LORANの日記
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昨日まで今年2回目の九十九里浜ツアーに行って来ました。二泊三日でした。
ここは全長60kmという全国でも有数の美しい海岸線と、雄大な太平洋が魅力です。
「一望千里」という言葉がありますが、どこまでも平坦な風景はとてものどかです。
工場もほとんど無く、ゴミ焼却場の煙突しか見えません。
温暖な房総半島の風はとても緩やかです。
太陽の日差しもとても豊かです。
かってはいわし漁で栄えた浜辺はサーファーの遊び場所となっています。
海岸保護のため、車両の乗り入れ禁止は当然と思います。
(わが富士市は海岸へ車両が乗り入れています。)
自然豊かな九十九里浜にも悩みはあるようです。
浜辺沿いの道路に車を走らせると、3〜4軒に1軒位の割合で空き家が目立ちます。
土地柄、リゾート用の別荘も多いのでしょうが、永年使用していない空き家が目立ちます。
工場や産業の誘致と自然保護はお互いに矛盾を持ち、難しい課題です。
2箇所のガソリンステーションで給油しましたが、老朽化した建物と初老のオーナーが一人で
営業されていました。私はこれでいいのだろうと思いますが、当事者はどう思うのでしょう?
2〜3ケ月に1回の割合で、自分のワークへ行くつもりです。
田舎の農家の4男として生まれた私には、とても肌にあう場所です。
2006年03月10日(金) |
ただいま帰宅しました。 |
九十九里浜から帰宅しました。
1月に行って来てから、変化が加速されていました。
今回二泊三日のツアーでした。
昨日の日の出は犬吠崎、今朝は光町木戸浜でした。
あいにくの曇りで朝日を直接見ることができませんでしたが、目を瞑ればいつもの朝日が
見えました。感謝と祝福をおくらせていただきました。
朝日が見えなくても数百、数千メートルの厚さの雲の上には太陽が必ず存在しています。
雲は水蒸気で水の粒子ですから、光はその間を通過して来ます。
ですから雨が降っていても、朝日を浴びることは可能です。
蓮沼海浜公園とそれに連なる浜辺はとても雄大でした。
この付近には数々のリゾート施設が軒を連ねています。
国道や県道からさらに海辺に近い道路沿いですので、いまの季節は閑散としています。
地元の皆さまにはお気の毒ですが、過疎の方が自然環境が豊かでうれしいです。
産業や工場を誘致して雇用を作っても、空気や海が汚染されたら大変です。
1昨日、湾岸線で川崎を通過したときに痛感しました。
今回もいろいろな気づきがありました。
これから具体的な方法について検討していきます。
2006年03月08日(水) |
いまから出発します。 |

いまから九十九里浜へ出発します。
1月に行ったところですが、今回は3日間のツアーです。
変化は待っていても起きません。
自分が刺激を与える必要があります。
神に祈っているだけでは変わるはずがありません。
「天は自らを助ける者を助ける」というではありませんか。
変化はすべて意識の問題です。
意識が変われば地上で見るのと、上空から見るほどの変化があります。
宇宙飛行士がスペース・シャトルから地球を見て意識が変わり、人生
が変わったと報道されています。
安定は不安な心が求めます。ですから冒険する勇気が起きません。
希望は勇気を与えます。自分を信じれば希望が湧きます。
2006年03月07日(火) |
明日から九十九里浜です。 |
明日から三日間、九十九里浜へ行きます。
1月に犬吠埼へ行って以来、二ヶ月ぶりです。
今回も前回同様に瞑想とワークが目的です。
後は近くの日帰り温泉でゆっくり過ごします。
こんなに忙しく働く(と言っても、世間の皆さまの労働とは比較になりませんが)私に
付き合ってくれる自分に感謝しています。
ですから、なにもしないでのんびり過ごす時がたいせつと思います。
それでも往復640kmありますから、二日目だけが休日のようなものですが・・・
昨年末から急激な変化が続いています。
光と合一する時にはまるで大嵐の中の船のように、細胞がギシギシときしんでいました。
上昇するほど軋みが増えて、ばらばらになるかと思いました。
でもここまで来て中止はできません。
「死んでもいい、死んでもいい・・・」と必死で言い続けていました。
そしてついに「光の世界」を突き抜けました。
いや、そこも「光の世界」なのでしょう。
私は自分を知りたいだけです。
「本当の自分はなんだろう?」と思っているだけです。
それを続けて40年経ちました。
ようやく自分が見え始めたような気がします。
2006年03月06日(月) |
優先しなければならないことがあります。 |
自分と他人(自分以外の人)との区別がつかない人が多くいます。
また自分と思っている自分が、感情や思考によって「創られた自分」であることに気づかない人が
圧倒的に多いのも事実です。
このように「創られた自分」は、いつも他人の目を気にして生きています。
自分が他人から批判や非難されることに過敏に反応します。
「何かをしなければならない」と思っても、「仕事を休めない」とか「家族に言えない」と言います。
他人の批判と言っても、十人が十人同じ意見ではありません。
テレビや新聞、あるいは常識といったものを根拠にしているに過ぎません。
かって他人の批判や非難を気にしていた英雄がいたでしょうか?
発明や研究で実績をあげた研究者で、学会や学者の批判を気にしていた人物がいたでしょうか?
自分を見失っていて、感情の固まりを自分と誤解しているのに過ぎません。
そんな自分ですから、どんなに自分のハートや肉体が苦しんでいるかもわかりません。
ハートや肉体が苦しんだら、「魂」は抜け出てしまいます。
「魂」が抜け出てしまったら、肉体は空き家になりますから、その辺でうろうろしている
野良犬が住み着いてしまいます。こうして何十という野良犬が誰の中にもいます。
この野良犬は、亡くなって天国とかへ行かなければならないのに、まだこの世に執着があり
お迎えを断って、数百年もうろうろしている連中のことです。
有史以来無限に近い野良犬がいるので、「魂」が抜け出てしまった肉体は格好の住居になっています。
私はこのことに気づいていましたが、アセンションして初めて上空からこの実態を知りました。
この野良犬を追い出すことは可能です。
私たちは苦しまなければ、このような事態にはなりません。
マスコミと学校教育の影響でこのような状態になっています。彼らの責任は重大です。
しかしいい大人が、自らの人生に責任を持たないことは異常です。
疑問を持ち、それを探求して、自らの生き方を明確にするのは自分の義務でしょう。
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