LORANの日記
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2006年05月25日(木) |
TOPページ変更しました。 |
久しぶりでTOPページを変更しました。
気分転換のリニューアルです。
こんな勝手なことばかり書いているHPを見ていただいて感謝しています。
アクセスカウンターも12万に近くなっています。
世間には共感を求める人が多く居て、最大公約数的なHPに集中します。
同じことに関心を持つことで仲間意識が芽生え、安心するのでしょう。
でも、私のように人々に警鐘を鳴らす者もいます。
「いつまでも惰眠をむさぼっていていいのですか?」と。
お金に支配され、家やマンション、車、パソコン、ファッション、旅行、食事・・・など。
お金を得るために幼い子どもを保育園へ預け、寂しい思いをさせ、得たものは享楽だけ。
先進国の人々が贅沢をするために、途上国の人々は搾取され、いつも貧しい生活に喘いでいます。
これでも地球や人類が「ワンネス」で「すべては愛」などと、どういう理由で言えるのでしょう?
私は宗教者ではありませんが、まるで旧約聖書の「ソドムとゴモラ」ではありませんか?
そこに住む者たちは享楽に耽りモラルを逸したため、天に滅ぼされたとあります。
いま近づいている「マヤの第5の時代」の終焉の日、「2012年12月22日」はなにを
意味しているのでしょう?
私は約10年前、体調が極度に悪くなり、あと半年の命と自分で思いました。
次の日に妻に告げ、翌日に子どもたちに告げ、社員に告げ、月末には全員解雇しました。
正に命がけで現実を学びました。
殆どの人々は、現実という「白昼夢」を見ているように感じます。
そこにはしっかりと大地に根付いた力強さがありません。
お金さえあればいい。いまだけらくで楽しければいい。自分の体やハートに興味はない。
そう言った、自滅的な傾向が顕著に見られます。
ですから、終焉の日が来ても不思議はないのです。
すべては自分が現実化しているのですから。
2006年05月23日(火) |
世にも不思議な物語??(3) |
「自分」とは誰でしょうか?
前にもこの日記帳へ度々書きました。
賢明な読者の皆さまは、既にお分かりになったでしょう。
では「自分という意識」はなんでしょうか?
「え、自分の意識は自分でしょう?」と思われるでしょうね。
「自分という意識」のことを「自我意識」と呼びます。
この「自我意識」は、あなたの本当の「自分という意識」でしょうか?
そして、あなたの本当の「自分という意識」とはなんでしょうか?
多分、ここまでは考えたことがないでしょうね。
ここで言う「本当の」という意味は、あなたの内面の奥深くにあるモノを言います。
ですから普段の生活では、気づかないモノです。
では「気づかなくてもいいのではないか」と思う人もいるでしょう。
そうです。90%以上の人が気づかないでいると思います。
ですから気づかなくても、生きていくことは可能です。
なぜここで、こんなにややこしい話をしているかと言いますと、「本当の」の反対に
あなたの「感情」があるのです。
そして「自分の感情」を「自分の意識」と思っています。
「え、感情と意識は違うの?」と思われる方もいるでしょうね。
感情と意識は違います。感情は外界の刺激によって五感が起こす反応です。
感情はエネルギーですから、溜めれば巨大になり、反応が巨大化します。
怒りを溜めている人は、些細なことで怒りが爆発します。
この意識は人だけが持つ「自我意識」であり、自分を認識するためにあります。
しかし感情が蓄積すると、感情が意識を支配してしまいます。
それで「自我意識」=感情になります。殆どの人がこの状態です。
では本当の「自分という意識」はなにをしているのでしょう?
感情=自我意識で、感情が自分を支配しているときには、まったく出番がありません。
大きな壁にぶつかり、叩いても、泣きわめいても、どうにもならなくなって絶望したとき、
呆然自失したとき、ふっと自分の内面の奥深くから、そっと現れます。
感情が自分を支配することを止めた極限の状態で、初めてその存在が分かります。
もし、この本当の「自分という意識」と繋がったら、あとは思うままに生きるだけです。
7年間連続で、自殺者数が3万人を越えていると報じられています。
もしあなたがピンチにいるなら、どうぞあなたの本当の「自分という意識」と出会ってください。
世間的には評価されないかも知れませんが、きっと心安らかな人生を送ることができます。
(昨日のつづき)
「立派な青虫さん」とはどんな青虫でしょうか?
それはもちろん、体格もよくて威厳があり、力も強く、堂々としています。
誰からも尊敬されていて、優しくて、物知りです。
青虫の世界では超有名人で、多くの著書もあります。
ですから、多くの青虫の憧れであり、目標でもあります。
立派な青虫になるには、有名青虫大学を卒業したり、有名青虫企業へ勤務したりします。
立派な青虫会社のオーナーであり、多くの青虫がそこで働いています。
また多くの講演会やセミナーの講師として招かれ、全国からファンの青虫が集まります。
地位、名誉、富、知識、青虫徳を兼ね備えた立派な青虫です。
では青虫は青虫でいいのでしょうか?
青虫は成虫にならなくてもいいのでしょうか?
かって青虫の世界に、モンシロチョウになることを勧めた青虫がいました。
蛹(さなぎ)になることを勧めました。
脱皮を繰り返した後は、蛹になりなさいと説きました。
いつまでも美味しいキャベツを食べることに夢中にならないで、蛹になりなさいと。
お弟子さんの中には蛹になった青虫もいましたが、殆どの青虫は美味しいキャベツを食べる
ことに夢中で蛹になりませんでした。
蛹になったら美味しいキャベツを食べることはできません。
お腹は空くし、いまの平和や幸福で十分だと思っていました。
そして誰も成虫にならなくなってしまいました。
成虫にならなければ卵は産めません。
栄養のお陰で、大きな青虫になれるように長生きにはなりましたが。
そしていつか卵から孵る子どもたちが産まれなくなり、青虫はいなくなってしまいましたとさ。
2006年05月21日(日) |
やっぱり大きな青虫になりたいですか? |
青虫はモンシロチョウの幼虫です。
アブラナ科の植物を好みます。
青虫はキャベツなどの葉をもりもり食べて大きくなります。
大きくなって脱皮をします。着ている服が小さくなったからでしょう。
そしてもりもり食べて大きくなって、脱皮をします。
この作業を5回繰り返します。
そして動かなくなります。蛹(さなぎ)になるのです。
蛹の中で青虫は、大変身をしています。
そして約十日後、蛹から出て羽を拡げて乾かし、モンシロチョウは飛び立ちます。
こんな小さなモンシロチョウに教えられることが多くあります。
青虫だった幼虫は成長するたびに脱皮をします。
脱皮は小さくなった服を脱ぐことですから、小学校、中学校と進学することと同じです。
5回の脱皮ですから、幼稚園から数えれば大学卒業に相当します。
その後、蛹になります。自分が作った蛹の中で、飲まず食わずでじっとしています。
外界との接触を断ち、自分だけの世界に入って内視している状態でしょう。
そして青虫がモンシロチョウに大変身するのです。
蛹の中で、どれほどの変化があったのでしょう。
私たちは、青虫のように脱皮を繰り返して成長します。
進学し、知識や情報も十分に手に入れます。
毎日努力して働き、富や名誉を手に入れようとしています。
せめて人並みの生活をしたいと願っています。
それは青虫が成長している段階と同じです。
人は青虫が成長している段階を一生続けています。
そして大きな青虫が立派に見えます。
威厳があり、富と名誉がある青虫に憧れます。
でもそれでいいのでしょうか?
青虫は成虫であるモンシロチョウにならなくてもいいのでしょうか?
周囲を見過ぎたあまり、自分がモンシロチョウになることを忘れてしまったのです。
多くの人が、大きな青虫に憧れているのに合わせてしまったのです。
その人たちは、モンシロチョウになれるのは特別な人と言っています。
青虫がモンシロチョウになれるはずがないと言っています。
でも中には考える青虫もいます。
やっぱりモンシロチョウになりたいと。
2006年05月19日(金) |
世にも不思議な物語??(2) |
「私は無宗教です。」と言う人がいます。
中東の国の入国審査のときに宗教を尋ねられて、不審に思われた人もいるそうです。
「無宗教」とはなんでしょう?
いかなる宗教団体や組織に所属していないという意味なのでしょう。
いま日本人の多くの人がそう思っているのでしょう。
その「無宗教」の人が、子どもが生まれると「初宮参り」へ着飾って行きます。
「七五三」で神社へ行き、千歳飴を大事そうに持って記念写真を撮っています。
先祖の墓へお彼岸やお盆に供養の花や選考を持って行きます。
家族や親戚のお葬式に僧侶や神主をお願いします。
仏壇や神棚がある家は決して珍しくありません。無いほうが少ないくらいです。
これはどうしたことでしょう?
こんなに宗教行事に熱心なのに、「無宗教」と言うのですから。
皆と同じことをしているのだから、これは宗教ではないと思っているのでしょう。
「宗教」というのは、新興宗教のようにもっと熱心で「カルト」的のことと思っているのでしょう。
ですから仏壇や神棚に礼拝しても、神様との関係がとても希薄なのでしょう。
ただ皆がしているから、昔からしているからという義務感しかないように思えます。
それで「私には信仰心がありません。」という意味で「無宗教」と言うのでしょう。
ここに大きなトリックが隠されています。
実は日本人は生まれながらに宗教団体へ加入させられています。
それも二つの宗教へです。
一つは「仏教」です。
ある歴史のサイトの檀家制度の説明にこう書いてあります。
「民衆一般に行き渡るのは,幕府および諸藩が切支丹禁制のため,檀家制度を実施させた17世紀中期からである。この制度ができたのは1635年(寛永12)。この年江戸幕府はキリスト教徒の摘発の役を全国の寺院に命じた。これに応じた寺院は,周辺の人々の身分を代々自分の寺で菩提(葬式)を弔う檀家でありキリスト教徒ではないと保証した。ここから寺院と檀家の関係が幕府の手によりつくられたのである。寺院側はこれを契機に,檀家の身分保証と引き換えに檀家に対して寺の経営に協力するよう要請し,寺の経済的基盤を支える者として位置づけた。寺が檀家に要求したものを大別すると,[1]祖師忌・仏忌(釈迦の死去した2月15日)・盆・春秋の彼岸・先祖の命日には必ず寺に参詣すること,[2]先祖の年忌法要は檀那寺の僧侶に頼むこと,ほかの寺には行かぬこと,[3]檀那寺の命に従い寄付には進んで応ずること,[4]先祖の仏事法要は檀那寺に頼むこと,[5]絶対に離檀せぬこと,[6]檀家の者は家族1人につき1カ月に米3合ずつ住職に差し出すこと,などである。これに逆うと僧侶は身分保証の寺請証文を書かない上いうことである。身分保証がなければキリシタンということになるため,檀家はこれらの条件を忠実に守らねばならなかった。この制度と同時に,各地で宗門改帳がつくられ,一家全員の所属する寺院が記録された。」(前・後略)
こうしてキリスト教弾圧と戸籍のために作られた制度ですが、江戸時代が終わっても存続しています。
もう一つは「神道」です。
明治維新は長州藩が薩摩藩と組んで興したクーデターです。
長州藩は中国地方を支配する大大名でしたが、関が原の戦いで大阪方の総大将となり敗戦しました。
本来なら殺され断絶になるところを、毛利元就の息子の系統である吉川家のとりなしで長州一国の
小大名になりました。それだけでも当時はたいへんな幸運だったと言えます。
しかし過去の栄光を忘れられない長州藩は、打倒徳川を願っていました。
長州藩が黒船を砲撃して、逆に砲台を占領される事件が起こり、イギリス軍の支援を受けて開国を
進めることになりました。イギリスのしたたかな計算が見えています。
このクーデターを成功させるために利用したのが天皇制でした。天皇家を「高天原」から来た神の
一族と言う「神道」を根拠に、長州藩とイギリスが連携して徳川を打倒し開国させることに成功しました。
維新後薩摩藩と戦争が起き、薩摩藩に勝って長州藩が明治政府を支配しました。
この政策を完全に成功させるために、「神社本庁」を置き、全国市町村へ神社を置きました。
これによってすべての国民は神社の氏子(信者)となり、天皇の支配を受けることになりました。
これを「国家神道」と呼びます。全国民が天皇の信者なのです。
1945年、日本は敗戦しましたが、占領軍は天皇制を維持することで無益なトラブルを回避しました。
新憲法により「天皇制」は「象徴」という名前をつけられましたが、体制は以前のまま続いています。
ですから、いまでも日本人としてうまれたら、全国民は「神道」の信者のままでいます。
天皇は国家元首(国王)として、すべての大臣や大使を任命し、国会の開会を宣言します。
つまり国会は天皇の許可なしには開会できません。
この事実をなるべく国民へ知らせないように政府はしています。
ですから国民は、はっきりと事実を知らないので、「無宗教」などとのどかなことを言っています。
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