LORANの日記
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2004年06月18日(金) 断ち切る愛

愛は優しくすべてを認め受け入れてくれる。
傷ついたこころを抱きしめ癒してくれる。

そんな愛のイメージを誰もが持っています。
仏教の観音様や聖母マリアにそのイメージを持つ人は多いでしょう。

確かに傷つき嘆いているときには癒しが必要です。
失ったものが大きく、傷が深いほど回復までには時間がかかります。

お釈迦様を訪ねてきた女が亡くなったばかりの子供を抱いていました。
子供を生き返らせてくれるように頼みました。お釈迦様はどの家にもある香辛料の
からしの種をもらってくるように言いました。今まで死人を出したことのない家から。
女は亡くなった子供を抱きながら、必死で家を回りました。しかし、どの家も死人を出していて、女に同情しました。それで女は死ぬことは当たり前であることを理解しました。

傷が癒えてきたら新しい出発が始まります。
いつまで嘆き悲しんでいても仕方がありません。

そこで誰かが背中を押してやらなければなりません。
「さあ、もうこれ以上嘆いていてもすべてが戻るわけではない。出発しよう。」

これを言うのは本来は男親の仕事です。母親が代わってすることもあります。
男親が事業で失敗したようなときには「健康なら大丈夫よ。」と。

いつまでも前に進めない人には、この役割をしてくれる人がいないのでしょう。


2004年06月15日(火) 心を病む

心の病は対人関係の病です。精神科医で画家の吉田脩二さんが言っています。

人は生まれてから成長を続けますが、伴走者がいます。
幼少期にはお母さんが一緒に走ってくれます。
次にはお父さんが、お母さんからバトンを引き継いで一緒に走ってくれます。
マラソンの折り返し地点からの後半は思春期と呼ばれ、両親から離れて仲間・友人と一緒に走ります。

高校二年生頃、ほとんどの人がこの時期になるそうです。
性的にも発達し異性への関心も強くなりますが、仲間内でそんな話ができるのはごく自然の成り行きです。町には雑誌やビデオが氾濫しています。

誰からも孤立して話もできない状態でいると、今までの自分と性的に発達してきた自分が内部で闘争することになります。
今までの自分の性的なことに関心を持つことへの嫌悪感や否定が、性的に発達して異性を求める自分と闘争するからです。

昔なら、先輩や早熟な友人が一笑に付して異性を紹介してくれたかも知れません。
現在の孤立した人間関係が多い社会では、それを打開することができないこともあります。

幻覚や幻聴で自分を誰かが批判したり馬鹿にして笑っていると言い出すこともありますが、それは自分はそうされても仕方がないのだと自分で責めている表れでもあります。

学生なら仲間が大切です。一緒に走ってくれる仲間です。昔、付き合っていた仲間たちともう一度関係をもてたらいいですね。もちろん、新しい仲間ができればなおいいですね。


参考図書:「人はなぜ心を病むか」思春期外来の診察室から 吉田脩二著 高文研


2004年06月13日(日) あなたはだれ?

「あなたはだれ?」と尋ねられたら、あなたは名前を言うでしょうね。
その説明のために、あなたの環境を言うでしょうね。
住所や勤務先、職業、親の名前などです。でも、それはあなた本人ではありません。

「私は一体だれでしょう?」
名前は親やだれかがつけてくれたものですから、私自身ではありません。
それなら、「この私はだれ?」

「私はわたし。」これが正しいのです。

生まれたばかりの赤ちゃんの時から今までの自分が全部自分です。
無邪気な自分、怒っている自分、泣いている自分、楽しい自分、落ち込んでいる自分、傲慢な自分、残酷な自分、慈悲深い自分・・・。全部自分です。

その中のどれが本当の自分でしょうか?
感情をすべて排除すれば、自分の本質がわかります。

すべての感情を排除したあとに残る自分を探してみましょう。

それがわかったとき、きっとこの質問に答えられるでしょう。


2004年06月11日(金) パパラギ

pariさんのメルマガでこの本を知り、読みました。

1920年に刊行された本ですが、その輝きは少しも失われていません。
いや、80年以上を経て一層輝きに満ちているといえます。

サモアの酋長・ツイアビの演説集で、130余ページの小さな本です。
第1次大戦の1915年、ツイアビはヨーロッパの先進国を旅行しました。

純粋でたぐいまれな、透徹した感性の保有者だったツイアビは、パパラギ=白人の社会の虚像と実像をはっきりと見分けていました。

サモアの先祖へ正しい神、愛に満ちた神と言って教えた先輩(白人)たちが、国を挙げて武器を持って戦っている状況を見て、心の中に神がいないことを見抜きます。

パパラギが信じている神は愛ではなく、お金であると喝破しています。
お金はパパラギを病気にし、彼らはお金にとり憑かれている。

(以下本文より)
見渡してごらん。すべては大いなる物に満ち溢れているではないか。
パパラギは行く先々で大いなる心が作ったものを壊してしまうから、自分が殺したものをもう一度自分の力で生き返らせようとするのだ。たくさんのものをつくるから、まるで自分自身が大いなる心ででもあるかのように思い込みながら。

パパラギは貧しく、その国は惨めだから、馬鹿が枯葉を集めて自分の小屋に詰め込むように、物をつかんで集め続ける。だがそのために、私たちを妬み、私たちが彼らと同じように貧しくなればいいと願っている。

物がたくさんなければ暮らしていけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって創られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。
物なしではもう生きていけない。

どのパパラギも時間の恐怖にとり憑かれている。何歳かということを知っているという計算と詮索には大変な害がある。もし、もうたくさんの月が終わっていると、その人はいう。
「じゃあ、私は間もなく死ぬに違いない。」するともうどんな喜びも消え、彼は間もなく本当に死んでしまう。

ヤシは決してだれのものでもない。ヤシは大地から私たちに向かって差し伸べたもうた神の手だ。神はたくさんの手を持っておられる。どの木も、どの花も、どの草も、海も、空も、空の雲も、すべてこれらは神の手である。

私たちの言葉に「ラウ」というのがある。「私の」という意味であり、同様に「おまえの」という意味でもある。二つはほとんど一つであり、同じ意味である。
パパラギは「私の」と「おまえの」以上に違いの大きな言葉はない。

パパラギは神の財産を、神から永遠に譲り受けたという権利を、まるで自分が手に入れているかのように見せかけている。すべてが本当に自分のものになったかのように。恥ずかしげもなく、神のものを盗んでいる。みんながそうしているし、気にも止めていないのだ。

パパラギはこう言って神を否定する。
「みんな、おれのものだ。」


新聞、映画館も彼の目には奇異なものとしか写りませんでした。
すべての人が同じ物を見て、同じ考えをすることに危機感を覚えています。
彼がテレビを見たら、その影響の大きさに驚くでしょう。

私たちが自分たちの世界だけに固まり、同じ価値観だけになることはまさに気違い沙汰と言うことでしょう。


参考図書:パパラギ・はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 立風書房
      絵本・パパラギ (以下同じ)



2004年06月10日(木) 金星のトランジット

6月8日、太陽と金星と地球が一直線上へ並びました。
金星と地球の軌道が一致するのは105.5年に一度だそうです。
次回は2012年6月6日、その次は2117年12月11日ということです。

占星術では金星が太陽面を通過することをトランジットといい、生涯で最も重要な
出来事と考えています。

ある占星術のサイトにはこのように書いてありました。

金星は天秤座と牡牛座を管理しています。いっぽう太陽は獅子座を管理します。
このイベントが起こるのは双子座です。
しかし影響を受けるのは、これらの星座に限ったことではありません。
今回、すべての人々がそれぞれ違った形で、この幸運な星回りから恩恵を受けることでしょう。



asahi com.  太陽面を横断する金星(中央左の小さな点です。)


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