自分のピアノにおける技術や考え方が、ものすごく上達したなぁ、と思う日もあれば、 全然ダメじゃん。なにやっても、自分、ヘタクソー、めっさダメダメ。と思う日もある。 そんな日は、練習していても、「一体この練習が本当に役に立つのか、正しいのか」みたいな疑念まで湧いてきて、やる気がなくなることこの上ない。
いやね、今日のレッスンに、一年ぐらい前にやったショパンのソナタをもう一度持っていったのですよ。 自分なりに、いろいろと曲の見方も変ったし、技術的にラクに弾けるようになった所もあるし、新しい指使いにしてみたり、流れ的におかしかったところを実験的に変えてみたり、ま、要するにいろんな部分が、一年前とは違っていたはずなんです。 ・・・でも、レッスンで、教授にそれに気が付いてもらえなかった。 もちろん、まだその「変えた部分」というのは、昔からのクセが思わず出てしまったりと、少したどたどしかったりするから、そこを「弾けてないじゃないか」と言われるのも仕方がないと思う。 でも、「変えたからこそ、まだ慣れていないんです」と、わざわざ言い訳しなくてはいけないのが、なんだか情けない。 私は、どうしてこう変えたのか、どうしてこういう流れにしたいと思ったのか、よく楽譜を読んだ上で考えた、そういうことを、教授はわかってくれると、そして、それに対してのコメントが(良いにしろ悪いにしろ)もらえるものだとばかり、思っていたのだ。 もちろん、今日は教授もひどく疲れていたみたい(自分で「今日は疲れているのだ、すまない」と言っていた)だからかもしれないけれど、でも、なぁ・・。
つまり、自分が思ったほど「変わっていない」ということなのか。 変えたと思っても、変わった、と他人に伝わるほどではないのか。 一年で、聴く耳が変わった、楽譜を読む意識が変わった、上達した、と、密かに大喜びしていた自分は、ただの自意識過剰だったのか、とさえ思ってしまう。
そして、どうも、教授と私の、曲に対するイメージがなんだか噛み合わないのだ。 多分、根本のところで違うのだと思う。相手の「イメージ」を理解しようと試みる作業は、難しい。そして、お互いに自分のやりたい事が伝わっていないのがわかるから、お互いに憂鬱が募る。 あの人は、説明不足なところが多々あって、なんだか言っていることが良く理解できないこともある。ドイツ語がどうこう、というのではなくて・・。実際に「こうだよ」と弾いてもらっても、どこが違うわけ?と、なることが多い。 もちろん、センスもいいし、よいレッスンをしてくれるときもあるのだけど(特に、私自身が「弾けている」ときは上機嫌になる)、こうやって私自身がなんだかよくわからないぞ、と、迷いだしたときに、それに対するいいアドヴァイスをくれたことが、今まであったかどうか・・・。 「言っていることがよくわからない」「何が違うのかわからない」と言っても、「キミがもうちょっと弾きこめば自然にわかってくる」みたいな突き放し方をする。そうとしか言いようがない気持ちもわかる。でも、違った角度から説明してみようという気すら起きないのか、と、私もいらだってくる。 もし、その私の「弾き込み方」が間違っていたら、どうしよう、と、不安にもなる。 だって、私自身は、今までの弾き方が、好きだったりするし、教授が弾いてくれるソナタを、あまり良いと思わないのだから。
まあ、でも、客観的に聴いてそういう意見が出るという事は、どっちにしろ、弾き込みが足りないという事なんだろう。 もうちょっと、研究するしかないなぁ。 文句言わせないくらいに、変えた部分も、自分の「モノ」にするまで弾き込まなくちゃ。
しかし、朝からマグデブルクで室内楽のレッスンを受け、そしてライプツィヒヘ移動して、なかなかハードな一日でした。精神的にも肉体的にも・・。
2004年06月16日(水) |
エッセイ書いてしまった |
明日は、マグデブルクと、ライプツィヒに行く予定。 レッスンが一日に2つ。きっついなー。
ということで、今日は練習練習。 でも、その合い間を縫って、ひとつ、エッセイを書いてしまいました。
この日記は、「エンピツ」という日記サイトのスペースを使っているのだけど、ここに決めるにあたって、いろいろと他の日記サイトも調べたのです。 アンテナ、という機能とか、blogという言葉とかに出会ったのも、その頃。 そうしているうちに、他の人たちの面白い日記を見つけてしまったり・・・と、ま、つまりネットサーフィンをしていたわけです。 で、いろいろ見ていて、考えた事を、IKUKO的blog考察としてまとめてみました。 ちょっと、blogというものを実際に知らない方にとっては、わかりにくいエッセイかもしれないけれど。
今回のは、多分、異論が出るだろうなぁ。 私の文章を読んで、感想をくださる方たちにとって、もしかしたら失礼な事を書いているのかもしれないし、こんな事を書けば、さらに掲示板に書き込んでくださる人たちは減ってしまうかもしれないしなー。(と、どんどん弱気になる・・) ま、でも、パソコン依存症になる前に、こういう文章をアップしておかないと、ということで。 エッセイ・インターネットの世界―IKUKO的blog考察
明日はライプツィヒに一泊するので更新できません。
「耳」って、結局は、頭なんですね。 わけわかんないっすか。
いや、つまり、「聴覚」ってやつは、結局は、どこを聴こうとするか、という意識であるわけで。 聴こうと思わなければ聴こえない。 聴こうと思うから聴こえてくる。 そういうものが、世の中にはいっぱいあるんですね。
例えば、今聴こえてくる、窓の外の鳥の鳴き声だって、「あ、鳥の鳴き声だ」と意識しなければ聴こえないわけで。 誰かが自分に話し掛けていても、それに気がつかなければ、聞こえていないということで。 結局は、視覚も聴覚も、意識という媒体によって知覚されているのだ。 ・・・まるで、京極夏彦の世界だな、書いていることが。
いや、なんでこんな事書いているのかというとですね。 ショパンのソナタb-mollの4楽章を弾いていてですね。 昔(といっても一年前)は、とにかくチャンチャラ弾きまくってたわけですよ。 でも、今回は少しでも進歩しなければ、と、細かく細かく和音やら旋律の動きやらをゆっくりと頭に叩き込むように、練習し始めたのです。 そうすると、ねぇ。 まったく、曲が、違うのですよ。 こんなに、いろんな色が、このフレーズに、この一小節に、あるのか、と。 ただただ、弾きまくっていては、わかんなかったものが、頭で理解したとたんに、びっくりするほど聴こえてくるなんて。 こんなに、深みが増すものか、と。 今まで、私ゃ、何やってたんでしょうねぇ、よよよよ・・・(涙)。
結局は、「耳がいい」というのは、意識的に聴ける、ということなんだな。 もちろん感覚だけで、出来ちゃう人もいるだろうけど、凡人である私は、一生懸命頭を使って、意識を起こしてあげなくては、耳も、起きないわけです。
しかし、私の耳にはこう聴こえていても、他人の耳にどう聴こえているのかは、一生わからない、謎のままなんだよなぁ。 世の中の奥深い事よ。
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