LORANの日記
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2007年04月12日(木) |
明日から東北と北陸です。 |
今朝は九十九里海岸は曇りでした。
この写真を撮ってから、3分間ほど太陽が見えました。
いま、AM11:50 天気は晴れです。
風も無く、穏やかな日です。
先程、2kmほどのところにある宅急便のサービスセンターへ
荷物をお願いしてきました。
1ケは、4月14日に開催される新潟すぴこんの会場宛です。
もう1ケは、明日の晩に泊まる新潟市内のホテル宛です。
明日は千葉の外房線の駅をAM7:30ごろ出発します。
丁度ラッシュアワーですから、大きな荷物を持ったままでは
移動がたいへんです。
それで、スーツケースもホテルへ送ってしまいました。
明日は池袋から高速バスで新潟へ向かいます。
高速バスを使ってのツアーは初めてです。
新幹線で行くことも考えましたが、高速バスを体験したかったのです。
13日は新潟市内のホテルへ泊まり、翌14日の新潟すぴこんへ出店
します。
終了後、新潟駅から直江津駅まで電車で行き、ホテルへ宿泊します。
このときから、荷物を持っての移動が開始されます。
翌15日は直江津駅から金沢駅へ行きますが、金沢駅への到着が
AM9:55です。
金沢すぴこんの開場時間までには到着できますが、あわただしいです。
両すぴこんともワークショップを開催することになっています。
金沢は約10年ぶりで、懐かしいです。
その晩は金沢市内のホテルへ泊まり、翌16日に、また高速バスで
東京・新宿へ向かいます。約8時間かかります。
千葉の自宅へ多分、PM10:00ごろ到着の予定です。
いよいよ、明日からツアーが始まります。
毎月、いろいろな場所へ行けることを楽しんでいます。
久しぶりの九十九里海岸の空は、雲に覆われていました。
ゴーゴーと鳴り響く海鳴りを聞くと、帰ってきた感慨があります。
少し経つと、雲間から太陽が見え、光が差し込んできました。
海面にも陽光が映り、荘厳な気持ちになります。
珍しくサーファーの姿もなく、散歩の人影も消えました。
この日本一長大な海岸を独占しているようです。
途中から風が強くなり、細かな砂を巻き上げて吹いています。
私は波打ち際にたたずみ、祈りを捧げます。
すべてに感謝するだけですが、自分の意識が溶け出していきます。
物質次元から高次元へ、意識が到達することは可能です。
意識がなによりも優先します。
物質次元では、「生命が最も大事」と思われていますが、それは
肉体の叫びであって、それ以上ではありません。
例え亡くなっても、意識は死亡した肉体から抜け出すに過ぎません。
抜け出した意識は、肉体の中にいたときとなにも変わりません。
亡くなればあの世とかへ行くと言われていますが、そうばかりでもありません。
それこそ十人十色です。
生きている間は何とかなりますが、亡くなってからでは選択は困難です。
生きているときに、対策を考えておきたいものです。
2007年04月10日(火) |
不思議な気持ち・・・ |
4月6日(金)、12:10発の飛行機で羽田空港から松山空港へ向かいました。
搭乗手続きを終えて待合室にいるときから、不安が大きくなってきました。
飛行機になる前に、こんな気持ちになったことはありませんでした。
搭乗口へ向かう途中で、エネルギーをクリアにするワークを続けました。
強い偏西風に向かう方向なので、いつもよりも時間がかかりました。
天気は良好。眼下に雲が見えますが、視界は良好でした。
下の雲間にときどきキラメクものがありました。
キラキラと反射して光るのですが、なにか分かりません。
その数は10〜20の間だと思います。
高度8,000〜10,000mから見下ろしているのですから、
地上にあるものではないでしょう。
雲の間に飛行機がいると考えるのが妥当でしょう。
でも、30分間以上も下の雲間にいる飛行機は考えられません。
それもあちらこちらと、相当数がいるようなのです。
飛行機に搭乗する前から感じていた不安の原因はこれだったのでしょう。
キラキラと反射する光は、30分間以上経ってから見えなくなりました。
それまで私の中にあった不安は消えました。
少し経って、無事に松山空港へ着陸しました。
定時より遅れましたが、なにも起こらなくて安心しました。
お迎えに来てくれたAさんの笑顔を見て、ほっとしました。
今日は入学式が多いようですね。
私の孫も、今日が小学校の入学式です。
小学校は富士市の住まいの正面にあります。直線距離で100mほどです。
正門付近に立ち並ぶ満開の桜が舞っています。
入学式と大書したたて看板が正門の前にあります。
その看板前で記念写真を撮る、親子の晴れ姿が並んでいます。
少し肌寒い風が吹いていますが、誰も気にしていない様子です。
朝は、小学校から200mほど離れたところにある中学校の
入学式でした。
両親と一緒に学校へ向かう、初々しい中学生の姿が見えました。
こうして、子どもは成長していきます。
私が小学校へ入ったときの記念写真を見て、子どもが大笑いしました。
靴を履いている子どもよりも、ゲタやゾウリを履いている子どもの
方が多いように見えました。
服も粗末なものばかりでした。
ツギが当たっているのは当然です。
お昼ごはんが無い子どもたちが多く、給食が開始されました。
昭和25年のことです。
正直な若い裁判官が、摘発されている違法な闇米を食べないで、
死んだ頃でした。
いま、日本は飽食とか、グルメとか浮かれていますが、僅か50年前に
餓死した人もいたことを忘れてはいけないでしょう。
安いから輸入すればいいと考えるのは、相手に自分の生命を預けるに
等しい暴挙です。
天変地変で、輸出国が飢えたとき、輸入が停止されるのは当然です。
そんなことが起こらないなどと考えるのは、まったく現実を知らないからです。
お金があれば生きていけると考えるのは、平和な状態だけです。
世界は思惑で動いています。
アメリカは自分の都合だけで、産油国を攻撃しています。
日本が邪魔になれば、なにをするかわかりません。
私が生まれたときは、アメリカと戦争をしていたのですよ。
友好などという言葉は、歴史上で数限りなく裏切られてきました。
相手を信用することが大切ではありません。
自分が一人でも生きていけることが、大切なのです。
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