
|
 |
| 2005年05月31日(火) ■ |
 |
| 「レッサーパンダを『見せ物』にしないで下さい」 |
 |
共同通信の記事より。
【動物たちを野生に近い形で見せることで人気の旭山動物園(北海道旭川市)がインターネットのホームページ上で、最近の起立するレッサーパンダブームについて「解剖学的に立つことは当たり前。(飼育の)プロが短絡的に『受けること』を続けていていいのか」と疑問を投げ掛けるメッセージを掲載したことが30日、分かった。 メッセージは「レッサーパンダを『見せ物』にしないでね」との題で掲載。 「レッサーパンダは外をのぞきたい、餌をもらえるかもと立ち上がっているだけで、その行為だけを抜き取って『すごいこと』と取り上げている。あの取り上げ方は芸であり、見せ物だ」としている。】
参考リンク「旭山動物園からの緊急メッセージ」
〜〜〜〜〜〜〜
書いてあることは、本当に「その通り」なのでしょうし、動物の飼育を生業にしている人からすれば、ああいう形で動物が「見世物」にされるのは、悲しむべきことなのだろうと思います。それにしても、「動物園業界」なんて、そんなに広い世界でもないと思われますので、よくこんな他の動物園を批判するようなことを書いたなあ、なんてちょっと心配になってしまうくらいなんですけど。 旭山動物園は、他の動物園とは違って「動物の本来の生態になるべく近い状態を来場者に見せる」というポリシーで、北海道の旭川という厳しい立地条件にありながら(まあ、敷地面積とか環境面では「恵まれている」面もありそうなのですが)、年々来場者数を伸ばしており、いまや、全国有数の来場者数を誇る動物園になりました。ここで働く人々にとっては「動物を見世物にして、ストレスを与えたり、生態について誤解を招いてしまうこと」は、ものすごく不本意なのだと思います。結局、そういう「ブーム」は、一過性のもので、赤字に苦しむ全国の動物園にとって、本質的な経営の改善にはつながらないものでしょうし。 でも、僕はこんなふうにも思うのです。旭山動物園のメッセージは「正論」だけど、この「正論」は、所詮、「勝ち組」の余裕みたいなものではないのか、と。
なんだかね、この記事を読んでいて、あの連敗記録の馬・ハルウララのことを思い出しました。 競馬の本質は「勝つこと」であり、連敗記録を更新することではありません。考えてみれば、「連敗」なんて、馬が無事で走り続けていること以外は、恥ずかしいことに決まっています。あのときも「連敗馬にあんなに人気があるのはおかしい」という意見もたくさん出ていましたし、僕にもそんな気持ちがありました。ものすごく強い馬、たとえばダービーを無敗で制したディープインパクトが評価されるのはわかるけれど、ただ走って、負けて、を繰り返す馬に、何の評価すべき点があるのか?と。 ハルウララの場合は、たぶん、多くの人が自分の中の「ハルウララ的なもの」を投影していたのだと思うのですが…… ただ、関係者たちは、ハルウララに対して、複雑な思いを抱いているはずです。彼らは「強い馬をつくる」ために日夜努力しており、「連敗記録」なんて、目指しているはずもないし、そういう記録の「恥ずかしさ」というのは、外野である僕たちよりも「プロ」にとっては大きいものではないでしょうか。それでも、赤字が続く「地方競馬の現実」は、ハルウララという「ヒロイン」に頼らざるをえなかったのです。だって、ハルウララが出走するというだけで、レースの売り上げは大きく上昇し、高知競馬も一時的ながら黒字に転じたくらいだったのですから。たとえそれが一時的な「延命治療」であったとしても、それをやらなければすぐ死んでしまう人が、それを選択するを責められるでしょうか?
「二本足で立つレッサーパンダ」である風太がいる千葉市動物公園も、入場者数減少に悩み、赤字を抱える地方動物園のひとつです。飼育係の人だって、最初はともかく、ここまでの騒ぎになれば風太にとってストレスになることは認識しているに違いありませんが、風太人気による入場者増などの「経済効果」を考えると、それが「一過性にしか効かない劇薬」だとわかっていても、「これを機会に、少しでも入場者数や興味を持ってくれる人を増やしたい」という気持ちになるのは、責められないのではないでしょうか。動物園で働く人たちにも「自分の生活」があるのだから。
僕は動物園とか水族館という場所が好きで、よく行くのですが、たとえ大規模なサファリパークであっても、人工の環境で飼われている動物は、多かれ少なかれ「見世物」だと思うのです。「見世物じゃない動物」を見ようと思うのなら、それこそ、「自分が動物に襲われるかもしれない環境」に身を置かなければならないはず。「野生」って、そういうものじゃないの? 旭山動物園が今までやってきたことは素晴らしいことだと思いますが、千葉市動物公園を「努力が足りない」と一方的に非難できるほどの「違い」はないような気がしますし、「昔ながらの動物園」が、そんなに悪い場所なのか、とも感じます。動物たちにとっては、どっちも似たようなものではないのか、とも思うし、各地の動物園が、みんな旭川の動物園と同じようにできるわけもなく、また、その必要もないでしょう。千葉市動物公園にだって、今後の改革の必要性や余地が十分あるとしても。
だいたいさ、「関係者の方へ」って言うのなら、千葉市動物公園に直接メールを送ればいいのにねえ。なんだか、自分たちの優位をアピールしているみたいで、ちょっと感じ悪いです。
|
| 2005年05月30日(月) ■ |
 |
| 「いやな顔になりそうなとき」の対処法 |
 |
「やぶさか対談」(東海林さだお・椎名誠共著:講談社)より。
(東海林さんと椎名さんがホスト役になっての対談集。「実演販売」の達人、川口隆史さん(2001年にお亡くなりになられています)がゲストの回の一部です。)
【川口:いや、どうしても目って強くなりがちじゃないですか。売れなくなると、やっぱりひきつってきたりしますよね。僕、それがまるっきり表に出ないんです。
東海林:常に目が笑ってますもんね。職業的にやってらっしゃるわけではないんですか。
川口:それはあります。僕も、昔はキツイ目をしていたんですよ。売れないとイライラして、「何てこんだけやってんのに買わないのッ」とか「たった千円なのに、何で買えないのッ」とか言ってしまったり。
東海林:お客に当たっちゃう。
川口:ええ。おふくろとか姉にも「目つきが悪い」って言われて。それで、売れても売れなくても、自分の一番いい表情を崩さない、お客さんにはいやな顔は見せないようにしようと。
東海林:鏡見て練習したり?
川口:ええ。あと、いやな顔になりそうなときは、台のところにいない。デパートの人に怒られても、喫茶店に行ってお茶飲んじゃうとか。
東海林:今は第一印象が目がやさしいですね。つくりあげたんだ、その目を。
川口:でも、これ、営業用の笑いじゃないですよ。自然体です。
東海林:川口さんの笑顔と落としのテクニックを使ったら、たいていの女性は……。
川口:それで何でモテないのかなあ。
椎名:アヤシイなあ、絶対モテると思う。】
〜〜〜〜〜〜〜
「実演販売」の番組って、眠れない深夜にテレビを点けてみると、偶然観てしまうことってないですか?これは、その「実演販売」の第一人者と言われていた、川口隆史さんとの対談の一部です。人前が苦手な僕にとっては、ああいう人と常に接していなければならないような仕事は苦手で、実演販売をしている人を観ているのもなんとなくいたたまれない気がして(買わないと悪いなあ、とかね)、ついつい避けて通ってしまいがちなんですけど。
川口さん本人は「自然体」と仰っていますが、実際のところ、これは「トレーニングによって身についた、顔の一部になってしまった仮面みたいなもの」なのでしょう。あまりに長年着け続けてきたために、はがせなくなってしまった仮面。 でも、本人にすら、それが「日常のもの」になってしまっているというのは、凄いことですよね。
この文章のなかで、僕がもっとも印象に残ったところは、こういう「プロ」でも、「いやな顔になりそうなとき」があるということでした。そして、川口さんはそんなときにどうするかというと、「プロ意識で表情を変えないようにする」のではなくて、「喫茶店で休憩して、気分転換をする」んですよね。どんなベテランでも、「どうしようもないとき」っていうのはあるのだし、そういうときにムリをして、お客さんにいやな顔を見せてしまうほうが、ちょっと気分転換のために時間を遣ってしまうことよりも、結果的には、はるかにマイナスになる、ということなのでしょう。 もちろん、仕事の種類によっては、そう簡単に「一息入れる」ことが難しいものがあるというのはわかります。でも、ちょっと気分転換して、自分を落ち着かせてから仕事を再開したほうが、はるかに良い結果を生むことは、少なくないはずです。いやな顔をしながら、その場に踏みとどまることが、常に良いこととは限りません。 「逃げる」なんて言うと言葉が悪いのですが、「気分転換」というのは、ものすごく大事なことなんですよね。「うまく逃げる」のも、いい仕事をするための秘訣なのかもしれません。 さすがに「逃げてばっかり」では、どうしようもないのだろうけれど、「逃げるという選択肢」を持っておくというのは、けっしてマイナスではないだろうと思うのです。
|
| 2005年05月28日(土) ■ |
 |
| 「表現の授業」の必要性 |
 |
「週刊アスキー・2005.6.7号」の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。
(第三舞台(現在10年間の活動停止中)の主宰であり、劇作家・演出家、そのほかにエッセイやラジオのパーソナリティなど多彩な活動をされている、鴻上尚史さんと進藤晶子さんとの対談の一部です。)
【進藤:”鴻上演劇研究所”の活動もされていますが、具体的にどのようなことをなさっているんですか。
鴻上:いわゆる発声と身体のレッスンみたいなことです。僕が1年間イギリスに留学していたとき、向こうの演劇人たちは、わりと小学校や中学校に出向いていたんです。
進藤:演劇の授業をされるの?
鴻上:というより、”表現の授業”です。たとえばシェイクスピアを読むというよりは、シェイクスピアを通して表現がうまくできるようにと、声の遣い方であるとか、身体を使って遊んでみるとかを実践させるの。
進藤:まあ、楽しそう。
鴻上:イギリスでそんなことを耳にしたから、いつまでもヤサグレててはいかん!と思いまして。ちょっとは社会に恩返ししなきゃなと。それで、お呼びがかかったら、ワークショップをやるようになりました。
進藤:どれぐらいのペースで活動してらっしゃるんですか。
鴻上:今ちょっと忙しくて、数ヶ月に1回くらいかな。でもマジメな話、”表現”の授業は、”音楽”や”図工”と同じように学校のカリキュラムに組み込むべきです。つまり、自分の声や身体を使って、人とコミュニケートすることを教える授業をですね。
進藤:いいですね。
鴻上:大人に教えることもあるんだけど、単純な言い方をすると、表現が豊かになるってことは、異性にモテるようになるってことなんですよ。
進藤:いろんなアピールの仕方が身に付くわけですか(笑)。
鴻上:口説き方はもちろん。いろんな表現の仕方を身に付けておけば、ビジネストークにも使えるし。】
〜〜〜〜〜〜〜
「日本人」としてこの国で生まれ育った僕としては、こういう芝居ががったような「意識的な自己演出」というのに、抵抗を感じてしまうのも事実です。やっぱり、そんなことしなくても、「暗黙の諒解」で成り立っている社会とか、「言わぬが花」なんていう関係のほうが、居心地がいいような気がするし。 しかしながら、この対談の中で、イギリスの子供たちは”表現の授業”を受けている、なんて話を読むと、日本の政治家が一般的に「外交下手」なんて揶揄されるのも仕方がないのかな、とも思います。小泉総理は比較的そういうことを意識している人なのでしょうが、相手は幼少の頃からですからねえ。 それにしても、こういう「自分をうまく演出して、他人とうまくやっていく」というのは、社会生活を送っていく上では、とても重要なことなんですよね。「外面ばっかり飾っても、内面が醜ければダメだ」という人は多いけれど、周りを見回してみれば、「外面だけが良いように見える人」のほうが、「本当はいいやつなんだけど…」という人より職場や地域で評価されていたりするし、日頃「人間は中身」なんて言っている人のほうが、逆に「外面だけが良い人」を見抜けていなかったりもするのです。 みんな、自分で思っているほど「中身」なんてわかっていない。 そういえば、同僚の医者に、とにかく女性に対してマメな(要するに、手当たり次第に口説いている)人がいて、仲間内では「本当にもう…」という感じだったのですが、この先生が、外来では冗談ばかり言っているのにすごく人気があって、患者さんウケがよかったのです。それとは対照的に、ものすごくマジメで患者さん思いなんだけど、つい患者さんにお説教してしまう先生は人気がいまひとつで、僕は内心、そういう「テクニック」みたいなのって、接客業には大事なのかなあ、などと半分あきれつつ考え込んでいたものでした。 極端な話、外面だけしか見せる必要がない状況なら、「中身」がいくら良くても「外面」が悪ければ誤解を受けるだけなんですよね。いやもちろん、中身が外面に滲み出る、ということはあるんですけど。 まあ、どうせ中身が同じなら、良い印象を与えられるほうがいいに決まっているのだし。
|
| 2005年05月27日(金) ■ |
 |
| 「華原朋美・決意のセミヌード!」のインパクト |
 |
サンケイスポーツの記事より。
【歌手10周年を迎えた華原朋美(30)が、初夏発売予定のアルバムのジャケットで初のセミヌードを披露していることが26日、分かった。過去の失恋をイメージさせる新シングル「涙の続き」(25日発売)をきっかけに決意。レコーディングの際に泣いたといい、同年代の失恋経験者に向けて「こんなに元気になった私を見て元気になって」とエール。“裸一貫”三十路パワーで10周年を突っ走る。
裸一貫のニュー朋ちゃんを感じさせる写真がジャケットになるのは、ユニバーサルミュージックから初夏発売予定の10周年記念アルバム「naked」。“看板に偽りなし”とばかりに背中をぱっくり。節目の年の決意表明だ。
決断に至るきっかけとなったのは、25日発売のシングル「涙の続き」。ミディアムテンポのバラードで、秋元康氏が作詞した。音楽プロデューサーの小室哲哉(46)との失恋をイメージさせる内容で、♪あんなに誰かを愛せやしないわ 今でも あなただけ…などと歌っている。
華原は感情を入れてしまったせいか、レコーディング時に泣いてしまったほど。「詞は昔の事実の私を歌っている」と認めるが、「詞以上に今の私を見てほしい」ときっぱり。同年代で大失恋を経験した“負け犬”へのメッセージソングとして歌っており、「こんなに元気になった私を見て、みんなも元気になってください」とエール。この熱意が新アルバムのジャケットにつながった。】
〜〜〜〜〜〜〜
華原朋美さんのセミヌード、ねえ…… 果たして、この「特典」が、どの程度売り上げに貢献するのか、ちょっと疑問な気もするんですけど。 こういう「決意のヌード!」みたいなのに感じるイメージというのは、宮沢りえとか菅野美穂のようなごく一部の例外を除けば、「そこまで売れなくなったのか…」というものではないでしょうか。華原さん、なぜか最近テレビやラジオで見かける機会が増えて、なんでだろう?とか思ってはいたんですけど。
それに、華原朋美さんに関しては、「小室哲哉と別れて、もう何年になるんだよ…」という気にもなってきましたし。さすがにこの「失恋商法」もマンネリ化が激しいよなあ。
実際のところ、こういう「アルバムジャケットにヌード」という戦略って、売り上げに貢献するのでしょうか?そんなに「裸一貫」なら、いっそのこと全部脱いで写真集でも出したほうが商売になるでしょうし、「セミヌードを見て喜ぶ層」と「アルバムを買ってくれる層」は、異なっているような印象も受けます。この御時勢に、華原さんのセミヌードの写真欲しさにアルバムを買うという人は少ないだろうしねえ…かえって、買いにくくなる人が増えたりしないのだろうか。 それでも、「とりあえず手にとってもらえれば成功」なのかな?
たぶん、この「セミヌード」って、本人が思っているのと、周囲が感じている「価値」が、ものすごく乖離しているのではないでしょうか。なんだか物悲しい話です。僕が「負け犬」だとしたら、「ここまでやらないとダメなの…?」とかえって落ち込んでしまいそう。 いや、そういう「ズレている」ところも含めての華原朋美、なのかもしれませんけどねえ。
|
| 2005年05月26日(木) ■ |
 |
| 「日記」を書くときに、してはいけない2つのこと。 |
 |
「泣かない子供」(江國香織著・角川文庫)より。
【小学校一年生の夏休みに、私は生まれてはじめて絵日記をつけた。一ページ目をかきおえて、さっそく嬉々として父に見せに行くと、どれどれ、と日記帖をのぞきこんだ父は(父は、仕事中でも決して、あとでね、とは言わなかった)、にわかにきびしい顔つきになり、 「日記は、きょうは、で始めてはいけない。きょうのことに決まっているんだから」 と言った。六歳の私の、あの失望。すごすごと書斎をでて行こうとする私の背中に、おいうちをかけるように父は、 「ああ、それから、私は、で始めてもいけないよ。私のことに決まっているんだから」 と言ったのだった。
(中略)
中学生の頃、話し合いの余地のない父の小言に、何と非民主的、非文化的な父だろうと嘆いたものだったが、話し合いの余地のない小言を本気でいえるというのはむしろ、きわめて文化的な(文化財的な、と言うべきか)、父なのではないかと、このごろ思う。 そうして、最後につけ加えるなら、「パプアニューギニアもどき」のかっこうをして、父いわくの「乱れた日本語」で会話し、深夜まで飲んで帰る娘は、今でも決して「きょうは」で日記をはじめることがないのである。】
〜〜〜〜〜〜〜
江國さんのお父さんは、よく言えば「言葉にこだわりがある人」であり、悪く言えば「細かいことに煩い人」だったということなのでしょうね。相手は六歳の女の子なのに、と赤の他人としては思うのですが。 まあ、だからこそ、今でも江國さんは「きょうは」で日記をはじめない人になってしまったのでしょうけど。
僕も日常日記を書いているのですが、これを読んで、正直ハッとさせられました。「きょうは」「僕は」というのを乱れ打っているので。 確かに、僕が借りている日記スペースには目立つように日付が入っていますし、ましてや、僕の日記に誰かが「代理日記」を書くことなどありません。にもかかわらず、自分の日記に「僕は」を使いまくっているわけです。「僕なんて当たり前じゃないか!他に誰がいるんだ!」と心の中で突っ込んでいた人が何人もいたのではないかと思うと、気が気ではないのです。 しかし、どうして日記に「きょうは」「私は」と書いてしまうのか、ということを考えてみると、やっぱり「これを読んでいる、私じゃない人」の存在を意識しているのではないかと思います。「私は」と書くときには、心の中で「あなたは違うかもしれないけれど」という、誰かわからない「あなた」への言い訳をしているのです。 あるいは、「もうひとりの決断力のない自分」に対する「私」なのかもしれない、なんていうこともありますが。
とりあえず、絶対に他の誰にも読ませるつもりがない「日記」には「私は」なんて必要ない、というのは事実です。「きょうは」というのには、例えば「きょうはいい天気だった」というように、「他の曜日との比較を強めるはたらき」というのがあるような気もしますけど。ただ、自分しか読まないはずの「日記」に、そういう修辞を使う必要があるかは別として。
「僕は」というのは、気弱さと言い訳がましさと自意識過剰のあらわれなのかもしれません。そして、自分では「日記」を書いているつもりでも、本当は誰かへの「手紙」ばかり書いているような気もしてくるのです。
|
| 2005年05月25日(水) ■ |
 |
| 「スパム・コミュニケーション社会」の裏側で |
 |
毎日新聞の記事より。
【埼玉県富士見市の認知症(痴呆)の老姉妹が全財産を失った訪問リフォーム問題で、姉妹から3社で計1800万円もの契約を取っていた元営業マン(47)が、偽名で勧誘や契約をしていたことが分かった。特定商取引法は訪問販売業者に氏名などを明らかにするよう定めているが、この男性は「(訪問リフォーム)業界ではよくあること」と釈明。3社中2社は実態のない幽霊会社だと認め、工事費は「自分たちの生活が成り立つように」決めていたことも明かした。高齢者を狙う悪質業者の実態が、また明らかになった。 男性は、姉妹と契約を結んだ16社のうち、最多の約2500万円分を受注したシロアリ駆除業者の元社員。8カ月の在職中、他の社員と共に姉妹と1663万円の契約を結び、退職後も別の2社名義で計166万円の契約を取った。この間、契約書に記した姓も押印も偽名だった。 これについて男性は「自分の名前は字面が良くないので、尊敬している先輩の姓を借りた。24年ほどこの仕事をしているが、業界では名字だけ変えるのはよくあることではないか」と話した。 また、退職後に契約した2社については「登記しておらず、(契約書に記した所在地は)知人の住所を無断で使った」と幽霊会社であることを認めた。契約書には施工担当者として別に2人の名前があるが、「会社は1人でやっていた」と言い、どんな工事をしたのかは「詳しくは覚えていない」と話した。 一方、工費の算出根拠については「相場も原価も知らない。同じような過去の工事額を覚えておいたので、記憶を頼りに決めた」と説明。「高すぎる」という専門家の指摘に対しては「目いっぱいいっぱい取ったから、安くはないと思う。自分たちの生活が成り立つように仕事をする」と居直った。 ただ、姉妹が認知症であることや、16社が工事を繰り返していたことは、いずれも「知らなかった」と釈明。「反省しており全額返済したい」と述べ、富士見市役所にもその旨を伝えたという。 また、男性がシロアリ駆除会社を退職後、同業者が姉妹宅に集まったことについては「契約書や顧客リストは持ち出していない。持っていたら売らずに自分だけで使う」と関連を否定した。一方で「リストは、ほかに辞めた人が持っているんじゃないですか。名前は言えないが、3人は辞めている」と流出の可能性に含みを持たせた。】
〜〜〜〜〜〜〜
僕はこの事件のニュースを聞いて、本当に「住みにくい世の中」だよなあ、と感じました。実際は、そういう「住みにくさ」は、どの時代に生きる人にとっても共通であったとしても。 何度かここでも書いたのですが、最近は、固定電話はネット用で、電話は家にいても留守電、なんていう家は多いでしょうし、玄関のチャイムが鳴っても、インターホンやカメラで確認してからでないとドアを開けないのが普通なのではないでしょうか。
女優・黒木瞳さんの「伝説」に、実家はすごい田舎で地域内の結びつきが強くて、家に鍵をかけたことなどなく、急に雨が降ったら近所の人が代わりに洗濯物を取り込んでくれる、なんていう話があったのですが、そういうのはなんだか、おとぎ話の世界のような気もしてくるのです。
先日、友人が家にいたら、玄関のチャイムを鳴らす音がして、ちょうど宅急便の人が来る予定になっていたので、彼女は確認のため、インターホンで「どちらさまですか」と話かけたそうです。 すると、見知らぬおばさんが「○○という研究所の者ですが、お部屋の水質検査をさせていただきたいのですが」と言って、部屋に入れてくれるように頼んできたそうです。「今は人を上げられる状態ではないので…」と断ろうとするといきなり「大家さんから、2週間くらい前に連絡があったと思いますが」とか何とか言い始めて、なかなか帰ってくれなくて本当に困ったのだとか(もちろん、そんな連絡など聞いていない)。「水質検査なら、水道の水をコップに入れて渡せばいいんでしょ」と言っても、「それじゃだめ、とにかく上がらせてくれ」という一点張り。 結局、インターホンを切って無視することにしたそうなのですが、もう、とにかく気持ち悪かったと言っていました。
ほんとにもう、僕は最近、家の電話が鳴るのや玄関のチャイムが鳴るのが怖くてたまりません(携帯電話は、今のところはマシ)。それこそ、電話が鳴るとオレオレ詐欺(今は「振り込め詐欺」でしたね)かマンションの売り込みのような気がするし、玄関に来るのは悪質な訪問販売員か宗教の勧誘なのではないかと思ってしまうのです。通販も便利ではあるんだけど、受け取るために玄関を開けなければならないと思うと、日中は家にいないこともあり、二の足を踏んでしまうくらいです。 被害妄想、なんでしょうけどねえ…… 携帯電話やメールのような、よりプライベートなコミュニケーションツールの普及というのは、ある意味、「比較的プライベートじゃないコミュニケーションツール」に対する恐怖感を増幅しているのかもしれません。 いきなり固定電話にかかってくる話や突然家を訪ねてくる人は、ほとんど「スパム」なんだし。
この「認知症の姉妹に対する悪質な訪問リフォーム」の話を聞いて、僕は暗澹たる気分になりました。昔から、訪問販売を生業とする人たち(いわゆる「押し売り」も含めて)は、買ってくれた家に目立たないように印をつけて、仲間同士に「この家では商売ができる!」とサインと送りあっている、という話を聞いたことがあります。彼らの立場になってみれば、それこそ冷たい対応をされて追い返されるのが当然なのでしょうから、彼らなりの「助け合いの精神」で、「優しい人」「騙されやすい人」を仲間に知らせていrのです。 でも、そうやって標的にされる家は、たまらないですよね……
僕はそういう怪しげな訪問者に対してひたすら自分の家に篭って嵐が過ぎ去るのを待ちますが(考えてみれば、勝手に訪問してくる人に対して、なんでそんなに息をひそめていなければならないのか、自分でも疑問だけど)、たぶん、そういう人は増えていく一方で、悪質な業者としては、「取れるところから、骨までしゃぶりつくす」しか、生き残っていく方策がなくなってきているのでしょう。 そして、「現代社会のディスコミュニケーション」に慣れていない高齢者が、どんどん餌食にされていっているのです。そういう傾向は、たぶん、これから酷くなることはあっても、改善していくことはないと思います。 【「自分たちの生活が成り立つように仕事をする」と居直った。】というコメントに対して僕が感じるのは、憤りというより、「これが現代のスタンダードなんだ」というやるせなさなんですよね。「完膚無きまで、徹底的にやる」というのが、世の中の「流儀」になりつつあって、「相手が高齢者だから」とか「認知症だから」というのは、むしろ「利用できてありがたい」という要素でしかないのです。これを報じているマスコミだって、悲惨な事故の被害者たちに遠慮なくマイクを向けて、「国民の知る権利」だと居直っているのだし。 確かに、自分が飢え死にしてはしょうがないし、2人で漂流している板が沈みそうなら、1人を海に突き落としても罪にはならないよ。 でも、そういうことに対して「契約だから」と、罪の意識すら感じられなくなりつつあるというのが、僕は悲しい。
絶対スパムに引っかからないためには、メールボックスを開かないしかないんだよね、結局のところ。そうすることで、自分の世界がどんどん狭くなっていく一方なのだとしても。
|
| 2005年05月23日(月) ■ |
 |
| ホームヘルパーに「セクハラ」をしてしまう人々 |
 |
河北新報の記事より。
【身体障害者や高齢者らから、セクハラを受けた経験のあるホームヘルパーが4割近くにも上ることが、山形県中山町の社会福祉士の調査で明らかになった。介護現場でセクハラが頻発していることは以前から指摘されていたが、「密室の出来事」とあって表面化しにくいのが実情だ。上司に相談しても、まともに取り合ってもらえず、泣き寝入りを強いられることが多いことも分かり、高齢化社会を支えるヘルパーたちの悩みが深刻になっている。 「30代の身体障害者の自宅で入浴介護をしていたら、『下半身を触ってくれ』と頼まれた。うつろな目をした利用者の顔が、今も頭にこびりついて離れない」 山形県内のホームヘルパーの女性は、体験談を話しながら顔を曇らせた。その場は「何を言っているの」と拒絶したが、「また行かなければならないのか」と憂うつになったという。 現在、女性が所属する事業所は防止策として複数のヘルパーで担当を回しているが、他のヘルパーにも「好きだ」「彼氏いるの」など、言葉によるセクハラは続いているという。 山形県中山町の特養ホームに勤務する社会福祉士荒木昭雄さん(45)は、東北福祉大通信制大学院の修士論文をまとめるため昨年末、県内ヘルパーにアンケートを実施。1179人に配布し、404人から回答を得た。 「セクハラされた経験がある」と答えたのは153人(37.9%)。自由記述では「利用者の息子に押し倒されそうになった」など、犯罪になりかねない事例の報告もあった。 関係者の多くが被害多発の背景に挙げているのが、2000年に介護保険制度がスタートし、利用者との関係に変化が生じたことだ。ある関係者は「在宅介護が有料となり、一部利用者に『サービスを購入しているのだから何をやってもいい』という意識が生まれた」と指摘する。 アンケートでは「セクハラを拒否したら契約を打ち切られ、事務所での立場が悪くなった」などの記述も目立つ。荒木さんは「上司に相談した場合でも『すきがあるあなたが悪い』と言われ、個人で悩みを抱えざるを得ない」と解説する。 荒木さんの問題提起を受け、山形県ホームヘルパー協議会事務局は、来月開く総会で被害実態を調査する。「ヘルパー個人が解決できる問題ではない。介護のプロとして事業所やヘルパーが一体となり、セクハラ防止のための有効策を検討していきたい」と話している。】
〜〜〜〜〜〜〜
介護の現場でのセクハラ、本当に酷い話だと思います。4割が体験しているなんて、信じたくない現実、という感じです。 この記事を読んでいると、「セクハラ利用者とお金を稼ぐことしか頭にない経営者の板ばさみになって、辛い思いをしているホームヘルパーたち」というのが浮かび上がってくるのですが、その一方で、「介護」とは何だろう?ということを考えさせられるのも事実です。 この記事の中にある「利用者の息子に押し倒されそうになった」なんていうのは、論外というか言語道断なのですが、実際に障害を持つ人々の「性に対する欲求」について考えると、なんだかいたたまれない気持ちにもなるのです。 僕は医者という仕事をしていて、ごく普通の「おじいちゃん」に「実は、バイアグラを処方してもらいたいんですが…」と相談されて困惑したこともありますし、「女の子、女の子!」と言いながら廊下を転げまわる精神科に入院されている患者さんの姿をみる機会がありました。その病院の院長先生は、実習に来ていた僕たちに「患者さんたちは、みんな心が真っ白で純粋です」と話してくれたのですが、僕は正直、「真っ白で純粋な心というのは、『おんなのこ!』になっちまうのか…?」と愕然としました。 確かに、性欲というのは、人間にとってはもっとも強い欲求のひとつで、こいつのせいで人間は理不尽な罪を繰り返しているのです。 病院にしたって、看護師さんたちは、日夜患者さんのセクハラまがいの行為にさらされたている場合もあるのです。まあ、そういうのに対してどこまで「おじいちゃんったら、しょうがないわねえ」とあきらめているのかには、個人差があるようですが、なんというか、こういうのは「業」みたいなものかもしれないなあ、という気分になることもあるのです。看護師のお尻を触るためにリハビリを頑張った人の話なんていうのは、それはそれで、スタッフの間では「伝説」になっていたりもするようですが……
そういう「あきらめ」がセクハラの原因なんだ! 正常な男女の関係というのは、相互理解に基づくものだし、愛し合うものたち(あるいは、お互いに合意したものたち)の間でなければ、「肉体的な関係」というのは(もちろん、セックスに限らず)許されないものだ! そう仰る気持ちはよくわかりますし、僕も本来はそうあるべきだと思います。でも、そんなふうに「正論」を堂々と主張できるのは、きっと、僕が「性的弱者」ではないからなのだろうな、とも感じるのです。 実際問題として、僕も含めた日本のいや世界の男たちのなかで、「性的に完全に満たされている人間」の割合というのは、非常に低いのではないでしょうか。ただ、そういう「慢性的な性的欲求不満」を抱えて生きていたとしても、とりあえず「正常範囲の性的能力」を持っていれば、あとは「本人の努力が足りない」ということになってしまうわけです。そして、頑張って恋人を作る人もいれば、お金を払って風俗に行く人もいるでしょう。自分で処理する人だっていますよね。 でも、仮に「自分の努力では、どうしようもない」とか「ものすごく重いハンディキャップを抱えている」という場合は、どうでしょうか? 「五体不満足」の乙武さんのように、ハンディキャップを抱えていても素晴らしいパートナーを見つけられる人というのはごくごく一部で、多くの人は、「障害のために、異性に相手にもしてもらえない」という状況にあったり、「自分でも処理のしようがない」という状況にあったりするわけです。 高齢になったからといって、必ずしも性欲というのは無くなってしまうというわけでもないようで、そういう自分の体と、世間の「おじいちゃんだから、そんなことはしない(できない)はず」というイメージの間に大きなギャップを抱えているというのは、非常に辛いだろうな、と思うのです。
たぶん、こういう人々にとっての「セクハラ行為」というのは、本人にとっては「やむにやまれぬ衝動」みたいなものなのだけど、現実にはそれで他人を犠牲にすることはけっして許されない、そういう性格のものではないでしょうか。他に誰も女性に相手にされないような生活をしていて、ヘルパーさんだけが優しくしてくれるような状況なら、ヘルパーさんに「好き」という感情を抱いてしまうことを「そんなバカな!」「非常識だ!」と一蹴してしまうのは難しいと思うのです。 その一方で、介護をする側は「普通の人間」なのだし、あくまでも「仕事」の範疇です。相手に恋愛感情を抱く必要も、性的サービスを提供する必要もないのだし、それは、責められることでもなんでもない。
「性」という問題は、介護の世界では、長年タブーとされてきたそうです。人間だから性欲はあるとはいっても、相手のあることですから、「なんとかしてくれ!」と言われても「どうしようもない」ことなのかもしれませんし、介護の一環としてセックスしてあげる、なんていうのは、やっぱりちょっと現代日本の倫理観としては、納得できない人のほうが多いのではないでしょうか。実際は、表には出ないけれど、風俗を利用する障害者は少なくないそうですが、それをわれわれ「性的強者」が「不潔!」と言い切れるものなのかどうか。
出展は失念したのですが、こんな話を耳にしたことがあります。 障害を持つ介護の利用者が、ヘルパーさんに「歌舞伎町の風俗店に連れて行ってくれ」と依頼したそうです。そして、そのヘルパーさんは、「自分はそんなところに行くのは嫌だ」と断ったのですが、あとで、介護センターに「どうして利用者の便宜をはかってくれないのか?」と苦情が来たそうです。それに対して、介護センターは、「それは、ヘルパーの仕事の範疇ではありません」と回答したそうなのですけど…… こういうのは、正直、「どっちが正しい」のか、僕にはよくわかりません。 ただ、「性欲」というのは、誰にでも多かれ少なかれあって、どうしようもないものだけれど、社会がそれを許容できる範囲は限られているのだ、としか言いようがなくて、でも、「できない」というのは、たぶん「できるけどしない」よりも、はるかにストレスなのだろうなあ。
こういうことを考えていると、僕も含めて「普通の人々」というのは、視野に入っているはずのたくさんの「弱者」を見ないようにして、変わらない日常を生きているのだなあ、ということをあらためて感じます。いや、「普通の人々」だって、自分が生きるのに必死なのも事実なんだけど。
|
| 2005年05月22日(日) ■ |
 |
| 「芸術テロリスト」の密かな憂鬱 |
 |
読売新聞の記事より。
【今年3月、メトロポリタン美術館などニューヨークの4つの美術館に自作を勝手に展示した英国人画家「バンクシー」が、今度は、大英博物館に、古代人がスーパーマーケットのカートを押しているニセモノ壁画をこっそり展示した。 この壁画は、「狩りに出かける古代人」の題で、今月16日に「古代ローマの英国」展示室に許可なく置かれ、18日まで3日間、だれにも気づかれずに展示されていた。 大英博物館スポークスマンは「他の展示品と調和していた。タイトルの付け方も本物そっくり」と、“見事”な手口に脱帽のコメント。 「芸術テロリスト」と呼ばれる「バンクシー」の事務所は本紙に対し、「大英博物館が私の作品を常設展示すれば、壁画の面白さがわかってもらえるはず」と本人の声明を伝えた。】
参考リンク:名画の間に「名画」展示?(中京テレビプラス1探検隊)
〜〜〜〜〜〜〜
その「狩に出かける古代人」というのがこの写真なのですが、さて、この壁画が美術館に飾られていたら、気が付くかどうか… まあ、僕が日頃行くような日本の美術館の特別展では、かならず見張りの人(という表現は適切ではないかもしれませんが)が一部屋にひとりはいますし、どの部屋にもまったく来場者がいない、というような状況は、ちょっと考えにくいと思います。僕は行ったことがないのであくまでも想像ですが、おそらく大英博物館というのはものすごく広くて、超有名作品が展示されているところ以外は、ほとんど人が来ないような展示室もあって、そういう部屋には、あまり厳しい監視はついていないんでしょうね。全部の作品にルーブル美術館の「モナリザ」レベルの監視をつけるわけにもいかないでしょうし。 それにしても、この怪しげな壁画が3日間も誰も気が付かないまま放置されていたというのは、ちょっと不思議な気もします。参考リンクにもあるように、「持ち去られることには神経質でも、持ち込みに関しては無頓着」なのでしょうね。それにしても、壁画を置いて、他の展示品と同じように説明書きまでつけられていたのですから、それなりの手間と時間もかかっているとは思われますが、意外と気が付かないもののようです。 確かに、一般の美術ファンレベルでは、有名な「目玉作品」は知っていても、「その他大勢の作品」というのは、「ふうん、こんな展示品あるのか…」で通り過ぎてしまうものですし。
しかし、当の「バンクシー」さんとしては、「気付かれないこと」というのは、果たして、期待した結果だったのでしょうか? 確かに「古の作品に比べて遜色ない」とか「作品の真贋を見抜く目を持ち、それを主張できる人は少ない」というのがわかったのは事実なのですが、本当は、3日間も「放置プレイ」される前に、「こんなヘンな作品が!」って話題になりたかったのではないでしょうか。「違いがわからない」というのは「インパクトがない」とも言えますからねえ。 「ヘンなのがある!」って、自分で博物館に通報してたりしたら、ものすごく悲しいだろうなあ……
|
| 2005年05月21日(土) ■ |
 |
| 「食べたくない」って、ハッキリ言いなさいよ! |
 |
「やぶさか対談」(東海林さだお・椎名誠共著:講談社)より。
(東海林さんと椎名さんがホスト役になっての対談集。田嶋陽子さんがゲストの回の一部です。)
【椎名:やっぱり田嶋先生は純粋じゃないですかね、基本が。 東海林:純粋……あっ、いい言葉だね。 田嶋:不器用で単純素朴に生きてるから。 東海林:質問をはぐらかしたり、韜晦とかしないですね。真っ直ぐに批判する。 田嶋:そうですね。たとえば、私が「食事しませんか」って言うと、「疲れていらっしゃるでしょう」って返事する人がいるんですよ。そうすると、私はすごく怒っちゃう。 東海林:何でですか。 田嶋:「疲れてるか疲れてないかは私の決めることで、あんたの決めることじゃないよ。あんたが食べたくないなら、食べたくないってハッキリ言いなさいよ」って。 東海林:「お疲れでしょう」って言い方って、挨拶代わりじゃないですか。あるいは思いやりとか。 田嶋:いや、断る言い訳ですよ。だから、勝手にこっちの気持ちを忖度してくれるな、こっちのせいにするな。そういうずるいことするなって怒るんですよ。】
〜〜〜〜〜〜〜
僕もけっこう、こういう「お疲れでしょう」「お忙しいでしょう」というような「婉曲的な拒絶」をしてしまうことが多いので、この田嶋さんの言葉には、ドキッとしてしまいました。ああ、こっちは気を遣っているつもりでも、相手はわかっているんだなあ、って。 もっとも、僕自身だって、そういうふうに「この人は、こっちに気を遣っているようだけど、本当は気乗りしていないんだろうな」というのが言われる側として「伝わってくる」ことはよくあるのですけど。
まあ、こういうのって、相手が憎からず思っている異性だったりする場合には、「疲れてても一緒に行きたいから誘ってるのに!」と歯噛みしてしまうこともありますし、気乗りしないけれども粗略にもできない相手であれば、社交儀礼的に「今度飲みにでも行きましょう」「そうですね、ぜひ」「じゃあ」というような感じで、お互いに間合いを取ったまま別れてしまうこともあります。後者の場合は、本当に「今からどうですか?」とか「じゃあいつにします?」とか言われて、困惑することもたまにあるのですが。
でもなあ、内心「行く気もないくせに」と思いつつも、実際に面と向かって「あなたとは行きたくないです」と言われたら、僕はけっこうショックを受けると思うのです。この人は自分のことを嫌いなんだろうな、と理解しているつもりでも、実際に「お前なんか嫌いだ」という言葉を投げつけられるのは辛いものではないでしょうか。
少なくとも今の僕にとっては、そういう「日本人的な気遣い」は、嫌悪感もある一方で、なめらかに生きていく上ために、なくてはならないものかな、という気がするのです。
それにしても田嶋さん、【「疲れてるか疲れてないかは私の決めることで、あんたの決めることじゃないよ。あんたが食べたくないなら、食べたくないってハッキリ言いなさいよ」】というのは確かにその通りなのですが、その「事実」を歯に衣着せず口にしてしまう「ハッキリした人」と食事をするのは、僕のような小市民にはとても辛いと思います。もちろん、誘われることもないでしょうけど……
|
| 2005年05月19日(木) ■ |
 |
| 教科書には載らない、「天ぷらの正しい食べ方」 |
 |
「花咲くばか娘」(わかぎゑふ著・集英社文庫)より。
【例えば、関西人は天ぷらにソースをかけて食べるのは一般庶民の常識なのだが、初めて「上等の店」で天つゆを付けて食べた時にみんな衝撃を受けるんである。「こんなに上品で美味しいものだったのか」と。これは私だけでなく大阪の下町で育った友達はみんなそうなのだ。 ほうれん草はおひたしにしなくてはいけない、バターで炒めたり生では食べられないと思っていたし、オムライスにはケチャップ以外のものはかけてはいけないと思い込んでいた。 苺だって砂糖と練乳をかけなきゃいけないと思い込んで食べてたから、そのままの味があんなにおいしいと知った時には驚いたものである。 そんな子供のころになんとなく覚えた食べ方がひとつの方法にすぎないことに気が付くまで、人間は意外と時間のかかるどん臭い生きものなのだ。】
〜〜〜〜〜〜〜
某有名食べ物漫画(というか「美味しんぼ」)で、「目玉焼きをどうやって食べるか」というのが取り上げられた回があったのですが、塩こしょうのシンプル派から、醤油、ウスターソース、ケチャップなど、さまざまな調味料を主張する人と「黄身から食べる派」「黄身は最後派」「つぶして食べる派」など、さまざまな食べる順番を持っている人たちに驚かされたものです。 ちなみに僕はウスターソース&黄身は最後派(しかも、本当に最後に「黄身だけ」残してしまうのです。ああ貧乏くさいなあ…)なのですけど。
人はみんな、「自分の食べ方がスタンダード」だと思いこみがちな生き物のようなのですが、とくにこの「天ぷら」に関しては、僕もわかぎさんと同じような経験があるのです。 わかぎさんは「天ぷらにウスターソース」だそうなのですが、僕の家では、家で揚げた天ぷらは醤油で食べるのが当然!」だったんですよね、子どものころは。 僕の母親は関東出身だったのですが、関東圏は比較的醤油が多かったのかどうかはよくわかりませんが… あのころは「外食で天ぷら」という機会はなかったので、自分が大人になって「天つゆ」というもので天ぷらを食べたときには、その上品さに驚いたものです。まあ、その一方で、「うーん、何か物足りないような気もしなくはない」と感じたのも事実なんですけど。 しかしながら、最近では「天ぷらの本道は”塩”だ!」というような話にもなっていて、「天ぷらを醤油で食べていた」なんていうのは、まかりまちがっても口にはしづらい趨勢です。それこそ、お見合いの席でそんなことを言ってしまえば、それだけで破談になるかもしれません。 確かに、天ぷら本来の歯ごたえを楽しむには、液体に浸すというのはあまりプラスではないような気はしますが、「醤油派」からすれば、「天つゆだって凄いじゃないか!」と主張してみたくもなるのです。 オムライスだって、今はけっこうデミグラスソースがかかってたりするし、スパゲッティなんて、ナポリタンを探すほうが難しいくらいだし。
それにしても、この「関西人は天ぷらにソースが常識」というのを読んで、僕は正直「て、てんぷらに、ソ、ソース…?」と驚いてしまったんですよね、実は。「ソースつけたら、みんなソース味じゃないか!」とも思ったんですけど、考えてみたら、醤油だって同じことなのに。 こういう「食習慣」というのは、なかなか変えられないものですよね。韓国に行ったとき、現地では一般的だという、刺身にコチジャンをつける食べかたをやってみて、「ああ、隣国とはいえ、この国と本当に理解しあうのは、なかなか難しいかもしれないなあ」なんて心底思ったものです。
|
| 2005年05月18日(水) ■ |
 |
| 「負けてくれない」コンピューター |
 |
「週刊ファミ通・2005/5/27号」(エンターブレイン)のコラム「桜井政博のゲームについて思うこと」より。
(桜井さんが、定年退職されたお父さんのパソコンをセッティングしていたときのエピソードです。)
【最初から入っているソフトに『柿木将棋』を発見!これならマウスを動かして駒をつまんで置くだけだから、カンタンに楽しめるだろうと思ったのですが……。 「ムズかしすぎだよコレ」 あぁ、そう。難易度ねぇ。コンピューターのレベルは初期設定よりうんと下げてみたのですが、それでもかなり強いらしい。コンピュータープレイヤーは、上手に負けることも必要だと思えるけれど。】
〜〜〜〜〜〜〜
この桜井さんが書かれたものを読んで、僕はまさに「隔世の感」に浸ってしまったのです。 僕がはじめて「マイコン」と呼ばれる機械に触れたのは、小学校高学年くらいだったのですが、当時のコンピューターでの「人とコンピューターが対戦するゲーム」では、確かオセロはコンピューターがなかなか強くて、チェスはまあなんとか人間の暇つぶしの対戦相手になるくらいのレベルだったと記憶しています。しかしながら、「将棋」というゲームに関しては、しばらくのあいだ、「コンピューター上で、人間どうしが対戦できる」(もちろん、通信対戦じゃなくて、目の前の相手ですよ)というような「将棋盤代わりのソフト」があるだけで、コンピューターと対戦できる将棋ソフトというのは、まさに夢のような存在だったのです。 「取った相手の駒を使える」というルールのために、オセロやチェスに比べると、コンピューターには非常に高度の思考ルーチンが要求されるため、コンピューター対戦将棋が「人間と対戦できるレベル」に至るまでには、本当に長い道のりだったようです。 やっと「対戦できる将棋ソフト」が出始めても、しばらくは「なんとか駒を動かせるレベル」で、こちらが王手をかけても、平気で関係ない手を打ったりするようなソフトばかり、と言う時期も、けっこう長かったのです。そして、ちょっと「強いモード」にすると、今度はコンピューターが一手に2時間考え込んでしまうような、そんな時代。 「マイコン」(電波新聞社)とか「月刊アスキー」というようなコンピューター雑誌では、定期的に「コンピューター将棋大会」が開催されて、最強の将棋ソフトが決められていました。 「将棋」というのは、当時のプログラマーたちにとって、「複雑な思考ルーチン開発の試金石」だったんですよね。 でも、いまやチェスでは人間の名人がなんとか最強のコンピューターと引き分けられるというくらいまで思考ルーチンは進化し、コンピューター将棋でも、「アマチュア○段」というような売り文句が当然のようになってきました。 桜井さんのお父さんの実力のほどはわかりませんが、おそらく今では、「どこにでもいる、ちょっと強い人」くらいであれば、コンピューターに簡単に負かされてしまうのではないでしょうか。昔は、人間側が「将棋らしくするために、コンピューターに対して手を抜いてあげていた」ものだったのに。 もう、人間がコンピューター将棋ソフトに全力で挑戦して、「強すぎる!」と文句を言える時代になってしまったのですねえ(遠い目)。
確かに「ゲーム」としては、「コンピューターがうまく負けてくれる」とうのは重要な要素なのですが、「桃太郎電鉄」とか「いただきストリート」のような「出目やカードでのコンピューター側の調整が可能なゲーム」とは違って(これらのゲームが、そういう「調整」を実際にやっているかはともかく)、「将棋」というのは、ズルのしようがない、まさに正攻法での勝負なのですから、コンピューターの機能においても、思考ルーチンにおいても、この20年の進化というのは、本当にすごいものですね。
これからは、「より強いコンピューター」から、「よりうまく負けてくれるコンピューター」の時代になるのかもしれません。 考えてみれば、コンピューターに「花を持たせてもらう」なんて、悲しい限りではありますけど。
|
| 2005年05月17日(火) ■ |
 |
| 流行作家・西村京太郎の最大のミステリー |
 |
毎日新聞の記事より。
(2004年の高額納税者・作家部門)
【■作家 西村京太郎さん(74)が7年連続でトップ。ヒット映画の原作「いま、会いにゆきます」の市川拓司さんが初めてランク入りし「なかなかそういう実感がないのですが…」と困惑のコメント。 【作家】 所得税額 1(1)西村京太郎 14,887 2(6)片山 恭一 14,209 3(5)村上 春樹 8,690 4(3)養老 孟司 8,649 5(7)浅田 次郎 7,506 6(2)内田 康夫 6,745 7(4)宮部みゆき 6,344 8(8)赤川 次郎 5,895 9(―)江國 香織 5,860 10(―)市川 拓司 5,654】
〜〜〜〜〜〜〜
参考リンク:長者番付(データの玉手箱)
ちなみに、2000年の高額納税者ランキングは、
<納税額 作家> 1位 19537万円 西村京太郎 2位 18888万円 赤川次郎 3位 16637万円 宮部みゆき 4位 14397万円 山崎豊子 5位 13369万円 内田康夫 6位 10731万円 浅田次郎 7位 10036万円 五木寛之 8位 9931万円 天童荒太 9位 8835万円 真保裕一 10位 8565万円 北方謙三
上記のようになっています。
〜〜〜〜〜〜〜
もちろん、節税対策を一生懸命されている人気作家もいらっしゃるでしょうから、納税額=人気のバロメーターと一概には言えないのかもしれませんが、それにしても西村京太郎さんの強さは破格です。 僕がまだ中学生くらいのころは、赤川次郎さん(「三毛猫ホームズ」シリーズなど)の(セールス的には)絶頂期で、「本好きの女の子」は、みんな赤川作品を愛読していたような気がします。当時は、「マンガじゃない」というだけで、胸を張れていたような感じだったし。 それに対して、僕は西村京太郎作品をけっこう好んで読んでいました。昔の西村さんは、「消失もの」と呼ばれるいろんなものが消えてしまうミステリ系の作品や「名探偵シリーズ」というメグレ、クイーン、ポアロ、明智小五郎の4人の名探偵が現代によみがえるというパロディ系の作品なども書かれていて(そういえば、「D機関情報」なんていう、今の福井晴敏作品のはしりのようなものもありました)、「日本国民全員を誘拐した」という設定の「華麗なる誘拐」というような作品も印象に残っています。「華麗なる誘拐」のトリック(というべきなのかな)には、けっこう驚かされたというか、やられた!と思わずつぶやいてしまいました。なんだか、最近は「同じようなトラベルミステリーばっかり書いている、引き出しの少ない人」のようなイメージがあるのですが、実は、いろんなものが書ける人なんですよね。とにかく「登場人物がチャラチャラしている赤川次郎」よりは、「渋い西村京太郎」のほうを当時の僕は好んでいたわけです。今から考えれば、流行作家を追っていたという意味では、そんなに大きな違いはなかったような気もしますけど。 この2人と、内田康夫さん(浅見光彦シリーズ)の3人が、長年「御三家」として、作家長者番付を仕切ってきたわけです。僕の記憶のかぎりでは、以前はずっと、1位赤川次郎、2位西村京太郎だったものなあ。 参考リンクによると、1983年度に赤川次郎さんがトップに立って以来、15年間に14回のトップ(残り1回は内田康夫さん)、1998年度からは、7年連続で西村京太郎さんがトップに立っています。 「流行作家」なんて言いますが、少なくともこの「御三家」に関していえば、本当に長年安定して売れ続けているということになるんですよね。 もちろん、作品数の蓄積そのものが多いから、という要素もあるのでしょうけど。 あとは、宮部みゆきさんや浅田次郎さんのような比較的新しい安定勢力と、片山恭一さん天堂荒太さんのような「大ヒット作品を生み出した人」が入れ替わっていく、というランキングのようです。
それにしても、20年間売れ続けるというのは、並大抵のことではないですよね。なんのかんの言っても、西村さんの作品には人を惹きつける魅力があるのでしょうし、同じ「トラベルミステリー」というジャンルでも、いろいろな要素が含まれているに違いありません。また同じような話?なんて呆れる前に、たまには読んでみなければなあ、なんて考えてしまいました。 でもなあ、こんなにたくさんの人がどこで西村京太郎作品を読んでいるのか、正直僕には謎でもあるのです。 そしてやはり、いわゆる「純文学」というのは、なかなか売れないみたいですね。それこそ、ノーベル賞でも獲れば話は別なんでしょうが。
もちろん、売れた作品=良い作品ではないわけですけど、「流行作家」の仲間入りをするのは、なかなか難しいことのようです。
|
| 2005年05月15日(日) ■ |
 |
| 忌野清志郎の「ロックの危機」 |
 |
日刊スポーツの記事「日曜日のヒーロー・464」より。
(活動35周年を迎えたミュージシャン、忌野清志郎さんのインタビュー記事の一部です。)
【インタビュアー:反骨のロック人生にも重大な危機があったとか。
清志郎:17年前、カミさんが妊娠した時。本当に焦った焦った。子持ちのロックンロールがイメージできなかった。オヤジになった清志郎が想像できなくて。絶対これはやばいなと。生まれたら、もうロックなんかできないと本気で思ってました。どんどんお腹がふくれてくるし、もうどうしたらいいんだと必死に考えました。
インタビュアー:結論は
清志郎:生まれたことをひた隠しにする(笑い)。それで生まれるまでに思い切りたくさん曲を作る。それを年に1,2枚小出しにして、食いつなぐ(笑い)。本気で思ってました。1ヵ月間ほとんど寝ないでスタジオにこもり、40曲ぐらい作りましたもん。
インタビュアー:誕生後は
清志郎:こんなにかわいいものが世の中にあったのかって(笑い)。隠すどころか、かわいいんだと自慢したくてしょうがなかった。仕事場にも連れていきました。子連れ狼みたいにベビーカーをガラガラ押して。子供にはいろいろ教えられました。好きなことはやるけど、嫌なことは泣いてやらない。バンドが解散したり、レコード会社ともめたり、社会や人間の嫌なものをだいぶ見てきたけど、こいつは何て自由なんだと。価値観が変わりました。音楽への影響?ロックの危機ってことはなかったなあ。一体あの焦りは何だったんでしょうね。】
〜〜〜〜〜〜〜
清志郎さんにとっては、まさに「案ずるより産むが易し」という結果になったみたいです。 子供が生まれるなんて、ロックの危機だ!なんて、傍からみれば「そこまで深刻にならなくても…」という感じなのですが、父親になるという「安定感」みたいなものと「ロックの精神」とは相容れないものだと、そのころの清志郎さんは思っておられたのでしょうね。 それにしても、「子供なんて欲しくない」という人ほど、実際に自分の子供を持つと親馬鹿になってしまう」という話をよく聞きますが、この清志郎さんのコメントを読むと、確かにそういうものなのかもしれないなあ、と感じます。「子供」という存在に、期待していないというと語弊があるのでしょうが、それによって「失ってしまうもの」を数えてしまう人ほど、意外と、「子供によって得られるもの」の大きさに驚かされる面もあるのかもしれません。自分のこととしては、「子供がいたら、自分の自由な時間がもっと少なくなってしまうし」とか、「子供とはいえ、他人の人生に責任を持つのは大変そうだな」とかいうことを考えてしまうのですが、けっして、「悪いことばかりじゃない」のですよね、きっと。 人間というのは、後から思い出すと失笑してしまうようなことで、悩んでしまうものみたいですね。先のことをいろいろ悩みがちな、もう若くない独身男としては、なんだかちょっとホッとするような話です。 僕はロッカーじゃなくて、単なるモラトリアマーなんですけどねえ。
|
| 2005年05月14日(土) ■ |
 |
| 「口下手な営業マン」の生きる道 |
 |
「渋谷ではたらく社長の告白」(藤田晋著・アメーバブックス)より。
(サイバーエージェントの藤田社長が、学生時代に働いていた会社の専務に教えてもらった「営業の秘訣」)
【「営業は自然体が一番だ。おれは口がうまいわけじゃないだろう?」 「はい」 「おれは営業時代『渡辺くんは口下手だから信頼できる』と言われて受注をもらったんだ。うまく話そうと思うな。自分の言葉でしっかり考えていることを伝えろ。自然体でいろ。それが自分と商品に対する自信の裏返しなんだ」 この言葉にはっとさせられました。同じく口が達者なわけではない私は、営業活動において、仕事の交渉において、自分が救われたような気がしました。】
〜〜〜〜〜〜〜
藤田社長が、本当に「口が達者なわけではなかった」かどうかは別として(というか、この本を読んでいると、藤田社長には人を惹きつける天性の魅力がありそうな感じがするのですけど)。 僕もやはり、営業というのは口が達者でないとやっていけないようなイメージを持っていますし、少なくとも、口下手じゃだめだろう、なんて思うのですが、実際に自分が誰かと接するときに「あまりに口がうまい人」には、かえって警戒してしまう面もあるというのはよくわかります。 日本の社会では、「巧言令色少なし仁」という言葉は、まだ連綿と受け継がれているようですし。 でも、「自分の言葉で伝える」「自然体でいる」というのは、実はものすごく難しいことですよね。「自然体」という言葉はしばしば使われるのですが、じゃあ、どういうのが「自然体」なの?と考えると、言葉にするのはなかなか大変です。むしろ、もともと魅力的な人は、何をやっても「自然体」ということで許されてしまうのではないか、という気もするのです。 ただ、自分の特徴を理解して、それに応じたやり方を考えるというのは、対人関係において、ものすごく大事なことなのですよね。そして、「短所を直すこと」にばかりこだわるよりは、「短所を長所にする発想の転換を行って、それを利用すること」のほうが、より有効な方法であるように思えるのです。 中途半端に話術を磨くよりも、口下手なりの誠実さを売り物にするほうが、より有効な場合もあるんですよね。
でも、こういうのって、やっぱり「才能」なのかなあ、とも思うんですけどね。どんなにうまくいかなくても他人にぶつかっていくというのは、実際にはなかなかできないんですよねえ。
|
| 2005年05月13日(金) ■ |
 |
| 記者の「暴言」は、「使命感」や「熱心さ」から生まれるのですね。 |
 |
毎日新聞の記事より。
【読売新聞は13日、JR福知山線脱線事故のJR西日本の記者会見の席で、同社大阪本社の記者に不穏当・不適切な発言があり「明らかに記者のモラルを逸脱した」として、社会部長名でおわびを掲載した。読売新聞によると、記者は会見に出席したJR幹部に対し「あんたら、もうええわ、社長を呼んで」などと声を荒げ、感情的発言をしたとしている。 会見は5月4日から5日未明にかけて、社員がボウリング大会や懇親会に参加していた経緯の説明がテーマだった。会見で罵声を浴びせる記者の姿が、テレビや週刊誌で取り上げられたため、苦情が寄せられたという。 谷高志・大阪本社社会部長名で出された談話には「使命感や熱心さのあまりとはいえ、常に心がけるべき冷静さを欠いたと言わざるを得ません。日ごろの指導が生かされなかったことに恥じ入るばかりです」としている。 “罵声記者会見”をめぐっては、テレビ、ラジオ、産経新聞などが取り上げていた。週刊新潮5月19日号は「『記者会見で罵声』を浴びせた『ヒゲの傲慢記者』の社名」として掲載し、読売新聞の記者と伝えていた。】
〜〜〜〜〜〜〜
あの「罵声」に、不快な思いをした人は、けっして少なくはなかったようです。もちろん僕もそのひとりで、あまりの罵詈雑言と傲慢な態度に、あの状況では言い返すこともできないであろうJR西日本の幹部たちに、ちょっと同情すらしてしまいました。それこそ、「サンドバック状態」だったのだから。内容はさておき、あんなふうに「弱いものイジメ」をやっている姿に好感を抱く人は少ないでしょう。あの記者に「お前自身は、何も失ってなんかいないし、むしろ大ニュースで喜んでいるんじゃないのか!」と罵倒してやりたくもなってきたのです。 いくら一連の報道でJR西日本の問題点が明らかになっていたとはいえ、僕たちの意識の中には、「自分が被害者になるかもしれない」という憤りとともに、「自分も企業(あるいは共同体)の一員として、「糾弾される側」に立たされるかもしれない」という不安もありますしね。
でも、僕はちょっと疑問なのです。 何が疑問なのかというと、あの記者は、本当に「使命感や熱心さのあまりとはいえ、常に心がけるべき冷静さを欠いた」のだろうか?ということに。 もともとああいう人なのかもしれませんが、僕には彼の言動は、「煽っている」ようにしか見えませんでした。「使命感」とか「熱心さ」というような、「純粋な動機」だとは、思えなかったんですよね。 あくまでも僕が受けた印象なのですが、彼のあの異常な言動というのは、「わざと酷いことをJRの幹部たちに浴びせて、無難かつ杓子定規な受け答えをしているJRの幹部たちから、『感情的な言葉』や『本音』や『失言』を引き出そうとしている」ように思えました。 カメラマンは、被写体をわざと怒らせて「自然な表情」を撮ろうとするような、そんな「テクニック」のつもりで、本人はやっていたような気がしたのです。だって、あの記者は、「心の底から怒っている」というより、「単にJRの幹部たちをバカにしている」ような感じだったし。僕はてっきり、総会屋が紛れ込んでいるのかと思いましたよ。 実際のところ、それが「高等テクニック」であろうがなかろうが、観ていて不快なものであったのは間違いないし、彼自身が、あの記者会見場での「絶対的強者」としての自分の立場に酔っていただけなのかもしれないのですけど。
それにしても、「使命感や熱心さで、常に心がけるべき冷静さを欠いてしまう人」と「使命感も熱心さもないけれど、スクープを引き出したいという自分の野心とか売名のために、他人を容赦なく罵倒できる人」とでは、どちらが悪質なんでしょうね。 そして、あの「記者会見」を観て残る印象の最大のものが、あの「罵倒」に関するものだというのは、「記者」というのは、いったいどういう存在なのだろう?と考えられられてしまうのです。
|
| 2005年05月12日(木) ■ |
 |
| 「薄毛は子孫も迷惑です」/「バカ広告は、現時点で大迷惑です」 |
 |
毎日新聞の記事より。
【大手化粧品メーカーの資生堂(本社・東京)が先月ホームページに掲載した意識調査で、「薄毛は子孫も迷惑です」などと記載したことに対して、130件以上の抗議が寄せられていることがわかった。同社はページを削除しておわびした。 問題となったのはホームページの「薄毛レポート」というコーナー。同社によると、新しい発毛促進剤「薬用アデノゲン」の発売に向け、昨年12月に30〜59歳の男性1550人にネット上で意識調査をした。制作会社がまとめ、4月21日にホームページに掲載した。 「あなたの親族の中に薄毛はいますか?」の質問については、父親(55%)、母方の祖父(28%)、父方の祖父(23%)のグラフとともに、「薄毛はあなた一人の問題ではありません。子孫も迷惑です」とのタイトルを掲載した。 薄毛の悩みの有無を役職別にまとめたページのタイトルは「薄毛の人は部長止まり?」。薄毛に悩んでいないのは、役員では81%なのに対し、一般社員(76%)、派遣社員(74%)との調査結果を根拠に、「部長、課長、係長に薄毛の悩みが多いのに対し……偉くなるのは薄毛ではない人のようです」と説明した。 同社には「好きで薄毛なわけでない」「薄毛で子孫に迷惑とは、どういう意味か」などの抗議が電話やメールで寄せられたため、1週間後にページを削除。商品紹介のページで「大変不愉快な思いをさせてしまった」とおわびした。 しかし抗議は続き、今月になって1日十数件に増えたため、同社は6日、ホームページの表紙に、おわびの文章を掲載した。 この発毛促進剤をめぐっては発売直後の4月、テレビCMが美術家の横尾忠則氏の作品と類似しているとの指摘を受け、放映をやめたトラブルも起きている。 同社広報部は「今後このようなことがないよう、社内チェック体制と倫理意識向上を徹底します」と話している。】
〜〜〜〜〜〜〜
「薄毛はあなた一人の問題ではありません。子孫も迷惑です」というのは、なかなか凄いコピーですね。僕が薄毛だったら、「ああ、自分は子孫にまで迷惑をかけるのか…」と激しくショックを受けて、この「新しい発毛促進剤『薬用アデノゲン』」とやらを買いに走るかもしれません。 なんのかんの言っても、広告というのはインパクトが大事だし、それで気を悪くする人がいたとしても、誰の目にもとまらないよりは、はるかに有意義なことですしね。
でも、この広告、実は、根本的に間違っているというか、何が言いたいのかさっぱりわからないような内容なのです。あえて言うならば、単なる「薄毛の人への嫌がらせ」としか考えようがない。 なぜかというと、この調査は、「薄毛の人は、祖先に薄毛の人がいる可能性が高い」という結果のようなのですが、では、この広告を見た人が、「子孫を薄毛にしないために」発毛促進剤を使ったところで、その子孫の「薄毛になりやすさ」が変わると思いますか? 薄毛に遺伝的な要因があるのは事実ですが、実際は、本人がいくら発毛促進剤を使ったところで、「薄毛になりやすい遺伝子」にまで影響を与えるはずがないのです。「整形で変えた顔は遺伝しない」のと同じなんですよね。 だから、「迷惑」だとか言われたところで、自分自身に関してはともかく、子孫に対しては、「どうしようもない」ことです。そして、この広告は、その「どうしようもない」ことを、あたかも発毛促進剤で改善できるように書いているのです。 これって、遺伝的な要因のある癌の患者さんに「あなたの癌は、子孫に迷惑です」と言っているのと同じこと。 子孫のことを考えるならば、「薬用アデノゲン」よりも、薄毛になりにくい食生活や生活習慣、などを伝承していったほうが、よっぽど有意義なのに。
確かに、「目立つ」というのが、広告にとって重要なファクターだというのはわかります。でも、こういう「どうしようもないこと」を脅迫めいた内容で書くというのは、企業としてあまりに非常識だとしか言いようがありません。 資生堂さん、インパクトを与えることだけを重視して、悩んでいる人への気遣いもなければ、真実でもない広告をホームページに堂々と載せる企業のほうが、薄毛よりはるかに「子孫に迷惑」じゃないですか?
|
| 2005年05月11日(水) ■ |
 |
| 「お〜いお茶」、リニューアルの波紋 |
 |
共同通信の記事より。
【飲料大手の伊藤園は10日、「お〜いお茶」をリニューアルし16日に発売すると発表した。主力商品を20年ぶりに改良、成長が見込まれる緑茶市場での競争激化に対応する。 新しいお〜いお茶は、香りが豊かな国産茶葉を選び抽出、従来よりも香ばしいのが特長。急須による入れ立ての香りと味わいを実現したという。 同社は1985年、日本で初めて缶入り緑茶飲料を発売してヒット。国内緑茶飲料市場の約3割を握る最大手となっている。お〜いお茶はペットボトル入りなどを含め、伊藤園の緑茶飲料の8割強を占めている。 国内飲料市場が頭打ち状態の中、緑茶は「唯一の成長株」(飲料大手)。サントリーが昨年発売した「伊右衛門」がヒットし、今年に入ってアサヒ飲料や日本コカ・コーラ(東京)が新商品を投入した。】
〜〜〜〜〜〜〜
「お〜いお茶」って、20年前から同じ味だったんですね。正直、20年前の僕には、缶入り(あるいは紙パック)のお茶を自動販売機で買う、というような発想は全然なくて、「よそいきの飲み物」といえば、ジュース=コーラとかオレンジジュース、それも外食のときに飲ませてもらうことがほとんどでした。しかも「ジュースは体に悪い」なんて、さんざん脅かされながら。 それでも、そのちょっと前までは、僕にとってのジュースは米屋さんが配達してくれるプラッシーか水で薄めすぎた酸っぱいカルピスが主力だったのですから、コーラというのは、ある意味衝撃的な飲み物ではありました。 まあ、いずれにしても「缶入りのお茶」は、長い間「そんなのお金を出して買うようなものじゃないし、それなら冷蔵庫に麦茶が入ってるだろ」というようなものだったのです。 ところが、10年くらい前からでしょうか、それまでの「自動販売機で買う飲み物」=「ジュースかコーラか缶コーヒー」というようなイメージは、すっかり無くなってしまい、「お茶」というのが、自動販売機でも幅をきかせるようになってきました。 その理由としては、「核家族化で家族の人数が少なくなったため、いちいちお茶を自分で作ると手間のわりにはプラスが少ない」「糖分の取りすぎに対する、健康志向」「食事と一緒に飲むには、味が無い飲み物のほうが良いと考える人が多い」などのさまざまなものがあげられます。この記事にもあるように、緑茶というのは、現在の清涼飲料水業界で、最大の「有望株」になっているらしいのです。 僕たちが昔「なんでわざわざ缶入りのお茶を、こんなにお金を出して買わないといけないんだ?」なんて思っていた時代とは、まさに隔世の感。いまや女子と自販機の前に行って、「何を飲む?」と訊ねると、10中8,9くらいは「お茶」と答えるような御時勢です(当社比)。 各メーカーから「お茶」が乱立するなかで、確かに、伊藤園の「お〜い、お茶」は、老舗のお茶メーカーが作っているだけあって、ちゃんとお茶の味がするし、それでいてすっきりしていて癖が無くて飲みやすく、僕も「お茶」を買うときにはこれを選ぶことが多いような気がします。その老舗も、「伊右衛門」などの「本格志向」を謳う競合他社の製品に、安穏としてもいられなくなったのでしょう。
ただ、僕はちょっと心配しているんですよね。缶コーヒーなどはとくにそう感じるのですが、いわゆる「本格志向」の製品というのは、ときに味に癖がありすぎたり、飲んでいて胃が痛くなったりすることがよくあるので。 「ちゃんとコーヒーの味はするんだけど…なんか違う……」と感じてしまうことも多くて、やっぱり元のチープだけど飲みやすいほうに戻ってしまったりするのです。 僕は、スパイスたっぷりの本場のインドカレーより、バーモントカレーのほうが食べ飽きなかったりする安い人間だからなのかなあ……
|
| 2005年05月10日(火) ■ |
 |
| 勝手に『国民の疑問』を捏造するな! |
 |
Asahi.comの記事より。
【読売新聞グループ本社会長の渡辺恒雄氏がガウン姿でマンション5階の自室にいるところを公道から撮影され、「週刊文春」に掲載されたことがプライバシー侵害に当たるかどうかが争われている訴訟で、原告の渡辺氏が9日、東京地裁に出廷。渡辺氏と文春側の激しい応酬となった。 問題の写真は、渡辺氏がプロ野球・巨人のオーナーを突然辞任した2日後の昨年8月15日に撮影され、同月19日発売の週刊文春に「ワンマンの末路」などの説明をつけて掲載された。 渡辺氏は「プライバシーを著しく侵害された」として昨年8月、1000万円の損害賠償などを求めて提訴。9日の法廷では「醜い姿で化け物みたい。報道のためのまともな写真とは思えない」と訴え、キャプションについても「今は最高の地位にいる。それが何で末路なのか。非常に不愉快だ」と述べた。 文春側は「渡辺氏は多くの報道陣が集まっていたと知っており、全面ガラス張りの窓際に立てば撮影されることはよくわかっていた」と主張。「写真撮影・掲載についてプライバシー権の放棄か、黙示の承諾をしていた」と渡辺氏の訴えに反論している。 これに対し、渡辺氏は法廷で「撮影されるとは思ってもみなかった」などと述べた。 文春側はさらに「『今、ナベツネはどうしているのだろう』という国民の疑問に答える形で掲載された」と写真の公共性を主張。渡辺氏がオーナー辞任後に会見せず、説明責任を果たさなかったと強調している。この点について渡辺氏は「まともな新聞社の会見なら臨むが、週刊誌やスポーツ紙などスキャンダルを追いかける記者がいる席には出ない」と語った。 法廷で文春側は、車いす姿で自宅療養中の田中角栄元首相を空撮した毎日新聞の写真が86年度の新聞協会賞を受賞したことについてどう思うかとただした。前協会長でもある渡辺氏は「プライバシー侵害であり、授賞は間違いだった」との見解を示した。】
〜〜〜〜〜〜〜
ナベツネさんに対して、あまり良いイメージを持っていない僕としては、「ザマーミロ」的な気持ちもなくはないのですけど、やっぱりそういう写真というのが「スクープ」として公開されるのは、ちょっとおかしいような気もします。同じ人でもいろんな姿があるでしょうし、たとえば、僕が怒った顔の写真が新聞の1面に載って、「恐ろしい人であるという記事」が書かれれば、世間では「恐ろしい人」として認知されてしまうでしょう。逆に、にこりと笑っている顔であれば「優しい人」と思われるでしょうし。 そういう意味では、メディアというのは、使い方によっては、いくらでも「こういう人」あるいは「こういう状態」というイメージを世間に植えつけることができるのです。たとえば今の「JR西日本叩き」に便乗してか、JR西日本の職員への暴言・暴力行為が急増しているそうです。「だからJR西日本は!」なんて言われても、末端の一社員もまた「被害者」であるはずなのに。 それにしても、ナベツネさんとしては、自分で告訴してはみたものの、この裁判は痛し痒し、というところなのではないでしょうか。「田中角栄元首相の空撮写真」に関しては、当時も賛否両論があったような記憶があるのですが(僕は子供心に、そこまでしなくても……と思っていました)、たぶんナベツネさんも「自分が同じ立場になって、はじめてわかった」のでしょうね。とはいえ、そういう写真には、「権力」の儚さとか「老い」のせつなさを訴えるような、そんな普遍的な力があるというのも、事実なのですけど。
「ナベツネ」をここまで有名にしたのもメディアの力なら、プライバシーすら奪ってしまうのもメディアの力。 しかしながら、「人の命がかかってるんだぞ!」と喧嘩腰で、たぶん相手を怒らせて失言を引き出すために言っているんだろうと思われる無礼な記者に憤慨している人たちが、ネット上にはたくさんいるのです。あの記者は誰かというのは、ナベツネさんの近況よりもはるかに「国民の疑問」だと思われます。 そして、今までは「こんなメディアの意向に反することを言ったら周りから叩かれるのでは…」と黙っていた人たちの「本音」は、溢れ出してきています。 ただ、その一方で、「他の大きなニュースがないから、JR西日本をネタにし続けるメディア」と「それを批判するネット住人」との闘いがヒートアップするあまり、もっとも大事な「今回の事故について考えること」が抜け落ちてしまいがちな気もしています。 ちょっと脱線してしまいましたが、ナベツネさんの言うことは至極当然です。今までのことを考えれば「有名税」だと黙っているほうが、潔いのかもしれませんけど。でもたぶん、多くの「訴えるほどの力も無い人」あるいは「訴えても費用と時間がかかるだけで、メリットがないということで、泣き寝入りしてしまった人だって、たくさんいるはずです。 ナベツネだから、訴えることができたという面もあるでしょう。 本当に最近、「メディアよ、勝手に『国民の疑問』とやらを捏造するな!」と思うことが多いのですよね。普段はスポンサーのほうを向いているくせに、自分たちの都合が悪くなったら「知る権利」とか「報道の自由」とか「国民」とかを持ち出してくるのは、往生際が悪すぎます。
この件に関しては、僕はナベツネさんを支持します。 たぶん、ナベツネ支持なんて、一生のうちで最初で最後だと思いますけどね。
|
| 2005年05月09日(月) ■ |
 |
| 日本とドイツの「戦争責任」と「戦後処理」 |
 |
産経新聞の記事より。
【民主党の菅直人元代表は八日午前のフジテレビの「報道2001」で、日中間の歴史認識問題に関連し、「日本自身がやったことを日本人がどう判断するかが問われている」と指摘したうえで「日本自身が、日本の負ける戦争をやった責任を何一つ問わなかった。天皇陛下は退位されたほうがよかった」と、終戦時に昭和天皇が退位することで戦争責任を明確にすべきだったとの考えを示した。 菅氏はその理由として「明治憲法下で基本的には天皇機関説的に動いていたから(昭和天皇に)直接的な政治責任はない。しかし象徴的にはある。一つのけじめを政治的にも象徴的にもつけるべきだった」と語った。】
読売新聞の記事より。
【第2次大戦の欧州戦終結から満60年を迎えた8日、敗戦国のドイツでも、ナチス支配の終焉(しゅうえん)を祝い、戦後の歩みを振り返るさまざまな催しが行われた。 ケーラー大統領は連邦議会での記念演説で、「ナチス・ドイツが世界にもたらした苦悩を記憶にとどめ、責任を負うことに終わりはない」と国民を戒める一方、ドイツが60年の間に名実ともに変貌したことを強調、「今や、わが国を誇る理由は十分ある」と述べた。 終戦記念演説では、「過去に目をつむる者は未来にも盲目となる」と語ったワイツゼッカー元大統領の戦後40周年演説が知られるが、ケーラー大統領はその「反省」路線から一歩踏み出し、ドイツ人としての「自信」を取り戻せと国民に訴えた。 ベルリンではこの日、終戦を「(ナチス支配からの)解放」ととらえる政府や国民の多数派に反発し、極右の国家民主党(NPD)が3000人規模の糾弾集会を実施したが、左翼系市民約6000人の反対デモに遭い、予定していたデモ行進をあきらめて解散した。】
〜〜〜〜〜〜〜
菅さんがなんでこんなことをいまさら言い出したのか理解に苦しむのですが…
下に引用した、ドイツ降伏60周年式典は、ニュースや新聞でも大々的に取り上げられていて、僕はその光景に違和感を感じていました。 「どうして、ドイツ人は、自分たちが負けた戦争を『式典』にして、戦勝国と一緒に祝えるのだろう?」と。 でも、さまざまな資料をみていると、多くの現代ドイツ人は、この「敗戦」を「ナチスからの解放」ととらえているようなのです。もちろん、不穏な動きを続けるネオナチは、今も存在しているのですが。 しかしながら、考えてみてください、「ナチスのせい」「悪の独裁者、アアドルフ・ヒトラー」という文脈で語られる第二次大戦前のドイツですが、ナチスが政権を握ったのは選挙の結果ですし、ナチスの一員として戦争をやったり、ユダヤ人に対する「民族浄化」という暴挙を行ったのは、宇宙からの侵略者でも、地の底から湧いてきた魔物でもなく、よき父親、よき息子だった、ごく普通のドイツ人たちでした。「ドイツの戦後処理」に関して、日本の戦後処理と比較される機会は多いのですが、僕はつい、「ドイツ人は、『ナチスのせい』にして、ズルイよなあ」なんて考えてしまいます。もちろん、個々のドイツ人は「罪の意識」を抱え続けているのでしょうけど…
それに比べて、日本人は、「誰のせいにもできない戦後処理」を続けてきました。それは、ある意味では日本人の潔さでもありますし、「天皇」という存在が、それだけ特別だったということなのでしょう。「軍部が悪い」と言いながらも、多くの日本人は、「誰かのせい」にしようとはせず、自分たち個々の責任だと考えています。一市民は、大きな存在に「戦え」と言われれば銃を取る以外の選択肢はないだろうし、そうして誰かに銃を向けるのが「罪」であるかどうかは難しいところです。それでも、日本人は、誰かのせいにはしなかったのです。
僕も天皇は、あのとき退位すべきだったと思います。「責任はない」というのはいくらなんでも、(名目上であっても)国家元首としては「詭弁」だと思うから。 でも、今になって、60年間日本人が「誰のせいにもできなかったこと」を「天皇は責任をとるべきだった」なんて言い出すのも、ちょっとどうかなあ、と考えてしまうのです。 【日本自身が、日本の負ける戦争をやった責任を何一つ問わなかった。】 菅さんはこうおっしゃったそうですが、戦後の日本人はみんな、心の中で、「あんな戦争をしてしまった理由」をずっと自問自答し続けてきたのではないかなあ、と僕は思っています。 本当は、アメリカにも「原爆なんて非人道的な兵器を使って多くの非戦闘員を虐殺した罪」を問うてもらうべきではないかなあ……
果たして、誰かのせいにすることが「戦争責任のとりかた」なのでしょうか?
|
| 2005年05月08日(日) ■ |
 |
| 『噂の真相』の表紙と「更新報告」 |
 |
「『噂の真相』25年戦記」(岡留安則著・集英社新書)より。
(「噂の真相」の創刊から1年間表紙を手がけていたイラストレーターの山口三男氏のイラストに「下品だった」という批判があったことに関して)
【それは、宣伝費が使えない小資本で始めた雑誌だけに、書店の店頭で「あれっ、これは何の雑誌だ」という感じでも、いかに多くの読者が手にとってくれるかが勝負だと考えたからである。とにかく内容には自信があったので、店頭で一度手にしてくれれば、大成功だと考えて描いてもらった表紙うイラストなのである。特に、創刊号の女性のスカートが風で捲れ上がっているイラストは泥臭くても下品、女性差別といわれても、「人はこれをスキャンダル雑誌という」なるサブタイトルと、のぞくというヒューマン・インタレスト雑誌のコンセプトをストレートに表現したつもりなのである。いくらセンスがある格調高い表紙でも、店頭で読者が手にしてくれないと意味がない、そう考えた結果だった。その狙いはある程度成功したものの、書店の中にはエロ系雑誌のコーナーに置くところもあり、これには苦笑せざるを得なかった。】
〜〜〜〜〜〜〜
先日廃刊された雑誌「噂の真相」の名物編集長であった、岡留安則さんが、その歴史を振り返って書かれた本の一節です。 「噂の真相」が創刊されたのは1979年ですから、僕は雑誌の初期の頃は全く記憶にない(というか、当時はそんな雑誌があることすら知らなかった)のですが、要するに「表紙だけなら、エロ系雑誌のコーナーに置かれても違和感がないもの」だったようです。 僕は子供の頃から本屋が大好きだったのですが、本屋で雑誌を見ていて疑問に思うことがひとつありました。 それは、「けっこうエッチな表紙の雑誌とか、『セックス特集』なんて大きく表紙に書いてある雑誌があるけど、ああいうのって、読者が恥ずかしくて買えないから、売れなくなるのではないだろうか?」ということです。 もちろん、最初からそれを目的とした「エロ系雑誌」が、扇情的な表紙なのは当然ではあるのでしょうが、ごく普通の雑誌(とくに女性誌は凄かった)だと、レジに持って行くのが恥ずかしくなるんじゃないかなあ、と。 そういえば、僕がずっと買っていたパソコン雑誌も、たまに「美少女ゲーム特集」とかのときは「下品な表紙」になっていて、買うのが恥ずかしかったのをよく覚えています。 どうせなら、中身だけにしといてくれればいいのに、とか。
まあ、【のぞくというヒューマン・インタレスト雑誌のコンセプトをストレートに表現したつもりなのである】という岡留さんの言葉が、どこまで洒落で、どこまで本気なのかはよくわかりませんが、なんといっても「とにかく『何だこの雑誌は』と思わせ、手にとってもらう」というのが最大の目的だったことは間違いないでしょう。考えてみれば、通りかかった100人が全員不快感を抱かないかわりに、誰の心にも引っかからない表紙であるよりも、100人のうち90人が「下品な表紙…」と白眼視したとしても、残りの10人が「どんな雑誌なんだろう?」と手にとってくれたほうが、雑誌を売るという観点からは、はるかに効果的なんですよね。とくに、固定読者を持たない新興勢力の場合は、そういう「インパクト」というのは、すごく大事なのでしょう。
ところで、これって、ひょっとしたらサイトのタイトルや「更新報告」にも言えることなのかもしれません。正直、僕などは「何だそのいかにもエッチ系っぽいタイトルは?どうせ『○○が脱いだ!』とか書いてあるのに、全然脱いでない週刊誌のグラビアみたいな内容なんだろう?」なんて思うことが(そして、その通りの結果であることが)多いのですけど、まずは「読んでもらわなければ、はじまらない」のですから、そういう営業戦略というのも、ときには必要なのでしょうね。
それでも、「噂の真相」のように、「中身に自信がある」場合はいいんですが、「タイトルだけディープインパクト」なのがあんまり続くと、今度は「絶対このサイトだけは、観てやるもんか!」なんて逆ギレしてみたりもするんですけどね。そういうのも、意識している分だけ負け、なのかな……
|
| 2005年05月07日(土) ■ |
 |
| あだち充にとっての、普遍的な「かっこよさ」 |
 |
「別冊宝島235・いきなり最終回」(宝島社)の「作品解説・タッチ」(書き手・斉藤宣彦)より。
【最終回の前回、達也から南への非常にまっすぐな告白シーンがある。あだち氏が述べたように、物語はここで終わった。達也たちと同世代のキャラクターが総登場する最終回で描かれたのは、日々の移ろいである。有終の美、あだち流のダンディズムだ。ところで先の発言の中で出てきた、あだち氏の理想とするおしゃれ、かっこよさはどのようなものなのだろう。 「連載開始当時、周囲の雰囲気が、大声で喋らないといけないようなものだった。僕は、その言葉を呑み込んで、喋らないのがカッコイイんじゃないかと。少女誌から少年誌に戻ってきて、周りが、主人公が女の子のつきあいも犠牲にして甲子園を目指すようなマンガを描いているとすると、僕は女の子のために甲子園を捨てちゃうような主人公のほうがカッコイイんじゃないかと思うんですよね。そうして描いていると、周囲にそういうキャラクターが増えてくる。そうすると今度はがむしゃらに甲子園を目指すような男がかっこよく思えてくる。ひねくれ者なんです、素直じゃない。かっこよさっていうのは、意外と優柔不断に、周りによって変わってしまうんですよね。かっこよさに普遍性なんてないんですよ」。】
〜〜〜〜〜〜〜
率直に言えば、僕はあだちさんの一連の作品があまり好きではなくて、その理由は、「あんなカワイイ幼馴染が、都合よくいるわけないだろ!」というような、ヒガミ根性だったりするわけです。そもそも、「いるわけない」よね、マンガなんだから。 でも、「タッチ」をマンガ喫茶で魔がさして読み始めてしまい、結局、最後まで読み続けてしまった経験もあって、そういう意味では、催眠術と同じように「自分は騙されない!」なんて自信を持っている人ほど、実際には騙されやすいのかもしれませんね。 ここであだちさん自身が語られている「かっこよさ」に対する考えというのは、僕も含めて、いま流行りの「カッコイイこと」を真似しがちな人々にとっては、なかなか興味深いものだと思うのです。 実は、「普遍的なかっこよさ」なんてものは存在せず、あくまでも相対的な「他人と違うこと」こそがかっこよく感じられるのではないか、という「ひねくれ者」の発想。そう言いながら、あだちさんの作品には、共通点みたいな要素も、大部分の作品に間違いなく含まれているように感じられますが。
先日、あるテレビ番組で、恋人の女の子の家に居候しながら、大道芸人になるためにヨーロッパに渡って勉強しようとしている20代半ばくらいの男性の話を観たのです。彼の渡欧費用のために秘密で貯金までしている彼女。 「お金もかかるし、彼は遠くに行ってしまうし、大道芸人という仕事で食べていけるかなんてわからないのに、それでも彼が好きなの?」というリポーターの問いかけに、彼女は、こう答えていました。 「うーん、でも、いまどき、こんなふうに夢を追いかけている人って、珍しいじゃないですか」 僕はこのけなげな彼女に感動するのと同時に、現代というのは、「現実的に生きることに傾きすぎた時代」なのかな、なんてことが、頭に浮かんできたのです。みんなが夢を追っていた時代であれば、こういう光景に対して、「無理無理、もっと現実を見ろよ」って感じていたような気がするのです。
|
| 2005年05月05日(木) ■ |
 |
| ある「名物オーナー」の肖像 |
 |
スポーツニッポンの記事「ドキュメント パリーグ発 乱舞(91)」より。
(4月27日に亡くなられた、日本ハムの前オーナー・大社義規(おおこそ・よしのり)さんに関するエピソードの一部です。)
【「優勝という言葉を言ったことがなかった。ある納会で、自分は信念を持って会社をここまで育てた。君たちも絶対にできる、という言い方で選手を励ました。重圧をかけることがなかった。それなのに、優勝できず悔しかったはず。責任を感じます」と言うのは球団社長補佐、三沢今朝治である。「普通、近寄りがたいのがオーナーだが、うちは選手サロンで食事をするオーナーに選手が話しかけた。いいオヤジさんでした」 「チームが負けると、自分が球場に来たせいで選手が硬くなったのではないか、と気遣う方でした。だからオーナー賞の金一封だけ置いて帰ったこともあった」広報係長の中原信広の思い出だ。 こんなこともあった。序盤に味方の大量リードと聞いて、「それなら大丈夫だろう」と車で球場に向かったが、途中で逆転されてUターン。携帯電話などない時代、球場から試合経過を受けるために、自動車に無線電話をいち早く取り入れていたのだ。 「試合結果を電話報告するのが広報の日課だった。負けた日は辛いのですが、最後の慰め言葉はいつも同じでした。”まあ、ええやないか、また明日や”」 選手を気遣った大社もスカウトには厳しい態度を見せたこともあった。三沢は言う。「獲った選手が活躍しないことがあった。すると、全然出てこないじゃないか、300円のハムを売って2000万円、3000万円の大金を払い、これでは困る。選手の価値判断をしっかりしないと駄目だ」】
〜〜〜〜〜〜〜
日本ハムファイターズの名物オーナーであった、大社義規(おおこそ・よしのり)さん。本当に「野球好き」のオーナーだったという話は聞いていたのですが、ここで語られているエピソードを読んでいくと、大社オーナーの野球への愛情とともに、人間としての優しさ、甘さ、そして厳しさが伝わってくるのです。 なにかと「自分の球団」に対して口出しをしたがったり、自分の存在を誇示したがるオーナーが多いなか、大社さんは、「野球と自分のチームが好きで、本当はいろいろ言いたくて仕方ないんだけれど、選手たちがプレーしやすいような環境を整えるために、『陰の存在』であり続けようとした人」なのだと思います。 悪名高き某人気球団のオーナーや、某ニューヨークの金満球団の名物オーナーのように「金も出すけど、口も出す」というタイプの人とは、まさに対極の存在だったのでしょう。 その一方で、「金もそんなにたくさんには出せないし、結果もなかなかでない」というジレンマも抱えていたのかもしれないなあ、という気もしなくはないんですけどね。「300円のハムを売って…」の話は、まさに「正論」なのですが、その一方で、野球に詳しいオーナーが「選手獲得の難しさ」を知らなかったわけではないでしょうし、日本ハムというチーム自体が、「金に糸目はつけないから、最高の選手を獲れ!」という体質のチームではなかったですから。 それでも、こういう「人間としてのまともな金銭感覚」というのは、僕などにとっては、好ましく思える面ではあるのです。 やっと球界の改革が始まりつつあると思ったら、今度はソフトバンクの孫オーナーが「金に糸目はつけない」なんて言い出したりして、正直、僕などは野球への興味は薄れがちなのですが、やっぱり「自分のチームを持つ」というのは、堀江さんや三木谷さんならずとも、「ロマン」なのかもしれませんね。そして、そういう「ロマン」というのは、大企業の社長にまで上りつめた人でさえ魅了し、何かを狂わせてしまうのかもしれません。 楽天が今の戦力では「勝てないチーム」で、長い目でみなければならないことなんて、単なる一野球ファンである僕の目からみても当たり前のはずなのに、三木谷社長は坊主になったり首脳陣の責任を追求したりしているしなあ。 もっとも「怒ってみせなければならない」という面もあるんでしょうけど。 「負けて当然」と、自分の口からは言えないよねえ。
これからの時代は、大社オーナーのような「自分のチームに恋をしているオーナー」にとっては、どんどん難しい時代になっていくのでしょう。
|
| 2005年05月04日(水) ■ |
 |
| 引き算の優しさ |
 |
「夜のピクニック」(恩田陸著・新潮社)より。
【貴子はひやひやしていた。何か自分が余計なことを口にするのではないかと心配でたまらない。 「ふうん、だからかな。似たような印象があるのは」 「印象、似てる?」 「うん。しっかりしてて、大人なところは大人だ」 「あたし、ちっともしっかりしてないよ」 「いいや。他人に対する優しさが、大人の優しさなんだよねえ。引き算の優しさ、というか」 貴子はまた笑い出した。 「なんか、戸田君、凄くない?梨香より脚本家に向いてるかも」 「へえ、自分の知らない才能を発見したかな。大体、俺らみたいなガキの優しさって、プラスの優しさじゃん。何かしてあげるとか、文字通り何かあげるとかさ。でも、君らの場合は、何もしないでくれる優しさなんだよな。それって、大人だと思うんだ」 「そうかねえ」 融ならともかく、自分にそんな気配りがあるとは思えない。】
〜〜〜〜〜〜〜
「引き算の優しさ」かあ… これは、作中の高校生同士の会話なのですが、なんだか、高校生とは思えないような「大人の話」だなあ、と思いながら、僕は読んでいたのです。 まあ、「作者は『大人』なんだから」とかいうのは、ちょっと不粋というものなのですけど。 これを読んで、「引き算の優しさ」について考えてみたのですが、実のところ、大人にとっても「引き算の優しさ」というのは、なかなか難しいものだよなあ、と感じます。 たとえば、親友が振られたときに、「気分転換に、飲みに行こうよ!」と無理やり誘うのが「プラスの優しさ」だとすれば、「今はそっとしておいてあげよう」と連絡も取らないで見守るのが「引き算の優しさ」だということでしょう。確かに、本当に落ち込んでいるときに「わざとらしく慰めてくれる人」というのは、けっこうムカついたりもするわけです。しかしながら、その一方で、「何も言ってきてくれなかった人」というのは、「あえてそっとしてくれていた」のか、「単にどうでもよかった」のか、当事者にとっては判断しかねるようなときもあるのですよね。 「そのくらい、わかるだろ!」という人もいるかもしれませんが、当事者としてはわかっているつもりでも、後になると「そういえばあのとき、『何もしてくれなかった』よなあ」なんて、なんとなく感じたりもすることって、けっこう多いのではないでしょうか? プラスの優しさというのは、その場ではうざったいときも多いのですが、確かに「記憶」として残ります。でも、「引き算の優しさ」というのは、「あのとき放っておいてくれたよなあ…」なんて気づかないこともありますし、だいぶ時間が経ってから、ようやく気がつく、なんてこともあるのです。 なんのかんの言っても、「目に見える言葉や行動」のほうが、伝わりやすいよなあ、とも思うんですよね。「引き算の優しさ」って、なかなか見返りがないんですよね。見返りを期待する時点で、すでに「引き算の優しさ」ではないのかもしれないけれど。
|
| 2005年05月03日(火) ■ |
 |
| 声に出すと怒られる日本語 |
 |
「オトナ語の謎。」(糸井重里監修・ほぼ日刊イトイ新聞編、新潮文庫)より。
(この本の前書き「日本では、上司に『あなた』と呼びかけられません」より。糸井さんが高校時代に、「オトナたちの使うことばの世界というものが、『こことは別に存在する』ということを知った」というエピソードです。高校の先生と「反体制という考え方に目覚めてしまった「生意気くん」の言い争いの話。)
【高校教師であり、人生の先達である「頑な先生」は、高校生のコドモ相手の口論に本気で怒ったりするわけにもいかないだろうということで、口元に軽い笑みさえ浮かべていた、はずだった。しかし、その笑みは「生意気くん」が発したたったひと言によって一瞬のうちに凍りつき、氷山と化した「頑な先生」は、次の瞬間には真っ赤な溶岩を噴き出す火山になっていた。 「なんだ!貴様は!」と教室のガラスが割れるような大声で怒鳴りつけた。たぶん、ものすごく血圧が上がっていたと思う。先生の寿命はあのときに3年くらい縮まった、証拠はないけど。 「生意気くん」は、先生に向かって馬鹿だの阿呆だのという悪罵を投げつけたわけではないのだ。 ただ、先生に向かって「あなたは」と言ったのだ。英語で言えば「YOU」、一般的な二人称であり、相手を貶めるような意味はまったくないはずだ。しかし、生徒が先生に向かって「あなた」と呼びかけることは、してはいけない「社会のルール」なのである。そのルールを、「生意気くん」は知らなかったのか、無視したのか、破ってしまったというわけだった。 あのとき受けた衝撃が、ぼくに「オトナ語」という概念を意識させたのだと信じている。】
〜〜〜〜〜〜〜
糸井さんはいま、50代半ばになられていますから、今から40年くらい前の話、ということになりますね。これは当時の「オトナ語」の基準だったわけですが、現在だったら、先生を「あなた」と呼ぶことは、果たして「社会のルール」的にはどうなのでしょうか?やっぱり「無礼」なのか、それとも「常識の範疇」なのか。僕のイメージとしては、「烈火のごとく怒られるほどではないけれど、『非常識』だな」というくらいなのですが。でも、こういうのは、環境によっても違ってくるものですし。
僕が大学3年か4年くらいのときのことだと記憶しているのですが(今から10年くらい前)、新入生勧誘のときに、東京の高校から来たという新入生と話していて、驚愕させられたことがあります。 彼は、僕たち上級生に対して、ごく普通に「キミたちは…○○だよね」と話しかけてきたんですよね。ずっとその調子だったので、他の上級生が「お前のところでは、先輩にもそんな喋り方なの?」と半ばイヤミっぽく訊ねてみると、彼は「えっ?これっておかしいの?僕の高校は上下関係がないから、上級生とか下級生とか関係なく、みんなタメ口だよ」と答えたのです。 確かに、九州というのはそういう面では保守的な土地柄だったのでしょうけど、僕たちは正直「なんて無礼な!」とあきれ返ったものです。客観的にみれば、「敬語とかを強要しない、自由な校風」というのはけっして悪いものではないでしょうし、大学の部活という空間は、ある意味オトナの社会よりも、そういう上下関係へのこだわりがあるのだとしても、やっぱりその耳慣れない呼ばれ方には、ものすごく抵抗があったのです。 「言うに事欠いて、先輩を『キミ』呼ばわりか!」と(もちろん、心の中でだけ)。 僕たちにとっては、「キミ」なんて、会社で上司が部下を呼ぶときか、青春小説の中でしか使われない二人称でしたから。
半年くらいして、結局別の部活に入ったその後輩に会ったとき、ややぎこちない敬語を使っていたので、安心したような、残念なような、そんな気持ちになったんですけどね。
英語では同じ「YOU」のはずなのに、日本語というのはなかなか難しいものです。 「あなた」「キミ」「お前」「貴様」「おたく」…… こう並べてみると、日本人というのは、そもそも二人称そのものがあまり好きではないのかもしれません。こういう言葉で呼びかけられるとつい身構えてしまいそうで、二人称にはあまり「使いやすい言葉」「相手に良いイメージを与える言葉」がないんですよね。
|
| 2005年05月01日(日) ■ |
 |
| 屈辱の「日勤教育」 |
 |
スポーツニッポンの記事「時事・Q&A:屈辱の日勤教育」より。JR福知山線の脱線事故に関連して、現在問題視されている「日勤教育」に対するQ&A
【Q:どんなミスが対象に? A:関係者によると、ミスは4段階に分けられている。重い順に�\嫻せ�故=脱線事故、赤信号無視、10分以上の遅れ ��反省事故1=10分未満の遅れ �H疹併�故2=オーバーラン �ぅ劵筌螢魯奪函甕薪消罎縫劵筌蠅箸靴燭蝓▲魯辰箸垢襪茲Δ併�故の芽。運転区や電車区などの区長が事情聴取し、必要だと判断されると再教育が行われる。
Q:日勤教育の内容は? A:JR西日本は「その社員をよく知る上司が、その人に合った指導を行っている」としている。一方で、経験者などによると、管理者に取り囲まれながら、リポートを書いたり、草むしりをしたり、廊下に立たされる児童のように駅のホームに立たされたりする。ホームでは、入線した運転士に「ご苦労さまです」「私は○○でミスをしました」などと声をかけなければならず、客からも不審そうに見られ、経験者は「思い出したくもない。屈辱を感じる日々だった」と話している。
Q:どんなリポート書かされる? A:「死ぬ気で実行するとはどういうことか」「仕事に対する甘さをなくすには何に心掛けるか」など、答えに困ってしまうような設問を朝から夕方まで1日何枚も書かされる。関係者は「管理者は”文章に反省が足りない”などと赤えんぴつでチェックし、書き直しを命じる。社員は反省を示すため、何も悪いことをしていないのに自分ででっち上げることもある。そうすると、”なぜ、最初から書かない?”などとまたしかられる」と話している。
Q:日勤教育の期間は? A:「いつ終わるのか、何をするのかをまったく本人には知らされない」と経験者。「今後ミスをしたらどうする?」と管理者に聞かれたときに「運転士を辞めます」と宣言しないと終わらないことが多い。ある運転士は「どうしたら終わるか知っていたが、黙っていたら教育は続いた」と証言した。
Q:日勤教育・成果はある? A:脱線事故を起こした電車の運転士は昨年6月に駅を約100メートルオーバーランし日勤教育を13日間受けて復帰。JR西日本は「再教育で成果があった。運転士を続けさせた判断に問題はなかった」と説明している。だが、関係者は「ただのいじめ」と声をそろえる。経験した運転士は、「草むしりや、事実と違う反省文を書いても運転技術は向上しないと思う」と話す。
Q:JR西日本の考えは? A:「厳しい日勤教育のプレッシャーが事故につながった」と指摘する関係者は多いが、南谷昌二郎会長は4月27日、「指導というものは、ある程度のプレッシャーが必要だ」とこれまでの方法を容認するような発言をした。】
〜〜〜〜〜〜〜
ちょっと長い引用になってしまって、申し訳ないのですが。 「草むしりをやっても運転技術は向上しない」と、僕も思います。そして、いい年をした大人が、こんなイジメのような「教育」を受けるというのは、筆舌に尽くしがたいほどの「屈辱」だろうなあ、とも。 医療の現場でも、「医療ミス」には至らなくても、「もう少しで患者さんを危険な目にあわせてしまうところだった」というレベルの「ヒヤリハット」というのは、けっして少なくはないのです。そして、そのような場合、当事者は詳細なレポートを書かされたりするらしいのですが(幸運なことに、今のところ僕にはその経験はないので伝聞)、「立たされる」とか「草むしり」なんていう懲罰行為はないようです。もっとも、本当に「医療ミス」などしてしまった場合の「社会的制裁」は、草むしりどころの騒ぎではなさそうですけど。 今回の事故では、「理不尽なJR西日本」という報道が連日流されているわけなのですが、僕は正直、この会長の「指導というものは、ある程度のプレッシャーが必要だ」という発言に対しては、一概に「ひどい話」だとも思えないのです。少々ミスをしても「ま、人間誰だってミスもするし、しょうがないよね、また次がんばれよ!」というような明るい社風のほうが、イメージ的にはいいのかもしれませんが、それこそ「人の命を預かる」現場で、そこまで寛容であることが果たして正しいのだろうか、という気もするのです。一種の「恐怖政治」ではありますが、僕たちがごく当たり前のように享受していた「時刻表通りに動く電車」を維持するためには、今まで何十年も、この方法が奏功していたのだし(というか、大きな事故は起こっていないのだから「変える必要はない」と上層部は考えていたのでしょう。甘くして何か起これば、責任問題になりそうですから)、「日勤教育を受けたくない」というのは、すごいプレッシャーであるのと同時に、運転士たちにとっては、ネガティブな理由ではあるとしても、仕事でミスをしないための動機にはなっていたはず。そして、そういう実態に関しては、こういう形で事故が起こるまで、第三者たちはみんな「でも、そうやって厳しくすることによって、時間に正確になっているんだから、いいんじゃない?」とか、考えていたんですよね。 そういえば、研修医のハードな勤務実態が問題視されたのも、実際に過労で自殺してしまった研修医が出てしまってからでした。たぶん、この事故さえ起こらなければ、この「日勤教育」だって、「運転士っていうのも大変だねえ」というような苦労話で済まされていたのではないかなあ。こういう「イジメ的な懲罰で、規律を維持するシステム」って、JRだけのものではないはずだし。 それに「一度でもミスをした運転士はクビ」というシステムよりは、「日勤教育を経て復帰できる」というのは、「甘い」のかもしれないのです。もっとも、一度の小さなミスでクビにしていたら、運転士はすぐに足りなくなってしまいそうですが。
ただ、当事者にとっては、こういうイジメ的なシステムというのは、ものすごいプレッシャーになっていたのは間違いないでしょう。その一方で、「草むしりでは運転技術は向上しないと思うけど、じゃあ、どんなことをやったら短期間で運転技術が向上するのだろう?」とも考えてみたりするのです。本来は、そういう専門的なプログラムでもあればいいのでしょうが、特殊な仕事なだけに、なかなか難しそうです。
理想論としては、失敗を予防する、失敗しても最小限に被害を食い止めるのが最善の策ですし、失敗した人に対しては「懲罰」よりも「再教育」が望ましいはずです。「草むしりなんて、バカバカしい!」と思うけれど、草むしりをさせるのを止めたら済むという問題ではないのです。その一歩先の「どうすればいいのか」を考えなくては。
それにしても「ミスが絶対に許されない仕事」とはいえ、こんな厳しい環境の中で、長年正確に電車を運行しつづけてきた現場の鉄道員たちは、本当に偉いなあ、と思わずにはいられません。こんな事故が起こらなければ、僕は彼らの苦労なんて、考えてもみなかったと思うのです。
|
|