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2003年03月25日(火)
本人目の前にして「故人x2」言うのってなんだか奇妙な感じだ。 目前に横たわってるってのに、全員が全員「居ない」と認識している。 坊さん呼んで厳かに式やってるってことは、魂信じてるんでしょ。
だったらまだいるじゃん、そこに。
肉体に意識が宿り、血流がないと認められないのだろうか。 僕は、周囲の人間がいち早く死を実感していることに驚きを隠せなかった。 だから皆の言動にも不信感が募る。
じいちゃんの身体を前に、 死んだ時のことを人々に反芻して聞かせている。 呆けた時のことを 〃 チューブ状態の時のことを 〃
人間死ぬと何でもかんでも話されるんだなぁと思った。 おまけに、みんなから手足をアルコール消毒させられ、口腔に詰め物され、 周りに花(ビニルハウス栽培)を添えられたりするという辱めを受けるのだ。 もう居ない人間だからできるのだろう。 そして骨の中まで見られることになる。 僕だったらやられたくないなと思った。
さて、そんなだからこの僕が涙するはずがない。 じいちゃんそこにいんのに、そういうことすんのって失礼じゃん。 僕に死の実感がないからそう思うのかもしれないけれど、 本人の前で「じいちゃんはもう死んだ」と認めるのはあんまりだろう。 せめて「じいちゃんはここにいるさ」くらい思ってやってもいいんじゃないの。
悲しかったり寂しかったりして泣く時って、遺体がいて大勢の人がいる時ではない。 それは、その人がいるところにいなかった時とか、いて欲しい時にいなかった時とか そういうふとした瞬間に、際限ない切なさに襲われて起こる衝動じゃないかと思う。 そして本当に寂しいと実感するのはそういう時じゃないだろうか。 なぜならば、その時必要としているのはその人の心だから。 もしそういう時に、例えば幽霊とか、肉体を持たない心がそばにいてくれるなら、 それほど寂しくなんかないし、今までと変わりないだろう。 だったら葬式って、肉体を悼む儀式なのかもしれない。 ならばやはり僕は泣けない。 しばらく見ていないからじいちゃんの顔なんてよく覚えてないもの。
言われるかもしれないと思っていた言葉が母さんの口から出た。
「悲しくないの?」
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