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いわゆる「学術論文」を初めて読み始めた(日本語のだけど)。 が、なかなか読み進まない。まあ現状では知らない知識を前提として書かれているのだから当然といえば当然だけど。参考書を片手に解読していきますかね。 8月に某社にインターンシップに行くまでにある程度の知識を得なければなあ。 あと、今日この論文を貸してくれた大学の教授が研究室に見学に来てもいいと言ってくれたので、また夏休みに訪問させてもおうかなあ。ホントに訪問したら迷惑がるかもしれんけど(笑) それにしても教授は忙しそうだったなあ。研究じゃなくて会議で。今日は会議と会議の合間に俺の話を聞いてもらえた形だった。ふうむ、前期末(謎)。
明日、ある科目の試験があるのだが、我ながら何でもどんと来いという感じの仕上がり。 この科目はそんなに力を入れるつもりも興味もなかったのだが…勉強しているうちに意外と面白いかもと思うようになったり。まあ、今のところこの分野の道を進むつもりはないが、これに関連したことで色々と勉強になった。
科学・技術を学び続け、自ら創りだすようになり、その先に何が見つかるのか。これ以上の科学・技術は必要がないという意見もあるが、実際にはまだまだ必要なもの、山積みにされた課題がある。それに、もし本当に必要がないときが来たとしても、必要がないからやめろというのか? 人間は必要がないものを他にいくらでもしているのではないか? 文学が必要か? 心理学が必要か? 哲学が必要か? スポーツが必要か? 娯楽が必要か? 答えはYesでありNoであるはずだ。楽しむため、好奇心・知的欲求を満たすため、そのためにしていることが山ほどある。新たな科学・技術を産みだすという行為もその中に含まれはしないのか? 莫大な研究費がかかる研究などはさすがに無理があるだろうが、必要のない研究を科学・技術においても行ってはいけないのだろうか。 いけないかどうかは自分が決める、というのはさすがに傲慢か。 でも、「楽園」は自分で勝ち取るものなのだ。
『僕ら研究者は、何も生産していない、無責任さだけが取り柄だからね。でも、百年、二百年さきのことを考えられるのは、僕らだけなんだよ』(森博嗣『すべてがFになる』)
2002年07月24日(水) |
過去の遺産、現代の輝き |
哲学は嫌いではない。むしろ興味を惹かれる。 でも、哲学は思考の遊戯であり、それ以上でもそれ以下でもない。 何か特権的なものが哲学にあるかのような考え方は好きではない。 著名な哲学者(故人)の意見を無条件にありがたがるのも好きではない。 彼・彼女らの言葉はときに感銘を受けるし、伊達に現代まで残っていないなと感心することもあるが、あきらかにもう有効ではない(と俺が思う)考えもある。もはや彼・彼女らの生きた時代ではないのだから、有効でないことがあるのは当然なのだ。時代とともに変わるもの、忘れられるものがあり、それは哲学も例外ではない。変わること、忘れられることを嘆く必要もない。
古典と呼ばれる書物についてもそれは当てはまる。今でも十分参考になるものもあれば、もはや歴史的資料以上の役割を果たさないものもある。
逆に現代にも名著はあるし面白い考えもある。現代にはそれに加え、自分自身の見聞きした体験というものも加わる。
要はバランスの問題だ。現代と過去、両方から得るものがある。 そして得たものは現代にアウトプットする。
2002年07月23日(火) |
存在の耐えられない軽さ |
無視される、ということが嫌いだ。 (まあ、好きな人はそもそもいないだろうけど) 無視するくらいなら、嫌いだとハッキリそう言ってくれればいい。 それとも、嫌いだからこそ無視して俺を苦しませたいのだろうか。 あるいは、嫌いだとか好きだとかいう感情を持つ値打ちすら俺にはないということだろうか。 つまり、存在しないも同然だと。
相手を傷つけないというのは、必ずしもやさしいというわけじゃない。 ただ単に距離をおいて面倒なことを避けているだけの場合もある。 相手に対して、あるいは相手のしたことに対して興味がないだけの場合もある。
傷つけられてもいいから、本当のことを知りたいときもある。 今が、ちょうどそうだ。
2002年07月20日(土) |
終わりなき日常を生きろ |
『若者は皆、好きなものを求めるのと同じだけのエネルギィを使って、嫌いなものを一所懸命探している。そうすることで、自分が明確になると信じている』(森博嗣『夏のレプリカ』)
若者に限らず、誰でも嫌いなものはある(と思う)。ただ、若いときは嫌いなものに対して消費するエネルギーが大きい。逆に、好きなものに対して投入するエネルギーも大きい。だから、若いうちは、色々なものを失うと同時に色々なものを得ることができるのだろう。 だとすれば、俺はまだ若いようだ。 失うものと得るものと、どちらが多く大きいか勝負。 それが平坦な戦場=日常で生きていくこと。
『そもそも命を懸ける、などという表現がおかしい。生まれたときから、誰でも命懸けなのだから』(森博嗣『有限と微小のパン』)
(どうも最近、森博嗣からの引用文が多いな…何でだろ。最近読んでいないのに。まあフレーズの覚えがいい作家なのかな、俺にとって。でももう良い作品は書けないんだろうなあ…まあすでにいくつか良い作品を書いてくれたので十分ですが)
2002年07月19日(金) |
ぼくの夏休み―計画編2 |
この8月の後半に、某社にインターンシップに行くことに。体験就職みたいな感じかな? 開発部門のほうに行くので、今大学の講義で学んでいることに関連した実地経験を積める。期間は2週間ほど。有意義な2週間にしたいものです。インターンシップに向けての勉強もしないとな。 とりあえずこれで夏休みの計画の一つが決まり。 残りも決めていきながら、適当に空白の期間も設けようかなあと考え中。
(まあ、別にウェブ日記でこんな計画のことを書いても仕方がない気もするのだけど)
誰かの傍にいたくないことには理由がある。 では誰かの傍にいたいと思うことには理由があるか? おそらくあるのだろうが、往々にしてその理由を認識できない場合が多い。 理由は必要でないから、と自分を納得させて割り切る場合がある。 理由を考える前にまずその人の傍にいることが優先されるからだ。 でも僕はその理由がとても気になる。 その答えらしきものは、ある程度出るときもあるし、全く出ないときもある。 つまりよくわからないということだ。 僕はこれからもその答えがわからずに歩いていくだろう。 答えがわからないうちは、どこまでも歩いていける。 答えがわかれば、それは旅の終わりだ。 僕は旅をしている、あるいは、旅をしているという幻想の中にいる。 幻想と現実の違いは、認識の差でしかない。 人間の脳にそれ以上の識別を期待するべきではないと思う。 それは少し自分の体験を振り返ればわかることだ。
2002年07月15日(月) |
平坦な戦場で僕らが生き延びること |
世の中は上手く行かないことも多いわけだけど、まあ別にそれでいいんじゃないかな。 上手く行く場合もあるわけだしさ。 僕だって思うようにならないことがある。でも思うようにできていることも多い。
贅沢を言う前に、贅沢を言えるだけのことをしてみようと思う。
自分が自由か不自由かは見方によるところも多い。 人間は飛べない、ということは確かだけど、その代わりに人間にしかできないこともある。 色々なものを取捨選択しながら、僕たちはそれを探しているじゃないかと僕は思う。 少なくとも僕は探しているのだろう、と思う。
僕は、今の日本やその他のいわゆる先進国の情報化された社会はそれはそれでその良さがあり、面白さがあると思う。昔は良かっただとか、文明が発展していなくても情緒があったとか、そういうふうに過去を美化しても仕方がない。今だって探せば情緒くらいある。見つけようとせずに過去や他国の文化ばかりを見て羨ましがっていると見つからないだけだ。自国の歴史的な、あるいは他国の文化に触れて感動したり感心したりすることはもちろんあるけれど、でも、僕がいま生きているのは間違いなく現代の日本なのだ。それを否定することは決してできないし、否定しようとも思わない。
『自然を見て美しいなと思うこと自体が、不自然なんだよね。汚れた生活をしている証拠だ。窓のないところで、自然を遮断して生きていけるというのは、それだけ、自分の中に美しいものがあるということだろう? つまらない仕事や汚れた生活をしているから、自然、自然って、ご褒美みたいなものが欲しくなるんだ』(森博嗣『すべてがFになる』)
2002年07月13日(土) |
ぼくの夏休み―計画編 |
来週から試験期間に突入。 しかしすでに一通りの試験勉強が終了しているので、事実上の夏休みに突入。まあ各試験直前の見直しとかは必要だけれど。さすがに試験を受けないといけないので、どこかに遠出したりもできないけれど…やっぱまだ夏休みとはいえないか。晴れて完全に夏休みといえるのは、8月の初旬(試験期間終了)からのようです。今年の夏休みはいくつか計画がありますが、そのうちの二つは自分の意思だけでは決定できないものなので、中止になるか実行できるかはわかりません。一つは某社の判断に、もう一つはあなたの意思に。
『どこにいるかは問題ではありません。会いたいか、会いたくないか、それが距離を決めるのよ』(森博嗣『すべてがFになる』)
この一連の日記を、時が流れてから読み直す機会があれば、おそらく恥ずかしさで顔が真っ赤になるのではないだろうか。いや、今ですら、そう感じるときがある。「俺はなんでこんな当たり前のことを大げさに書いているんだ」とか。わざわざ書く必要はないように思えることをよく書いているように思う。徒然なるままに。まあ、でも、書こうと思ううちは、書いておけばいいのだろう。必要があるとかないとかは考えずに。
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《「私はここにいるの。」》 《そう叫びたくて、》 《これを書いてるのかもしれない。》 (映画『リリイ・シュシュのすべて』)
Nよ、君が僕に求めているものは…。 僕は君に愛と幻想を与えてやることはできない、君はただの友人だよ。 それにたとえ僕が君を愛したとしても、君のロマンに付き合うことはできそうにない。 そもそも、愛することにはならないだろうし……少なくとも今は、そう思う。 君が僕に求めているもの…それが僕の思い違いなら、問題はないのだが…。
愛する人と愛される人の組み合わせが上手くいけば問題はないのだが…。
他人を完全に理解するのは無理だし、誰かに自分を完全に理解してもらうことも不可能だ。 だから、別に、そういうことを望みはしない。 完全な理解など存在しない、完璧な文章がないように。 ただ、できるだけ、より多く、理解し理解されたいと思う相手がいる。 それが、リアルな意味での友人であったり、愛する相手であったりする。 それと同時に、リアルではない友人―知り合い、も必要だ。 それは友人になる手前の段階としての知り合いであるときもあれば、 いつまでも知り合いのままだろうという相手もいる。 全員と友人になれるわけではないし、愛することも愛されることもできない。 それは当たり前のことなのだ、別に不幸でもなんでもない。 そういうことを肯定した上で生きていくのだ。 だからこそ、人との出会い、関係が面白いと感じる瞬間がある。 もしもあらゆる人があなたを愛してくれたなら、あなたは幸せを感じることがあるだろうか?
別にこのことに限らず、人間は何かが欠けているから生きていけるのだと思う。 何も欠けていなければ、その欠片を探そうともがく必要もないし、それを手にいれたいと思う必要もない。 そのような欠片を、ある人は仕事に見出し、ある人は家庭に見出し、ある人は思考に見出す。 別に何でもいいのだ、生きていくモチベーションを得られれば、自分が生きていると感じる瞬間を得ることができれば。それが自分の生きる道だと、自己規定するだけだ。 それはとても安心することだし、何も悪くない。 もし生きる意味ということを真剣に考えれば、そんなものはどこにもないという結論になってしまう。だから、何かしらの自分のルールを決めて、それに従いゲームを楽しむように生きていく、つまりそのルールとは「価値観」と呼ばれるものだ。 たとえばサッカーはゴールにボールを入れた数が多いほうが勝つし、勝てば選手や監督、ファンは喜ぶが、ボールをゴールに入れること自体には何の意味もない。 ただそのようにルールを決めただけのことだ。 決めただけのことだが、それで人は十分に熱中することができる、楽しむことができる、それでいい、そのためにルールが存在するのだから。
俺だって、自分なりのルールを定めて生きている。 それは他の誰かのルールと完全に一致することはありえない、だから完全な理解がない。 でも、少しずつ、あるいは全くルールが違う人間がいるからこそ、他人に興味を持つことができるのだろうという気もする。 別に真実がどうだかは知らないが、そう思いたいのだ、俺自身が。 それはつまり、完全な理解の不可能性を肯定的に認めたいということなのだ……と、思う。
将来の不安よりも期待のほうが大きい。 これは幸せなのだろうか? 俺は恵まれている、と思う。 そしてそれだけではなく、自分でもよくやっていると自負するところもある。 この与えられた、そして自分で勝ち得た環境を利用しない手はない。 どこまでもいけるのではないか、と思うのはおそらく錯覚だろう。 世界も自分も有限でしかないのだから。 でも錯覚している間は確かにどこまでもいける。 夢から覚めるまでは、飛びつづけられるのだ。 いつまで夢を見ていられるのか、 夢から覚めたときは夢を実現したときか、 あるいは挫折したときか、 どちらかはまだわからない。 最後まで答えは出さないかもしれない。 いま、俺は、途上にいる、 それだけは少なくとも事実だと思う。
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