沢の螢

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ことわざ、慣用句
2003年03月08日(土)

風吹きすさぶ中、新宿の連句会へ。

私はネットでの「連歌百韻」に参加していて、夕べ、私の句が治定されたところだった。
治定された句の作者は、次の句の選句にあたることになっていて、今日午後3時の投句締め切りを待たねばならぬ処であったが、やはり連句会には参加したいので、「百韻」主宰の人にわけを云って、午前中の投句の範囲で、選句させてもらうことにした。
いつも、大体10人くらいの人が投句するが、すでに9人が付けてあったし、選びたい句も何句かあったので、あとは、主宰に任せた。
感想と選句の次第をまとめてメールで主宰に送り、それから出かけた。
そのために、1時間遅れての参加となった。

今日のテーマは「ことわざ賦し物」である。
ことわざ、慣用句、4文字熟語などを句に詠み込んで連句を巻くもの。
この会は、2ヶ月に一度、毎回テーマを変えて「賦し物」連句をやる。
1月は、百人一首であった。
今日は、参加者、捌きを入れて14人。
何冊かの参考書を誰かが館内の図書館で借りて来たので、みんなで廻し読みしながら、付けていったが、おかげで知らないことばや慣用句をずいぶん覚え、愉しかった。
やはり年の功というのか、年配者は、よく知っている。
自然話題も多く、おしゃべりも弾んで、終わったのが8時。
10人ほどがそのまま飲み屋に流れ、1時間半ほどさらにおしゃべりしながら、呑み、かつ食べ、散会。
活気に満ちた連句会だった。
昨日に続いての外出で、少し疲れたが、愉しいことの疲れは心地よい。


アメリカの悲劇
2003年03月07日(金)

いまNHKの衛星放送で、1950年代あたりの映画を毎日放映している。
50年代半ばは、映画の黄金時代、日本映画はもとより、アメリカ、ヨーロッパの名作が、ぞくぞく入ってきた時代だった。
私は中学から高校にかけての時期、ほかに娯楽もないので、読書と共に、映画を見ることが、最大の楽しみだった。
このころ読んだ本は、しっかり心に残っているが、映画もそれに劣らず、記憶に刻まれている。
2,3日前のテレビは「陽の当たる場所」だった。
原作はセオドア・ドライザー「アメリカの悲劇」。
貧しい青年が、富豪の叔父を訪ねるところから、物語が始まるが、少し影のある青年を、モンゴメリイ・クリフトが演じている。
工場で働くうち、同僚の女性と恋仲になる。しかし、金持ちの娘と知り合って、その美貌と、将来に横たわる地位と栄誉にこころを奪われてしまう。
妊娠した恋人から結婚を迫られ、また、金持ちの娘との結婚話も持ち上がって、悩んだ挙げ句、弾みで、恋人を水死させてしまう。
罪に問われた彼は、殺意のないことを主張するが、裁判の結果、死刑になる。
獄中に会いに来た金持ちの娘と顔を合わせた瞬間、彼は自分が罪を背負うべきであることを悟る。
恋人の水死は、直接手を出したのでないにしろ、心の中にその死を願い、もう1人の女性が、大きく心に位置を占めていたことは、事実だからだ。
中学生の時、この映画を見たとき、青年の苦悩というものが、よく理解できなかった。
しかし、今回これを見て、アメリカという、自由平等を唱っている社会の、光と影、成功すれば素晴らしい道が開けるが、それだけの力と運のない人間には、実に冷酷、かつチャンスの少ない社会であり、おそらく、それが、今日まで続いているひとつの「悲劇」かも知れないと、思った。
アメリカの栄光は、たくさんのジョージ・イーストマンによって、支えられているのかも知れない。


サイトの引っ越し
2003年03月04日(火)

私はホームページを3つ持っている。
はじめはジオシティーズにあるものだけだった。
それを1ページずつ作り、更新し、コンテンツを少しずつ増やして、かなりの量になった。
原則、実在の私を知っているひとには、公開していなかったが、連句のボードを運営するようになってから、その参加者には、見せていた。
連句作品は参加者の共同作品だから、それを載せるのに、その人たちに内緒というわけには行かなかったからである。
しかし、日記や、連句以外のコンテンツも同時に見せることになり、私の、「ホームページは、日常と違う別の世界」という行き方に合わない面が出てきたので、昨年夏、サイトの中を分けて、連句部門だけ、別のパッケージにした。
そして、私の属する連句グループの人たちに、見てもらおうと、グループのホームページ担当者に、リンクを申し入れた。
ところが、拒否されたのである。
理由はよく分からないが、「あなたのホームページは、プライベートなものだから、俳句、連句を目的とするグループの趣旨に合わないから、リンクすることはお断りします」というのである。
「連句の処だけ別立てにしたので、問題ないと思いますが」といったが、見に来た人が、いずれはほかの部分も見ることになるので、困るという返事だった。
私のホームページのどこが、そんなに困るのか、よく分からなかったが、要するに、その人は、何か別の思惑があって、私のページを、リンクさせたくなかったのである。
リンク欄には、俳句、連句に関するいくつかのサイトがリンクされており、もちろんグループの人のページもあって、私のページだけ拒否されるような理由は、ないように思えた。
「じゃ、グループの名前でなく、あなた個人のホームページになさったら如何ですか」と私は言って、リンクの件はこちらから取り下げた。
個人のホームページなら、リンクするもしないも、そのひとの自由だからである。
グループのホームページなら、決定権は、グループにある。
でも、事実上は、その人がホームページの管理をしていて、ページのデザインを作ることから、グループの作品、活動行事などの公開に関することを、ほぼ一手に引き受けていたので、リンクなども、自分の意のままと思っていたのかも知れない。
私はその人に、自分のホームページのアドレスを教えていなかったが、どこで知ったか、いつの間にか、覗いていたのだった。
連句ボード参加者のために、一時的にボードから、ホームページへアクセスできる設定をしていたことがあり、そんなとき、見つけたのかも知れない。
そのことがきっかけで、私はそのグループをやめることになった。
相談を持ちかけたひとが、その担当者の言うことだけを、一方的に聴き、私をトラブルの元と決めつけたからである。
その人には、私は信頼を寄せていて、ホームページアドレスも、その人だけには、教えてあったのだった。
「ほかの人には、教えないで下さい」と言っていたのに、あるいはその人が、グループのサイト担当者には、教えていたのかも知れない。
その二人の間柄が、どれほど緊密なのか、わたしにはわからないし、関係ないことだが、いずれにせよ、公平を欠く対応の仕方だった。
そのいきさつは、九ヶ月も経った今、もう思い出したくもないので、繰り返さない。
そんな人たちにとって、私のホームページなど、目にしたくもないだろうし、こちらも見てほしくないから、それからしばらくして、私は別のサーバーにサイトを作り、主なコンテンツを、そちらに移した。
10月には、ジオシティーのサイトを、一旦削除した。
ファイルだけは、ディスクに保存しておき、しばらく経って、またジオシティーに、新しくスペースを申し込んだ。
わたしの連句ボード参加者を、いつまでも閉ざしておくわけに行かないからである。
前とは、全く違うコミュニティだった。
でも、内容とコミュニティが合わないので、さらにブックエンドの空き家を探して、アドレスを移した。
そこには、連句関係のコンテンツと、写真だけを置き、前からのお客さんに、公開した。
そして3ヶ月、そのサイトを、今回また引っ越した。
これは、件のグループで、私を切り捨てたひとのアドレスと、番号違いだからである。
今度のアドレスは、私の好きなイギリスの女流ミステリー作家の名なので、嬉しい。
引っ越し先は、向こう4週間元のアドレスに表示されるので、連句関係者には、いずれ判るだろうが、問題の人たちの目には、あまり触れずに済むだろう。
アドレスが変わったために、そこから取り込んだボード類の画像が、消えてしまい、午前中かかって、それらを復旧した。

あとの二つのサイトは、そのままである。
友人知己には、非公開にしてある。
ネットに詳しいひとには、簡単に見つかるだろうが、表向きは、誰も知らない事になっているから、それを前提に、いろいろなものを公開している。
ホームページ作りは、私にとって、いわば「千と千尋」に出てきた顔なしのようなもの。
他人には、ほとんど価値のないものだし、これで、世の中が変わるような力があるわけではない。
これからも、何より自分のために、ページ作りをしていきたい。


ながらえば
2003年03月03日(月)

先月27日は、母の誕生日だったが、その日は都合が悪いというので、今日、行くことになった。
「お昼に何か持っていくからそのつもりでいて」と言ってあった。
母はケアハウスの昼ご飯を断って、父と一緒に待っていた。
デパートに寄り、母の好物の「京観世」と最中、それに雛祭りの仕様で作ってある五目寿司を買っていった。
ハウスの近くのスーパーで、紫の花も少し添えた。
何でも、嵩張るものは、かえって邪魔なのである。
寄り道した分、12時を半時ほど過ぎてしまったが、母はサラダなど作って用意していた。
父は、ベッドでうつらうつらしていたが、私が声を掛けると起きてきて、3人で食卓を囲んだ。
母は満90歳を迎えたのである。
耳がかなり遠くて、補聴器を付けているものの、微妙な話は伝わりにくい。
でもまだまだしっかりしていて、時々料理もしている。
食堂へ行けば、三食の面倒はいらないが、母は、一週間毎に配られるメニューを点検して、野菜不足を自分で補うのだそうだ。
決まった日に、買い物もしてくれるし、洗濯や、父の入浴の世話も、ハウスでしてくれる。
日に何度か様子を見に来て、夜中も、見回ってくれるという。
「ここにいれば、安心よ」と、言う。
ハウスの住人たちとも、当たらずさわらずで付き合っていて、社会勉強もしたらしかった。
父は、よそのおばあさんたちに、人気があり、親切にしてもらっているらしい。
「私が死んでも、大丈夫だわ」と母が言うので、笑ってしまった。
3時間ほど談笑して、帰ってきた。
5月には父が93歳になる。


弥生の空
2003年03月02日(日)

年があらたまって、寒い日が続いた。
インフルエンザが猛威をふるい、私の周りでも、次々病に倒れる人が出てきたが、私は不思議に、風邪らしい風邪も引かず、過ごしてしまった。
みな冬はキライだと言うが、私は、好きな季節だ。
特に、年末年始の慌ただしい時期が終わって、1月半ばから2月いっぱいまでの、静謐な時が好きだ。
寒さを言い訳にして、気に染まぬ事は省き、行きたくないところや、会いたくない人に会わずに済ませるのもいいし、そのくせ、好きなところには出かけるので、結構忙しいのである。
この二月ばかりの間に、連句の座だけで、10回。
終わっての飲み会にも、大体出ているので、交際費も、バカにならないが、人生も残り時間が少なくなるにつれ、楽しみのために、お金を使うことも、気にならなくなった。
ひとり息子には、財産らしいものは何も残してやれないが、家一軒だけは残るから、それで勘弁してもらう。
夫がリタイヤして、完全に年金生活に入ったので、当然、収入は減ったが、その分出費も減ったので、トントンと言うところ。
今のところは、二人とも病気もせず、それぞれの生活と、一緒に過ごす時間とが、自然にバランスよく行っている。
ロンドンから帰ってきて、15年経った。
これからの15年もたちまち過ぎるだろう。
もしかしたら、15年経たないうちに、夫婦のどちらか、あるいは二人とも、この世にいないかも知れない。
そして、次第にあちらの方に知り合いが増え、顔なじみが集まって連句を愉しむことだろう。

昼からの深川連句会に行く。
少し遅れていったので、席がもう設定されていた。
どこに入っていいかまごまごしていたら、会を仕切っているひとが、指示してくれたので、そこに行った。
私には、相性のいいT宗匠の席でホッとした。
Tさんは、歌仙擬きという新しい形式を考案して、それをよくやるので、期待していたが、今日は、国民文化祭の募吟のためということで、半歌仙になった。
「早く終わったら誰か捌きをしますか」と訊かれ、ほかの2人が希望しなかったので、私がさせてもらうことになった。
私の出した発句は
啓蟄や足裏にやはき遊歩道
というのだが、これは私の連句サイトで、没になったものなので、選ばれると困ると思ったが、幸か不幸かTさんの句に決まった。
捌きに連衆3人なので、たっぷり時間がかかり、私の捌きまで回ってこなかったが、むしろ良かったと思った。
Tさんの丁寧な捌きで、ゆっくり進行し、良い一巻になった。
ほかの席は、半歌仙を2回やっていたようなので、私たちの席が終わっても、まだやっていた。
一足先に会場を辞した。
この会は、主宰が常時来ていたときは、いつも25人ぐらいは集まっていた。
今日は、少し寂しく18人。
新しい会長が、終わり頃にあらためて挨拶して、この会を結社直営にするということを言っていたが、そんなお墨付きを付けずとも、人が集まるのは、気持ちよく連句が出来るかどうかにある。
会を運営する人たちが、参加者に対して「よく来ましたね」「またいらっしゃい」という態度があれば、次も何とか行こうとするものである。
今日、少なくとも、私は、会長と事務方の女性から、そういう態度では迎えられなかった。
連句そのものは、とても良かったので、気は済んだが、この次は行くのをやめようと思った。
ほかに二つの会に顔を出しているが、両方とも、「よく来たわね」という顔で、迎えてくれる。
二つとも、しっかりした女性が運営している。
主宰が、だんだん公式行事から退くにつれ、それらの会が、いつも30人前後の参加者で活気が出てきたのは、低きに水が流れるごとき、自然のことである。
「来たくなきゃ、来なくていい」というような顔をされて、誰がそんな会に行く気になるだろうか。


ボーイズ・アンド・ガールズ
2003年02月27日(木)

昨日連句の会があり、おおよそ30人ぐらいで、五つの席に分かれて、それぞれ付け合いを愉しんだ。
この会は、ずっと、江戸川区にある庭園内の施設で行われていたが、最近は、都心に場所を移し、それに伴って、参加者が増え、賑やかになってきた。
女性が大半、男の人は、多くて7,8人である。
平日の昼間ということもあって、仕事を持つ人には、参加しにくいからであろう。
しっかりした女性が仕切っている会というのは、比較的公平で、明朗である。
そして、その中に参加する男の人は、ヘンに男っぽくなく、女性の中であまり、違和感のない人がいい。
昨日、来ていた男性は、みなそのような人たちであった。
会が終わって、いつも一緒に行く2次会に、男3人、女4人が飲み屋に繰り出し、大いに呑み、食べ、しゃべって帰ってきた。
大体飲み屋に行く人たちというのは、男の人は、いろいろだが、女は、独身、あるいは不良奥さんを自認している人で、貞淑な主婦というのは、あまり参加しないのである。
特に、ある年代以上の女性たちは、飲み屋に行くなどということが、あまり普通でないし、そのためにお金を使うということにも、抵抗があるのかも知れない。
私は、その中での唯一普通の主婦だが、「不良」を自他共に認めているので、飲み会には、進んで参加する。
なんと言っても、話していて愉しいことが一番で、「オールド」などと言う冠詞を付けられても仕方のない年になっていれば、男女の隔たりを超えて、気取りなく付き合える。
話の肴は、連句はもちろん、森羅万象に及び、ときに「ワル口」も入る。
会の中には、皆が「わけありカップル」と噂している人たちがいるが、そんなことをサカナにするわけである。
つまり、サカナにする連中は、みな異性にもてないことを自認しているので、ひとの恋路をテーマにして愉しんでいるわけで、内心羨ましく、悪意があるわけでなく、いい話題を提供してくれていると、感謝しているのである。
好ましきボーイフレンドたち。
男性群はどう思っているのか知らないが、イヤなら一緒に呑んだりしないのだから、向こうも、愉しんでいるのであろう。
2時間ばかり経って、払ったお金は3000円くらい、外に出たらまだ7時であった。


いとをかし
2003年02月24日(月)

自分のホームページの更新などで疲れたあと、気分転換にあちこちのサイトを訪問する。
関心のあるコンテンツを扱っているものは、直接そこに行き、参加型のものなら書き込んだりもする。
必ず行くのは、やはり私と同じ連句、俳句に短歌、詩などのサイト。
ほかには、同世代の人たちのものが共感できるところが多いので、そこに行く。
いくつかはブックマークに入れて、すぐアクセスできるようにしてある。
ときに、面白いことを発見する。
掲示板を見ていると、そこに書き込んだ人とサイトの主の遣り取りを通じて、運営者の人間性が垣間見られ、ネットでの交流の有様までうかがい知れて、なかなか興味深い。
時々眺めている、ある人気サイト。
運営者は男性だが、女性に人気があると見えて、掲示板を訪れるのは、女性が多い。
その中でも、「私が一番よ」という感じの女性がいて、ほかの女性がそこに書き込むと、ちょっとした焼き餅を焼くのである。
サイトの主は、まめに返事をする人なので、書き込まれた記事に対して、返信また返信で、二人の遣り取りがしばらく続くことがある。
すると、「一番」の女性は、それを中断するかのごとく、違う話題を出して、遣り取りを遮断するのである。
掲示板は、最終記事が出たものが上に行くようになっているので、「一番」が書き込んだところで、それまでの遣り取りは、下に行ってしまう。
すると、サイトの主は、「一番」の記事に返信することになるので、自然、遣り取りは、主と「一番」のものに移っていく。
はじめ、そのあたりのことがよく分からず、新規投稿したが、主と「一番」の会話を結果的に中断してしまったことに気づき、あとでシマッタと思ったのであった。
たかがネット、たかが掲示板というなかれ。
目には見えなくとも、案外と微妙なものが潜んでいるようである。



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