蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2002年04月26日(金) ゆるやかな午後

尊敬する人は?と聞かれて、すぐに誰かの名前をあげられるだろうか。それも、自分と同時代を生きる人で、実際に会って言葉を交わしたことのある人の中で。

私にはひとり思い当たる人がいる。今日、その人とひさしぶりに会って、少しばかり話をした。本の話、美術の話、ほんの30分足らずだったけれど、とても楽しかった。彼は、文学、絵画、音楽、建築について、驚くほど何でもよく知っている。そして、その知識をひけらかしもしなければ、出し惜しみすることもない。どんどん人に与える。与えると言うよりは、よかったらどうぞ、くらいの気軽さで提示する。いつも冷静で穏やかで、それでいて心は活き活きと、気力に満ちている。どうしたら、彼のような人になれるのだろうか。興味は尽きない。

話しながら、その人がかつてフランスに留学していたことを思い出し、自分が須賀敦子関連の作品を続けて読んでいることもあって、彼のヨーロッパに対する思いを聞いてみたくなった。「日本との違いって何ですか?」

言ってしまってから、おそろしくぶしつけな質問だと気がついた。言語も違うし人種も違うし、ほかにも違いなんてそれこそ山のようにある。言い直した方がいいだろうかと慌てた。でも、この漠然とした問いのどこに焦点を当てるかによって、その人が生きていく上で大切にしているもの、物事の核心が見えてくるような気がした。私にとってその質問は「生きるってどういうことですか?」というのと等価だった。はぐらかさなければ、の話だけれど。逸る気持ちを抑えて、静かに答えを待った。

その人はこう答えた。「あちらは個人主義の国ですから、誰も他人のやることに構わないし、自分と違っていても、それを尊重しています。干渉してくることも、気を遣ってくれることもありません。はじめは冷たいなと思うかもしれませんが、こちらが求めれば、相手はできる範囲内で助けてくれます。お金持ちの人はお金持ちの人なりに、そうでない人はそうでないなりに、その人その人の人生を真剣に生きています。本当に、ひとりの人間にひとつの人生、ということが実感できます。そのことに気がつくと、とても生きやすくなります。日本ではそうはいかないですからね。他人と比べて遅れているとか、取り残されているとか、気にしますから。周りも放っておかないですし。『まだ結婚しないのか?』とかね(笑)・・・漠然と答えるなら、こういうことです。」

それから、にっこり笑ってこう付け足した。「一度、行かれたらいいですよ。それもできれば、旅行ではなくて、そこで暮らすといいですね。人々がそうやって生きている様子を見るだけでも、得るものがあると思いますよ。」

その人は、若いうちしかできないことがありますから、と言い残して、次の仕事に向かった。私はお茶をいれなおして、おみやげにいただいた柏餅を食べながら、茫々と広がる人生について、少し考えた。


2002年04月24日(水) それでもカプチーノ

午後6時過ぎ、いったん仕事の手を休めて、食事をしにおもてへ出る。日中はひなたにいると汗ばむくらいでも、この時間になると心もちつめたい風が吹き、何か一枚はおっていないと肌寒く感じられる。体調を崩しやすくなるのも、この気温の変化のせいだ。油断して薄着をしていると、とたんに風邪をひく。今は「魅惑の10連休」の前なので、風邪をひくわけにはいかない。外へ出るときは必ず上着をもって出かけるし、毎晩寝る前にはビタミン剤を飲むようにしている。

食事のあとはいつも、仕事場に戻る途中にある小さなパン屋さんで、カプチーノを買う。値段は自販機のコーヒーと50円くらいしか違わないが、こっちの方がずっとおいしい。ミルクの甘さとエスプレッソの苦みがちょうどいい。カプチーノを飲みながら、えいやっと気合いを入れて、残り数時間の仕事に向かう。

このパン屋さんには、以前付き合っていた人とそっくりな人が、ときどきパンを買いに来る。はじめて見たときは、本人かと勘違いして何も買わずに走って逃げてしまった(いろいろな理由で、私は以前付き合っていた人には二度と会いたくない)。数日後、またパン屋さんで同じ人を見かけた。前回はあわてて逃げてしまったけれど、よく考えればこんなところで会うことはまずない。少し離れたところから落ち着いて見てみると、本当によく似ているけれど別の人だった。視線を感じたのか、そっくりさんが振り返って、うっかり目が合ってしまった。私がよっぽど変な顔をしていたのかもしれない、そっくりさんはなかなか目をそらさなかった。目が合うとますます似ていて、私は金縛りにあったみたいに動けなくなった。その人と付き合っていた頃の空気を少し思い出した。言い返したいことがあるのに言葉が出てこない、息のつまるような感覚。酸素の薄い感じ。私は目的のカプチーノだけ買うと、急いでその場を立ち去った。

それから何度も、このパン屋さん周辺でそのそっくりさんを見かけた。見かけるたびにいちいち驚いた。だからこのごろは、パン屋さんへは、そのそっくりさんがいないのを確かめてから入ることにしている。そっくりさんに罪はないけれど、目が合うとやっぱり足がすくむのだから仕方ない。


2002年04月16日(火) 前を行く誰か

図書館で、知らないうちに誰かの後を追いかけていることがある。と言っても、実際に背後にぴったりとついて歩くわけではなくて、借りる本のことだ。

私がいつも利用する図書館には、返却コーナーのすぐ横に「今日返ってきた本」を並べる書架がある。図書館に行って借りていた本を返したら、私はまずここへざっと目を通す。回転のいい本はここに並ぶことが多い。探していた本も、読もうと思って忘れていた本も、たいていはここで見つかる。誰かの後を追っていることに気がつくのもまた、このときだ。

先週の金曜日、「今日返ってきた本」のところに『須賀敦子のミラノ』『須賀敦子のローマ』『須賀敦子のヴェネツィア』(すべて大竹昭子著 河出書房新社)があった。『・・・ヴェネツィア』は持っているので、『・・・ミラノ』を借りた。『コルシア書店の仲間たち』(須賀敦子著 文春文庫)の足跡をたどったこの本は、ただのミラノ観光ガイドではない。時折はさまれる写真には、ミラノで生活する須賀さんが見えるようだった。『コルシア書店・・・』は3年前に大学教授の薦めで読んだきりだったのだが、勢いづいて再読した。もっと須賀敦子を読もうと思って、今朝、図書館へ行ったら、例の書架には『文藝別冊 追悼特集 須賀敦子』と『ある家族の会話』(ナタリア・ギンズブルグ著/須賀敦子訳 白水社)があった。明らかに、私の前を歩く誰かがいる。そう確信して、この2冊を借りた。

昔のように、本の後ろに貸出カードがついていたころは、誰がその本を借りたのか知ることができた。貸出カードにたびたび見かける名前があると、知らない人でも自分と本の好みが似ているのだと思って、なんだか親しいような気がしたし、本など読まないように見えた友達の名前を貸出カードに見つけた時の、ちょっと裏切られたような驚きも楽しいものだった。しかし、そんなことができたのは高校の図書室までで、公共図書館や大学図書館などは全てコンピュータで管理されていて、図書館員でも何でもない私たちがそれを知る術はない。見えない誰かが借りた本を、続けて私が借りる。一度つかまえた流れに、どこまで乗って行けるだろうか。


2002年04月14日(日) 本屋でrendez-vous!!

さっきから、隣の家の前に車が止まっている。大学生らしい男の子が一人乗っていて、窓を開けて辺りを眺めながら煙草を吸っている。隣の家の女の子を待っているようだ。女の子は玄関と車の間を何度も行ったり来たりしながら、なかなか出かける仕度ができないようだ。それでも彼氏は根気よく、もう1時間近くも待っている。いいから早く出かけたらいいのに、なんて、部屋の窓からときどきのぞき見る私も私だけれど。

誰かを待つのが苦手だ。待ち合わせをすると、相手が現れるまでずっとどきどきしている。ちゃんと来るかな、どっちの方から来るかな、どんな格好をしてるかな、来たら見つけられるかな、向こうは私に気づくかな、…。これは恋人に限らず、友人でも同じことだ。私はたいていの場合、約束の時間ぴったりに待ち合わせ場所に着く。遅れるかなと思い、途中で少し急ぐため、結果として間に合うという感じだ。私が着いた時、相手はまだ来ていないことが多い。

「待たされている」と思って腹を立てたことは、たぶんない。待てども待てども来ないと、腹は立たないけれど心細くなる。遅れてしまうのは仕方のないことだし、遅れたこと自体ははっきり言ってどうでもいい。本当にいやなのは、待っている間の手持ち無沙汰とか、どうしようもなくどきどきして落ち着かないとか、そういうことなのだ。何となくふらふらとその辺を歩いてみたり、意味もなく手帳をとり出してみたり、携帯電話の画面を見つめたり、行き交う人の靴を眺めたりして時間をやり過ごす。

だから、待ち合わせの場所にも工夫が必要で、万が一どちらかが遅れた場合でも、退屈しないですむところがいい。さらに付け加えるなら、傍から見て、待ち合わせをしているようには見えなくて、ひとりでいても何時間いても何の問題もなく、すんなりとその空間になじめるところがいい。

2とはいつも本屋で待ち合わせをする。ここなら、少なくとも退屈することはない。何時間いても苦にならない場所だ。反対に、本探しに夢中になっていて、2が来たことに気がつかないことがあった。お互いに同じフロアにいながら、40分も相手を待ちつづけていた。私はフロア内をうろうろと歩いていたのに、一度もすれ違わなかったのだから、今考えても不思議だ。40分間、本探しに夢中になりつつも、どきどきして苦しかったことは言うまでもない。


2002年04月11日(木) 理想のかたち

先月からずっと週6勤務が続いている。仕事自体はそれほど忙しくないけれど、職場にいるだけでも、なんとなく疲れるものだ。眠いし、頭は働かないし、だるいし、とても生産性の低い生活を送っている。

休みが一日しかないと、どうしても行動範囲が狭くなる。ひどいときは家から一歩も出ないで、ひたすらのんびりだらだらをきめこむ。どこか出かけたいなあ、と思いながらも体がついていかない。ちょっとはりきって出かけたりすると、次の週がつらくなる。やっぱり理想は週休2日なのだ。一日はきちんと休息して、もう一日は思いきり遊ぶ。

今は、観たい映画が4本、行きたい展覧会が3つ、それに、行かなきゃいけない運転免許の更新。体の疲れを理由にして予定を延ばし延ばしにしていると、こうやってどんどん山積みになっていく。

今週の土曜日出勤すれば、来週の土曜日は休みだ。さらにその次の週はゴールデンウィーク!今年は、なかば強引に10連休をとりつけた。連休の予定はまだ決めていないが、近いうちに「絵葉書」が更新されるような気配。まずは、たまりにたまってしまった予定をかたっぱしから消化していくつもりだ。


2002年04月07日(日) わがままなふたりのはなし

7週間ぶりに数字の2に会った。まったく遠距離恋愛のような私たちだけれど、これでもふたりは一応都民である。こんなにも会わないで(会えないで)いる理由はいろいろある。仕事の都合もあるし、お互いの家が遠いというのもある。けれども、そういう物理的な制約なんかよりももっと決定的な理由は、ひとりでいるのが好きだから。

別に会いたくないわけではない。矛盾しているようだけれど、少なくとも私は、いつでも会いたいと思っている。それと同時に、ひとりでいたい時間、ひとりで観たい映画、ひとりで行きたい場所というのがある。

ひとりで行きたい場所は、たとえば美術館がそうで、行くときは必ずひとり。恋人も友人も家族も誰も誘わない。何年か前までは、友人と一緒に行くこともあったけれど、そのたびにやっぱりひとりで来ればよかったと思った。と言うのも、私は相当のめり込んで絵を見るので、必ずと言っていいほど一緒に来た人とはぐれるし、そうならないように気を遣うと、今度はじっくりと絵を見るどころではなくなる。それに、絵を見ている間は誰にも邪魔されたくない。特に、横から感想を言われると困る。見ている瞬間は、完全にひとりの世界がいい。誰かとその瞬間を分かち合えるほど、私はまだ器用じゃない。

これだけわがままでいられるのも、ひとりだからできることだろう。ひとりは軽快で自由で、少し寂しい。だから私はひとりでいることに飽きると、今すぐにでも2に会いたくなる。そしてひさしぶりに会うと、それぞれが過ごした時間について、思い出せるかぎりのことを話す。それはとても楽しく驚きに満ちていて、ふたりでいるのもいいなと思う。


2002年04月06日(土) マロの誕生日

愛犬マロの誕生日、うちのやんちゃ坊主はめでたく2歳になった。私は朝起きるなり、おはようも言わずに、今日はマロの誕生日だよ!と父と母と妹にふれまわった。さまざまな記念日を覚えているのはうちでは私くらいなので、こうして宣伝しておかないと、大切な日もただ何事もなく過ぎ去ってしまいかねない。案の定、言われてみればそうだったねえ、というのんきな返事がかえってきた。父と母をせかして、妹がバイトに出かける前に、家族みんなで写真を撮った。いざ撮るときになって、私は起き抜けのぼろぼろの格好のままだったことに気がついた。着替える時間はなかったので、そのままの格好で写ってしまった。

当のマロはというと、はじめのうちこそ、みんな何で騒いでいるの?とでも言いたげな顔をしていたけれど、口々にお誕生日おめでとう!と言われると、にっこり笑ってうれしいときのポーズ(耳を後ろにぺたっと寝かす)をした。

ときどき不思議に思うのは、マロは今まで一度も日本語を話したことがないにもかかわらず、会話に困ったことがないということだ。まるで日本語でやりとりをしているかのように、お互いの言っていることが手にとるようにわかる。私は何のためらいもなくマロに話しかけるし、歌を歌ってやるときもある。そんなとき、マロはじっと私の目を見て、耳をそばだてて聞いている。マロはわんわん吠えたりしないかわりに、何か言いたいことがあると、首をかしげたり耳でうったえたりする(ウェルシュ・コーギーはしっぽがない。全ての感情は耳で表される)。もっと主張したいときは、小さく「ぐふっ」とか「ぼこっ」とかいう声を出す。これで、コミュニケーションは十分に成り立つのだ。仕事の愚痴も、恋愛の一進一退も、何でもマロに話す。マロはちゃんと聞いていて感想をくれる。こちらがあまりに落ち込んでいて話す気力もないときなど、向こうからごそごそとそばに寄ってきて、べったりくっついてなぐさめてくれる。私に限らず父も母も、マロが反論しないのをいいことに、ありとあらゆることを話しかけている。話の終わり、「(そうだよ)な?マロ」は、父の口癖だ。

こんな調子だから、マロはおそらく家族の誰よりも、みんなのことをよくわかっているはずだ。もしかしたら、すごい秘密をにぎっているかもしれない。マロが日本語を話せるようになったら、とんだ騒ぎになるだろう。もっとも、マロは秘密をべらべらしゃべるような犬には見えないが。

マロ、2歳の誕生日おめでとう!これからも仲良くしようね!


2002年04月02日(火) 今夏の予定

しばらくの間、腕時計をつけるのをやめようと思う。自分の体のリズム、天然の感覚で生活したい。そのかわり、革の腕輪を買った。左手首にある程度の重さがないと、何となく落ち着かないからだ。腕輪は江國さんがつけているのと似ているが、私のはもう少し短くて、手首をちょうど2周する長さだ。それに当然エルメスじゃない。

時計をつけないなんて社会人にあるまじき行為かもしれないけれど(就職の面接では靴と時計は目ざとくチェックされているらしい)、実際には時計をつけていなくてもそれほど困ることはない。携帯電話にも時刻が表示されているし、街中でも探せばいたるところに時計がある。私は1分1秒を争う仕事をしているわけではないので、仕事においても特に支障はない。

一日の中で、最も時間が気になるのはバスに乗るときだ。このときばかりは、時計とにらめっこになる。もたもたと出かけるしたくをしていると、うっかりバスに乗り遅れてしまう。私の家は駅から遠いので、バスに乗らないことには話にならない。でも、したくをしながら見ているのは部屋の時計なので、外出先で時計が必要な場面というのは、考えるとあまりないことに気づく。

今年の夏はTシャツとジーンズで身軽に過ごすつもりだ。というのも、街では白くてふわふわしたかわいらしい服が流行っているようだが、あれはどうも私の趣味に合わないので、今夏はちょっと遠慮したい。この腕輪を唯一のアクセントとして、身も心も軽くシンプルにいきたい。


2002年04月01日(月) 線路は続くよどこまでも

電車の中で本を読むことが多い。ほぼ毎日である。バス→電車→電車→バスと乗り継いで仕事場へ向かうのだが、電車に乗っている時間が長いため、その時間を読書に費やしている。電車での読書はとてもはかどる。今日も話に夢中になっていて、危うく乗り過ごすところだった。

今日読んでいたのは『ふたりのロッテ』。何日か続けてひとりごとの話題にしていたら、また読みたくなったので、さっそく通勤のお供に。私の本棚には、いくつかお気に入りの岩波少年文庫が並んでいる。小学校の図書室で出会って以来、ずらり並んだこの明るい背表紙の本は、私にはとても親しいものとなった。『ふたりのロッテ』以外では、『レムラインさんの超能力』(ピンク色の背表紙)や『床下の小人たち』(こちらは黄色)が大好きだ。オレンジ色だと、ドリトル先生シリーズがある。青色の背表紙の本もあったはずなのに見つからない。どこへ消えたのだろう。

電車の読書で困るのは、話があまりにもおもしろくて笑ってしまうことだ。笑いをこらえようと必死になるのだが、時すでに遅し。口元はにやけているし、ひどい時にはくふふと声まで出てしまう。満員電車のそれは、結構恥ずかしい。だから、電車で読む本はきちんと選ばなくてはならない。泣きそうになるのも困りものだし、ひどくのめりこんでいて心ここにあらずの表情を他人に見られるのも、できれば避けたい。

電車の中で「おとなしく」本を読むというのは、案外難しい。明日は何を読もうか。手元にある本はあらかた読んでしまったために、近頃は再読が多い。ついこの間も『ホテルカクタス』を読んだ。『ホテルカクタス』の話は、また別の機会にゆっくりとするつもりでいる。明日は少し早めに家を出て、図書館に寄ることにしよう。


蜜白玉 |MAILHomePage