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2003年10月30日(木) |
男、女、そして人間らしく。 |
ある女の人と話していて、 「最近彼氏が私に欲情しない。それって女として枯れてるよね」 と言っていた。 女として枯れているのか 女としてでなく人間として愛し合っているのか。 まあ、異性としての自分、人間としての自分、両方求められたいのだろうけど。
俺は、どうだろう。 本当に愛している相手には、 異性としてより人間としての部分が大きい。 ……つもりだ。
ある映画の台詞を思い出した(うろ覚えで正確ではない)。
『私は(SEXが)嫌い、そんなのしたら、ただの男と女になっちゃうもん、だから嫌い』 (映画『式日』)
今しかできないことって何だろう? どこにあるんだろう? まずここにある。 だがここ以外にもある。 どこまで行けるかは限度がある。 だが、どこまで行こうとするかはFree。
社会全体の行く末も 宇宙全体の終点も どこまでたどり着けるかもFree (My Little Lover『Free』)
*
映画『阿修羅のごとく』…森田芳光監督が『模倣犯』のときのように暴走しないことを願う。深津絵里が出演しているが、森田芳光と深津絵里といえば映画『(ハル)』を思い出す。この映画での森田演出には光るものがあった。深津絵里はけっこう好きな役者だ。
映画『マトリックス・レボリューションズ』…シリーズ初代、二作目ともに映画館で観た。締めくくりとして、今回も観に行くだろう。映像は楽しめるだろうと期待している。
映画『キル・ビル』…何か気になる。B級的に。タランティーノひさしぶり。
時間がなくなってくると、自分にとってのプライオリティーがはっきりしてくる。 何に、誰に、時間を割くか。切り捨てるものはどれか。 多少誰かに「さぼっている」とか「薄情だ」とか思われても、ない時間はない。 時間はつくるものだという意見には賛成だが、あくまでも有限の中での話だ。
助けが必要なら、いつでも電話してほしい。
そう思っても、自分では助けになれないときが、とても悔しい。 今までに、どれだけそういうことがあっただろうか。 そういう悔しさをバネに、誰かの助けになれるような人間になろうと努力する。
気になる人、というのはたくさんいる。 好きな人だって、いる。 でも、愛する人は、一人しかいない。
少し気が多い私なりに 泣いたり 笑ったり 私らしくあるために繰り返した あなたのこと どんどん好きになってくる (DREAMS COME TRUE『決戦は金曜日』)
2003年10月21日(火) |
LOVEエゴイスティック |
恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム (Mr.Children『シーソーゲーム〜勇敢な恋の歌〜』)
お互いにエゴがあることを認め合うことこそが、大事だと思う。 だいたい、エゴのない人間と付き合って面白いだろうか? 何でも自分の言いなりになる人形と、付き合って。 それで満足か?
安らぎしかない平坦な「LOVE」よりも、 ときに傷ついても成長できるLOVEが良い。
素顔で泣いて笑う君のそのままを愛している故に あたしは君のメロディーやその哲学や言葉全てを守り通します (椎名林檎『幸福論』)
この金曜日が、ある勝負の第一歩。 そしてこれからの金曜日も。 個人的な勝負というより、もう少し大きな勝負だ。 もう関わってしまったのだから、やるしかない。 やり遂げられれば、個人的に得るところも大きいだろうと思う。 そのための準備をしなければならない。
まあそれはさておき、今日はリフレッシュ。
君が其処に生きているという真実だけで 幸福なのです (椎名林檎『幸福論』)
広がった人間関係が思わぬところで接点を持ち、環を形成して閉じる。 色々なところで、思わぬ人が思わぬ人とつながっているものだ。 人間関係が単線だと、こういうことは起こらない。
一時期、科学信仰というか、いずれは科学で何でも解明される日が(生きているうちにではないだろうが)来るんじゃないかと思っていた。 だが、たとえすべてを「解明」したとしても、それは科学の言葉でその対象を言い換えたにすぎない。その科学的アイデアを当てはめれば辻褄が合う、というだけのこと。 そのことで対象が制御しやすくなり、技術応用に役立ったりする。だからそれで十分有益なことなのだけど、それ以上でもそれ以下でもない。 たとえば、物理法則を「発見」するというけれど、それは元々どこかに存在していたというわけではなくて、そのような法則を仮定すれば物事の説明が付く、ということなのだ。 たとえば、物質Aが脳内で分泌された際に「喜び」の感情が喚起されるということがわかっても、じゃあどうして物質Aが脳内で分泌されれば人は「喜ぶ」のか、という問いには答えていないのだ。たとえその答えが提示されたとしても、また同じ問いの繰り返しになるだろう。(少し屁理屈っぽい?) 真理の探究としての科学は、科学のルールにおけるパズルゲームのようなものだ。ときどき、新しいルールを追加するけれど。
『ダウン症候群の遺伝子がリアルであるのは、その実体が染色体やDNAであるからではないし、それが染色体やDNAと同一だからでもない。そうではなくて、ダウン症候群の人間が現に生きているからである。その人間がこの世に生まれ出たからこそ、遺伝子のシステムが当の人間に内在すると要請しても許されるのである』(小泉義之『ドゥルーズの哲学』)
2003年10月14日(火) |
閉じるための言い訳なんていらない |
元々の予定に余裕を持たせておけば、 大事なものを見落とさずにすむかもしれない。
俺は一日刻みで仕事の予定を立てることはあまりない。 あらかじめ余裕を持たせた期日を区切って、それに合わせて日ごとのペースでやる。 まあ、平均的なペースを少し速めに維持するようには心がけているけれど。 そうしないと期日になっても終わらないことが起こりえるからね。
空や花に気づける感覚を大事にしてほしい。
(何にも気づく余裕がないほどに、一点にのみ集中しなければならない時期というのも、確かに存在はするのだけど。中長期的に見て、次のステップのために。でも、できる限り、それに抵抗したいと思う。それを言い訳にしたくはないと思う)
2003年10月13日(月) |
I wanna be with you |
俺「色々な人と知り合えば、そこから新しい経験が拓けるかもしれない」 友「でもね、良い経験とは限らない。ある程度、切り捨てていかないとね」
だがしかし、切り捨てずにおいて良かったと後から思う関係も存在する。 そもそも切り捨てる・捨てないという態度で人間関係に臨むべきでないのかもしれないが、たとえそう意識はしなくとも、自然淘汰は起こる。起こりつづけている。 自然淘汰といっても、実際には自然になどではなく、自分で選択したのだ。その選択が「何もしない」だった場合に、「自然に」だと感じるだけのこと。
心から一緒にいたいと思える人の数を数えてみる。 何人いますか?
2003年10月12日(日) |
朝がまた来る、晴れたらいいね。 |
同じ会話でも、裏側の事情を知りながら聞くと、全然違った印象を受ける。そういう会話がどれだけ行われ、そのうちのどれだけを、俺は何も知らずに聞き過ごしてきたのだろう。 何でもかんでも裏側まで関われるわけではないし、その時間も必要もないから、とくに気にすることでもないが、場合によっては、相手によっては、裏側まで関わりたいと思うことがある。裏側まで関われて良かったと思うことがある。見えなかった風景が、霧が晴れたように、透き通って見える瞬間。
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「たとえば今君は学生だけど、いつまでも学生生活が続くわけじゃない。その終わりの朝が、いつかやって来るんだ。だから、この先、君が楽しい人生を送りたいなら、学生的なもの以外の楽しさを今のうちに準備しておいたほうがいい。「あの頃は楽しかったなあ」という台詞の後に、「でも、今はもっと楽しい」と言いたいと思わないか?」
むかしどこかで聞いて(もしくは見て)、忘れていた言葉。それを偶然見かけて、思い出した。
『人生はかけ算だ。どんなにチャンスがあっても、君が「ゼロ」なら意味がない』(326)
自分が満たされていると思い込むために、 誰かを「好きな人」に仕立て上げる。 そういう事態には陥りたくない。 でも、常に気をつけていないと、 自分の本当の気持ちなんてわからなくなる。
しかし、思い込みでも幸せなら良いじゃないか、という考えも否定できない。 どこまでが思い込みで、どこからが本当なのか、 その線引きをどこでするかの問題だから、それも一理ある。 線引きの注意深さの違いがあるだけだ。 (あんまり注意ばかりしていると、一歩も進めなくなるときもあるけれど)
『みんながそうするからって、きみがしなきゃならないってことはないんだ』
何かを成し遂げるためにはそれ相応のリスクを覚悟しなければならない。 一般的に、そういう印象があるし、そういう事例も多い。 だが、リスクを負うこと自体が目的なのではない。 そこを、見失わないようにしなければならない。 ハイリスク・ローリターン、 ローリスク・ハイリターン、 という選択肢もたまには存在するはずなのだ。
バランスなんかぶっ壊れているケースもある、ということ。
僕が壊れていく。 そして新しい僕へ。
何のことかというと、 ここ半年ほどの間に起こった自分を取り巻く環境の変化、 そしてそれに伴う自分自身の変化が大きいと感じるのだ。 全体として、ゆるやかに良い方向に向かっていると思う。 半年かけて、自らの意志で半年前の自分を破壊してきたのだ。
『俺は、閉じ込められている、思い出せ、この巨大な光に切り取られた場所、閉じ込められたままだ、破壊せよ、お前が閉じ込められている場所を破壊せよ』 (村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』)
2003年10月06日(月) |
Monetlike Sky |
バニラ・スカイのシャシンをありがとう。
この人は「物事をわかっている」というのは、さほど言葉を交わしたことがない場合でも、ピンと来ることがある。いつもいつもというわけではないが。 また、「わかっている」というのは、あくまでも俺自身の基準に基づいてはいるが。
そういう人を「発見」できると、嬉しい。(今日のように) いや、どちらかというと、今日は、俺がその人によって発見されたというべきか。
これは私的な場面での出来事。 公的な場面でも、嬉しいことがあった。 幸先の良いスタート。 (もっとも、公的な方については、今後の展開次第で、出鼻を挫かれることもありえる)
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