LORANの日記
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2006年06月30日(金) 差別と被差別


先日来インタ−ネットで、あるサイトに釘付けになっていました。

そのサイトの読み物をA4用紙へ両面印刷したところ、約600枚(1200ページ)にもなりました。

世の中には凄い大作を物している人が居るものです。感心しています。


そのサイトは「被差別の部落」についてのものです。

実は自分の周囲に、そのような話題が今まで無かったので全く無知でした。

なにかの本の中に、チラッと現れる夕立の稲光のようなものでした。


しかしこの約1200ページの論文を拝見して、差別とはなにかを感じ始めました。

差別は初めから存在するものではないのですね。


誰かが弱い立場の人を差別することで、自分たちの優位を保とうとするだけなのでしょう。 

これは子どもがいじめをする構造と同じでしょう。


つまり差別する側の「意識が貧しい」ことが原因であろうと思われます。

差別が弱いものいじめ以外ではないことを考えれば、それ以外ではないでしょう。


この世界が物質世界=三次元世界であることは何度も書きました。

その特徴は「対立する2つの要素」が存在することですね。


「天と地」であり、「プラスとマイナス」であり、「光と闇」などです。


それは一方だけでは存在できない世界です。

一方が存在するためには、他方が存在しなければならない世界です。


厳寒の長い冬を知る者は、暖かい春の喜びを知るでしょう。

毎日が暖かい地方に住む者は、この喜びを知ることはないのかも知れません。


そうであるなら、暖かい地方へ住む者と、厳寒の地方へ住む者がいるのは、

なにかの理由があるのではないでしょうか?


それとも偶然厳寒の地方へ生まれたのでしょうか?

私には偶然に起こることはないように思われます。


生まれる時代も、環境(家族、親、住む地方など)も、すべて承知で生まれたのだろうと。

そこに生まれて学ぶことが、今回の自分を実現するのに最適であると判断したのだろうと。


しかし生まれると、今まで考えていたことはすべて忘れてしまいます。

それで自分の境遇と周囲を比較して、不平と不満の人生になることが多いのでしょう。


差別される人は、どうぞ勇気を持って生きてください。

もし大きな変革を求めるなら、移転や移民でも可能でしょう。

新しい環境なら、その出自を問わないでしょう。



これは敗北ではなく、被差別にエネルギーを使っていたら、自分の本来の目的を果たすことが

できないからです。

差別する人の非をいかに訴えても、時間だけが浪費されるばかりですから。


差別する人の数は無数です。彼らの考え方を変えることは不可能です。

それなら自分が変わった方が、余程早いと思うのです。


いかに議論をしても相手の非を訴えても、それは壊れた船の浸水を汲み出すのに似ています。

つまり決して終わらない虚しい作業でしょう。

それよりもそんな船を放棄して、新しい船に乗り換えた方が余程楽に生きられるでしょう。


差別する人は、被差別の人から学ぶ必要があります。

彼らは自分からその境遇になったのではなく、古くは帰化人であったり、年貢を払えない人で

あったり、新しくは明治政府が決めた地域に住んでいただけの人なのです。


ですからだれでも被差別の人になる可能性があるのです。

数十万人もの自己破産者がいますが、昔なら彼らに分類されるでしょう。


インドはヒンズー教徒が多く、カースト制度を認めています。

このカースト制度は、次回の転生で上位へ上がれることを保証することで維持されています。

しかし、この恩恵にさえ与(あず)かれない「アウト・オブ・カースト」が数百万人もいます。


また新しいグループとして「ストリート・チルドレン」も数百万人います。

難民は4千万人を数えます。


このように新しい差別を私たちは作っています。

私たちは彼らから、いまどのように学ぶのでしょう?






2006年06月29日(木) 捻挫(ねんざ)


5月16日、車を定期点検に出しました。

「1時間ほどで終わります。」と言われて、近くの図書館へ行くことにしました。


行く途中の道で、舗装が欠けた路肩で左足首を捻挫(ねんざ)してしまいました。

思い切り捻挫したので、「ボキ!」と音がして激痛が走りました。


この足首は30年以上前に岩手県のあるお寺で捻挫して以来、度々故障したところです。

靭帯が伸びているらしく、同じ故障を繰り返しています。


それにしても今回は異常な痛みでした。

後で分かったのですが、骨にひびが入っていました。


フェンスへつかまって、痛みに意識を集中して引き出しました。

真っ赤な痛みを抜き出すことに成功しました。


その後、「光」をイメージして故障箇所へ充填すると、痛みは無くなりました。

そのまま図書館へ行き、1時間後には点検が済んだ車を運転して帰宅しました。


その日から1週間ほどは湿布をしていました。

散歩も自粛していましたが、毎週顔を合わせる人たちも、殆ど故障に気づかなかったようです。


故障直後から約1週間、千葉県九十九里浜、愛媛県松山市、高知県室戸市、長野県須坂市へ行きました。

結構ハードな毎日でした。


いまは元通りになりました。早く回復できて自分でも驚いています。

自分のエネルギーをコントロールできることを実証しました。


もう60歳代ですから、うっかり捻挫すると骨にひびが入ることが分かりました。

これからは、もっと自分を大切にしなければならないと思いました。


それにしてもその故障の直前に、「真っすぐ行くと危ない」と危険信号がありました。

それで曲がってすぐに故障したのでした。


もっとあの時に注意深くしなければいけませんでした。




2006年06月28日(水) 現実とは??


現実とはなんでしょうか?

いまあなたが生きていること。そして生活していること。


そうです。あなたがいま生きて生活していることが現実です。

それはあなたがそう考えたからです。殆どの人がそう考えています。


では他の考え方があるのでしょうか?

そうです。他の考え方もあります。立場が違えば違う考え方になります。


世界中に64億人の人々が暮らしているそうです。

その人々は各々立場が違います。ですから64億人が違う現実の中に生きています。


いまあなたがパソコンを利用して、様々な人たちとコミュニケーションをしていますが、

同じ瞬間に、数百万人ものストリート・チルドレンがお腹を空かしています。


数千万人の人が難民となって、粗末なテントや仮説住宅で生活しています。

同じ瞬間に母親の手の中で、なんの手当てもできないで亡くなる子どももいます。


同じ地球上で起こっている現実は、なんとバラエティーに富んでいるのでしょうか?

飽食で半分近くの食べ物を捨てている現実と、食べることのできない現実が存在します。


もしあなたが「精神世界」などに興味を持っているなら、きっと理解できるでしょう。

なぜこのような矛盾が起きているのかという理由を。


そうです。この物質世界という三次元世界では、相反する2つの要素があります。

それは「天と地」、「プラスとマイナス」、「生と死」、「明と暗」、「男と女」などです。


この相反する2つの要素は、お互いを存在させるためにあります。

「天と地」が無ければ世界は存在しませんし、片方だけでも存在しません。

「プラスとマイナス」が無ければ電気は流れません。

「男と女」がいなければ子どもはできませんし、人類は滅亡します。


違う要素があるので、他方の学びになります。

「生と死」はまるでカードの裏表のように思われます。


生命は一瞬にして誕生し、一瞬にして消えていきます。

関係者の喜びと悲しみとは関係なく、ただ淡々と繰り返しています。


それは海岸へ打ち寄せる波のようであり、朝日と夕日であり、春と冬のようです。

私たちのように80年もの寿命を持つ者もいれば、1週間の寿命の生き物もいます。


無数の生き物のそれぞれの現実を乗せて、地球は自転し、公転しています。

赤道付近では音速を超える速度で移動しています。


それぞれの現実をそのまま見つめ、受け入れなければなりません。

なぜなら、それぞれがその生命と存在を賭けて、私たちに教えてくれているからです。





2006年06月27日(火) 人の目を気にする・・


社会生活をしている以上、他の人を気にしても当然です。

他の人が自分をどう思っているかも気になります。


お互いがそのように思い合っているのですから、そこに一定の基準ができます。

それを「常識」と呼ぶのでしょう。


もしその「常識」を逸脱すれば、他の人の批判や非難を浴びることになります。

社会生活の中で安全に生活するためには、他の人の批判や非難は避けなければなりません。


それで常識という「枠」の中から出られなくなります。

自分がしたいことや言いたいことがあっても、他の人の批判や非難を怖れているからです。


こうしてお互いがお互いを縛りあう関係が出来上がっています。

お互いがお互いを監視しあい、お互いを怖れる関係が出来上がります。


人は自分を認めて欲しいと思っています。

ですからおしゃれもするし、ステキなファッションに身を包みます。


特に女性は、他の人の目線で自分を見る傾向が強いようです。

それで自意識が過剰になるようです。


自分を他の人に気に入って欲しいことは理解できますが、過剰になったら困ります。

自分の基準がどんどん希薄になり、他の人の基準に合わせてしまうからです。


「愛は人に与えるもの」と言う人がいますが、本当にそうでしょうか?

これは中国の儒学の影響でしょう。「滅私奉公」という自己犠牲を強制しているのでしょう。


これでは自分の人生を生きているとは言えません。

本当の自分=自分の心や体や魂が喜ぶ生き方をする義務があるのではありませんか?


自分が自分を幸せにしなくて、だれが自分を幸せにしてくれると言うのですか?

他の人が自分を幸せにしてくれないという不満が、あなたの中にありませんか?


自分が自分を幸せにすることが、唯一の自分の義務だと思います。


2006年06月26日(月) 幸せになりたい・・・

「幸せになりたい」と多くの人は言います。

それでは「幸せになる」という変化がなければなりません。


しかし「今の幸せが続きますように=今の生活が変わっては困る」と言います。

これでは「幸せになる」ことは不可能です。


この矛盾は「苦労したくない」と思っていることが原因です。

ダイアモンドが欲しければ、原石を手に入れるために掘らなければなりません。

原石を手に入れても、磨かなければなりません。


その苦労を厭(いと)うのでは、ダイアモンドは手に入りません。

それで誰かが「完成したダイアモンド」をプレゼントしてくれるようにと神仏に祈っています。


この社会をよく見ると、こんな考えの人が殆どです。

「お金があれば選択肢が増える」と思っている人もまた、プレゼントをもらえるチャンスが増える

と思っているのです。


そのお金を手に入れるために学校や資格や会社や官公庁があります。

お金の多少で幸せを手に入れることができると思っています。


ですから高価なダイアモンドは、多くのお金を稼ぐことで入手が可能になると思っています。

自分が額に汗を流して、泥だらけになって、危険を冒して発掘しようとは思っていません。


そんな苦労をするよりも、快適な生活を楽しむ方がずっと幸せと思っています。

それでこのような矛盾に満ちた社会が成り立っています。


人それぞれの価値観は異なります。

しかしお金を手に入れることが幸せになることではありません。


お金は購買力であり、物やサービスの代価に過ぎません。

資本主義社会とはお金が王様であり、人はお金の奴隷になりました。

それでお金がなければ生きていけなくなりました。

その現実を選択しているのは私たちです。しかし選択を変更することは可能です。


そろそろ現実に目覚めなければ、環境破壊が進んで手遅れになります。

お金の支配という中毒症状から、いつになったら抜け出せるのでしょう?



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