オリジナルノベル PCシングル、ツイン、グループノベル PCシナリオノベル
以上計5個の窓口を、明日11/16(土)午後11時にOPENします。 急な話ですみませんが、今やっているものの目星が付き、後編は一週間後の窓口OPENになる予定なので、一週間ヒマしてるわけにもいきませんで。 それ以下の期限になると、今度は自分の首絞めますから、ちょっといきなりOPENです。 どれか一つ受注されたら、もしくは月曜の夜までに受注が無かったら閉めるつもりです。 ……ん? マテよ? グループノベルの場合はポイント設定どうなるんだろう…。 3ポイントで開けないと受注駄目かいな? でもそれで3個依頼が来たら、怖すぎるぞ。 もし、その日ツインやグループの窓口開かなかったらすみません。 とりあえず、人様の書かれたシナリオなどで書かせていただくことになりますが、どうぞ宜しくお願いいたします。
** トップ更新しに行って見たら、カウンターなくなってる(いきなり営業停止だってさ)事に気付いてびっくりだー。後で新しいカウンタつけますわ(__)
では、また明日。
2002年11月14日(木) |
SF的スキーな人間がモノを考えると。 |
「あれっ。これ書いたことあるなー」 と、思うことが時々ある。 何の話かといえば、仕事でなり趣味でなり、文章を書いている時のことなんだけれども、考え考えポツポツとキーを打っていて、ふとそのシーンを前にも書いて、こんな風に読んでいたことがある時があるわけだ。 文中で起きるデ・ジャ・ブですな。
単純に、「ボキャブラリーが少なくて、いつも同じようなシーン書いてっからだボケナスー」と思うことも出来るし、多分まさしくその通りなんだけれども、こうは考えられないだろうか。 「わたしは全く同じ人生を繰り返し生きており、この物語を書くのはひょっとしたら100回目くらいかもしれない。すると今日は100回目記念日かもしれない」
とあるシーンを書いていて、今正にそんな気持ちになった。 フツーのなんてこと無いシーンですが。 本当に、100回とまではいかなくても、3.4回目に書いたもんだったら、こうして自然にストーリーを思い起こすのは、昔の一生で一度書いてるものを思い出しているからできる事、という事になる。 昔の人生で、物語を書いていたから今も書けるのか、などとも思ってしまう。 とすると、一番初めの人生で生きていた「私」は物語を書くと言うことなど、これっぽっちもやっていなかったのだろうか。初めて書いたときはもっと苦労していたのだろうか。 なんで書いてみようなどと思ったのか、とすれば今の人生を生きている私は、その頃より楽に書いているはずだから、多少は上手くなっているのか。あと100回くらいこの人生を繰り返したら、今書いているものは、出版できるくらいクオリティーが高くなるのか。
……などと、ここまで考えて、な〜んだ。と思った。 SF的に考えれば、身体の中に宇宙があるんである。 なんで、そんな答えになるってか。
コレを説明すんのは難しいの。しかも長くなるけど、読んでみますか? しかも、なんかもっとわかんない説明しますが。
細胞の中で日々繰り返されてるシステムが、極限まで大きくなると、宇宙と同じシステムなんだという理論ダス。
科学的に見たりすりゃ、成分なんかはそりゃ違うけれど、「生まれて・死ぬ」という点においてはおんなじ。 では、生まれて死んだら、次はまた生まれて死ぬという繰り返しだと言う事も、やったことは無いが、見ている分には分る。
ということは、「死んでたのが・生まれた」というパターンでも勿論許されるわけだ。多分。
さて、生まれて、死ぬの間には「成長」がある。ところがこの「成長」の中に、さっき言った「死んでたのが生まれた」というシステムがある。「出来なかったものが、できるようになった」という事の繰り返しの事だと思う。
物理的であろうが精神的だろうが、何事も、死んでたのが、生まれた、の繰り返しなので、人間も宇宙もおんなじシステムの中で動いているというのが、分るかと思う。 人は、今の所それ以外の物体なり何かなり、出会ったことは無い。 もしそれ以外のやつらなり、何なりいるなら、想像の外だ。 幽霊や妖怪でさえ、生きている。物語の中でさえ、何かは生まれる、死ぬがなくとも少なくと「出来る、出来ない」はやっている。動いてなくても、何かがある、なしはある。たとえそこに客観を持った何かが居なくても、あったり、なかったりはするんである。
そして人間は、それより大きな考え方を出来ないのだ。
だから。 もし私が以前の人生で、物を書いていて、本当にもしかしたら、これが100度目の人生だったとしても、例えば何かすっごい出来事があって、100回と101回前の人生が、92歳宮大工から50歳主婦で終わる風に変化しても、それもまた繰り返しの中にあるもんなのだ。
繰り返しの外にある事は、考えられない領域なのだ。 兎も角、人間の殻を被っている間は分らんだろう。 宇宙の中に出て行っても、同じシステムで動いているんだから、分かる訳が無い。 その上、宇宙の外に出ていっても宇宙があるか、もしくは人間の身体の中だったとか、食卓のゆで卵の中だった(こっちはby星新一)というオチも用意されているかもしれないので……。 ホントは考えたって無駄なのだ。 身体の中にも外にもある、繰り返しの考えに思考を浸らせるのはよしとしても、だからどーだってんだと言う感じである。 デ・ジャ・ブだなー。と思ってそれで終わせるか、前の人生よりはマシなの書けてるかなーと思って居りゃいいんである。
……しかし、いつからこんな風に物を考えるようになったのか、謎だけれども。 SFスキな人といつかこの話題などなどで思う存分会話してみたい。 タイムパラドックスとかは突っ込みどころ満載だし、 「なぜ、私はここに居る(ある)の?」 という疑問は、人生最大の面白テーマであると思う。 そんなん、生きてる内は分らないと思う。だから死ぬのも結構楽しみだが、死んでも分らなかったら、それを知っているのが当たり前の別の世界が、どこかにあるんだろうか。 その世界は、こっちでいう4次元(ドラえもんでなくて)とか5次元とかかなぁ。
SFスキなひと、大募集ダス
では、この辺で切り上げてさっさと創作に戻ります。
では、また明日。
2002年11月13日(水) |
こんなんあったらいいな/黒龍とお茶を |
昨日の話だけれど、伊藤家の食卓を見ていたら思い出したことがある。 昔、ダウンタウンがやっていた、発明品の番組。 その中で、「イチゴのヘタ取り器」ちうものがあった。 文字通り、イチゴのヘタを簡単に取ることが出来る画期的なアイテムで、しかも造りは至極簡単。スライサーみたいな奴で、イチゴのヘタをシャキシャキ削ぐだけのものだった。 しかし、その単純なつくりの中に、素晴らしいシステムが沢山。 1、ヘタの厚さに左右されない 2、ヘタだけが取れ、実は殆ど削れない 3、ヘタの弱弱しいのもがっちり掴んで、二枚歯かみそりのように確実に削げる。 あれは、単純には作れない。 記憶の中でもうぼやけてしまって、再現できないのが残念だ。 今でも、アレは凄く欲しい。欲しくて欲しくて堪らん。 イチゴのヘタに限らず、剥き難い野菜も果物も、面倒で食べずに腐らせる事多い。 やっぱバナナが一番だ。
あと、欲しいのは、油をシュっと吹き付ける事が出来るスプレー。 フライパンに程よい油が均一に塗れるらしい。 しかも、空気圧でボタンプッシュなだけだから、外面も汚れず手もべとべとしない。 いいなぁ……(遠い目)
他には特に欲しいものがありません。
*** 『黒龍とお茶を』R・A・マカヴォイ 早川ファンタジー文庫
なんてそそられるタイトルだー。と思って昨年末あたりに購入。で読み始めたら予想してた内容と違ったので、うんざりして放っておいた。 先日改めて手に取ったら、大体こんな感じと分っていたせいで、なぜか面白く読み終われた。良かった良かった。 なぜ初め、読めなかったかって、ファンタジー文庫に入れるなんて、何考えてんだ、と言う内容だったから。 だってこれ、推理小説じゃんかー。 でも時々、ありますね。ファンタジー推理小説。語呂も程よく悪い。 加藤洋之さんと、後藤啓介さんと言う人がカバーイラストを書いていて、これもなんだか微妙に面白げだった。まさか推理ものとはなぁ。 騙されたー。けど最後良かったー。 ええと…なんか感想投げやりなのは、もう3.4日前に読み終わってたから(笑) 一度読んだ本は実家の屋根裏行き。 老後のお供にするのだ。その頃には内容忘れてるはずだからね。
*** 久しぶりに、デートに誘われました(嘘です) 「今週末、山に行こうよ」 有難う♪ こうして忘れられずに誘ってもらえるのは、やっぱり嬉しいね。 夏以来ずっと行ってないからなぁ。 んでもねぇ。もう山は…… 「雪の中で暖かいもの作ってやるから。そういうのもオツでしょう」 オツなのは分る。でも寒いから。嫌だ。これは、マジで嫌です。 あとはもう、スノーシューとかクロスカントリーの時期だ。 正直この二つにだけは、スポーツの中でこれっぽっちも魅かれないんですが…。 いや、アレはスポーツなの? なんか自虐的な気がする。 雪の中わざわざかき分けて、えっちらほ、えっちらほ。(遠い目) スマン。付いていけないよ。 私はアイゼンもピッケルも持ってないし、雨具もボロだから、山には来春まで行きません。紅葉の中で散策するくらいならいいけどなぁ。
今、こっちの山は紅葉真っ盛り。 色が一番綺麗な時期はあっという間に過ぎるから、ちゃんと外に出て良く見ておこうと思いました。
では、また明日。
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