文
- カスタード(2/2)
2002年01月14日(月)
「それで!?栄太が言いたかったことって、結局なんだったっていうの?」 メイが呆れたようにいう。でも、なんとなく面白がっているようだ。 「…『ミラクルだと思ったことにも、きっと必ず裏がある』」 「あはは!」 四時半ともなると、急に陽が落ちてくる。いつもより膨張して見える太陽は、僕より頭ひとつぶん小さいメイの髪と雲のない空を、うっすらとオレンジに染め上げた。 「栄太らしいといえばらしいけど、どっちにしても非科学的じゃない」 ひとしきり笑った後、メイはまだおかしそうに僕を見上げた。 僕とメイは、世間で言うところの『彼氏』『彼女』で、つきあい始めて二年ちょっと、つまり、一年生の時からの仲である。きっかけは単純で、一年生でおんなじクラス、隣同士の席に座ったのが出会いだった。男女別の出席番号が同じだったのだ。僕の『的場』と、メイの『藤崎』で。当然、同じクラスだった栄太とも仲がいい。 「…科学的に証明しようなんて思っちゃいないだろ」 「あたしは気になるもん」 僕たち三人は、二年に進級したときのクラス替えで、僕と栄太は二組、メイは五組と分けられた。一年生で隣になったときからわかっていたことだった。なぜなら、そのころからすでにメイは、必ず物理学部に行くと公言していたから。 「うわぁ…見て!」 メイが僕のコートの袖を引っ張った。校門のすぐそば、見上げた頭上には大銀杏が、僕たちを包むようにたくさんの枝を広げていた。 「いつの間にこんなに色づいたのかなぁ」 僕だって、今日気付いたばっかりだ。 …夕日に照らされた大銀杏は、七時限目に一組の窓から見たときよりもはるかに優美で、大きく見えた。下から見上げる僕たちに、その枝と枝の隙間から、薄い藍色を纏い始めた空と小さな星をちらりと見せる。銀杏は黄色に紅葉するものだと思っていたけれど、僕はその認識を改める必要性を感じた。冷たい空気と空の色に映える葉の群れは、黄色よりももっと深みのある、いや白っぽいんだけど少し赤みを帯びていて、なんだっけ、確かに僕はこの色を知っているのに、どこで見たんだろう、…そうだ、あれはなんて言ったっけ、 「…………豚カツ」 不意に、メイが僕の思考を止めた。思いも寄らない言葉に、僕の頭の中を渦巻いていた言葉は一気に抹消された。信じられない気持ちでメイを見る。 「…ハムカツ、串カツ、鰺フライ」 「……………」 「たべたいーっ」 大銀杏の木を見上げたまんま、メイは空腹を訴えていた。僕の方など見向きもしない。僕はせっかくわかりかけた問題を、解決できないまま取り上げられた不機嫌な気分で言い捨てた。 「色気ねぇの!」 「だってさあぁ、見事なキツネ色じゃない」 ………だからって…確かにそうかもしれないけど。僕が思い出そうとしていた単語とは、それは明らかに違っていた。別に豚カツを見下しているわけじゃないが、僕が考えていたものはそれよりずっと高等なものだという気がした。……食べ物であったのは間違いなさそうなんだけど。 僕たちは再び歩き出した。そんなことをしているうちに日は完全に沈み、突き刺すような寒さが、コートの厚い生地を通って浸み入ってきたからだ。思い出したように左手の時計をのぞき込む。よかった、バスはまだ行ってない。 「…今日の英語さぁ、」 メイが、ぽつりと試験のことを口に出した。夢から覚めた後のような、妙に無機的な声だった。 「あたしやっぱり、文系教科ダメなんだなって思っちゃった。頑張ってるはずなん だけどなぁ…真志はどう思う?」 校門前を通り過ぎる車のヘッドライトが、こっちを振り向いたメイの髪とまつげを闇に浮かび上がらせた。吐く息が白い。 「……………さぁ」 ………僕に何を言えっていうんだろう。頑張ってるなら、それでいいじゃないか。 「真志?」 「…文系教科、国語と英語なら教えてやるよ」 僕はメイを見ないようにして言った。第一志望をあきらめたこと、もうメイには言ったんだっけ?言わなかったのかもしれない。メイの第一志望は東京の公立だ、メイの成績なら多分なんとかなるだろう。そして僕の第一志望だったところは、そこからすごく近い国立…でも僕の志望が変わったって言ったら、メイはどうするだろう。 メイはどうもしない。僕にだってわかっている、それは確かなことだった。メイは僕のために東京の大学を選んだわけじゃない。自分の夢、希望のため、当たり前のことだ。 「ほんと!?ありがと、やっぱり真志だね」 メイはうれしそうに微笑んだ。僕は素直に笑えない。 「あたしも、数学だったら相談に乗るよ」 「…俺、必要ないもん」 メイが、その言葉をどう取ったかはすぐわかった。 「そうよねぇ、真志には必要ない、か。勉強しなくたってできちゃうんだもんなぁ。うらやましいよ」 …胸が何かで詰まったように重かった。泣きたくなったわけじゃないけれど、僕は思いっきり眉根を寄せて、目をつむった。まぶたの裏に、道沿いの街灯の明かりが映り、視界を赤く染めた。 「………ルサンチマン」 「え?」 メイが、聞き取れなかったという風に耳に手を当てた。 「べつに」
本当はもう、模試を受ける必要などないのだ。 受験が終わったという意味ではない。僕が志望する地方の大学は、センターでは英語と国語しか使わないということだ。 十一月の第四土曜日、本当なら家で休暇を楽しんでいてもいいはずの日である。それなのに、僕たちは受験生でセンター入試を受けるからという理由で、学校にいつも通りに行かざるを得なかった。マーク模試二日目、科目はもう数学と理科がひとつだけ…両方理系だ。僕にはもうやる気がない。 遅刻してもいいくらいの投げやりな気分で、僕は途中コンビニに寄った。僕の方は午前中で全て終わるけど、メイは理科が二科目必要なので、午後まで少しかかってしまう。一緒に帰るためには昼御飯の準備が必要だった。 空は雲一つ無く、青く高く澄み切っていた。…ブルーは優秀、憂鬱を意味する。前に本で読んだ知識が、ふと思い出された。憂鬱な気分ではなかった。かといって気分爽快であったわけでもなく、なんというか…無性に何かにあたりたかった。優秀だなんて、もっともっと見当違いだ! テストの出来はひどかった。本当に、お話にならないくらいひどかった。数学の二科目めの途中で投げ出して居眠りを決め込んだ。試験のため出席番号順に着席したせいで、栄太の背中や逆立てた髪がひどく遠く感じた。いつも前後に座っていて、久しぶりに離れたから変な感じがするだけだってわかってるけど、僕にはそれが栄太との差に思えてしかたがなかった。枕代わりにした両腕から少し頭を持ち上げて様子をうかがう。栄太はちょっと首をかしげるようにして考え込み、でもまたすぐに計算を再開した。あきらめない。まわりの奴らもみんなそうだ、途中下車した奴なんていない、当たり前だ、ここは進学校で、僕も栄太も国公立目指してる受験生で、他のみんなももちろんそうで、ぶつかり合い牽制し合い、競争しながら少しでも人より前に出ようと、少しでも人より先に立とうと、そのためには競う意志のない者はいらない、途中で降りたがる奴はいらない、僕はいらない、僕は…っ …試験終了の合図がかかった。
「お疲れさま、真志っ」 …僕の教室にはもう誰もいなくって、メイと昼御飯を食べるために僕だけが一人残っていた。 「……………」 僕が黙って机にうつぶしている間にも、メイはさっさと僕の机の前にもう一つ机をくっつける。その上に、とん、と置かれたお弁当包みは、いつも使っているメイのお母さんの手作りのものだった。藤崎芽依、と小さい縫い取りがある。高校生にもなって恥ずかしいと、一年生の時にメイは言っていた。 「どうしたの?ごはん食べないの?」 まだ一科目試験が残っているというのに、メイはいたって元気であった。…今日の理系の科目は、芽依の得意分野だ、そういえば。 「そっか、今日は数学と理科だもんねぇ、めげる気持ちも分かるよ、うん。あたし だって英語と国語の後はだいたい死んでるもん」 …しんとした教室に、メイの軽やかな声が流れる。ここあたりの教室はみんな文系だから、生徒はほとんど残っていない。目つきの変わってきたクラスのみんなはもういない。 僕はゆっくり体を起こした。おおよそ、受験生臭い切実さを見せないメイは、僕を少しだけ救ってくれるような気がした。なんだかにわかに緊張して、決まり悪く顔を上げた僕とメイの茶色の瞳がぶつかる。メイがニッと笑った。 僕は、今朝衝動的に買ってしまったメイへのプレゼントのことを思い出した。自分の昼御飯を買うときに、ふと目に止まったものだった。 「………やる」 「何?……あ!」 瞬間、メイの顔がうれしそうに輝いた。 「カツサンド!昨日言ってたこと、覚えててくれたんだ�B」 「…美人の食いもんじゃねぇよなぁ。まぁ、お前なら大丈夫」 僕はつい、憎まれ口をたたいてしまった。けれども、それを気にした様子はない。 「よかったあ、実は朝遅刻しそうになってて、お弁当買ってこられなかったんだ」 「え?じゃ、その弁当包みは?」 「………なんだと思う?」 メイはいたずらっぽく問いかけた。僕の答えを待たずに、自分から包みのひもを解く。 中から出てきたのはプラスチック製のバスケットで、半透明になっていて中のものが透けて見えていた。僕は中身をついつい凝視してしまった。なぜなら、その中にあったものは僕が思いだそうとして思い出せなかった、 「シュークリーム!」 僕たちは同時に言った。メイが僕の反応を見て満足そうに笑う。 「昨日、家に帰ったらお母さんが作っておいてくれてて。真志、好きなの?」 「…そういうわけじゃないけど、」 「ふぅん?…それで、すごくおいしそうだから一個食べてみようと思って半分に割 ったらね、」 メイはひとつを掴みあげ、大人を驚かそうとする子供のような表情で、僕にその中身を割って見せた。 「ね?あの葉っぱの色にそっくりでしょ?」 ………ああ、という言葉は声にならなかった。びっくりするくらいに濃いクリーム色のカスタード。なんだかとても、言葉にできないくらいに僕は気が高ぶっていた。あのとき僕は口に出せなかったから、メイは知らない。メイのお母さんがシュークリームを作ったのも、偶然だ。だからこれにはなんの裏もない。なんの裏もないけど、ちゃんと伝わってるんだ。小さなことだけど、本当にぜんぜん大したことじゃないけれど、それでも…それでも僕は信じたいんだ、誰に否定されたって。本当に本当にごく偶に稀でかまわないから、誰かに認めて欲しいんだ。 …裏のない奇跡だって、本当はあるんでしょ?
第四土曜日の校庭には、いつもならそこにあるはずの部活動の練習風景もない。おかしなことかもしれないけれど、土曜休校の時には部活動も休みになるというのが、この学校の決まりであった。おかげで、静かな第二・第四土曜日は、模試の試験日に当てられることが少なくなかった。 理系の生徒たちが下校する姿がちらほら見える。学年全体の中で、理系の生徒は文系の約三分の一。狭い範囲の競争で、試験の度にメイがどれだけのプレッシャーに耐えているか、僕は知らない。 僕たちは昨日と同じように、昇降口からバス停までの短い距離をゆっくり歩いた。昨日はそれほどでもなかったのに、今日になって風がやけに強くなった。気温はあまり変わらない予報だったけれど、強風のせいで体感温度はずっと低くなっているのだと僕は思った。 僕たちは、吹き付けられる冷たさに後押しされるように、どちらからともなく手を繋いだ。風邪をひいたようには見えないのに、子供体温なのだろうか、メイの手は温かかった。そして一年生の時よりも、ずっと小さくなったように感じた。 僕たちは、ずっと同じであるわけじゃない。僕の身長は二年前に比べて八センチも伸び、メイは長く伸ばしていた髪を切った。僕は… 僕は、ずっと気がつかないふりをしていた。よどむことなく流れていく日々の中で、僕たちは少しずつ、けれども確実に変化していく。僕がメイと会えたことは、確かに小さな奇跡だった。今までの二年間は、僕たちにとってとても、とても大きなものだ。だけど…僕たちの道は、明らかに別れているのに。 大銀杏の下で、僕たちはまた立ち止まった。昨日とは違う明るい午後の陽の中で、銀杏の葉はますます明るく…暖かく照り映えていた。 「きれいだね」 メイのつぶやきを聞きながら、僕は銀杏のクリーム色のさざめきに目を奪われていた。大きく広げた腕のような枝々を見上げていたら、だんだん目が霞んできた。乾燥した空気がしみる。僕たちが両手をいっぱいに広げてもかかえきれない大きな幹は、二百年もの時間をどんな気持ちで送ってきたのだろう。…この樹にとっては、僕たちの二年間なんて居眠りの間に過ぎていく夢に過ぎないのかもしれない。じゃあ四十六億年も生き続けてる地球にとっては…それこそ本当に刹那でしかないんだろうなぁ。 それはあまりにも飛躍しすぎているけど、例えば僕が年を取って、もっともっと年を取っておじいちゃんになったら、今のこのときをどう思い出すんだろう。…取るに足らないものと思うようになってしまうのだろうか。嫌だ! 僕はメイの手を握り直した。メイはちょっとこっちを見た。けれどもまたすぐに、銀杏の方に顔を向けてしまう。は、と吐いた息がすぐに凍えて白くなる。寒さに赤くなった耳が、ひどく痛そうだった。 北風が足下にからみつき、散らされた葉っぱが僕たちの所から走り出していった。 「きれいだね」 …僕たちはいつまで一緒にいられるんだろう? つないだ小指から、じんわりメイの温かさが伝わってくる。
「……きれいだね」 僕たちはずっと、その場を動けないでいた。
- カスタード(1/2)
2002年01月13日(日)
一年の長さが短くなったように感じるのは、僕がもう十八歳であることと無関係ではない。人が年を取れば、その人にとっての『一年』は、今までの彼の人生のうちの、年齢分の一と等しくなるからだ。分数の場合、分母の数が大きくなれば大きくなるほど、その数全体での絶対値は小さくなり、したがって僕たちの感覚の中の『一年』は、だんだんと縮まっていくというわけだ。二歳の赤ん坊には半生にあたるものが、六十歳のおじちゃんにとっては一時間中の一分と変わりない。実際にはおんなじ長さのはずなんだけどなぁ。 それにしても、と僕はこっそりとため息をついた。金曜日の七時限目、世界史の授業中である。 それにしても、今年の時間の流れは急すぎる。ついこの間まで、確かに気温は二十度を越えていたし、まだまだ半袖で外に出られていたはずなのに…というのは少し大袈裟だけれども。でも確かに僕は、この間まではもっと違う生活をしていたはずなのだ。 「ヒトラーは少年時代、音楽家を目指していました。ところが戦争に行って毒ガス で喉をやられちゃって、なんかあの妙なダミ声っていうか、そんなのしか出なく なっちゃったんだって。きれいな声だったそうですよ、彼は」 世界史担当の上野先生の話し口は、悪い意味でなく少年のようで、生徒にも割と評判がいい。ただ、怒るということが滅多にないので、授業時間中ずっとうつぶせになったまま寝こけてる不届き者も一人二人ではない。上野ファンの栄太は、いつもいつも僕に「もったいねぇもったいねぇ」と愚痴をこぼす。その気持ちも分からないではないが、僕に言われても困る。かく言う僕も、上野先生の授業は好きだったんだけど…。
社会科モザイク授業選択世界史、というのがこの授業の分類になるんだと思う。文系の僕たちは二年次から、日本史と世界史とどちらかを選んで受講することになっている。当然、二つの科目が同じ教室で授業を受けるわけではなく、二つのクラスが合同になって、片方の教室で日本史、もう片方の教室で世界史、と分けられている。そんなわけで、僕はいつもこの時間は移動教室だ。一階下の一組の教室は生徒数が少ないから、席に余裕があって自由に座る場所を選べる。僕はここ二年の間、ずっと窓際の席に座っている。南向きに建てられた校舎のほぼ中心に位置するこの教室の窓辺からは、広い校庭とそのずっと向こうにある正門、脇の大銀杏まで眺めることができる。 「…今って秋だっけか」 「何しみじみしてんだ!!お前もちゃんと授業を聞け!歴史は大切なんだぞ!?」 不意に、前の席にいた栄太が身体ごとこっちを振り返った。細く整えられた眉が、ぎゅっとつり上げられている。…別に、ちょっとした独り言だっていうのに…。 特に何を申し合わせたわけでもないけれど、一年の時からの友人の栄太も、僕の前の席を二年間占領している。栄太は言うだけ言うと、すぐにまた前を向いた。世界史の授業が好きなのだ。そのほかの授業も大抵好きみたいだけれど。 …今が秋だという気は本当にしなかった。十一月も一週間過ぎ、二週間過ぎ、気がつけばもう第四週目。高校三年の大詰めの時期が迫り、今日と明日と二日をかけてのマーク模試もある。今日の午前中と五時限目は、文系科目の試験で終わった。 秋という季節の明確な区切りが見つからなかった。見つけたいとは思っていた。…けれども、僕が少しぼんやりしているうちに時間はどんどん僕の上を通り過ぎて、カレンダーは身を磨り減らして残りわずか、教室の黒板の隅のカウントダウンだって…とにかく、いつから秋になったのだろう、それを僕は考えていたのだ。頭の上を飛び越していく秋は、僕の頭の中にまで朽ち葉を降らす。どんどんどんどん降り積もって、どんどんどんどんうずめられて、僕は、僕は…っ 「……気ィ散らしてんなよ!いくら成績がよくたって、ちゃんと努力しねェお前な んて、俺は認めない!」 前を向いたまんま、栄太が小さく言った。僕は窒息する直前のような気分から解放されて、ひどく安心して息をついた。どっと脂汗が流れる。とにかく僕は最近変なんだ。 「はい、ちょっと顔上げてー」 先生に促されて、憔悴した瞳のまま僕はのろのろと前を向き直した。瞬間、先生と視線がぶつかる。僕は反射的に口元に笑みを浮かべようとしたけれど、失敗した。
僕の通う高校は私学で、県内でも有数の進学校である。とは言っても、有名大学、国公立大への進学率は県立のトップクラスにはかなわない。所詮『二流』止まりなのだ。…なんて、こんなこと僕が言えた義理ではないけれど。 「……お前、最近ちっとおかしくねェ?」 授業が終わって、まわりのみんながぞろぞろと教室を出ていく中、僕は立ち上がらず黙って窓の外を見ていた。立ち上がれなかったのだ。栄太が両手で僕の机を押さえつけ、前のめりになりながら僕の両目をにらみつけていたから。 「……べつに?…どの辺がおかしいっつぅの」 校門のそばに看板代わりにそびえ立つ大きな銀杏は、樹齢推定二百年の、この学校の自慢の種のひとつである。幹が大人四人で囲めるほど太く、枝も多くて立派ではあるんだけれど…臭いだけは僕にはどうしても許せない。聞いたところによると、近所の人たちからの苦情も毎年毎年すごい数になるそうだ。当然だろう。 一組の生徒が迷惑そうにちらりと僕たちのほうを見た。『いつまでここにいるつもりだ』とでも言いたげである。 「栄太…邪魔になってるよ、帰るぞ」 「答えになってない!!」 ……意地になると手のつけようがない。まったく、栄太の悪いところはここだ。いいところも同じだけど。 「おかしくなんかねえよ!どこも!」 僕はいい加減答えるのが嫌になって、栄太の両手を机から振り払って立ち上がった。 ……困ったことに、僕の長所と短所も奴と同じようなところなのだ。
「…栄太、」 ホームクラスに戻る途中、へそを曲げてしまったらしい栄太に僕の方から声をかけた。 「…………」 浅黒い肌、キリッとつり上がった一重瞼にツンツンした茶色の髪。隣を歩いてはいるけれど、ぶすっと黙りこくったままこっちを見ようともしない。まったく…。 階段を上る足取りも重く、僕たち二人は教室に入った。これで席が離れていればまだ気も楽だっただろうに、あいにく僕たちはホームクラスでの席も窓際の前後なのだ。一組の教室のちょうど真上に当たる僕たちの教室は、一階分位置が高いせいで、なんだかかえって大銀杏が遠く見える。僕はちらっと黒板の上の丸い時計を見上げた。HRが始まるまではまだ少し時間がある。 がたっ、と大きな音をたてて僕は立ち上がった。栄太がちょっと、怪訝そうに僕のほうを見た。こういうときはいつも、『話がある』の合図だと承知しているからだ。僕は何も言わずにベランダへ出た。 「……黄色いなぁ、銀杏」 頬を打つ風はひどく冷たかった。十一月って、こんなに寒かったっけ? 「ベランダに出て銀杏が散るのを眺めるなんて、終わりだなお前も!」 「なんだよそれ」 じろっとまわした白目がちの眼が僕をにらんだ。栄太はまだ機嫌が悪そうだ。 「上野先生が言ってたろ!ほら、十月頃に」 「……ああ」 覚えはあった。 「俺は紙飛行機は飛ばしてない」 大銀杏も、まだ青々としていた頃だ。 『今はまだ大丈夫だけど、あの銀杏が黄色くなって、葉っぱがひらひら舞い始めた 頃に、ベランダに出て紙飛行機とか飛ばしてるようになると終わりだね、遠い目 してさぁ』 先生はそう言って例の温和な顔で笑った。言ってることは結構厳しい。 『君たちはそうならないでよ』 ………何が言いたかったのかはなんとなくわかる気がする。そして僕はきっと、栄太には否定してみたけれど、…先生が言ったとおりの状態になったのだろう。 「…あっという間に時間が過ぎるよな」 「なんでそんなこと言うんだよ!」 栄太は再び怒り始めた。風が僕の頬をかすめる。乾燥してピリピリした空気は、着実に冬に向かう季節のせいばかりではなかった。 「…なんだよ、なに怒ってんの」 怒らせたいわけじゃないのに。 「……俺には時間がねェんだよ!焦らせんな!」 なんだよ、栄太の勝手虫。
時間が早く過ぎ去っていくように感じているのは、当然ながら僕だけではないのだ。よくクラスの中を見回して見れば、みんなみんな一人ひとりが何かに急がされせかされている。もちろん、栄太だって。 「いいよなぁ真志は!勉強なんかする必要ないんだから。くっそぉ、ルサンチマン だぜ!」 栄太の怒りは、喉元過ぎればあっという間に忘れ去られる。HR中であるのにもかかわらず、堂々と椅子に後ろ馬乗りになっている。 「………何?なんだって?」 「ルサンチマン!あらゆる生命の根元にある、より強くなろうとする意志への、き っかけみたいなもの!簡単に言えば、恨みとかねたみとか…怨恨感情?」 …栄太は哲学科を志望している。そう、栄太はちょっと変わっているのだ。 栄太の思考はいつだって唐突だ。時々僕がついていけなくなっていることも構いやしない。 「でもいいんだ、俺は負けない!もっともっと頑張って、いつか抜かしてみせる! 力への意志だ!!」 「小松、うるさい!ちゃんと前を向け、話は聞いてたのかァ!?」 担任の檄が飛んだ。栄太は一瞬まじめな顔になって、すぐに素直に前を向いた。しかし、担任をにらみつけることを忘れない。 …栄太に時間がないのは僕にもわかっている。どこの大学を志望してるのかは知らないけれど、国公立大の哲学科なんてどこだって大抵難関じゃないか。僕とは違って、毎日毎日がむしゃらに勉強している栄太にとって、時間の流れは速くて当然なのだろう。だからこそ、なんの目的も持たずにだらだらして、なおかつ『時間は早く過ぎるなぁ』なんてぼやいてる僕が腹立たしくて仕方ないのだ。…必死の努力を感じこそすれ、申し訳ないという気持ちはとうとう起こらなかった。
僕は、自慢ではないが勉強のできる生徒だったと思う。「だった」となぜ過去形かと言えば、それは単に成績が下がったからだ。 気がついたときにはもう手遅れだったというのはよくある話で、今月はじめ、模試の結果を目にしたときの僕のショックは大きかった。なまじ、『今回は割とできた』などと思い込んで油断していたぶん、自分の実力を見せつけられ、その期待値による水増し部分のあまりの多さに気付かされたときは、本当に大袈裟でなく世界の崩壊を感じた。今まで頑張ってきた成果は一体どこにあるんだろう、こんな結果は冗談に決まっているとさんざん否定したあげく、僕はさっさと第一志望の難関国立大学をあきらめた。簡単なことだった。僕は僕が今までしていた自分に対する過大評価を認め、『勉強なんてしなくったって俺はイケる』と調子に乗っていたことを認め、過去のこれまでの、大切にコレクションしていた試験結果を全部焼き捨て た。本当に簡単なことだった。おかげで今、僕には何もない。何もなくなったのだ。 勉強以外に僕には何も自慢できるものがなかったということではない。こう言ってはなんだけれど、僕は割と人望がある方だと思うし、部活はテニス部だったけれど部長まで務めていた。なくなったものは希望と夢だ。それからおまけに、大学に行きたい理由。今まで結構第一志望にこだわっていて、それ以外は絶対どこにも行きたくなかった。けれども今になって考えてみると、はたしてそこまで第一に執着する意味はあったんだかどうか…今の僕にはもう、文学部だったらどこでも同じとしか思えない。 「なぁなぁ真志、ちょっと俺の『ためになる話』に耳を傾けてみる気、ない?」 HRが終わるや否や、再び栄太は後ろ座りをした。…僕は相当、栄太に好かれているんだろう。 僕は少し顔を歪めて笑った。栄太の『ためになる話』は、奴の口癖だと言っていい。毎度毎度内容は違うけれど、大抵の場合それは栄太の思い出話で、ほとんどの場合『ためになる』かどうか怪しい。しかもなぜか自分の話だということを隠そうとする。 「昔々あるところに、自然を愛する少年が十四人の家族と一緒に暮らしていた」 「それってお前だろ」 「いいから黙って聞けよ!ちげェよ!少年は長い夏休みも終わりに近づいた頃、両親から河原でのバーベキューに連れていってやると言われ、それまでたまりにたまっていた夏休みの宿題を徹夜して一気に片付けた」 「そのころから結構無茶だったんだな」 「俺じゃないってば!…とにかく、少年は上機嫌だった。夏ももう折り返し地点を 過ぎていたが、暑さだけは夏の真っ盛りと言ってよかった。空は青く晴れ渡っていて、海の方角には…行ったところは、結構海に近い、川の下流だったんだ。海の方角からは、真っ白い雲がわきあがっていた。それを見た瞬間、俺は思った、『ああ、徹夜してでも来てよかった』」 「結局お前なんじゃん」 「どうだっていいだろそんなこと!話に水を差すなよ!…とにかく、少年は…いいよもう!俺は、…続きがわかんなくなっちまただろ!その後なんだかんだあったんだけど、ふと足下に白い石が落っこちてるのを発見したんだ」 僕はけらけら笑った。笑い続ける僕に栄太はしかめっ面をしたけれど、構わずに話を進めた。 「拾い上げてみると、それはそこいらにはないくらい綺麗な石だった。なんだろうな、なんか…曇りやしみがひとつとしてない、…生みたての卵みたいだった。形もちょっと似てたし。俺はそれをポケットにしまって、家に持って帰った。その夜、不思議な夢を見たんだ」 「へぇ」 「夢の中で、俺は石になっていた。色が白かったから、たぶん同じあの石だ。けれども形が違っていた、俺の形は角が尖ってぜんぜん卵じゃなかった。俺は山の中にいた、そして空に放り出された。噴火があったんだ。俺は川に落ちて、したたかに頭を打った。どこが頭だったかって、そんなのわかるかよ!とにかく頭を打ったんだ。川の上流は激流だった、少なくても角がボコボコの石にとっては。俺は他の奴らとぶつかり合いながら、いつの間にか競争するように、しかも必死になってだぜ、他に遅れじと川を下った。けれど俺は気付いてなかった。俺たち石は自分の意志で川を駆け下りているつもりで、本当は川に流されているんだ」 「…へぇ」 「俺は薄々それを感じてはいたが、根っから信じる気にはなれなかった。だけど、川の中流まで来たとき不意に俺は、自分の姿が変わっていることに気がついた。ぶつかり合いの中で俺自身も慣らされたんだろうな、俺は素直にそれを受け入れた。俺の角はすでに無くなっていたんだ。みんなみんな、擦り切れて無くなり、ただの白い丸い石になっていた。俺は周りを見回した、やっぱりそうだ、みんな同じ。それぞれが持っていた独自の角はみんな無くて、ぶつかり合いは起こらないしたとえあっても相手の形を変えるようなことはあり得なかった。角が丸くなったんだ。川に流されて海へと下っていくなか、俺たちはどんどん角を落とされ、なんの変哲もない、みんなおんなじ、丸い石になっていく。違うのなんてせいぜいその色だけさ、形はみんな、整えられていくんだ。俺はいつしか、嫌になってきていた。結局、どんなに競争してたって行き着くところは同じなんだ。そこへちょうど運良く、河原の広い石ころ畑が見えた。俺は力を振り絞って石と石の隙間に引っかかり、どうにか海まで流されるのだけは免れた。そこで目が覚めたんだ」 栄太は言葉を切った。じっと、こちらの様子をうかがうように見つめているのがわかる。僕は…僕は、何を言ったらいいのかわからなくなっていて、下を向いたまま押し黙っていた。 と、栄太の方が息を抜いたのがわかった。僕は反射的に顔を上げる。 「続きがあるぜ。俺は目が覚めて、自分があの白い丸い石を握っているのに気がついて、思わずそれを投げ捨てた。奇跡だと思ったんだ、しかも気持ちのいいもんじゃなかった。奇跡って悪い意味にも使うんだぜ、って文学部志望のお前は知ってるよな、そんなこと」 僕は相変わらず黙っていた。 「その後俺は、だるいまんま起き出して布団を片付け始めた。前日は布団の上で徹夜して、一日出しっぱなしだったんだ。…枕を返してみたら、何がでてきたと思う、」 「………何、」 「『夏休みの友〜サマーワーク〜』。ページは『理科〜河原のできるまで〜』」
- はつもうで
2002年01月06日(日)
「あ」 がらんとした車道の上で、短く投げ出された声が幾重にもこだました。何、と振り返ると、動いた空気の冷たさに頬の産毛が逆立つ。山茶花の香りが、ふわり、とほほを掠めた。 「け、まして、おめでとう!」 道路の向こう側から夜霧が叫んだ。隣の真名が腕の時計に目をやる。 0時。
新年だ。
はつもうで
どの年も12月31日には、家族ぐるみで3人がそろう。 お母さんと2人きりで年を越した記憶は、私にはない。いつでも隣に真名、少し離れて夜霧、その周りを取り囲むそれぞれのお父さんお母さんがいた。 それは、それぞれの親がみんな幼馴染同士なのもあるし、そのうちのどこの家も、お父さんかお母さんどちらかしかいないせいもある、と思う。 普段は忙しくて会えないぶん、お母さんたちは年末恒例の年越し会を楽しみにしている。それは、2人きりではつまらないということではなくて。
自分と相手しか人の気配を感じない広い家は、新しい年を迎えるのには少し淋しすぎてしまうから。
はぁ、と息を吐き出してみる。 真っ白く煙る小さな雲は、かがり火の明るさで暗い影になった。
大人たちが酔いつぶれて眠ったあとの初詣も、私たち3人の中ではすでに恒例となっていた。 主に会場扱いされている真名の家から歩いて10分ほどの距離に、小さな寺がある。 紅白を見終わってから出かけるので、新年はだいたい路上で迎えていた。 「あけましておめでとう、今年もよろしくね」 頭ひとつぶん低い位置から、今年初めての真名の声を聴いた。見上げると、鼻の頭が寒さですこし赤くなっている。両手をポケットから出して背伸びをして、真名の顎と耳たぶを覆わせるように、情けなく首にたるんでいたマフラーを巻きなおしてあげた。 「マフラーちゃんと巻かなきゃ、風邪ひいちゃうよ。あけまちておめでと」 「あけまちて!」 夜霧が耳聡く聞きつけて言う。 「あけまちておめでと雨月ちゃん、ことちもよろちくー」 「…うるちゃい!雨月、しょんなんじゃないもん!」 むきになるとますます何を言っているか判らなくなる。悔しいけれど、言い返しても失敗するばかりだ。私はそれ以上の反論を堪えた。 …しばらく出てきてなかったのにな、赤ちゃん言葉。
私の言葉は、だいぶ直ってきている。 今までどうしてこんなことが出来なかったんだろうと思うくらい、正しい音を発声することは簡単だった。きちんとした音を覚えることは、本当にやる気になったなら、もういつだってできていたのだと知って、少し反省した。 うまくしゃべれない言葉を利用して、私はお母さんに甘えっぱなしだったのだ。 できない子供だったら、かまってくれるから。気にかけてくれるから。甘やかしてくれるから。できないことを責め立てるようなお母さんじゃないから。 優等生を気取って、お父さんがいなくてもしっかりした子供だとみんなに認めさせてやるといきまいて、でも、「言葉がしゃべれないのは仕方がないんだ」と自分に言い訳しながらべったり甘えていた。 意地になって、お母さんに甘えていた。そう、意地になっていたのだ。
私にはお父さんは必要ない。 私にはお母さんだけで十分。 お父さんはいらない。
お父さんのことなんて何も知らない、だから好きじゃないって思ってた。 恋しいと思ったことなんかない、これから先も思うことなんてないと思ってた。 気付かせてくれたのは、あの日の月と雨と。
きっと、その向こうには。
「なんで初詣なのに寺なのかなぁ」 夜霧が、拾った石をかがり火の中に投げ入れながら言った。真名が横で慌てて止めようとするけれども、夜霧はまったく聞いていない。新年早々、巻き込まれて大人に叱られるのは嫌だから、私は少し夜霧から離れた。 「おみくじがないのがつまんない」 またひとつ、小石を選んで投げる。まわりに人がちらほらいるのに、一向に気にすることもなく、夜霧の目はゆらゆらゆれる火だけを映している。特に楽しそうというわけでもないのに、どうしてそんな無意味なことを繰り返していられるのだろうと不思議に思った。 寺の境内を、いつになくごたごたと人が歩いている。入り口のかがり火の周りを、大学生くらいの男女が囲っている。「久し振り」「元気だった」そんな会話が漏れ聞こえた。普段はもっと静かなこの街に、たくさんの人が集まってきている。またひとつ年を送り迎え、それをそばで見守るものが自分の愛する家族でありますように。そんな願いを胸に抱え持ち、自分を育ててくれた巣の中へ翼を休めに戻ってくる、たくさんの人たち。そのうちのひとりに、いつか自分もなるのだけれど。 離れていくまでにはまだしばらくの時間があって、それはとても先のことに思えるけれど。 いつか帰ってきたときに、これが自分の巣だと思える場所に、真名も夜霧もお母さんたちもいますように。それが私の巣でありますように。 小さく手を合わせた。
「願い事、何にした?」 帰り道、屋台で買ったチョコバナナの棒を構え、指揮者のように夜空に絵を描きながら夜霧が言った。 「ひみつ」 「ないしょ」 「僕は、今年こそお前の赤ちゃん言葉が直るようにって、ね。嬉しいだろ」 「余計なお世話!」 入り口のかがり火のそばを通りかかったとき、夜霧は今度はその棒を火の中に投げ入れた。これはさすがにまずかったのか、そこに立っていた男の一人がじろりと夜霧をにらんだ。すいませんすいません、という真名の声が聞こえた。 私はそのとき空を見上げていた。夜霧がさっき空に向かって振りあげた棒の先で、星は今は薄い雲に覆われて、弱い光だけを投げかけてくる。気温が下がっていた。は、と吐いた息は、暗い空にくっきりと浮かび上がって、吸い込んだ冷気に思わず震えが走った。真名でなくても風邪をひいてしまいそうな寒さだった。 「でも、でもさ、」 謝っていたせいで遅れた真名が、走って私たちに追いついてきた。 「さっき、夜霧がお願い事教えてくれちゃったけど、それってさ、口に出したら叶わないって言わない?」 夜霧は、代わりに謝ってくれた真名に礼を言うこともなく、しれっとした顔でまた小石を拾い出した。けれども今度は投げつける火がない。夜霧は拾った石をまた地面に落とし、今度はつま先で蹴り始めた。 「叶わないように言ってるに決まってるだろ」 こちらを振り向くこともなく、蹴った石が狙いを逸れたのも気にせず、今度はまた違う石を拾い、また落とす。 生まれたときから一緒にいても、夜霧の考えていることはわからない。 夜霧の取る奔放すぎる行動も、私にはさっぱり理解することはできない。 それは、たとえいつも一緒にいたとしても、私と夜霧とがまったく別の人間であるということで。 「嘘。一年に一度の大切なお願いチャンスを、お前のためなんかに使うわけないじゃん」 振り向いた夜霧の顔に浮かんでいたのは、いつもの無表情ではなくて、ちょっと口の端をゆがめただけの笑顔。 夜霧は奔放で自由だけれど、決して私と真名から離れて行くことはない。 けれどもそれがいつまでも絶対であるわけではない。 夜霧の、私には理解することができない行動も、すべてはもしかしたら私の言葉と同じ物なのかもしれない。 私たちはまだこんなにも幼い。
「…あ」 声は、小さく車道にこだました。 「雪、」 ちらちらと視界に映り消える、花のような雪。 「初雪だね、綺麗」 真名が嬉しそうな声で言った。見上げた空には、薄い雲からぼんやりと見つめ返す月がいた。 「パパたちにも知らせなきゃ」 「…お年玉かな?」 「え?」 ひらひらと舞い落ちて、音もなく降り積もる。 それは確かに冷たいけれど、優しく肩に触れて頬を撫でて。 会ったことがなくても、顔さえまったく知らなくても、私は確かにあなたを愛しています。 あなたもお母さんも、私にとっては同じくらい大切なひと。そう判ったからこそ、私はお母さんの背中から降りて自分で立つことを覚えはじめました。 今までごめんなさい。いらないなんて言ってごめんなさい。聞こえますか?そこから、私が見えますか? お父さん。
いつか帰ってくる私の巣に、みんなが、そしてあなたも、確かに存在して笑っていられますように。
- Pleasures
2002年01月01日(火)
「明日は10時から仕事が入っているので、帰ります。起きたらちゃんと何か腹に入れて、めんどうくさがらないで服も着てください。今年の風邪はひどくこじれるらしいから。 しばらく会いません。 明日も、明後日も、一週間か一ヶ月か(※取り消し線を入れる)期限は思いつかない。 嫌いになったとか、別れたいとか、そういうことじゃなくて。 どのくらい離れていられるか、自分でもわからないけど。 愛してる、多分。考え出すと悪酔いしそうなくらい、愛してる、だから、
いつかお前を刺し殺してしまいそうだから。
もう会わない。」
煙草はすっかり生活の中に染みついてしまった。半年前まではこんなものに頼ってはいなかったはずなのに、今では気が付くと指が、シガレットケースと唇の間を30分置きに往復している。 首のうしろに、すべらかな肌の温度を感じた。白い軟体動物のような涙(るい)の腕が、するすると首の周囲をめぐって懐の中へ落ちた。 「一本もらうね」 器用に片手だけで背広の内ポケットからシガレットケースを取り出す。そのまま離れるかと思った次の瞬間、首をゆるくしめる腕が増え、体に馴染んだやわらかい重みを背中に感じた。 「・・・首。苦しいんだけど?」 花びらがほどける直前の、期待と不安でバラバラに壊れてしまいそうな花のつぼみ。 やわらかく花開くことを知っているのに、それを疑って愉しむ喜びの香り。 Pleasures。 「ん、人間マフラー。」 答える声は、くすくす笑いと唇にくわえた煙草のせいで、少しくぐもって聞こえた。 つい、と目の前を白い魚がよぎる。涙のむきだしの腕は、いつでも僕の目を惹きつけた。半分ほどの長さになってしまった、僕の煙草を取り上げるその指も。 自分の唇から離れていく白い魚を目で追って、首をわずかに上に持ち上げる。薄い唇を笑みの形に軽く引き上げ、僕と目を合わせて片目をつぶって見せる涙のくわえた煙草。頭上で、僕の燃え尽きそうな煙草とキスをした。 「何か着たら?」 一瞬のうちに胸の中にうずまいた痛み、うずき、喉もとまでせりあがったはずのすべての感情を押し殺して、僕は瞳を伏せた。
ふわり、ふわり。 煙草の煙に涙の香りが交じる。 目をとじた暗闇の中、首のまわりの白い生き物は、確かな温度を持っているのに僕をひどく不安にさせる。 不確かさが嫌なんじゃない。
「昼までうちにいるなんて、珍しいね」 僕の背中とソファの背もたれの間に移動した涙が言う。僕は無言で、また新しい煙草を一本取り出した。 背中と胸に空気の入る隙間もない、息苦しくなるくらい密着した体勢が気に入ってしまったらしく、涙の体は相変わらず僕の背中にあり続け、やわらかな腕が僕の首をゆるくしめあげる。 今、この腕を振り払って逃げるべきなのだ。 心のどこかで、そんな声がした。 煙草の本数が増えるだけ、涙と僕が近づくだけ、僕の心が僕を裏切る。 煙草の端を噛み締めるたび、本当に歯を立てたいのは違うものだと気付いてしまう。 懐の奥の奥、渡すことができなかった書き置きが重く胸にのしかかる。 眠る涙を残して逃げるように消えることは、ついに僕にはできなかった。 涙から離れたら僕は壊れてしまうけれど、 涙と一緒にいれば、いつか僕が涙を壊す。
僕が、涙を、壊す。
いつか、僕の心が理性を超えて。 本能のままに涙を押さえつけて。 壊してしまえば、それで僕は幸せになれるのだろうか?
今、この煙草はナイフになって。首のまわりの白い腕を乱暴につかみあげて。振り向きざまに片手で魚を縫いとめて、その腕よりも白い胸の中に。皮膚を破って肉を掻き分けて心臓をつらぬいて。 「緑?」 名前を呼ばれた瞬間に僕をしばる理性のたがは外れ。 泣かれてもかまわない、おびえるのなんて気にしない、そして僕は僕を裏切り。 ・・・振り向いてソファに押し付けた涙の唇の煙草から、また新しく自分の煙草に火をつけた。
いつか。――いつか。僕が涙を殺すことになったとして。 僕の心が幸せを感じられるようになるのかどうか、わからない。 涙の胸をつらぬいて、そこに僕が感じとるものが喜びであるかどうかなど、実際にその場に立ってみるまではわからないと知っている。 僕はいつまで僕のままでいられるだろう。 今、この胸に抱くものはやわらかな涙の香り。 けれども、指の先から、腹の底から、唇から、瞳の奥から、 突き上げるこの衝動に、いつか。
血のにおいがただよう。
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