昨日に続き、もう一人の美しい顔を取り上げる。 今度は女性、昭和56年、55歳で亡くなった越路吹雪である。 今日は2・26事件の日。 それにちなんだ番組をやっていないかと、点けたテレビで、偶然、コーちゃんこと越路吹雪の在りし日のすがたを、忍ぶことが出来た。 宝塚の男役から、歌手の道に進み、シャンソン、ミュージカル、日本民謡まで、幅広い歌を歌い、晩年は、民芸の芝居にも出ている。 内藤法美という、またとない伴侶を得て、音楽の域を広めた。 マネージャーを勤めた作詞家の岩谷時子のサポートもあって、大輪の花を咲かせ、大きなステージを、沢山こなした。 更に円熟した舞台を見せてくれるはずだったが、病で倒れた。 今、残っている映像を見ると、本当に素晴らしい。 まず歌い顔が美しい。 クラシックの歌手ではないが、ちゃんと、口がタテに開いている。 そして、歌のドラマの主人公になりきって、豊かな表情を見せる。 ごく自然に歌っているように見えるが、それは、生半可なものではない。 繊細に張りつめた全身の神経の、指の先まで緊張感に包まれているのが、よくわかる。 そして彼女の歌に、寄り添って、同じリズムと呼吸で流れる、内藤法美のピアノの何という素晴らしさ。 「一寸お訊きします」という歌。 はじめて聞いたが、目の奥がじんとしてくるような歌だった。 私は中学生の時、友達のお姉さんに、越路のショーに連れて行って貰ったことがある。 日劇だったと思う。 まだ、本当の歌の良さがわからない年だったので、歌の合間に繰り広げられるレビューの方が、面白かったのだが・・。 後年、彼女のロングリサイタルというものに、一度行ってみたいと思いつつ、果たせなかった。 彼女が逝って数年後、夫の内藤法美が、この世を去った。 二人の間に子どもはいない。 しかし二人が生み出した歌と演奏は、いつまでも残るだろう。
男の人を、美しいなと思うことが、ホンのたまにある。 残念ながら、そう思うことが、だんだん少なくなっていくのは、時代が、あまりに索漠としていて、行き交う人が、 険しく、卑しく、疑い深い顔をして、すれ違うようになったことかも知れない。 それは、男の人が街中で女性を見たときも、同じように感じるのではないだろうか。 「最近の女性は、みな、コワイ顔をしてるね」と、連れ合いが言ったことがある。 今日はテレビで、ほれぼれとするほど、美しい顔をした人を見た。 無言館館主窪島誠一郎氏。 戦没学生の残した絵を集めて、信濃で、「無言館」という美術館を作り、公開している。 今、その展示会が、東京ステーションギャラリーで 開かれているので、NHK昼の番組で、紹介していた。 戦地に赴く直前に描かれ、そのまま帰らぬ人となった若い人たちの残した絵である。 氏はあるとき、それらの作品に触れて感動し、ぜひ一般の人たちに見てほしいと思ったようである。 年月を掛けて、遺族のもとを尋ね歩き、絵を集めた。 戦場に赴く直前、あるいは、その日の朝に掛けて、短い間に描かれたものが大半である。 子どもの頃から育ったふるさとの風景、可愛がってくれた祖母、秘かに恋心を抱いていた女性の姿。 「こういう絵を、反戦や平和の象徴のようにとらえる見方がありますが、この人達は、そんな絵は一枚も描いていません。 みな、死を目前にして、自分が心の中で、一番愛していたものを、心を込めて描いたのです。 それをぜひ、見てほしいのです」と語る窪島氏の表情は、キラキラとして、絵の作者の心を体現しているかのように、 澄み切って美しかった。 魂のこもった、生きた顔の美しさとは、こういうものではないかと、見とれてしまった。 美しいものに触れていると、人は磨かれていくのだろうか。 こうした感じを持ったのは、4半世紀前にもある。 映画監督小栗康平。 「泥の川」という始めての映画を製作し、話題になったとき、やはり、この人がテレビで語るのを見た。 30代半ばの若さだったと思う。 見ていて、美しいな、こんな人と一緒に暮らしてみたいな、と思ったくらい、惚れてしまった。 「泥の河」に流れる、人間を見る視線の暖かさと非情さ。 忘れられない映画の一つだ。 男の顔に惚れるという経験は、何十年に一回くらいのことである。 今日は、図らずも、久しぶりにその感じを味わった。
図書館に借りて返して年果つる こんな俳句を年末に作ったのだが、これはまさに実感である。 インターネットなどに足を突っ込むまでは、私はちょくちょく図書館に行くのが習慣だった。 開架式の本を見て歩き、10冊近くの本を借りる。 全部熟読することはなくても、ためつすがめつ、手に取り、3週間の期間、愉しむならいだった。 今は、インターネットにかなり時間を使うので、その分、新聞、テレビ、そして読書の時間が減った。 新聞も読まずにそのままになっていることが多く、広告の紙で、ゴミが増えるので、夫が「もう新聞止めようよ」と言いだし、 今月を以て、購読を止めることにした。 子どもの頃から慣れ親しんだ朝日新聞。 夫が現役のビジネスマン時代には、日経と両方読んでいたこともある。 海外在住中も、現地のクオリティペーパーと、日本語新聞を取っていた。 つまり、我が家に新聞のない生活というのは、生まれて以来なかったことになる。 新聞の購読を止めるについては、今までにも、夫から何度か提案があった。 「どうせ読みもしないんだから」というのが理由である。 ニュースはテレビでも良いし、今は、インターネットで、必要な情報は得ることが出来る。 その方が早いというのだが、電波と活字媒体は役割が違う。 私はやはり、目で読む新聞の方がいい。 そう言って、抵抗してきたのだが、ここ数年のインターネット生活で、現実に新聞を読まないことが増えると、勿体ないと思うし、 そのままゴミにするには忍びない。 後でまとめて読もうと取っておく新聞が、幾つも、ひもで縛って置いてあり、結局は読まずに、ちり紙に変わる。 罪悪感にとらわれ、ストレスにもなる。 迷った挙げ句、新聞は止めましょうという決断に至った。 1月の集金の時、そのことを販売店に伝えた。 夫は、せいせいした顔である。 しかし、私のほうは、新聞に対して、まだ未練がある。 新聞はニュースのためだけではない。 読書欄、家庭欄、評論やエッセイ、小説と、電波にない、厚みがある。 テレビ番組だって、プログラムの一覧や、それに伴う解説は、読むと楽しい。 それに、繰り返して読むことの出来る新聞の良さは、テレビやインターネットにはない。 「じゃ、インターネットなんか止めて、元の生活に戻ればいい」と夫は言う。 5年前に時間を戻せば、私には、静かで、じっくりと本や活字と付き合う時間が出来る理屈である。 だが、時を戻すことは出来ないし、今やパソコンを捨てることも出来ない。 誘惑と闘いつつ、前に進んでいくしかないのである。 若くない私でさえ、これだけインターネットが入り込んでいるのだから、青少年の間に、爆発的な勢いで、 ITが入り込むのは当然であろう。 昨日、集まりがあって、神田神保町に行った。 早めに行って、水道橋から神保町交叉点までを歩いた。 ところが、よく知っているはずの街が、まるで別の顔をしていた。 駅からずらっと軒を並べていた、古本屋街の風景が、そこにはなかった。 学生時代、この界隈は、私にとって、実に刺激的で、魅力に富んだ場所だった。 軒並み居並ぶ本屋を、一軒一軒覗き、それで、半日過ごした。 乏しい財布と相談しつつ、一冊の本を吟味する。 どの店にどんなものが置いてあるか、だんだん覚え、その知識の広い人は、みなから尊敬された。 しかし、久しぶりに行った神田の街からは、見事なほどに、面影は消え去り、飲食店やゲームセンターの中に、 ぽつんと、数えるほどの本屋が店を開けているだけだった。 すずらん通りも、様変わりしていたが、専門的な本屋が、数軒残っていたのは嬉しかった。 本を漁る学生の姿は、あまり見かけず、もうそうした風景は、大学の街からも、なくなりつつあるのだろう。 冨山房の地下にある喫茶店に入り、数人で連句を巻いた。 昼食時から夕方近くまで。 本を持って、一服しに入ってくる客の姿もあった。 たっぷりと美味しいコーヒー。 軽食も、ケーキも、安めで、店の雰囲気も良かった。 終わって、折角だから本屋を覗いていくという友人と別れた。 東京にいながら、神田とは縁が薄くなってしまっているが、懐かしい気分を味わい、少しホッとした。 薄暮になりつつある道を、今度は御茶ノ水駅に向かって歩いた。
夕べ寝るのが遅かったので、今朝はだいぶ寝坊してしまった。 先に起きた夫が「梅が咲いたよ」という。 柔らかな雨が降っていて、音もしないので、気づかずにいたが、しっとりと濡れた庭の真ん中にある紅梅が、一輪だけほころびているという。 「だから暖かいんだね」と夫が言う。 ずっと空気が乾いていて、寒さが続いているが、ホンのお湿りくらいの雨でも、空気が和んでいるようだ。 うちの紅梅の木は、かなり大きくなっていて、この10年ばかりは、実の方が大きくなっていて、その分花が小さくなっているような気がする。 庭師が毎年、詰めてくれたりするが、難しいようである。 実はならなくていいから、花が賑やかであってほしいのだが、以前は、空が見えないくらい花が咲いた。 どういう加減かわからない。 ともかく、梅が咲くと、春の来たのを感じる。 立春が過ぎたのだから、歳時記も初春になっているが、今朝は、梅一輪のお陰で、心が暖かくなった。 いつもサークルで一緒に遊んでいる人が、くも膜下出血を起こして、昨日手術した。 つい10日前に元気な姿を見たばかりである。 手術の結果は訊いていないが、早く元気になってほしい。
日本で初の、上記患者と思われるケースが発症したというニュースである。 新聞社系のネットニュースにもほとんど出ているが、病気の詳細については、厚生労働省のサイトの「このページ」に詳しい。 50代の男性と見られるその人は、すでに死亡しているが、1989年に1年未満、英国に滞在したという。 私が、夫共々英国に住んでいたのは、1987年から1989年にかけての2年間。 時期が重なっている。 この関連の病気が取り上げられるようになったときから、時々我が家の話題に上るが、 今回の変異型は、日本人だというので、ちょっとしたパニックになっている。 厚生労働省によると、2004年6月現在、変異型ヤコブ病の患者は、世界で157人報告されており、 このうち英国が147人を占めている。 英国以外にはフランスやアイルランド、イタリア、米国、カナダで発症例があり、フランスとイタリアの6人を除き、 英国滞在歴があるという。 英国人患者が圧倒的に多いのは、原因になった肉牛が、英国産だからである。 私たちは、在住中に、牛肉もずいぶん食べたが、その中に汚染された牛が混じっていたかどうかはわからないし、 食べたとすれば、当時英国に滞在していたすべての人と同じく、発病する可能性があるが、100万人に1人という確率だから、 余程の運の悪さと言うことになる。 件の人は、その肉を食べてから12年後に発病、3年後に死亡した。 「私たちもそろそろ危ないね」といいながらも、「でも、もうトシだから、そうなったら潔くあきらめて、 残りの人生を清く正しく生きようね」と話している。 食べ物に絡んだ話は、表に出るのが遅い。 英国在住中、いわゆる狂牛病が話題になり、現地のテレビでも、取り上げられてはいたらしいが、私の記憶には、あまりない。 牛の病気と人との関係を、それ程危機感を持ってみていなかったのかも知れないし、なんと言っても、情報不足だったのだろう。 むしろ覚えているのは、当時、サルモネラ菌に汚染された卵のことが、イギリスで話題になり、ナマでは食べないようにと言うキャンペーンがあったことである。 スーパーに行っても、プリンや、カスタードクリームの入ったケーキを、避けたりした記憶がある。 熱い御飯に生卵を掛け、醤油を垂らして食べるおいしさは、我が家の朝食メニューの定番だったが、それ以後、ナマで食べる習慣が無くなった。 鶏インフルエンザが話題になってからは、日本でもナマでは食べない。 帰国して15年経った。 これから、そのヤコブ病を発症する可能性があるのかどうかわからないが、もう一度、英国で暮らしてみたい。 変化の激しい日本と違い、多分、街の風景は、余り変わってはいないのではないだろうか。
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