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| 2008年01月30日(水) ■ |
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| 「娯楽」や「知識欲」を越えた『人間が本を読む理由』 |
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『書店員タカクラの、本と本屋の日々。…ときどき育児』(高倉美恵著・書肆侃侃房)より。
(新文化「レジから檄」1998年6月11日号に発表された「読者も本屋も<業>というコラムから。著者の高倉さんが、北九州の福家書店に就職したときのことを振り返って)
【その年はちょうど、現在も版を重ねている「コミックカタログ」を創刊した年で、合わせて開催したコミックイベントの準備とカタログ創刊とで、狂ったような慌ただしさでした。先輩たちが、通常の仕事をこなした上でイベントや目録の準備をしていたことも驚異的でしたが、多くの常連客がその試みを面白がって、無報酬でいろいろ手伝ってくれていることに、さらに驚愕しました。 「この、先輩たちのようになりたい」「この面白がりの常連客が、喜んでくれるような本屋になりたい」と痛切に憧れたことがわたしの本屋の始まりだったように思います。 その気持ちはずっと変わらず、今もってそれが目標であったりしますが、本屋の状況はどんどん変わってきました。 今まで通りではやってゆけない、と誰もが言い、危機感をつのらせていますが、何がどう変わっても全ての本屋がなくなるわけではありません。 呉智英氏は「季刊 本とコンピュータ」春号で 「人が本を読む理由は、娯楽のためか何かを知るためのふたつに尽きるが、じつはそれを超えた《業》のような一面が存在する」 と、言っています、そして、業としての読書はこれから500年や1000年のあいだはなくならないと結んでいますが、同じことは本屋にも言えると思います。なぜなら、本屋というごった煮のような空間にわざわざ訪れて本を買う、その行為にも先に述べた《業》があるからです。 そこで、淘汰されずに残る方の本屋になろうと、もがいているのが現在のわたしたちです。本を読むという業と本屋に来る業を抱えた読者<客>を、本を売るという業を抱えてしまった本屋は、真摯に迎え続けるしかないのだと思っています。】
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九州の書店員・高倉さんが地元の新聞などに書かれていたコラム・エッセイを集めた本の一部なのですが、書かれてから10年経っているにもかかわらず、この内容は、ほとんど古びていないように思われます。10年前よりさらに「本は売れなくなり」、「大規模書店が乱立し」、「Amazonなどのネット書店が一般化した」にもかかわらず。
僕がこのコラムで最も印象に残ったのは、呉智英氏の「人が本を読む理由は、娯楽のためか何かを知るためのふたつに尽きるが、じつはそれを超えた《業》のような一面が存在する」という言葉でした。
僕は子どもの頃、「どうして還暦を過ぎたようなお年寄りが本を読むのだろう?」とすごく疑問だったんですよね。「あの人たちは、いまさら本を読んで知識を得ても、それを生かすだけの時間がほとんどないのに、ムダな努力だな」というような傲慢なことを考えていたのです。 でも、僕も自分が年を重ねていくにつれて、「本を読む」という行為は、「知識を得る」という実用性だけのためにあるのではなく、「純粋にな娯楽」として存在しても良いのだ、ということがわかってきました。 そして、30年以上も本を読み続けてきた今では、この「読書には《業》のような一面がある」という言葉の意味も、少しわかるようになってきた気がするのです。 うまく言葉にはしにくいのだけれども、読んでいても楽しくないし、自分が必要としている知識がそこにあるわけでもないはずなのに、「読まずにいられない」、「とりあえず本を手にして、活字を目で追うための読書」というのは、僕も無意識のうちにずっとやってきていることなのではないかな、と。
考えてみれば、僕自身が30年以上生きてきているなかで、本当にたくさんの娯楽が新しく登場してきました。 30年前は、夜眠れないときの娯楽としては、本を読むかラジオの深夜放送を聴くか、というくらいしか選択肢がなかったのに、今はDVDを観ることも、ゲームをすることも、(加入している人なら)何十、何百チャンネルとあるCS放送から観たい番組を選ぶことも、ネットの海を漂うことも可能です。 にもかかわらず、これだけ「出版不況」と言われながらも、「本を読む」ことを趣味としている人はたくさんいるし、出版業界もひとつの産業として生き延びています。 これって、実はものすごいことなんですよね。
正直、「業としての読書」を、人間があと何年続けていくのかなんて僕にはわかりません。10年前に呉さんは「500年や1000年はなくならない」と書かれているのですが、同じ質問を今の呉さんにしたら、どんな答えが返ってくるのでしょうか? とりあえず現在の僕は、「とりあえず自分が生きている間くらいは、なくならないだろうな」と思っています。これからもずっと、この《業》を背負って生きていくことになりそうです。それが幸福なのか不幸なのか、自分にも全然わからないままで。
まあ、《業》っていうのは、不倫もギャンブル依存もなんとなくロマンチックなイメージに変えてしまう「便利な言葉」でもあるんですけどね……
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| 2008年01月28日(月) ■ |
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| 『魁!!男塾』の「壮絶なデモンストレーション」 |
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『オトナファミ』2007・February(エンターブレイン)での『魁!!男塾』の作者・宮下あきら先生へのインタビュー記事の一部です。
【インタビュアー:漫画家になろうと思ったきっかけは?
宮下あきら:よく覚えてないけど、漫画以外にやれそうなことがなかったから。最初の漫画が、講談社でマガジンの新人賞とったんだよね。博打もので『サガ』っていう漫画だったかな。集英社で描くことになったのは、本宮ひろ志先生の紹介なんですよ。本宮先生と高橋よしひろ先生は、仕事場が同じだったから、両方手伝ってた。だから両先生のテイストを吸収できたね。小谷憲一も一緒にやってたかな。当時の月収は、6、7万だったけど住み込みで家賃もいらなかったしね。 そのうち『極道高校』でジャンプデビューして、三回連続巻頭カラーって、派手に出してもらえた。本宮先生がプッシュしてくれて、トントン拍子だったね。いきなり連載を持たされたプレッシャーはあったけど、ガムシャラにやってたら20年間経ってた感じ。『男塾』でブレイクしたときも、あんまり実感なかったし。漫画に活気があった時代だから、自分の漫画だけ当たってるっていう感じじゃなかった。ジャンプが600万部刷ってて、コミックスも初版で100万部近く刷ったような時代だったからね。
インタビュアー:『男塾』が男を磨くというシチュエーションから、バトルものになっていった経緯は?
宮下:その方が人気出るじゃん。ジャンプ全盛時代で、『北斗の拳』も『キン肉マン』にしても、みんなバトルだったから。
インタビュアー:先生が一番好きなキャラは?
宮下:塾長。大豪院邪鬼より強いし、大気圏でも生きてるから。人間レベルじゃないよ(笑)。
インタビュアー:そういえば、塾長のモデルは先生のお父様なんですよね?
宮下:俺、そんなの書いたかなあ(笑)?
インタビュアー:コミックス17巻に、書いてありましたよ……。『男塾』は、キャラの人気投票によって物語が動いていくライブ感も楽しかったです。
宮下:伊達や飛燕がいつも上位だったおかげで、傷も癒えてないのにすぐ戦わせたもんなあ。
インタビュアー:個人的には男爵ディーノが好きでした。
宮下:コアだね(笑)。人気投票には入ってないんじゃない? ディーノは俺も好き。人を食ったようなところがいいんだよね。ディーノのフンドシ姿、覚えてるもん(笑)。
インタビュアー:コアなキャラといえば、回想シーンに出てきた、Jの親父が忘れられません。
宮下:S・H・P(スパイラル・ハリケーン・パンチ)で火事からJを救助するシーンとかもうめちゃくちゃだよね。
インタビュアー:そこでもしJが死んでたとしても、生き還ったんじゃないですか? 『男塾』だし。
宮下:あんまり死んだヤツいないもんね? コイツ、描いちゃったけど生きてたっけ? みたいな(笑)。途中で、記憶も混乱しちゃってさあ。週刊プレイボーイで連載した『天より高く』に男塾メンバーを出したんだけど、死んだヤツも描いちゃって(笑)。
インタビュアー:結局誰も死んでなかったんですか?
宮下:そうなっちゃったんだよねえ(笑)。
インタビュアー:先生的にアニメ版はどうでしたか?
宮下:良かったと思うよ。軍国主義はダメとか制約が多かったみたいだけどね。
インタビュアー:男塾メンバーが動物に優しくなったのは、虐待が問題視されたからでしょうか?
宮下:そもそも虐待は好きじゃないんだよ。
インタビュアー:でも初期の頃は、溶岩にウサギを投げ入れたりしてましたよね?
宮下:あれは、デモンストレーション(笑)。
インタビュアー:漫画を描く上で、ストーリーはどのくらい先まで考えているのでしょう?
宮下:1ページ。その先はワカンナイ(笑)。頑張っても3ページが限界(笑)。1話先なんて、俺には塑像もつかないね。】
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なんというか、このインタビューを読んでいると、「この作者にして、『男塾』あり」なんだな、妙に納得させられてしまいます。 『魁!!男塾』が、「週刊少年ジャンプ」で連載されていたのは、1985年から1991年で、部数的にもジャンプの最盛期。 あの頃を思い出してみると、宮下さんが仰っておられるように、『男塾』は確かに人気漫画のひとつではありましたが、『北斗の拳』『キン肉マン』『Dr.スランプ』などの「大エース級」に比べると、若干人気が落ちる「第2グループ」に含まれていたという印象です。本誌が週に600万部、コミックスが初版100万部って、あの頃はそれが当たり前のような気がしていたけれど、今から考えると、あれはまさに「黄金時代」だったんですね……
当時僕たちは『ジャンプ』の漫画がみんな同じような「次から次へと強い敵が出てきて、前に戦った相手が仲間になって……」という「バトル漫画」ばかりになってしまっていることにけっこう食傷していた記憶があるのですが、ここまであっけらかんと「その方が人気出るじゃん」「『北斗の拳』も『キン肉マン』にしても、みんなバトルだったから」と言い放たれてしまうと、逆に清々しいくらいです。 少年漫画全体としては、こういう「同じような展開のバトルもの」が飽和してしまったことはマイナスだったのではないかと思われるのですけど。 実際、『男塾』って、「小田島平八である!」意外には、あんまり記憶に残ってないものなあ。『キン肉マン』とか『北斗の拳』などは、ストーリーの概略はまだ覚えているんですけどねえ。
このインタビューの内容のすべてが「事実」かどうかはさておき、現在の多くの漫画家が「作家性」を前面に出し、「他人と違う作品を描くこと」を目指しているのと比べると、同じ「漫画家」でも、いろんな人がいて、いろんな考え方があるものだなあ、と考えさせられます。 まあ、読者としては、「頑張って『芸術』になろうとしている漫画」「価値観や道徳を押し付けようとしてい漫画」よりも、『男塾』のいいかげんさのほうが楽しかったりもするのです。連載の後半のほうなんか、主要キャラが死んでも、「どうせ死んでないんだろ…今度はどうやって生き返るのかな?」という感じでしたし、そういうところにツッコミを入れられるのも、『男塾』の魅力のひとつだったのです。 これを読んでいると、宮下さん自身も、けっこうその場の勢いで描かれていたようですし、「読者にウケるためなら、なんでもアリ」だと思っておられたみたいですよね。
それにしても、現在宮下さんが雑誌で連載中の作品は、『暁!!男塾』『天下無双 江田島平八伝』と、いずれも『男塾』のスピンオフ作品なのですから、『男塾』には根強い人気があるみたいです。
しかし、「あれは、デモンストレーション(笑)」っていうのは、まさに「『男塾』だし」としか言いようはないよなあ……
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| 2008年01月25日(金) ■ |
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| 「日本の喜劇王」の息子の葬儀で起こった「悲劇」 |
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『自伝の人間学』(保阪正康著・新潮文庫)より。
(「日本の喜劇王」と呼ばれた「エノケン」こと榎本健一さん(1904-1970)の自伝『喜劇こそわが命』について。この自伝は、榎本さんが亡くなられる3年前、63歳のときに出版されたものだそうです)
【エノケンの妻からの直話では、エノケンは終生「笑う」のはお客であり、自分ではないと信じていたという。彼は、私生活でもめったに笑わなかったともいう。なるほど、彼の顔面にあらわれていたあの皺は、お客を笑わせつづけたあげくの勲章であろうが、ひとたび自分の時間になるとその皺は、憂いにむすびついていたのである。 昭和30年代に、私は少年期から青年期になったのだが、その折りになんどかエノケンの映画や舞台を見た。それまでの軽妙さは知る由もないが、私には、彼の芸はすこしも面白くなかった。私たちの年代には、もうアピールするものがなかった。むしろスクリーンや舞台でふと見せる素顔のほうに、私の関心は魅きつけられたほどだった。 エノケンにとって、お客が笑わないのは何にもまさる苦痛であった。 <観客が、倅の死んだことを知って、僕がどんなおかしなことをしても全然笑ってくれなかった。おかしなことをやればやるほど、場内はシーンとなってしまうのだ> と自伝で語っているエノケンには、喜劇役者の底知れぬ業がひそんでいる。 映画監督山本嘉次郎の『春や春、カツドウヤ』には、エノケンが一人息子を失ったときの葬儀の様子が書かれている。エノケンの自宅の前には、見物人が会葬に訪れるタレントや俳優を見ようと集まっている。そこに息子(�0譟砲隆修�でてくる。そのときの様子を、山本は次のように書くのだ。 <�0豬�の棺が門から出てきた。その棺に手をかけて、エノケンは嗚咽した。すると見物人から、ドッと笑い声がおこった。「やア、エノケンが泣いてやがら……」。私はこのとき、喜劇役者の負わされた切ない宿命を知った> エノケンの自伝は、喜劇役者の深い哀しみがあらわれている。正直な人間が、実生活ではなにひとつ演技ができず、舞台や映画でのみ演技を続ける生活を送ったあとに、現実に足払いをかけられ、そのことを自覚しはじめた苦しさが凝縮されている。】
参考リンク:榎本健一 - Wikipedia
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芸人さんの葬儀では、ときどき、「湿っぽいのは嫌いな方でしたし、笑顔で送り出してあげましょう」なんていう会葬者への言葉がみられることがあるのですが、このエノケンさんの場合は、亡くされたのが若かった息子さんということもあり(享年26歳)、やはり、嗚咽せずにはいられなかったのだと思います。 その葬儀で「タレントや俳優を見るために集まってきた見物人」たちに「やア、エノケンが泣いてやがら……」と「笑われた」ときの彼の心境は、非常に複雑なものだったにちがいありません。 現代の感覚からすれば、いくらコメディアンであっても、若くして子供を亡くした人を葬儀の際に「笑う」なんていうのは非常識というかあまりにも残酷ですよね。
しかしながら、一方で、息子さんが亡くなられた日にもステージに立ったエノケンには、こんなエピソードも残されているのです(この引用部は某掲示板に書き込まれていたものなので、詳細は事実と異なるかもしれませんが、複数の資料に同様のエピソードが記載されています)。
【昭和の喜劇王・榎本健一(エノケン)さんがひとり息子を結核で亡くした日、それでも舞台に穴を空けなかった。 いつも通り開演と同時に、ステージで「イ〜テッテッテ〜、こけちゃった〜♪」と コミカルな動きで現れた彼に、お客さんがみんな泣きながら 「エノケン!もういい、早く帰れ!帰ってやれ!」と叫んだんだそう。】
このときのことを、エノケンさんは、自伝では「お客さんは全然笑ってくれなかった」と書かれているそうです。いや、観客の立場としては、ステージの上で彼が「おもしろいこと」をやろうとすればするほど、「かわいそうで観ていられない」のではないでしょうか。まあ、そう言いながら、みんな観に来てはいるわけですけど。
僕はこの話を読んで、きっと、息子の葬儀で「笑われた」エノケンは、自分はこんな席でも笑いをとれるという「喜劇役者としての悦び」と、この状況でも笑われてしまうという「人間としての哀しみ」を同時に感じていたのではないかと思うのです。
僕はこれを読んで、観客(あるいは「大衆」と言い換えてもいいかもしれません)っていうのは、あるときにはとても温かく、そしてあるときには信じられないくらい残酷なものだなあ、と考えずにはいられませんでした。 そして、エノケンに向けられた、「早く帰ってやれ!」という言葉だって、悲劇を共有したいという観客の身勝手な感情移入の賜物だという一面もあるんですよね。本当に「帰ってほしい」と思っていたならば、誰も観に来なければ、エノケンは舞台に立たなくても良かったはずだし。
結局、こういう「観客の残酷さ」っていうのは現代でも何一つ変わってはいないんですけどね…… 芸能人の葬儀であれば、会葬者に群がって「今のお気持ちは」とマイクを突きつけることが「当たり前」なのですから。さすがに表立って「笑う」ことはないけれど、テレビで中継される葬儀の多くは、「扇情的」で「興味本位」に取り扱われています。
それでも多くの人が舞台に立ちたがるのは、やはり「業」というものなのでしょうか……
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| 2008年01月23日(水) ■ |
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| 事故で夫を亡くした妻が、自分の子供を突然殺した理由 |
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『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(桜庭一樹著・富士見書房)より。
【あたしは、昨日の夜、神となった兄、友彦としょうもない話をしたことを思い出した。友彦が<当たったらヤバイクイズを知っているかい?>と、またじつに優雅な微笑みを浮かべて私に話しかけてきたのだ。夕食を摂っているあいだの、短い、あたしたちの会話タイムでの出来事だった。友彦は、 <いいかい、なぎさ。当てるなよ> <な、なんで?> <これに答えられた人間は史上にわずか5人しかいないんだ> さんざんあたしを脅して、困っているあたしに向かって楽しそうに長い髪を揺らし、話しだしたのだった。 <ある男が死んだ。つまらない事故でね。男には妻と子どもがいた。葬式に男の同僚が参列した。同僚と妻はこんなときになんだけどいい雰囲気になった。まぁ、ひかれあうってやつだ。ところがその夜、なんと男の忘れ形見である子供が殺された。犯人は妻だった。自分の子供をとつぜん殺したんだ。さて、なぜでしょう?> <な、なぜって……> 知るかぁ、と思ってあたしが目をぱちくりしていると、友彦は満足そうにうなずいて、 <きょとんとしてるな、我が妹よ> <うん、もちろん> <わかんないんだな?> <……悪かったわね。わかんないよ、ぜんぜん> <よかった、なぎさ。君は正常な精神の持ち主だ> <はぁ> 友彦はにこにこして、楽しそうに、 <この問いは一説によると、異常犯罪者の精神鑑定に使われる質問なんだ。普通の青少年はほとんど、99.999……パーセント、答えられない。この史上でこれまでに答えることのできた人間はわずか5人。それは……> 友彦は、ここ十年ほどのあいだに起こった有名な猟奇事件の犯人である子供たちの名をつぎつぎに挙げてみせた。あたしがぽかんとして見ていると、 <答えられたら、ヤバイクイズ。これにて終了。我が妹は正常なり、ではね、なぎさ> ぽかんとしているあたしを残して、襖を閉めてしまった。
(中略) 注:この後に「答え」を引用しています。この小説をこれから読む予定がある方は、小説を先に読まれることをおすすめします)
ほとんどの人間が答えられないというこのヤバイクイズを聞いた海野雅愛は、うんとうなずいた。そして、 「"Because I miss you"」 「えっ……?」 「逢いたくて、じゃないかな?」 海野雅愛は簡単に言った。 正解だった。
クイズの答えは、”逢いたくて”。 もう一回お葬式があればその男にまた逢える。妻はそう考えて、もう一回お葬式をするために子供を殺した。男にまた”逢いたくて”が正解だ。】
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この「クイズ」、僕は以前、どこかで聞いたことがあるような気がしたのです。たしか、「秋田小1男児殺害事件」と関係していたと思うのですが、ワイドショーなどで「こういう話があります」ということで取り上げられていたのか、それとも、一緒にテレビを観ていた人が教えてくれたのか……
これが桜庭さんの完全な創作なのか、何か元ネタがあるのかもわからないのですけど、これ、すごく僕の心に引っかかっていた「クイズ」だったんですよね。 まあ、そのわりには、この『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読んだときも、「正解」は思いつかなかったのですけど。
ちなみに、僕が最初にひらめいた答えは、「子供がいると新しい男と付き合うのに邪魔になるから」というものでした。これはこれで残酷な答えではあると思うのですが、この「正解」を知ると、はるかにリアリティが無いというか、この妻の心に踏み込めていない、いかにも「他人事として客観的に考えた答え」であるような気がします。
おそらく、このクイズを聞いた大部分の人は、「わからない」「想像もつかない」か、僕のような答えにたどり着くのではないかと思うのです。このクイズの状況そのものが「不条理」であり、「そんな妻の気持ちなんてわからない」から。 そんなに「逢いたい」なら、子供を犠牲にしたりせずに、なんとか携帯番号調べて電話しろよ!とも思いますよね。 でも、世の中には、たしかに、「もう一回お葬式をやって同じ状況をつくったほうが、手っ取り早くて確実」と考えるような人もいるのだ、あるいは、いてもおかしくないのだ、ということなのでしょう。 はたして、そういう「歪み」を抱えたまま生きている人を、他者が「矯正」できるのかどうか? それはある意味「歪み」というより、「あまりにも『自分の欲望を満たすこと』に忠実すぎる」だけなのかもしれませんし。
少なくとも、「これに答えられた人間は史上わずかに5人」っていうのは桜庭さんの創作だろうな、とは思います。それが事実であるならば、この質問は客観的なデータとしてはあまりに正答率が低くて役に立たないので、実用には適さないでしょうから。
「簡単に『逢いたくて』にたどり着ける人」は、世の中に意外とたくさんいるような気もするんですよね。あんまり想像したくない話ではあるけれど。
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| 2008年01月21日(月) ■ |
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| ナインティナインの岡村さんが「笑いの神様っていんねんな」と思った瞬間 |
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『働きマン仕事人に聞く』(一志治夫・文、安野モヨコ・画:講談社)より。
(各界の「仕事人」たちへのインタビュー集。ナインティナインの岡村隆史さんの回の一部です)
【テレビに出始めてみると、一見簡単に思えることが意外に難しいことがわかってくる。お笑いの深さを改めて知ることになるのだ。 「『とぶくすり』とかやってるころ、プロデューサーさんから『お前らプロちゃうんか』と叱られて、そうやそうや、プロやった、と思ったこともあった。年齢の近い仲間と一緒やったし、遊びで始まっていた部分もあったので、周りから厳しいことを言われて気づくことも多かったんです。自分らは楽しいと思ってやっていたけれど、『もっとテレビをわかれ』と言われ、どんどん教えてもらっていった。カメラがどこを向いているのかを意識して、カメラが来たときにボケる。カメラが回っていないところでボケても仕方ない。お笑いとはなんぞや、ということを現場で叩き込まれた」 プロデューサーから、こういわれたこともある。 「そんなネタで笑うわけないよ。あのカメラマン、志村けんと一緒にやってきた人だよ。そんな小細工は通用しない。いまの頭を壁にぶつけるシーンだって、志村けんならどうしてたか」 そんな問いかけをプロデューサーから投げつけられて、岡村たちは成長を続けていったのだ。 「子どものころから見ていたような有名な番組に出るときは、やっぱりプレッシャーもあった。足がすくんで前に出られないとか。でも、結局、前に出られへんかったら、映らないままで終わってしまうし。『とにかく、打席に立たないと意味がない』とプロデューサーからは注意された。『とにかく打席に立って、それでもしスベッても、編集で消されているだけのこと。ウケたらオンエアに乗るんだから、ビビッて前に出ないようなヤツは、結局、いてもいなくても一緒なんだ』と言われたんです」 岡村には、いまだに忘れられないシーンがある。「なるほどザ・ワールド春の祭典』に出演したときのことだ。そこそこ売れてきていたとはいえ、まだ全国区とは言い難い時期だった。 「スタジオの前のほうに脚のついたボタンが置いてあって、早押しで問題に答えるコーナーがあったんです。志村さんとかとんねるずさんとかがいて、志村さんとかがむちゃくちゃボケるんです。ボタンじゃないところをパーンと叩いたり。うわー、ええなって。でも、そんな錚々たるメンバーと一緒だから、前に出て行けないんですよ。でも、打席に立たんとと思って、次の問題になった瞬間に僕はばーっと走り出したんです」 そのとき、事件が起きる。 「笑いの神様っていんねんな、と思ったんですけど、ボタン押そうと思って、ボタンしか見てなくて、そしたら、司会の楠田枝里子さんがふわーって視界に入ってきたんです。それで、楠田さんにぼかーんと激突したんですね。楠田さん後ろによろけて倒れはった。で、お前、何してんねーんとなって、今田(耕司)さんが僕と同じチームで、僕のことをぱかーんと投げて、その瞬間に力のある先輩方がどんどん突っ込んでくれて、僕はただすみませーんって謝ってた。とにかく、それがものすごい笑いになって。ああ、打席に立てばええことがあるんだ、とそのとき思ったんです」 こんなことを繰り返しながら、ナインティナインの岡村隆史は、お笑い界の中で少しずつ地歩を固めていった。90年代前半には、長寿番組となる「めちゃ×2イケてるッ!」(フジテレビ系)、「ぐるぐるナインティナイン」(日本テレビ系)がスタートする。】
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この岡村さんの話を読んでみると、テレビに出ているタレント、とくに「芸人」さんたちというのは、「ただ舞台の上で面白いことをやっていればいい」というものではないのだな、ということがよくわかります。大勢の同業者がいるバラエティ番組で、どんなに面白いネタをやったり、ボケたりしても、タイミングやカメラの向きをある程度「計算」していなければ意味がなくなってしまうのです。そう考えると、「ひな壇芸人」だって、そんなに簡単なものではなさそうです。
お笑いの世界で志村けんさんや鶴瓶さん、明石家さんまさんなどの「ベテラン」たちが長い間君臨していて、若手はなかなかその牙城を崩せず、ちょっと売れてはすぐ消え……という状況が長い間続いているのは、結局のところ、ベテランたちは『テレビをわかっている』というのが大きいのではないかと思います。 ひとつひとつのネタに関しては、勢いのある若手のほうが面白い場合だってあるのでしょうが、「テレビという媒体を使って自分や出演している番組をプロデュースする力」というのは、一朝一夕に身につくものではないでしょうし。
デビューから順調に売れてきているように見えるナインティナインなのですが、岡村さんがここで話されている「笑いの神が降りてきたのを感じた時の話」は非常に印象的なものでした。どんなに勢いのある若手芸人でも、志村さんやとんねるずを前にすれば萎縮してしまって、なかなか足が前に出ないのではないかと思うのです。でも、岡村さんはそんな中、意を決して「打席に立とうとした」。 たぶん、この番組の視聴者からすれば、「よくあるバラエティ番組の1シーン」でしかなかったと思います。でも、これは本当に、岡村さんにとっては一つの大きな「転機」だったようです。この「ものすごい笑い」を生んだのはアクシデントがきっかけだったのですが、あの場面で岡村さんが駆け出さなければ、このアクシデントも起こらなかったわけですから。 もちろん、この出来事がなくても、ナインティナインはそれなりに売れていた可能性は高いでしょう。でも、この「体験」が無かったら、「打席に立とうとする姿勢」に自信を持ちきれなかったかもしれません。
しかし、この場面でも今田耕司さんの突っ込みがなければこんなに大きな笑いには繋がらなかったでしょうから、「自分だけが目立てばいい」というのでは、うまくやっていけないのも芸人稼業。芸人としては自分を目立たせたいけど、みんなが「俺が俺が」では、面白い番組にはならないはず。 ずっと同じメンバーで番組を続けているので「馴れ合い」っぽく見えたりもするのだけれど、この話を読むと、岡村さんが「仲間」を大事にしている理由がわかるような気がします。
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| 2008年01月17日(木) ■ |
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| 直木賞を取るための「必勝パターン」 |
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『文蔵』2008年1月号(PHP文庫)の特集記事「『直木賞』の基礎知識」より。
(『二つの山河』で第111回直木賞を受賞された作家・中村彰彦さん(20年近く文藝春秋社での勤務経験あり)と多くの直木賞作家を担当し、選考会の司会も務めたことがあるという文芸編集者(『オール讀物』編集長などを歴任)・豊田健次さんの対談「直木賞のウチとソト」から。「直木賞に取り方はある?」という項の一部です)
【豊田健次:中村さんは三度候補になっての受賞でしたね。
中村彰彦:受賞の時は、ある雑誌に250枚一挙掲載を二ヵ月続けていて、500枚を必死で書いていたので受賞できるかどうかと考えている暇がなかったですね。ただ、直木賞はあくまでも「1勝、勝ち抜け」の勝負ですから、仮にそれまでが相撲取りなら十両に転落するような成績でも、1勝すれば直木賞作家になれるんです。
豊田:池波正太郎さんは5回候補になってからの受賞でしたが、あまり何回も候補になりすぎるのはご本人にも残酷な面があって、社内選考でもそろそろいいじゃないかという話も出ます。でも阿部牧郎さんや白石一郎さんは8回目、古川薫さんは10回目で受賞ですしね。簡単には判断できないところがあります。
中村:一方で、まず候補作に選ばれたいという人は、『オール讀物』なり『小説現代』なりの小説雑誌の新人賞に応募して、きちんとした発表媒体を持つことです。作品がまとまって単行本になれば、文春の社内選考の回覧対象になりますから。 それと、何度か候補になるような状況まで来た場合のパターンとしては、2回連続して候補になることでしょうね。僕も候補は3回だけれど、後ろの2回は連続しています。連続した場合に、「この前も頑張っていたな」という評価が加味される。
豊田:選評にもよくそういう書き方がされますが、選考委員の方々も前作を読んだのが半年前だから印象に残っているんです。あまり前だと忘れられてしまう(笑)。
中村:もっとも「あの時よりこちらの方がいい」という評価を受けないとダメです。前より明らかに劣っていたら、もう論外(笑)。
豊田:実際”合わせ技、一本”といった評価での受賞は、昔からけっこうありました。一例として半村良さんの「雨やどり」(第72回)を挙げますが、前の候補作が「不可触領域」という伝奇SFの中編で、受賞には至らなかったものの選考委員に強い印象を残していました。そこへ半村さんは、今度は川口松太郎の短編を思わせる鮮やかな短編小説で候補になって見事受賞した。これぞ”合わせ技”ですね。長いエンターテインメントも書ければ短編も上手いじゃないか、これは十分職業作家としてやっていける人だと認定されたんです。】
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豊田さんはこの対談の別のところで、「直木賞の選考では明らかに、候補先の出来に職業作家として十分にやっていける力量があるかどうかが加味されています」と仰っておられます。 読者の側からみると、「なんでこんな作品が直木賞に?」とか、「この受賞作より、この間候補になった作品のほうが良かったんじゃないの?」というようなことを言いたくなるのですが、選考委員としては、「その作家のこれまでの実績+候補作のデキ」で判断している、ということのようです。 いくら人気作家でも、あまりにも不出来な作品に「直木賞」を授賞するわけにはいかないでしょうし。 もちろん、すべての選考委員が同じスタンスだとは限らないのですけど。
それにしても、今回、第138回の直木賞受賞作である、桜庭一樹さんの『私の男』が、この「直木賞を取るための必勝パターン」に、見事に一致していた、ということに僕は驚いてしまいました。 桜庭さんは、半年前の第137回の直木賞で『赤朽葉家の伝説』ではじめて「直木賞候補」になり、今回、2回連続の候補で受賞されました。ファンタジー色が強い『赤朽葉家』と、歪んだ男女のつながりを描いた『私の男』はかなり毛色が異なった作品で、選考委員たちは、「こんな作品も書けるのか!」と、その「芸域の広さ」に感心させられたのではないでしょうか。
僕自身は、『赤朽葉家の伝説』のほうが好みなので、『私の男』に授賞するのなら、『赤朽葉家』のときに……とも思ったのですが、もし、桜庭さんが前回の候補になっていなければ、「あと1作様子を見よう」というような評価で、今回は受賞できなかった可能性も高かったと思います。 あまりに「候補になっては落選」が続くと、選考委員に「また同じような作品を……」と飽きられてしまう危険性もあり、「2回連続くらいがちょうどいい」のでしょう。
この「直木賞の取り方」の話、聞いたからといって、誰もが簡単に『オール讀物』や『小説現代』を発表媒体にできるわけがなく、「狙って2回連続で直木賞候補になる」のも至難の業なので(それを狙ってできる人なら、一発で受賞できるのではないかと)、参考にはならないんですけどね……
もしかしたら、桜庭一樹さんは、今回「狙ってた」のでしょうか?
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| 2008年01月15日(火) ■ |
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| タイムボカンシリーズの「三悪」は、同一人物なの? |
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『TVBros。 2008年1号』(東京ニュース通信社)の特集記事「ヤッターマン・ドロンボー まるわかり読本」より。
(『ヤッターマン』のさまざまな豆知識を紹介したコラムの一部です)
【<秘密だべぇ〜その1>高田玩具店の、ヤッターワン誕生秘話
前作の設定では、ガンちゃんの本名は高田ガンで実家は高田玩具店。ガンちゃんの父親で店主の徳兵衛は発明狂となっている。そして、客寄せのために徳兵衛が作ったロボットが、乾電池で動くヤンチャでオシャベリなオモッチャマだった。 徳兵衛は次なる広告塔として、より大きな犬型のロボットを作ろうとするが配線がうまくいかず、途中で断念。それをガンちゃんが見つけ、彼のガールフレンドで上成電気店の上成愛こと、アイちゃんの協力によって完成させたのがヤッターワンである。ガンちゃんは、完成させたヤッターワンを単なる店の広告宣伝用ではなく、正義のために役立てようと考えたのだ。これらは設定にはあったが詳しく放映されなかったため、知る人は少ない。
<秘密だべぇ〜その2>ボカンシリーズの三悪は、同一人物なのか
『タイムボカン』から『ヤッターマン』に移行する際、”悪玉トリオ”が予告に登場し、次週からは名前を変えて出直しをする、といった内容の発言をしている。それが三悪が同一人物であることを物語っていたが、後にその設定は解消され各シリーズに登場する三悪は別人とされる。もっとも、一部のエピソードでは初期設定に惑わされ、三悪が同一人物として扱われることもあった。シリーズ各作品に登場した三悪が別人であることを決定付けたのは、'93年末に発売されたOVA(オリジナルビデオアニメ)『タイムボカン王道復古』の第1巻。この作品では、それまでに作られた7作の三悪が一堂に会し、「オール三悪メカメカ猛レース」と題して第2巻の主役の座を争ったのだ。ちなみに、この時優勝したのはドロンボー一味であった。
<秘密だべぇ〜その3>演出のパワーで支えられた作品
作品面白さを生み出すのは、普通、脚本家によるところが大きい。ところがタイムボカンシリーズ、とりわけ前作『ヤッターマン』は数少ない例外といえるかもしれない。その面白さを引き出したのは演出家だったからだ。”ライヴ漫才”のような楽しさが求められた『ヤッターマン』は、脚本通りに演出する手法では限界があった。そこで原征太郎、布川ゆうじ、奥田誠冶、石黒昇、芦田豊雄といった当時のベテラン演出陣を軸に、真下耕一、植田秀仁、押井守といった、当時頭角を現しつつあった若手演出家も加わって、脚本を膨らませる形で世界観を作りあげていったのだ。これは当初、脚本サイドの反発も大きかったという。だが、演出家のパワーと”ノリ”が面白さに繋がっていることは、間もなく理解されたのである。
<説明しよう>「ポチッとな」ですが…
『ヤッターマン』のセリフの中でも、有名かつキャッチーなセリフである、スイッチを押す時の「ポチッとな」。が実は劇中で「ポチッとな」というセリフはほとんど無いのである。実は正解は「ポチッと」。「ポチッとな」は、あくまでそのバリエーションのひとつなのだ。ちなみに劇中で「ポチッと」は100回以上、比べて「ポチッとな」が10回程度と圧倒的に少ない。ものすごくどうでもいい話なんだが、断固として「ポチッと」が正しいのです。】
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昨日、テレビアニメとしては30年ぶりに復活した『ヤッターマン』の豆知識あれこれ。まあ、新しい『ヤッターマン』に関しては賛否両論あるようなのですが、あの「三悪」と「ドクロベエ様」の声が同じだというだけでも、僕はけっこう嬉しかったです。 「三悪は同一人物なのか?」というのは、僕の中でも長い間謎(というか、似たようなキャラだけど、「原則的には別人」だと思っていたのですが、【'93年末に発売されたOVA(オリジナルビデオアニメ)『タイムボカン王道復古』の第1巻。この作品では、それまでに作られた7作の三悪が一堂に会し、「オール三悪メカメカ猛レース」と題して第2巻の主役の座を争った】なんてことがあったんですね……これは全然知りませんでした。あの三悪×7って、それはぜひ一度観てみたいなあ…… その企画で勝ったのが「ドロンボー」だったということは、やはり、制作側にとっても、「三悪の代表はドロンボー」だったということなのでしょうね。『ヤッターマン』は、シリーズの中でもっとも長く続いた作品でもありましたし。
そして、このさまざまなエピソードを読んでみると、『ヤッターマン』というのは、いろんな意味で「アニメの歴史に残る作品」だったようです。 『ヤッターマン』は、子供の頃の僕にとっても、「毎週同じような展開のアニメ」だったのですけど、それでも2年間楽しんで観られたのは、ここに書かれているような「演出家たちの力」が大きかったんですね。『ヤッターマン』は、「三悪」を中心としたキャラクターたちの細かいやりとりが魅力的だったんだよなあ。
それにしても、あの「ポチッとな」が、あまり本編には出てきていなかったというのは、ちょっと意外でした。
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| 2008年01月12日(土) ■ |
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| 「私は、匂いですね。外見より匂いにいきます」 |
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『ときどき意味もなくずんずん歩く』(宮田珠己著・幻冬舎文庫)より。
(宮田さんが雑誌の広告をつくるために女性専用のエステサロンに入れてもらったときの話)
【女性専用のエステサロンは、たとえ社員であっても男は入れないところを、現場を見なければ広告はつくれないとの配慮で、特別の許可を得て入れてもらった。ふだんは、そこに女性客がほとんど一糸まとわぬ姿で横たわっているという営業時間外のマッサージルームなど、いくつかの施設を見せてもらったのである。その横たわっているものも見なければ広告がつくれない、と先方に言ってみたかったが、それは我慢した。 そのとき先方の担当者に、男性は女性のどこを見ますかと聞かれ、「そうですね、私は脚でしょうか」なんて真面目に答えたのを思い出す。取材中に何の話をしてるのか、とわれながらおかしかったのである。しかも脚と答えたあとで、それは年齢によってかわるのではないかと考え直して「どうも私の感触では、男は成長するにしたがって、女性の気になる部分がかわっていくように思います」と付け加えたりしたのも今思うと笑える。 私の観察によると、小学生くらいの男子は、ほとんど女子の顔しか見ていない。小学校では顔がかわいい子がとにかくモテることになっている。それが中学ぐらいになると胸が大きいかどうかがポイントになり、そのうちお尻へと関心が移行する。そうして心身ともに大人になるころには、なぜか脚、とくに足首で相手を測るようになっていくのだ。個人差もあるだろうが、おおむね男子の視線はそんな感じで推移していくのではないかと私は考える。上から下に興味が下がっていくのである。 すると、そのとき同行したライターが、「私は、匂いですね。外見より匂いにいきます」と言って、なるほどそういう意見もあるのか、と突如現れた新しい視点にうならされた。なかなか一筋縄ではいかない問題なのである。後に、こういった件に詳しい先輩にたしかめたところ、脚の次に匂いがくるんだね、と言っておられた。つまり整理すると、男子の嗜好はおおむね、次のように進化すると考えられるわけである。 顔→胸→尻→脚→匂い。 視覚的なものから嗅覚へ。たしかにこのエステの取材から数年が過ぎた今、私も、だんだん匂いの魅力を理解できるようになってきた。 これまでは香水の匂いなんかかえってむせるだけで、ちっともいいと思わなかったのだが、逆に香水に鋭く反応するようになってきたのだ。人込みで、あ、いい匂い、と思って匂いのもとを探したりしている。犯人はいい年こいたおばはんだったりして、一瞬ときめいた気持ちの落としどころに困ったりするが、こうして匂いに敏感になるころには、男も同時に、おっさん化の一途をたどっているのであろう。 匂いの先はどうなりますか、とあらためて先輩にたずねたところ、一巡してロリにいくね、とのことであった。理解できないが、とても深い。】
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僕は昔から「香水」ってやつが大の苦手でした。あまりに臭いがキツイ人が傍にいると、それだけで胸やけがしてしまうくらいに。 まあ、僕の知る限り、子供っていうのは大概そういうもので、いわゆる「化粧臭いオバサン」とエレベーターに乗り合わせて、「くさーい、何この臭い!」などと発言して場の空気を凍らせてしまったりしますよね。 でも、あの「香水」というものが、本当に「全く効果がない、あるいは、異性に不快感を与えるのみ」という存在であったら、わざわざあんなものをつける人はいないはずです。 それでは、あの「香水」というのは、いったい誰をターゲットにしているのか?
男の視線が、「顔」から徐々に下方に向かっていく、という話はけっこうよく聞きますし、僕も最近は、「ああ、確かにそうなのかもしれないな」と感じます。たしかに、小学生の頃は、「顔」と、せいぜい背の高さくらいしか見てなかったよなあ…… いや、僕だって10代から20代前半くらいまでは、「胸」に比べると、「お尻」というのは実用性に乏しいし、ましていわんや「脚」なんて、どこのマニアの世界の話だよ……と思っていたのですが、30代半ばくらいになると、ふと「ああ、この人は脚が綺麗だな」というようなことを考えてしまうんですよね。そんなのお前だけ、と言われれば、立つ瀬が無いのですが。
そして、自分でも不思議なのですけど、子供の頃あれだけ嫌だった「香水のにおい」が、今ではそんなに不快じゃなくなってきているんですよね。まだ、「引き寄せられる」というレベルには達していませんが、確実に「許せる」ようにはなってきています。少なくとも、「匂いのほうに目が向いてしまう」というのはありますし。 こうして考えると、世間にあんなにたくさん「化粧臭い人」がいるというのには、それなりの理由がある、ということなのでしょうね。 でも、顔→胸→尻→脚なんていうのは、ある意味、どんどん「細部」に人は魅かれるようになってくる、ということですよね。ただ、そういう「視覚刺激」から、突然「嗅覚刺激」にシフトしてしまうというのは、やっぱり謎ではあるのですけど。 しかし、「最後は一巡してロリ」なのか……そのくらいまで生きてたら、「年上好み」っていうのも選択肢が少ないでしょうから、うまくできている、と言えなくもないのかな……
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| 2008年01月10日(木) ■ |
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| 「パイロットの操縦免許」と「車の運転免許」の違い |
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『航空雑学図鑑〜乗って驚く!!空のギモン98』(日本航空「Agora」編集部=編・講談社+α文庫)より。
(「パイロットの操縦免許は車とどう違うのか?」という項から)
【多くの人が持っている車の免許の場合、基本的にどのメーカーの車でも、特殊な車両でなければどの車種でも、運転することができる。メーターなどの形状やスイッチの位置は関係なく、自分の好きな車に乗れるし、友人の車を借りて運転することも、全く初めての車で公道を走行することも可能だ。旅客機も同じなのだろうか? パイロットが持っているライセンスの場合、実はそうはいかない。乗客を乗せて操縦できるのは、1人1機種に限られているのだ。例えば、定期運用操縦士と呼ばれる機長資格をボーイング777で取得すると、その他の機種を操縦することはできない。 その理由としては、常に確実・正確な操作を求められることが挙げられる。 旅客機を飛ばす基本的な操縦方法は、どの機種でもほとんど同じだが、操縦桿を握るたびに計器の形やスイッチの位置が違っていては、旅客機を安全に運行できなくなる。何よりも、緊急時の操作に支障をきたしてしまう。1機種のみに専念し、操縦技術を磨いて経験を積むことにより、安全な運行ができるというわけだ。 また、車の免許との違いで他にも気になるのが、国際線にはまた別の免許が必要なのか? 国内線と国際線のどちらを飛ぶか、自分で選べるのだろうか? ということである。パイロットのライセンスには、なんと国内線か国際線かという区別はない。しかし、ボーイング777の操縦資格があっても、運行に際しては、空港があるエリアや空港ごとに定められた離着陸するための資格も必要となる。だから、自由に路線を選べるわけではないのである。 大勢の人を預かる資格だけあって、制限も厳しいようだ。】
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「パイロットの操縦免許」というのは、「乗客を乗せて操縦できるのは、1人1機種に限られている」らしいです。この場合、車の「普通免許」と比較するのではなく、バスやタクシーなど、お客を乗せて運転するために必要な「第二種運転免許」と比較するのが妥当だとは思うのですが、それにしても、「1人1機種だけ」というのは、正直意外でした。「パイロットになりさえすれば、いろんな飛行機を自由自在に操って大空を飛べる」というわけではないんですね。 確かにそのほうが、自分の「愛機」を確実に操作できるのは間違いないし、安全性を高める効果はありそうなのですが、パイロットたちは、「この飛行機ばっかりで飽きたなあ……」とか、「たまにはジャンボジェットを運転したいんだけど……」なんていう欲求不満は生じてこないものなのでしょうか? 同じ機種しかずっと操縦できないのならなおさら、人気機種とそうでない機種を操縦するパイロットには、モチベーションの差が出てきそうな気もします。
飛行機のパイロットというのは、多くの人、とくに男子にとっては「憧れの職業」なのですが、実際にその仕事に就いてみると、毎回同じ機種を操縦して、同じ空港を行き来しているだけのルーチンワークが大部分を占めていて結構退屈、なのかもしれません。人の命を預かる、責任重大なカッコいい職業であることは事実だとしても、普段の仕事そのものは、そんなに面白いものじゃなさそうですよね。 そりゃあ、何年か前のキムタクのドラマみたいに、フライトのたびにトラブルに巻き込まれるようでは、やってられないでしょうが……
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| 2008年01月09日(水) ■ |
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| 「三億円事件」が、マスコミを変えた。 |
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『爆笑問題 ニッポンの犯罪12選〜日本史原論犯罪史編』(爆笑問題著・幻冬舎文庫)より。
(巻末の唐沢俊一さんの「解説」の一部です)
【戦後史年表を見てみるといい。それはあたかも犯罪とスキャンダルの年表と言ってもいいくらいだ。不思議なことに、内閣の改造とか、国際政治の動きなどのニュースよりも、犯罪事件の方がよっぽど、その”時代”の空気をストレートに伝えてくれる。戦後の混乱期を一事をもって表すとしたら、やはり帝銀事件を措いて他にはないだろうし、高度経済成長時代の裏面をイメージさせるのに、三億円事件より適当な事例があるとは思えない。同様に、二十世紀末をわれわれはオウム真理教のテロや酒鬼薔薇事件を通じて記録しているし、インターネット社会、という言葉を聞けば、即座に自殺サイトや依頼殺人事件のいくつかが頭に浮かぶ。時代のイメージは犯罪によって表現され、人々に認識されると言っていいかもしれない。 最大の例がチン切りで有名な阿部定事件だろう。ニ・ニ六事件で社会が騒然とし、世情に人々が不安を抱いているときに起った阿部定の情人殺害、下腹部切断事件は、奇妙なことに、民衆に、この暗いムードを吹き飛ばす救いの神のようにもてはやされた。事件があった待合宿では、定の泊まった部屋を、その時の様子を再現して展示し、定と被害者の写真を飾り、見物客を入れて見料をとった。定が逮捕された旅館では、主人が客にその逮捕のときの模様を講釈のように語って喝采を受けた。当時のマスコミには、彼女のことを”世直し大明神”と呼んだものまである。確かに定の行動には、自分の恋情のおもむくまま、自由に生きたという側面はあるが、仮にも殺人犯である女性を、どうして世間はここまで喝采をもって迎えたのか。 あるいは、三億円事件である。あの事件で奪われた被害実額が2億9430万7500円。これをマスコミは”憎しみのない犯罪”と呼んだ。事実、あの犯人は、そのスマートでスピーディな犯行で、暮れかけてきた高度経済成長期のアンニュイの中、いっときなりともわれわれのテンションを上げてくれるカンフル剤の役割を果たしてくれた。まさに現代のネズミ小僧次郎吉である。この事件は新聞や雑誌の売り上げ倍増、テレビの報道番組の視聴率アップなど、さまざまな経済効果を生み、また、奪われた金が東芝の府中工場従業員のボーナスだった(外資系の保険がかかっていたため、翌日には全員にボーナスが支払われた)ことから、銀行のオンライン化がその後促進されることになるなど、社会が今の形になっていく、大きなきっかけになった。犯罪が社会を変えていくのである。 それにしても、犯罪者は人気がある。こういうと語弊があるが、われわれは世間をアッと言わせた犯罪者に、ある種のあこがれを抱く。これは確かな事実である。いまだ記憶に新しいだろうが、2004年、体形が太めであることをからかわれて腹を立て、クラスメートをカッターナイフで刺殺した長崎の小学6年生女子は、ネットでその本人と思われる写真が流出、着ていたシャツから”ネバダたん”という愛称で呼ばれ、犯罪史上最も可愛い犯人と称されて、”ネバダたんハアハア”という言葉が流行するなど、一躍アイドル化した。これを単なるネット人種の悪趣味、ととらえると、事の本質を見失う。】
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あまり認めたくないことではあるのですが、確かに、みんな「犯罪や犯罪者がけっこう好き」なのかもしれないなあ、と僕も思います。いや、「好き」じゃないのだとしても「気になる」のは間違いないですよね。 阿部定が”世直し大明神”なんて呼ばれていたというのは、正直「どんな時代なんだそれは……」と理解不能なのですけど、その異常な事件の現場を見てみたい、という当時の人々の気持ちは僕も少しわかるような気もします。 それにしても、戦後の高度経済成長期のテレビや新聞といったメディアの「商業的な発展」に、ここまで「三億円事件」が貢献していたというのは、これを読んではじめて知りました。真相が不明でさまざまな憶測が取り沙汰された「三億円事件」に対する報道合戦で売り上げを伸ばしたということは、その後のメディアの方向性に大きな影響を与えているようにも思われます。少なくとも「そういう視聴者の『覗き見趣味』を煽るような記事や番組のほうが、公正かつ簡潔な報道よりも売れるし視聴率を稼げる」ことを経験してしまうと、なかなか「初心に帰る」ことは難しいのではないかと。理想は理想として、「売れないと食べていけない」のは、マスコミだって同じでしょうから。 そして、この事実は「そういう『報道』を求めている視聴者が多いのだから、その希望に沿って『知る権利』を満足させてあげるのがメディアの使命なのだ」という大義名分にもなるんですよね。結局、視聴者が「下世話でスキャンダラスな取り上げ方」に興味を示さなければ、そんな番組は淘汰されてしまうはずなのです。 「ネットで騒いでいる人たちは気持ち悪い」とは言うけれど、”ネバダたんハアハア”こそが、誰も知り合いが見ていない場所での「視聴者の本音」なのかもしれません。僕自身は、そういうのを「人間の本質だからしょうがない」というふうに悟ってしまうのは、あまりに情けないとも思うんですけど、そういえば『グリコ・森永事件』のときは、あの「かい人21面相」の脅迫状が新聞に載るのを、けっこう楽しみにしていたんですよね……
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| 2008年01月06日(日) ■ |
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| ジャイアントパンダの「本当のお値段」 |
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『動物の値段』(白輪剛史著・ロコモーションパブリッシング)より。
(さまざまな動物の「実勢価格」と「実際に飼う上での問題点」について動物商である著者がまとめた本の一部です。「ジャイアントパンダのお値段」について)
【人里離れた未踏の地にひっそりと生きてきたジャイアントパンダたちが人間に発見されたのは意外にもわりと最近のこと。発見されてからは美しい毛皮と食用肉を目的に乱獲され、たちまち絶滅の危機に瀕してしまった。 「パンダを食う!?」と、そこに引っかかった方も多いでしょうが、とにかく中国人は”生きているものならなんでも食う”と言われるくらい、なんでも食う。
(中略)
かつて中国において、パンダの密猟は死刑に処せられる重罪であった。最近は終身刑になったようだが、今でも時々密猟者が逮捕されている。警察の手に落ちれば終身刑とは……、まさに「命がけの仕事」だ。 パンダは目の周りが黒い”たれ目模様”になっているので一見可愛らしく見えるが、それは単に模様が可愛いだけでツキノワグマはヒグマと変わらない。なにせクマですから。 試しにパンダの写真を真っ黒に塗りつぶしてみると、単なるクマだということがよくわかる。ツキノワグマもパンダのような模様に産まれていれば簡単に撃ち殺されたりはしなかったはずなのに。
1972年、「日中国交正常化」により日本と中華人民共和国の国交が回復した時、中国政府より2頭のパンダが贈られた。同年10月28日に来日した上野動物園の「蘭蘭・ランラン」と「康康・カンカン」だ。これが日本へ初めてやってきたジャイアントパンダで、その後またたく間に日本では空前のパンダブームが起こったのだった。 たしか私が7歳か8歳の頃、この「ランラン」と「カンカン」の実物を上野動物園で見ている。パンダそのものというよりは、とにかくすごい人混みの中、一瞬でパンダの前を通り過ぎたことをよく覚えている。後ろ姿しか見えずに残念に思ったものだった。その後、ランランは1979年に妊娠中毒症で。カンカンは1980年に腎不全で死んでしまった。
(中略)
今まで日本の動物園では、上野動物園と神戸市立王子動物園、そして和歌山のアドベンチャーワールドの3ヵ所にだけパンダがきている。 もちろん繁殖も試みられているが、タイミングが難しいとのことで、なかなかうまくいかないようだ。それでも、上野動物園では5頭来日し2頭が生まれ、アドベンチャーワールドでは3頭来日し7頭が生まれている。 繁殖が追いつかないということであれば、原産国の中国から連れてくるしかないわけだが、このジャイアントパンダ、中国の国家1級保護動物に指定され、中国の威信にかけて保護に力を入れている動物なので、中国政府の許可がないと移動も購入も完全に不可能だ。そんな状況の中、中国は外交の切り札であるジャイアントパンダを親善大使として「パンダ外交」を繰り返してきたのであった。 中国はパンダを売ったりはしない。あくまで親善大使でありボランティアなのだ。だから「輸送費や必要経費は輸入国持ち」はもちろんのこと、一緒についてくる「専属飼育員の生活費」までも、すべて面倒を見なければならない。 それでは「パンダ外交」でない方法でパンダを連れてくることは完全に不可能なのだろうか? 中国の野生動物保護管理公室の知人に聞いてみたところ、彼曰く、まったく方法がないわけではないらしい。受け入れ先が「公的機関や繁殖を目的とした施設であれば可能だそうだ。
パンダはワシントン条約で売買を禁止されているので、「レンタル」という方法をとる。 中国政府から公式に借りるとした場合、中国野生動物保護協会を通じてジャイアントパンダの保護に毎年一定額を寄付することを条件にされるらしい。金額ははっきり聞かせてもらえなかったが、どうやら3年契約で1年あたろ1億円程度というのが相場のようだった。 1頭だけでは繁殖しないのでペアで連れてきたい……ということになれば当然のことながら倍のレンタル料が発生する。これにさらに前述のとおり「専属の飼育員」が付いてくるので人件費もプラスされる。加えて竹類などの葉を1日40kgぐらい食べるので、エサ代も莫大。もちろん、個人レベルにはレンタルしてくれないので、しっかりとしたジャイアントパンダの繁殖研究施設を設立しなければならず……。 よくよく考えたら中国へ毎月通ったほうが安いですね。】
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僕がはじめて実物のパンダを目にしたのは小学校低学年の頃で、その頃は「パンダブーム」の最盛期は過ぎていたと思うのですが、それでも上野動物園のパンダコーナーの周りはすごい人だかりで、本当に「なんとかパンダの顔の輪郭を見ることができた」くらいだったのを覚えています。 ランラン、カンカンが亡くなったときも、かなり大きなニュースになったんですよね…… しかしながら、数年前に上野動物園に行ったときには、冬休み中だったにもかかわらず「最前列でパンダ見放題」だったので(それでも、他の動物の檻の周りよりは、はるかに賑わっていたんですけどね)、「パンダ人気」も昔ほどではないのは間違いないようです。
現在上野動物園にいるのはオスの「リンリン」1頭だけで、せめて雌雄1頭ずつくらいは……と思うのですが、この文章を読んで、「動物園にとっては、パンダを飼育し続けるというのはけっこうな負担なのだ」ということをあらためて思い知らされました。「客寄せパンダ」とは言うけれど、地方の動物園で簡単に飼えるような動物じゃないのは間違いないようです。 もちろん、中国側もそう簡単には「レンタル」してくれないでしょう。
それにしても「売り物じゃない」はずのジャイアントパンダは、なんとお金がかかる動物であることか! 「借りる」ために1頭あたり年間1億円の「寄付」+専属飼育員の給料+エサ代となれば、「親善大使」というよりは、「お金がかかる居候」という感じですよね。最近の上野動物園がパンダの繁殖に一時期ほど熱心ではないように見えるのも、「これ以上パンダが増えても困る」というのが本音だからなのかもしれません。産まれたパンダの子供は、たとえ一方の親パンダが中国籍でなくても、「レンタル料」の課金対象となるらしいですし。
でもほんと、これじゃあ本当に「わざわざ日本に連れてこなくても、こちらから中国に行ったほうが安上がり」ですよね。いやまあ、中国という国そのものが、今の日本人にとっては「敷居が高い」ところはあるとしても。
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| 2008年01月04日(金) ■ |
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| 「立ち止まったとき、皆さんは何をしますか?」〜「『スーパーマリオギャラクシー』を作った男」の言葉 |
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『週刊ファミ通』(エンターブレイン)2007/12/28号の記事「必読!3D『マリオ』の歴史が語られた、任天堂・小泉氏の基調講演!」より。
(2007年11月27、28両日にカナダで行われた「モントリオール国際ゲームサミット07」(アライアンスヌメック主催)でのWii用ソフト『スーパーマリオギャラクシー』の開発者である任天堂の小泉歓晃さんの基調講演の内容について)
【ゲームサミットの開幕を告げる最初の基調講演を行ったのは、任天堂情報開発本部東京制作部の小泉歓晃氏だ。小泉氏は『スーパーマリオ64』以来、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、『スーパーマリオサンシャイン』、そして『スーパーマリオギャラクシー』といった、3D表現を用いた名作の制作に、かの宮本茂氏とともに関わってきたクリエイター。講演のタイトルは"Super Mario Galaxy The Journey from Garden to Galaxy―箱庭から銀河への旅―"というじつに心ときめくものだ。 小泉氏はニンテンドー64ソフト『スーパーマリオ64』の制作に携わって以来、一貫して”3D畑”を歩んできている。そんな小泉氏の師匠にあたるのが宮本茂氏。小泉氏はつねづね宮本氏から「3Dのいちばんの魅力は”カメラ”だ」と教えられ、”カメラを考えることが3Dにおけるゲームデザインである”という信念のもと、さまざまなタイプのカメラを考案していった。しかしこれを利用した”3Dの箱庭の中で楽しむ”という行為を実現させるためには、道に迷う、3D酔いをしてしまうといった困難も。小泉氏たちはさまざまな工夫を凝らし、これらの問題に対処する。そかしそれだけで小泉氏の旅が終わったわけではなかった。ユーザーが自由に操作できるカメラを導入したとき、操作が複雑になるという弊害が生まれたのだ。 「これにより”3D=難しい”という固定観念を作ってしまったかもしれません。僕はこの解決策が見つかるまで、3Dにおける『マリオ』を封印しようと決めたのです」(小泉)
(中略)
そして2005年。小泉氏は封印していた3D版の『マリオ』の企画に挑む。対応ハードはWiiで、企画名は”スーパーマリオレボリューション(仮)”。のちの『スーパーマリオギャラクシー』だ。小泉氏は球状地形の利点を”壁がないこと”と捉え、さらにカメラ操作も排除することでプレイの複雑化からの脱却を図る。加えて『(ドンキーコング)ジャングルビート』のときに得た手応えを活かしたいと思い、Wiiリモコンがもうひとつあればふたり協力プレイができる”アシストプレイ”を導入した。ここで小泉氏はステージでアシストプレイを実演。来場者から喝采を浴びた。
そして、講演はフィナーレへ。ゲーム制作者に向けた小泉氏のメッセージはじつに印象的だった。 「『スーパーマリオギャラクシー』はひとつのグッドアイディアから生まれたのではなくて、13年に及ぶチャレンジから生み出た多くのアイデアから成り立っていると言えます。私にとってこのゲームは、長い旅の中で苦楽をともにした、宮本をはじめとするたくさんの頼もしいスタッフたちとのエピソードを綴った1本の映画のようなものです。では、”旅は終わりなのか”と聞かれると、目的地はまだまだ先だと思っています。『ギャラクシー』には、まだ可能性で止まっているもの、新たに発見できたアイデアもたくさんあります。これをもとに、つぎの目的地を定めて旅は続くわけです。東京に戻ったらスタッフと、つぎの旅の計画をしようと考えています。さあ、ギャラクシーのつぎは、どこに行くんでしょうかね……? ここにいらっしゃる皆さんも、ゲーム開発という長い長い旅に魅せられた人たちだと思います。いいことばかりじゃないでしょう。アイデアに頭を悩ませたり、人間関係に悩むこともあるはずです。 立ち止まったとき、皆さんは何をしますか? 私は選択肢をできるだけ増やす努力をしています。ひとりでできなかったら誰かの手を借りても、ひとつでも増やす努力をします。 そして選んだ道は、楽しみながら進むことにしています。ひょっとしたら坂道かもしれないし、回り道かもしれない。それでも誇りを持って、楽しみながら進むんです。 現在、旅の途中の方、これから旅に出られる方もいるかと思います。ぜひ、旅を楽しんでください。楽しんで作られたゲームは必ず楽しいものとなって、お客さんに届くと信じています。それでは皆さん、よい旅を!」】
参考リンク(1) 国際ゲームサミット:任天堂の開発者が基調講演 カナダで開催(毎日jp)
参考リンク(2) 3D『マリオ』の歴史がここに! 小泉歓晃氏基調講演(その1) / ファミ通.com 3D『マリオ』の歴史がここに! 小泉歓晃氏基調講演(その2) / ファミ通.com
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「2007年ベストゲーム」に挙げる人も多い、Wii用ソフト『スーパーマリオギャラクシー』なのですが、3Dゲームということもあり、その開発は、まさに「平坦な道のりではなかった」ようです。 この小泉さんの講演内容の詳細を読んでみると(参考リンク(2)をぜひ読んでみてください)、『スーパーマリオギャラクシー』という1本のゲームの中には、これまでの13年間、小泉さんが作り続けてきた「3Dゲーム」のさまざまな要素が(うまくいかなかったところの反省も含めて)反映されているのだということがよくわかります。 『スーパーマリオギャラクシー』は1本のゲームソフトだけれども、そのディスクの中には、いままでの歴史が詰まっているのです。小泉さんや宮本茂さんは、「ゲーム作りの天才」なのかもしれませんが、彼らだって、全くの「無」の状態から、『スーパーマリオギャラクシー』を作ったわけではないんですよね。
「ゲームを作る仕事」というのは、「楽しみながらお金がもらえるなんて羨ましいなあ」なんて考えがちなのですけど、実際は、そんなに甘いものではないようです。ゲーム制作にかかるコストが大きなものとなり、関わる人数が増えていくにつれ、才能のあるスタッフひとりの力だけではゲームを作ることは難しくなっています。 小泉さんも仰っていますが、制作責任者ともなれば、「ゲームのアイデアや技術的な問題」の他に、「自分と周囲の人々、あるいは他のスタッフ同士の人間関係」に悩まされる機会も多いはずです。
僕がこの講演で最も考えさせられたのは、 【立ち止まったとき、皆さんは何をしますか? 私は選択肢をできるだけ増やす努力をしています。ひとりでできなかったら誰かの手を借りても、ひとつでも増やす努力をします。】 というところでした。
僕は目の前に壁があって「立ち止まったとき」に今までどうしていただろうか? 「目の前にある壁をどうするか?」ということばかりを思い悩んで、その壁にひたすらぶつかって怪我をしてみたり、その部屋から出られないことを嘆き悲しんでいるばかりだったりしたんですよね。そうするのが「正しい」という固定観念から逃れることができずに。
小泉さんは、「立ち止まったときこそ、目の前の壁のことにばかりこだわらず、新しい道をつくるべきだ」と仰っておられます。仮にその壁を破ることができないとしても、その壁の先の目的地へ行く道は、必ず他にあるはずだ、と。 ちょっと抽象的な言葉ではあるのですが、目の前の「目標」に対して、視野が狭くなりがちな僕にとっては、とても印象的なメッセージだったのです。
僕も「選択肢をできるだけ増やす」ことを意識しながら、2008年は「誇りを持って、楽しみながら」進んでいこうと思っています。
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