沢の螢

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マスメディアの責任
2002年09月23日(月)

平穏に暮らしていた人が、ある日突然、なにものかの手によって、自由を奪われ、拘束され、生命の危険にさらされる。
これが、他国の、国家の名においてなされたことであるなら、自国民の生命と財産を守るべき国は、全力を挙げて、その解決なり、救出に、向かうべきであろう。
ところが、家族の訴えがありながら、国と為政者たちは、事実上、何もしてこなかった。
その問題が、この頃になって、急にマスメディアで、取り上げられている。
だが、メディアの取り上げ方は、少しおかしい。
拉致問題と家族について共感し、怒りを露わにするのはいいとしても、その怒りの矛先が、日本の為政者に向かっている。
もちろん、今回の訪朝団のやり方に、まずい点は多々あった。
しかし、あのような情報の偏った国で、あれ以上どんな方法があったというのか。
生存確認のやり方が不十分だと言って、マスメディアは、外務省の役人を非難している。
しかし、間違えれば、殺されてしまうような、状況下であったかも知れないところで、それが精一杯だったかも知れないではないか。
私は、別に、政府や役所の肩を持つわけではないが、そんな内輪もめする暇に、一刻も早く、生存者を救出し、死亡とされた人たちの確認に向けて、国を挙げて動き出すべきであろう。
メディアの責任は、同胞をこのような目に遭わせたその国への怒りを、自国の為政者に向けるのでなく、当の国家にもっと向けるべきなのだ。
ぐずぐずしていたら、生きているかも知れない人たちを、あらためて闇に葬ってしまうかも知れない。
今まで、まともにこの問題を取り上げてこなかった、マスメディアの責任も、大きいと言わざるを得ない。


満月の夜
2002年09月20日(金)

今日は、江戸川区の「源心庵」というところで、満月を待ちながら連句を巻くという、風流な会に参加した。
この会には、4,5年前まで、良く参加していた。
しかし、両親が同居している間、外出がしにくくなり、だんだん行かなくなってしまった。
そのまま、今までご無沙汰してしまっていた。
いつもは、都心で会合を開いているが、9月は、お月見を兼ねている。
5年ほど前に、初めて行ったとき、運良く満月に遭遇したが、それ以後は、雨に遭うことが多く、なかなか思うように月が顔を見せてくれなかったそうだ。
今回、久しぶりに参加させてもらうことになり、楽しみにしていた。
朝からいい天気だった。
会は午後3時から、夕食のお弁当が付いて、夜8時過ぎまで、ゆっくり連句を巻くことになっている。
参加者20数名、付け合いが始まって2時間半ほど経つと、少し日が暮れてきた。
座敷の正面は、広縁に面して、大きな池がある。
その向こうは、高いビルなどが建っていて、月が昇るときは、残念ながら視界が妨げられる。
しかし、ビルの屋根の上の方がうっすらと、明るくなっている。
もうすぐだなと、予感した。
6時を廻ってからだろうか。
ふと、空を見ると、月が見えるではないか。
思わず「アラ、出たわ」と、大きな声を出してしまった。
それにつれて、他の人たちも、つぎつぎと廊下に出た。
まん丸な月が、くっきりと浮かんでいる。
低い位置から、月が次第に高く昇っていく様子を、連句の合間にちらちら見ながら、連句を愉しんだ。
まことに幸せな夜であった。
15夜は、21日だが、昨夜の月は、まさに満月、滅多にない晴天の満月を、見ることが出来た。
8時過ぎ、そろそろ連句も終わり、もう一度月を見て、散会した。
帰り、駅の近くで、11人ほどが、名残の2次会をやって、帰路についた。
あまり顔を合わせたくない人が、この会にいることは知っていた。
昨日は、偶然その人たちが来なかった。そのことも、私には、幸いだった。
心おきなく、連句も愉しむことが出来た。
久しぶりに、良い一日だった。


墓参
2002年09月19日(木)

少し早いが、墓参りに行った。
秋川市の霊園である。
ここには、夫の両親と、生まれてすぐに死んだ夫の弟が眠っている。
連休は道も、霊園も込むので、今年は平日にしようときめていた。
良い天気、少し汗ばむほどだったが、霊園の中は、あまり人もいず、ゆっくり墓参をすることが出来、正解だった。
いつもより丁寧に墓の掃除をし、植木の刈り込みをし、花を生けて、霊園内のレストランで遅い昼食をとって、帰ってきた。
夫の父親は、夫が大学を卒業した年になくなり、母は23年前、70歳でなくなった。
今の時代、共に短命と言っていい。
父親の方は、結婚前に一度会っただけだが、母は晩年、私たちと共に暮らし、短い間だったが、大変思い出深いものがある。
頭が良く、世間のことをよく知っていて、私はこの母から、生みの母よりも多くのことを教わった。
茶道を嗜み、旅行が好きで、あちこち出かけては、私にもおみやげを買ってきてくれた。
私たちのブラジル在住中、一人で、ブラジルまでやってきて、5ヶ月滞在した。
私たち夫婦、息子、母と4人で、アルゼンチンやチリに行ったことも忘れられない。
ブラジルでは、現地にいる人たちとも、そつなく付き合って、愉しんでいた。
買い物が好きで、あちこち行きたがるので、ときどき閉口したことも、懐かしい。
言葉がわからなくても、何とかなってしまうのである。
もう10年、生きていてほしかったと思う。
早く連れあいを亡くし、子どもは男の子だけで、少し寂しかったかも知れない。
私は、まだ若く、母の気持ちを理解するほど成長していなかった。
今頃になって、母の心にいくらか近づいた気がしている。


ネット残酷物語
2002年09月16日(月)

参加はしていないが、時々覗いている連句サイトがある。
一昨日の夜頃から、昨日の夜にかけて、その中でちょっとしたバトルがあった。
ある人が、連句用語の意味について、質問した。
本来の意味と違った使われ方をしているのは、いかがなものかという趣旨だった。
それについて、主催者側が、これは習慣として使っているので、問題はないのではないかという意味の答えをした。
しかし、質問した人には、満足のいく答えでなかったらしい。
なおも食い下がり、主催者側が、「この本に出ています」と、ある参考書を引き合いに出して、黄門さまの印籠を持ち出すごとき発言をしたあたりから、だんだんやりとりが穏やかでなくなってきた。
その間の詳しいことは、ここで再現するつもりはない。
私が、感じたのは、ネットで、ひとりの人間が、如何に抹殺されていくかという経緯を、目の当たりに見て、顔も名前も見えないネットという世界の、残酷さであった。
はじめから、何となく目が離せなくなって、一部始終を見ていた私には、サイト側の人たちが、自分たちの城を守ろうとするあまり、大勢で、一人の人を、組み伏せている、ローマの闘技場に見えてきた。
質問者は、たぶん、ネットの会話に、あまり慣れていない人なのだろう。
確かに、ものの言い方がストレートで、歯に衣着せぬきらいがあったが、言わんとしていることは、少しも間違っていなかったと思う。
ただ、自分の言いたいことが正確に受け取ってもらえず、納得のいく答えが得られないので、孤軍奮闘していたにすぎない。
それに引き替え、サイト側のスタッフは、こういうやりとりがエスカレートすると困るので、早く話題を変えたいという意識が働き、いらいらしてきたらしく、また、常連の参加者たちも、それに荷担して、「気に入らないのなら出て行け」式のことばまで浴びせたので、ますます、双方の感情がこじれてきた。
不思議なのは、その議論の中に、まじめに参加する男性らしい人が、ほとんどいいなかったことだった。
「いい加減にして」と言いたいサイト側と、質問の趣旨がずれて来たことに、怒りを隠せない質問者、その中で、そうしたバトルをかわすように、どんどん付け句を出していく参加者たち、あれよあれよと、おろおろしながら、ことの成り行きを見ていた人たち、そんな空気まで伝わってきて、とうとう、最後まで、バトルの行方に、付き合ってしまった。
結局、サイトの責任者が登場し、感情的になっていた、他のスタッフをなだめるごとき言葉もあって、冷静に対処したので、質問者も、一応納得して引き下がった。
バトルというのは、第三者から見ると、双方が頭に血が上っていればいるほど、冷静に見ていられるものである。
顔の見えないネットでは、ほんの些細な言葉の使い方が、相手を傷つけ、人間性まで露わになる。
誰ひとり援軍のない中で、たった一人の孤独な戦いを強いられた質問者、私は、むしろ、こちらに好感を持った。
サイト側は、誰がどう向かってこようが、サイトという実権を持っているのだから、はじめから官軍である。
テレビが時々「視聴者のニーズで」なんてことを、自分を正当化するために使うが、ネットを握っている立場と、そこに参加している立場とは、同等ではない。
いざとなれば、サイトを閉じてしまう権利も、参加者を閉め出す力も持った上でのバトルである。
公序良俗に反することなら仕方がないが、言葉の使い方に関するまじめな主張を、きちんと取り上げて検証するよりも、とりあえず発言を封じ込めてしまおうとする、あのときの雰囲気は、おかしい。
ややこだわりすぎたきらいがあったにしても、質問者の主張は、決して非難されるべきものではなかった。
もちろん、サイト側にも、その発言に耳を傾け、何とか、応えようとしている人もいた。
しかし、総じて、「迷惑な」あるいは、「不愉快な」といった空気が、サイト側を支配していた。
それ以後、質問者は、登場しない。
その人に、何となくシンパシイを感じてしまったのは、私も、いろいろなところで、こういう場面に遭遇することがあるからである。
「正しいからいいというわけじゃないのよ」と、最近もある人に言われた。
私は、いつも、自分だけが正しいと思っているわけではない。
ただ、問題を茶化したり、誤魔化してしまおうとするのが、嫌いなだけである。
蔭で取り交わされる不正義、表面だけ何事もなければ良しとする「偽りの平和」は、私の好むものではない。
でも、それが、人間社会の潤滑油であり、不特定多数の人が、その方がいいというのであれば、私のような人間は、いろいろな形で、閉め出されていくだろう。
今日、そのサイトのボードでは、邪魔者を片づけてせいせいしたと言わんばかりにはしゃぎ、常連たちで乾杯していた。
ネットというのは、ホントに残酷だなあと思った。
昨日の質問者が、その有様を見たら、どんなに傷付くだろうか。
人を抹殺したら、せめてそのあとは、相手を思いやり、しばらく静かにしていたっていいのではないか。
門戸を開いていると言いながら、実は、限られた人たちで愉しみたいだけなのであり、異物が入ることは、本当は、好まないのである。
たくさんの人が見ているらしいから、おそらく、このバトルについて思うこと、感じることは、人さまざまであろう。
バーチャルな世界であっても、そこにいるのは、間違いなく人間であり、姿は見えずとも、それを、比較的冷静な目で見ている人たちがいることを、忘れてはいけない。
人ごととは思えぬ、ネット残酷物語だった。


恋句二つ
2002年09月14日(土)

秋燕や訣別のわけ語られず
恋ひとつ捨ててやるらん野分雲

私は俳句の素養はないが、8年前から連句をやっているので、ネット上でも最近は、自分のボードを二つ持って、付け合いを愉しんでいる。
一つ目は、今、連句仲間の優秀な男の人に捌きをしてもらって、歌仙を巻いているが、あと3句ほどで終わる。
もう一つのボードは、少しくだけて、捌きを置かず、膝送りでやっている。
夏に「数字縛り」と、「恋づくし」をやったが、しばらく間があいたので、今度は、ちょっとまじめな付け合いをすることにして、「源心」にきめた。
4人で巻くことになり、発句を出し合って互選した。
私が投句したのは、上の2句。
いずれも恋句である。
今の私の心境そのもの。
「秋燕や」が選ばれて、これを発句にして、付け合いが始まった。
メンバーは、男性1人、女性3人。
今までも同じ組み合わせで、順調にいったので、楽しみである。

夏の間、私は、信頼していた人と、袂を分かつことになり、つらい日々が続いたが、秋風が吹き始めて、どうやら、傷も癒えてきた。
ホームページなど、やめてしまおうかと思ったくらいだったが、気を取り直して、新たに別ページを造り、その人から見えないところに、大事な物を隠し、少しずつ更新している。
でも、その人のことは、いつも心にかけているので、時々、ウエブ上で近況がわかると、なぜかホッとする。
昨日は、その人が、新しい掲示板を設定している現場に、偶然居合わせた。
背景色や、文字の色をあれこれ変えているのが、わかった。
私よりずっと前に、ホームページを立ち上げて、設定のことは、詳しいはずなのに、なぜか、うまい具合に行かないらしかった。
もう少し、淡い色にすればいいのに、などと思いながら、見ていた。


親子の距離
2002年09月13日(金)

午後から両親のところに行った。
2ヶ月以上、顔を見ていなかった。
父92歳、母89歳。井荻駅近くの、介護付きマンションで、1年前から暮らしている。
どちらも、生みの親を幼少期に亡くして、その分長生きしている。
吉祥寺で、母の好物である最中を買っていった。
父は眠っていた。起きている時間より、寝ている時間の方が、このごろは多いようだ。
母は耳が遠いが、まだしっかりしている。
体は丈夫だが、いろいろなことが、わからなくなっている父の世話をし、時々自分で食事を作っているという。
「ここの食事は、みな、柔らかくて、薄味なの」と、不満を持っている。
母の入れてくれたお茶を飲んで、2時間ほど、話し相手になった。
補聴器をしていても、大きな声を出さねばならないので、あまり込み入った話は出来ない。もっぱら、聞き役である。
夕方になり、ベランダから手を振る母に、何度か返しながら、駅に向かった。
父は、私の帰るまで、とうとう目を覚まさなかった。
我が家で暮らした3年間のことを、母は懐かしがっている。
いろいろなことがあって、2年前に、妹のところに行き、それから1年して、今のところに移った。
その間のことは、このホームページに、いずれ書くつもりだが、親子の距離について、つくづく感じた3年間だった。
連れ合いのもとの上司で、70を過ぎてから、介護付きのマンションに移った人がいる。
まだ、介護を受ける状態ではないが、いずれ、夫婦のどちらかが、人の手を借りる状態になったときのことを考えて、元気なうちに、決断したという。
そこには、高齢の親の介護をした自らの経験が、底にある。
「子どもの世話にならなくていいように」というのが、主な動機だったという。
そして、新しい住まいから、夫婦で、代わる代わる、都心に遊びに出ているそうだ。
連れ合いも、時々、その遊び相手に、かり出されている。
私も、あと10年ぐらい経ったら、同じことを考えようかと思っている。
家を処分して、夫婦二人で暮らせる介護付きマンションに移る。
なるべく都心で、デパートにも、映画館にも近いような、街中がいい。
東京生まれの私たちには、田舎の暮らしは、魅力がない。
親族も、友達も、ほとんど東京に集まっている。
今更、知らない土地で暮らすくらいなら、イギリスの田舎に行った方がいいくらいだ。
便利で、必要な施設が揃っていて、多少空気など悪くてもかまわないから、多世代の人間が集まっている方がいい。
車など無くても、タクシーのワンメーターくらいで、移動でき、駅には、10分ぐらいで行けて、病院、警察が近くにあり、しかも程々に静かなところ・・・果たして、そんな理想的な場所があるだろうか。
そんなことをまじめに考える年になったが、私には、まだ、両親を見送るという、役目が残っている。


忍ぶれど
2002年09月12日(木)

私の周りで、なにやら喧しい。
誰さんと誰さんがどうしたとか言う、男と女の話である。
惚れ合っていても、それぞれに枷があって、人目を忍ばなければならない恋は、大昔からあった。
そうした苦しみの中から、文学も哲学も生まれたのである。
「忍ぶ恋」、いい言葉だ。
でも、そんな言葉にふさわしい、質のいい恋は、いま存在するのだろうか。
ときに、見聞きするのは、人目をはばかるどころか、堂々と、手に手を取っての恋路である。
独身の男女の話ではない。
周りが大人だから、見て見ぬふりをしているが、心ある人たち、ことに女性の間では、眉をひそめたい光景としてうつる。
そんな話が、囁やかれはじめると、話はどんどん尾ひれが付いて発展していく。
そして、時に、集団の和を乱し、不明朗な空気が流れはじめる。
魅力ある人が多く集まっている場で、お互いを憎からず思う二人がいても、おかしくないかも知れない。
「奥さんがいるのに」なんて、ヤボなことを言うつもりはない。
せめて、人目を忍んでほしい。
誰にもわからないように、完全犯罪でおこなうのが、節度を持った大人の恋ではないだろうか。
人知れず、苦しみに耐え、たっぷりと、恋の情緒を味わってほしい。
それを、太陽のもとに曝して、市民権を得ようなんて、さもしい根性を持たないでほしい。
時代がどんなに変わっても、人の意識というのは、案外と古典的なものである。
面と向かって批判されないからと言って、周りが認めていると思ってはいけない。
礼儀正しい大人は、よけいな口出しはしないと言うだけなのだから。
人目をはばかるべきものが、大手を振って歩いていたら、美しくないではないか。
秘めた恋は、忍んでこそ価値がある。
あるとき、集会の場をデイトに利用する人がいて、女性たちの反感を買い、総スカンと言うことがあった。
でも、男の人たちは優しい。それを庇うかのように、付き合ってあげていた。
若い人の、人目を物ともしないラブシーンも、見苦しいものだが、それ以上に、私は、中高年のいちゃついた光景を見るのがきらいだ。
高校生じゃあるまいし、「見えないところでやってよ」と、言いたくなる。
それとも、見せびらかしたいのだろうか。
これは、もてない人間の僻みかと思っていたら、結構同じように感じている人がいて、ひとしきり、話が盛り上がった。
悪のりして「もてない女の会を作ろうかしら」と、冗談を言ったら、「そこに入れて」という人がいて、驚いた。
女同士は、仲良くしようね、が合い言葉である。




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