沢の螢

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暮れ早し
2002年11月02日(土)

しばらく日記を休んでしまった。
先週一度書いたのだが、エラーが出て、せっかく書いたものが消滅してしまったので、がっかりして、また日が経ってしまった。
ノートに、ぼつぼつ書いていれば、そんなことにはならないのに、と、あらためて文明の利器のもろさを思った。
別サーバーのサイトを、「しばらく休みます」の挨拶とともに、10月20日付で、いったん休止、表紙以外は、非表示にした。
そこにも日記を置いてあるので、どうするか迷ったが、また再開したときのことや、自分の心覚えのために、一応持つことにし、11月のページを作った。
休止中のページに置いた日記は、他人が見るわけではないが、もし、私の日記を「お気に入り」などに入れてあれば(そんな奇特な人がいるかどうか知らないが)、クリックすれば表示されることになる。
しかし、そこまで、考える必要はないだろう。

日朝国交化の交渉が、難航している。
日本の主張と、北朝鮮考えていることが、元もと土俵が違うからである。
でも、今回は、政府も、関係者たちも、頑張っている。
いままでの日本とちょっと違うという感じを、あちらの人も持っているのではなかろうか。
拉致された人たちの生の声は、直接には、あまり語られてないが、人の人権に関わる問題であることは確かだから、日本政府は、妥協せずに、この問題を進展させて欲しい。
彼らの、北朝鮮に残された子どもたちーもう20歳前後になるーが、一刻も早く日本の両親と会えるように、なってほしいと思う。

早くも11月。このところ、真冬のような寒さが続く。
まだ夏物を、完全には片づけていないので、家の中は、衣装箱があちこちに散乱。
Tシャツの欲しい日もまだあるし、夏冬折衷の時期が、しばらく続くのだろう。

ボード連句は、百韻をやっているが、当初参加表明した人たちが、少しずつ消えて、今にも、沈没しそうである。
ネットの参加者というのは、きわめてドライで、面白くないとなったら、さっさといなくなってしまう。
顔を合わせての座ではこんなことはない。 
他のメンバーに気を遣って、ともかく、みんなで一巻作り上げようとする。
ネットの気楽さは、逆に言うと、礼儀を欠いた自分本位な参加態度にも、繋がる。
運営している方は、そのことを百も承知していながら、はやり、ちょっと傷付く。
そろそろ止め時かなと思う。
今の百韻が、やっと65句まで行った。
あと35句、これが終わったら、いったんボード連句は、閉めることにする。


愁思
2002年10月22日(火)

先週、意外な人からメールが来た。
7月までいた、あるサークルの女性。
私が、そこをやめたのは、この人と関係がある。
そのいきさつは、この日記のどこかにも、何度か断片的に触れたので、もう繰り返さない。
私によからぬ感情を抱いていた彼女、それに味方した人、両方があって、そこから私は、抜けたのだから。
前者は、これからは、もう縁のない人と思うことで、ある程度、気持ちをクリアした。
しかし後者については、私が信頼を寄せ、尊敬し、慕っていただけに、三ヶ月近く経った今も、まだ、その傷は癒えていない。
私がいなくなって、すぐにサークルに復帰した彼女は、何事もなかったように、過ごしている。
そんな彼女から、メールなど来る理由はないのである。
内容は、ある講座の案内で、私がその講師のファンであることを知っていて、報せてきたのだった。
でも、本当は、そんな講座のことは口実で、私のその後が、やはり気になっていたのだろう。
自分のことが原因で、私を結果的にサークルから追い出すことになって、彼女にしてみると、あまり寝覚めがよくないのかも知れない。
ほとぼりが冷めた頃を見計らって、様子を窺ってきたのであろう。
でも、こんなシラッとしたメールなど寄越す前に、ひとつ言うべきことがあるはずである。
私が、「お知らせいただいて有り難うございます」という返事を、出すべきなのだろうか。
それで、彼女としては、すっきりするのだろうか。
私が、おおらかな気持ちの持ち主であるなら、そうするだろう。
しかし、彼女からは、これ以外にも、たびたび煮え湯を飲まされている。
そして、彼女の方は、あまり自覚はないらしく、いつも、ケロッとしている。
目的のためには、手段を選ばないと言うのが、団塊の世代の特徴かも知れない。
私の方が年上だからと、いつも意に介さない態度を取ってきたが、今度は、第三者が関わっていて、私にとって、大事な交流が一つ絶たれたのである。
ケロッと水に流されて済むことではない。
逡巡した挙げ句、私は、いいこブリッコすることはやめた。
彼女のメールは無視し、ついでに、送信者禁止の項目に、彼女のアドレスを加えた。
本当に、コミュニケーションを図ろうと思えば、顔を合わせる機会はあるし、手紙も、電話もある。
もともと、メールは、ちゃんとしたことを相手に伝えるのには、大変不完全なのである。
七月のことも、メールにはじまり、メールで終わったことであった。
こんなもの、持たねばよかったと、そのとき思った。
便利ではあるが、顔を見ては言えないようなことも、メールでは、さらっと言ってしまう。
顔見知りの人とは、なるべく肉声で伝え合いたい。
しみじみ、そう思っている。


けじめ
2002年10月20日(日)

ホームページを立ち上げて七月まで、別のサーバーで、公開していた。
私は、実生活の自分と、ネット上の自分とは、区別したかったので、はじめは知っている人には、ホームページの存在を、知らせなかった。
信頼しているたった一人の人だけに、アドレスを知らせ、口外しないという約束を守ってくれた。
私は、銀行の貸金庫と同じに考え、自分の書いたものをしまっておく場所として、ホームページがあればいいと言うほどの気持ちだった。
だから検索エンジンにも登録せず、よそのサイトに宣伝めいた書き込みもせず、リンクもせず、ただ、毎日少しずつコンテンツを増やし、ソフトを使って、模様替えを愉しみ、それで、満足していたのである。
しかし、連句のボードを持って、それに参加してくれたメンバーには、出来上がった作品を載せる関係で、ホームページの存在を教えることになった。
みな、礼儀正しく、口の堅い人たちなので、私の意図を理解して、黙って見てくれて、実生活の場でも、話題にすることはなかった。
連句の付け合いが軌道に乗ってくるにつれ、私は、やはり関心のある人には、ネット連句の臨場感ある付け合いを見てもらいたいと思うようになった。
そこで、七月に、連句部門だけを全体から切り離し、そこだけ独立して見られるように設定したのである。
ドキュメントのアドレスを別にして、直接入れるようにし、そこから、ほかのところには、行けないようにした。
そうすれば、知っている人に、私の日記やエッセイなど、見られることはない。
独立したその部分だけ、私の入っているサークルのホームページに、リンクしてもらおうとした。
ところが、サークルのホームページの担当女性に、拒否されたのである。
「内容が個人的なものだから」というのが、理由だった。
でも、サークルのホームページには、いくつかのサイトがリンクされている。
内容はみな違うが、それらと比べて、私のページが、否定されなければならぬ要素は、何もないように思えた。
サークル会員として、「政治、宗教を持ち込まない」という規約にも違反してないし、いかがわしい記事があるわけで無し、営業的な使い方はしてないし、個人的といえばそれに違いないが、それならほかのリンクサイトも似たようなものだ。
要するに、彼女は、どういうわけか、私のホームページだけ、リンクさせたくなかったのである。
言ってみれば「有害図書」と決めつけられたようなものだが、いっぱしの物書き気分に浸っていた私としては、勲章みたいなもので、このサイトが、それ程存在感があったのかと、誇りたい気分だった。
私は、彼女に、ホームページのアドレスを教えたことはなかったが、どこから聞いたのか、いつの間にか、知っていて、覗いていたことになる。
拒否するようなものを、黙ってみていたのかと思ったら、私は、実に不快な気分になり、それだけで、サイトを閉じてしまいたくなった。
でも、それもおかしいので、たまたま持っていた別のサーバーに、少しずつファイルを移し、しばらく二本立てにしていた。
きょう、すべてのファイルを移し終えたので、古いホームページを休止することにし、挨拶文とともに、表示した。
連句の参加者には、別立てにした連句部門だけ、残してある。
ネット上でのみ知り得た訪問者には、新しいアドレスを案内し、顔見知りの人は、「休止」になっているアドレスしか知らないことになる。
それでいいのだ。
ネットの中では、私は、そこに表示されている名前でのみ、存在する。
それを、かたくなに守っていくつもりである。


面とペルソナ
2002年10月18日(金)

昨日、文学講座のあとの、喫茶店で。
いつも、講座がはねたあとは、数人で先生を囲んで、近くの喫茶店にはいる。
受講生は、中高年がほとんど。その中で、比較的若い40代の男の人が、いつも世話役を買って出て、お茶代の集金やら、席取りやらをやってくれる。
昨日は、常連のほか、別の講座で先生の追っかけをやっている女性グループも来て、12,3人になった。
私も、最近になって、ちょくちょく参加して、先生のアフター講座の話や、同席の人たちとの会話を楽しみにしている。
先生は、自分のお茶代は、自分で払う。そんなところも、気に入っている。
昨日は、たまたま、私の向かい合わせに、はじめて顔を見る女性が座った。私と同年代くらいに見えた。
はじめは、雑談をしていたが、そのうち、彼女が、隣の席にいた先生に、どうしても訊いてほしいといった感じで、話しはじめた。
「私の父は、戦時中、日本に強制連行されたんです」という。
それから、在日朝鮮人として、どう過ごしてきたかという話を、静かな声で語った。
彼女は、日本で生まれ育ち、韓国籍を持ち、夫は北の人だという。
彼女の娘は、朝鮮系の新聞社に勤めている。
今回の、拉致問題について、彼女は、日本人とは、少し違った感覚でとらえているようだった。
親の世代が、強制連行も含め、日本でより日本人として暮らすのに、どれほどの苦労をしたかを、いくつかの例を挙げて話してくれた。
生きるために、言葉も習慣も、日本人以上に日本的なものを身につけた母親が、死ぬ少し前に、ぼけの症状が出始めると、日本語をすっかり忘れ、すべて朝鮮語に切り替わったのだという。
「生きるためには、すべてを受け入れなければならなかったんです。だから、あの人たちも、そうだったと思います」と彼女は言った。
そして、拉致があり得るはずはないと言うことを信じ、新聞に書いていた娘が、今、大変な苦悩の中にいることを、語ってくれた。
「私たちのコミュニティでも、今、何を信じていいか分からないと言う、混乱が起こってるんです」という。
彼女は、18歳の時に、朝鮮語を習い始め、ふたつのことばを自由に使って、翻訳や、通訳もしている。
「考えるときは、どちらの言葉ですか」と聞くと「それは、やっぱり生まれたときから、それで育ったから日本語なんですよ」という返事だった。
「母国語じゃなくて、母語なんですね」と、誰かがいい、彼女も頷いた。
駅までの道を、一緒に歩きながら、どこから見ても、私と同世代の日本女性にしか見えない、明るい雰囲気の彼女が、育つ過程でのある時期まで、仮面の生活をしていたことを、しみじみ思ったのであった。

次元は違うが、ネットも、いわばひとつの仮面の世界、仮面に徹していればそれなりの愉しさもある。
しかし、完全に仮面を通すことは、難しい。
どこかに、現実というものが、混じってきて、それは否定できない。
バーチャルな世界での顔と、実人生の顔とが、彩なすごとく、織り交じって、時に、愉しさだけでない面も、味わうことになる。
私は、ボードを持っているが、そこに入ってくる人は、ネット上の礼儀を守っている限り、受け入れることにしている。
今まではないが、もし仮に、実生活で気に染まぬ人が参加してきたとしても、拒否は出来ないと思う。
きちんと応対し、返事も書く。
知っている人も、知らない人も、ネットでは、すべて公平に対応し、そこに、分け隔てはしない。
それは、ネットを管理する以上、当然であろう。
でも、これは、私の場合で、ネット管理者の対応は、さまざまである。
この人には、入って欲しくないという場合、それなりの方法を考えるのだろう。
ボードのアドレスを、公開しない。あるいは、タイトルを変える。一番無難な方法で、他の人も傷つけない。
しかし、いったん公開したアドレスは、お気に入りなどに入っているから、ボードそのもののサーバーでも、変えない限り、以前見た人は、また見る可能性がある。
入る方から言えば、ボード管理者の反応の仕方で、自分が歓迎されているかどうかは、分かるものである。
投稿記事に返事しない。あるいは、よそよそしいレスポンスの口調で、あ,拒否されてるなと感じ、そんなところには2度と入らない。
でも、本当は、人を選ぶのなら、そんなあからさまなことはせず、限られた人たちだけで、パスワードでも設定して、やればいいのだ。
しかし、そんなことまでして、ネットを運営する意味が、あるのだろうか。
公開しておいて、ネット上で礼儀正しく入ってくる人に、それと分るような差別をするのは、第三者が見ても、気持ちのいいものではない。

私がよきどき見る、知っている人のボードで、そんなものがあった。
タイトルを変え、カモフラージュしているが、メンバーを選ぶための手段であることは、すぐ分かった。
本当は、大勢の人に参加して欲しいはずのボードに、メンバーを限らねばならぬわけは、想像が付いた。
気の毒にと思った。


時雨忌
2002年10月16日(水)

今日は俳諧芭蕉忌正式俳諧で深川へ。
同期の桜のM氏が執筆をやるので、「付け」の1員に加えさせていただいた。
参加者の中に、私の連句ボードに、ここ数ヶ月参加してくれている人と、はじめて顔を合わせた。
若くてすてきな女性、ネット上でしか、知らなかったので、嬉しかった。
座は、久しぶりに一緒になった人の捌きで、メンバーもよく、さまざまの話題が飛び交って、とても愉しかった。
終わってから、そのまま初台の新国立劇場に直行、連れ合いと一緒にオペラ「ルチア」を見た。
今シーズン最初の観劇である。
ルチア役は、イタリアの若手、姿良し、声良しで、悲劇のヒロインらしいルチアを演じて、なかなかのものだった。
「狂乱の場」のアリアは、すばらしかった。

今日は昼間は少し汗ばむほど、オペラの帰りは、気温が下がって、上着を着てちょうどだった。
庭師が今日から来ている。
庭がきれいになると、年の終わりを意識するが、今年は、早めに来てくれて助かる。
夏の間に茂った木が、さっぱりするはずである。

9月から、新しい連句の座に行き始めた。
結社の例会も、なるべく出ようと思う。
以前行っていて、最近遠ざかっていたところにも、先月から出ている。
来月から、もう一つ、参加する座を増やした。
いずれも、「是非いらっしゃい」と、迎えてくれるところばかりである。
しばらくネットの連句中心になっていたが、やはり、連句は、顔が見え、肉声の聞こえる座を、大事にしたい。
バーチャルな世界に、うつつを抜かし、それを、ある面で、現実よりも本物と思ったこともあった。
が、そこには、目を眩ませる、まやかしのものが、潜んでいることも、次第に感じるようになった。
あらためて、ひとの心の有りようを、考えているところである。


碁敵
2002年10月14日(月)

昨日に続きよい天気。
こんな日に、一人でシコシコ、パソコンに向かっているなんて、ゾッとしないのだが、連れ合いのいない休日は、またよきかなである。
尤も、連れ合いがリタイアしてからは、毎日が日曜日で、今日が連休の1日だということも、忘れていた。
新聞を取りに行って、いつも最後にあるテレビ欄がないので、気が付いたという次第。

溢れ蚊や碁敵の来る勝手口
有明を見てより旅のはじめかな

おとといの発句の会で、出句したもの。
碁敵は、6人、有明は2二人が採ってくれた。

碁敵は、別に碁をしなくてもいい。
私自身は、碁も将棋も、不調法である。

碁敵は憎さも憎し懐かしく

この句を教えてくれた人がいて、いい句だなと気に入った。
その人の句か、他の人の句か、訊くのを忘れたが、それから、私は、よい友達のことを碁敵ということにした。
よい、というのは、単純ではない。
たまには、辛口の批評もするが、本当のことをいってくれて、しかも、私の涙を暖かく包んでくれる人を、碁敵と呼びたい。

若い頃、碁敵の名にふさわしい男の友達がいた。
病気で、休学したり、何年も浪人したりで、同学年でありながら、私より4つも年上だった。
男兄弟の末っ子で、ややマザコン的な彼と、4人きょうだいの長女である私は、バカにうまがあって、いろんな話をした。
一緒に入っていた合唱のこと、仲間のこと、家族の話、社会や、本のこと・・・。
便せん20枚という長文の手紙を、ちょいちょい書き送ったこともある。
「また大作か」と、笑いながら、返事をくれた。
私には、好きな人があり、彼にも、意中の人がいた。
それぞれの恋の話を、さらけ出して、お互い異性ということなど、全く感じない間柄だった。
在学中に彼は、また長期入院をして、卒業が1年遅れた。
一足先に社会人となった私の会社に、時々訪ねてきて、退社時間を待ってくれた。
「あなたの彼氏なの」と、間違えられたこともある。
周りから見ると、ちょっと理解しがたい、不思議な関係だったかも知れない。
しかし、癌に冒されていた彼は、33才という若さで、妻と幼い2人の子を残して、他界してしまった。
彼が、結婚する前、私が送った何十通もの手紙を、返そうかと、いってきたことがあった。
ラブレターではないものの、お互いの心の内をさらけ出してやりとりしたものを、妻になる人に、見せたくなかったのかも知れない。
異性間の友情には、やはり限界があるのかなと、私は悟った。
「一度送ったものは、あなたのものだから、もし邪魔だったら、捨ててもいいわよ」と、わたしは言った。
「じゃ、とっておくよ」と彼は言い、それきりそのことは、話題にならなかった。
彼が亡くなってから、その連れ合いに、それとなく訊いたことがある。
「遺品の中には、見当たらないようです」という返事だった。
死期を悟った彼が、最後の入院の前に、処分したのかも知れない。
彼が亡くなったのは、ちょうど今頃の晩秋の時だった。
富士山の見える静かな墓所に、眠っている。

そして今、私には、碁敵と呼べる人はいない。


深川連句
2002年10月13日(日)

歳時記では晩秋、でも季感としては、今が秋たけなわである。
昨日は、連句の、発句の会に行った。
このところ、わたしは、自分の感情を第一にすることにしたので、気に染まぬ集まりは、出ないことにしている。
明らかに、嫌いな人が来ると分かっている会には、はじめから欠席である。
連句の集まりは、沢山あり、選ばずに顔を出していれば、座に事欠かない。
でも、わたしは、行って愉しいことが第一条件なので、吟味するのである。
大きな結社は、あまりひとりひとりは気にならないから、例会には、なるべく出席する。
偶然、嫌いな人と同じ座になってしまったときは、不運とあきらめ、今日は勉強と苦行の日だと、自分の心に言い聞かせて、笑い声ひとつ立てず、神妙に、座の付け合いに取り組む。
そんなときは、「今日は大人しいですね」なんて、いわれる。
ごくたまに、気の合う人ばかりの座に恵まれたときは、愉しくて、はしゃぎすぎるので、口数の割に、句はちっとも出ないということになる。
どっちもどっちである。

先日、ある会に行ったとき、少し遅れていったので、幹事が、遅れ組のために、ひとつ座を作ってくれた。
捌き良し、一緒になった男性もまあまあ、そのうち四人になり、さあ始めましょうという段になって、わたしの大嫌いな女性が、ほかの席から移ってきた。
ああ、今日は苦行の日だと、覚悟した。
何故、その人が嫌いかというと、知識、頭の良さは定評があり、出来る人であることは、さておいて、とにかく、人を傷つけるようなことを、ケロッと言うからである。
わたしも、ずいぶんはっきりものを云う方だが、こと、人の人格に関することは、言ったことがない。
彼女に、心の中をえぐられるようなことを、何度か言われて、わたしは、すっかりキライになってしまった。
彼女自身は、自分が悪いことを言ったという自覚は、ないらしく、どこでもその調子である。
無神経というのか、鈍感というのか、理解しがたい。
どういうわけか、そんな人に限って、エライ人や、男性からちやほやされるので、始末が悪い。
私だけでなく、彼女を「天敵」と断言した女性を知っている。
先日の座では、捌きがいるのに、彼女があれこれ口を挟むので、いらいらしたが、そんなときの方が、何故か、句が沢山ひらめいたりして、結果的には、一人前以上の付け句を出すことが出来た。
それで、気をよくして、いつもは、彼女の出る二次会は、失礼しているが、そのときは、気の合う仲間が誘ってくれたこともあって、飲み屋に付き合い、お酒の勢いで、少々気炎を上げて帰ってきた。

昨日は、「天敵」の来る可能性が充分あったが、作った文集を、配らねばならず、この会は、私の苦手なことを修行できる場なので、出かけたわけである。
また、「天敵」と顔を合わせたら、無視することにした。
幸い、「天敵」は来ず、二次会も含め、楽しい会だった。

歩道に木の葉が落ち始め、日が暮れると、そぞろに寒さを感じる。
今日、連れ合いは、蓼科に行った。
山荘を閉めるためである。
八月終わりに行って以来のこと。
夏の間にもう一度行って、森の気配を愉しみ、片づけるつもりで、いろいろ残したままになっていた。
二人の日程が合わず、台風が来たりで、結局いけなかった。
「君と一緒だとかえって面倒だから」ということになり、道路のすいた午後になって、連れ合いは出発した。
冷蔵庫の掃除をし、家の周りを点検し、管理事務所に水抜きを頼んで、今年の山荘は眠りに入る。
「デジカメで、晩秋の景色を撮ってくるから」と、カメラを持っていった。
しかし、前回は、撮った写真が全部失敗して、使い物にならなかったのである。
私は、東京に残り、とりあえず、ホームページの写真を、昨年の秋のものに換えて、アップロードした。



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