LORANの日記
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ここ九十九里海岸は、犬吠埼沖で南下する冷たい海流と、本州南岸
を東進する暖かい海流が混じり合います。
それで、湿度が高い梅雨に近づくにつれて、霧がでやすくなります。
今朝は、起きると深い霧でした。
100m先の交通信号機のランプもよく見えません。
大型トレーラーが赤信号に気づいて、急ブレーキをかけました。
浜辺はとても神秘的です。
灰白色の霧で、まったくのモノトーンです。
浜辺と海と空が同じ色に見えます。
波だけが波頭を白く見せながら寄せてきます。
ゴーゴーと海鳴りが、絶え間なく響き渡っています。
毎朝通る道の海岸に「高村千恵子の碑」があります。
昭和9年に実妹がこの付近に住んでいて、そこで8ヶ月間療養して
いたそうです。
浜辺で千鳥と遊んだそうですが、今朝も波打ち際に千鳥の群れが
来ていました。
いまも昔も、大自然の営みは変わらないようです。
しかし、そこにいた人は今は無く、いまいる人もまた去っていきます。
目の前の現実に夢中の人も、そうでない人も、同じ川を流れる人です。
どうせ流れるのなら、流れに身を任せて、楽しんで流れたいものです。
久しぶりに、千葉県九十九里海岸近くの自宅へ帰りました。
今朝は雨が降っています。
目の前に見える田は、水を湛えて田植えを待っています。
付近の水田の半分以上は、田植えが終わっています。
田植えは入梅の雨水を必要としていたので、5月〜6月に行われて
いました。
初夏の風物詩でした。
初夏とは旧暦の4月のことですから、新暦では5月中旬〜6月中旬の
ことです。
最近は農事用水を、井戸や川からポンプアップしています。
それでいつでも田植えが可能になりました。
稲は東南アジアの植物ですから、気温や水温が低ければ成長しません。
これも品種改良で、低温の地域での稲作が可能になりました。
最高品質のお米の産地が、新潟や山形などであることで実証されています。
いまでは、北海道産の美味しいお米まであって驚かされます。
水稲は水田で栽培されます。
それを主食としていただく私たちは、水から生命をいただいているのですね。
小麦は畑で栽培されます。
小麦をパンやパスタなどにして主食にしている民族と、文化に違いがあるのは
無理からぬことだと思います。
水稲と小麦の差が、文化の大きな違いを生んだのでしょう。
妄想とは、「精神医学用語で、非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。
妄想を持った本人にはその考えが妄想であるとは認識しない(病識がない)
場合が多い。」と、定義されていました。
「非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと」=強い思い込みなのでしょう。
「非合理」=話が合わないとか、現実的でないことを言うのでしょう。
妄想は想像のことです。想像が合理性や現実性が無いのは当然だと思います。
妄想の是非を論じても埒(らち)があかないので、定義はやめます。
ここで問題にしたいのは、「妄想は現実か」どうかです。
確固たる信念があるのではありませんが、妄想が現実かも知れません。
夢もまた、妄想の一種でしょうから、夢も現実かも知れません。
どうしてこんなことを取り上げたかというと、時間的な発想からです。
夢の中では時間は速く過ぎていきます。
僅かな居眠りの時間内に、数年間〜数十年間の夢を見ることもあります。
浦島太郎の昔話では、3年間を竜宮城で暮らしてから、故郷へ戻ると700年
も経っていたことになっています。
夢の話からすると、故郷の時間が早く過ぎているので、故郷が夢になります。
竜宮城で暮らした3年間が、現実だったのでしょうか?
そんな話をすると、いままでの認識が揺らいできます。
時間が早く過ぎるのが妄想という定義が可能だとすれば、反対になることが
あるからです。
この人生はどうでしょうか?
ヒプノセラピー(催眠療法)で過去生退行催眠をしたときのことです。
沼津市のある男性は、ニューヨークで亡くなりました。
肉体から出て、上空へ向かいましたが、突然声が聞こえたそうです。
「ここから帰れ、まだ来てはならない。」
それでUターンして、今回生まれたそうです。
亡くなってから、15年が経っていたそうです。
私は1921年に亡くなって、今回1944年に生まれました。
向こうへ行っていた時間は、23年です。
前世は70歳代くらいまで生き、今生も62歳になりました。
もしも、時間が短い方が現実というなら、亡くなっている時間が短いので
現実と言えるかも知れません。
妄想や夢が現実であるのなら、この現実は夢ということになります。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり。」とは、織田信長
の辞世です。
夢幻の人生なら、そんなに悲愴感を漂わせて生きることもありませんね。
ジェラシーは嫉妬心のことです。
ジェラシーが無い人はいないかも知れませんが、多い人と少ない人はいます。
ジェラシーは執着心や劣等感と密接です。
執着心や劣等感が多い人ほど、ジェラシーも多くなります。
執着心や劣等感は依存心と密接です。
依存心が多い人は、執着心や劣等感とジェラシーが多いようです。
このように見ると、現代の教育方法に原因があることが分かります。
自分を大切にすることよりも、他人を大切にすることを教えます。
自分と他人を比較させ、自分の欠点を意識させて、劣等感を持たせます。
自分に自信喪失させて、依存心を大きくさせます。
なぜこのような教育が行われているのでしょうか?
教育は国の権限です。
国というのは、国土とか国民という意味ではありません。
ここでいう国とは、現在の国家体制という権力を言います。
この国家権力は、現在の権力維持を最優先します。
ですから、国民が権力を奪還することを、最も恐れています。
それで教育を使って、国民の力を弱めています。
誰もが自由で、自分の権力を行使できたのは、紀元前のギリシアでした。
そこでは市民は自由に発言し、直接民主政治が行われてきました。
日本はそのような民主政治を目指していますか?
政治家は直接民主政治を目的として、政治活動をしていますか?
アメリカも日本も、政治は特定の利益集団の代表者によってされています。
ですから国会で成立する法案は、利益集団の意向に合わせたものばかりです。
教育は現体制維持が大前提ですから、情報も国民には知らせない方針です。
アメリカで公開された情報も、日本ではまだ公開されません。
このような社会では、国民は耐えることを美徳として育てられます。
我慢、忍耐、根性は、日本人が好きな三点セットです。
自分が我慢して生きているのに、我慢しないで幸せになる人は許せません。
それで幸せな人は、些細なミスでメチャメチャに非難されます。
このお先棒を担いでいるのがマスコミです。
マスコミは、国民のジェラシーに火を点けて売り上げを増やしています。
ジェラシーは、人が飼っている怪物です。
人のこころの中にじっと潜んでいて、いつの間にか人を悪魔にします。
ジェラシーは愛の反対です。相手の幸せを破壊します。
人は愛に生きなければ滅びてしまいます。
現在の世界が破滅へ向かっているのは、中に潜む悪魔のせいです。
今日は千葉県の自宅のある町と富士市の選挙の投票日です。
昨日は最後のお願いで選挙カーが喧しく走っていましたが、今日は
静かな日曜日です。
選挙権は国民のたいせつな権利であることは理解できます。
しかし、棄権がいけないといわれると困ります。
立候補者に投票したい人がいたら、投票できます。
でも、該当者がいないときには、どうしたらいいのでしょうか?
ここに選挙制度の不備があると思います。
気に入らなくても投票してこいとは、乱暴な話です。
では自分が立候補するか、誰かを立候補させるかという話になります。
そのどちらも巨大な労力を必要とするので、ゴメンです。
それで、投票率は低下するばかりです。
つまり、立候補者に魅力がないのです。
選挙が無効にならないのは、とても不思議な現象です。
どんな決議でも、構成員の半分が欠席したら無効です。
そのため、会合の開始に先立って、事務方から出席と委任状で、半分以上
の参加が確認されて、会合の成立が報告されます。
選挙でいうなら、開票に先立ち、有権者の半数以上の投票があったことを
報告しなければならないでしょう。
当日投票と事前投票の合計が有権者の半数を超えれば、選挙は有効です。
もし、半数を超えなければ、選挙は有権者にボイコットされたことになります。
そのときは、全員を失格とみなして、新しい候補者で選挙を再開します。
この方法が正しいことは論をまちませんが、過半数以下の投票のときには
立候補者の全員が失格という条件を、現議員が承知するはずがありません。
それで、こんなにつまらない選挙をつづけているのです。
それで、つまらない選挙を面白くする提案があります。
投票時に鉛筆で記名しますが、赤鉛筆も置いておくことです。
もし、支持するなら黒鉛筆、反対なら赤鉛筆で記入するのです。
開票時に、得票5000、反対2000なら、有効3000となります。
これなら、悪徳議員や議員にしたくない議員を阻止できます。
赤鉛筆1本ですから、経費の増加は微々たるものです。
国会議員で任期中1度も登院しないで、歳費だけもらっている議員をやめさせ
るには、この方法しかありません。
選挙の投票率が低下の一途を変えるには、面白くすればいいと思います。
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