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| 2015年06月29日(月) ■ |
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| Vol.830 平和と祭り |
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おはようございます。りょうちんです。
【祭り】�/世篝菫弔領遒鬚泙弔襪海函�また、それにともない催される儀式や行事。 まだ言葉のよくわからない小さな子供や日本語を勉強したての外国人に、「祭りって何?」と質問されたらどう答えるだろうか? 辞書には上記に書かれた意味が載っていて、おそらく俺もそのような説明をすると思う。夏や秋に神社などに奉納されている神にその年の豊作や大漁を感謝したり、亡くなった先祖を敬い崇めたり、時にはにぎやかに時には厳かに、特別な気持ちを込めて行われる儀式が本来の祭りだと思う。祭りが盛大にできるということは、平和で幸せに暮らしていけるという証拠なのだ。平和でなければ祭りはできない。平和と祭りは、そういう関係にある。 近所のお弁当屋さんにて、「唐揚げまつり」なるポスターを見かけた。人気の唐揚げ弁当が普段よりも安く買えるらしい。ホームセンターでは、「物置まつり開催中」と書かれたのぼり旗が揺らめいていた。「唐揚げまつり」も「物置まつり」も、けして神や先祖をまつっているわけではない。確かに辞書には、��客を集めるための催し、�5�念・宣伝などのために催される行事、という意味も載っている。まちがった使い方ではないのだが、日本語って難しいなぁと改めて思う。 たまに行くハンバーグがおいしいファミレスがある。おかわり自由のごはんは進んで持ってきてくれるし、夜10時以降でも深夜料金がかからないし、特定の日は料金の半額分を金券として還元してくれるなど、結構お気に入りのファミレスである。この店で最も有名なメニューが「爆弾ハンバーグ」だ。俵型のハンバーグとそれをお客さんの前で直接切り分けた時の油はねがあたかも爆弾のようだから、ということでこのネーミングがつけられたそうだが、インパクトのある名前である。先日この店を訪れた時、まさに「爆弾まつり」が開催されていた。人気の爆弾ハンバーグのセットがお手頃価格でいただけるそうだ。だが。「爆弾まつり」という名前だけを聞くと、何とも物騒な祭りだなぁと思う。世界中には紛争が絶えない地域が今もたくさんあって、そこから日本にやってきている人もいるのに。そういう人に「爆弾まつり」の意味を説明する時、何と言えばいいのだろうか。「爆弾まつり」であろうが盛大に祭りができるというのは、やっぱり日本は平和なんだなぁとつくづく思ってしまった。
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| 2015年05月30日(土) ■ |
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| Vol.829 サルが出た |
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おはようございます。りょうちんです。
俺の住む市内で野生のニホンザルが出没した、というウワサが流れてきた。都心から電車でおよそ1時間、距離にすると約50�劼曚瀕イ譴討い襪海両貊蠅魯戰奪疋織Ε鵑箸靴同匹┐討�た一方で、まだまだ自然も豊かに残るエリアでもある。だが、タヌキやハクビシンが出たという情報は聞いても、ニホンザルが出たことなど過去に一度もない。そんな不確かな情報を、俺は最初は信じていなかった。どうせサル顔の人がサルっぽい動作をしているところを偶然見られて、それでサルが出たなんてウワサになったのだろうくらいにしか思ってなかったのだ。 数年前、小学校の近くで刃物を振り回している人がいるという情報が入り、大騒ぎなったことがある。児童は親が迎えに来るまで教室で待機となり、誰も迎えに来られない児童は先生が家まで送るなどの処置が取られた。外出は一切禁止になり、かなり騒然としたのだが。実は刃物を振り回している人は単に草刈りをしていたおじいさんだったというオチを聞いて、不確かな情報はやっぱり怖いなぁと思ったことがあったのだ。 しかし、今回のサル出没の情報が少しずつ入ってくると、ウソみたいな出来事は事実だったと確信に変わる。数日前に隣の市で目撃されたサルは、どういうわけか俺の住む市へとやってきた。おりしも小学校では運動会の練習がまっ最中だったが、サル出没のニュースを受けてそれどころではなくなり、強制的に集団下校になった。市内の防災アナウンスでも呼びかけられ、市民に警告が促された。市内を東から西へ横断したサルは、その後さらに隣の市に移動していったらしい。週明けの新聞には、写真付きでサル出没の記事が載っていた。 幸いそのサルから危害を与えられた人はなく、農作物が荒らされたなどの被害も聞いていない。どこからやってきてどこに向かいたかったのかは知らないが、その後捕獲されたという話も入ってこないので、今でもどこか近くの街をさまよっているのかもしれない。集団下校とか防災アナウンスとか事が大げさになってしまったが、おとなしくて温和な優しいサルだったのなら、俺もサルと出会いたかったなぁと思う。
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| 2015年04月29日(水) ■ |
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| Vol.828 ミャンマー語を学ぶ |
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おはようございます。りょうちんです。
ミャンマーから帰国してすでに2か月以上が過ぎたが、俺の中のミャンマー熱はまだまだ下がらない。ミャンマーでの出来事を思い出さない日はないし、あの日あの時間にどこにいて何をしていたかと思い返すこともしょっちゅうだ。もう二度と行けるかどうかもわからない国なのに、なぜこんなにミャンマーに取りつかれてしまったのか自分でもわからないのだが。 ミャンマー語の勉強も相変わらず続けている。中国の時もベトナムの時もラオスの時も、旅行前にその国の言葉をある程度勉強してちょっとした会話くらいはできるようになるのだが、帰国して1か月もすると学んだ言葉をどんどん忘れてしまい、あいさつくらいしか覚えてなかったりする。さすがにそれは自分でももったいないと思うので、せっかく覚えたミャンマー語を忘れないようにと、今でも車での移動の際は図書館から借りてきたミャンマー語のCDをエンドレスで聞いている。もう100回以上は繰り返し聞いているが、かなり聞く力も話す力もついてきたはずだ。ミャンマーを訪れた時に比べると文法も単語も格段に理解できているし、だからこそ今ミャンマー人とミャンマー語で会話したくてたまらない。高田馬場にリトルミャンマーと呼ばれるミャンマー人街があるそうで、そこにあるミャンマーレストランでミャンマー人とミャンマー語をしゃべることが目下の夢なのだが、それまでにもっともっとミャンマー語を上達させなくては。あわよくば、ミャンマー人と友達にもなりたいものだ。 発展途上国でありながら、ミャンマーでは識字率が90%を超えているそうだ。だがミャンマーで使われている文字はほとんどがビルマ文字である。丸くコロコロしたかわいいこのビルマ文字だが、これが相当難しい。会話することはできるようになったとしても、すらすら読み書きができるようになるまで、俺にはまだまだ時間と努力が必要だ。 将来何の役にたつかわからないミャンマー語ではあるが、俺の中のミャンマー熱が下がるまでミャンマー語を学ぶことは止まらないだろう。
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| 2015年03月11日(水) ■ |
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| Vol.827 ミャンマーで食べたもの |
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おはようございます。りょうちんです。
先日訪れたミャンマーで食べたものを記録しておこう。なおミャンマーの通貨はチャットでここではksで表す。1円=約10ks。ミャンマー滞在中に何本も買った1リットル入りのミネラルウォーター(300〜400ks)と各所で出されたおいしいミャンマー茶、ホテルで取った朝食は明記しない。 初日。ライオンワールドというビアホールで。店の名物料理らしい川魚のホイル焼き、鶏肉焼きそば、ミャンマービール。ごはんのおかわりもできてテーブルチャージ込み6400ks。ヤンゴンの串焼きストリートで食べた串焼き5点、3600ks。街中の菓子店で買ったプリンとエクレア、600ks。 2日目。シュエダゴンパヤー出口のフルーツスタンドで買ったパパイヤと甘い粉をまぶしたリンゴらしき果実、600ks。ターダレー駅近くの喫茶店で食べた激ウマ手作りプリン、200ks。食堂ダヌピューで食べた鶏肉煮込みと山羊肉の煮込み。もちろんごはんおかわり自由で、スープとサラダも食べ放題。サラダにつけるタレ、ンガピは激辛。閉店間際だったため、野菜炒めとインゲン豆炒めがサービスでついてきた。しめて6500ksで満腹。 3日目。バゴーの食堂にて。アヒルの卵煮込みと野菜炒め2種。こちらもごはんのおかわりができスープも付いて3000ks。ヤンゴン市内の屋台で買った100ksのローティと、2杯で800ksのミャンマーの国民食モヒンガー。モヒンガーは川魚のダシで味付けした米の麺。 4日目。ダニンゴン駅の市場で買った新鮮トマト6個、200ks。駅のホームで飲んだ冷たいデザート、シュエインエー。ピンク色に着色されているが、ココナツミルク味で中にタピオカとなぜか食パンが入っている。ビールジョッキくらいのボリュームでわずか100ks。かなり甘め。アウンサンボージョー市場脇の生ジュース屋さんで飲んだマンゴーとアボカドの絞りたてジュース。1000ksとやや高かったが激ウマ。屋台で買ったいろいろ。じゃがいもを揚げたもの、2個で100ks。揚げ春巻き、100ks。パンケーキみたいなもの、150ks。お好み焼きみたいなもの、500ks。 ミャンマーアサーアサー、アーロンサーロテイッカウンデー!
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| 2015年02月28日(土) ■ |
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| Vol.826 ディープにミャンマー |
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おはようございます。りょうちんです。
およそ1年半ぶりに海外旅行に行ってきた。行き先はミャンマー。前回のラオスといいその前のベトナムといい、俺の東南アジア熱はどんどんエスカレートしていく一方だ。ミャンマーに何があるのか。今回滞在したミャンマー最大の都市ヤンゴンにも訪れたバゴーという街にも、世界遺産があるわけでも有名な観光ポイントがあるわけでもない。東南アジア特有の猥雑な街の雰囲気やひどく穏やかな郊外の農村風景が広がるだけの場所である。しかしその中に自分自身がどっぷりと浸かりその国に溶け込んでゆくことで、日本ではけして味わえない非日常を感じることができる。その非日常を堪能したいがために、俺はミャンマーへと向かった。 俺らがミャンマーでやったこと。極端にざっくり言えば、電車やバスに乗り寺社や市場を巡り、食事や買い物を楽しんだ。なんて言うと、どこが非日常なのか疑問に思うかもしれない。そんなことなら日本にいてもできることだと笑うかもしれない。しかし、基本的に何をするにしても日本語が通じないというのは、かなりパワーが必要なのである。 旧イギリス領だったミャンマーでは英語がまったく通じないわけではないが、話せてもかなり訛りの強い英語で、大半の人はミャンマー語しか話せない。しかも今でもアルファベットよりビルマ文字やビルマ数字を使うことが多いので、言葉や文字に頼ることはかなり高度なワザなのだ。だからこそ俺は今回の渡航に先がけて、たった1か月半ではあったが猛烈にミャンマー語を勉強したのだった。ミャンマー滞在中はできる限り英語は使わず、ミャンマー語で現地の人たちと会話しようと試みたのだ。 どこかへ移動するにも、何かを買うにも食事をするにも、ミャンマー語で挑むのは結構窮屈ではあったし何度も失敗はしたが。そうすることによってよりディープにミャンマーでの非日常を体験することができたと思う。何よりも困った時に何度も助けてもらった本当に親切なミャンマー人たちに、ココロから感謝の気持ちを伝えたい。チェーズーティンバーデー!
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| 2015年01月30日(金) ■ |
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| Vol.825 はじめてのスキー |
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おはようございます。りょうちんです。
俺がはじめてスキーをしたのは、確か16歳の冬。千葉では雪なんてめったに降らないから、俺みたいに高校生になってもスキー未経験者が断然多かった。しかしおりしもその頃まさにバブル全盛期。『私をスキーに連れてって』という映画も流行ったくらい、スキーブームが到来したのだ。 最初はそれほどスキーに興味がなかった俺だったのだが。「ゲレンデを滑り降りるスピード感が爽快でたまらない」とか、「ちょっと練習すれば誰でも簡単に滑れるようになるよ」とか、「転んでも雪の上だから痛くないしね」とか。スキー経験済みの友達が口をそろえて言うのを聞いて、それなら俺もとスキーデビューを果たす計画が進められた。 生まれてはじめてのスキーは、確かにそれなりに楽しかった。よたよたのボーゲンしか習得できなかったけど、なんとか滑れるようになったし。友達の言うとおり、滑り降りるスピード感は気持ち良くて激しく転んでもたいして痛くないし。だが正直な気持ち、これくらい楽しいことってスキー以外にもいろいろあるよなぁ、というのがいちばんの感想だった。それにいくらバブル期とはいえ、貧乏学生だった俺はスキーにかかる費用が結構かさむことに驚いていた。ウエアや手袋や防水ソックスなどの購入代、スキー場までの夜行バス代と宿泊費、リフト券代とスキー板のレンタル代、それに割高に設定されたスキー場での飲食費などなど。ざっと合計すると数万円になる。高校生の俺には、かなり気合の入った出費だったのだ。 それからもスキーブームに乗って俺も何度かスキーをする機会はあったのだが。俺の中ではそれほどスキー熱も上がらず、友達がスキーをするかたわらで俺は温泉巡りをしたりしていた。最後にスキーをしたのはもう20年近く前のことになる。今ではいろんな意味でとても手軽にスキーができるようになったと聞いた。かと言ってスキーがしたいと相変わらずあんまり思わないが、よたよたのボーゲンで構わないから今でも俺はちゃんと滑れるのかどうか、ちょっと心配ではある。
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| 2014年12月30日(火) ■ |
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| Vol.824 母の視力 |
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おはようございます。りょうちんです。
母が白内障の手術を受けた。もともと近視だった母だがここ1〜2年で急激に視力が落ち、白内障と診断されたのだ。母いわく、白内障なんて年を重ねれば誰でもかかる病気らしい。だから技術の進歩した今や白内障の手術はけして大げさなものじゃなく、母は一応大事をとって数日間入院をしたのだが、手術室に入ってからわずか1時間足らずで無事に病室に戻ってきた。 目が見えないというのは、やはり不自由なことだと思う。レストランのメニュー表に顔をぴったりくっつけて見ていたり、TVに映るゆるキャラを天気予報の晴れマークとまちがえたり、そんな母を見て俺も父も弟もみんなで大爆笑していたのだが。母にしてみれば全然笑える話ではない。ましてや手足に障害を持つ母だ。だが0.1未満だった母の視力は、手術により退院時には0.6にまで復活した。今年の2月に連れて行った沖縄のマリンブルーの海の色も実はあんまりよく見えてなかったんだよとこぼす母に、もっと早く手術をしておけば良かったと後悔が募る。 視力が回復したことで、看護師さんの顔もきちんと判別できるようになったし、好きなTVドラマも楽しめると母は喜んでいた。母のリクエストで退院後に俺の休みを使って養老渓谷に紅葉狩りに出かけたのだが、紅葉のシーズンはすでにほとんど終わりを迎えていたけれど、きれいに色づいた葉の一枚一枚までが鮮明に見えると感動していた。 ところが。良く見えるというのは、今まで見えなかったものや見えなくてもいいものまでが見えてくるということでもある。茶渋などの汚れが付着した食器類。くたびれ果てた愛用のサンダル。自分の想像以上にひどかった手や腕の肌荒れ。見えなかった頃にはまったく気づかなかったさまざまなものが、気になって仕方がないのだという。新しいカップとサンダルくらいならまだいいが、超高級な化粧水やら保湿液やらを買い込むのはちょっと痛い。資金の出どころは、俺の財布なのだから。
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| 2014年11月28日(金) ■ |
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| Vol.823 戦没者慰霊式典 |
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おはようございます。りょうちんです。
俺のルーツを探るシリーズ・その7。 今年も俺は戦没者慰霊式典に参加してきた。なぜこの季節なのかはわからないが、11月半ばになると毎年、市が開催する戦没者慰霊式典が市内のホールで開かれる。 俺の祖父の弟にあたる人が、日本から遥か離れた南の島で戦死している。ハルマヘラ島。インドネシアに属する赤道直下のこの島で、祖父の弟は太平洋戦争の犠牲となり文字通り帰らぬ人となった。敗戦後の混乱の中、遺品として届いた小さな箱の中には、島の白い砂と小石のような小さな骨が収められていたという。激しい爆撃に打たれ命を落としたのか、物資が届かなくなった戦場で餓死してしまったのか、マラリアなどの風土病が蔓延して病に倒れたのか。死因すらもはや明らかにできないが。辿り着いた島はけして楽園などではなく、地獄以上にひどい場所だったに違いない。悲惨な戦場を想像するだけで、胸が痛くなる。 父が祖父から聞いた話では、二十歳そこそこで戦地に赴くことになった祖父の弟は、幼少時代は近所でも有名なガキ大将だったそうだ。腕っぷしが強く親分肌で、年少者への面倒見が良かったらしい。俺が幼かった頃、出兵時に撮ったであろう写真が祖父の遺影の隣に飾ってあったのだが、その姿がとても凛々しかったのを覚えている。彼なら絶対に生きて帰ってくると誰もが思っていたのだが、命はあっけなく奪われてしまった。 戦後70年近くが経つ今、式典に参列している人はほとんどがかなりの高齢者で、おそらくは戦没者の子ども世代なのかもしれない。見回しても、俺らが最年少だろう。長い長い黙祷が終わると、市長などお偉方の平和の誓いが読み上げられ、献花がおこなわれる。祭壇に白い菊の花を手向け、手を合わせた。70年前に南の島で亡くなった出会えなかったおじいちゃんを思い、祈る。参加するといただける饅頭と助六寿司は、そんなおじいちゃんからのプレゼントだ。
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| 2014年10月31日(金) ■ |
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| Vol.822 本を読む |
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おはようございます。りょうちんです。
1週間に1冊の割合で読書をすると、1年間では50冊以上の本を読むことができる。昔から俺は、本は嫌いではなかった。忙しさにかまけて読書からほとんど遠ざかっていた時期も俺にはあったのだが、ここ数年はかなり本を読んでいる方だと思う。去年は年間28冊の本を読んだ俺だったので、今年は50冊を目標にと年の初めに目標を掲げたのだが。去年よりはハイペースで読書ができているものの、今年も残り2か月となった今、読み終えた本の数はまだ31冊でちょっと目標には届かない気がする。 もちろん、本は早く読めばいいというわけではない。どれだけじっくりと内容を理解し心に響いたかがもっとも大切なポイントなので、実は数年前から読書メモをつけ始めた。読書メモと言っても、トイレにあるカレンダーの片隅に読み終えた本のタイトルと作者名をメモしておく程度のものなのだが。そんな小さな覚え書きでもあとから見返すと、あの本はこんな内容だったとかこの本には深く感銘を受けたとか、いろいろと思い出すことができる。読書メモを充実させたくて、さらにこの夏からは読んだ本の情報を記録し管理してくれるウェブサイトに俺の読書記録を依存するようになった。ちょっとした感想も残せるし同じ本を読んだ人の情報も共有できたりするので、これもこれでなかなかおもしろいのだ。 いろんなジャンルの本を読むようにしたいと思うのだが、どうしても9割以上が好きな小説に偏ってしまう。最近話題の映画や今流行っているドラマにはまったく興味がないくせに、その話の結末を小説で読んで知ることも俺には結構ある。何冊もの小説を読んでいると、久しぶりに自分でも小説を書いてみたいと最近は思うようになった。 仕事中のわずかな休憩時間、眠りにつく前のほんの数分間、信号が青に変わるまでの一瞬。俺の読書タイムは長い時間かけることはほとんどない。それでも1行でも文字を読み進められれば、そこにはまだ知らない新しい世界が描かれている。今週は読書週間。秋の夜長に、本を読もう。
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| 2014年09月29日(月) ■ |
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| Vol.821 20年の時を経て |
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おはようございます。りょうちんです。
「10年ひとむかし」という。10年も時がたてば時代は変わって、いろんなものが変化してしまう期間なのだろう。だからその10年の2倍、20年も時が過ぎると、街も人もすっかり変わってしまうのは言うまでもない。 20年程前、当時大学生だった俺は埼玉県北部の地方都市でひとり暮らしをしていた。学校までは原付で5分で行けたし、俺みたいにひとり暮らしをしている友達も近所にたくさん住んでいたし、スーパーやコンビニにもよく顔を出していて、たった2年間しか住んでいなかったけれど俺はあの街のことは良く知っていたはずだった。 今年の夏、久しぶりにあの街を訪れた。いや、車でなら数時間で行ける距離にあるあの街にはこれまで何度も訪れていたのだが。久しぶりにあの街の、当時俺がよく出没していた場所に行ってみたいと思ったのだ。学校がすっかりおしゃれできれいになったことはウワサで聞いていたので、まだそんなにびっくりはしなかった。だが、当時俺が住んでいたアパートに行くと、そこは建てられたばかりのオープンハウスになっていて本当に驚いた。表にいたスタッフに聞くと、前に建っていたアパートは今年に入ってすぐに取り壊しが始まったんだと言う。確かにショックではあるが、20年もたてば取り壊されても仕方ない話だ。 さて、あの頃俺は家庭教師のアルバイトをしていた。週に2回、教え子の家に通い勉強を教えていたのだが。あれほど通った教え子の家までの道のりがすっかりわからなくなってしまっていた。新しくできた道が昔の面影を失わせ新しい住宅も激増した。そんな街の変貌に反比例するように、俺の記憶は時間とともにどんどん曖昧になっていく。今となっては住所の詳細をなくしてしまったことが本当に悔やまれるのだが。たしかこのあたりだったはずと目星をつけた場所をしらみつぶしに歩き回ってみたが、とうとう教え子の家は見つけられないままだった。 俺のよく知っていたあの街は、20年の時を経てすっかり変わり俺の知らない街になった。自分では気がついていないけれど、もしかしたら俺自身も20年の時を経てすっかり変わってしまったのかもしれない。20年という時間は、それだけ長いものなのだ。
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