-殻-
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何とか日本に帰ってきました。
少し間が空いてしまったけど。 しばらくは更新が不定期になってしまいます。 ネットへのアクセスが今ちょっとできない状態で、この文章もネット喫茶から書いています。暇を見つけて、空いてしまった分も随時アップしていきます。 久しぶりの日本で、もっと戸惑うかと思ったけど、 一瞬で慣れてしまいました。 やっぱりどこをどういじくっても、僕は日本人なのですね。
この日記は、この日に空港の中のカフェで、眠い目をこすりながらドーナツをかじりつつ書いたものです。
今読み返してみると、何が言いたいのかよくわからなかったりしますが、それもそのままここに載せることにしました。「その時」発した言葉にあえてこだわろうと思います。これをいずれ、今の自分の立場と視点から再分析してみたいと思っています。 ***** 朝8時10分。 JFK空港はまだ閑散としている。 同じ研究室の韓国人の友人にここまで送ってもらって、チェックインしようとしたら、まるでアメリカ最後の置き土産のように「記録がありません」ときた。まあ、そんなことはびっくりするほどの問題じゃない。 さっさとカスタマー・カウンターでクレームをつけ、チケットを手に入れた。こういうことに全く動じなくなっている自分に今更気付く。ちょっとしたことで、自分がこの1年にずいぶんとタフになったような気がする。相変わらず気は弱いつもりだったのだが。 セキュリティは厳しい。この時間は人が少ないせいか、SPがよく目立つ。 まず目つきが違う。私服・制服・MP織り交ぜて結構な人数だ。 銃(ライフル)をハダカで持ち歩いていたりするところはさすが、というべきか。 「見せる」ということは抑止力のひとつになる。もちろん国家権力あってのことだが。 ハーフ&ハーフをたっぷり入れたコーヒーの味にもすっかり馴染んでしまった。ホウルミルクを入れると重い気すらする。 ここ数日マトモに眠っていないのに、妙に目が冴えている。忙しすぎて、疲れすぎて、就職の緊張も手伝って張り詰めているんだろう。日本にもどったら急に脱力してしまいそうで怖い。 しかし、こんな状況になってもまだ、留学期間を終えたという実感がない。近年の僕は現実感を失っているのか、或いは「変わっていくこと」を完全に受け入れたせいなのか、たじろがずに動いていく。 こういう自分が不思議だ。こんなことはできないと思っていた。悲観主義ゆえだ。でも、こうしたことでも僕は悲観に救われている。現実としてそれが起こると、イメージよりも簡単に思えてしまう。そして調子に乗る。だがまだ悲観的だ。変わらない。 おそらく僕は、それで自分を救う術を見つけ、どこかで計算した上で悲観している。本来のリアリスティックな面を、悲観によって逆説的に補強しているのだ。そんな作業が無意識のうちに行われているようだ。我ながら興味深い。 自分という存在は面白い。他人を観察するよりも面白い。 唯一の同時存在性を絶対的に有する存在。観測と発現が同時性を持つ場所。多重存在を認識できるただひとつの空間。実在。実存。エゴとイド。理性と感情。表と裏、内と外、右と左。陰と陽、正と負。 僕という存在は、僕にとっては「矛盾が矛盾なく多重的に存在しうる可能性の海」そのものだ。それを感じることができるのは自分の観測によってのみだ。それをナルシズムと言ったり、エゴイズムと言ったりする人もいるだろうが、根本にある自己中心性は個が信じられる唯一の「不変性」だ。それを無視して関係性を語ることは僕にはできない。 ぼくはただ僕としてここにあり、そこを存在の基盤として僕の認識宇宙は形作られているのだから。実在の根拠は自分だ。だから僕は今日も僕を見つめるのだ。そこから他者を認識するために。 さて、もうすぐ僕はこの国から出なければならない。 この国が僕に与えてくれたものは計り知れない。 いや、この国が、というよりは、外から見た日本というコミュニティが、だろうか。 いずれ僕は、また何かの形でこの国の土を踏むだろう。 その時に、僕は一体何を思うんだろう。 フライトインフォメーションが、僕の乗る飛行機を告げる。
僕らはみんな一人だ。
でも、みんな等しく一人だ。 だから、ここにいられる。 ただひとつ、孤独だけを共有しながら。
あーあ、もうダメだよ。
彼を怒らせちゃうなんて、あんたも大したもんだ。 そりゃもう、人間としてダメ。 って思うくらいいいひとと、イヤなひとっていません?
理由なんてない。
悲しくはない。 嬉しくもない。 痛みじゃない。 悩みじゃない。 淋しくない。 優しくない。 なのに、ただ泣きたい。
自分を融かしてしまえるのなら、
あなたも融かしてしまえるのなら、 ふたりでどろどろになって、 混じり合って、 ひとつになってしまおう。
この国のマンデリンは、ヘーゼルナッツの香りがするのか???
愛してるって、いくら書いてもホントにはならない。
それでも口で言うよりはホントに近い。 もうわかんないんだ、愛してるってなんなんだ。 そんな基準なんて誰も持っちゃいない。 どこからが愛で、どこまでが恋で、そんなこと誰も知らない。 そんな些細な定義にこだわって何か変わるの? ただそう感じたからそう言う、それじゃ何か問題があるの? だって他にどう言えばいいの? 僕らは驚くほど、こういう内側からこぼれてくる感情を伝える言葉を持っていない。 なんて不自由なんだろう。 今ここにあるこの気持ちを、そのままあなたに伝えること、 たったそれだけのことができない。 ここにあることは僕がよく知ってる。 だってここにあるんだもの。 できることなら、今すぐ僕の胸を引き裂いてその気持ちをあなたの前に捧げてあげたい。 それであなたが本当を知ってくれるのなら。 でも僕は、そんなことをしても意味がないことも知っている。 だから拙い言葉でも吐き出し続けて、ほんの少しずつでも本当に近付き続けることを選ぶ。 いつかあなたに伝わりますか? 今ここにある、今僕が感じているこの気持ちが、あなたに届く時は来ますか? もちろんそれと同時に、あなたの気持ちが僕に伝わるという保証もないのだけれど。
あなたは、本当に自分が見えていないんですね。
意識的にやっているんじゃないんですね。 こんな状況でそれでもまだ、そんなことを言っているなんて。 もう哀れで仕方ありません。 その口を閉じたらどうですか? 何も言わなければ、少なくともこれ以上みっともない姿を晒すことはなくなりますよ。 もちろん、良くもなりませんけど。 って、思っただけで口に出すことを止めた僕はちょっとだけ大人になったかもって思います。いや、えと、本気で言いそうになったんですけど。
滅多なことで泣かない君が、電話越しに泣いた。
いや、僕が泣かせた訳じゃない。うんと、厳密に言えば泣かせたのかな? 僕の彼女は看護婦なんだけど、仕事柄どうしても腰を酷使する。 彼女は最近ヘルニアを患って、時折手足の痺れに悩まされている。 僕も腰が悪い。これも仕事柄。 屈んだ姿勢で長時間集中して細かい作業をするので、自然と腰に負担がかかる。 だからその苦しみはとてもよくわかる。 泣いたのは別に腰が痛くて、じゃない。 ここ数日彼女の腰の調子はひどく、手足がずっと痺れっぱなしだそうだ。 僕は彼女に、勤務を誰かに代わってもらって休んだ方がいい、と言った。 とにかく休んで、ひどい時期を乗り切らなきゃならない。 ヘルニアの痛みには波があって、立ち上がれないくらいひどく痛む時期と、別段なんともない時期が交互に訪れる。放っておくとどんどん痛む時期が長くなり、頻度も上がり、最後には痺れっぱなしになる。そこまで進むと、手術が必要になってしまう。 だから今のうちに治すために、まずは休息をとって痛みが引くのを待って、病院に行くべきだって言ったんだ。 でも彼女は、「仕事は休めないよ。」って言った。 「せめて力仕事をしないで済むようにできないの?」と僕は言う。 「できないよ。患者さんに『助けて』って言われたらやらないわけにはいかないもの。」 「他の看護婦さんに手伝ってもらうことはできないの?」 「みんな受け持ちの患者さんがいるの。あたしにはあたしの患者さんがいるの。」 そして彼女は泣いた。 自分の体が思うようにならなくて、どうしようもなくて泣いたんだ。 でも僕も、その腰のつらさがわかるだけに「じゃあそうすれば?」とは言えない。 どうしようもない。わかってる。 仕事だもの。 ただね、そういうことで泣ける君を、僕はすごく誇りに思うんだ。 それだけ自分の仕事に責任を持って、一人で立とうとする君を、尊敬するよ。 だからどうか、無理はしないで。 お願いだから。 追加: さっき彼女からメールが入って、結局仕事はシフトを代わってもらって休むことにしたらしい。余りにも動けなくて、迷惑をかけるという判断からだ。明日病院に行くけど、下手すると入院することになるかも、と言っていた。心配だ。
とにかくみんな、よく笑う。
その笑いは訓練されたかのように完璧だ。 左右の頬の筋肉を、見事なまでに均等にきゅうっと45度に引き上げる。 僕にはできない。 というか、あんな笑顔はしたくない。
あなたはそんな閉じた世界で威張っていればいいんです。身だしなみも整えられない、食事のマナーも知らない、人を見下しても許される、自分が優れていると思い込んでいる、そのくせ愚痴しか言えない、そんなどうしようもないあなたでもこの世界の中でだけならその価値を認められるのだから。あなたは知識があるかも知れない。でも知識はあなたの人間性を補完してはくれない。それをひけらかす以前にあなた自身を見つめてみたらどうですか。あなたは尊敬されるに値する人間ですか。考えたことはありますか。ないでしょうね。当然だと思っているのだから。でも人間は社会の中でしか生きていけないのですよ。関係性を否定して生きていくことなんてできないんですよ。何故そんなに尊大でいられるのか教えてくれませんか。何故そんなに自信があるのか教えてくれませんか。あなたが本当はどう思われているのか知らないのですか。強いモノには諂い、弱いモノには威張り散らし、知らないモノは否定し、知っているモノは自慢し、押しつけ、人を羨み、妬み、媚び、それであなたは楽しいですか?
楽しいんですか、そうですか。 失礼しました。どうかお幸せに。
僕は夢をあまり見ない方だ。
たまに見たとしても、あまりいい夢は見られない。 何かに追いかけられていたり、上手くいくはずのことでしくじったり、取り返しのつかないことを気付かないうちにしてしまっていたり、とにかくいい夢は見ない。 夢は、普段のものの見方、考え方が無意識的に再現されているように思う。 いい夢を見られない僕の悲観主義がまずこの好例だ。 僕はいつも最悪の状況を考えている。 こうなったらいやだ、こうはなってはいけない、なってほしくない、 そんなことばかり考えている。 だからその「恐れ」が夢の中で現れる。 でも、その悲観的な意識によって僕の現実は救われている。 最悪の状況を夢に見ることで、現実での備えができる。 精神的にも耐性ができる。 夢の中に比べれば、現実はとても素敵で楽観的な世界だ。 底なしの悲観を自己の本質に抱えることで、僕の実存は相対的に楽観に転換される。 これは知らずに身につけた自己防衛の手段なのかも知れない。 普段あまり夢を見ないだけに、時々見る夢は僕を混乱させる。 現実との区別がつかなくなることもしばしばだ。 もちろん目が覚めればそれが夢だったことに気付くのだが、夢の中で感じるどうしようもない失望、絶望は紛れもなく僕のイドの根底から噴出している。その感覚だけは本物なのだ。だから、本気で恐い。 僕は良くも悪くも「感覚型」の人間らしい。 僕の夢はイメージで認識されていて、画像がない。 ただ「そこにある」イメージだけが夢を形作っている。 だから他人に「こんな夢を見た」と説明することはとても難しい。 自分の中にも、確かな形として残ることはなく、ただその時感じた感情や感覚のみが脳に貼り付く。 これは映像的な認識として記憶するよりも余程トラウマになる。 おかしな話かも知れないが、僕は自分の見る夢でトラウマを受けるのだ。 つまり、自分の悲観が自分にトラウマを植え付けるのだ。 自分を守るために無意識にこういう作業をしているのだろうが、これは僕の神経を著しく消耗する。 実存を救うために本質を削り続ける、悲しい道化師のひとり遊びのようなものだ。 しかしよくよく考えてみれば、誰でも多かれ少なかれ自分を守るための手段を持っている。 僕の場合はたまたまそれが「相対化」だったに過ぎない。 夢の力を借りて、僕は自分を相対化する。 他者とではなく、閉じた自己の系内で意識を楽観に導くために、最悪の状況にある自分を想定することでそれを避ける術を見つける。随分とこの作業に助けられてきたことは事実で、自分にとって必要な要素であることもまた事実だ。それはよくわかっている。 が、やっぱり僕は今日も願わずにはいられない。 どうか今日は、夢を見ませんように。 何も考えないうちに、朝を迎えられますように、と。
あと二週間で、僕はこの国を離れます。
日本へ帰ります。 あっという間だったなあ、一年なんて。 でも、そのほんの短い間にも確実に僕はここにいて、 ここに足跡を残すことはできたと思う。 なんだか、いざ離れるっていう時になると、 今まで嫌いだったモノまで何となく愛おしく思えたりするね。 変な感じ。 仲違いしたラボのメンバーも、 ドライボックスの汚さも、 まずい食事も、 いうことを聞かない車も、 この狭い部屋も、 不便な生活も、 やっぱり失うのは切ないね。 せっかく手に入れたものだもんね。 そして結局、この街が好きだったなあって思うんだ。 きっといつまでたっても、僕はここで過ごした一年間を忘れないと思う。 とてもとても大切な時間だった。 さて、 あと二週間で、僕には何ができるんだろう。 やることはいっぱいあるけど、 時間は限られてる。 もう少しだけ、僕の大切なこの場所のために、 がんばろう。 がんばってみよう。
野菜が安い。
肉も安い。 そして、なんといってもすごい種類だ。 例えばジャガイモだけで、一体何種類あるんだろう。 見たこともない野菜もいっぱいある。 料理好きの僕としては、この国のスーパーマーケットはたまらなく魅力的な場所だ。 大抵のものは揃う。 日本食材を買うにははちょっと遠出しなきゃならないけど、一月に一度くらいドライブを兼ねて買い出しに行く。いい気分転換になる。 この国は中国人がとても多いせいか、アジアの食材も比較的手に入りやすい。 それに加えて近年の日本食ブームで、すっかりこの国の食生活に組み込まれてしまったものも多い。 でも、忙しい時にはいつもいつも自分で料理してもいられない。 当然、外食やテイクアウトが増える。 しかし。 こんなに豊富で新鮮で多種多様な食材に恵まれているこの国なのに、 どうして出てくる料理はこんなに不味いんだ。 結論。 奴らに手を加えさせるな。 奴らは食材キラーだ。 (正直言って、この国に来てからというもの僕は自分の作った料理以上に美味いものに出会っていない・・・これはかなりの大問題だと思う)
僕の大好きな曲に、「Harvest Moon」という曲がある。
この曲はとてもきれいな曲だ。もちろんメロディやアレンジもだが、なによりも歌詞が美しい。 年老いた夫婦を歌ったラヴ・ソングだ(と思う)。 夫から妻への言葉。 とてもやさしい、甘い愛の言葉。 Come a little bit closer Hear what I have to say Just like children sleepin' We could dream this night away But there's a full moon risin' Let's go dancin' in the light We know where the music's playin' Let's go out and feel the night Because I'm still in love with you I want to see you dance again Because I'm still in love with you On this harvest moon When we were strangers I watched you from afar When we were lovers I loved you with all my heart But now it's gettin' late And the moon is climbin' high I want to celebrate See it shinin' in your eye Because I'm still in love with you I want to see you dance again Because I'm still in love with you On this harvest moon 実はつい最近、この歌を生で聞く機会があった。 この歌が収録されているCDはずいぶん前から持っていたが、あまりこの歌を気にしていなかった。それが今回目の前でこの歌が演奏されたとき、不覚にも僕は泣きそうになった。 正直なところ、今まで英語の歌詞にそれほど深い感銘を受けたことはなかったのだ。 やはりNativeではないし、細かいニュアンスが伝わりにくいということもある。 それに、英語という言語は非常に単純化されているために、日本語ほど豊かな「情緒」を表現することは難しいのだと思っていた。 しかしこの曲は、とてもシンプルな言葉の中に深い深い愛情が表現されている。 単純な言葉だからこそ、ここまで心に染みるのだ。 これを見て「うわ、英語だ」と思って読み飛ばしてしまった方も、もう一度歌詞をよく読んでみてほしい。全然難しくない。中学レベルの英語力で十分だ。なのに、なんと深くやさしい言葉だろうか。 (そもそも僕の英語力で、ライブで演奏されたこの歌詞を聞き取れたということは余程簡単なのだ) そして僕は思う。 言葉というのは決して「たくさん使えばたくさん伝えられる」のではないのだと。 その情報量が、本当に伝えたいことを殺してしまうことも多々あり、むしろ少ない単純な言葉で語られる方がより真実に近いこともあるのだと。 難しい表現などいらない。 それはあくまで手段の一つであって、言葉の本質ではない。 ただ、そのひとことが本当に自分の今の気持ちを、想いを伝えるものなのか。 大切なのはそれだけだ。 自分の発する言葉にも、そんな「想い」を込められたらいい、と。 それと、こういう「老いた」歌が僕を惹き付けるのにはもう一つの理由がある。 僕は「続けてゆくこと」にこだわりがある、と以前書いたと思う。 だから「変わらずに続いてきたもの」、また「そうできた事実」に深く心打たれるのだ。 今愛している人に、例えば30年、40年後にこの歌のような言葉をかけてあげられるだろうか。 本当に、心の底からこんな気持ちが湧き出てくるほどになれるだろうか。 僕は今でも君を愛しているんだ、と。 変わらずに君を愛しているよ、と。
ああ、君に会いたいなあ。
僕は、もう遠く過ぎてしまった日々の埋め合わせをしようとしているんだろうか。
叶わなかった約束は、叶わないままで今もここにある。 君に伝えられなかった言葉は、伝えられないままでまだここにいる。 それは新しい他の誰かに同じことをしたとしても、遂げられるはずもない過去。 例え同じ約束をして、それを果たしたとしても、 例え同じ言葉で、想いを語ったとしても、 所詮それは君を満たしはしないし、 僕を満たすこともない。 なのに、あの日の君の涙を思い出すたびに、 僕は君といるはずだった今日をとても切なく思うんだ。 あの時、 君の手を離さなければ、 君は今ここで、 隣で笑っていてくれましたか? 結局僕は自分の夢ばかり追いかけていて、 誰かを幸せにしたことなんてない。 僕は何も変わってなんかいないよ。 相変わらず、あの日と同じところで彷徨っている。 そして今も、君の幸せを願っていながら、 同時にそれを深く憎んでいる自分に気がつくんだ。
自分で書いた日記を、自分でよく読み返してみるんだけど。
なんとまあ、散漫なんだよなあ。 一貫性がない。 自分にできるだけ制限を付けずに、書きたいことをそのまま書き連ねるってことをまず第一の目標として始めたわけなんだけど、やっぱりバラバラだなあって思う。 自分が気に入って読ませてもらっている、他の人たちの日記はちゃんと「色」がある。 だからこそ人を惹き付けるんだろうね。 僕の書く文章に、色はあるんだろうか・・・。 なんて考えたりするけど、でも何のことはない、この「とりとめのなさ」こそが僕の色なのかも知れないな。 一応「投票ボタン」ってモノも設置してはいるけど、票が増えたからいいっていうものでもないだろうし、これって判断が難しいね。とは言いながら、やっぱりちょっとでも票が入ってると嬉しい。 カウンターを見てると、少ないながらもちゃんと回ってるから、一日に十数人くらいはこの日記を読んでくれている人がいるわけで、それだけでも十分嬉しい。更に票を入れてくれた人が数人いると、もっと嬉しい。 表現する人間の欲って不思議なもので、ただ表現し続けるだけでは満たされない。 誰かに認識されて初めて、その欲求は満たされるんだよな。 結局のところ表現欲っていうのは、誰かとつながりたい、誰かに自分を見て欲しい、誰かに自分をわかって欲しいっていう「寂しがり屋」の人恋しさなのかな。 この間の日記で触れた僕の後輩は、「表現する人間にとっての表現欲は、性欲に匹敵する」って言ってた。 それはよくわかる。とてもよくわかる。 僕はとてもわがままで、表現することに関してもわがままそのものだ。 実際、この日記も「人に読んでもらう」ことをしっかりと意識して書かれてはいない。 エンターテインメントとして成立させるなら、「受け手」を常に意識した上での作業が必要になるけど、ここでは僕はただ自分の書きたいことを書く。ある意味垂れ流しだ。 なのに、読んで欲しいと思ってる。 自分がありのままに垂れ流した自分の表現を、誰かに受け止めて欲しいと思っている。 やっぱりわがままだ。 それなのに、本当に自由にはなれていない自分にも同時に気がつく。 この中途半端さが、自分自身を苛つかせる。 でもその苛つきがまた何かを想起させて、書くことにつながったりする。 結局は僕は、常に何かを吐き出し続けて、例えそれが矛盾していても曖昧であっても、その日その時自分の深淵から紡がれる思考過程を「言葉」という手段を借りて体現していく他ないんだろうな。 ・・・だからこれからも、この「殻」はとりとめなく続いていきます。 自分にとっての「殻」の意味は、こうして書きながら構築している最中でもあります。 何かせずにはいられない、ある意味病気のようなものなんでしょうかね。 みなさんはどうですか? 書くこと、というか、「表現すること」はどういう意味を持ってますか? やっぱり病的なものを感じてるんでしょうか。 僕はそれが知りたいのです。 INDEX| PAST| NEXT | NEWEST |