女の世紀を旅する
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2009年06月13日(土) 塩野七生 「ローマ人の物語」

塩野 七生(しおの ななみ)「ローマ人の物語」

     出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


1937年7月7日生まれ。72歳
日本の小説家。女性。 「七生」の名は、7月7日の「生まれ」であることに由来する。


●来歴

東京都生まれ。東京都立日比谷高等学校、学習院大学文学部哲学科(史学専攻.清永昭次(故)先生に師事)卒業。日比谷高校時代は庄司薫、古井由吉らが同級生だった。1963年からイタリアへ遊学し、1968年に帰国すると執筆を開始。雑誌『中央公論』掲載の『ルネサンスの女たち』で作家デビューを果す。

1970年には『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。又同年から再びイタリアへ移り住む。ローマ名誉市民を経て、イタリア人医師と結婚(後に離婚した)。

イタリア永住権を得ており、現在もイタリアの首都・ローマに在住。舞台をイタリア中心に限定し、古代から近世に至る歴史小説を多数執筆し続ける。ユリウス・カエサルの熱烈な崇拝者で政治家としての理想像はカエサルであると公言している。そのため執筆活動はイタリアで行っている。

また、現在の政治家として英国のトニー・ブレア前首相を高く評価しており、その理由として「誠心誠意、言葉を尽くし訴える姿勢」を挙げている。ブレアは後年、イラク戦争参戦で激しい攻撃を受けるが、一方で反対勢力に対し最も言葉を尽くしてその大義を説いていたのもブレアである。

1992年から古代ローマを描く『ローマ人の物語』を年一冊のペースで執筆し、2006年第15巻『ローマ世界の終焉』にて完結した。現在も『文藝春秋』でエッセイを担当しており、歯に衣着せぬ論評が好評を博している。

●概要
1992年以降、年に1冊ずつ新潮社から刊行され、2006年12月刊行の15作目で完結した。第1巻から第5巻までは王政ローマの成立から共和制への移行という興隆期、第6巻から第9巻までは帝政の全盛期、第10巻はいわば番外編としてローマのインフラストラクチャー(社会基盤の整備)について、そして最後の5巻で衰退から滅亡までを描いている。

「歴史書」として出来事を叙述するよりも、各時代を生きた主要人物に光を当て、彼らの行動を中心にして描くスタイルをとっている。また、これまでキリスト教の立場から「悪の帝国」として描かれてしまいがちであったローマを、寛容の精神によって世界平和(パクス・ロマーナ)を実現した国家として捉え直している。

古代ローマが終焉した時期を、西ローマ帝国の滅亡(476年)でも、東ローマ帝国の滅亡(1453年)でもなく、東ローマ帝国がローマを奪還した時期と見なしている。塩野は東ローマ帝国をローマ継承国家とは認めず、ユスティニアヌス1世の征服事業による戦乱によってローマ市民と元老院が消滅したとして、本書の筆を置いている(それ以降も一応概略として駆け足で述べられている)。

2002年から順次、新潮文庫で単行本1巻を2冊から4冊に分けて刊行されている。2009年4月現在『迷走する帝国』までが文庫化されている(文庫版で34巻)。




●『ローマ人の物語』 各巻構成と内容

1992年以降、年に1冊ずつ新潮社から刊行され、2006年12月刊行の15作目で完結した。第1巻から第5巻までは王政ローマの成立から共和制への移行という興隆期、第6巻から第9巻までは帝政の全盛期、第10巻はいわば番外編としてローマのインフラストラクチャー(社会基盤の整備)について、そして最後の5巻で衰退から滅亡までを描いている。

「歴史書」として出来事を叙述するよりも、各時代を生きた主要人物に光を当て、彼らの行動を中心にして描くスタイルをとっている。また、これまでキリスト教の立場から「悪の帝国」として描かれてしまいがちであったローマを、寛容の精神によって世界平和(パクス・ロマーナ)を実現した国家として捉え直している。

古代ローマが終焉した時期を、西ローマ帝国の滅亡(476年)でも、東ローマ帝国の滅亡(1453年)でもなく、東ローマ帝国がローマを奪還した時期と見なしている。塩野は東ローマ帝国をローマ継承国家とは認めず、ユスティニアヌス1世の征服事業による戦乱によってローマ市民と元老院が消滅したとして、本書の筆を置いている(それ以降も一応概略として駆け足で述べられている)。

2002年から順次、新潮文庫で単行本1巻を2冊から4冊に分けて刊行されている。2009年4月現在『迷走する帝国』までが文庫化されている(文庫版で34巻)。


● 各巻構成と内容 [編集]
�.蹇璽淇佑諒�語I ローマは一日にして成らず (1992年)
  王政ローマの建国からイタリア半島統一までを描く。
�▲魯鵐縫丱訐鏥� ローマ人の物語II (1993年)
  ポエニ戦争とカルタゴ滅亡まで。ハンニバルとスキピオ・アフリカヌス。
��勝者の混迷 ローマ人の物語III (1994年)
  グラックス兄弟、マリウスとスッラ、ポンペイウスの活躍。
�ぅ罐螢Ε后Ε�エサル ルビコン以前 ローマ人の物語IV (1995年)
  カエサルの前半生とガリア戦争。
�ゥ罐螢Ε后Ε�エサル ルビコン以後 ローマ人の物語V (1996年)
  ローマ内戦とカエサル暗殺、その死後の内乱について。
�Ε僖�ス・ロマーナ ローマ人の物語VI (1997年)
  ローマを帝政に移行させた初代皇帝アウグストゥスが、パクス・ロマーナの実現を進める過程。
�О�名高き皇帝たち ローマ人の物語VII (1998年)
  ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの4皇帝の功罪。
�┫躓,塙酩� ローマ人の物語VIII (1999年)
  ユリウス・クラウディウス朝断絶後の帝国の混乱とフラウィウス朝の成立、ネルウァまで。
��五賢帝の世紀 ローマ人の物語IX (2000年)
  五賢帝のうちトライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウスの3皇帝の時代。
��すべての道はローマに通ず ローマ人の物語X (2001年)
  ローマのインフラストラクチャーについて書き尽くした番外編。
��終わりの始まり ローマ人の物語XI (2002年)
  哲人皇帝マルクス・アウレリウス,五賢帝後のローマと内乱、セプティミウス・セウェルスの時代。
��迷走する帝国 ローマ人の物語XII (2003年)
  セウェルス朝後半及び軍人皇帝時代のローマ帝国。
��最後の努力 ローマ人の物語XIII (2004年)
  ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの時代。
��キリストの勝利 ローマ人の物語XIV (2005年)
  コンスタンティウス2世とユリアヌスの時代からテオドシウスの時代まで。
��ローマ世界の終焉 ローマ人の物語XV (2006年)
  ローマ帝国の東西分裂と西ローマ帝国の滅亡、ユスティニアヌスの再征服による荒廃。

● 評価
小説家である著者によって古代の英雄達が魅力的に描かれており、ベストセラーとなった。多くの日本人読者に、古代ローマについて関心を抱かせた功績は大きい。ただし、「ローマ史をよく知らぬ読者に、本シリーズが歴史的事実そのままの記述という印象を与えている」と指摘する専門家もいる。

ティベリウスやドミティアヌスなど、一般にやや評価の低い人物への再評価を試みた一方で、ヌマンティア戦争やブーディカによる反乱などのローマにとって都合の悪い事跡への言及は少ない(各巻ごとに決まったテーマがあり、主軸となるものを中心として筆を進められ、テーマから外れる事物に関しては触れる程度となっている。)。

シリーズ1作目の『ローマ人の物語�� ローマは一日にして成らず』は新潮学芸賞を受賞した(1993年)。


●装丁
基本的に単行本各巻の表紙には、その巻に登場する英雄の彫像の写真が用いられている。一方文庫版では、扱っている時代のローマコインの写真が用いられている。


● 関連書籍
このシリーズ終了後の2008年から2009年にかけて、「ローマ亡き後の地中海世界」(上下巻)が刊行された。「ローマ人の物語」以降の時代の地中海世界を、イスラム海賊との攻防を軸に描いたものである。厚めだが装幀も同じスタイルであり、本編の続編とみなされる。

また、新潮社から『塩野七生「ローマ人の物語」スペシャル・ガイドブック』、『塩野七生「ローマ人の物語」の旅』が出版されている。集英社からは、関連した内容の『痛快!ローマ学』(後に新版が『ローマから日本が見える』と改題されて出版)が書き下ろされている。こちらものちに文庫化した。


● 脚注
^ なお、日本の書店や図書館などでは歴史書として扱われている場合もあるが、塩野本人は「HISTORIA」(歴史)ではないと述べており、ラテン語での表題も "RES GESTAE POPULI ROMANI"(「ローマの人々の諸行」)としている。出版元の新潮社も、読まれ方は別として、本シリーズを基本的には「小説」として扱っている。



《代表作》
★ 小説
「ローマ亡き後の地中海世界」 上下 (2008−09年 新潮社)
『ローマ人の物語』のその後を描く。
「ローマ人の物語」(1992年から2006年 新潮社)

古代ローマの興亡を1992年から2006年までの足掛け15年間にわたり毎年1巻を上梓し、書き綴る大長編。著者の代表作である。全15巻、新潮文庫でも分冊され刊行中。

『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 上・下』 (1980年 中央公論社、1989年 中公文庫、2009年 新潮文庫全6冊)
ヴェネツィア共和国の千年の興隆

『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡』 (1987年 中央公論社)
ルネサンス期のイタリアを生きた現実主義者マキャベリの生き様とその生きた時代を描く。

『神の代理人』(1972年 中央公論社)
ルネサンス期に活躍したローマ法王5人の列伝。

『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』 (1970年 新潮社)

『ルネサンスの女たち』(中央公論社、1969年)
イザベラ・デステ、ルクレツィア・ボルジア、カテリーナ・スフォルツァ、カテリーナ・コルネールの4人の女性の生涯を描いた連作。


※以上すべて文庫化、「塩野七生ルネサンス著作集」でも刊行(新潮社 2001年)


『コンスタンティノープルの陥落』 (1983年 新潮社、1991年同文庫)/ 〔英訳〕 The Fall Of Constantinople (2005/07) ISBN 1932234179
15世紀後半、キリスト教世界とメフメト2世率いるオスマン帝国による、コンスタンティノープルをめぐる争いを描く。(コンスタンティノープルの陥落を参照)

『ロードス島攻防記』(1985年 新潮社、1991年同文庫)/ 〔英訳〕 The Siege of Rhodes (2006/11) ISBN 1932234322
1522年、聖ヨハネ騎士団と大帝スレイマン1世率いるオスマン帝国との、ロードス島をめぐる争い

『レパントの海戦』(1987年 新潮社、1991年同文庫)/ 〔英訳〕 The Battle of Lepanto (2007/1) ISBN 1932234330
1571年、ヴェネツィア、スペインを中心とする西欧連合艦隊とオスマン帝国との間で繰り広げられたレパントの海戦

『愛の年代記』 (新潮社 1975年、新潮文庫 1978年)
『緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件』 (1993年 朝日文庫)
『銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件』 (1993年 朝日文庫)
『黄金のローマ 法王庁殺人事件』 (1995年 朝日文庫)

★エッセイ
『イタリア遺聞』
『サイレント・マイノリティ』
『イタリアからの手紙』
『おとな二人の午後』
『ローマから日本が見える』(2005年、集英社インターナショナル)
『男たちへ』


●受賞
1970年 毎日出版文化賞
1982年 サントリー学芸賞『海の都の物語』
1983年 菊池寛賞
1993年 新潮学芸賞『ローマ人の物語�汽蹇璽泙楼貽�にしてならず』
1999年 司馬遼太郎賞
2000年 イタリア共和国功労勲章(グランデ・ウッフィチャーレ章)
2005年 紫綬褒章
2007年 文化功労者

●舞台化
『緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件』と『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』 が宝塚歌劇団によって舞台化された。



2009年06月08日(月) 歴史探訪:古代ローマ史(2) 帝政の歴史

《ローマ帝政の開始》 ローマ帝国の歴史  帝政 前27‐後476年





紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者ブルータスらの打倒で協力したオクタウィアヌスとアントニウスが覇権を争い、アントニウスはエジプトの女王クレオパトラと結んでローマに反旗をひるがえした。


これに勝利(前31年のアクティウムの海戦)を収めたオクタウィアヌスは紀元前27年元老院より「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を贈られ、帝政を開始した。初代ローマ皇帝となったアウグストゥス帝は,カエサルが元老院(共和政の中枢)を無視したため暗殺されたことにかんがみ,元老院とプリンケプスとの共同統治という政治形態を採用したが,実際はプリンケプスが絶大な権力を持ったので,プリンキパートゥス(元首政)は事実上の帝政にほかならなかった。なお,August(8月)は彼の名に由来。

以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝は実質的には帝政であったにもかかわらず、表面的には共和政を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。それゆえ,この時期の帝政を一般に「プリンキパトゥス」(元首政)と呼ぶが,彼らが即位する際、元老院が形式的に新皇帝にプリンケプス(元首)の称号をおくるという形式をとった。かつて共和政を主導した元老院は単なる協賛機関に過ぎなかった。

皇帝には下記のような称号と権力が付与された。

・「アウグストゥス」と「カエサル」の称号。
・「インペラトル」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー(・ 皇帝)」の語源)。
・「プリンケプス」(市民の中の第一人者.元首と訳す)の称号。本来は元老院において最初に発言する  権利を有する第一人者の意味。
・「執政官命令権」。首都ローマとイタリアに対して政治・軍事的権限を行使。
・「プロコンスル命令権」。属州の総督任命権など。
・「護民官の職権」。実際に護民官には就任していないにもかかわらずその権限を行使した。これには身  体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇  帝はこの権限を利用して国政を自由にあやつった。
・「最高神祇官」の職。多神教が基本のローマ社会において祭事を主催する宗教上の最高職。



● ユリウス・クラウディウス朝と内乱期

このようにアウグストゥス帝(前27‐後14年)の皇帝即位とユリウス・クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、ティベリウス帝の死後あたりから、政治、軍事の両面で徐々に悪い変化が起こってくる。軍事面では、共和制末期からの自作農の没落の結果、徴兵制が破綻し、代わって傭兵制が取られたが、それは領土の拡大とあいまって帝国内部に親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促し、それは取りも直さず即物的な力を持った潜在的な政治集団の発生に繋がった。

やがて世襲の弊害により、暴君カリグラ帝(位37‐41年)やネロ帝(位54‐68年.64年のローマ大火を機にキリスト教徒迫害)など無軌道な皇帝が登場し、複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生、結果、ユリウス・クラウディウス朝からフラウィウス朝のわずか100年の間に、3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ、不自然な形での皇帝の交替が頻発するようになる。

ただし、この時期には、ローマは土木から産業に至る高度な技術を持っていたことで、また合理的な統治機構を持っていたことで、地中海を中心としたヨーロッパ世界の統一とあいまって、国力は躍進を続けており、こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかったが、後の時代に帝国を著しく弱化させる主因の一つになっていく。

また、悪くしたことに時代が進むにつれて、はじめは俸給や市民権の獲得を目的に、後期にはイタリア人の惰弱化により、兵士に占めるゲルマン人など周辺蛮族の割合は増加し、それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。

時系列的に起きたことを追うと、皇帝となったユリウス・クラウディウス家の子弟はある者は善政を、しかしある者は暴政を行い、その多くが暗殺や反乱によって非業の死を遂げた。その後、ネロ帝の暗殺を機に帝位継承戦争が発生、一時帝国は複数の軍団に分かれて争い、ブリタニアなどの属州の反乱も誘発したが、やがてウェスパシアヌス帝(位69‐79年)とその子のティトゥス帝(位79‐81年)の善政で,ローマは小康状態を取り戻した。ティトゥス帝が即位した79年にヴェスヴィウス火山が大噴火し,ポンペイ市(ナポリ東南)が埋没。またこの帝の治世にコロッセウム(円形闘技場),大浴場などが完成している。



● 五賢帝の時代(96‐180年)

こうした曲折を経つつも、1世紀末から2世紀にかけて優れた5人の皇帝が輩出し,ローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。

彼らは生存中に秀材を探し,養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス・クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。またこの時代には、法律(ローマ法)、道路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内の流通と経済が盛んになった。

96 - 98年 ネルウァ帝
  後継者にトラヤヌスを指名。
98 - 117年 トラヤヌス帝
 「至高の皇帝」。ダキア(現ルーマニア)を征服し,ローマ最大の版図を現出。東はメソポタミア、西  はイベリア半島、南はエジプト、北はブリタニア(現イギリス)にまでおよんだ。
117 - 138年 ハドリアヌス帝
  内政の整備と、ブリタニアに「ハドリアヌスの長城」を建設。ローマ最大の平和が現出。
138 - 161年 アントニヌス・ピウス
  財政の健全化に努める。
161 - 180年 マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝
 「哲人皇帝」。ストア哲学を学び,『自省録』を著す。晩年は飢饉やペストの流行,ゲルマン人の侵入  に悩まされ、各地を転戦中、陣中で病没し,不肖の子コンモドゥスが即位した。五賢帝時代の終結。

五賢帝の時代を過ぎると各地で反乱が頻発するようになった。これに対処すべく、212年、カラカラ帝は「アントニヌス勅令」によって帝国全土の自由民にローマ市民権が与え,この結果,領民の間にはローマ人と外国人の区別がなくなり,ローマは名実ともに世界帝国となった。これによってローマの都市国家的要素は全て消滅し、反面、貧困なローマ市民を大量に受け入れることとなり、原則的に権利の上では平等であったローマ市民権保持者の間にも階層化が急速に進んだ。



● 混乱と分裂、キリスト教

いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、反乱の増加に伴って、軍隊が強権を持ち皇帝の進退を左右した。約50年間に26人[4]が皇帝位に就いたこの時代は軍人皇帝時代と称される。

パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方ごとの自立が促進された。


284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首、つまり終身大統領のような存在であった皇帝を、オリエントのような専制君主にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。またテトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、そうした軍団はしばしば皇帝に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。

しかし、前世紀から顕著であったローマの経済の衰退はこの時期一層深刻化、ディオクレティアヌスは税収の安定と離農を阻止すべく、大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、彼の下でローマは古代から中世に向けて、外面でも内面でも大きな変化を開始する。

ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して再び単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められた(380年)。

コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブル)に遷都し、コンスタンティノポリスと改称して国の立て直しを図った。しかしコンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化、特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった。



● 帝国の東西分裂

395年、テオドシウス1世は死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはなく、対照的な運命を辿ることになった。そのため、今日ではこれ以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼ぶ。ただし、当時の意識としては別の国家となったわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国が西の皇帝と東の皇帝の統治管区に分割されているというものであった。


●西ローマ帝国(395‐476年)


ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地としての首都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され滅亡した。その後もガリア地方北部にシアグリウス管区がローマ領として存続したがクロヴィス1世による新興のフランク王国領に編入され消滅した。旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。


●東ローマ帝国(395‐1453年)

東ローマ帝国は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。
東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、西ローマの消滅後は唯一のローマ帝国政府として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。紆余曲折を経ながらも、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまでの1000年にわたってローマ帝国の正統な後継者として存続した。


● ローマ帝国の継承国家

西ローマ帝国滅亡後のゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。しかしフランク王国がカロリング朝の時代を迎え、カールが800年教皇レオ3世より戴冠され帝位に就いたことで、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実とも離脱した(西ローマ帝国の復興)。ここに後世,神聖ローマ帝国(962‐1806年)と呼ばれる政体に結実するローマ皇帝と帝権が誕生し、1806年まで継続した。

1453年に東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国のスルタンのメフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。ただしバヤズィト2世のように異教徒の文化のオスマン帝国への導入を嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。

ロシア帝国はローマ帝国の後継者をもって任じ、皇帝(ツァーリ)を自称するも、国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「モスクワ大公」として扱われている。その後、国際的に皇帝と認められるようになるが、ローマ帝国の継承者としての皇帝という意味あいは忘れ去られていた。


● ローマ帝国の滅亡

ローマ帝国という名称を名乗る国家としては、神聖ローマ帝国が1806年の帝国解散の詔勅による滅亡まで存続しているが、既にこの当時はドイツ民族による大小の国家連合体となって長い時間が経過しており、帝国解散の詔勅自体が「ドイツ帝国」の名で出されている上、旧東西ローマ帝国の滅亡時に正統な後継国家として認証されている訳ではない、自称ローマといえる。

また東ローマ帝国はギリシア系住民が多い地域を支配していたために、古代ローマ時代に比べてギリシア文化の影響力が強くなり、古代以来の統治機構がイスラムの侵攻などによって崩壊したことなどから、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。そのため同時代の西欧からも「ギリシア人の帝国」と見なされ、後世からも「ビザンツ帝国」(首都コンスタンティノープルの旧名ビザンティウムにちなむ呼称)と呼ばれる場合が多い。

そのため単に「ローマ帝国の滅亡」と言ったときには、476年の西ローマ帝国の滅亡を指すのが一般的である。

ただし、東ローマ(ビザンツ)帝国は分裂以前のローマ帝国から断絶なく連続している政体であり、西ローマ帝国の滅亡後も神聖ローマ帝国成立までは西欧からローマ帝国とみなされていた。いつの時点をもってビザンツ帝国へと変質したのか明白に定義づけができないため、冒頭で述べたエドワード=ギボンのように、東ローマ帝国の滅亡(1453年)をもってローマ帝国の滅亡と考える学者も多い。

一方で古代ローマがローマたる所以はローマ市民と元老院にあるという考えから、ユスティニアヌス1世
(位527‐565年)の征服事業によって東ローマ帝国がローマ帝国旧領を奪還(555年ゲルマン系の東ゴート王国を滅ぼし,イタリアを征服)した時期を、ローマ帝国(ローマ世界)の滅亡と考える見方もある(「ローマ人の物語」の著者の塩野七生など)。



2009年06月07日(日) 歴史探訪: 古代ローマ史(1) 王政から共和政へ

《古代ローマ史》





◎【王政ローマ】 Regnum Romanum   前753 〜前510

王政ローマは、古代ローマ当初の政体である王政期を指す。のちに共和政ローマ(前509〜前27)、帝政ローマ(前27〜後476)と変遷する。王政期は共和政の初期とあわせて、歴史よりも伝説の時代と捉えられている。


● 王政ローマの歴史

伝承では後述するように紀元前753年に初代ローマ王ロムルスが建国し、紀元前510年に第7代目の王タルクィニウス・スペルブスが追放されるまで続いたことになっている。ただし、当時のローマは文字を持っていなかった可能性があり、王の存在は主に口承で伝えられ、確実な資料がないとされてきた。ローマという都市名も初代王ロムルスにちなむとされるが、この王については存在すら疑問視される向きもある。ローマという言葉は、エトルリア語またはサビニ語で意味のある言葉だという見解がある。


「王」はラテン語で rex と綴る。伝統的に王のうち、ロムルスを含め最初の4代はラテン系またはサビニ系で、あとの3代はエトルリア系とされている。しかし、これらの王には存在すら疑問視される者もいるし、その人数も定かではない。実際にいた初期の王の事績を何人かの王たちのものとして記録しているという研究者もいる。また末期のエトルリア系の王は4人以上いたと考える研究者もいる一方、かつてはタルクィニウスの名を持つ2人の王は実際は1人の王の事跡を分けたに過ぎないと主張されてもいた。しかし考古学的な考証から、最後の3人の王に関する伝承は、変形されているとしても、何らかの歴史的事実を反映していると考えられている。


●ローマの建国伝承

ローマ建国までの伝説は、次のようになっている。

トロイ戦争で敗走したトロイ人の末裔(アエネイアスの息子アスカニウスら)が、イタリア半島に住みついた。この都市をアルバ・ロンガという。時代が下り、王の息子アムリウスは兄ヌミトルから王位を簒奪する。ヌミトルの男子は殺され、娘レア・シルウィアは処女が義務付けられたウェスタの巫女とされる。ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マルスが降りてきて彼女と交わった。シルウィアは双子を産み落とすが、怒った叔父の王は双子を川に流した。双子は狼に、その後羊飼いに育てられ、ロムルスとレムスと名づけられた。成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力する。兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとする。しかし兄弟の間でいさかいが起こり、弟レムスは兄ロムルスに殺される。この丘、パラティヌスに築かれた都市がローマとなった。こののちローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市の領域とした。


●初代王ロムルス Romulus  ※ローマの語源はロムルスに由来

ローマ建国伝説によると、紀元前753年4月21日にロムルスが王になり、ティベリス川(テヴェレ川)の畔に都市ローマを建設した。人口数千人。当時のローマは丘2つを巡る防塞を設けただけの小村だった。この最初のローマはラテン人の国だった。

やがて、近隣の部族と争いが起きた。ローマが隣のサビニ人の丘の村娘たちを祭りに招待したとき、娘たちを急に抱きかかえて自宅まで逃げてそのまま帰さなかったのである。当然、戦となった。しかし娘たちは隣の丘の男たちに、自分たちは妻としての扱いを受けており、決して虐げられていなかった為、娘たちが争いをやめて欲しいと懇願した。サビニ人の王は和平を承諾し、さらにはロムルスのすすめで一緒にローマに住み共同統治することになった。ローマが初めて領土を拡大した瞬間である。
サビニ人のタティウス王はこののちすぐに死に、その後のローマの指揮はロムルスが行った。
紀元前715年のある日、ロムルス王が閲兵中、突然、目の前も見えないほどの大雨が降った。雨がやんだのち、兵たちが玉座を見ると、王の姿はどこにもなかった。八方探しても見つからず、このとき王は死んだとされた。



● 王政の終焉

王政への反省から紀元前509年から共和政がしかれ、2名の執政官(コンスル)がローマの政治をとりしきった。最初の執政官には、演説を行ったブルートゥスと、自殺したルクレツィアの夫コラティヌスが選出された。この後の歴史は、共和政ローマの歴史となる。
ローマ人の間には「王を置かない国家・ローマ」の心情が刷り込まれており、特に東方オリエントの「専制君主」的な「王」に対して激しい拒絶反応を示すようになった。


● 制度(元老院と民会〈平民会.市民集会)の由来

初代ロムルス王以来、多くの一族を抱える有力者は貴族(パトリキ)として終身の元老院を構成し、王の助言機関とした。

ローマに見られる特徴として、他国から一族郎党を引き連れて移民してきた者や、戦争で破った敵国の有力者も一族ごとローマに強制移住させ、代表者を元老院議員にすることで味方に取り込み勢力基盤としたことが挙げられる。これは、エトルリア人都市国家やアルバ・ロンガなどのラテン族都市国家に囲まれた小さな寒村ほどの規模から出発した新生ローマでの緊急課題は人口増加の必要であり、人口が増えないことには自衛のための兵力すら維持できなかった。実際、このローマの性格こそ、後にローマを強大にする原動力であったと認められている。

さらに、奴隷や一時居住者以外のこれら自由民は、ローマ市民として王の選出を含む国家の最高議決機関である民会(平民会)で投票する権利を与えられた。もっとも、この市民による王の選出は、共和政期に共和政の歴史を古くに求めるために作られた伝説とする説もある。ローマ建国の王であったロムルスも、治世の途中でこの民会の選挙で選出(この場合信任)され、改めて選挙で選ばれて王となった。王の任期は終身であるが、原則として世襲制はとらない。王の最大の責務はローマの防衛であり、そのため自由市民が輪番で兵役を勤めるローマ軍全軍の指揮を担当した(全軍とはいっても草創当時は2,000名程度であったと推測される)。


●共和政の開始

紀元前509年、エトルリア人の王タルクィニウス・スペルブスを追放し共和政をしいたローマだが、問題は山積していた。まず、王に代わった執政官が元老院の意向で決められるようになったこと、またその被選挙権が40歳以上に限定されていたことから、若い市民を中心としてタルクィニウスを王位に復する王政復古の企みが起こった。これは失敗して、初代執政官ルキウス・ユニウス・ブルートゥスは、彼自身の息子を含む陰謀への参加者を処刑した。ラテン同盟諸都市やエトルリア諸都市との同盟は、これらの都市とローマ王との同盟という形であったため、王の追放で同盟は解消され、対立関係が生じた。

追放されたタルクィニウス王とその息子たちは王政復古の計画が失敗したことを知ると、同族のエトルリア諸都市から兵を借りローマを攻めた。市内に住んでいたエトルリア人はローマを去り、国力は低下した。一時期、先王タルクィニウスは市を包囲したが、ローマが敗戦を認めないため、攻め込んでも犠牲の多い割に得るものが少ないと考え去っていった。 その後、ローマはエトルリアから学んだ技術を独自に発展させるようになり、徐々にそれを吸収していった。

前4世紀アルプス山脈の北方からケルト人が南下してきた。ケルト人はローマ人からは「ガリア人」と呼ばれ、鉄の剣とガエスムという投槍を装備し、倒した敵の首を斬るという習慣があった。ガリア人には重装歩兵によるファランクス戦法は通用せず、メディオラヌム(現在のミラノ)を根拠地として、前390年にローマを襲撃して略奪を働いた。この事態はローマ将軍マルクス・フリウス・カミルスによって打開された。



● 身分闘争とイタリア半島の統一

相次ぐ戦争の中で、戦争の主体となった重装歩兵の政治的発言力が強まり、重装歩兵部隊を支えたプレブス(平民)が当時政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して政治参加を要求するに至った。いわゆる「身分闘争」の開始である。貴族は徐々に平民に譲歩し、平民の権利を擁護する護民官を設置し、十二表法で慣習法を明文化した。さらに、前367年のリキニウス・セクスティウス法でコンスル(執政官)の一人をプレブス(平民)から選出することが定められ、前287年のホルテンシウス法によって、平民会の決定が、元老院の承認を得ずにローマの国法になることが定められた。これにより、身分闘争に終止符が打たれた。 一方でローマはイタリア半島各地の都市の制圧に乗り出した。イタリア半島南部にはアッピア街道が建設され、南部遠征の遂行を助けることになった。この後も、ローマは各地に向かう交通網を整備し、広域に渡る支配を可能にしていった。前272年、南イタリア(マグナ・グラエキア)にあったギリシア人の植民市タレントゥムを陥落させ、イタリア半島の統一を成し遂げた。


● ポエニ戦争

イタリア半島の統一を果たしたローマは、西地中海の商業覇権をめぐって、紀元前264年よりカルタゴとの100年以上に渡る戦争へ突入した。これをポエニ戦争という。第一次ポエニ戦争でローマはシチリア島を獲得し、この地を最初の属州とした。紀元前218年より始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルにカンネーの戦いで大敗したものの戦況を巻き返し、スキピオの指揮のもとザマの戦いでカルタゴに圧勝する。この際、カルタゴ・ノヴァ(現スペインのカルタヘナ)などイベリア半島南部におけるカルタゴの拠点を奪い、西地中海の征服を果たした。また、カルタゴを支援したマケドニアにも遠征を行い、イリュリアやギリシアを支配下に置いた。この第二次ポエニ戦争でカルタゴは多大な打撃を被ったが、ローマ内部ではカトーを中心に対カルタゴ強硬派がカルタゴを滅ぼすことを主張していた。前149年より第三次ポエニ戦争が行われ、前146年にカルタゴはついに滅亡した。


● 東方への進出

第二次ポエニ戦争に勝利してカルタゴの脅威が減少すると、イタリア半島外へ勢力を拡大させた。

第一次マケドニア戦争 紀元前215 - 紀元前205年 フィリッポス5世がハンニバルと同盟し戦う。
シリア戦争 紀元前192 - 紀元前188年 セレウコス朝シリアに勝利し小アジア諸国と同盟を結ぶ。
第二次マケドニア戦争 紀元前200 - 紀元前196年 フラミニヌスによりローマ勝利。
第三次マケドニア戦争 紀元前171 - 紀元前168年 マケドニア王ペルセウスが敗北し滅亡。
第四次マケドニア戦争 紀元前150 - 紀元前148年 マケドニア、ローマ属州となる。


● 属州と共和政の変質

イタリア半島の制圧までのローマは、戦時に同盟国に兵力と物資の提供を求め、敗戦国に賠償を課したり、土地を奪って植民したりしたが、組織だった徴税制度は設けなかった。しかし、第一次ポエニ戦争によってシチリアとサルディニアを得ると、属州を設けて納税義務を課し、総督を派遣した。属州から運ばれる穀物は、ローマ市の急激な人口増加を支えた。制度のうえでは、属州統治においてもローマは都市の自治を尊重した。しかしその一方、派遣された総督は、ローマの支配を確保する以外の義務や束縛を持たなかったため、収奪のみを仕事とした。

搾取とはまた別に、従属した諸国と都市の有力者は、ローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策とした。結果として、少数の有力政治家の収入と財産が、国家財政に勝る重要性を持ち、ローマの公共事業は有力政治家の私費に依存することになった。ローマ市民は、こうした巨富の流出にあずかる代わりに、共和政ローマの政治家に欠かせない政治支持を与える形で、有力者の庇護下に入った。この庇護する者をパトロヌス (patronus)、庇護される者をクリエンテス(clientes)という。もっともこのパトロヌス・クリエンテスの関係は、ローマの最初期からの伝統であり、帝政期まで長く続く。

対極的に没落の運命をたどったのは、ローマ軍の中核をなしていた自由農民であった。連年の出征によって農地から引き離され、また属州より安価な穀物が流入したため次第に没落していく。この状況を打開するために、グラックス兄弟が、平民の支持を得て、土地分与の改革を実施しようとした。しかし紀元前133年、兄ティベリウスが暗殺された。紀元前123年、弟ガイウスは反逆罪の咎を受けローマを逃げ出すが逃げ切れず自決。改革は失敗した。元老院はガイウス・グラックスの仲間をも処刑。これ以後、共和政ローマは、暗殺と殺戮によって歴史が紡がれていく。


● 内乱の一世紀

第三次ポエニ戦争の後も対外征服戦争および反ローマの反乱などによりローマの軍事活動は止むことがなかった。(ヌマンティア戦争、ユグルタ戦争、同盟市戦争、ミトリダテス戦争、セルトリウスの反乱、3次に渡る奴隷戦争など)。また、初めてゲルマン人がローマ領内へ侵入したのもこの時期であり(キンブリ・テウトニ戦争)、帝政ローマ期を通じローマを悩ませることとなった。

こうした状況では、優れた指揮能力を持つ者を執政官に選ぶ必要があった。その顕著な例が平民の兵士出身のガイウス・マリウスであった。彼は長期にわたる征服戦争への動員で没落した市民兵の代わりに、志願兵制を採用し大幅な軍制改革を実施した。この改革はローマの軍事的必要を満たし、かつ貧民を軍隊に吸収することでその対策ともなったが、同時に兵士が司令官の私兵となって、軍に対する統制が効かなくなる結果をもたらした。

はじめに軍の首領としてローマ政治に君臨したのは、マリウスとスッラであった。彼らの死後、一時的に共和政が平常に復帰したが、やがて次の世代の軍人たちが登場した。ポンペイウス、カエサル、クラッススは、前60年に元老院の権威に対抗して第一回三頭政治を行なった。クラッススの死後、残る二人の間で内戦が起きた。地中海世界を二分する争いは、前48年にポンペイウスの死で終結した。

カエサルは、紀元前45年に終身独裁官となったが、王になる野心を疑われ、前44年3月15日に共和派のブルータス,カッシウスらによって暗殺された。この後、カエサル派のオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスが、前43年第二回三頭政治を行なった。カエサルの遺言状で相続人に指名されたオクタウィアヌス(カエサルの姉の息子)は紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合海軍に勝利し、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得て、共和政の形式を残しながら元首政(事実上の帝政)を開始した。


● 政治体制

共和政下のローマの政治体制は元老院・執務官(コンスル)・平民会の三者によって成り立っていた。

最も重要な政務官は執政官で、その命令権(インペリウム)は王の権力から受け継がれたものともいわれる。任期は1年で2名が選ばれた。執政官に欠員ができたときには補充選挙が行われるが、新たな執政官の任期は前任者のものを引き継いだ。

元老院は王政期から存在したとされ、その構成員は当初は貴族(パトリキ)のみであった。のちに元老院議員の資格は政務官経験者となり、平民(プレブス)にも開かれ、後世になってそうした平民は平民貴族と呼ばれた。前述のノビレスは、そうした平民貴族とパトリキの総称である。

民会にはいくつかの形式があった。当初は「クリア」と呼ばれる単位によって行なわれるクリア民会が行なわれていた。やがて兵員による「ケントゥリア」を単位とするケントゥリア民会が中心となり、以後最も権威ある民会として機能しつづけた。この他、居住地である「トリブス」を単位とするトリブス民会(平民会)も行なわれるようになり、ケントゥリア民会にも一定トリブスが導入された。

当初のパトリキ(貴族)の支配からノビレス(新貴族)の支配に変わるまでにローマではパトリキとプレブス(平民)の「身分闘争」が行われたといわれている。戦術の変化などによって重要性が増しながらも政治的発言権の小さかったプレブスの間では、パトリキに対する反発が蓄積していた。こうした下層プレブスの不満を背景に、上層プレブスはパトリキから政治参加への妥協を勝ち取り、パトリキと一体化してノビレス(新貴族)を構成するようになった。この過程で紀元前494年にプレブスの権利保護を目的に護民官が設置され、ローマの政務官の一つとなった。護民官はプレブスのみが参加する平民会で選出され、他の政務官の決定や決議を取り消す権利(拒否権)を持った。また、護民官の身体は不可侵とされた。

この他特徴的な政務官としては、非常時のみに選出される独裁官(ディクタトル)が挙げられる。執政官2名の合議によって選出され、他の政務官と異なり同僚制を取らず1人のみが任命される。他の政務官の任期が1年であるのに対し、独裁官の任期は6か月と短く非常事態を打開したのち任期途中で辞任することもあった。独裁官は他の政務官全てに優越し、護民官の拒否権の対象ともならなかった。独裁官は副官として騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)を任命した。


カルメンチャキ |MAIL

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