新国立劇場のオペラを見てきた。今シーズン三回目。今日はマスネー作曲の「ウェルテル」。 これは初めてである。 ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を、フランス人であるマスネーがオペラにしたもの。 ウェルテル役のジュセッペ・サバティーニはじめ、主な役三人がイタリア人、なかなかの熱演で、見応えがある舞台だった。 連れ合いは、いま花粉のシーズンなので、演奏中にくしゃみが出たら大変と、花粉防止のマスクをして出かけたが、幸い場内のエアコンが良かったのか、一度も発作におそわれることなく、気持ちよく鑑賞できたようだ。 いつも、この劇場では知った人に会うが、今日もつれ合いの元の職場の人が、夫婦で来ていた。 今シーズンは、あと5月に「トスか」を取ってある。 来シーズンの先行予約の案内が来ていて、演目を選ぶのに迷っているところ。「ルチア」「オテロ」「イル・トロバトーレ」、もう一つは「椿姫」か「ラ・ボエーム」かと、決めかねている。 新国立劇場は、オペラ劇場としては、いまの日本では最高なのではないだろうか。五十嵐喜芳が芸術監督になってから、オペラが充実してきた。日本人の歌手も、どんどんいい人が出ている。観客は、中年以上の人が大半で、落ち着いた雰囲気がある。 S席を二枚ずつ、4演目まとめて予約すると、けっこうな値段になるが、私は毛皮や着物、グルメといった趣味はないので、ささやかな贅沢のつもりで、夫婦の共通の趣味としてのオペラを愉しんでいる。 2002年02月28日 01時19分58秒 二月尽 今日で今年も6分の1が経過した。 新年を迎えたとき、まだ一年と思ったが、2月も終わるとなると、すぐに年があらたまってしまうような気がする。 いま、10年年下の人に会うと、若いなあと思うが、年上の人からは、こちらが若いと思われているのだ。だから、いま自分が生きている時を、一番いい時と思うようにしたい。 そうは言っても、やはり年々歳を重ねるのが、時としてつらいと思うことがある。 若さというのが理屈抜きに、キラキラと輝いていた日々、夢中で子育てしていた母としての毎日、海外で過ごした頃・・と、半世紀は瞬く間に過ぎて、いまは人生の秋と言ったところか。 シベリア横断鉄道の窓から眺めた残照の美しさを、我が人生の行く手に見るのは、虫が良すぎるだろうか。そこには、名残の薔薇も咲いているかも知れぬに・・・ああ! 2002年02月28日 22時57分28秒
私は夜型、寝るのが12時過ぎ、朝は7時前に起きれば早いほうである。 連れ合いは朝型だった。サラリーマン時代はいつも6時前に起き、食事や身支度に時間を掛けて、出かけていた。それに長年付き合ってきたので、私も5時半頃に起きる生活をしてきたが、連れ合いがリタイアして、それほど早く起きなくていいことになると、2時間ほどずれてしまった。もともと朝が弱いのに、無理して起きていたことが、よくわかった。 連れ合いの方は、しばらくは、早起きしていたが、私が目を覚まさないので、お腹をすかせたまま、待っていることになる。 「自分で朝ご飯ぐらい作れば」と、私はいうが、長年の習慣を変えるのは大変らしく、結局私の時間帯に合わせてしまい、いまや、夫婦そろって、朝寝となってしまった。 冬は寒いので、目を覚ましても、なかなか起きられず、寝物語ならぬ朝語りをして、部屋が暖まった頃に、やっと起き出す始末である。 暖かくなってきたので、こんな怠惰な生活をあらためなければいけない。 いつぞやは、8時前に電話を掛けてきた人がいて、寝起きの声で応対していたら、「風邪ですか」といわれてしまった。 今日は、遅い朝食のあと、連れ合いはスポーツジムに出かけた。 天気が悪いので、洗濯も掃除もしないつもりでいたら、昼前に日が差してきた。そこで、庭に水まきをした。私の部屋の窓の下に、チューリップの球根を植えたので、水をやった。10センチほどに伸びている。この暖かさが続けば、まもなく花が咲くだろう。 梅の花に気を取られていたが、南側の沈丁花が、ほぼ満開である。匂いが薄いのは、どういうわけだろう。大気汚染などと関係があるのだろうか。 私は、沈丁花の、花の咲かない赤紫のつぼみが好きなので、白い花を咲かせてしまうと、少し感興がそがれる。 水を撒いていると、南の家の気配が時々感じられることがある。しかし、今日はひっそりしている。最近、明治生まれの奥さんが亡くなり、ご主人も入院中なので、前に来ていたお手伝いさんや、介護の人たちが来なくなったのだろう。 どんなに仲の良い夫婦でも、どちらかが先に逝く。私は、連れ合いのいなくなったあとの人生は、想像が付かないので、出来れば自分がお先に失礼したいが、これだけは神様の思し召し、ケンカしながら、揃っている時を、大事に過ごすべきかもしれない。 2002年02月27日 14時02分27秒
・・・の喩え通り、また保存の失敗をした。アクセスう数500を超えたなどと、ちょっといい気になっていた矢先である。 エッセイをひとつ書き足そうと、入力をはじめ、途中で音楽会に行く時間になった。そこで、いったん止め、保存をして出かけた。 佐藤美枝子のソプラノリサイタルはすばらしかった。得意の「ルチア」のアリアも、ベリーニや、ドニゼッティも、コロラチュアの声に合って、見事な技巧だった。 いい気持ちで帰ってきて、さてと、書きかけのファイルを開けたら、なんと、私のホームページ7ページ分のうち、6ページ分が真っ白になっているではないか。 あわててあちこち開けてみたが、どうも保存のやり方が悪くて、書きかけの7枚目に、6枚の白紙が付いて、上書きしてしまったらしい。 でもウエブ上では、元のまま表示されている。 制作ソフトに入った原稿がなくなったというわけである。 原稿がなくても、表示されている状態のままで良ければ、しばらくそのままにしておけばいいのである。しかし、原稿を直したり、書き加えるときは、ウエブ上では出来ないので、ソフトのファイルを開いて、操作し、アップロードする必要がある。まずは表紙からリンクさせて、別のページに飛ばすことが出来ないと困るのだ。 一昼夜して、家人が、「ウエブ上のテキストをコピーして白紙に貼り付け、背景やレイアウトだけ作ったら、それでいいんじゃない?」と言い出した。そこでやってみた。 表示されている私のページのテキストだけコピーし、ソフトの中で白紙状態になっているページに貼り付けてみた。文字化けするのではと危ぶんだが、そのまま表示された。今度は、そのページに、背景の色や区切り線を入れ、テキストの位置とフォントを修正しながら、、段落ごとに、コピー、切り取り、貼り付けを繰り返して、どうやらもとの原稿に近いものが復元した。 どうせ作り変えるのだからと、表紙は壁紙と写真を一新、レイアウトを少し変え、リンクもやり直して無事完了。ほっとした。 2ページ以下は、まだ出力していないので、いまウエブ上に表示されているのは、原稿がなくなったページの分である。いま、1ページずつ、再構成しているところである。 制作ソフトは便利だが、こういう失敗もある。ハイパーテキストの知識があれば、自分で作る方がいいと思う。 でもジオのツールは、ソフトのページと関係ないので、こういうときでもちゃんとファイルマネージャーで編集できるのが嬉しい。 制作ソフトは、ファイルマネージャーで見ることは出来るが、直接編集できないところが弱点である。 でも失敗したおかげで、またひとつ覚えた。表紙も新しくなった。過去にこだわらず、前進していくのが、この世界の気の持ち方かもしれない。 2002年02月26日 12時12分45秒 梅の香り 我が家の紅梅がほぼ満開である。 二階の窓から全景を見ると、この木を中心に野鳥が訪れている。 下では、木を見上げることになるが、よい香りが漂う。少し大きくなりすぎて、形が悪くなってしまったが、10年前はもうすこし花の数が多かった。毎年庭師が手入れをしているが、枝を切りつめても、木はどんどん大きくなり、広がりすぎて、花が減ったように思う。 鵯は、花の蜜を吸ったついでに、花びらを落としてゆく。ほかの小さな鳥たちは、新芽に付いた虫を食べてくれる。冬の間、野鳥のための餌台をしつらえて、麻の実やトウモロコシ、バナナやみかん、特製のバードケーキを置いておく。 ケーキは、粉、マーガリン、砂糖を4.2.1の割合でこねて、細長く丸め、円筒型の網に入れておく。これはどの鳥も好きで、四十雀、雀、鵯、目白の好物である。粉とマーガリンがすぐなくなってしまう。 暖かくなると、餌台は片づけることにしている。野鳥が持つ、自然の力を衰えさせてはいけないからだ。 巣箱も木に仕掛けてあるが、お目当ての四十雀がなかなか入ってくれない。何年か前、珍しく四十雀が巣箱に入ったことがあり、育雛の有様をつぶさに観察した。雛が育つまで、道路側の垣根に「四十雀が子育てしています。お静かに」という札を掛けておいた。 木と野鳥は、お互いに持ちつ持たれつの関係にある。自然の営みに、感慨を覚える季節である。 2002年02月26日 22時36分01秒
「茉莉花の部屋」のカウンター数が500を超えた。 ホームページを作ろうと思い立ったのが暮れの半ば。きっかけは、ネットで連句をするための掲示板がほしかったからである。 連句は、一か所に集まって、座を作ってやるのが本来の姿で、私もその形が好きだが、どこでも、誰とでもというわけに行かないところがある。「いらっしゃい」と誘われれば、なるべく参加することにしているが、人付き合いの下手な私には、なかなか声がかからないし、時間と場所が合わなかったり、行っても雰囲気に馴染まなかったりする。 そこで、昨年になって、パソコンの操作でメールぐらい出来るようになったのをきっかけに、メールの連句をしてみた。もちろん、付き合ってくれる人がいての話である。 はじめは戸惑ったが、やってみると面白いし、座と違って、考える時間があるので、私には、とてもいい勉強になった。また、連句の付け合いに伴って、いろいろなおしゃべりが出来るのも、愉しかった。そのうち、ネット連句のサイトにも、参加してみたりして、すっかりはまってしまった。 掲示板を使えば、4,5人でもうまく運ぶこともわかり、それを設置するには自分のホームページを持っている必要があったので、あまり後先を考えずに、ジオに申し込んだというわけである。 掲示板は、ホームページを持っていなくても借りられることが、あとで解ったが、せっかく作ったのだから、連句だけでなく、私の日記帳代わりに、使ってみることにした。 まず、ジオの既製品で、表紙を作った。しかし、10日もすると、オリジナルなものに変えたくなり、ホームページ制作ソフトを使って、作り替えた。暮れから正月に掛けて、しばらくそのままにしておいた。 年が明けて2,3日して、エッセイをひとつアップロードし、表紙の写真を変えたり、レイアウトを直したりしているうちに、器械が動かなくなり、10日ほど、アドレス不表示になった。 何とかだましだましで、日記を書き続け、片や、別のところから掲示板を借りて、連句の準備をしていたら、器械の調子がますますおかしくなり、メーカーに問い合わせたら、修理に出さねばだめだという。そこで、また2週間のブランクが出来た。パソコンは、手元になくても、ウエブ上では、ホームページはちゃんと表示されていて、時々家人のパソコンから覗かせて貰った。主不在のゲストブックに、お客さんの投稿があったときは、嬉しかった。 やがて器械は戻ったが、保存のやり方を間違ったため、ホームページを全面的に作り直した。写真も、壁紙の色も、レイアウトも一新し、中途半端なエッセイは破棄、制作ソフトもインストールし直した。 ジオのゲストブックは、前のまま、日記は月が変わったので新しく設置、カウンターは前の数字が生きていたので、そのまま新しい表紙にくっつけた。 だから500というカウンターの数字は、約一ヶ月間のアクセス数ということになる。 自分でも日に5,6回はアクセスするので、それを除けば、ひとがアクセスしたのは一日平均14,5回ということになるだろうか。 ページを作り替えてから2週間の間に、シナリオやエッセイ、日記をせっせと書き込んだので、やっと7ページになった。 家族や友人など、顔見知りのひとにはほとんど知らせてないので、アクセスしてくれたひとは、新しいネット上のお客さんである。 正直なところ、500件のアクセスがあるとは思ってなかったので、行きずりに開けてくれた人がそれだけいることは、嬉しい。 無理をせず、自分のスタイルで、少しずつ、中身を増やしていきたいと思う。 私の部屋に来てくださった方、有り難うございます。 2002年02月25日 00時13分05秒
久しぶりに見たテレビに感動した。 兵庫県のある公立病院で、車いすを使わない介護に取り組み、その結果、いままで歩けなかった年寄りが、少しずつ歩けるようになったという話である。 脳梗塞などで倒れ、手足に麻痺が残ると、車いすになり、本人も周囲も、歩けないとあきらめてしまうのが、これまでの常識だった。 でも、ある女性医師が、車いすというものが、歩く能力を奪っていることを指摘し、生活動作の中でリハビリを行うことを提唱し、病院あげて取り組んでいく現場の三ヶ月を追っていた。 歩くことに、具体的な目標を、それぞれの人の生活の中から見いだし、それに合わせた訓練をする。ある女性は、三ヶ月あとに控えた孫娘の結婚式に出たいという。またある男性は、入院するまで花壇を作っていた。そこで、療法士は、病室の廊下に四角いコンテナと、鉢植えの花をしつらえ、その場所まで10メートルの距離を歩くべく、リハビリを持ちかける。 動かない足に特別の靴をセットし、残った体の力を使って、毎日訓練した結果、歩けるようになったのである。その姿は感動的だった。 歩くということがいかに大切か、私も経験がある。15年ほど前、大病して3ヶ月入院した。状態の悪かった一月は、検査や診療を受けに行くのに車いすだった。だんだん回復して、終わりの半月ほどは、なるべく病院内を歩くようにしたが、それでも、体力がびっくりするほど落ちているのが自分でも解った。階段を下りるのに、手すりにつかまらなければならず、立ったりしゃがんだりの動作が出来なくなっていた。筋肉は、使わなければ、年に関係なくだめになるのだと、痛感した。 退院してしばらくは、常用していた自転車が、怖くて乗れなかった。元の体力に戻るのに、一月かかった。 先日、母の元を訪れたとき、父があまり歩かないので、足が弱くなったと言っていた。寒いときに風邪でも引くといけないからと、外に出なかったらしい。介護付きマンションの筈だが、散歩をさせてくれる手がないと見える。 暖かい日に、時々行って、父の散歩に付き合ってあげたいと思う。 2002年02月23日 23時59分01秒
暖かくなってくると、花粉症に悩む人が増えてくる。我が家の主もそのたぐいで、2月半ばから4月初め頃まで、つらい季節となるようだ。 外出時には、柔らかいティッシュが欠かせないし、洗濯物は、その分だけ外に干さず、うちの中につるしてある。天気のいい日でも、布団を干すわけにいかず、ベッドの上に広げるのがせいぜい、花粉がつくのを防ぐためである。 外から帰ると、うちに入る前に、コートなどの花粉をよく落とさねばならない。それでも、中に入ったとたんにクシャン、クシャンと、くしゃみを連発するのは、窓から入った微妙な花粉のせいである。 若い頃は、こんなことはなかった。花粉症というのは、生まれつきのものでなく、ある時突然発症するらしく、その原因や、発症のメカニズムはよくわからないそうだ。大気汚染が一因という説もある。 注射や、投薬による治療も試したことがあるが、あまり効かないようであるし、別の副作用がありそうな気がして、止めてしまった。 この2年ほど、どこで知ったのか「甜茶」がいいと聞き、煎じて日常的に飲んでいる。薬と違って、即効性はないが、体質改善になるのではないかといって飲み始め、今年あたりは、少し効果があったのか、点鼻薬など使わなくても、それほどつらくはないようだ。 人によって効き目も違うので、やたらとは勧めないが、医者や薬の力を借りたくない向きには、試してみるのもいいかもしれない。 でも、私が知らせてあげたある人は、効き目がないといって、半年もしないで止めてしまった。こういうものは、「鰯の頭」みたいなものだから、無理することはないのである。 私の場合、花粉症ではないが、若いときは、この季節、やたらと目が痒くなり、涙が出たり、腫れぼったくなるので、鬱陶しかった。 しかし、ある時から、その症状が出なくなった。なぜだか判らない。年齢とともに、どこか体質の変化があったのだろう。 「暖かくなったら・・」という挨拶が聞かれるこのごろだが、私は、1月半ばから2月初め頃までの、寒い静謐な季節の方が好きだ。 2002年02月22日 21時13分47秒
厚いコートを着て外出したら、少しうっとうしく感じるほど、今日は暖かい一日だった。 「近代文学を語る」という、大河内昭爾氏の講座にでる。話が面白いので、昨年9月から出ている。今日は、岡本かの子や、島尾敏雄、そのたもろもろ。必ずしも、文学の話だけではない。あちらへ飛び、こちらに戻り、戦時中の軍国少年だった体験談も混じり、興味が尽きない。 終わって、3時前だったので、そのまま杉並の両親のところに行く。ひと月以上、行かなかったので、喜んでくれた。 母は、大分耳が遠く、大きな声で話さなければならないので、正直疲れる。向こうが、話が溜まっているのを幸い、もっぱら聞き役に回る。 父の方は元気だが、私の顔と名前が一致しているのかどうか、でも、昨日の続きのように、自然に会話できるのは嬉しい。 両親は、私の家で3年暮らし、妹のところで1年ちょっと過ごし、昨年8月に、いまのケア付きマンションを買って移った。その経緯は、とても一口では話せないくらい、いろいろなことがあり、夫婦、親子、きょうだい、さまざまな人間関係が絡み合い、介護の問題もきわめてホットなテーマとしてあり、ずいぶんいろいろな思いをし、皆がそれぞれ傷ついて、いまの形になった。 自分の親をほめるのはなんだが、見事な親たちだと思う。子供の傘下にはいることを潔しとせず、行くと「体に気を付けて、長生きしなさい」などと、母が言うのである。 今日も行く前に、駅から電話した。すると、ちゃんとお寿司や、お菓子が待っていた。母の入れたお茶を飲んで、夕方帰ってきた。親たちにとって、私はいつまでも娘なのだろう。 母は今年89歳を迎え、父も5月に92歳になる。 2002年02月21日 21時34分53秒
昨日は、隣家の奥さんの通夜だった。今日は告別式である。 人を送るかたちはさまざま、そう言うところに出るたびに、いろいろなことを感じる。自然の寿命に近い歳で亡くなった人のものは、オーソドックスなしきたりによるものが多いようだ。 2年前に癌で死んだ私の友人の場合は、宗教によらず、「お別れ会」というかたちで、故人の遺影の前で、一人一人献花するという、シンプルなものだった。モーツァルトのレクイエムを流し、アナウンサーの経歴を持つ彼女の、生前の朗読テープをかけた。残された家族の思いがよく現れていたと思う。 私の場合はどうしてほしいか、考えたことがある。宗教によらず、やはり音楽葬がいい。アルビノーニのアダージオをかけて貰う。何色でもいいが薔薇の花を一輪ずつ供えて貰い、遺影は、私が一番気に入っている34歳の時南米で撮った写真にする。生涯を通じてのことだから、死んだ歳とかけ離れたものでいいと思う。今の私とは、あまりに違って、美しすぎるので(しょってるねえ)、来た人は、会場を間違えたかと思うかもしれぬ。 「こんなことなら、アイラブユーくらい言っておけばよかった」と、並み居る男たちに、後悔の涙を流して貰いたい。 あの世から、そんな風景をにんまりしながら眺めるのもいいではないか。 筆が滑って、つい、不謹慎なことを書いた。 2002年02月18日 10時43分49秒
隣家の奥さんが亡くなった。 一週間前に救急車がきて、入院していたことは聞いていた。明治生まれ、91歳、寿命と言っていいだろう。2人の息子が、代わる代わる訪れてめんどうを見ていた。晩年は、ご主人共々、24時間介護態勢になり、住み込みのお手伝いさんも含め、いろいろなサービスも受けていた。 若い頃は、ジャーナリストとして働いていたと聞いている。私がここへ引っ越してきたときは、まだ60代、若く、何も知らない私たちのよき先生であり、理解者でもあった。近隣関係でわからないことがあると、私はすぐその奥さんのところに行って、教えを請うた。的確で理性的なアドバイスは、とてもありがたかった。 「ご近所は選べませんから。ベタベタした付き合いは必要ないの。何かあったときだけ、助け合えばいいのよ。むしろクールなおつきあいの方がいいのよ」といつも言ってくれた。それは、人付き合いの下手な私に対する、思いやりだったと思う。 私が病気で、3ヶ月近く入院したときも、留守中の家のことを、何かと気遣ってくれた。こちらの気持ちの負担にならないように、さりげなく、うちの前を掃除してくれたり、配達物を預かってくれたりした。 私が、薬の副作用で、髪がひどく抜け、カツラをかぶっていたことがあった。そのときの、奥さんの言葉を私は一生忘れない。 奥さんはこう言ったのである。 「髪の毛なんて、またすぐ生えてきますよ。悪いものは、無くなった方がいいの。カツラでも何でも、利用できるものはどんどん使って、おしゃれなさいね」 率直で、暖かい言葉だった。 人の世話になることを好まず、誇り高い人だったので、自分でいろいろなことが出来なくなってからは、家に閉じこもり、この2年ほどは、姿を見せず、息子さんたちを通じて、元気かどうかを知るだけになっていた。いつか、お返しできるときがあるかと思っていたが、何もお返ししないうちに、逝ってしまった。 思い出すと、涙があふれてくる。入院中のご主人は、長年連れ添った妻の死を、どう受け止めただろうか。合掌。 2002年02月16日 13時00分03秒
庭に紅梅の木が一本ある。もう大分ほころびかけて、赤みが増してきている。花の開花につれて、少しずつ暖かくなり、日も長くなるようだ。 今日は小金井に住む人に招かれ、連句の座に参加。5人で半歌仙を楽しんだ。白一点の小金井人は、私たちが「枯れ蟷螂」などとあだ名を付け、本人も満更でもないようなので、住まいを勝手に「蟷螂庵」などと名付けてしまった。 昼に集まり、お弁当を食べ、ゆっくりと半歌仙を巻き、5時にぴたりと辞し、よい一日だった。 今まで使っていたメールソフトが、保存の失敗で、使えなくなってしまったため、昨日から別のメールソフトに切り替えた。もう一つ、ネット用のヤフーメールも利用して、そのフィルターを通して受信してみている。昨日ある人からメールが来て、「三つのアドレスは、どれが正しいのか」と訊かれたので、「今までので大丈夫です」と返信した。 アウトルックエキスプレスに慣れていたので、新しいメールソフトは使いにくい。私のパソコンの故障は、ウイルスとは関係ないのだが、ファイルが凍結されてしまった点では、むしろウイルスよりダメージが大きい。 せっかく直って帰ってきたパソコンを、書き込み禁止のCDが、全部上書きしたことになるからで、テキストの挿入も削除もできないのである。一太郎ファイルに溜めていた書きかけの旅行記、エッセイなど、すべて入力し直さねばならず、大変な時間のロスになる。 まあ、私の書いたものなど、ひとには何の価値もないものだが、逐次ホームページに載せようと思っていただけに、ショックだった。 でも本当は、私よりも、保存を手伝ってくれた家人の方が、ショックが大きいようなので、あまり嘆くわけにもいかない。 ホームページは、前に作ったものは練習台と割り切り、ジオのファイルマネージャーを使って、潔く削除した。 背景の色を明るくし、写真も既製のものをとりあえず使って、アップした。エッセイも気に入らなかったので削除、せいせいした。 2002年02月14日 23時10分10秒
夕べは、ヨーロッパ在住経験者の集まりがあった。もう一昔前の、その国に住んでいた頃の会が、帰国後もずーっと続いていて、毎年今頃の季節に、集まることになっている。 男性の人脈中心の会なので、私はあまり出たい方ではないが、奥さん同伴が原則なので、付き合いで出ている。特に、今年は、順番で当番が回ってきたので、私も家人に手伝って、名簿のコピーや、会場では会費を集めたりした。 ひところまでは、大勢出席したが、だんだん男の人たちもリタイアしたり、住まいが変わったりで、年々少しずつ参加者が減り、昨日は32人ほど。風邪引きなどで急に来られなくなった人たちもいて、当初の申し込みより、5,6人少なかった。新宿のホテルでは、大きな会場を用意してくれて、しかも当日の実人数分の費用でいいという約束なので、ちょっと気の毒だった。 私は外国生活をしている間、ゴルフ、麻雀、ブリッジという、「三大プレイ」に無縁で過ごしたので、付き合いが悪く、ほとんど親しい人もいないが、それでも、3人くらいは、話の合う人がいるので、まあまあ愉しかった。 こういう集まりは年一回がいいところ、特に女は、付き合いぐらい自分の選んだ人と、と思うだろう。亭主の人脈で、添え物的につきあうのは、ほどほどにしたいと思っているはず。 でも、これを楽しみにしている人もいるので、中心になっている人たちが止めるといわない限り、続くだろう。 元気だった連れあいを亡くした人のために、黙祷した。寒くはあったが、天気に恵まれて幸いだった。 2002年02月13日 20時08分29秒
先月28日に、パソコンが入院、今月9日に、私の手元に戻ってきた。 しかし、それからが実は大変で、エアステーションをつなぎ、ウインドウズを最新版にアップデートし、ウイルスバスターも更新し、保存してあったファイルを元に入れ・・・と、あれこれ時間と手間がかかってしまった。 ショックだったのは、CDに保存したファイルが、書き込み禁止のCDを使ったため、読みとり専用になってしまったこと。つまり、ホームページの書き込みができなくなってしまったのである。 外付けのボードや、ジオのツールは使えるが、ホームページ制作ソフトで作ったページは、そのまま凍結されてしまって、更新も、挿入もできないことがわかった。コピーして、移すこともできないので、結局、また新しく作ることになる。CDに、2種類あることを知らなかったのは迂闊だった。 仕方がない。気持ちを入れ替えて、出直すことにする。 まずは、私のパソコンが帰ってきて嬉しい。 早速、日記帳を新たに作り、書き込む次第である。 2002年02月12日 23時09分47秒
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