LORANの日記
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私たちは一人ひとり自分の物差しを持っています。 この物差しは自分と相手を計ります。 「良い」とか「悪い」とか、「正義」とか「悪」とかを決める物差しです。
自分の物差しは親から与えられたものです。 親と同じ価値観を持っているのはそれが原因です。
日本人という民族、国家の物差しも持っています。 テレビや新聞はこの物差しで記事を書いています。
仏教、神道という日本に根付いた宗教の物差しも持っています。 それに儒教の教えも物差しになっています。
私たちは自由に考え評価していると思っていますが、これらの物差しに合わせて 評価して生活しています。 決して自由な考えとは言えません。
他の国家や民族は同様に独自の物差しを持っています。 これらの物差しは一致しないこともありますので、争いの原因になります。
牛を食べてはいけない宗教や、豚を食べてはいけない宗教があります。 肉を食べても鯨やイルカを食べない国があります。 イヌイット(エスキモー)の中には、鯨に蛋白源を依存している種族もあります。
同じ宗教を信じる者は保護しても、他の宗教を邪教と敵視する宗教もあります。 神様を信じてはいても、宗教の教義という物差しの相違があります。
国家という物差しが優先して、少数民族の存在を否定されることもあります。
「正義」と「悪」の判断を各自の物差しでしているのですから争いが絶えません。
自分の物差しを相手にも理解してもらいたいなら、相手の物差しも認めなければ なりません。
自分の「正義」だけにこだわっているのは、他の人を受け入れられないことによります。
人間の各自の物差しに固執していたら争いが無くなることはありません。
この宇宙を創造した存在の物差しに任せたら、きっと平和になるでしょう。
今朝、早朝の海岸にいました。 とても穏やかな海でした。 さわやかな風が吹き、少しも暑さを感じませんでした。
いつものように東西南北天地のすべてに感謝と祝福を捧げました。
光がいつもより強くわたしを包んでくれました。
風がとてもさわやかなので、風に伝えてみました。
「どうぞ、わたしを運んでください。 わたしを必要とする人のもとへ・・・。」
その場で口から出た言葉をTOP PAGE に書きました。
世界中の人々のこころからこころへ、綿毛が伝わったらすてきですね。
たんぽぽの綿毛のように生きたいと思いました。
昨日の日記の中で国民三大義務の内の1つの義務教育についてふれました。 「子供に教育を受けさせる義務」というのが義務教育の事です。
・すべての国民は、法律の定まる所により、その能力の応じて、等しく教育を 受ける権利を有する。 ・すべての国民は、法律の定める所により、その保護する子女に普通教育を受け させる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。 (日本国憲法:第26条の第1項、第2項) ・国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。 (教育基本法:第4条)
この条文にあるように、子どもが教育を受ける権利を保障するものであり、 国民は子どもに対して教育を受けさせる義務を負っています。その費用を 国は負担します。
子どもは義務教育を受ける義務があるのではありません。 子どもは教育を受ける権利を持ち、保護者が義務を負っているのです。
学校教育の制度を作ったのは大久保利通です。イギリスを手本に制度を作りました。
しかし、制度が始まって直ぐ、亡くなる寸前に間違いだったと述懐しています。 それは、教育は自由な立場でなされなければならないと気づいたからです。 国家が学校教育を管理したら、政治の色づけが濃厚になるからです。 古いとされてきた寺子屋式が正しいと言ったのです。
しかし、その後を引き継いだ伊藤博文はその言葉に触れませんでした。
福沢諭吉は、学校教育が始まった翌年、「学校をすべて壊さなければならない。 そして、国民全体の共有の学校にしなければならない。」と言いました。 官学(政府が管理する学校)ではなく、私学(国民が作った学校)でなければ ならないと説き、自ら慶応義塾大学を創設しました。
しかし、それ以来130年以上にわたり、国家権力が教育を支配してしまいました。
オランダのように、自由な教育が認められる制度を作らなければなりません。
朝から市の広報で「参議院選挙」の投票を呼びかけています。 選挙は「義務教育」「納税」と並ぶ、国民の三大義務の一つです。 敗戦前は「選挙」ではなく「兵役」でした。
「兵役」が「選挙」へ変わったのですが、どちらも義務であることは同じです。 選挙に熱心なのは某宗教信者でしょう。現在与党政府の一翼を担っています。
本来、政教分離を言っていたのに、与党と組んで票集めに余念がありません。
「二大政党」と言っていますが、民主党は自民党の総理大臣経験者3人と幹事長経験者で構成されています。それを野党と呼べるのでしょうか? 実質、第2与党です。
かって野党第1党であった「社会党」は自民党と組んで村山総理を成立させましたが、野党という党の存在意識を自ら放棄したため、国民からソッポを向かれました。
与党自民党がいかにえらそうな公約を言っても、長引く不況や憲法無視の海外派兵や世界第2位の軍事力、719兆円に上る国債発行残高。
国民一人当り約600万円の借金を国から押し付けられて、その政策を支持するはずがありません。
世界一低い金利政策で、少ない年金を預金の金利で埋め合わせしようにもできません。
さらに年金制度自体が崩壊してしまっては、失政以外ではありません。
言っていることとやっていることがまったく信憑性がありません。
投票率が低い水準にあるのは、国民の政治不信の表れです。
投票をしない有権者は、選挙という制度を支持していないことの現われです。
広報で呼びかければ投票率が上がると思うのは、あまりにも国民をなめすぎています。
早朝の散歩で感じることがあります。 誰もいない堤防の上の歩道を歩いていると、たまにすれ違う人の波動を感じます。 その人が歩いてきたコースに波動が残っていて、そこを通るのをためらいます。
イヌは人の数万倍もの嗅覚があって、数日前の足跡もわかるといいますが、人間にもそれに近い感覚があるのでしょう。 人とすれ違ってもわかるのですから、1台の自動車が通っただけでもその後に排気ガスが残っているのを強烈に感じます。
自然豊かな環境の中では、人間は敏感なセンサーを持っているのがわかります。
都会に住むと、その感覚はすべてOFFされてしまいます。 そうしなければ、満員電車には乗れませんし、排気ガスでいっぱいの道を歩くことはできません。
自分の能力を封印して生きることは、自分にとって正しい生き方でしょうか?
自分の体調が悪くなるのは、自分を封印していることが原因ではないでしょうか?
それほどまで自分を犠牲にして、都会で生きなければならない理由はなんでしょうか?
もし、それがお金のためだとしたら、お金は体や健康より大事ということになります。
関東大震災の発生周期は65年とも言われています。 1923年以来、すでに81年が過ぎ、いつ発生しても不思議ではない状況です。 もし、発生すれば10万人〜100万人もの犠牲者が出ると推定されます。 でも、地震が怖くて都会から脱出したという人の話を聞いたことがありません。 都会に住む人は度胸がある人たちだと思います。運を天に任せて生きています。
人が自分の感覚を無くしてしまったら、滅亡の道をたどるしかありません。
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