にはありえないフィクションなのですが、だからといって、「なんでもありの世界」では、けっして面白くならないのです。 「ドラえもん」だって、「あんなすごい『ひみつ道具』をたくさん持っているんだったら、もっとラクにお金を稼いだり、問題を解決できるんじゃないの?」と僕はいつも思うのですが(だって、ああいう道具を使えば、ジャイアンなんて簡単に「排除」できるはずだし)、そういう「過激な解決法」をとらないのが、「ドラえもん」の世界観なのです。そういえば、あの「ひみつ道具」のメカニズムみたいなのが、昔の「コロコロコミック」で解説されていました。フィクションの世界だからこそ、受け入れてもらうためには、「リアリティー」を無視するわけにはいかないのかもしれません。子供たちは、ありえない!とか思いつつも、そういった「リアリティー」に魅かれて、その世界に取り込まれてしまうのだから。
宮崎駿監督の「ハウルの動く城」という作品も、そういう観点でみれば、ある種の「世界の約束」を持っています。主人公を何でもできる「無敵の魔法使い」にしてしまうことだってできたはずなのに、実際はそうではなくて、油断も隙もあるキャラクターですし、巨大な「城」を動かすシステムにも「魔法だから」というだけの説明ではない、この作品なりの「リアリティー」を加えています。もっとも、原作がありますから、これらすべてが宮崎監督の創作ではないでしょうが。 あんまり「リアリティー」にとらわれすぎては「ファンタジー」として成立しないし、だからといって、「どうせウソなんだから」という開き直った姿勢では、誰も喜んで観てくれないんですよね、こういうのって。 「なんでもできるファンタジーの世界」だからこそ必要な「世界の約束」というのもあるのだな、と、あらためて考えさせられました。
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| 2004年12月03日(金) ■ |
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| ピカソの「ゲルニカ」に勝った「便器」 |
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ロイター通信の記事より。
【世界の芸術をリードする500人に、最もインパクトのある現代芸術の作品を5点ずつ選んでもらったところ、便器の彫刻が1位になった。 ピカソの名作「アヴィニョンの娘たち」が2位、「ゲルニカ」が4位だった。 ターナー賞のスポンサーとジンの製造会社が行ったこの調査によると、ピカソを負かして見事1位に輝いたのは、マルセル・デュシャンが、1917年に芸術界に衝撃を与えた便器の彫刻「泉」だった。 また、3位にはアンディー・ウォーホルの「Marilyn Diptych」、5位はマティスの「赤いアトリエ」だった。】
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参考リンク:マルセル・デュシャン年譜
Yahooのトピックスでは、この記事のタイトルは「ピカソの名作、便器の彫刻に負ける」だったのですが、これ(クリックすると写真が出ます)がその「便器の彫刻」こと「泉」という作品です。まさに「男性用小便器」そのもので、これが、ピカソの「ゲルニカ」より優れているのだろうか?と僕はものすごく疑問に感じてしまいます。「負けた」のは、ピカソの作品だけではないわけですし。 まあ、この質問の形式が「優れていた」ではなくて「インパクトがあった」というものだったのと、調査対象が「世界の芸術をリードする500人」だったことも、この結果の要因であるような気もしますけど。何を基準に「リードしている」としたのかもよくわからないし。 実は、この「泉」という作品、僕はこの記事ではじめて知ったのですが、デュシャンという芸術家がこの作品を通じて発信した「レディ・メイド」という思想は、確かに現代美術に大きな影響を与えているようです。正直なところ「うまく言いくるめたな」という感もなきにしもあらず、なのですけど。
「芸術」というものに対する人々の評価というのは、ある種絶対的なものであるのと同時に、相対的な要素も大きく含まれているのです。「モナリザ」がルーブルの女王であり続けている一方で、時間の経過とか、宗教的な背景とかに大きく影響を受ける「芸術」もあるのです。例えば、僕が中世ヨーロッパのロマネスク様式のマリア像の彫刻を見て感じることは「美しいなあ」「よく保存されていたなあ」ですが、それをリアルタイムで観ていた人たちは、「美しさ」とともに、そこに「神の存在」を投影していたはずです。できたばかりの彫刻に「歴史の重み」とかは感じないでしょうし。たぶん、今までの歴史の流れのなかで、現在遺っているものよりも優れた作品でも、壊されたり、失われたりしたものも多かったはずだし。ピカソの「ゲルニカ」はすばらしい作品なのですが、その「高評価」には、この作品に込められた「反戦思想への共感」という要因もあるのではないでしょうか。そういうふうに考えていくと、「芸術のための芸術=純粋芸術」というのは、なかなか存在しえないものなのかもしれません。 僕もそうなのですが、多くの人の芸術に対する評価というのは、「有名な作品か?」「いくらくらいの価値があるのか?」というような「作品の本質とは外れたところ」に大きく影響されがちなものです。美術館で、「ふーん」と一瞥して通り過ぎようとした作品に「ピカソ作」だという表示があったら、即座にUターンしてじっくり隅々まで鑑賞して「やっぱりピカソは凄い!」とか言ってみたりもするわけで。 「この画が凄い」かどうかなんて判断するほどの眼力が僕にはないだけに、「ピカソだから凄いはず」とか「人だかりがしているから良い作品なのだろう」とかいう判断しかできないんですよね。 現代は、「芸術」にも「情報」という付加価値がなければ、生き残れない時代なのかもしれません。そういう意味では、回答者たちにとって「泉」というのは、付加された思想も含めて、「ピカソを超えるインパクト」があったということなのでしょう。「前衛芸術家」の中には「いかに人を驚かせるか?」という「ビックリ箱競争」になってしまっている人もいるような気もするんですけどね。
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| 2004年12月02日(木) ■ |
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| 安倍なつみを「盗作」に奔らせたもの |
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サンケイスポーツの記事より。
【元モーニング娘。の歌手、安倍なつみ(23)がエッセー集やラジオなどで詩を盗作していたことが発覚し、来年1月末まで、大みそかのNHK「紅白歌合戦」などすべての芸能活動を自粛することが1日、所属事務所から発表された。紅白には後藤真希(19)、松浦亜弥(18)と3人で「後浦なつみ」として出演予定だったが、安倍抜きの後藤と松浦の2人のユニットとして出場することになった。 盗作問題が発覚した安倍が来年1月末まで2カ間、活動を自粛することになった。この日、H.P.オールスターズの1人として生出演するはずだったフジテレビ系「FNS歌謡祭」でも、ハロプロリーダーの中澤裕子(31)が「安倍なつみがこのような問題で、心穏やかな状況になれないため、出演を自粛します」と語り、「ご迷惑をおかけしました」とハロプロ総勢45人で謝罪した。 事の発端は、モー娘。時代の平成12年に発売した写真集「ナッチ」と15年のフォトエッセー集「ALBUM1988−2003」、今年発売した同「陽光(ひかり)」の書籍3冊と、MBSラジオ「ヤングタウン」で作詞した作品中に盗作があることが、11月下旬にインターネットの書き込みなどで発覚。 先月30日に所属事務所も認め、aikoら盗用された作者に謝罪し、出版社に3冊の販売中止を申し入れた。安倍自身も「人の詩やフレーズに勝手に手を加えて発表してしまいました。軽率な行動で、本当に申し訳ありませんでした」と反省のコメントを出していた。 この日はさらに状況が進み、「事態の重大さを考慮し、関係者に迷惑がかからないように」(所属事務所)との理由で、本人の2カ月間に及ぶ活動自粛にまで発展。注目の紅白歌合戦に対しても、同事務所がNHKに出場辞退を申し入れ、同局も了承。後藤と松浦を含めた3人組ユニット「後浦なつみ」として出演予定だったが、当日は後藤と松浦の2人で出場することになった。 披露楽曲は後浦なつみのデビュー曲「恋愛戦隊シツレンジャー」が最有力だったが、安倍が抜けたことで同曲を歌うことが不可能になったため、後藤と松浦のソロ曲をメドレーで歌う可能性も出てきた。そのことに、NHK、所属事務所ともに「話し合いはこれからで、まったく白紙の状態」としている。 いずれにせよ、7年間アイドル界を背負ってきた人気者が、年末年始にブラウン管から一切消えることになる。】
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僕は昨日、中澤さんが「FNS歌謡祭」で謝罪している場面を観たのですが、正直言って、「同じ『ハロープロジェクト』のメンバーだからといって、謝らされている中澤ざんは内心イヤだろうなあ、と思いました。「安倍なつみがこのような問題で、心穏やかな状況になれないため、出演を自粛します」というコメントは、どちらかというと「反省している」というよりは、「周りに騒がれていて面倒なことになりそうなので」という印象も受けましたし。いくらなんでも、公共の電波や書籍で、aikoさんとかJUDY AND MARYとか小室哲哉さんみたいなメジャーどころを盗作すれば、すぐにバレそうなことくらいわかりそうなものなんですけどねえ… 以前は、歴史小説の大家・司馬遼太郎の作品を「過剰引用」して作品が絶版になった作家もいたしなあ。そりゃバレるよ、だってあれだけマニアが多い司馬作品なのに…とあの時も思ったものでした。 もちろん、マイナーな作品だったら盗用してもいいということはありませんが…
それにしても、あらためて、人間の「プライド」というのは怖いものだなあ、と思います。ファンの人には怒られるかもしれませんが、実際問題として安倍さんの「詩の内容」に、ものすごく期待している人って、どのくらいいるのでしょうか。僕のイメージでは、「なっちが書いているのなら、なんでもいい!」と思っているファンのほうが多いような気がするのです。重要なのは、詩の「中身」よりも「誰が書いているか」ということ。たとえ安倍さんが「小学生の作文」みたいな詩を書いたとしても、文学フリークたちはさんざん馬鹿にするでしょうけど、それでも安倍さん自身への評価や作品の売れ行きは変わりないと思うのです。むしろ、「芸能人としての人気」のほうが「作品の出来」よりも重要なファクターなのですから。そもそも、今の日本で純粋に「詩人」として食べていけるのは、谷川俊太郎さんだけだ、なんて言われて久しい状況なんだし。 それでも彼女が「盗作」してしまったのは、締め切りに追われて苦しかったり、ネタが出なかったり、ということもあるんでしょうけど、やっぱり「なっちの詩は上手い!」とみんなに褒めてほしかったからなのかもしれません。客観的にみると、「安倍なつみが書いた、という看板さえあれば、内容は二の次」でも、本人としては、そんなふうには割り切れなくて。 だって、本当に見栄を捨ててしまえるのなら、ゴーストライターにでもなんでも外注すればよかったのだし(まさか、ゴーストライターがやったなんてことは…)。 「盗作」というのは、創作者としては最も恥ずべきことだし、安倍さんが叩かれるのも致し方ないことだな、とも思います。いくらなんでも、「著作権」くらい知っているだろうし。とはいえ、こんなバレないはずがない盗作をやってしまう人間の「プライド」というのは、なんだかちょっと痛々しくも感じるのです。 僕は最近つくづく思うのですが、大人というのは、「間違っていることを知らずにやる」ことよりも、「間違っていることを知っていながら、それでもやってしまう」ことのほうが、はるかに多いみたい。
この問題に関して、「なっち、自分の好きな作品をちょっとした出来心で引用」みたいな、なんとなく腫れ物に触るほうな報道をしているマスコミには、さすがにちょっとなあ、とは思うんですけどね。被害者側のコメントとか、全然出てこないし。 「稲垣メンバー」の件と言い、不自然に擁護しようとすればするほど笑い話になってしまうのは、もうわかっているはずなのにね。
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| 2004年12月01日(水) ■ |
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| 芸術的観点からみた、『エイリアン』のキャスティング |
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「シティ情報ふくおか・No.632」の記事、『エイリアンvsプレデター』のポール・W・S・アンダーソン監督へのインタビューより。
【インタビュアー:『エイリアン』を初めて世に送り出したのは巨匠リドリー・スコット。当時無名に近かった彼は、スターを起用しないことで誰が死ぬか判らないというトリックを使用し、スリリングな緊張感を生み出すことに成功した。
アンダーソン監督:今回『エイリアンvsプレデター』のキャスティングをフォックスと打ち合わせた時、まさにリドリーのポリシーに乗っ取った方法を取ることに決めたんだ。たとえばブルース・ウィリスが出てくるだけで観客たちは安心して観てしまうだろう。まさか彼がまっさきに死ぬなんて思わないからね。だからリドリーの取った賢い方法を押し通すことをフォックスを約束したんだ。
インタビュアー:それは建前で、もしかするとエイリアンとプレデターを製作するのにお金がかかりすぎたっていうことはないの?
アンダーソン監督:(笑)。もちろんエイリアンとプレデターを作るのにたくさんのお金がかかったよ。クイーンエイリアンは17フィートのアニマトロニクスなんだけどあれだけで2億円くらいかかったし、エイリアンの上半身のアニマトロニクスにも1億円くらいは使っているんだ。中に入っている人はとっても安いんだけどね(笑)。まあそれはおいておいて、とにかく有名人を使用しなかったのは金銭的な問題ではなく、あくまで芸術的観点からなんだ。】
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このインタビュアーもちょっと失礼な人ではありますが、なかなか興味深い話です。たぶん、「エイリアンの中の人」は、「もうちょっと自分にも出番をギャラを!」と思ったかもしれませんが。 アンダーソン監督が言われているように、日頃映画やテレビドラマを観たり、本を読んだりするときって、けっこう「作品の内容以外の情報」で、判断できてしまうことって多いですよね。 「この映画、まだ1時間しか経ってないから、まだ主人公は大丈夫だな」とか、「この主人公カップル、まだ7回目だから、もう一波乱あるだろうな」とか、ここに書かれているように「この役者が演じているキャラクターだから、最後まで生き残るんだろうな」とか。本にしても、「まだこれだけの厚さの分が残っているから、これで終わりじゃないはず」とか。 そう考えると、「エイリアン」でリドリー・スコット監督が使った手法というのは、そういう「観客の先入観」と逆手にとった、革命的なやりかただと言えるのだと思います。 ただし、これはまだ無名時代で、「エイリアン」という一種の「架空のキャラクターもの」だったから許された冒険で、多額の資金が投下された「大作」では、有名スターの集客力を利用しないわけにはいかないのでしょうけど。 それにしても、これを読んでいて思うのは、「インターネット小説」とか、「ネット配信のドラマ」には、こういう「観客の先入観」を利用できる可能性があるのではないか、ということです。 書籍の形だと、「あとこれだけしかページが残っていないから、終わりそうもないけど、そろそろ終わるんだろうな…」というような心の準備をされてしまうような場合でも、ネット上の文章であれば、「あと何ページ」なんていう情報はわかりませんから、読者の予想を裏切るような「唐突な幕切れ」も可能なはず。映画でもドラマでも、「お約束の時間制限」が無くなるだけでも、だいぶ表現の幅というのは広がるのではないでしょうか。
とはいえ、そういうふうに「お約束」が無くなれば面白いかと言われれば、それはまた別問題だったりもするんですけどね。 「お約束」って、最大公約数にウケるからそうなったのだし、なんのかんの言っても「みんなお約束大好き」という面もあるわけで。 デュカプリオが5分で即死する「タイタニック」とか、千尋が10時間くらい延々と油屋で働き続けるだけの「千と千尋の神隠し」なんて、やっぱりちょっと辛いよなあ。
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