LORANの日記
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連休が終わって、早いところでは田植えが終わりました。
私が住むところは富士川から灌漑用水を引いています。 戦時中に軍需工場が建設され、戦闘機用のアルミ精錬に大きな電力が必要でしたので発電所を作りました。そのため灌漑用水の取水期間が5月から10月までに限定されています。そう言えばこの付近も終戦直前に陸軍が飛行場を作った跡地でした。
久しぶりにのどかな蛙の合唱が聞こえてきます。 60年前にはここは、今とはまったく違った世界だったことを感じます。
半世紀、1世紀と時代が変われば、世の中も、その常識も変わります。 不変なものはなにも存在しないのが真実です。
「人の心ほど移ろいやすいものはない」と古人は言っています。 ころころ変わるから、心(こころ)だと言う人もいます。
そんなにあてにならない人の評価を気にして生きるほど、馬鹿げたことはありません。 自分が考え、自分が決意し行動することが、すべての基本です。 それが「自由」の本当の意味です。
今年も蛙が鳴いています。 鳴く蛙も、聞く人も、去年と同じではありません。
星を見たことがありますか? 私が見た中で星が一番きれいだったのは富士山の中腹でした。 標高1500mの斜面の火山礫(れき)に仰向けに寝て夜空を眺めました。 季節は9月半ばで、登山期間も終わり空気も澄み切っていました。 満天の星というのはこのことだろうと思いました。 金砂銀砂を撒て、殆ど隙間がないくらい夜空を星が埋め尽くしていました。 天の川の星が一つひとつ輝いていることに感激しました。
もちろん、地球も星ですから他の天体から見れば小さな輝きの一つです。 今の自分がいる地球の光を他の天体の存在が見るまでに、何十光年もかかります。 相手が今の地球の光を見た時には、自分は多分地球上にはいないでしょう。 そう思うと宇宙の巨大さが実感できます。
人が生まれた時の惑星や恒星の位置が性格などに影響を与えることに気がついた先人の知恵には驚きます。 星占いなどは世界中にあります。
マヤ文明に代表されるように、先人は我々が思いも及ばない高度の測定方法を用いて、数千年単位の精密な暦を使用していました。
私たちは先人に遠く及びません。 星のささやきを聞くどころか、星を見ることさえしていません。
テレビや電気を消して、星とつながる世界を取り戻したいものです。
西洋と東洋の考え方はこれほど違うのかと思い知らされました。
東洋は雨が多く、緑豊かで暖かい(暑い)地域です。 そこには多くの生命が暮らしています。植物や動物、魚も多く住んでいます。 それを支える豊かな自然があります。ここでは採集だけでも生きられます。 水や食料の不足で苦しむことは少なく、暮らしやすいといえます。
西洋は基本的に雨が少なく乾燥している地域が多く、宗教が起こった中近東は殆ど砂漠です。 植物を栽培するより、牧草を追って牧畜をする方が理に適っている地域です。 ここでは水や食料を得ることに多くの労力を必要とします。生きるためには努力が必要な地域です。
この環境の違いが考えかたの違いになっています。
中東でボランティアしているとカルチャーショックがあるそうです。
砂漠地帯では水を持っていなければ生きていけません。 その辺で汲んでくればいいという訳にはいきません。 もしそのグループで水が極端に不足したら、生きられない人には分けないで、少しでも生きられる人へ渡すのだそうです。
難民キャンプでは元気の度合いでグループを分けるそうです。 A: とても健康で元気な人たち。 B: 健康も具合も良くないが、食料や医療で回復が見込める人たち。 C: 健康や具合が悪く、生き延びる可能性が低い人たち。
食料も医薬品も不足がちな難民キャンプでは、Aグループの人たちは追い出すそうです。 Cグループの人たちは気の毒ですが、見捨てなければなりません。 Bグループの人たちを収容しお世話をするそうです。
私たち、東洋の人は見捨てることができなくて、よく叱られるそうです。 助からない人は助けない。これは難しいことです。
有ることを前提に考えるのと、無いことを前提にするのでは、話はまったく 違う結論になります。
近くに住む孫に食べさせたくて、柏餅を作りました。 よもぎと餡が柏の葉の香りに包まれて、正に初夏の風情です。 熱いお茶をいただきながら思いました。
私が孫(3歳)の年には、日本は敗戦直後で飢餓に苦しむ人も多くいました。 裁判官が闇米を食べずに餓死したのも、あの頃でした。
今思えば、何もない時代でした。 食べるものがないのですから、他のものは当然ありません。 私は母の手製の子ども用の足袋を大切に保存しています。
1950年に朝鮮戦争が起こると、特需景気がきて飢餓から救われました。 1955年以降、年率10%を超える経済成長が続きました。 この高度経済成長はバブル時期まで続き、経済大国と呼ばれるまでになりました。
1990年の年初に株式市場で暴落が起き、バブル崩壊と呼ばれる大不況が13年間続きました。 いまもデフレーションと呼ばれる価格の低落傾向が続いています。
今日の「子どもの日」に思うのは、私たちは彼らに何を残せるのでしょうか?
わが国が誇る豊かな自然は無傷で残せるのでしょうか? 産業廃棄物だらけの国土をどうするつもりでしょうか? 原子力発電所から毎年出される核廃棄物を青森の六ヶ所村へ積んでいますが、それをどうするつもりでしょうか?
40兆円しか税収がないのに、国債などを600兆円も発行しました。 この始末は我々の時代で終わるのでしょうか?
私たちは多分、酔っ払っているのでしょう。 これらのことを、まさかしらふで国会で決めたことなどないとは思いますが。
無責任なのは政治家だけではなく、経済界も、すべての国民も同罪です。
私たちは本当に取り返しのつかない愚かなおとなであったことを、反省しなければなりません。
日本ほど戸籍が完備した国は少ないと言われています。 江戸時代、1671年、キリスト教弾圧のために考え出された「宗門人別帳」が基本となって、 明治初年に新政府が「戸籍法」を制定しました。明治5年、初の全国戸籍調査が実施され、 総人口は3,311万人と発表されました。これを「壬申戸籍」と呼んでいます。
この時代まで無戸籍の人々がいました。 町や村に定住していない人々でした。 それらの人々は、主に山間部で生活していました。
その中でも、集団で暮らしていた人々と家族だけで暮らしていた人々がいました。 集団で暮らしていた人々を、「山の民」と呼び、木地屋・タタラ者とも呼びました。 一方、家族だけで個人的に生きてきた人々を「サンカ」と呼びました。 「山家」「三家」「山窩」という字を当てています。
「サンカ」の起源は定かではなく、江戸時代の三大飢饉(天保・享保・天明)のとき、飢餓に苦しんで山に入って生き延びた百姓の末裔ではないかと言われています。
第2次大戦後の1950年代を最後に、その姿を見た者はいないようです。 彼らは、被差別部落へ同化したと考えられています。
「サンカ」は戸籍が無く、国民の義務である「納税・義務教育・徴兵(戦後は参政権)」の枠外に存在していました。 川魚採りや竹製用具の製造・修理が主な生業であったようです。
歴史の外にいたので、その足跡は殆ど残っていません。
この窮屈な日本にも、つい半世紀前までこのように自由な人々が存在していたことが不思議に思われます。
(参考書籍) 「幻の漂泊民・サンカ」 沖浦 和光著 文芸春秋 「風の王国」 五木 寛之著 新潮社
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