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ちょっと海の上に行ってこようと思う。 船に乗り、四国へ渡る。 そういや、この前読んだ小説(小説を読んだのはひさしぶりな気がする)の主人公も四国に向かっていたな……しかしそれとは関係なしに四国に行くのだけど。 とかいいながら、その小説から引用してみたりする。 でもやはり俺が四国に行く動機とは関係がない…はずだ。現地で小説のことを思い出すことはあるかもしれないが。
『行く先は四国ときめている。四国でなくてはならないという理由はない。でも地図帳を眺めていると、四国がなぜか僕が向かうべき土地であるように思える。何度見ても、いや見るたびにますます強く、その場所は僕をひきつける。東京よりずっと南にあり、本土から海によって隔てられ、気候も温暖だ。これまで一度も訪れたことのない土地であり、そこにはひとりの知りあいも、ひとりの親戚もいない』(村上春樹『海辺のカフカ』)
2002年09月25日(水) |
猫の宝石とガラクタな僕 |
『たとえば私が宝石になったら その手で炎の中に投げて 邪魔なものはすぐにでも消えてしまうの ガラクタでいさせて』(鬼束ちひろ『眩暈』)
自分はもう宝石になってしまったからこれ以上輝くことはないとか、そう思ったとき、「まだまだやれるだろう」「そんなところで満足するなよ」と言ってくれる相手がいるだろうか。あるいは、自分でそう思えるだろうか。 自分にとって必要でないもの、自分が価値を見出せないものは、いずれ消えてしまう。そして消える速さはどんどん加速していく。
いつまでガラクタでいられるのか。
自分で自分の短所だと思うところを変えるのはなかなか大変だ。 長年自分に染み付いていることを変えようとするわけだから。 それに、無理に変えることもできない。 変わらないなら変わらないで、そういう自分を受け入れることもときには必要だと思う。
変えられないものを受け入れる力、 受け入れられないものを変える力、 そして両者を見分ける力が必要だ。
2002年09月16日(月) |
見えないものを見ようとして、知らないことを知ろうとして。 |
ちょいと国内旅行に行っていた。 そんなこんなで一週間ぶりの日記。 また今週末には旅行に行くのだけど…。
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人の新たな一面を知るというのは、ときに新鮮で、ときに幻滅する。 どちらも「面白い」といえる。どちらも知らないよりは。
ちょっと最近忙しい。 それは色々な人に会うからだ。 また、見知らぬ場所を訪ねるからだ。 それは何かのシンポジウムだったり、会社訪問だったり、ちょっとした遠出だったり、旅行だったり、普段会う機会のない知人・友人だったりする。 普段見慣れた大学でさえも、見知らぬ場所はある――たとえば研究室の中とか。 明日はとりあえず、休もうと思う。そしてまたその次の日から動き出そう。 休める日があるというのは贅沢なことだな。
自分のやりたいようにやったその先に、誰も待っていなければ、それもまた望むところだろう。 自分の進む道を誰かと共有できるとは限らない。 もしできれば、たぶん嬉しいだろうけれど。
何もかも終わって、いつか誰かのところに戻るだろうか。 誰かと隣同士に座り、それ以外にもう何も望むことはないという日が来るだろうか。 隣り合う以外に何もできない日は来るかもしれないが、 何も望まない日が来るのは、はたしてなかなか困難なことではないかなと思う。 それとも、案外、ある「境」を越えたら、すぐなのかもしれないが。
2002年09月05日(木) |
どこまでもどこまでも高みへ……たとえ「高み」の定義が明瞭でなくとも。 |
せめて自分ががんばろうと決めたことに関しては、 誰にも負けてたまるかよ。 誰だれにはとても敵わないといって諦めるのは、 自分を規定して安心しているだけだ。 別に、安心することが悪いという理屈はどこにもないけれど、 でも、そういうのは嫌いだ。 あれもこれも誰かに敵わない、そんなこと思ってたら、じゃあ自分は何ができるんだ。 誰かを認めたり尊敬したりすることと、その誰かに負けてもいいと思うことは全く違う。
もっとも、何かをできなければいけないという道理はない。 ただ、何もできない自分は苛立つ。 なぜなのかよくわからなくても、苛立つ。
少し、何かができるんじゃないかと思い始めている。 それは俺にとって「楽しい」ことだ。
見えない力と見える力。 どちらも本当は同じ力 わからないことを人は神秘という。 でも今までにいくつもの神秘が崩壊してきた。 不思議なことなどどこにもないのだ、と、 いつか皆が口にする日が来るだろうか。 不思議なことは、解くためにあるのだから、 いつかそのような日が来るだろう。 人間が、不思議を見つけられなくなるその日が。 僕が生きている間には来ないだろうけれど。 それは幸せなのか不幸なのか。 どうせなら、自分が人類最後の不思議を奪ってしまう者になりたい気もする。
『君は、科学がただの記号だって言ったけど、そのとおりなんだ。記号を覚え、数式を組み立てることによって、僕らは大好きだった不思議を排除する。何故だろう? そうしないと、新しい不思議が見つからないからさ。探し回って、たまに少し素敵な不思議を見つけては、また、そいつらを一つずつ消していくんだ。もっともっとすごい不思議に出会えると信じてね……』 (森博嗣『幻惑の死と使途』)
別にこれは、科学だけではない。 精神現象と今は言われているものだってそうだ。 結局、人間を含む生物というものは無生物からできたものであって、 無生物には神秘的なものを認めないのなら、生物にだってそんなものはない。 無生物と生物の間には大きなブレイクスルーはあるだろうが、 結局のところは生物もある誤差の範囲内での多様性を示す複雑な機械でしかない。 でもそれで僕らは十分に色々なことができる。 たとえば「文化」を築くことができてきたし、これからも築いていく。 価値観は、変わっていくけれど。むしろ変わらないほうが不自然だ。 だけどこの世の中には、不自然を望もうとする人々も多い。 自分の「自然」を押し付けるな、と言いたい。 ここ(ウェブ日記)で言っても便所の落書きと変わらないが。
ちなみに僕は今の時代、つまり神秘の存在する時代に生まれ、そこで生まれ育った人間なので、やはり神秘を感じる瞬間があります。「神秘」という概念が脳のどこかにインプットされています。それはたとえ自分が否定しても消えることはないでしょう。ただ、別に、後の世代が神秘を感じなくなっても不思議ではないし、何も嘆くようなことでもない、と思います。今のところね。
たとえば。 僕は本を読む。 いくら読んでも何かが変わるわけではない。 ただ、何かを変えるヒントを与えてくれることはある。 でも、もういいかげん、ヒントをもらってばかりでいても仕方がない。 本に限らず、何だって。 ヒントをこれからも探しはするだろうけれど、 だからといってヒントをもらうだけなのはもううんざりなんだ。 自分自身が世界を変えるしかない。 世界を変えるというのは、自分の認識を変えるということだ。 また、自分で行動するということでもある。 僕はいつまでも同じことを繰り返しているほどに暇じゃない。 オレは……。
『天才は直観で悟る。凡人は経験で悟る。愚人は過ちを繰り返す。』(引用元不明)
2002年09月01日(日) |
出会いと別れと始まりと、そのすべてに乾杯 |
戻り来る。
某社での2週間の体験実習も終了。 ――お世話になりました、ありがとうございます。 別れはいつもさびしい。 はたして、あそこで出会った人たちと、ふたたび会えることはあるだろうか。 何かに全力投球している人達は輝いている。 畏敬の念を抱きながらもしかし、俺も負けてはいられない。 負けるつもりも全くない。別にこれは、相手を見下しているとかいうわけじゃない。 励ましや優しい言葉などなくとも、その人を見ているだけで自分が励まされる、そういう人が好きだ。そして自分自身もそういう人間になりたいと思う。
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あらゆるものは変化していく。 それを止めることは誰にもできず、誰かを、あるいは何かを責めることもできない。 変わりゆくものを受け入れた上で、自分がどうするのかを決めることが大事だ。 いくら嘆いても、何も変わりはしない。 もちろん、何かが変わると本気で思って嘆いているわけではないだろうけれど。
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