2009年11月28日(土) |
カンボジア旅行記 その6 |
カンボジア旅行記 その6
3日目11月26日。この日も快晴。 そして今思うと団体行動の3日間の中で、一番楽しかった日でした。 ホテルで朝食を採った後、バスに乗ってベンメリア遺跡へ。
かなり遠いらしいと聞いていたが、バスに揺られ揺られてふと気づくと郊外へ。 道に沿って昔からの家屋が並ぶ。わき道というのはなく、主要道路沿い、両脇に5軒ほど固まっているかなと思えば途切れたり、また数件あったり、商店が混じっていたり。 ほとんどがトレンサップ湖の雨季の増水に備えた、いわゆる高床式住居で、家1:庭3の割合。 一階は編んだザルなど、生活用品が一部置かれているようで、庭には水牛か鶏が居ることが多く、ヤシの木が隅に生えていて、道路との間に堀を作って水を溜めているところも多かったように思います。
やがてバスは舗装されていない道路へ入り、「溝にタイヤが嵌ったら皆で押します」というツアコンの一言に、客の年齢構成に目を走らせ。 どんなにゆっくり走っても、凸凹にハマるらしい車の揺れに揺られて、バスの窓にガンガン頭をぶつけながらも疲れの為、居眠りをし、約1時間ほど経ったか。
ベンメリアに到着。
ベンメリアは静かな遺跡。 入り口までは、乾燥した土が埃を巻き上げ、そこに野良犬が居たり、水牛がのんびり歩いて移動中だったりですが、遺跡に入るや緑が深く、しっとりとした空気に包まれて、びっくりするほど気持ちいい。
森とジャングルの丁度中間くらいのイメージ。 今までの遺跡と決定的に違うのは。「あ、苔。」です。苔が石を覆って緑が美しいのです。
遺跡は崩れていました。回廊はほぼ土に埋まって中にははいれず、壁も途中で崩れ落ちていますが、ツアー客はその崩れた遺跡の大きく傾いた石垣をよじ登り、回廊の上を歩き、中庭に階段を下り、また登り、にじり降りて移動していきます。
人と比較すると、一つの石の大きさが良くわかる。
まるでラピュタの世界です。しっとりした感じのラピュタ。(後日、本当にラピュタのモデルと知る)
かなりの高さから覗き込んだ中庭。
地元の子供達が崩れた遺跡の中(迷路のような状態でもあり)で追いかけっこをして遊んでいますが、街なかの子供よりもスレた感じがなく、何かをねだってきたりもせず、崩れて階段状になった石の上をぴょんぴょん飛び回っていて可愛らしい。寄っては来るけど逃げてしまいます。
でもポーズを決めた写真を撮らせてもらいました。
そしてこの遺跡は映画「トゥーム・レイダー」の撮影地でもあり、アンコールワットに並ぶ、クメール・ルージュの戦闘の地でもありました。
*** ここからは悲惨な話しなので、読み飛ばして頂いても ***
カンボジアに行って思うことは、そう遠くない過去…まだ自分が生まれるか生まれないか。自分達の親が子供だった時代に、戦争が起き、大量の人間が此処で命を落としているのだという事。 街の中心地から北の郊外へ出る際、大きな湖のそばを通ります。 この湖には、かなりの死体が投げ込まれ、埋められたといいます。トゥクトゥクで走る道路の下にも。 日本には広島・長崎の記憶があるけれど、既に祖父・祖母の世代に移っています。 カンボジアまで持っていた本の中、特に後半の近代史の部分にはそういう記述が多く、やはり外せない部分なのだと思います。 カンボジアまでわざわざ旅行に行く人間の多くは、遺跡を見たいだけじゃなく、こういった歴史も知っていくのではないかと、自分は思っているのですがどうでしょう。
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では詰め込み式、ごくごく簡略化したカンボジアの歴史をひとつ。
●シハヌークによる仏からのカンボジア独立(カンボジア王国となる) ●反シハヌーク勢力クメール・ルージュ(赤色クメール=カンボジア共産党はこの頃発足。ポル・ポトはこの勢力の人) ●隣国ベトナムでは、ベトナム戦争(ベトナム内戦)勃発。 ●南ベトナムと通じているとみなされた国王シハヌーク政権を、ロン・ノルがクーデターで倒し政権交代。(国名:クメール共和国となる。ロン・ノルにはアメリカ軍の支援があったとされている。) ●ロン・ノル政権の腐敗。ベトナム系住民の迫害と虐殺。 ●南ベトナム解放戦線をアメリカ軍が追撃することによりカンボジア侵攻。爆撃により飢餓国となる。 ●クメール・ルージュの勢力拡大。(追放されたシハヌークがクメール・ルージュ側に回ったため、反ロン・ノル政権の国民がクメール・ルージュを支持した。又、中国共産党の支援があった。) ●クメール・ルージュがロン・ノル政権を崩壊させる。(国名:カンプチア共和国となる) ●原始共産主義であったクメール・ルージュは、知識人、技術者等を反乱の恐れたりとして虐殺。また都市から追い出し農業に従事させる。さらにベトナム系住民等を大量虐殺。 ●カンボジア救国民族統一戦線(ベトナム軍がカンボジアに侵攻。ベトナム正規軍ではないとされている)により、クメール・ルージュ崩壊(国名:カンボジアとなる)
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こうしてみるとごく僅かの間に国名が、4回も変わっている。 でも、シハヌーク国王はずっと生きている。人間一人の人生が終わるまで(まだ生きてるけど)に、国名が4回変わる国なんて。
地雷を踏んだらサヨウナラの一ノ瀬泰造は、アメリカ軍のカンボジア侵攻のあたりで、アンコール・ワットの写真を撮りに行ったようだけれど、帰ってこなかった。クメール・ルージュに処刑されたことが判明している。
ベンメリアは、クメール・ルージュ崩壊後も、逃げたクメール・ルージュたちが立てこもった場所です。周りには地雷が多く埋められていて、遺跡までの白茶けた乾いた土の一本道の両脇には、いまだに「Danger」の文字が見受けられます。だいぶ取り除かれたようですが、そちらには入らないで欲しいとしっかり言われました。
一部だけ、土が取り除けられて、中に入れる回廊があるのですがガイドさんの説明によれば、クメール・ルージュが立てこもった場所とのこと。この狭く暗く湿った場所に居るなんて…と。
時間の許す限り、少し離れた所にじっと座って、色んなことを考えていました。
では、また明日。
2009年11月27日(金) |
カンボジア旅行記 その5 |
下手すると、今年は一度も日記を書かずに終わる所でした。
カンボジアに行ったの、一体何年前? といった具合。 なにやら日記を書こうとすると、これ(旅行記)を仕上げなければという気持ちで、なかなか書き出せませんでした。そして記憶が薄れていくばかり。
でも、ここまでは書いてありましたので、とりあえずUP。書いたのは去年の今頃…というシロモノですが。
*** カンボジア旅行記 その5
さて、アンコールワットで朝日を見たあと戻ってきたホテルでの朝食は、バイキング形式。 サリナホテルの朝食は美味しい、と思います。 パンや珈琲、目玉焼きやウィンナーなど日本のビジネスホテルでよく出るメニューのほかにも、お粥やフォーなど目を惹くものがあります。 でも、中でも自分が一番美味しいと思ったのは、なんと言っても「チャーハン」 その後の旅程の中で立ち寄った店でも、チャーハンがとにかく美味しかった。ご飯がぽろぽろしていてしょうゆ味。たぶん。 朝食のフォーは、美味しかったのだけれども魚臭さが苦手な自分には、ちょっと残念なもので、それに数日食べ続けると飽きるものがあり……(これは好みの問題)カンボジアに行ってホームシックになったらとりあえずチャーハンを食べておけば問題ないと思います。 フルーツはドラゴンフルーツとマンゴーが、日本の価格から考えるとこれほど沢山食べられるというのが贅沢。
サリナホテルの朝食はどれも美味しかった。
食事の後はもう一度バスに乗ってアンコールトムへ。 既に明るくなっており、町並みが分かります。平屋で奥へ深そうなのが一般の商店(飲食店)で、病院などは出来たばかりの綺麗さ。街の一角にアパートが何棟も出来始めていて、オレンジにクリーム色の壁、観音開きの緑の窓が洋風でした。 目を引いたのは、シハヌーク国王の肖像が街角の壁に貼られていること。 王制の国に来たのはそういえば初めてだなとじんわり思い。 土ぼこり舞う中、アンコールワット前まで来るともうそこは観光バス・客だらけ。
アンコールワットから北西方向にアンコールトムがあります。名前的にはワットの方が有名だろうに、大きさ的にはトムの方がよほど大きい。トム=大きい という意味があるそうで。
バスを降り、ナーガ(大蛇)で綱引きする神々と阿修羅像が欄干となっている橋を渡って、バス一台が通り抜けるのがやっとの道幅を、埃でゲホゲホいいながらくぐったのが南大門。
タクシー象が居ました。乗りたかったけど、団体行動なので我慢。
アンコールトムの中心は仏教遺跡であるバイヨン。バイヨンの作りは複雑で、写真の位置へ出るのに階段を登ったり降りたりしている内にたどり着いたという感じ。 遺跡の中は薄暗くて涼しく、外に出ると風があるものの直射日光が厳しい。ツアーの客はほとんど高齢者だったので…バイヨンを出て、象のテラスへと歩いて移動する間に「ここで待ってるから行ってきて」と一人脱落。 残念だけれどその後も入り口付近で待つばかりな方が居ましたね。 それに、夜見るはずだった、アプサラダンスショーも、影絵(スパエク)も、疲れちゃったわ〜帰りたいわ〜という意向の元、しぶしぶホテルに帰るハメに。足腰が強くて体力があるうちに行ったほうがいいかもしれない。
象のテラスを見るころ、手持ちの水も尽きて流石にぐったり。
移動のバスへ戻る時、見かけた家族づれ。現地人は入場無料。
夕方になり、プノン・ペンへと移動する。 丘の上から見る夕日が売り物の観光地だが、アンコールトムからそう遠くない。平地にぽこんとある丘だ。 ただ、バス駐車場から上までがなかなかの道のりだという事で、行かずバスに残る人が半数。あまり傾斜のきつくない小道を15分ほど歩いて登ると、広場に出る。 そこに立っている遺跡は、下から見た感じではそんなに大きくない。そして、時間のせいもあって、その狭いところに色々な国の人達がぎっしり座っている。 けれど自分達も含めて、さらに隙間を探してよじ登って行く。70度くらいの傾斜がついた階段は、一部足先しか引っかからないような部分があるというのに、夕日見たさに結構なお年の人も頑張って登ってしまったり。
けれど登っただけの甲斐はあった。 プノンペンの上から見た景色はジャングルだったといっていたけれど、今はもう、ジャングルは消えて、アンコールワットが遠くに見え、朝見た気球が又上がっていた。
夕暮れの風はまだ昼間の名残を残して、温かったけれども、皆ざわざわと喋りながら夕日が落ちていくのを眺めて、日が落ちきらぬうちに、ぽつぽつと帰り始める。
私達も、ずっとそこに居たいのを我慢して、小道を歩いて戻った。 小道の途中に、障害のある子供を抱えて座るお母さんが座って居た。でもその子供は借りた子供だそうで。 パンフレットを売りに来る子供は、ツアー客の孫くらいの年頃。 十数年後には、今回行った遺跡の全て、入れなくなっているかもしれない。 今だけの旅行だと思った。
では、また明日。
2008年05月26日(月) |
カンボジア旅行記 その4 |
携帯のアラームで目が覚めると、体がぐったりとしておりました。 食事はアンコールワットの観光の後となるため、二度寝しそうになるのをこらえて着替え(といっても、寝巻き代わりのシャツはそのままで、下を履き替えるのみ)。
仕度をしながら友人が言うには、「昨日はシャワーが冷たかった」とのこと。つまり、一人目はかろうじて「ん…?最後の方、湯が温いな」って言う程度なのですが、二人目に入浴する人間は、「お湯が温い…っていうか水!」という事になるようです。ボイラーが暖かい湯をそう沢山保持していられないんですね。数泊する中で、一人目と二人目の間を30分ほどあければいいらしいとは感じましたが、なにぶん疲れていて直ぐ風呂に入って寝たいため、温くても入ってしまいました。 日本にいても、水の豊富さ、いつでもたっぷり湯船に浸かれることは贅沢だと日々思っていましたが、本当にいい国だと思います、日本最高。
十分な時間を持ってロビーへ、と思いきや、ガイドさんがフロントに既に来ていて、「電話をするところだった」との事。旅行記1でも書きましたが、携帯の時間がズレていたようです。ただ、このときはそのことに気づかず、何だか皆来るのが早かったなぁと…結局2度目に遅刻して漸くズレに気づいた次第です。申し訳なかった。
毎日の観光先によって、マイクロバスで拾われる順番はそれぞれですが、やっぱりなんとなく、高級ホテルの方が降りるときは一番先、乗るときは一番後からゆっくり、という具合だった気がします。 ただ、この初日は順番が違い私たちの迎えが最後でした。ということは、4ツ星ホテル(ル・メリディアンやソカーホテルなど素敵なホテル。いつか泊まってみたいもの。)のお客様が、私たちの泊まるサリナホテルとその周辺を初めて見たことになり、ちょっと絶句していました。 そんなに悪くないと思うのですが、老後のリゾートにはそりゃ向かないホテルだろうなと。でも寝るだけだし、今の自分には丁度いいホテルで、最終日には従業員さんたちにも顔を覚えられ、挨拶も気軽にしてもらえる、することができる、楽しい思い出のあるホテルになりました。
最終日は自由行動になることが分かっていたので、友人から「地球の歩き方」を借り、まだ真っ暗な道を走りながらも、道や目印を多少覚えながら、町を北に走っていきます。 すると道の右端に明るい建物が現れ、バスは一旦止まります。ここでアンコールワットへ入るための手続きを行うわけです。
見た目はディズニーランドのチケット販売所。
三日間、アンコールワット、アンコールトムなどに何度でも出入りできるチケットが40ドル。ちなみに現地の人は無料です。
昔は写真を日本から持参しなければならなかったようですが、今は、現地で撮ります。カメラのようなものに目を向けて、一瞬でパチっと取るやつです。あっという間にチケットは完成して、もう一度バスに乗り、いよいよ遺跡群地域へ。ここまで20分もかかっていません。 バスは広場のような所にある道端で止まり、ツアー参加と思われるバスから色々な国の人たちが降りてきて、懐中電灯で足元を手荒らしながら、ガイドさんに連れられていく。少し腐りかけた水のにおいと埃の匂い。階段を数段登って、両脇に大きな池のある(といっても見えないので落ちないようにといわれたが)石畳の道を行くのです。
正面に建物の気配。西の大門です。。中央の入り口は王の門、その左右にその他の人間が通る門、更に外側に象の通るための門がある。左の門から、懐中電灯を頼りに中に入ると、そこにはもう既に、夜明けを待つ人の群れがありました。 足の長い芝生を踏み分け、人の波を通り越した所で、集合時間まで自由に過ごしていいことになって解散。
暗闇の中、ちらほら日本語が聞こえ、真後ろに満月がのぼって大きな木のシルエットにかかる。
前庭にある経蔵に、適度な距離を置いて思い思いに座っている観光客達の姿。
空が青から周りが赤味を帯びたオレンジに変わっていく。徐々に見えてくるアンコールの姿に周りから声が聞こえる。友人と自分は黙って立っていました。
なんだか自分がそこにいることが信じられないような気分。最近ずっとそう。日本で演劇を見たり観光をしたり、コンサートに行っても、どっぷり浸かって感じ入ることがないのです。 最初の頃の、すとんとハマって感動する感覚がなくなったのはいつごろからだったろう。 この、夜明けの景色も何度か見たらこの違和感がなくなるんだろうか、素直に感動できるんだろうか。たまには急に感情が高ぶって、一枚の絵を見て涙が出る事もあるのに、と思いながら、眺めていました。
と、書いたからと言って何の感慨も持たなかったわけではなく、徐々にオレンジから黄色、白んでくる空と、アンコールワットはやっぱり綺麗だった。その建物そのものの大きさに圧倒され、一帯どんな人達がこれを作ったのかと、思いをはせた。
1860年。今からたった140年程前には、この一帯はジャングルの中だった。現地人さえ近づかない、かつて巨人が住んでおり、深く踏み入るとのろわれるという伝説があった場所だった。そこにフランス人アンリ・ムオーがやってきて、遺跡の再発見をした。このとき、美術品が多くカンボジア国外へ持ち運ばれた。 1979年、クメールルージュはベトナム軍に追われて政権から撤退したものの、まだ、アンコール遺跡付近に潜んでいた。クメールルージュは宗教思想も否定していたため、遺跡の破壊が行われた。 1982年、まだ、ベトナム軍が駐留しており、政情も不安定だった年、日本では「アンコールワットものがたり(絵本作家・北川幸比古/著 手塚治虫作品の脚本などを手がけた杉山卓/絵)」が子供向けに出版されている。命がけで取材に行ったこと、アンコール周辺がまだその頃ジャングルの中にあったこと、遺跡は木々で覆われていたことなどを書いている。
ここで沢山の人が殺されたことは、観光の間ずっと記憶の隅にあったが、あまり思い出さないように…思い出さないように…としていた。思い出したりするのは帰った後が良かろうと思います。 アンコールワットはカンボジアの中世、スールヤヴァルマン2世が作ったもの。このときはヒンズー教信仰。しかしその後一度放棄され、100年ほど後に戻ってきたアンチェン1世によって彫刻の続きがなされ、その孫の代には仏教思想になったため、本堂のビシュヌ神は仏像に置き換えられたとのこと。日本人がアンコールワットを祇園精舎と思い、朱印船に乗って海を渡りやってきたのはその後の出来事。この辺は教科書にちらりと載っていた様な。
しかし日本の歴史はさほど知らないくせに(観光先は少々調べるけれども)、初の海外、それも遺跡群となると、色々調べたい、知りたい、分かりたいと思った。この情熱を日本にもきちんと向けようと…思ったり、二人揃って旅行すると雨ばかりの自分と友人、今回の旅行がはれてよ肩…あ、乾季だもんな、と思ったり…している間に、空はすっかり白くなり。
さわやかな気候と風に、振り返ると、気球に乗って空から日の出を見ていた人たちが優雅に浮かんでいました。
正面から左には、池があり、その水面に映るアンコールワットが写真撮影には絶好とのことで、参道やその付近を何枚も撮った。目に焼き付けておくほうがいい、じっくり見たほうがいいと思いながらつい、周りに釣られてしまうのです。
集合場所には既に皆集まっておりました。今は夜明けだけを見て、かえって食事です。その後また集合し、今度はアンコール・トムを見に行きます。一日目でメインをめぐってしまう濃いツアーですね。
遺跡を出ると、こんな花が咲いていました。芝生の上にぽつぽつと可愛い。 指は友人のもの、カンボジア=グリーンのイメージでは? と伝えたところ、こんなジェルネイルをしてきた。
環濠まで出た所で、本当の朝日が昇ってきた。スケジュール上、この時間まで待つことは出来なかった。
アンコールワットから市内へ戻る道。綺麗に舗装されている。イオンが植樹した地域も右手にある。観光バスや大人数の乗ったスクーター(現地の人)、トゥクトゥク(バイクの後ろに2〜4人掛けの屋根付きリヤカーを引いたもの。座席は布だったり合革張りだったりする)が走っている。この時間では少々寒そう。
続きはホテルの朝食と、アンコールトムの話。
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