ベルリンの足音
DiaryINDEX
|past
|will
友人の訪問は、確かに嬉しいものである。 しかし、どんなに親しい人間でも、気疲れするということはある。
私の現状は、決して最適とはいえず、普通の生活をしつつ、心の中ではすべての活動を停止してしまいたいほどの疲労感を覚える。
与えるのは大変だ。
愛情をこめてもてなしたり、夕食を料理したり、それが結果的には自分を活動させ続ける原動力になっていたとしても、夜の体力は皆無に近い。
精神的な疲労に埋まりこんでしまうことは、さらにいっそう自分の内面から力を失っていくことではある。
しかし、おそらく母親の奇妙な不安定感や、悲壮感を無意識に吸収しているであろう子供たちの日常生活を保ち、久しぶりの友人に笑い顔を見せてしまった後は、ぼろきれのようになった自分の心が残るばかりで、夜中の憂いと共に、センチメンタルな会話を探して、思わず声を聞きたくなってしまったりするのである。
それでも、人間は与えてばかりでは生きていかれない。
自分だって、どこからか温かみや、エネルギーを得ない限り、精神状態は、冷えついていくばかりである。
必ずしも友人から力をもらえるとは限らない。 友人にさえ、言えない心やわかってもらえない心の方が、生きている間は、多いような気さえしてくる。
そのとき、一人にならない。 絶対に自分の精神を隔離しないという意志を持って、可愛がってくれる人や物に心を開く勇気が必要だと実感する。
そういうものを自らもらいにいくことの、驚くほど下手な私である。
自分を赤裸々な状態にすることの恐怖感は、恐ろしく深い。
しかし、自分のプライドほど、あまり役に立たないものはないと最近実感する。
プライドは、凛とした自分を保つために、最低限は必要であるが、殆どは、つまらない自己防御でしかない。
プライドを捨てても良いと思える相手こそ、心の友であり、家族になり得る人間であり、私が私自身であることのできる相手なのではないか。
今更、そんなことを思いつつ、憂いの深い心を抱いたまま、今日も太陽を見るために外へ行く。
Julian Lennon氏のMySpaceより。
http://blogs.myspace.com/index.cfm?fuseaction=blog.view&friendId=48906808&blogId=507276854
Life is too Short... Aktuelle Stimmung: Peaceful... x
Life is too short to wake up with regrets. Love the people who treat you right. Forget about the ones who don't. Believe everything happens for a reason. If you get a second chance, grab it with both hands. If it changes your life, let it. Nobody said life would be easy. They just promised it would be worth it.
人生は短すぎる… 今日の気分:ピースフル…X(←これは1個のキスを意味してます)
人生は、悲しんで目を覚ますには短すぎる 君に正しく接してくれる人たちを愛して そうしてくれない人たちのことを忘れればいい すべてのことは、理由があって起こるんだって信じて 二度目のチャンスが来た時は、両手ですばやく掴み取るんだ それが君の人生を変えるなら、流れにまかせればいい 人生が簡単だなんて、誰も言ってない 生きる価値があるってことを約束してくれただけ…
しんみりと、納得して、確実に前に行かれるような気持ちにさせてくれた。
最近、Lennonsは、私を救ってくれるのだ。
今朝起きたら、すごい頭痛。 起きれない、起きたくない…。 息子の学校の新年度父母会であった。
音大付属の学校なので、コンサート付で、熱心な親御さんたちが続々と来るわけだが、今日はパスさせてもらった。 行かないと、教育に無関心な親というレッテルを貼られてしまいそうに、ガッツの強い学校である。
別にかまわない。 私だって起きられないときぐらいあります。 昨日は一日中馬車馬のように働いたし、勘弁願った。
で、昼ごろ、頭痛が回復してきたので、コーヒーを入れた。気分悪し。 好きなCDをかけて、キッチンを美しく磨き、子供たちにホットケーキを焼き、ちょっと落ち着いて、ネットで新聞を読んだ。
そうしたら、だんだん気分がよくなってきて、アイロンがけまで済ませてしまった。
結構活動できたし、古い友人まで電話して、長電話に発展してしまった。
それはそれで、よかった。
まったく精神的に生産的な日ではなかったのだが、水星逆行の威力が衰えているじゃないかとおもったりする。
夕方買い物に出た。 末の息子は一緒に来てくれなかった。 私は買い物が大嫌い。
日常の買い物ぐらい面白くないものはない。 夫と買い物をするとか、せめて子供と行くとか、そういうのはまだいいのだが…。
秋晴れの素敵な土曜日に、一人でテクテク買い物に行くって言うのは、まさに、もの悲しい。
でも、心は明るいのだ。 なんというか、私もまた新しい未来があるんだって確信している。
楽観的というより、予感的。 だから許している。 楽しい予感ぐらい、もっていないとやっていけません。
心を開けること。 太陽を見ること。
太陽の光が、その後も顔にのこるように…。
2009年09月19日(土) |
惑星のせいで、生活がくずれる |
日常が崩れだした。
こんな予定ではなかったのだ。
今、アストロロジー的にいえば、惑星がすごいことになっているらしい。 アストロノミー的じゃなくって、占い的に。
私はプラグマティックな人なので、そんなこと阿呆らしいといって取り合わない。 しかし、以前大変な学者がアメリカのあるサイトを常々見ながら、当たるんだよ、といっているのを聞き、それ以来そのサイトをチェックする癖がついてしまった。
で、今月は大変なことが起こるのだ、見たいに書かれている私の星座のページを繰り返し読んだ。 こんな私的状況なので、やはり来るべき出来事には周到に準備しておきたい。
で、17日が今月で、いや、今年で一番つらい日になるだろうと書いてあって、昨日、何のことはない、仕事に行って終わりじゃないか、と思っていたら夜、新月の24時間前あたりに、突然事態が急展開して、私はどん底に突き落とされたような気分に陥った。
それ以来、日常が崩れている。
食べたものの片付けをすぐにできない。 起きるのがつらい。 何も食べたくない。 子供がうっとおしい。 涙を流しながら仕事に行く。
といった情けない状態である。
出来事自体も原因だが、どうも惑星が私を狂わせている向きもないではない。
でも、ある意味、こういうアレの場合は、カタルシスがあった方がいい。 ので、結果的に日常が崩れたって、どこかで消化するべき問題なので、実は、全体としては正しい方向に行っているという気がする。 それが救い。
それにしても、アストロロジーは、昔アストロノミーと殆ど同じ領域で機能していたので(15世紀前後まで)、実は古い学問だったりする。統計学と言ってしまえばそうだが、人間が月の周期を感じるように思うことがあるのと同様、惑星の配列が、何か生活の波に影響を与えていると感じることがあってもおかしくない。
特に、水星の逆行と、その時期の惑星の激しいコンステレーションが重なったときにそう思う。
それ以外は、そんなもんかい、以上の関心はしないのだが。
何が書きたいかといえば、これだけ書いて、結局人恋しいってことじゃないかと、さらにドスンと落ち込む。
23日に、惑星は止めを刺して去っていくらしいが、それまでは、こうしてぶつぶついうことぐらいしかできない。 流れに身を任せて…。
2009年09月18日(金) |
センチメンタルはダメ |
センチメンタルとセンシティブをはき違えちゃあいけない。
センチメンタルは感傷だし、センシティブは繊細だったり感受性が強かったり。
センチメンタルな会話はみっともないけど、センシティブな感性を持ったうえで会話をしたい。
センチメンタルに泣くことは一過性だが、センシティブな感性が震えて泣くときは、魂に影響がある。
感傷にも繊細さにも個人差がある。
けれど、繊細さの違う人間と会話をするとき、繊細に人の欲求は高まる。 結局、互いに決して歩み寄れない部分が残ってしまうからだろう。 繊細な人の感性は、繊細ではない人の感性に、しばしば傷つけられるし。
かといって、繊細であることで、感傷的思いに浸るのはいけない。
___________
結局、この2つの問題を複雑にするのは感情、フィーリングの仕業である。
感情的な絡みが複雑で、自分の感情をコントロールしながら話をする必要がある場合、センシティブにならなければ、大体ひどいことにはならない。
感情から引き出された感傷は、クラクラする。 どんどん酔っていってしまう。
感情豊かである証の、繊細な感性は、注意力と受容力が鋭敏になることとほぼ同様だ。 見えない心を察したり、言葉の行間を感じたりすることで、感情が動きやすくなるが、そこで、感傷にチャンスを与えなければいい。
繊細さは、また別に言えば暖かさでもある。 人の感情を汲み取る注意力と受容力があるということは、人間的暖かさでもある。 暖かさを恐れる必要はない。そうではなくて、暖かいコミュニケーションが及ぼす豊かな感情から出る、感傷に浸らないこと。
そこをしっかりわきまえていれば、自分が泣いたのは、感傷であり、一過性だってわかるものだ。 そうして、自分を注意深く見つめていれば、自分を見失うことはない。
感情を凍らせなくていい。 自分をハリネズミにする必要はない。 感情はすばらしいものだし、必要不可欠である。
感情を抑えることは、とても大きな過ちだと思う。
でも、感情に振り回されたらいけない。
そうしたら、自分はただの気分の奴隷。
私は、センチメンタルが嫌い。
2009年09月17日(木) |
引き続き、自分と共にあること |
罪の意識なのか、孤独なのかさっぱりわからない。
心が、休養を求めていて、何もしたくない。
外に出れば、秋の日差しにありがたみを覚え、日常の仕事はこなしている。
人恋しいのか、人と話したくないのかさっぱりわからない。
何かが壊れていることだけはわかる。それがいずれ修復されることもはっきりわかっている。 その二つだけが明らかで、当分はこの事実にすがって生きていくしかしょうがない。
一時期の「感情の苦しみ」よりは、はるかに安定した状態なのに、何かが深く壊れているとは、一体どういうことだろうか。
日ごろ読んでも頭に入ってこなかった文章が、するする心の中に進入してくる。
普段、背景に流して聞いていた音楽をヘッドフォンで聴くと涙ぐんでしまう。
すべての感性が敏感になっているというのは、結局魂が裸なんだと思う。
何の洋服を何のために脱ぎ捨てたのかわからない。
守ってほしいと期待できる間と、守ってほしいと期待する対象もないことの違いだろうか。
守ってほしいなんて、口に出していったのはもう十年以上も前。 ここ十年は、守ってくれなんて口が裂けてもいわない。 一人で生きていかれる、精神的にも経済的にも自立した女になると決心して以来、実際そうしてきたではないか。
でも、このごろ、守ってほしかった自分に気がついてしまったのかもしれない。
でも、それも悪くない。
正直に、自分の卑しさも弱さも全部飲み込んでいかないと、自分を見失う。
何のためにがんばってきたのだろうか。 おかげ様で、モンスターのように強いといわれる。
そう見えるだけの私、そういう技術を身に着けただけの私を見破ってくれる人はいない。
それで、自分のために買ってきた、ちょっと高いワインを飲んだ瞬間に、涙がほろほろこぼれたんだと思う。
本当は、着実に前進しているのに、やはり得るものがあると、失うものもあるみたいだ。
繰り返し繰り返しやってくる、気持ちの動揺、失う悲しみ、得る喜び。 何回人生で同じ感情を味わっても、麻痺することはないらしい。
きっと私が今、下降状態なのは、それだけ厳しい決心をして、ひとつの引きずってきた問題に決着をつけたからなんだと思う。
きっと、今回は今までになく真剣に、厳しく、はっきりとすっぱりと決心を下したので、それだけ自分にも厳しい精神を要求されているのだと思う。
結果論としていえば、そういう決心こそ讃えてあげたいではないか。
自分に酔って涙を流す人間が大嫌い。
でも、一人でこっそりするならば、それも治癒のステップかもしれない。
あんまり自分に厳しくしないこと。
リラックスして観察すること。
もうすぐ、もうすぐ上昇。
必ず上昇。
私は、それに関してもとっても上手。
ありがたいことに、自分に対する信頼感が十年前よりも倍増している。
そう思えば、目的なしにがんばることも、計算なしにただ一生懸命であることにも、ずいぶん意味があるのだ。
小利口にはなれないけど、強くはなれるものなんだ。
美しいものはなぜ美しいのか。
刹那、儚さ、限界、消滅、悲しみ、痛み、傷…
きっと数々のそういった状態や感情と常に混在しているからなのだと思う。
夕日も、人生も、何もかも美しいものには、終わりがあって痛みがあって、悲しみがあり、通り過ぎていくだけの刹那がある。
結局、小説も詩も音楽も、そういうなにかを美しい物だと感じる感性から発生すると考えれば、なぜ世の中の芸術に、メランコリーが多いのか理解できる木がする。
生きている限り、メランコリーから解放されることはない。
そう思えば、今抱えているメランコリーとも、一緒に生きていかれる気がする。
大切なのは、皆を理解するとか、皆をに理解されたいとか言うことではなくて、飽くまでも個人の領域で、そのメランコリーとの共存を語っていくことではないだろうか。
それぞれにそれぞれの波動と波長があって、それが絡み合って社会がある。 その中で、たった一人でも、君の言っていることががわかるよ、という人にめぐり合えたら、自分は心を開けるということではないだろうか。
数々の嵐のような出来事につぶされるのではなくて、それを付随するものとあきらめて付き合うこと。
そして、その中から少しでも何か生産していくこと。
これでとりあえず前に進める。
わからないことはわからないままに、答えの出ないことは答えを出さずに、筋道の合わない過去は、筋道をつけずに、とにかく性急にならずに、アンテナをめぐらせて自分と周囲を見つめていくこと。
それが、一番の安全運転なのかもしれない。
そう思えれば、メランコリーに圧倒された人生を殆どいとおしいと思うから不思議だ。
人はそれでも、しがみつく様に「美しい」瞬間と感性を求める。
もうちょっと先まで歩けそうな気がしてきた。 もうちょっと答えを出さずに、一歩分では耳を済ませて歩こうと思うようになって来た。
自分とのつながりを断ち切らないこと。
|