LORANの日記
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「神様との対話」へこのことを書きました。
生まれたばかりの赤ちゃんを見て、親になった喜びとこの子を幸せにしなければ ならない責任を感じたのはわたしだけではないでしょう。
親には家族の生活を守るという義務があります。 一生懸命働き、生活を安定させたいと努力します。
その努力は生活の安定のため手段なのですが、いつの間にか生活の安定が目的になってしまいます。
親は生活の安定のために努力しているのだから、子どもは学校へ行って勉強していい成績をとることが目的なのだ。
これでは家族が幸せになるという目的がなくなっています。 生活も勉強も家族が幸せになるための方法、手段にすぎないのです。
この心得違いから、家庭は崩壊し、学校も崩壊しています。 いや、社会が崩壊しています。
もう一度、原点へ帰ってみましょう。
赤ちゃんが生まれたとき、その子の顔を見て、なにを誓ったのでしょうか? その誓いを思い出し、守ることがすべてを正常へ戻すことでしょう。
村田信一さんは1963年(昭和38)生まれの戦場カメラマンです。 村上龍さんとの対談を本で読みました。
戦争とそこに生きる人々の姿をリアルにとらえることを念頭に、イスラーム世界や国連活動をも視野に入れて撮影を続けている。 湾岸、レバノン、アルジェリア、ソマリア、ボスニア、チェチェン、ザイールやコソボを4回取材した。
そう説明がありました。 彼は革命や改革に立ち上がる人々に共感を覚えて、世界中を歩いたそうです。 日本のような先進国では、安定していることで人々は安心して生活しています。
戦場になっている中で生活する人々は、明日どころか今日の命の保障もありません。 そんな状態で人々はどう考え生きているかに興味があります。
サラエボでは敵に包囲されて、何千発もの砲弾が打ち込まれました。 その中で市民はディスコへ出かけたりしていたそうです。 それは本当に生き生きしたものでした、と。
戦場にいる人々はすべてにおいて、一生懸命生きています。 次の瞬間に死があるからこそ、常に本音で生きています。 彼にはそれが過ごしやすかったそうです。
日本人のほうがよほど自分を隠して生きているような気がします。 他人には絶対本当の自分を明かさない、と言っています。 安定した社会では、真に自分に忠実に生きることは難しいのでしょう。
学徒動員で戦場へ行った大学生たちの遺稿集「きけ わだつみのこえ」を開くと、魂の純粋な叫びが伝わってきて涙なしでは読めません。
戦争は私も大嫌いです。 しかし、極限へ置かれたとき、人はすべての雑念が消えて、一種の恍惚感にひたれるのでしょう。大震災などのときに、みんなが協調しあうのも同じです。
「今を生きる」を実践できるチャンスであることを思うと、学びの機会としては決して悪くはないかも知れません。 彼らの経験を自分の経験として学べたら、犠牲を無駄にしないことになります。
参考図書: 「最前線」 村上 龍著 ラインブックス
「神様との対話」へ書きましたが、自分を無力化している人が多くいます。
無力化とは、自分への評価が低いことに原因があります。
親からいつも叱られたり否定されたりしていると、いつの間にか言われたことを信じてしまいます。
自分が認められず、受け入れられない理由が、自分のせいだと信じてしまいます。 愛されないのは自分のせいだと信じてしまいます。
その結果、自分は愛される価値がない、受け入れてもらえる資格がないと信じてしまいます。
恋愛をしても、途中で自ら身を引いてしまったりすることもあります。 愛される資格がないと信じているからです。
なにかを成就させようとしても、「お前になんかできるはずがない」と言われて育っていますから、途中で成就するかどうかに疑問を持ちやめてしまったりします。
否定的な思考や感情は、エネルギーを停滞させます。
体温や血圧は低くなります。 血流がよくないので手足が冷たく、内臓も活発に動きません。 寝起きが悪くだるいので、積極的に活動できません。
改善するには否定的な思考や感情を消す必要があります。
朝日を浴びることはとても大きな効果があります。遅くてもAM10時までです。 感謝のことばを口に出して唱えることも効果があります。 「ありがとう」と1日中言うことでもいいのです。
どんな小さなことでもできたことで、自分を誉めてあげると効果があります。 自分が少しづつ自信を回復していきます。
私たちは神の創造物です。(特定の宗教とは無関係です。) 自分自身の人生を創造する能力を、生まれながらに持っています。 それをだれも否定することはできません。
先日読んだ記事をコピーしました。
ベトナムからカンボジア、ボスニア、パレスチナ、そしてイラク。戦場の取材を30年以上も重ねた橋田信介さんは、01年の9・11の直後『戦場特派員』(実業之日本社)に、こう書いた。「ある時はこわごわと、ある時はやけくそで戦場を走った」。常に頭にあったのは、なぜ戦争が起きるのかとの疑問だった。 そして、結論にたどり着く。戦争は、一部の軍国主義者だけで起こせるものではなく、多数の国民の了解なしにも成り立たない。「戦争を擁立するのは、われわれの社会の中にしぶとく生きている『得体の知れない何か』である」。
先月末、フリージャーナリストの橋田さんは仲間と二人、イラクで殺害されました。
私はいつも疑問でした。 ヒットラーがユダヤ人の大虐殺をしたといいますが、彼一人でそれが可能でしょうか? 500〜650万人もの人を、一人の男が殺すことができるでしょうか?
ハンス=ユルゲン・ペライ著「過去への扉をあけろ」(佑学社)は、田舎の一地方で40年以上前のナチス協力者の調査を中学生がして発表するという内容でした。
過去に犯したことを人びとは知っていながら、それに触れないできました。 それは、いまの日本でも同じことです。
しかし、ドイツでは執拗に責任を追及し、発表してきました。 同じ間違いを繰り返さないために。
私たちは、広島の原爆ドーム前の慰霊碑の言葉を忘れてはいけません。
安らかに 眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから
6月になりました。 5月初めの連休頃に競って植えられた稲の苗が、随分大きく成長しました。 まだ一月も経っていないのに、自然の大きな力を感じます。
蛙の声は日中は聞こえませんが、夜になるとやかましいほどの大きな合唱になります。 蛙の声を騒音と聞くか、季節の風物詩として楽しむかは個人の勝手とは言え、 蛙に残された聖地を守りたいと思うのは私一人ではないでしょう。
田舎暮らしとは、自然環境の中に間借りをして暮らさせていただくことでしょう。
都会暮らしとは、人間が作った環境の中で自分を適合させて暮らすことでしょう。
自然の一部である人間にとって、田舎は不便でも快適な環境です。
都会は便利ですが、自然の中で生きなければならない人間にとって過酷な環境です。
都会には情報が氾濫しています。
テレビや新聞、雑誌などのマスコミ情報は、刺激であっても生存に必須条件ではありません。
情報が氾濫すればするほど、自分を確認できなくなります。 不安が増大し、ストレスが溜まります。 ストレスから逃れるために、さらに刺激を求めます。 そして、なにが自分に必要かも判らなくなります。 自分が何者かも判らなくなります。
この状態が社会にも学校にも蔓延しています。 社会も学校も崩壊しています。
テレビを毎週消して見ない日を家庭で決めて実行しなければなりません。
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