女の世紀を旅する
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2003年10月19日(日) 日本史探訪  征韓論  西郷と大久保の激突


日本史探訪  征韓論 西郷と大久保の激突が日本を変えた







●西郷の遠大な防衛構想

 「朝鮮国の暴慢無礼はもはや許し難いものがある。ただちに出兵すべきだ。」

明治6(1873)年6月12日の閣議で、政府の参議(高官)・板垣退助が強硬論を吐いた。これが誕生したばかりの明治新政府をゆるがす征韓論の閣議における第一声となった。

明治元年(1868年)以来、新政府は朝鮮に国交回復を5年以上も呼びかけていたが、朝鮮政府は国書の中に「皇祖」など清国皇帝が使う文字があると受け取りを拒否し、さらに「日本人は西洋人と交わって、もはや禽獣(鳥や獣)と変わるところがない」と、日本公館への食糧供給も拒んで国外退去を命じた。日本国内はこれに激昂していた。特に別府晋介や桐野利秋など西郷門下の陸軍幹部達が強硬派だった。

西郷隆盛は板垣の強硬論を抑えて、「先に軍事行動に出るのはよくない。まず特命全権大使を送り、朝鮮政府と意を尽くして話し合うべきだ。それでも応じなければ、議を世界に明らかにして出兵すべきだ」と言った。そして自分がその大使になり、護衛もつけずして朝鮮に行き、道理を尽くして修交と和親を求めようと提案した。

維新の際も、西郷は幕府代表の勝海舟と差しで話し合い、無事に江戸城明け渡しを実現して、江戸を戦火から守った。今回も西郷は朝鮮の実力者、国王(高宗)の実父大院君に対して、同じ方法で解決を図ろうとしていた。朝鮮国と固く手を結べば、いずれ清国と結ばれる日も来る。そうすれば、国内の不平派も、敵は朝鮮国や清国ではなく、東アジアを狙うロシアであり、欧米諸国であることが分かるだろう、、、西郷の遠大な防衛構想だった。そのために、西郷は朝鮮や上海、満州にまで部下を潜入させて、大陸の実情を探らせていた。

三条太政大臣は戦争につながりかねない重大事なので、1年9ヶ月におよぶ欧米見学を終えてまもなく帰朝する右大臣・岩倉具視(ともみ)を待って熟議を尽くそう、と何とか先送りにした。




●大久保利通の覚悟

9月13日に帰国した岩倉は、西郷が使節に発てば、かならず殺され戦争になる、そうなれば清国、ロシア、イギリスなどが介入してくると読んだ。しかし、西郷を止められるのは、同郷の畏友・大久保利通しかいない。岩倉は9月28日夜、大久保を訪ねて、参議就任を懇請した。

岩倉とともに欧米を見てきた大久保はもとより征韓論に反対だった。しかし、西郷を敵に回すということは、薩摩士族を敵に回すということだった。たとえ西郷を論破できても、自分は殺される、、、。即答を避けて、岩倉を帰した後、大久保は一人考えた。

 「このまま座して征韓を通すか。帝には不忠。己には怯懦(きょうだ)。」

 10月10日に至って、大久保はついに三条と岩倉に参議就任承諾を伝えた。その夜、大久保は子供たちに遺言めいたものを書いた。

「 此難に弊(たお)れて無量の天恩に報答奉らん・・・此難小子(自分)にあらざれば外に其任なく・・・」

アメリカに留学中の次男伸顕には、こう書いた。

「 私は実によい時代にめぐりあわせた。死すともすばらし
いことである。自分一人としては一点の思い残すこともな
い。・・・ただ外国で自分の変を聞いて、さぞかし驚くこ
とであろうが・・・」

大久保は新参議として、自分とともに征韓派の先鋒である外務卿の副島種臣(そえじまたねおみ)も加えるように岩倉に頼んだ。征韓派にも閣議で十分発言させ、堂々と戦おう、との覚悟だった。





●両雄激突

新参議の大久保と副島を加えた閣議は10月14日に開かれた。岩倉が冒頭で反対論を陳べた後、大久保が発言を求めた。

「 わたしは韓国問題はしばらく延期して時期を待つべきだ
と思う。・・・世界の情勢を考えれば、何よりもまず内治
を整えて国力の充実をはかり、然る後に外征に及ぶのが順
序であります。これは三歳の童子にも明らかな道理であり
ます。」

「大久保、お前は!」と西郷が驚きの声を上げたが、大久保は続けた。新政府の基礎はまだ固まらず、地租改正や徴兵令をめぐる一揆が頻発している。財政も貿易も赤字で、戦争となれば国内産業は衰え、艦船や武器弾薬の輸入は増えて、国家財政は破綻する。英国には5百万両もの外債があるが、これが返済できなくなると、インドの二の舞になって独立を失いかねない。

西郷が「誰も戦争を起こせとは言っておらぬ。俺は韓国には一兵もつれて行かぬのだ」と言うと、「君がどう思っていようと、相手が拒絶すれば戦争になるのだ」と応える。西郷は怒鳴
った。

 「おれは今日まで、おまえを勇者だと信じていたが、いつ、
どこで、腰を抜かして、薩摩一番の臆病者になってしまっ
たのか!」

大久保は西郷の怒りをものともせずに、自説を続けた。

「 政府の根本を画定するためには衆説にまどわされてはな
らぬ。特に思い上がった陸海軍人どもが政府の命令を遵奉
せずに、下士官兵士の末に至るまで粗暴軽率の行動に走り
がちな現状においては、、、。

 兵隊を暴走させぬために、いかにおれが苦心しているの
か、おまえにはわからぬのか。

 暴徒に媚びていては、暴動を鎮めることはでき申さぬ!」




●西郷が去れば

各参議も思い思いに発言し始めたので、収拾がつかなくなった。岩倉が三条の脇腹をついて、休息を宣言させた。大久保が立ち上がって、部屋を出ていく。西郷は三条と岩倉の前に行って、低く沈んだ声で言った。

「 もし遣韓大使の議がつぶれるようなことがあったら、わ
たしは政府にとどまることはできませぬ。辞職して故山に
帰るつもりであります。」

三条と岩倉は顔色を変えた。西郷が去れば、陸軍や薩摩士族が黙っていない。

午後の閣議もついに結論なしに終わった。外征の前にまず内政を整えよ、という原則には誰も異存がない。困ったことに、西郷は出兵も外征も唱えていない、ただ一人、丸腰で朝鮮に行き、腹を割って大院君と話し合うことが、日韓摩擦を解決し、征韓論に沸き立つ民心を鎮める道だと確信している。

これに対して、大久保や岩倉は、大使派遣はそのまま戦争につながり、ロシア、イギリスの干渉を招き寄せて、国がつぶれると主張してる。結局、先の読みの問題なので、双方に議論の決め手はなく、堂々めぐりをするだけだった。




●「右大臣はよくもふんばった」

決断を下すべき太政大臣・三条の唯一下した決断は、明日も閣議を続けるということだけだった。しかし、西郷は言うべき事は言い尽くしたとして、出席を断った。

翌15日の会議では、参議の江藤新平が、大使派遣をとりやめても兵隊がおさまらず、結局出兵になるのだから、大使を出した方が懸命だと論じたこともあって、三条と岩倉は別室で協議の上、「やむなく西郷の見込み通りに委す」と決した。

これに怒った大久保は翌朝、三条に辞表を出した。絶句する三条に追い打ちをかけるように、岩倉の辞表も届いた。岩倉は西郷の影に怯えて大使派遣に屈した自分が許せなかった。決議通り天皇への上奏を迫る西郷と、辞職を申し立てる岩倉・大久保の板挟みとなった三条は、17日深夜に昏倒して人事不省に陥った。

太政大臣の代行を天皇から命ぜられた岩倉のもとに、西郷、板垣、副島、江藤の四参議が、桐野利秋や別府晋介など血相を変えた軍人を連れて押しかけた。四人の参議は、大使派遣の閣 議決定を奏上して、勅許を得るように迫ったが、岩倉は頑として承知しなかった。「もう良い。わしはこれで御免こうむる」と西郷は出ていった。岩倉は見送ろうともしない。完全な決裂だった。岩倉邸を出るとき、西郷は「右大臣はよくもふんばった」といかにも西郷らしい冗談を言った。





●西郷、士族の反乱に呼応せず

薩摩に帰ろうとする西郷に、板垣が手を握りたいと提案した。西郷は「ほっておいてくれ」と断った。この時点で兵を動かせるのは、薩摩の外には板垣の土佐だけであった。薩摩と土佐が組めば、政府は明日にもひっくりかえる。そんな事をすれば、イギリスやロシアを喜ばせるだけだ、というのが、西郷の考えだった。

西郷は桐野利秋ら強硬派の軍人たちと鹿児島に帰ったが、実弟・西郷従道(つぐみち)、従兄弟の大山巌(いわお)はじめ、多くの薩摩出身の人材は東京に残った。強硬派のみを鹿児島に連れ帰って、東京を沈静化させたかのようである。そして鹿児島では私財を投じて私学校を設立し、来るべきロシアとの戦争に備えて、青年の教育にあたった。

翌明治7(1874)年2月、江藤新平が佐賀で反乱を起こした。江藤は薩摩の呼応に期待したが、西郷は立たなかった。政府軍に鎮圧された後、江藤は鹿児島に逃れたが、西郷に保護を断られ、逮捕されて、死刑に処せられた。

明治9(1876)年10月熊本での神風連(しんぷうれん)の乱、同月福岡での秋月(あきづき)の乱、
山口県の萩の乱と、士族の反乱が相継ぐが、西郷はじっと動かず、大久保は一つ一つ鎮圧していった。


※ 征韓論争の敗れて下野(げや)した板垣退助・後藤象二郎・副島種臣らは1874年に民撰議院設立の建白書を政府に提出し,薩長出身者の専制を非難,国会を開設して,世論にもとづく政治を要求した。これが自由民権運動の始りで,不平士族のみならず一般農民まで加えて全国的な運動に発展した。明治維新で用無しとされた日本国中の士族のルサンチマン(怨念.復讐心)が自由民権運動を生んだことに注目されたい。




●「わいの体をおはんらに預け申そう」(西南戦争 1877年)

 明治10(1877)年1月、陸軍省が鹿児島の兵器・弾薬庫から夜陰にまぎれて武器や火薬を運び出すと、それをかぎつけた私学校生徒らが憤激し、武器弾薬を奪い取った。西郷は「しもた」と叫
んだが、燃え上がった火はもう収まらなかった。桐野らに挙兵の決断を求められると、西郷は言った。「わいの体をおはんらに預け申そう。」

 2月15日、西郷軍1万5千は鹿児島を出発。「政府に尋ねたき儀これあり」という素っ気ない理由で、勇ましい政府批判の声はなかった。一挙に船で、東京、大阪に上陸すべしという主張も出たが、奇策として退けられた。西郷軍は愚直に熊本城を攻めたが、城攻めの大砲もなく、また関門海峡を渡る船の用意もなかった。西郷は勝利を狙っていたのだろうか?

西郷軍は熊本から敗退して、鹿児島に戻り、城山に立て籠もった。9月24日、政府軍の一斉射撃で2発の銃弾を浴びると、西郷は「晋どん、もうここでよか」と別府晋介に介錯を命じた。享年51歳。





●生も死も天命

隆盛挙兵の報を聞いた時、大久保は座敷内をぐるぐる廻りながら、「馬鹿なことを」とつぶやき、そして絶句した。

その大久保も、翌明治11年5月14日、馬車で出勤する途上を士族6人の刺客に襲われ、惨殺された。生も死も天命という信念から護衛をつけていなかった。享年49歳。

大久保の死後、親族が遺産を確かめたら、わずかな現金しかなく、逆に8千円もの借金が発見された。公共事業の予算が足りない分を、大久保が個人で借り受けたものであった。土地や建物も抵当に入っていたため、遺族は住む家さえなくなってしまう。政府は大久保が生前鹿児島県庁に「学校費」として寄付した8千円を回収し、さらに8千円を加えて計1万6千円を遺族に贈った。




●無私の激突 

韓国近代史の第一人者・李セングン博士は、次のように語ったと伝えられる。

「これまで自分は、西郷隆盛を征韓論の親玉のように誤解
していた。もしあの時西郷の遣韓が実現して、大院君と二
人で腹を割って話していたら、その後の日韓関係は違った
ものになっていたであろう。惜しいことをした。」

西郷の夢見た日韓中連合による欧米諸国への対抗が実現していたか、あるいは、大久保の読み通り、韓国との戦争からロシアやイギリスの干渉を招いて亡国に至ったか、知るよしもない。
しかし、この点で西郷と大久保は意見を異にしていても、その生き様は共通だった。司馬遼太郎は次のように語っている。

「 征韓・内治両派の巨魁は、それぞれの意見を通すために
死を賭していた。がこれほど小説になりにくい事件もなか
ろう、小説になるために必要な人間現象−たとえば私利や
私権の追求といったふうなものが、奇跡といっていいほど
に双方の巨魁になかった。意見の純粋さだけで、かれらは
国家をふたつに割るほどの対立をしてしまったのである。」


2003年10月12日(日) この秋,私が狙う株式銘柄

この秋,私が狙う株式銘柄

             2003.10.12

 いやはや,嬉しい悲鳴である。円高にもかかわらず株式市場がここまで人気化するとは思っていなかった。特に新興市場(ジャスダク.ヘラクレス.マザーズ)はストップ高のオンパレードであり,世界広しといえどもこんなに数多くのストップ高銘柄にありつけるのは,現在,日本の新興市場ぐらいだろう。
 まさに刈り入れ秋の時節がやってきたようだ。先週,大都魚類,セタ,アドアーズ,イーシワンが暴騰して,次々に売却することとなった。それにしても,どの銘柄もとんでもない噴火となって,自分自身びっくりしている。

多くの銘柄を先週手放すこととなったため,新たな銘柄を探さなくてはならなくなった。この連休中に調査し,火曜日に買い出動予定の銘柄を用意したので,下に記しておきたい。予想が当ればよいのだが。


【先日,売却した銘柄】中長期で保持した分,大幅に利益を確保できた。
大都魚類 112円買→240円(10/2)
セタ 135円→540円(10/7)
アドアーズ156円→278円(10/10)
イーシワン 138000円→251000円(10/10)






【いま,買いを狙っている3銘柄(短期決戦型)】


�.咫璽泪奪廖 複苅械隠供法〇�価252000円 (1株単位)

★IP電話関連の大穴株候補。遅かれ早かれ,先の高値300000円を越えて350000円方向に行くと予想する。以下の記事はビッグな材料であるが,まだ市場には広まっていない。火曜日にストップ高になる可能性があり,なりゆき買いで出動したい。この銘柄は市場の話題をさらうだろう。

【材料2003年10月10日 ビーマップ、米Acceris社がアメリカで特許権を取得したVoIP技術の 日本における独占使用権について基本合意書を締結 株式会社ビーマップ(以下ビーマップ、本社:東京都北区、代表取締役社長:杉野文則、ニッポン・ニュー・マーケット−「ヘラクレス」:証券コード4316)と米Acceris Communications Technologies, Inc.(以下アクセリス社、本社:米国ペンシルバニア州、President:Gary Wasserson)は、アクセリス社がアメリカで特許権を保有しているVoIP技術(インターネット接続音声電送技術)に関して、日本での独占的使用権及び東南アジア地域での使用権、ならびに同技術を使用した事業を行う日本法人の共同設立のための、基本合意書を締結しました。これに基づき、今後両社はこのVoIP技術に基づく新たな音声通信サービスを共同で事業化していく予定です。 ビーマップは現在、無線LAN環境下でのコンテンツ配信システム「Air Compass(エアコンパス)」など、インターネットを活用してモバイル端末にデータを配信するインフラの開発・提供を行っています。そして、今後急拡大が見込まれているIP電話をはじめとしたインターネットプロトコルを使用する音声データ通信サービスを展開する上で、このVoIP技術の使用は不可欠となります。(以上)


�▲愁侫肇侫蹈鵐函 複横械横院忙�価264000円 (1株単位)

★火曜日に時価近辺で買えたら乗ってみたい銘柄。IP電話関連。
ビーマップに先だって金曜日に火柱が立ったが,時価近辺なら買い出動したい。高く始まる可能性もあるが,高値には手を出さない。

【材料】
2321 (株)ソフトフロント【特色】デジタル電話技術SIPの開発支援と受託研究を行う。競合少ない。業績予想は非開示方針
【連結事業】受託開発64、ソフトウェア販売35、他1<03・3>
【黒字化】主力のデジタル電話技術支援事業は、ソフト販売がネット接続業者からの再注文に加え通信機器メーカー、事業者等新規顧客も開拓。受託開発も案件選別で採算向上。前期の人員大幅削減効果発現で営業益浮上。前期の上場関連費用も消える。
《四季報予想 注目すべきは05予想》
04.3予 EPS=9373 予想PER=198000/9373=21.12
05.3予 EPS=24994 予想PER=198000/24994=7.92
 新興市場でこれだけの伸び率が予想され、かつ時流に乗っている銘柄がここでは止まらないでしょう。他銘柄で時流に乗っている銘柄はそろそろ割高感が強くなってきていて買える所が、少なくなってきています。SFはまだまだ割安でIPは来月話題豊富な銘柄!流れは循環します。


��アセット・インベスターズ(3121)  株価128円(10/10)

出来れば,123〜125円の押し目を拾いたい。チャートは上昇志向を示現し,出来高が木曜日に急増している。あくまで押し目を狙いたい。
★今年,アセットマネージャの子会社となり,そのノウハウで積極的な大都市不動産投資に乗り出しており,将来性に期待したい。テーマにのった旬な銘柄なので,いずれ人気化するだろう。配当2.5円。


2003年10月05日(日)  韓国人女性・呉善花さんの日本見聞録

《 韓国人女性・呉善花さんの日本見聞録 》
                 2003.10.5



昨日,NHKドラマ「聖徳太子」を観たが,6世紀末の倭国の風習や慣習や衣装や雅楽などがよく研究されていて,興味深いものがあった。当時,日本は朝鮮の鉄を手に入れるため,百済(くだら)と同盟を結び,百済を通じて仏教や儒教を導入していた。6〜7世紀には多数の朝鮮人が渡来して,飛鳥文化成立に寄与した。当時,百済は新羅や半島北部の高句麗に圧迫され,日本と親交を結んでおり,ドラマでも百済の使節が貢ぎ物をもって来朝しているシーンがあったが,日本と朝鮮との人的・文化的交流が非常に盛んであったことがうかがわれる。

★ 聖徳太子(574〜622年)は,日本の女帝・推古天皇(位592〜628年)の摂政として国政を改革し,遣隋使として小野妹子を派遣して隋の煬帝(ようだい)と国交を開き,百済から伝来した仏教を奨励して飛鳥文化の興隆(こうりゅう)に寄与した皇子。
叔母にあたる推古天皇の即位とともに摂政となり,豪族の蘇我氏と協力しつつ国政改革にあたり,冠位十ニ階の制や十七条の憲法の制定によって,旧氏姓制度を打破し,天皇中心の中央集権的官僚国家の建設に尽力した。562年に朝鮮半島の日本の拠点である任那(加羅)が滅亡すると,新羅(しらぎ)討伐の軍隊を派兵したが,隋の中国統一(589年)後の東アジア情勢の変化に対処してこれを中止し,隋と国交を開いた。607年に小野妹子を隋に派遣し,煬帝に「日出る処の天子,書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」の国書を呈した。これは,太子の積極的な「対等外交」の姿勢を示すものといえる。太子の指導のもと,四天王寺や法隆寺が建造され,日本最初の仏教文化である飛鳥文化が開花した。飛鳥文化は,南北朝時代の中国文化が百済・高句麗を通じて日本に伝わったものであり,また中国を媒介としてガンダーラ仏教美術・ササン朝美術につながり,きわめて国際色豊かな文化であったことが知られる。


日本と朝鮮との文化交流の歴史は古く,日本の古代文化の形成に朝鮮人が深く関与していたが,20世紀には朝鮮が日本に併合された悲劇的な経緯もあり,その真の文化交流が展開されるようになったのは,ほんの最近にあってからであった。まだまだ両国の文化摩擦には,誤解が多くふくまれており,その点に関して韓国人女性・呉善花さんがおもしろい日韓文明比較を論じているので,紹介しておきたい。





《 呉善花さんの日本見聞録 》
               執筆は伊勢雅臣さん




●初来日での「肩透かし」

日帝時代を頑迷に反省しない日本人−それは許さないという反日意識を強く持っていた私は、どこへ行っても優しく親切な日本人、どこへ行っても整然としてきれいな日本の街並みに触れて、何か肩透かしをくわされた感じがした。

戦後、最も強固な反日教育を受けた「反日世代」といわれた私の世代は、日本といえば「悪魔の国」と答えるほどだったから、「日本人がよい人たちであるはずがない」という強い先入観をもっていたのである。

これが「東京経由のアメリカ留学」の計画で来日した27歳の韓国人女性・呉善花さんの日本での第一印象であった。





●日本の商売人は何て良心的なんだろう!

昭和58年7月に留学生ビザで来日した呉善花さんは東京は
北区十条の友人のアパートに同居し、そこから日本語学校に通
い始めた。ソウルでは間借り生活で台所やトイレも共用だった
が、ここではすべて自前で、さらに友達が冷蔵庫、洗濯機、テ
レビ、電話まで揃えていたのにびっくりした。

白米のご飯のおいしさにも感動した。韓国で白米を食べられ
るようになったのは1988年のソウルオリンピックの頃からであ
る。それまでは一般の家庭では白米に粟や麦を混ぜて食べてい
た。学校へ持って行く弁当でも百パーセント白米のご飯は贅沢
だというので禁止されていた。

そんなある日、近所のお米屋さんでお米を一袋買って炊いて
みると、パサパサとしてまるでおいしくない。不思議に思って
店で聞いてみると、三分づきのほとんど玄米と同じ健康食用の
コメを間違えて買ってしまったと分かった。

店のご主人は呉さんが誤って買ったお米を普通のお米に取り
替えてくれ、差額だけを支払って下さい、と言う。何て良心的
なんだろうと呉さんは思った。ソウルでは1万ウォン札を渡し
たのに、5千ウォンだったと店の人がごまかして喧嘩になった
ことが何度もある。日本ではそんな事は絶対にない、日本人は
良心的だ、という噂が留学生たちの間に流れていく。





●自然の美しさ、人々の温かさ

来日した当初は、親切な人が多い、秩序が安定している、街
がきれい、豊かな生活物資が満ちあふれているなど、とにかく
いい所ばかりが目についた。

特に呉さんの心を打ったのは、海と山が間近に接近した独特
の地形が織りなす自然の美しさだった。東京の叔母に誘われて
伊豆の東海岸を旅行した時には、その風景の美しさにすっかり
魅了された。これほど海と山と人の生活が溶け合った光景は韓
国ではほとんど見られない。海と山は平野によって遠くに隔て
られている−−そんな大陸的な風景が韓国のものである。旅先
で出会った地元の人々からは、風景そのままの率直な温かさが
伝わってくる。

 都会でも山の緑が家々のすぐ近くまで張り出している。
それなのに人々はさらに自宅の庭に草木を植える。韓国では人
々が暮らす村里に緑があると動くのに邪魔になるという感覚が
昔からある。庭に草木を植える家はかなり上流階級に限られて
いた。
しかし日本では普通の人でも普段の生活の中で緑を慈しむ
のだという。そんな違いも驚きだった。



●急に怒り出した八百屋さん

日本に来て最初の一年は、良い日本に感激した時期であった。
それは韓国で教えられていた日本の姿とはまったく違っていた。
しかし、2年経ち、3年を経て、日本の内部に入っていくよ
うになると、呉さんはしだいに文化や習慣の違いからくる摩擦に
悩まされるようになっていった。

十条のアパートの近くに小さな八百屋があった。ご主人が親
切にしてくれるので、野菜はいつもその店から買っていた。あ
る日、キムチを作ろうと、その八百屋に白菜を買いに行った。
呉さんは店先に積まれた白菜を、一つ、また一つと触って品
定めをしながら、「おじさん、今日は白菜をたくさん買います
からね、いいのを選んで下さいよ」と言った。

すると、主人は急に怒り出して、「悪いけど、うちのものは
あなたには売りませんよ」。何が気に障ったのか、わけがわか
らない呉さんが「なぜそんなに怒るんですか」と聞くと、プイ
と横を向いて「朝鮮人にはものを売りませんよ」。同じような
ことが、美容院やお寿司屋さんでもあった。ようやくその理由
が分かったのは、それから数年後のことだった。

韓国ではものを作る人、売る人を一段下に見る風潮があり、
また店の方でもいい加減なものを作ったり売ったりする傾向が
強い。そのため買い物をする時に、品質について念を押したり、
自ら商品に触って確かめるという事が一般的である。八百屋
にいけば「いい野菜をください」というのが、ごく普通の挨拶
であり、それが店の人への親しみの表現なのであった。

しかし、日本では八百屋は八百屋なりに、うちでは悪い野菜
など売らない、という誇りがある。韓国流の「いい白菜をくだ
さいね」という挨拶は、その誇りを傷つけるのだ。こういう場
合は「キムチを作りたいんだけど、どんな白菜がいいかしら」
などと、相手を専門家として持ち上げてやることが日本流であ
る。

こういう対人関係の有り様は、右側通行か、左側通行か、と
いう交通規則と同じで、優劣の問題ではなく、一つの文化内の
暗黙のルールなのである。左側通行の社会で右側通行をしたら
あちこちで衝突する。呉さんが悩んだのは、こういう文化の
違いだった。




●消しゴム事件

日本人の友だちができて、本格的につきあい始めると、ここ
でもさまざまな摩擦が生じてきた。たとえば、韓国ではご飯も
スープも食卓に置いたまま、スプーンですくって食べるのが食
事作法である。お茶碗を手に持って食べるのは、たいへん行儀
の悪いことである。

それが日本の作法だと知っていても、目の前でそうされると、
生理的な嫌悪感を抑えることができない。日本人はなぜそんな
おかしな事をするのか、嫌な人たちだ、と思えてしまう。

大学に入ってから、とても気のあう日本人の友だちができた。
しかし、その友だちは一緒に勉強していて、呉さんに消しゴム
を借りる時に「ちょっと消しゴム、貸してくれる?」と聞くので
ある。返すときもいちいち「ありがとう」と言う。そのたびに呉
さんは「この人は私のことを本当に友だちだと思っているのだろ
うか?」と不安な気持ちに襲われるのだった。

韓国では親友や家族の間には、距離があってはいけない。
私の物はあなたの物、あなたの物は私の物、それでこそ親密な
間柄と言えるのである。だから友だちの間で「消しゴムを貸し
て」とか、いちいち「ありがとう」などと言うのは、とても失
礼なことなのだ。

呉さんのほうは、友だちの消しゴムが横にあれば、まるで自
分の物のように断りもなしに使い、返すときもいちいち「あり
がとう」などとは言わない。ある日、呉さんがいつものように
そうしたら、友だちは耐えかねたのか、明らかにムスッとした
表情を示した。なぜそんな顔をされるのか、分からないまま、
呉さんはいいようのない暗く沈んだ世界に一人取り残された気
分に陥ってしまった。




●日本人も韓国人も行き違いに悩んでいる

呉さんは大学に通いながら、コンサルタント会社でアルバイ
トをするようになった。そこでは月に1、2回日本のビジネス
マン相手に韓国ビジネス・セミナーを開いており、呉さんは事
務局役をやりながら、セミナーを後の席で聞いていることがで
きた。

そこでは日韓の摩擦について話題になる事が多かった。ちょ
うど呉さんと反対に、日本人ビジネスマンが韓国に行って、摩
擦に悩むという声がしばしば聞かれた。悩みはお互い様なのだ、
という当たり前のことに気づかされて呉さんは嬉しくなった。
そのうちに会社からの要望で、日本人ビジネスマンに韓国語
を教え始めた。

ちょうどその頃、縁があって、韓国人ホステス数人相手の日
本語教室を自分のアパートで開いてみた。一般の学校での教え
方とは違って、韓国人が理解しにくい日本人の発想の仕方
から教えていくと、同じ年頃の韓国人の女性から教わるという
事もあって、よく分かる、と好評だった。

「こんな言葉を使えば、日本人の男性には好感を持たれるのよ。
韓国式にこんないい方をすれば、必ず嫌われるわよ」と呉さん
が教える。彼女たちは早速、店でそれを実行すると、「なるほ
ど先生の言うとおりだった」となる。その評判がパッと口コミ
で韓国人ホステスの間で広がった。

昼は韓国人との行き違いに悩む日本人ビジネスマンに教え、
夕方は日本人との行き違いに悩む韓国人ホステスを教える。日
本人と話しても、韓国人と話しても、行き違いはだいたい共通
する所にあった。日韓摩擦のポイントは、その共通項の解明に
あるのだ、という考えが徐々に固まっていった。そして語学教
室でそのあたりから教えていくと、日本人ビジネスマンも韓国
人ホステスも非常によく理解してくれるのである。まさに生き
た文化人類学研究であった。

異なる文化間の摩擦とは、相手が自分のルールに従ってくれ
ない、という所から来る。自分では左側通行が当たり前だと思
っているのに、相手が右側通行をするので「なぜこの人は平気
で交通違反をするのか」と悩んだり、怒ったりすることになる。
それは「違反」なのではなく、相手は違った交通ルール体系
に従っているのだ、と知ることが、摩擦を乗り越える第一歩な
のであろう。そうしてお互いの交通ルールの違いを知ることが、
まさに自分自身を知ることにもつながる。




●彼女は済州島出身の田舎者で、、、

平成2年、呉さんは「スカートの風」を出版した。日韓の文
化・習慣の行き違いについて、韓国人ホステスの例などを通じ
て述べた本である。反響は大きく、3ヶ月ほどで10万部を超
えるベストセラーとなった。これを機に、あちこちから講演や
原稿執筆の依頼が殺到するようになった。

ある時、東京の日本語学校の先生たちの集まりで、一時間ほ
ど講演をして欲しいという依頼を受けた。その場には主催者側
が、東大の博士課程に在学中だという韓国人男性を呼んでいた。
呉さんの話が終わって、質問の時間になると、その韓国人が
立ち上がって、つかつかと前に出てマイクを握った。

「みなさん、私は、いままで何も言わずに黙って聞いてき
たけど、彼女がどういう人だか知っているのですか。彼女は
韓国の軍隊出身なのですよ。」

確かに呉さんは高校を出てから、きびきびした女性軍人に憧
れ、10倍以上の狭き門をくぐって、教育期間を含めて4年間
軍隊に在籍し、その間大学にも行った。しかし、それと呉さん
の講演と何の関係があるのか、日本人聴衆はまったく分からな
かったろう。この男性が言いたかったのは、軍隊に行くような
女はまともではない、ということであった。さらにこう続けた。

「彼女は済州島出身の田舎者で、日本に来ても歌舞伎町の
ホステスたちと仲良くしているような人間だ。そんな人間が話
すことを、あなた方は韓国の代表的な意見であるかのように聞
いたり、質問したりして、盛り上がっているというのは、いっ
たいどういうことですか?




●「紺屋の白袴」

その時、後ろに座っていた一人の日本人男性が「失礼なこと
をいうな。おまえ出て行け!」と怒鳴った。韓国人男性は「そ
っちこそ失礼ではないか、人がせっかく説明してあげているの
に怒鳴って」と、怒鳴られた理由がまるで分かっていない。

そこで彼は、自分を紹介しますと言って、私は東大の博士課
程にいて、有名な○○先生のもとで、これこれの研究をしてい
る、と自慢げにとうとうと述べ立て始めた。これが韓国であれ
ば、一にも二にも彼の輝かしい学歴が、その主張の正しさ
を保証し、だれもが彼の意見を尊重する所だ。

しかし日本ではそうはならない。高学歴だからと言って、そ
の人の言うことが正しいとは誰も思わないし、そもそも「学者
馬鹿」などという言葉すらある。会場の日本人たちからは口々
に彼への反発の声があがる。しかし、彼はなぜ日本人たちが自
分に反発しているのか、まるで分からない。

異文化摩擦の絵に描いたような事例である。呉さんには、そ
の行き違いが手に取るように分かった。そもそも彼の師事する
東大の○○先生は著名な人類学者で、呉さんの「スカートの
風」には大変に感動した、立派な本だと誉めて、韓国専門の先
生方や学生の前で話をさせてもらった事があったのである。

この男性は博士課程で文化人類学を研究しながら、自分自身
では日韓の文化の違いをまるで理解せずに、韓国流そのままで
振る舞って、日本人聴衆の反発をかっていたのである。まさに
「紺屋の白袴」とはこの事だ。




●行き違いを克服した原動力

平成9年4月に呉さんは新宿の高層ビル街にマンションを購
入した。呉さんが日本に渡って16年、物書きを職業とするよ
うになって、すでに12冊もの本を出していた。マンション購
入は日本への定住の意思表明だった。

呉さんが今までを思い返してみると、日本という異文化社会
に飛び込んで、様々な迷路に迷い込み、何度も行き違いに悩ん
できた。そんな呉さんを救ってくれたのは、「よき人」との出
会いだった。行く先々で本当にいい人たちと出会え、その人た
ちが様々な形で呉さんを助けてくれた。

そしてそういう「よき人」たちとの出会いを作りだしたのは、
呉さん自身の「よき人」を求める気持ちの強さ、真剣さではな
かったか。日韓の行き違いから逃げずに、「よき人」を求める
て悩みながらも行き違いを直視し、その原因を考えてきた。そ
の真剣さが、行き違いを克服する原動力だったのだろう。

 現代のグローバル社会では、あらゆる国々や民族との文
化摩擦を乗り越えていかねばならない。その「しんどさ」に耐
えていくためには、それだけ「よき人」を求める真剣さを持た
ねばならないのだろう。



カルメンチャキ |MAIL

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