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学校を出て5年ほど、会社勤めをした。 結婚し、子供が生まれることになって、退職した。 当時の社会状況では、それがごく普通だったし、結婚すると「いつまで勤めるのか」と、周りが訊いてきて、同性である女性たちまで、急に既婚者を「オバサン」などと呼んだりする雰囲気があった。 今なら、セクハラになるところである。 よほどの意志と、能力がなければ、仕事を続けてはいけない時代だった。 そんな時代に、社会に出て、結婚、出産を経て、定年まで働き続けた女性たちは、やはりエライと思う。 私の最近親しくなった友達で、そういう人がいる。 ずっと教職にあり、管理職の最高まで上り詰め、勤めを全うした。 退職後は教育委員会に勤め、そこをやめても、仕事はつぎつぎと入ってくるらしく、今は、簡易裁判所と女子大の講師、後輩の指導や教科書の策定などに関わっている。 その合間を縫って、旅行や芝居、人付き合いと、忙しい。まさにスーパーウーマンである。 知り合ったのは、連句を通してである。 私が連句の世界に入ったのは8年前、それから4年遅れて彼女が入ってきた。 連句関係の催しにも積極的に参加し、物怖じしないところから、この人は、ただ者じゃないと感じた。 そのうち、彼女が教育界でのキャリアウーマンであることがすぐ知れたが、彼女は、そうしたことをあからさまに出すことはせず、連句界では、あくまで新人として、先輩たちを立てるという態度を通した。 私に対しても、彼女は、自分が後輩であるという姿勢を保って接している。 一緒に芝居を見に行ったりして、次第に親しくなったが、それにつれ、やはりこの人は、昔の職業意識から、抜けてないんだなあと感じることも出てきた。 昨年のこと、私が属している連句のグループに誘ったことがあった。 それは結社と関係なく、有志で和やかに集まっているグループである。 そういうグループは、結社の中に、いくつもあって、私は、そのグループが、自分の体質に合っていたので、昨年初めから参加していたのだった。 彼女が入りたいというので、私は、グループのリーダー格の人に相談した。 当然、受け入れられると思ったので、彼女ともすでに、一緒に行く打ち合わせまで、すませていた。 ところが、結果はノーであった。 リーダー格の人は、彼女が、グループの活動拠点から遠いところに住んでいるからと、理由を挙げたが、私は、本当のわけを察した。 彼女の輝かしい経歴が、その人の価値観と合わなかったのである。 彼は、彼女とは対照的に、社会の主流とは離れたところで、苦労し、権威によらない自らの能力だけで、生きてきた人であった。 豊富な知識も、詩的才能も、ほとんど独学で身につけたようであり、思想的にも、左寄りで、若い頃は、労働運動の現場にいたという話も聞いたことがある。 今は、そうした一線からは離れているが、権力や政治の中枢に対する激しい抵抗心は、時にチラと顔を出すときがある。 そんな人が、彼女のような、日の当たるところばかり歩いている人を、すんなり受け入れる筈がないのは、考えてみれば当然であった。 私は、趣味の世界のことだから、そういうことは、関係ないと思っていたのだが、彼の方は、反発が先に来たらしい。 私は、彼女が傷付かぬよう、「今は会員を増やさないようにしているらしい」ということにして、納得してもらおうとした。 ところが、それまで、人に拒否された経験のほとんどなかった彼女にとって、大変ショックだったらしい。 怒った彼女は、グループのリーダーとグループを非難するようなことを言った。 私は、不愉快になり、しばらく電話もメールも断って、彼女から距離を置くことにした。 彼女が、文字通りのタダの人だったら、これほど怒らなかったはずである。 自分は、どこにでも受け入れられるはずだという、思い込みがあったのである。 日頃、私に、必要以上に低姿勢で接してくれているのも、そうした思い込みの逆の感覚だったのだと、はじめて分かった。 ひと月ぐらいしてから、彼女の方から、電話があった。 自分が、長いこと培ってきたものは、あくまでその中でのことであり、どこにでも通用するものでないことを悟ったと、素直に認めていた。 私も、そのことは、それ以上追求せず、忘れることにした。 その後、何事もなく、1年過ぎた。 しかし、今日、また似たようなことがあった。 私の連句ボードで、今、付け合いをはじめたところである。 8,9人で、付け合いをしているが、彼女のところで、ちょっと停滞することがあり、彼女の忙しさを知っている私が、適当に処理して、先に進めてしまった。 長い付け合いであり、あくまでも遊びであり、あまり停滞しても次ぎが続かなくなり、他の人が困るので、進行係として、うまくまとめたつもりだったが、彼女は、自分が無視されたと思ったらしい。 怒って電話をかけてきた。 それを訊きながら、やはり昨年のことを思い出した。 連句というのは、ひとりひとりがあまり自己主張すると、うまくいかない世界である。 私も、自己主張の強い方で、共同作品としての連句とは、性格的に合わないと感じることもあって、時々、ジレンマに陥るが、この頃自分でボードを主催するようになって、人のことがよく分かってきた。 複数の人たちが、愉しめるように気を遣い、バランスを取り、ネット上では、ちょっとした言葉の使い方でトラブルを生むこともあるので、表現には、細心の注意を払っている。 彼女のことも、半ば、気を遣いすぎたための、行き違いであった。 彼女が付け句を出したが、前句に問題があって、作者の了解のもとに直した。 当然、付け句が合わなくなる。 そこで、いったん彼女の句をご破算にしてやり直してもよかったのだが、せっかくだから、彼女にもう一度出してもらおうとした。 しかし、彼女は、仕事で出かけており、夕方になっても応答がないので、私が、彼女の付け句のうち、これならと思うものを選んで、代わりに処理した。 それが、気に障ったのである。「付けてほしいというから付けを出したのに、勝手に変えるとは何事か」というわけである。 本当は、ネット上のことを、実生活でやりとりする必要はないのである。 このようにさせていただきましたが、ご了解下さいと、ボードで断っている。 ネット上でのメッセージで、充分なのである。 しかし、知らない人ではないので、気を遣って、留守番電話にその旨入れておいたのが、かえっていけなかったのであった。 ボードも見ないうちに、怒って、電話をよこしたのであった。 忍耐強く応対しながら、だんだん腹が立ってきた。 いったい何様だと思っているのか。 もちろん、留守中に、勝手に処理されてしまった怒りは分かる。 しかし、そこだけがすべてではないのである。 自分が時間のあるときに、ゆっくり付ければいい。 むしろ、「うまくやっていただいて有り難う」と言ってくれてもいいことである。 それが、プライドを傷つけられたと言わんばかりの怒り方である。 「私は忙しいんだから、すぐには答えられない」というなら、留守中のことは、進行係にお任せしますでいいではないか。 どこかに、自分はエライという感覚が働いている。 私は、気を遣いすぎた自分を反省し、無理して参加しなくても結構です、と言う態度で行くことにした。 こちらも、営利事業ではない。 全くの趣味でやっている。 連句の愉しさを、何とか、ネットで出来ないものかと、試行錯誤しながら呼びかけて、参加してくれる人には感謝しながらやっている。 生活時間も、忙しさもさまざま、その中でみなが愉しめるようにと、私なりに気を遣っている。 競争ではないから、急ぐ必要はないが、ボードが半日も止まっていると、流れが途絶えるので、そのかねあいが難しい。 意見交換は自由にと言うことになっているので、さかのぼって修正することもある。そんな中では、融通無碍でないと、うまくいかない。 ちょっと気にくわないことがあっても、まあまあと言うくらいの、おおらかさを持ってほしい。 そんなことを感じながら、私も、他人のボードだったら、似たような反応をするのかなと、ふと思った。
先日、健康診断を受けに行った。 「どこか気になりところありますか」と訊かれ、そういえば胃の検査を、ずいぶん長いこと、やっていないのを思い出し、そのことを言った。 私の市では、毎年希望者にバリウムによる間接撮影をしてくれるが、それを受けていながら、癌で死んだひとを知っているので、どうせなら、胃カメラで直接見てほしいと言った。 そして、今朝「待望の」胃カメラを受けに行った。 この検査は、確か20年も前に受けたきりだと思う。 のどに麻酔をかけて、じっとしているのが、ひどくつらかった記憶がある。 その後10年ほど経って、バリウムの直接撮影をし、「爆状胃」などと言われ、「この次は胃カメラですよ」と言われたまま、ほってあったのである。 私の連れ合いは、臓器検査は毎年マメに受ける方で、その結果何事もなく済んでいるので、いつも私に「自分の体に対して怠慢だ」という。 身近に、癌の患者がごろごろしていて、そんな電話がかかってきたり、見舞に行ったりが最近続き、とりわけ神経質になっている。 私の方は、この2,3年の間に友人を3人癌でなくしているが、それは、その人の寿命だと思っているので、自分の身に引き替えて考えることはしない。 人間の体は、最もいい状態に保たれたとすると、120年ぐらいは保つと、きいたことがある。 でも、現実には、栄養や、生まれつきの肉体的欠陥や、外的ストレスのために、せいぜい長くて90年ぐらいがいいところであろう。 私の両親は、共に90歳前後、日本が貧しく、戦争のあった時代に育っていながら、長生きしている。 とりわけ母は、大家族の長男である父と結婚し、4人の子を育て、子どものデキが悪くて、人一倍苦労し、ストレスだらけの人生を送った筈なに、まだまだしっかりして、私や妹たちをあごで使っている。 人の寿命には、かなり個人差があり、生命力というのは、肉体的な条件とは、違うところにあるような気がしてならない。 私は、母に比べると、命に対してやや投げやりなところがあるから、生命力は、強い方ではないかも知れない。 寝る前に、「この薬を飲めば、眠っている間に安らかに死ねますよ」と言われたら、案外、受け入れるのではないだろうか。 胃カメラの結果は、胃の中に少し炎症(微爛)があって、刺激物は、食べないようにと言うことであった。 胃は、神経の影響が大きいという。 こんなに幸せな毎日を送っているのに、神経性の胃炎などにかかるとは、どういうわけかいなと、不思議に思いながら、麻酔で痺れたのどの不快感を味わいながら、自転車で帰って来たのであった。
台風が近づいている。 東京を直撃するかどうかは、定かでないが、念のため、テレビをつけて、時々情報を見ながら、パソコンの前にいる。 7月に、私はそれまで属していた、あるサークルを辞めた。 自分の意志と言うより、私の存在をこころよく思わない人の、詐術によって、辞めるべく仕組まれたといった方がいいかも知れない。 サークルの中では、私は、言うべきことは、その場できちんと言うという態度で、通してきた。 しかし、リーダー格の人は、もともと、女性からはっきり物を言われることの嫌いな人である。 サークルは、別に会長がいたが、事実上仕切っているのは、総合的な企画力を持ち、人集めの才に長けたその人だった。 会員は16人ほど、みな彼の識見、能力、詩的才能を認めて、基本的には、彼のやり方に納得している人たちだった。 特に女性は、内心はともかく、彼に従い、決して表面上逆らわず、頼まれれば、協力し、平和にやってきているように見えた。 そんなところへ、どうして私のような、人間が入ったのか、わからない。 彼の誘いで、時々ゲストとして、顔を出しているうち、「入りませんか」と言われ、私は、その会の雰囲気が好きだったので、喜んでメンバーに加えてもらった。 思ったことを、はっきりと言うところが、ちょっと面白いと、思われたのかも知れない。 メールの交換などを通じて、お互いのこともわかるようになり、ずいぶんいろいろなことを、教えてもらった。 博識で、感性豊かな彼から、学んだことは大きい。 しかし、そういう人には、関心を寄せる人も周りに沢山いる。 私が入るより前からいたある女性も、彼には、好意と興味を持っていて、彼の方も、自分よりずっと年下の彼女をかわいがり、会の中でも、彼女の存在は、特別のようだった。 彼女は、会計を受け持ち、会のホームページを作ることで、存在感を発揮した。 会の運営は、彼と彼女、会長と、もうひとりの若い男性との4人で、事実上、行われていた。 誰も異を唱える人もなく、車の4輪は、うまく回っていたのである。 そんなところへ、あまり大人しくない私が、入ったのである。 会の行事や、計画をめぐって、彼のワンマンぶりに、私が異を唱えることが時にあったりして、彼は、だんだん、私を、目の上の瘤と感じるようになったらしい。 また彼女の方も、それまで、一身に関心を集めていた彼が、私と共同作品などを作っていることに、面白くない気持ちがあったようだ。 今年の3月頃に、私のアイデアを、彼女が、シラッと自分のものにすり替えてしまうということがあった。 それは、会とは関係ないことではあったが、私は、そのことで、彼女を信用できない人だと思うようになった。 そのアイデアは、別の圧力で頓挫したが、彼女は、それを、私のせいだと思ったようである。 彼から来たメールで、彼のもとには、彼女からの一方的な情報が伝わっていたことを知った。 その計画は、成功すれば、彼女の手柄話になるが、うまくいかない場合は、私に責任をなすりつけられる可能性があったので、私は、早い段階で、身を引いていたのである。 しかし、情報が、いろいろある場合、人間は、自分に近い人のいうことを、まず信じるものだ。 彼が、まず彼女のいうことを信じ、私のいうことを、二義的に考えたのは、当然だったかも知れない。 それだけ、二人の間の情報交換が、上回っていたということになる。 それを、説明しようとすれば、彼女を非難することになり、それは、自分の人間を下げることになる。 それは、したくなかった。 つまり、私はええカッコしいで通したのである。 彼は、私の言うことが、曖昧で、よく分からないと言いながら、それ以上、訊いてこなかった。 それは、そのことで、一段落したと思っていた。 ただ私は、それ以後、彼女とは、一線を画すことにしたので、顔を合わせても、必要以上の会話はしないという態度を決めていた。 四月頃から、彼女が、会の例会を、ちょくちょく休むようになった。 連れ合いの仕事が変わって、忙しいということだったが、七月になって、私は、気になり、「どうしたんでしょうね」と、彼にメールで訊いてみた。 その返事が、何か、奥歯に物の挟まったようなものだったので、私は、何かあるなと分かった。 しかし、そういうことを明らかにしないのが彼のやり方であり、それは、彼なりの配慮であっただろう。 私もそれ以上、訊かず、表に出ないことは、ないものと思うことにした。 私のような人間は、いない方がいいのかなと思ったりしたが、彼の言う「悪い平和」を守って、行くことにした。 そのすぐ後に、私が、ホームページを、会のページにリンクしてほしいというのを、彼女は断ってきた。 納得のいかない理由だった。 そして、それに関して、二,三回彼とメールをやりとりしているうちに、「原因は、あなたと彼女の間に、以前からあるトラブルです。それを会に持ち込むのは不愉快だ、辞めてほしい」と、言われたのである。 私は、会にトラブルを持ち込んだという自覚はなく、それがどういうことか、はっきり説明してほしかったが、彼から答えのないまま、私の方から、辞めた。 他の会員には、何の関係もないことである。 それから二ヶ月経つ。 彼女からは、何も言ってこないし、もちろん、彼からも音沙汰はない。 私がなぜ急に辞めたのか、知らないメンバーから、電話がかかってきたが、いきさつを話すわけに行かなかった。 ただ、会長に当たる人には、きっかけになったことだけ話した。 しばらくは、私は、休んでいると言うことにされていたらしい。 会の内紛のような印象を、他の会員に与えたくないという、彼の老獪さの故であろう。 私は、そんなことを取り繕う必要はないので、誰かに訊かれると「辞めました」と、明言している。 大人しい女性たちは、私が辞めたことを知らされても、彼に気を遣ってか、何も言ってこない。 ただひとり、若い男性が、心配してくれて、会報などを送ってくれる。 その優しさに感謝しながら、今まで二年近く身を置いていたところから、一方的に、切られてしまったことに、悔しさと、憤りを感じている。 彼女の方は、最近会に復帰したという。 私がいなくなって、居心地が良くなったからであろう。 彼の方からも「そろそろ出てきませんか」などと、誘いがあったのかも知れない。 「よい戦争より、悪い平和の方が大事」というのが、彼の口癖であった。 「あなたは下手なのよ。自分が悪いとされるような方向に、自分から持っていってしまうのよ」と、私をよく知る人からいわれた。 「正しいことを云えばいいってもんじゃないのよ。それで、傷付く人もいるんだから」とも、云われた。 どちらも、人間社会で生きていくための、一面の真理であろう。 ただ、私が大きく傷付いたことは、確かなのだから、少しは、それを思いやってほしい。 私がいなくなって清々したと言わんばかりに、新しい人を会員にしたり、愉しそうな会合の様子を、ホームページで見せびらかすのは、ちょっとひかえてほしい。 ついこの間まで、参加していたプログラムに、私は、加わっていないのだから。
9月最後の日。 7月の終わり頃、私には、信頼していた人に裏切られるという、つらいことがあった。 それから、なかなか立ち直れなかった。 連れ合いや、親しい友人が、言わず語らずとも、私の心に添うように付き合ってくれて、気持ちが慰められたり、趣味の世界で、それとは関係ない話をしながら、愉しい気分になることはあったが、思ったより、心の傷は深かったらしく、未だにすっきりした気持ちになれないでいる。 忘れようとしても、心のどこかに、いつもそれが引っかかっていて、心から笑えないのだ。 そのきっかけを作った人は、私のいなくなった後、しばらく大人しくしていたらしいが、もういいと思ったのか、最近、私のいなくなったグループに復帰しているらしい。 正直、いい気持ちはしない。 それを誰に言うことも出来ずに、悔しさをかみしめている。 グループには、その人の存在を擁護する人がいる。 「そろそろ出てらっしゃい」と言われて、行っているのだろう。 私には、そうは言ってくれていないと思うと、悔しいし、寂しいが、そんな気持ちを、誰にもぶつけることができない。 無理に、そうした気持ちを押し殺すからいけないのだと思ったら、どっと涙が溢れる。 そうやって、この2ヶ月の間、私は、何度と無く、泣いた。 明日から10月、ネット上では、快活で元気な私なので、誰もそんなことには、気づかない。 そして、私のボードでは、新しく連句の、付け合いが始まる。
住んでいる市のホールで、年一回古き良き時代の日本映画をシリーズで取り上げる。 今年は、成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演の作品である。 今日は「娘.妻.母」と、「妻として女として」の2本だった。 共に、昭和35年前後のもの。 このころの映画を見て、一番印象的なのは、セリフの言葉遣いだ。 最初の場面で、主な出演者が、ずらりと登場するが、そのとき交わされる会話で、人々の関係がわかる。 母と娘、夫と妻、きょうだい、そこに嫁が入り、嫁いだ娘が帰ってくる。 誰と誰が本当のきょうだいで、誰が義理の関係か、いちいち説明しなくても、言葉遣いで、すべてわかる。 女性の場合、それがことに顕著であって、ああ、この人は、お嫁さんなんだな、こちらは、実家に帰ってきた娘だな、話している相手は、夫の母なんだな、こちらの男は、実家に帰ってきた娘の亭主だな、などと言うことが、2言、3言の言葉のやりとりで、判断が付くのである。 あらためて日本語というのは、人間の関係を、主語無しで表現できる言葉なんだな、ということを認識した。 でも、今の時代はどうだろう。 成人した息子や娘が、親に敬語を使うだろうか。 妻が夫に、丁寧語を使って話すだろうか。 映像無しのセリフだけだったら、登場人物の家族関係を判断するのは、かなり難しいにちがいない。 それにしても、この時代の女優は、なんと美しいのだろう。 原節子、淡島千景、高峰秀子、淡路恵子、草笛光子、それにファニーフェイスの団令子や、芸達者な中北千枝子が顔を出していた。 面白いのは、母親の還暦祝いだと言って、一族が集まる場面で、母親役の三益愛子が、どう見ても70代半ば過ぎと思われるような、老けた造りで出ていることだった。 杉村春子も、実際の年よりずっと年上の役どころで、出ていた。 そして、髪はひっつめ、化粧気もなく、地味な着物を着て、立ち居振る舞いといい、歩き方といい、全く老婆そのもの。 あの時代は、60歳というと、そんな感じだったのだろうか。 「いくら何でも、ちょっとひどすぎるんじゃない」と、帰ってから夫に言うと、「それがノーマルだよ。今の女は、いつまでもナマグサすぎるんだよ」と、言われてしまった。 森雅之、宝田明、仲代達矢、上原謙、小泉博、彼らも若くてすばらしい。 飯田蝶子が出ていて、懐かしかった。 そして、出演者の半分くらいは、すでにこの世にいない。 ゆっくりと丁寧な話の展開、心にしみるセリフ運び、映画が娯楽の王者だった頃のものだから、時間と人物を贅沢に使っている。 今は使われていない、お妾さんとか、女中などということばも、自然に出てきて、違和感なかった。 「浮雲」「流れる」「あらくれ」「浮雲」などの作品が、この後続く。楽しみである。
医者と薬が嫌いで、よほどのことがないと、滅多に行かないのだが、今日は、2年ぶりに、健康診断に行った。 連れ合いの知り合いが、つぎつぎ癌などで倒れ、60そこそこで亡くなるケースが増えている。 私の両親のように、90前後でまだ元気でいる人がいる一方で、まだそれ程の年齢に達しないうちに、生を終える人もいる。 昨日も、連れ合いのもとの職場で親しくしていた人が、胃を全摘する手術をしたということである。 最近は、奥さんに先立たれる人も少なくないそうだ。 そこで、「キミは、自分の健康管理にちょっと怠慢すぎるぞ」と、連れ合いがやいやい言うので、市から検診の案内が来ていたのを思い出し、今月末までという、期限ぎりになって、行ったというわけである。 通常の検診の他に、しばらく胃の検査もしていないので、内視鏡の検査をすることにし、予約の紙をもらってきた。 そんなことをしているうちに、気のせいか、胃がシクシクしてきた。 一種の拒絶反応である。 17年前、私は原因不明の病気で、3ヶ月近くの入院生活をし、検査、薬も、イヤと言うほど体験したので、出来ることなら、一生病院などに行きたくないと思っている。 歯が痛むときは、仕方なしに歯医者だけは行くが、それ以外は、無しですませている。 胃の検査も、5年前にバリュウムを呑んで、直接撮影をし、「漠状胃」などと診断されたが、「次は胃カメラです」と言われながら、ほってある。 確かに怠慢と言われても仕方があるまい。 うちに帰ると、連れ合いは、新しいパソコンの設定に、奮闘しているところだった。 ウインドウズ98型を、3年半使ったが、最近不具合が多く、いつ止まるかわからないと言うので、思い切って、新品を買った。 今度はDellである。 今までのパソコンに入っているデータを、新しい方に移すために、ネットワークを設定したり、あれこれ、1日かかってまだ終わらないと言う。 ぶつぶつ言いながらも、愉しそうであった。 連れ合いは、ジオシティーのスペースを、ホームページで7割強、使ってしまったので、今度別のプロバイダーのスペースに、新しくホームページを造り、相互にリンクさせている。 私も真似をして、連れ合いと別のサーバーで、5メガを取り、やはり2重構造で構築しつつある。 新しいページは、顔見知りの人には、アドレスを教えていない。 私に反感を持つ人が、こっそり覗いて、けちを付けているのがわかったからだ。 ファイルの一部は、新しい方でしか、見られないように設定した。 日記も、今までのページと書き分けている。 ホームページなどというものを、自分が作るとは、1年前は全く思わなかったのに、いつの間にか、そのオーナーになってしまった。 更新などに夢中になると、時間を忘れてしまう。 その分、読書量が減った。 昨日も、読まずにそのままになっていた本を、図書館に返しに行った。
午後から雨に見舞われた連休中の22日、神奈川県民ホールに行った。 連れ合いも一緒である。 学生時代の共通の友人の、歌の発表会をきくためだった。 発表会と言っても、ある声楽家の教室に通う人たち、総勢60人近くが、一曲ずつ歌うものである。 20年前から続いている教室で、発表会は15回目ということだった。 行ったときは、午後3時過ぎ。午前中からの会が、後半に入り、上級者たちのオペラアリアの部に入ったところだった。 観客も、このあたりから俄然増えてきて、立ち見があるほど。 出演者の家族や知己の他、歌の好きな人たちの間で、知られるようになって、全くの縁故のないファンも多いようだ。 オペラアリアは、音大出身者や、天性の声と音楽的才能に恵まれた人たちがほとんどで、なかなか聴き応えがあった。 私は友人のために行くが、他にも、毎年愉しみにきいている何人かの出演者がいる。 友人はプッチーニのオペラ「つばめ」から「ドレッタの夢」を歌った。 この歌は、短いが、音域が広く、かなり高いピアニシモを要求されるので、難曲である。 ブレスも難しい。 ちょっと、はらはらするところもあったが、声がきれいにのびて、良く歌っていた。 夫と共に、大きな拍手を贈った。 彼女の後に続く出演者は、実力者揃い、それぞれ難しいアリアを、如何に精進したかがわかる練習の成果を示すごとく、すばらしい出来だった。 終わって、友人に声をかけ、私の先生でもあった声楽家にも、挨拶して、会場をあとにした。 外はかなりの雨であった。 ロンドンから帰国して次の年、兼ねてから歌を習いたいと思っていたので、吉祥寺にある歌の教室に入った。 高名な声楽家が、講師としてきていることは、前から知っていた。 でも、とても私のような素人が行くところではないと思っていた。 メトロポリタンオペラに、日本人として始めて出演したという、輝かしい経歴を持つ人である。 習いに来る人は、みな、音大卒業者で、難しい歌を扱うものだろうと思っていた。 そんなところへ、行ってみようと思ったのは、ロンドンにいるとき、成人学級で、歌を習って、人前で歌うことの、魅力を知ったからである。 上手下手は関係なし、好きな楽譜を持ち込んで、皆の前でレッスンを受ける。 何度か経験しているうちに、そんなことが平気になってしまい、日本に帰ったら、ちゃんと歌を習いたいと思っていたのだった。 コーラスは、学生時代からいやというほど経験したが、一人で歌うことの、おもしろさに、遅まきながら目覚めたのである。 そして、プリマドンナに巡り会ったというわけだった。 入ってみると、その教室は、私のようなふつうのおばさんたちがほとんど、専門家らしい人は、いなかった。 先生は、当時50代後半、華やかなロングドレスを着て、婉然とほほえんでいた。 新入生は、挨拶代わりに何か歌うのが、決まりになっているというので、私は「カロ.ミオ.ベン」を歌った。 高校生の時、音楽の時間に習った歌だった。 先生は「ま、挨拶だからね」とだけ言った。 私は、その日、家から近いので、普段着のようなパンツ姿だったが、あとでわかったのは、先生は、そういう服装が嫌いなのだと言うことだった。 それからは、教室に行くときは、出来るだけおしゃれをし、主婦的感覚を剥ぎ落として出ることにした。 厳しく、自分の感情に正直で、人の好き嫌いの激しいプリマドンナは、時に、生徒たちの反発を買ったりしたが、歌に関しては、いい加減な教え方はしなかった。 相手が素人だからと言って、歌をおろそかに扱うことは、自分の芸術的良心が許さなかったのだろう。 その姿勢に惹かれて、吉祥寺から新宿に場所が変わっても通い続け、3回の発表会も経験して、7年経った。 それをやめたのは、もともと天性の声に恵まれず、音楽的才能のない私には、これ以上、無理だと思ったことと、両親が同居するようになってから、時間的、体力的限界を感じたからだった。 でも、歌が嫌いになったわけではない。 それからも先生のリサイタルには赴き、教室の発表会にも、観客として足を運んだ。 昨年、何年ぶりかで、先生が講師である「カンツオーネ」の教室に行った。 ここは、3ヶ月に数回という単発の講座で、土曜日と言うこともあり、若い人、男の人も来て、少しくだけたやり方をしているらしかったので、歌を忘れたカナリアには、ちょうどいいと思ったのである。 先生は、私を覚えてくれていて、「良く来たわね」と、声をかけてくれた。 プリマドンナは、昔より優しくなり、感情を露わにすることはないように見えた。 生徒には、なるべく公平にと、気を遣っているようでもあった。 外国の音大を出て、若いときは、ほとんどヨーロッパで仕事をしていたプリマドンナは、日本の芸大閥が幅をきかせる楽壇では、門を閉ざされていたという話も聞いたことがある。 専門家を育てる道もあまり無く、ふつうの人たちに歌を教えることに、活路を見いだしたのだった。 いくつかの教室を受け持っていたが、本当は、自分の手で、専門家を育て、世に送り出したかったであろう。 今の時代なら、外国育ちのプリマドンナが、閉め出されることはない。 プリマドンナの育った時代の音楽的環境が、その才能を十分に生かし切れなかったのは、その人自身にも、日本の楽壇にも、不幸なことだったと、あらためて思った。
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