LORANの日記
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2007年02月11日(日) ヴィジョン







いまの意識が未来の現実を創ります。

それは容易に理解できます。


自分は分かったから、もう大丈夫と思っている人が多くいます。

自分が理解しても、それは頭で理解したことです。


頭は全身から見たら、1/5とか1/7の範囲に過ぎません。

その人の1/5か1/7が、理解したに過ぎません。


全身の半分が理解すれば、現実は半分が変わるでしょう。

そのように、頭だけで考えている人は現実が変わりにくいのです。


また、意識を構成するものの多くは感情です。

感情の多くは、悲しみや不安など否定的なエネルギーが殆どです。


自分の中で最も大きなエネルギーが、自分の意識を支配しています。

ですから、悲しみや不安が自分を支配していることが分かります。


こうして、悲しみや不安が未来の現実を創ります。

未来が楽観できないことは、容易に理解できます。


いつまでも、頭だけで考えることをやめなければなりません。

では、どこで考えればいいのでしょう?


もちろん、体で考えるほかはありません。

一つひとつの細胞は意識体であり、考えることもできます。


頭だけに任せていたから、こんなに間違いを重ねてしまいました。


高学歴の人ほど、頭を病んでいます。

頭を解放してあげれば、頭も本来の機能を回復できるでしょう。


未来が希望に満ちた世界になるためには、いまできることをしなければ

なりません。




2007年02月10日(土) 疑問??


疑問を持つ人と持たない人がいます。

いまのままで仕方がないと思う人と、なにか変と感じる人がいます。


なぜ疑問を持つのでしょうか?

疑問を持っても、事態が変わるはずがないのに。


私は、「すべては初めから決まっている。」と思います。

「すべてを初めから知っている。」と思います。


そうであれば、初めから知っているのですから、現実を見れば

違いが分かるでしょう。

それで、「なにかが変だ。」と思うのでしょう。


疑問を持つ人は、正常な状態にあるのだろうと思われます。

疑問を持たない人は、「すべてを初めから知っている。」ことを、

忘れてしまったのではないでしょうか?


忘れてしまった人は、目の前にある物事に夢中になります。

お金や仕事、権威や権力などを、自分の生きる目的にしています。


「なにかが変だ。」と思う人は、目の前の物事に夢中になりません。

それ以上に大切な物事があることを、漠然と知っているからでしょう。


問題は疑問を持つことを忘れてしまった人が多過ぎることでしょう。

「なにかが変だ。」と感じて、チェックすることができないからです。


もしもあなたが疑問を感じているのなら、その疑問を大切にしてください。

その疑問があなたを、正解へ導いてくれるでしょう。


2007年02月09日(金) あるコメントより。

私の友人が、アフリカの東岸にある島から帰国しました。

ブログに書かれていた記事へコメントを書きました。

以下へコメントを転載します。



○○さん、お帰りなさい。


日本でも昔は大家族制でした。

いまでも残っている白川郷の合掌造りの家屋には、相当大勢の家族が

同居いていたのでしょうね。


私の子ども時代は、我が家には15〜20人の家族が同居していました。

1軒の家に大勢の人がいれば、もちろん大変なこともあるでしょうね。

母からは、よくそんな苦労話を聞かされました。

プライバシーという言葉も存在しませんでした。


しかし、○○さんが指摘したように、育児ノイローゼや孤立した子どもは

存在しませんでした。

子どもにはいつも誰かの目が注がれているので、危険もありませんでした。


62年前の敗戦以来、アメリカ文化が日本を変えてしまいました。

その中に、個人という概念が植え付けられました。

団体よりも個人を優先するという傾向です。


その結果、孤立や孤独が人を支配しました。

核家族という制度が生まれました。


若い母親は手助けがないので、育児ノイローゼになり子どもを殺しました。

子どもは誰もいない家で、寂しく食事をしました。

年よりは生きがいを失い、ボケが進み、施設へ収容されました。


こうして、不幸になる人が増えました。


2007年02月08日(木) 本当はなにも無いの??


今日、参加者の方から質問されました。

「本当はなにも無いのですか?」


「そうかも知れません。

 なにも無いのかも。

 『この世は夢か、幻か♪』

 という歌詞の歌がありました。」


「では、本当はなにも無いのですか?」

「無いと思えば無いし、あると思えばあるのでしょうね。」


こんな会話をしていました。

まるで禅問答のようですが、とてもたいせつな質問です。


私たちは、明らかでなければ安心できないようです。

正義か悪か、いい人か悪い人か、黒白をはっきりさせなければ、

安心できないようです。


しかし、100%善人はいないし、100%悪人もいません。

敵から見たら悪逆非道でも、味方から見れば正義のヒーローです。


いい人という言葉も、自分の都合によって変わります。

つまり、自分に都合のいい人という意味になります。


自分のエゴによって決まるのですから、真実と言ってもあやふやです。

その上、真実とは更に不可解になります。


自分のことさえよく分からないのに、すべてを理解しようと思っています。

高次元の存在は「神」の世界ですから、理解することは不可能です。


それで「本当はなにも無いのですか?」という質問になります。

では、その質問は愚問なのでしょうか?


いいえ、愚問ではありません。

その証拠に、多くの人にはその質問さえ起きないのですから。

それは「賢者の質問」です。


答えの「無いと思えば無いし、あると思えばあるのでしょうね。」とは、

すべての答えは、自分の中にあるということです。


私は、「真実とは自分が存在すること。」と言っています。

ですから、自分があると思えばあるのですし、無いと思えば無いのです。


それで、自分が「創造神」であることが分かります。

自分がどちらも創造できるのですから。


ここでたいせつなことは、「自分が、本当はどうしたいのか?」が、

分かっているかどうかです。


他人との比較や欲望だけでは、本当の自分のしたいことではありません。

本当の自分を知ることが、どうしても必要になります。



2007年02月07日(水) 九十九里海岸にて


暖冬のせいで、早朝寒くなくて助かります。

今朝も自転車で海岸へ行きました。


今朝は風も無く、とてもゆったりとした朝でした。

水平線上に薄い雲があり、それを透過して見える日の出は

幻想的で、まるで日本画のようです。


昨日の朝の出来事で、自分の中がまったく無音です。

頭もなにも喋りませんし、体の中も空っぽです。


空っぽと言っても、光が満ち、エネルギーが充満した状態です。

最も理想的な状態になりました。


帰宅してから朝食をとったのですが、なにも考えていないのに、

トーストのパンを両手に取ってみると、小麦畑が広がっている

情景を感じました。

ヨーグルトには牛と牧場を感じました。


「どうぞ私と仲良くしてください。

 あなたを歓迎します。」


そう言っている私がいました。

私を含めて、すべてが自然の中に存在していました。


もう、なにも求めなくてもよくなりました。

自分が自分であること以外には、なにもないことが分かりました。


ここまで導いてくださったすべてに感謝します。

私を支えてくれたすべてに感謝します。




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