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昨日とはうってかわって、さわやかな一日だった。 今日から明日まで、連れ合いが北海道に行ったので、自分の時間を有効に使うつもりが、またしても、パソコンのエラーで、スキャンとデフラグをすることになり、4時間を無駄にした。 全く腹の立つ話である。 器械が悪いのではないかと、メーカーにさんざん言ってるのに、テキは、こちらが素人であるのをいいことに、なんだかんだと逃げて、絶対、器械が悪いとは言わないのである。 1週間前にosの再インストールをして、調子よくなったと思ったら、また、ファイルがおかしくなった。 はじめは、ホームページ制作ソフトのせいかと思っていたが、どうもそうではなく、ウインドウズに問題があることがわかった。 デフラグをやったら、直ったからである。 憤懣やるかたない思いで、しかし、器械のそばを離れると、状況が解らなくなるので、結局張り付いていることになってしまった。 しゃくだから、今度電話をかけて、今日の状況をしっかり伝えるべく、細かくメモしておいた。(もうヒタチなんか、買わないぞ!) そんなことで、読むはずだった数冊の本が、落ち着いて読むどころでなく、あきらめて、サッカーのテレビ観戦、16日の会の雑用などしながら、器械とつきあったのであった。 昨年の日記を見ると、ちょうど今頃、シベリア行きに備えて、ロシア、シベリアに関する本を読んでいたのだった。 教えてくれる人があって、チェーホフの「すぐり」などの短編、長谷川四郎「シベリア物語」、澤地久枝」私のシベリア物語」、小林勝「軍用露語教程」など、せっせと読み、感想など書き送っていたことを思い出す。 紫陽花祭りをやってると教わって、高幡不動のあじさいを見に行ったのは、もう少し後だったかもしれない。 再びめぐってきたこの季節、私には、いろいろなことが錯綜して、ちょっと悩ましい季節でもある。 思いがけずの夜更かしとなり、あと2時間もすれば、夜が白む。 少し寝るとしよう。 2002年06月07日 02時57分17秒
今日は日本の初戦、6時からの対ベルギー戦に備えて、電話やパソコン関係の用事をすませ、連れ合いも外出したので、独りテレビの前で、アイロン掛けをしながら、終わりまで見た。 なかなか迫力ある試合で、日本のゴールも2回あり、思わず歓声を上げてしまった。 結果的には、引き分けになったが、一時は、勝つと思われる展開もあったので、伯仲して、良い試合だったのではないかと思う。 サッカーで思い出すのは、ブラジルにいたときのこと。 在住中、ワールドカップの年に当たり、その期間は、国を挙げての興奮で、仕事も学校も、半分休み、飛行機まで欠航になってしまうには驚いた。 金融機関も休んでしまい、バスの運転手も、ブラジル戦の日は、出てこない。 息子の通う日本人学校も、通学バスが来ないので、現地にあわせて、休みにしてしまった。 親が危篤だからというので、帰国しようとした人が飛行場に行くと、クルーがサッカー観戦に行って、飛行機が出ず、泣いて訴えたがダメだったという、嘘みたいな話も聞いた。 日本ではとても考えられないと、最初は思うが、何年か住んでいると、そんなことも不思議に思わなくなり、何となく納得してしまうのである。 だからサッカー選手の社会的地位は高い。 街中での話題も、サッカーのことが多いようだし、国のサッカー競技場の周辺は、いつも熱気があふれていた。 そのころのサッカーは、ブラジルが世界で1,2を争う地位にあり、ライバルはイタリア、アルゼンチン、負けて帰ると、興奮した人たちから半殺しの目に遭うなどという話もあって、選手も、命がけだったのかもしれない。 私は、あまりサッカーには興味が無く、何であんなにみんなが大騒ぎするのだろうと、思っていたぐらいだった。 しかし、帰国して、しばらく経ったとき、ブラジルからサッカーチームがやってきて、日本のチームと親善試合をした。 それを見に、国立競技場に行き、試合を目の当たりにして、とても懐かしかった。 雪の中の試合で、暑い国から来たブラジルチームは、寒さに対応できなかったらしく、負けてしまったが、彼らにとっては、まさかの敗退であったはずだ。 この10年ぐらいの間に、日本のサッカーは、ずいぶん強くなり、ワールドカップに参加できるまでになったが、それには、ブラジルから教えに来た人たちの力も、大きな役割を果たしている。 ジーコ、ラモス、ロペス、いま活躍しているサントス、みなブラジル人である。日本女性と結婚して、帰化した人もいる。 テレビ観戦しながら、ブラジルにいたときのことも、いろいろ思い出した。 2002年06月05日 01時27分1
昨日は、私の所属する連句のサークルで、吟行があり、昭和公園まで出かけた。 昼頃に公園に着き、そこから、公園内の会場に歩いていったが、思いの外遠く、途中ベンチで一休み、おにぎりを食べてまた歩いた。 40分ぐらいはかかったのではないだろうか。 歩きながら俳句を作るつもりが、広い公園の中、道を間違えそうなので、ひたすら地図を見て、歩くことに専念した。 景色や草木をじっくり見る余裕がなく、会場に着いてから出した句は、どれもあまりぱっとしなかった。 行きずりの嬰の笑顔や風薫る 新調の時計忘れる芒種かな 日移りて躓く石や夏木立 参加者9人、いつも中心になって活躍している常連の人たちが来ず、ちょっと寂しい句会だった。持っていったお菓子もだいぶ余ってしまった。 最近、この人たちは、何か理由があるらしく、会の活動に消極的で、別口で集まったり、何かやっているらしい。 それはどうでもいいが、昨日は、俳句の達人が何人もいて、いろいろなことを教わり、連句とは違うおもしろさもあって、なかなかよい一日だった。 私の「嬰の笑顔」が得点を稼いだのは、意外だった。 終わってすぐ帰宅。シャワーを浴びていたら、どっと疲れが出て、3時間ほど昏々と眠り、目が覚めたら、夜の10時近かった。 最近、夜更かしが続き、すっかり梟族になっていたので、久しぶりに日の当たるところに出たために、体が過剰反応したようだ。 生活の仕方を考えねばと、思い知らされた。 ホームページも、手持ちの原稿はだいたい消化したので、しばらく更新もやめて、ボードだけに留めることにする。 ボードは生き物なので、面白い。この日記、連句のボードの運営、それだけで、結構忙しい。 2002年06月02日 10時12分44秒
私のホームページは、知ってる人には、ほとんど知らせてないが、そのわずかな友人の中で、時々この日記を読んでくれている人もいる。 照れくさいので、こちらから感想を訪ねたりしないが、読んでくれていると思うと、こちらも、書く気になるし、普段なかなか話せないことも、メッセージとして、伝えたいと思ったりする。 文豪の書いた日記は、はじめから世に発表することを目的にしているから、常に読み手の目を意識している。 しかし、私の日記は、言ってみれば呟きのようなもの。 気取らず、心に浮かんだことを、何の意匠も凝らさず、書いているだけで、見知らぬ人が読んでも、面白いものではあるまい。 政治、宗教などの堅い話題があるわけでもない。 男の人が喜ぶような、艶笑話が載っているのでもない。 私は、どんなことも、自分の身に引き寄せてしか、ものを考えられない人間なので、所謂論争もダメだし、抽象的な話題も苦手だ。 頭でなく、ハートで、言ったり書いたりすることを、身上としているので、私という人間に興味のない人には、何の価値もないものだと思う。 5月も終わり、今日から6月。 今はまだ涼しい日が続くが、そのうち、カッと暑い日が訪れるだろう。 これから吟行に行く。どんな句が出来るやら・・。 2002年06月01日 10時12分28秒
私のパソコンは、よほど持ち主との相性が悪いと見える。 また何度もバグや、エラーが続き、このままだとまたダウンするおそれがあるので、また、OSの入れ替えをすることにし、昨日、連れ合いに立ち会ってもらって、実行した。 今年になって4回目である。 OSの入れ替えは、そう難しいことではないが、それに先立つファイル類の保存が、厄介なのである。 入れ替えの度に、何か失われる。 最初の時は、保存した筈のCDが、書き込み不能の物だったため、開くことも書き換えることも出来ず、結局、失われたも同然になり、メールも全部、なくなってしまいoutlookも、凍結状態になり、別のメールソフトを使うなど、苦労した。結局また入れ替えた。 その後、失敗は成功の母とばかり、保存のやり方は、何とか出来るようになったが、全部保存したつもりが、忘れている物があったりして、やはりいくつかのファイルがなくなったりしている。 今回も、ソフトに入れてあった日記帳の保存を忘れていた。こちらは、まだあまり書き込んでなかったので、また新しく作った。 ホームページだけは、前回の失敗で懲りたので、念入りにCDに入れた。 ただし、サーバーにアップロードするとき、またアドレスなど、入力し直す手間があったが・・。 今日は、ホームページの写真をひとつ入れ替えたので、アップしてみたが、無事に戻っているようなので、ほっとした。 連句の百韻作品を、ホームページに載せるべく、書き込み中である。 これは、ファイルは失われたが、プリントアウトしてあったので、助かった。 もう一度入力し、それに解説を入れているので、2ページ分になりそうである。 連句は、出来た物をただ表示しても、おもしろくない。その過程に意味があるので、ボードでライブを見るのが一番いいのだが、作品として載せるときも、少し、背景を入れることにした。 もう5月も終わりに近づいた。今日あたり、午前中はいい天気だった。午後から薄曇りになり、雨が降るかと思ったが、大丈夫だった。 明日は、久しぶり親の顔を見に行こうかと思う。 2002年05月30日 01時28分30秒
昨日渡辺えり子作、文学座芝居「月夜の道化師」をみた。 この人の作品は初めてだが、なかなか見応えがあった。 一家の主としては存在感の薄い頼りない男と、典型的な主婦型の妻、呆けた母親、戦死した父親の弟で、なぜか独身のまま、この家に住んでいる叔父、話は母親を中心に展開するが、シナリオは二重構造になっていて、この一家の戦後史が、しだいに明らかになる仕掛けがしてある。 呆けた母親と叔父は、昔恋仲だった。しかし、ふとした過ちでその兄の子を宿し、出征前に結婚する。弟の方は、結核を患っていたため、応召せず、戦死した兄の妻を守る形で、家にとどまる。 しかし、戦死したと思われた兄、つまり呆けた母親の夫は、実は特攻隊の脱走兵で、戦後身分を隠して生き延び、阪神大震災で終わったのだった。 そうしたドラマの中で、母親のボケが何に起因するのか、解ってくる。 命つきる前、幻のごとくに、満月の中でダンスを踊る母親と、かつての恋人だった叔父、このラストシーンは、涙が出た。 戦争の痛みを生涯背負って、生きなければならなかった人々、その傷の深さはそれぞれ違い、人間の数と同じ数のさまざまなドラマがあったはずである。 その一つを象徴する形で、戦後生まれの渡辺が書いたところに、意味があるのだろう。 帰宅の途中、バスを待っていたら、酔ってバス停に転んだ人がいた。助け起こしたのは、若い男性だった。年配で、かなり酔っていた初老の男の人は、バスに乗り込むのがやっとだった。 青年は、前の方に並んでいたのに、全部が乗り込むのを待って、初老の男の人を、空いていた席に案内した。そして、見守る形で、そばにさりげなく立った。ことばは発しなかったが、やさしい心遣いの出来る人だと解った。 こういう青年が、優しさ故に、傷ついたりしない社会であってほしいと思いながら、バスに揺られていた。 2002年05月24日 01時03分58秒
今日着いた郵便物の中に、珍しい人からの葉書があった。 3年前まで、とても仲良くしていた人。 私より5年ほど年上で、歌を通じて知り合い、何かにつけて相談相手になってくれたり、いろいろな話を聞いてくれたりして、世話にもなった。利口な彼女は、人望があり、交友も広く、人の面倒見が良くて、私にないところがたくさんあった。 でも、ある時から、私の方から、一切の付き合いを絶っていた。それまで、頻繁にやりとりしていた電話、ファックス、手紙、それらをすべてご破算にして、交友を絶った。一方的な決別宣言に、彼女の方も一切、返すことなく、そのまま時が経ったのである。 昨年夏、私はある音楽会で、偶然彼女に遭った。短い休憩時間の間だった。 どちらからともなく、「あら」と声を掛け合い、昨日の続きのように話をし、ベルが鳴ったのでそれぞれの席に戻った。 帰りの電車の中で、なぜか涙が止まらなかった。 でも、それきりどちらからも近づくことなく、1年近く経っていた。 先週の金曜日、以前習っていた歌の先生からの招きで、音楽会に行ったことを書いたが、その会に彼女も出演していた。 終わって帰りかけると、ほかの人たちと一緒に、彼女が居て、私を先生の楽屋に連れて行ってくれた。その時も、何の屈託もなかった。 楽屋で衣装を着替えるという彼女と、そのまま別れて帰ってきた。 そして、今日の便りだった。発表会に来てくれて有り難うということば、それに、最近引っ越して住所が変わったから知らせると言うことが、添えてあった。 私は返事を書き、最近は歌を忘れたカナリアになってしまい、パソコンに夢中になっていることをしたためた。それが、この3年間の一番大きな変化だった。 いつも彼女が心配してくれた私の老親の近況にも触れた。そういうことに経験豊富な彼女からは、何かと、いろいろなアドバイスももらったのだった。 友達になることはやさしい。しかし、友達でいることは難しい。 自分がひとに誠実であることは出来る。しかし、相手に同じものを求めることは出来ない。 そういうものに絶望したとき、むしろ寛大な気持ちで相手を受け入れることが出来るのかもしれない。 そして、私はまだ、その域に達していない。 2002年05月20日 19時08分42秒
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