山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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2012年10月29日(月) 父のこと(7)

4年生の後半ぐらいからかそろそろ就職の心配をし出し始める。土木工学科はその性格上就職先は建設会社系、コンサルタント系、公務員系などに分かれる。就職担当の先生方は本人の希望と成績を勘案しながら順次斡旋していく。私はコンサルタントを希望していたので、ちょうど採用希望がきていた外資系のコンサルタントを受けることになった。地元に就職しないということにも父は特に何も言わなかった。オイルショックの直後で地方の就職難も理解していたのだろう。明治神宮前に本社があり、同級生と二人で慣れない学生服に身を包み、会社説明会に乗り込んだ。以前は説明会でさえも旅費が支給されたそうだが、オイルショック後はそういうこともなくなっていた。無事説明会を終えて学校の生活に戻った頃、土木の主任教授が興信所が調査にきたので採用の見込みありと伝えられた。そのため本試験の準備にとりかかった。

ところがである。その直後に突然八戸市が職員採用計画を発表したのである。その情報を地域の実力者であるM氏が父の所にもたらしていた。それを聞いた父は当然のように私に八戸市の職員採用試験を受験するよう命じた。私はコンサルタント会社に採用される可能性があると言われていたが、家庭のことも考え父に従った。
八戸市職員の土木系の採用枠は2人だったが、既に私のクラスからだけでも2人が受験を表明していた。そこに私が割り込んだ形になった。単純計算でも必然的に3人のうち1人は確実に落ちる計算になる。とても申し訳ないとともに辛い決断となった。試験結果は八戸市が2人の採用枠を拡大し我らのクラスの3人が採用された。

この時も父の決断によって、結果的に八戸市の職員として採用され勤務することができた。節目節目で父の決断が私の人生を決めていることがある。元は村役場とはいえ、役場職員として真面目に働き、合併後八戸市役所となってからも市の職員として立派に職責を果たしてきた人である。私は父の後を継いで市の職員になったようなものである。


 「モレスキン」てなに?私は最近娘がこのノートを持ち歩くまで知らなかった。
 世の中はデジタルの時代だが、だからこそ手書きのできる紙のノートが流行っているのではないだろうか。私自身手書きに飢えているようだ。ブログを書くにも読書のレビューを書くのにも余り物の紙の裏を利用して下書きをするようになった。
 この本を読んでみるとモレスキンの優位性を訴えているようだが、ではどこが優れているのか?
・余分線とか囲みとかなく極めて自由度が高い。
・他のノート類に比して作りが堅牢で用意にばらけない。
・ゴムバンドが付いてるので移動中開かない?
・ポケットが付いてる。などのようである。
 後はノートの活用術が紹介されている。日記をつけるとか、読書記録をする、フォトアルバムにする、レシピを付ける、などなど。基本は「モレスキン・ノートの使い方に制限を加えない」ことだ。そのためかどうかわらないが、筆者は「システム手帳を卒業しよう」とよびかけている。システム手帳は型にはまっていて、自分好みに利用するには限界があるという。確かに自分にあったリフィルがあれば問題ないが、そうでなければ自分がリフィルに合わせなければならない。ではどうするのか。モレスキンをミシステム手帳につくりかえる」のだそうだ。スケジュール、住所録、タスク、メモ、それぞれの分量に応じてページを割り当てシステム手帳に仕上げていくんだとか。でほまえに(システム手帳は卒業しよう」と言ったのは何だったのか。全く矛盾しているではないか。今の時代にそんなに手間暇かけてノートづくりができる人はどのくらいいるのであろうか。
 とこまて読んでも他の手帳やノートではなくモレスキンでなくてはならない理由が良くわらない。
 しかも、そうは言いながら、モレスキンの種類が増えているのはどうしたことだ。ダイアリーまで何種類もでている。そういう型にはまらないのがモレスキンの良さだと言っていたのではないの?まあ、大学ノートでも同じことができるのだから、高額なモレスキンはファッションの一つとして持ち歩くのはいいかもしれない。とてもオシャレだ。
 でも私はどれだけ自分を出せるか使ってみるけど。


2012年10月20日(土) 父のこと(6)

 高専に入ってから部活は最終的にバスケットボールをやり、それは社会人になってからも「市民ナイター・バスケットボール・リーグ」にチームを作って参加して続けた。

 学校に入ったばかりの頃は学業と部活とを両立できるのか不安でぶらぶらしていた。それでも寮にいてだらだらしているのは良くないと思い始め、同室の先輩が卓球部のキャプテンをしていたこともあり入部した。ところが練習に行ってみると一年生は一日中球拾いばかりで、最後に後片付けで終わり。毎日それが大会終了まで続くのかと思ったら、大会終了後もあまり変わり映えしない。上級生の中には自分の出身中学校の後輩一年生を指名して練習の相手をさせた。次の日もその一年生。上に中学の先輩がいる一年生は練習ができ、ほかは延々と球拾いだ。こんなのアホくさくて退部した。

 寮でぶらぶらしているうちにギターがうまい連中と知り合った。ロックバンドがやってみたくて軽音楽部に入った。ちょうど進級の時期だった。メンバー5人のうち3人が留年し退学者が出て、バンドは自然消滅した。

 私は幸い2年生に進級した。2年の時に寮の改修工事が入り、市内の学生は自宅通学になった。10月に行われる高専祭の実行委員長と親しくなり、高専祭の成功に向けて夢中になった。そしてそれは大成功に終わった。私は高専祭を機に初めて女の子と付き合い始めた。バイクの免許を取得し通学していたのでバイクでデートもした。しかしその子はすぐに別の男子を好きになったと言って私はあっさりと振られた。私にとってはどれも初めての出来事だったのでショックを受けた。気持ちのやり場をどこに向けたらいいのか分からずにいた。

 そうしているうちにある考えが浮かんだ。何も考えられないように余裕を与えなければいいのではないか。では何をすればいいか。学校内で最もきつい部活に入って身体をいじめればいい。それは何か。当時最もきつい練習をしていると思われたのはバスケットボール部であった。自分がやったことがあるかというと、中学校の球技大会ぐらいのもので、全くの素人だった。自宅に帰ってバスケット部に入部すると報告したが、父も母も何も言わなかった。

 素人で基本から全くできず基礎体力さえないのだから、練習にはついていけなかった。試合でも万年補欠いわゆるベンチウォーマーだったが、部員が少なかったのでラッキーにもベンチ入りだけはできた。だから高学年になっても、得点差が開いた時しか試合には出られず、専ら審判をやった。おかげで審判の眼だけは養われた。社会人になってからはしばらく青森県公認審判員のライセンスを持ち、インターハイなどに駆り出された。

 結局私の父は私のやる部活については一番最初以外口を出さなかった。軽音楽部のときでさえ私がエレキギターを自宅に持ち帰り、父のステレオをアンプ代わりにして音を出しても咎めるどころか面白そうに見ていた。新しもの好きの父には物珍しかったのだろう。


2012年10月17日(水) 父のこと(5)

 中学生になって部活に何を選ぶかはその後の人生を左右するほど重大であり、しかもそのとき喫緊の課題であった。
 私の自宅の周りに同年代の子どもといえば、隣のうちに同級生が1人、さらに近所に1年だけ年上の2人の女子がいた。男子はというとちょっと離れた国道周辺まで行かなければならなかった。私に最も影響を与えたのは土地の大家さんのお嬢さんで1年先輩のY子さんであった。彼女は鍵盤楽器ができるのが魅力であった。彼女は自分が所属する吹奏楽部を勧めてくれた。
当時彼女の自宅にはアップライトピアノが置いてあった。もともとはお姉さん達のものらしかったが、順に受け継いできたのだろう。周りが女の子ばかりだったので女の子とばかり遊んでいた。だから誘われるままに吹奏楽部への期待を膨らませていた。

やがて部活を選択しなければならない時期になった。私は父に対し何の抵抗もなく先入観も持たずに吹奏楽部に入りたいと告げ許可を得ようとした。ところが、である。父に覆された。
「運動部をやりなさい!体を鍛えねばわがねんだ。」

実は小学校では音楽部(器楽部)と野球部のかけもちであった。夏の大会の時期までが野球部でその後は器楽部だ。小さな学校なのでメンバーを集めるためにやむを得ない。そんなことで吹奏楽部への気持ちの流れはできていたのだが、父の一言で双六でいえば「振り出しに戻る」に来てしまった。では何部にするのか?それも流れから野球部と相場が決まっている。次の日、音楽室の吹奏楽部はあきらめてグラウンドへ向かった。
小学校の野球部では、私はTとバッテリーを組んでキャッチャーをしていた。しかしいかんせん肩が貧弱でなかなか盗塁を刺せなかった。そしてこの日、グラウンドに出てみて私の考えは吹っ飛んだ。「この人たちと何年も一緒にやりたくない。」先輩たちのガラの悪いこと。やはり小学校の野球部で私をいじめた連中が手薬煉引いて待っていたのだ。初日だけ行ってもう次の日から行くのを止めた。正式に入部していないのだから退部もなしだ。

その足で私が以前から慕っていた先輩がキャプテンをしている卓球部へ行ってみた。快く迎えてくれた。こうして中学校の部活が始まった。その後3年間卓球部を続けた。途中キャプテンも引き受けた。

父の一声で運動部に籍を置くことになったが、父が体育会系を勧めたのは意外な気もした。でももともと身体がそれほど丈夫でなかったから、それによって今の自分があるような気もする。


 世界銀行に勤めている友人がいるので、前作「国をつくるという仕事」に続き読んでみた。つい先日八戸市でも西水氏の講演会があったはずだ。テーマは『私たちの国づくりへ・雷龍の国ブータンに学ぶ』であった。本書もかなりのページをブータンに割いている。前ブータン国王から学ぶことが多かったそうだ。リーダーとはどういうものか直接学んだという。
 世界のリーダーたちとリーダー論を交わし、それを別のリーダーや次の世代、さらには民間の企業のリーダーたちにも伝えていく。世界銀行で培った改革のノウハウを別の組織に伝えていこうとする。そんな西水さんの姿勢や行動に驚くし尊敬する。
 本書はある新聞のコラムをまとめたものだそうだが、最後の藤沢久美さんの解説がまとめてくれているように思う。
「そこには経済成長する社会をつくるヒントがたくさんある。それを実現するのは私たち一人ひとりの意識と行動。それは私たち一人ひとりの中に眠るリーダーが目を覚ますことから始まる。」

読んでいくうちに初めて見る言葉に出会った。語彙が増えるのも読書の楽しみの一つだ。
・スーパー・シチズン(超越する市民)
・FOC(Flag of Convenience)便宜置籍国の旗
・不可触賎民(untouchable)(「賎」の字は一般に「賤」のようである)
 《もとインドのカーストで最下層の人々。1949年に違法とされ、今日では公式には
  Scheduled casteという》(ジーニアス英和大辞典より)
・ウィッシュ・リスト(wish list)理由なく欲しい物のリスト
・malapropism (滑稽に誤用された言葉:マラプロップ夫人に由来)
・sensing the future (未来を感知すること)
ただ私にはわからない辞書にも出てこない四文字熟語があった。「一心奮起」、「一心発起」という言葉だ。そして一つのコラムに4回も出てきたのが「一心元気に」という言い回しだ。もしかしたらこれは熟語ではなく「一心」を特別な言葉としてそれぞれ別々の言葉を装飾するように用いているのかもしれない。

 実は西水さんのFacebookをフォローしている。その中でこんなことがあった。日経新聞に「春秋」というコラムがあるが、その中に日経らしくない英語の間違いが2つあるというのだ。私は素人だから全くわからないが、日経の春秋欄では
「NATO」を「ノット・アクション・トーキング・オンリー」と書き
「本社問題」を「ヘッドクオーター・プロブレム」とした。
これのどこがいけないかというと、「ノット・アクション・トーキング・オンリー」は間違いではないが「No Action, Talk Only」が一般的だという。英語は慣れの問題だという。

では「ヘッドクオーター・プロブレム」はどうかというと、「headquarters problem」が正しいそうだ。複数形の「s」が落ちているらしい。春秋がカタカナで表現した英語の言葉を複数形の「s」が落ちているから間違いだと言えるものなのだろうか。私にはピンとこない。「ヘッドクオーターズ・プロブレム」といえば正解で「ヘッドクオーター・プロブレム」は英語の間違いと指摘するような間違いなのだろうか。
 私から見ると重箱の隅をつつくような指摘にみえるが、そんな著者が書いた本書を読んでいて驚いたことがある。ブータンについては何度も詳しく出てくるが、殆ど同じ分文章が3か所にも登場するのだ。約5・6行のブータン国内の地理を紹介する文章だが、全く同じではないものの一つの文にちょっとだけ手を加えて変えただけの文章だ。59ページ9行目から13行目までが、90ページ4行目から8行目までと94ページ14行目から95ページ6行目までが同じ文章の繰り返しだ。
さらにはバージン諸島のコラムがある。105ページからの「お高い電気が幸せを」のコラムと194ページからの「節電ばんざい!」のコラム全体が殆ど同じ文章だ。こういうのは文章としてまた本として問題はないのかだろうか。
気が付かずにこうなったのなら編集者に伺いたい。もし分かってやったのなら確信犯といえないか。前作を読んで西水さんには期待をしていただけにこれにはがっかりした。


2012年10月14日(日) 上向きでも書けるペンとその書き味(その2)

 ベッドの上で筆記に利用しているのが上向きでもインクのかすれが起こらないタイプのボールペン。

 三菱uni POWER TANK 0.7 (上から2・3本目)

である。他にも試してみたが、今のところこれが最も気に入っている。黒を一本使い果たしてしまい、注文していたリフィルと新しく「青」が届いた。これでまた上向きでも心おきなくメモができる。
 黄色のペンも上向きでも書けるボールペン

 PILOT BDW-40F DOWN FORCE (下から2本目)

である。書き心地に問題はないが、グリップが悪い。握っている指が滑って書きにくい。その点POWER TANKはグリップ部分にゴムを張っているので吸い付くように滑らず全く書き味が良い。なお、万年筆も何種類か試してみたが、上向きに書いていると殆どの場合途中でインクがかすれてくる傾向がある。

 一番下は宇宙でも書けるという世界銀行勤務の慶長寿彰さんからのスミソニアン航空宇宙博物館のお土産。




2012年10月13日(土) 父のこと(4)

 中学3年になると私も受験生になった。一家の収入を40歳を過ぎてから働きに出た母に頼る我が家では、進学も諦めなければならないかと真剣に考えたが、高専を受けろと父が勧めた。当時八戸市が県内での誘致合戦を制して、すぐ隣の地区に国立八戸工業高等専門学校が立地していた。私は自分でも理系が向いていると思っていた。小学生のころからラジオの組み立てをいじっていたし、卓球部の先輩も高専の電気工学科に進学していた。ところが父は土木を勧めた。なぜ土木?これからは開発の時代、土木建築が花形になるというのだ。

 我が家の周りはリンゴ畑、ナシ畑だった。もちろんよその農地である。実が熟すことになるとその果実を目指して小鳥が集まってくる。つつかれると商品にならなくなる。ある時、隣のナシ畑の主が一斗缶を叩いて大騒音を立てながら鳥を追い立て始めた。初めは効果絶大であったが鳥たちも慣れてくると直ぐに戻ってくる。それはイタチゴッコになった。いたたまれないのは父である。日中在宅の父は毎日騒音に悩まされることになった。
 ある日学校から帰ると父が一枚の官製はがきと原稿を用意して待っていた。
「この通り書いてポストに出してこい。筆跡は分からないように。」
それは
「私は受験生ですが、早く帰って勉強しようと思っても日中は騒音で身が入らず困っています。」というような内容だった。指示に従い投函してきた。数日後学校から帰宅すると、その農家の主が来ていて父とお茶を飲んでいた。話の流れら父はずっと白を切り通しているようだった。こんどは農家の主は葉書を私に見せながら矛先をこっちに向けてきた。
「これは、あんだが書いで出したのだがい?」
当然私も父の歩調をわせ、知らぬ存ぜぬを通した。そかし心臓は早鐘を打っていたので既に顔色に出ていたに違いない。でも主はそれ以上は言わずに帰って行った。
 きっとバレたんだろうけれど、その後騒音は止んだ。そのおかげかどうか、私は八戸高専の土木工学科(現:建設環境工学科)に無事合格することができた。

 入学試験の面接での出来事である。土木工学科の志望動機を訊かれた。橋梁やダムなどの土木構造物を造ることに希望と憧れを感じると話したところまでは良かったが、調子に乗って一言多かった。できれば「建築士」になりたい。すかさず土木の主任教授に「うちの科には建築士になるコースはありません。よその学校へ行った方がいいのではないですか。」私は焦った。しかしそこで父の言葉を思い出した。「困ったら測量士になりたいと言ってみろ。」この一言で再逆転。「それならうちの学校でも大丈夫ですね。」
 合格発表までは気が気ではなかった。面接で父のアドバイスが効いたのかもしれない。


2012年10月11日(木) 父のこと(3)

 一年あまり入院や転院を繰り返した後、父はやっと退院して自宅に戻った。ようするにそれ以上置いてくれないのだ。それまで専業主婦だった母が働きに出ることになった。父は半身不随ながらそれなりに若さで回復を見せ、少々の家事ならできるようになった。一人でバスに乗り一週間に一度の通院もできた。それでも右手右脚は殆ど動かず振り回しているような状態で触角がないようだった。それに言語障害が残った。全くしゃべれないということはないが、思ったことがすぐに言葉として出てこないとか、思ったことと別の言葉が出たり、全く反対の言葉が出てしまったりした。それもこれも日々暮らしているうちに軽減されてきた。

 私の小学校の成績は概して良かった。通信簿の評価は殆どの教科が「5」であった。だから父が入院中は通信簿をもらうと勇んで見せに出かけた。そして周りの入院患者のおじさんたちに見せびらかして褒めてもらうのが楽しみであった。
 でも中にはどうしても「5」がもらえない教科があった。図画工作の「図工」である。絵が苦手で写生大会などでもいつも最後まで仕上げられなかった。工作は嫌いではなかったけれど得意でもなかった。だから夏休みの宿題にはいつも苦労した。そういう意味では父は意外と器用だった。お盆が終わり夏休みも残り少なくなると、提出すべき作品ができずにそわそわしだした私に何気なく指示を出し始める。
「缶詰の空き缶を探してきれいに洗ってこい。」
見つけてくると次々と作業が待っている。
「ボール紙を買ってこい。」
「缶に合わせて丸く線をひき、それに沿って切り抜け。」
「定規を当てて左右対称に線をひけ。」
「のりしろ分余裕を取って切り取れ。」
「角を合わせて糊づけしろ。」
「くり抜いたところに空き缶を立てよ。」
とうとう出来上がるまで何を作っているのか教えてくれなかった。出来たのは当時で言うと「筆立て」、今なら「鉛筆立て」あるいは「ペンスタンド」といったところか。こうして夏休みの最終日に工作の宿題が完成し、次の日意気揚々と二学期の学校へ向かった。

 父のこのちょっと意地悪ないやらしい性格はきっと幼児体験から出来上がっているに違いないと思う。父は幼い頃まだ小学校にも上がる前に両親に死別している。そのため兄姉弟三人はそれぞれ別々に親戚筋にあずけられた。兄のところとは違い、父は継母にいじめられたという。朝夕に牛の世話をさせられ、それも長時間かかったそうだ。世話を終えて帰ってくると家族の食事は済んでいた。冷たくなった残り物が父の食事だった。そしてある時それ以上我慢できずに逃げ出してしまう。どうも計画的に逃亡したようだ。そして現在住んでいる地域に根を下ろした。それによって母と知り合い、熱烈な恋愛結婚をしたという。この場面は詳しく教えてくれなかった。


 孫文や辛亥革命について著した著作は数多あるが、本書は孫文の身にスポットを当て生涯を忠実に辿った伝記であるといえるだろう。死を前にして「革命いまだ成らず」と遺訓し、後の革命の完成を民衆に託したといわれるが果たしてどうだろうか。眉唾ものだと私は思う。後世の人たちの創作ではないのか。

 孫文は理想主義者であったと思う。「建国方略」や「国家建設」などを著して世界中で最も理想的な民主国家を目指している。孫文は建国半ばで亡くなったが、いまだその理想国家は実現していない。現在の政権もその理想には程遠いにもかかわらず孫文を「革命の父」と崇めているのは面白い現象だ。孫文が建設しようとした「世界で最も新しい、最も進歩した国家」の骨幹を要約すると、
�� 独特な政治体制
�� 豊かな国家経済
�� 漸進的な土地改革
の3点になるという。なんとなく現在の中国で実現されつつあるように見えるが、それぞれ意味合いが違っているようだ。

 また孫文はたびたび来日し日本人からも少なからず支援を受けたことはつとに知られているが、逆に日本政府は冷たかったこともあってか本書では日本との関係についてはほとんど触れていない。これについては別に詳細な本が各種出版されているのでそちらを参照することとしたい。

 孫文が亡くなるところで本書もきっちりと筆を止め、その後については語っていない所が潔く好感が持てる。大まかに孫文の一生を知るには良書と思った。


2012年10月07日(日) 父のこと(2)

 若くして病に倒れてしまったので父との楽しい思い出は多くない。そのあまり多くない思い出の中に、蕪島へ連れて行ってもらった記憶がある。写真を趣味にしていた父が、私に拾った昆布を持たせたり、フェンスの上に止まっているウミネコと並ばせたりしてポーズをとらせ写した写真が残っているから記憶と一致している。
 あれはまだ小学校に上がる以前だったように思う。当時は既に陸続きになっていたと思うが、どこをどう歩いたか分からないけれど、護岸の胸壁のコンクリートの上を辿って歩かされた記憶がある。とにかくやっとのことで父について行った。その先に蕪島があった。初めて見るウミネコの数に圧倒されたものだ。幼いころのアルバムに当時の写真が数枚残されている。

 もう一つは運動会である。私は母と一緒に観戦していたから、これもたぶん小学校へ上がる以前のことだろう。父の職場である役場は国道を挟んで小学校の真向かいにある。小学校の校庭ではよく町内会の運動会なども催された。何の競技だったかは定かではないが、父は走る競技に出場した。幼心に必死に応援していたが、あろうことかコーナーで転倒し結局ビリになってしまった。見ていた私は悲しい気持ちになったのを覚えている。夕方帰宅した父のズボンは大きく破れていた。父の運動神経はあまり良くなかったのだろう。

 写真が父の唯一の趣味だったと言っていいだろう。撮影するだけでなくプリントも自分でやった。当時は白黒だから一般にもできたようだ。カメラだけでなくプリントする引延し機というのか一式を持っていた。まず暗室を作ることから始まる。光が漏れると全て失敗する。父は兄が中学生ぐらいの頃に技術を伝授しようとしていたようだが、兄の方はあまり興味がなさそだった。私は早くやってみたくてしょうがなかったが、
「おまえはまだ早い。」
と、相手にしてもらえなかった。
 私が父からその写真のやり方を教わったのは、父が少し回復し退院して数年たったころ、私が小学校の高学年になってからだ。父の指示で街の写真屋さんへ行き、印画紙、現像液、定着液などに使う薬品を調達、そしてやり方を教えてくれた。私は面白いと思ったが、2・3回やって、私が中学生になって忙しくなるとその後はやらなくなった。



玄関先にトランペットの花が咲きました。
写真を写したら直後に突風が吹いて鉢がみんな倒れてしまいました。
でも起こしてあげたらなんとか持ちこたえているようです。


2012年10月06日(土) 父のこと(1)

 今年85歳になった父は、現在入院中である。8月の初めに熱を出したらベッドわきで転んだまま立ち上がれず動けなくなった。それからかかりつけの医院に入院している。そろそろリハビリ施設のある病院へ転院予定である。もともと脳卒中の後遺症で右半身不随だったので、元に機能回復できるのかかなり心配なところだ。

 父が脳卒中に倒れたのは私が小学校3年生の冬、正月が明けたばかりの頃だ。父が役場の宿直の夜、子どもの火遊びによる火災が発生した。電話連絡を受けた父は役場のサイレンを鳴らした。心配をした我が家では、当時高校生の兄が状況の確認に役場の父のもとに向かった。(その当時自宅に電話はなかった。)戻ってきた兄は火災より重大な報告を持ってきた。父の様子がおかしいというのだ。
「右腕が上がらなくなった。」
 私たちが駆け付けた時には父は既に布団に横になっていて、話すこともできなくなっていた。脳卒中の症状が出て既に右半身不随の状態になりつつあった。
 当時卒中の患者は絶対安静で動かすなというのが常識であった。父は役場の宿直室でかかりつけの医師の往診を受けた後、2週間ほどしてから救急車で市民病院へ搬送された。ここから長い長い闘病生活が始まった。この時父は39歳と10カ月、「不惑」の年直前であった。

 巷ではいろんな噂が飛び交った。
・「ヤマ」は酒が好きで飲み過ぎてこうなった。
父の名誉のために言っておくが、父は極めて几帳面な性格で、確かに酒は飲める口だったが決して飲まれるようなことはなく、父の宿直の夜に集まる仲間たちとのお付き合いのために飲んでいたのである。

 さらに退院後リハビリのために神社の森の中を散歩している父を見て、影から
「おい、おい、見ろ、見ろ。あいつは酒が好きで飲み過ぎであんなになったのだ。」
と元の仲間内に言っている人がいたそうだ。その人物は私も父と同様に尊敬していた人だっただけに、その話を聞いた時はとてもショックを受けた。

 それでも父は摂生をしながら85歳の現在まで生き延びた。途中父を見下した人たちは父より先に次々と鬼籍に入られた。うちの周りには父の年代の男性は全くいなくなってしまった。


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