生きるということが演技であると、考え始めた始まりの出来事を思い出して、少しだけ鬱々としている。なんだ――小学生の頃の話か。思えば、私の気質は殆ど小学卒業までに成立している。最初は三歳の出来事に始まり、二年の幼稚園と、六年の小学校生活。其の中で諦観と厭世観が生じたのは何とも言い難いが、兎に角、そういうことなのだ。アイデンティティの確立は12,3歳までというけれど、本当なんだなぁ。
時計の針と睨めっこする時間が長くなった。――やろうとしていることに、手が付かない。
好きなことだけを遣って、好きなことしか遣らずに、人生を過ごせたらどんなに楽しいだろう。実際にはそんなこと許されるはずも、ない、のに。兄様は、自分の好きなことだけ遣っている。二十六にも成って――私の誇れる兄様は、何処かへ行ってしまった。今の兄様は、私の恥だ。兄様に甘い母様も、嫌いだ。
今の私は決して不安定では無い。安定している――と、思う、思っている。少なくとも一番不安定だった頃に比べればマシだ。と、思う。にもかかわらず、安定しているという自覚の下で、其れでも猶 切りたい と望んでしまうとは、思いもしなかった。こういうときに――、我慢すべきなのか否か、私は知らない。ただ、――私の中にもちゃんと血が廻っているんだなぁ、と。知る、知る為には、良い機会なのだ。私は、生きている。そう認識出来る。
赤火だ。短期鬱の始まりだ。
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