LORANの日記
DiaryINDEXpastwill


2006年03月11日(土) 九十九里浜


昨日まで今年2回目の九十九里浜ツアーに行って来ました。二泊三日でした。

ここは全長60kmという全国でも有数の美しい海岸線と、雄大な太平洋が魅力です。


「一望千里」という言葉がありますが、どこまでも平坦な風景はとてものどかです。

工場もほとんど無く、ゴミ焼却場の煙突しか見えません。


温暖な房総半島の風はとても緩やかです。

太陽の日差しもとても豊かです。


かってはいわし漁で栄えた浜辺はサーファーの遊び場所となっています。

海岸保護のため、車両の乗り入れ禁止は当然と思います。

(わが富士市は海岸へ車両が乗り入れています。)


自然豊かな九十九里浜にも悩みはあるようです。

浜辺沿いの道路に車を走らせると、3〜4軒に1軒位の割合で空き家が目立ちます。


土地柄、リゾート用の別荘も多いのでしょうが、永年使用していない空き家が目立ちます。

工場や産業の誘致と自然保護はお互いに矛盾を持ち、難しい課題です。


2箇所のガソリンステーションで給油しましたが、老朽化した建物と初老のオーナーが一人で

営業されていました。私はこれでいいのだろうと思いますが、当事者はどう思うのでしょう?


2〜3ケ月に1回の割合で、自分のワークへ行くつもりです。

田舎の農家の4男として生まれた私には、とても肌にあう場所です。


2006年03月10日(金) ただいま帰宅しました。


九十九里浜から帰宅しました。

1月に行って来てから、変化が加速されていました。

今回二泊三日のツアーでした。


昨日の日の出は犬吠崎、今朝は光町木戸浜でした。

あいにくの曇りで朝日を直接見ることができませんでしたが、目を瞑ればいつもの朝日が

見えました。感謝と祝福をおくらせていただきました。


朝日が見えなくても数百、数千メートルの厚さの雲の上には太陽が必ず存在しています。

雲は水蒸気で水の粒子ですから、光はその間を通過して来ます。

ですから雨が降っていても、朝日を浴びることは可能です。


蓮沼海浜公園とそれに連なる浜辺はとても雄大でした。

この付近には数々のリゾート施設が軒を連ねています。

国道や県道からさらに海辺に近い道路沿いですので、いまの季節は閑散としています。


地元の皆さまにはお気の毒ですが、過疎の方が自然環境が豊かでうれしいです。

産業や工場を誘致して雇用を作っても、空気や海が汚染されたら大変です。

1昨日、湾岸線で川崎を通過したときに痛感しました。


今回もいろいろな気づきがありました。

これから具体的な方法について検討していきます。


2006年03月08日(水) いまから出発します。







いまから九十九里浜へ出発します。

1月に行ったところですが、今回は3日間のツアーです。


変化は待っていても起きません。

自分が刺激を与える必要があります。


神に祈っているだけでは変わるはずがありません。

「天は自らを助ける者を助ける」というではありませんか。


変化はすべて意識の問題です。

意識が変われば地上で見るのと、上空から見るほどの変化があります。


宇宙飛行士がスペース・シャトルから地球を見て意識が変わり、人生

が変わったと報道されています。


安定は不安な心が求めます。ですから冒険する勇気が起きません。

希望は勇気を与えます。自分を信じれば希望が湧きます。


2006年03月07日(火) 明日から九十九里浜です。



明日から三日間、九十九里浜へ行きます。

1月に犬吠埼へ行って以来、二ヶ月ぶりです。


今回も前回同様に瞑想とワークが目的です。

後は近くの日帰り温泉でゆっくり過ごします。


こんなに忙しく働く(と言っても、世間の皆さまの労働とは比較になりませんが)私に

付き合ってくれる自分に感謝しています。


ですから、なにもしないでのんびり過ごす時がたいせつと思います。

それでも往復640kmありますから、二日目だけが休日のようなものですが・・・


昨年末から急激な変化が続いています。

光と合一する時にはまるで大嵐の中の船のように、細胞がギシギシときしんでいました。


上昇するほど軋みが増えて、ばらばらになるかと思いました。

でもここまで来て中止はできません。


「死んでもいい、死んでもいい・・・」と必死で言い続けていました。

そしてついに「光の世界」を突き抜けました。

いや、そこも「光の世界」なのでしょう。


私は自分を知りたいだけです。

「本当の自分はなんだろう?」と思っているだけです。


それを続けて40年経ちました。

ようやく自分が見え始めたような気がします。


2006年03月06日(月) 優先しなければならないことがあります。


自分と他人(自分以外の人)との区別がつかない人が多くいます。

また自分と思っている自分が、感情や思考によって「創られた自分」であることに気づかない人が

圧倒的に多いのも事実です。

このように「創られた自分」は、いつも他人の目を気にして生きています。

自分が他人から批判や非難されることに過敏に反応します。

「何かをしなければならない」と思っても、「仕事を休めない」とか「家族に言えない」と言います。


他人の批判と言っても、十人が十人同じ意見ではありません。

テレビや新聞、あるいは常識といったものを根拠にしているに過ぎません。


かって他人の批判や非難を気にしていた英雄がいたでしょうか?

発明や研究で実績をあげた研究者で、学会や学者の批判を気にしていた人物がいたでしょうか?


自分を見失っていて、感情の固まりを自分と誤解しているのに過ぎません。

そんな自分ですから、どんなに自分のハートや肉体が苦しんでいるかもわかりません。

ハートや肉体が苦しんだら、「魂」は抜け出てしまいます。


「魂」が抜け出てしまったら、肉体は空き家になりますから、その辺でうろうろしている

野良犬が住み着いてしまいます。こうして何十という野良犬が誰の中にもいます。


この野良犬は、亡くなって天国とかへ行かなければならないのに、まだこの世に執着があり

お迎えを断って、数百年もうろうろしている連中のことです。


有史以来無限に近い野良犬がいるので、「魂」が抜け出てしまった肉体は格好の住居になっています。

私はこのことに気づいていましたが、アセンションして初めて上空からこの実態を知りました。

この野良犬を追い出すことは可能です。


私たちは苦しまなければ、このような事態にはなりません。

マスコミと学校教育の影響でこのような状態になっています。彼らの責任は重大です。


しかしいい大人が、自らの人生に責任を持たないことは異常です。

疑問を持ち、それを探求して、自らの生き方を明確にするのは自分の義務でしょう。


LORAN |MAILHomePage

My追加