LORANの日記
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2006年03月18日(土) |
「統合」と「神人合一」 |
昨日早朝瞑想していたとき、自分の内部で声がしました。
「大いなる光と統合する。」
その言葉が難解も繰り返されました。
自分の中で大きなエネルギーが動いていました。自分が変わったことが分かりました。
次に「大いなる意識と統合する。」と声がしました。
その言葉が難解も繰り返されました。
また大きなエネルギーが動き出しました。さらに自分が変わったことが分かりました。
自分と「宇宙の光」、「宇宙の意識」が一つになりました。
目を瞑ると自分が光でしかないことがよく分かりました。
昨夜友人をヒーリングさせていただいていたときです。
「神と一つになる。」と自分の内部で声がしました。
神と自分は同じであると思っていました。
しかし思うだけで、神と自分は無限の距離を隔てて存在していました。
ですからこんな声を聞いても半信半疑でした。
「神と自分が一つになれるなんて、まだまだ」とどこかで思っていましたから。
自分と何かを隔てている白いカーテン状のものがありました。
私はその右端を持って、引き抜き始めました。
しばらくその長い白いカーテン状のものを抜いていました。
それを引き抜き終わったとき、自分の前になにか大きな存在がいました。
私はその存在と一つになりました。私がその中に溶け込んだのでしょう。
一瞬にして巨大な存在になりました。
自分が宇宙と一つになりました。
いままでも瞑想中に宇宙と一体化していましたが、今度はそれと比べようがありません。
全くの一つですから、自分の存在感が桁外れに巨大なのです。
いままでの「ワンネス」が紙切れのように薄っぺらに感じました。
これが「神人合一」でした。
ここまで私を導き育ててくださったすべての存在に心から感謝します。
そしてここまでよく付き合ってくれた自分自身に心から感謝します。
誰でも自分の家族を愛します。
自分の妻や夫、子どもを愛します。
自分の両親、兄弟姉妹、一族を愛します。
自分の生まれ故郷、生まれた自然環境を愛します。
自分が生まれ育った故国を愛します。
それは当然です。
自分が愛する家族の一員であることが、大きな支えになります。
同じ仲間が頑張っている、サッカーのワールドカップに熱狂します。
オリンピックで金メダルをとれば、我がことのように喜びます。
この一体感が、自分を支える柱にも大地にもなります。
このような一体感はしばしば問題を起こします。
熱狂したサッカーのサポーター同士が、競技場内外で乱闘することもあります。
自分たちがサポートしているチームが負けたりすると、相手チームへ嫌がらせをすることがあります。
これは自分勝手な感情がすることですが、大勢になると暴徒化することがあります。
1923年の関東大震災発生時には、暴徒化した東京都民がデマを信じて数千人の朝鮮人を殺したそうです。
戦争は民族対民族の戦いであることが多く、いわゆる民族という名の血の戦いの様相を呈します。
いかに文明や科学が発達しても、精神的な面では蓄積ができません。
生まれてから肉体の成長に合わせるように、精神的に成長していきます。
100年前、200年前、500年前、1000年前と比べて、現在はどれほど成長したのでしょう?
ほとんど成長していないように思われます。いや、年々幼稚になっているように思われます。
マスコミが情報を氾濫させているので、自分がなにを信じているのか分かりません。
テレビや新聞の論調が、まるで自分の考えになっているように洗脳されています。
1年間に読む本の数がテレビが普及する以前よりも遥かに少なくなっています。
これでは自分が誰であるかを追及することさえ不可能です。
ということは、マスコミの言うなりになることを意味しています。
自分が判断できないことは、とても危険なことです。
このように民族主義は国、マスコミという支配者によって扇動されます。
国は民族が無ければ成り立たないからです。民族対立を煽っているように見えます。
小泉首相の靖国神社参拝などはいい例です。
私たちはこのような扇動に影響されることなく、自分の意思を持って生きなければなりません。
誰でも自分の家族を愛するように、相手もまた自分の家族を愛しています。
ですから対立ではなく、お互いが理解しあうことがたいせつです。
自分を捨てたら困ります。
自分をたいせつにしなければならないことは当然です。
ここに大きな問題があります。
「自分」とはなにかという問題です。
「自分」とは「自分」です。これも当然です。
しかし「自分」がいま考えている「自分」は、本当の「自分」でしょうか?
この肉体は「自分の本質である魂」が地球で活動するための宇宙服です。
違う言い方をすれば肉体は「乗馬用の馬」で、乗り手が「自分の本質である魂」です。
「肉体」または「乗馬用の馬」の考えは、実は「宇宙服」か「馬」の考えということになります。
それでも構わないのですが、「自分の本質である魂」が不在では本来の目的を達成することはできません。
ここで言う「自分を捨てたら・・」の「自分」とは、「宇宙服」か「馬」の「自分」のことです。
「宇宙服」か「馬」の「自分」の勝手な考えを捨てたら・・という意味です。
いつまでも「自分が信じ込んでいる自分」に振り回されています。
その「自分」は、両親や友人、先生、マスコミなどに教え込まされた「自分」であり、
真っ白な正絹のブラウスを、墨汁のバケツに漬け込まれたように染められています。
世界中で数千年間も戦争が続くのは、民族、宗教、文化などの違いが、違う色に人々を染め上げて
いることが原因です。
この違う色に染めたことが差別になり、対立を起こし、攻撃が戦争へ発展します。
日本国内でも朝鮮半島の人々や中国大陸の人に対しての差別が根強くあります。
このように「自分」と考えている「自分」は、思想的にも色づけされた「自分」です。
幼少の頃から「あれがダメ、これがダメ」とできないことを烙印された「自分」です。
周囲からの評価を信じ込んで、落ち込んでいる自分のことです。
この「自分」は、先ほど言った「宇宙服」か「馬」の「自分」です。
このような「自分」は、本当の「自分」ではありません。
しかしこの「自分」を信じている限り、本当の「自分」の出る幕はありません。
それでこのような「自分を捨てたら・・」という言葉が出てきます。
自分と思い込んでいる自分を捨てたら、すばらしい「自分」が現れるでしょう。
あなたも試してみませんか?
2006年03月13日(月) |
スピリチュアルなことをしていれば神様は見捨てない? |
ある著名な方のメルマガにそう書いてありました。
確かにその方も、きっとスピリチュアルなことをしてきたのでしょう。
スピリチュアルなことをしていれば何とかなるのでしょうか?
しかし私はそれだけでは甘いと思います。
私たちが大きな間違いをしているのは、神様を見ないで人を見ているからです。
神様の声を聞かないで、人の話ばかり聞いているからです。
神様を感じないで、人のうわさや評価を気にしているからです。
神様がこんなに困っている自分を助けてくれないはずがないと思っています。
こんなに小さな子どもを助けないはずがないと思っています。
これは人情とという人間だけの感情ですから、神様には通用しません。
しかし神主や僧侶は人情で話をします。それがまるで神仏の気持ちを伝えているような
誤解を生んでいます。
人情は人間だけの感情です。
「かわいそう」という感情は人間だけの固有の感情です。
人間は人情をとても巧妙に自分本位に使います。
ペットならかわいそうでも、魚や植物はかわいそうではありません。
自分が食べるときはおいしいと言いますが、自分が食べられるのは困ります。
かわいそうを連発する人は、自己憐憫な人が多いと思います。
こんなに自分がかわいそうだから、みんなに優しくしてもらいたいと言いたいのです。
自分に優しくしてくれることを要求していますが、優しくしてくれなければ攻撃します。
このように人情はとても身勝手です。こんな身勝手な要求を神様が聞いてくれるはずがありません。
それなのに毎朝神仏に手を合わせて、ああしてくれ、こうしてくれと要求ばかりしています。
そんな身勝手な人を神様は遥か高いところから慈愛の眼差し(まなざし)でみてくれています。
それは「お前たちを信じているよ。だから自分で幸せになりなさい。」との思いです。
私たちは神様の子であり、分身でもあります。
どんな現実でも現実化できるのは、自分が創造神だからです。
ですから神様は私たちが幸せになると信じて見てくれています。
「所詮人生自己満足」というタイトルで書いてみました。
「言葉は意を尽くせない」と言います。
読者は言葉を自分の感覚や感情で判断します。自分と他人は感覚が一致するとは限りません。
「愛」という言葉も「異性愛」、「母子愛」、「家族愛」、「人類愛」などなどいろいろです。
「愛」と聞いただけで勝手に空想されてしまいます。これでは伝えたい意は伝わりません。
「自己満足」という言葉もまた、聞く人によっては様々に受け取られるのでしょう。
多分、「自分勝手に満足すること」であり、「他人から見たらたいした満足ではないような程度
の満足」と思われるのでしょう。
しかしここでいう「自己満足」とは満足度のレベルをいうのではありません。
自分自身が満足したことを表す言葉です。
ですから他人の評価とはまったく違うものです。
「自分が満足したなら、それを他人がなんと評価しようと構わない」という意味です。
ですから人生は、その人の「自己満足」に間違いありません。
他人の評価に関係ない、自分が満足を感じる人生を送るだけのことです。
そして神様はじっと人の人生を見ておられます。
深い慈愛の眼差し(まなざし)で。
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