沢の螢

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花冷え
2003年04月04日(金)

今日は、夕方から雨になり、そのせいか、夜が更けるにつれて、少し気温も下がっているようだ。
明日も雨の模様。
桜が満開で、昨日は連れ合いが、近くの大学に散歩がてら花見に行き、写真を撮ってきた。
この花も、今日明日の雨で、散り始めるかも知れない。
バス停のそばにも、大きな桜の木が2本有り、バスを待つ間の花見が出来る。
連句で「花」というと桜になるが、象徴的な意味でも、実景としても、まさに「花」にふさわしいすばらしさを持っているのが、桜であろう。
チューリップ、薔薇などの花も、私は好きだし、花には違いないが、やはりスケールが違う。
咲いても散っても絵になる点で、桜には、ちょっと及ばないのではなかろうか。
福島県の三春と言うところに、大きな桜があって、連句仲間で2度ほど見に行ったが、いずれも、満開に行き会わなかった。

みちのくの花の盛りに遭はむかな

と言う句まで作ったのに、残念なことである。
しかし、この句を発句にして、私の尊敬する連句の先輩二人と、三吟半歌仙を巻いてもらった。
ほかのことで集まった後での、そば屋でのことだった。2年前のこと。
私は、まだ連句がよくわかっていない時で、大変エキサイティングな付け合いだったので、忘れられない。
連句開眼というものがあったとすれば、このときの座である。
たった1時間、おそばを食べながら、話をしながらスイスイと句が出てしまったのには、我ながら驚いた。
先輩たちにとっては、記憶に残らないような、何でもない付け合いだったと思う。
ひとりは、昨年夏から交流が途絶え、もうひとりは、ちょっと偉くなりすぎて、気軽に誘うわけに行かなくなってしまった。
作品だけが残った。
私には、特別の愛着のある半歌仙、大事にとってある。


卯月
2003年04月01日(火)

早くも四月。
今年の冬はとりわけ寒かった。
冬の静謐な季節の好きな私だが、さすがに、早く春が来ればいいと思った。
ロンドンにいた時、イギリス人が、いかに春の訪れを待っているかを、つぶさに感じることがあったが、それに近い気持ちだった。
しかし、米英のイラク攻撃が起こり、地球上には、春の喜びを、味わえない人たちがいる。
平和的解決は、望めないのだろうか。
戦争は、憎しみと破壊、いわれなき死をもたらすだけである。
不安そうな目をしたアメリカ兵、彼らも、戦争など望んではいない。
愛する妻や子、恋人を故国に残して、砂漠の中で、苦しい戦いを強いられている。
若い命を、無惨に戦場で散らす残酷さ。
それは迎え撃つイラクの人たちにとっても同じだ。
人類は、今までの歴史の中で、数限りない戦争を繰り返してきた。
その中で、失ったものはもちろんだが、学んだことも多いはず。
沢山の人たちの屍の上に、今日の繁栄があるのだ。そのことを忘れてはならない。
早く戦争が終わって欲しい。

この1週間ばかり、ぐっと暖かくなった。
この冬はことに寒かったので、冬の好きな私でも、早く暖かくなって欲しいと思ったものだ。
幸い、インフルエンザなどにも無縁で過ごしたので、元気ではあったが、やはり、朝は起きにくく、一日の始まりが遅くなるので、家事など、ずいぶんいい加減になり、怠けてしまった。
連れ合いも、心の中では苦虫をかみつぶしているのだろうが、なにか言えば、「じゃ、あなたがやって下さい」と、言い返されるのがわかっているので、黙って我慢しているのである。
自分で食事を作ったり、洗濯したりするくらいなら、我慢するほうがいいというのが、長年かかって会得した、亭主の生きる知恵のようなものかも知れない。
よく、よそのご亭主の話をきくと、自分は何もしないくせに、やたらと口うるさく、奥さんを怒鳴る男が、ある年令以上の世代には、まだいるらしい。
うちの亭主が、そんな人でなくて、私は幸せである。
今日は、今まで着ていた長たらしいスカートを洗濯機に放り込み、短いものに変え、久しぶりに庭の水まきなどして、半日働いた。
一昨日、昨日と続いて、自分のサイトのネット歌仙、独吟が終わった。
この2ヶ月参加してきた、よそのサイトの百韻連歌も終わった。
しばらく、落ち着いて、ほかのことをしたい。


春愁
2003年03月31日(月)

若い頃、春というのは、憂鬱な季節だった。
一種のアレルギーなのか、いまで言う花粉症だったのか、よくわからないが、目が腫れぼったくなり、肌に湿疹が出来、いつも不快だったからである。
それが、17年ほど前に、大病してから、薬やなにかのせいで体質が変わってしまったのか、そうした症状は出なくなった。
それはいいのだが、私は、人がぞろぞろ集まっている環境がキライなので、冬の間鳴りをひそめていた虫が出てくるのと同じく、人間たちが外に出始めると、あまり愉快でなくなるのである。
好きなのは、11月半ばから2月終わり頃までの、(ただし年末年始は除き)寒いが静謐な季節だ。
1人で、静かに何かするのが好きな私にとって、この時期は、ほかに代え難い。
それが、3月も半ばを過ぎて、日が長くなり、人々が街に繰り出すようになると、なにやら落ち着かない気分になり、どこか、静かなところに行きたくなる。
春愁というのは、まさにぴったりである。
そんな話を人にすると、たいていヘンな顔をされてしまう。
「暖かくなったら会いましょうね」というのが、友達と電話して切る前の挨拶になっている。
確かに、風邪を引いたりする心配はなくなり、着ているものが軽くなる分、気持ちも軽やかになるのは違いない。
それと共に、主婦の私にとっては、冬の間怠けていた家の中の雑用をかたづけるストレスもあるわけで、春が来たと喜んでばかりはいられないのである。
一番憂鬱なのが、衣類の入れ替え。
考えただけで気が重くなる。
明日から4月。
しばらくネットに付き合う時間を削って、家の中を片づけねば。
いままで参加していた「百韻連歌」が昨日で満尾。
私の持っている連句ボードの歌仙も今日満尾した。
独吟も昨日で終わった。
新しい付け合いも始めたいが、今週いっぱいは、とりあえず、休むことにした。


弥生尽
2003年03月30日(日)

もうほとんど暖房しなくてもよいくらいになった。
日脚も延びてきている。
私の持っている連句ボードのうち、ひとつは、今日名残の花の句が決まり、あとは挙げ句を待つばかりである。
もうひとつのボードは、捌きを頼んでやっているので、時間がかかり、2月はじめから始まって、まだやっと半分過ぎたところである。
捌き役が、まだ現役のひとなので、3月は決算期にあたり、忙しく、なかなかプライベートのパソコンを開ける暇がなかったようだ。
独吟歌仙は、2月16日からはじめ、今日満尾した。
こちらは、自分の好きなとき、気の向いた時にやっているので、気晴らしにもなり、愉しかった。
こうした連作の場は、私の、ホームページ開設のきっかけでもあったので、これからも続けていきたいと思っている。
難点は、どうも連句という、マイナーな文芸のせいか、参加者が限られてしまうことである。
昨年1人、今年になっても1人、面識のない人が参加してくれているが、主力は、私と同じ連句結社の人たちである。
なんと言っても、説明なしに、すぐ入れるところが便利なので、つい、メンバーに誘ってしまう。
5人のうち、1人は新人を入れたいと思っているところである。
4月から、どんな風にやるか、ちょっと思案している。

午後、散歩を兼ねて、2キロほど離れた本屋に行った。
本は置くスペースが、これ以上ないので、買わずに、図書館で間に合わせているが、新しい本は、手に入りにくいので、時々リサーチに本屋へ行く。
いまどんな本が出ているか、どんなものが売れているか、本屋に行くと、世の中の動きまでわかって面白い。
4月始まりの手帳を買ったついでに、文庫本3冊、やはり買ってしまった。
山本夏彦「完本文語文」、斉藤明美「高峰秀子捨てられない荷物」、会津八一「自註鹿鳴集」。
まずは肩の凝らない斉藤明美から。
大女優デコちゃんの知られざる素顔を、身近にいた女性が書いていて、なかなか興味をそそられる。


日のうつろい
2003年03月27日(木)

少し風はあるが、暖かい一日だった。
郊外の植物園内で、恒例の集まりがあった。
年に一回、花見時に開かれる。
私の家から近いところなので、早めに着いた。
主催者の人が、会場作りを手伝って欲しいというので、そこに居合わせた5人ほどで、先に会場に行った。
開会には、1時間以上ある。
人数分のテーブル、椅子を並べ、弁当や菓子を配り、魔法瓶にお湯を入れたりの支度もして、私は、受付を引き受けることになった。
来た人から会費を集め、座席表を渡す。
そこに、思いがけない人が現れた。
昨年7月以来、交流が途絶えてしまったS氏であった。
彼は、会場に入ったとたん、受付にいる私と、真正面から出会わせることになり、何とも言えない顔をした。
予期してなかったところに、私がいたという感じであった。
「お久しぶりです」と私は言ったが、返事はなかった。
それは、返事をしたくないからと言うよりも、咄嗟のことでことばが出なかったと言った方がいいかも知れない。
このところ、連日イラク攻撃反対のデモや活動に身を投じているらしいと、人づてに聞いていたが、そのためなのか、表情には、疲労の色が濃く表れていた。
「会費を頂けますか」と私は言い、2000円をもらって、引き替えに座席表を渡した。
「どこかなあ」と言いながら、彼は、自分の席を探すべく、離れていった。
この会には、彼も、ずっとメンバーとして参加してきたのである。
でも、今日は欠席するらしいと、昨日ある人から聞いていたので、私にとっても突然のことだった。
私が主催者から預かった出席者名簿には、彼の名が、入っていたが、後から変更したのだろうと思い、その理由を忖度することもせず、受付を手伝っていたのだった。
8ヶ月ぶりの、顔合わせだった。
あることで、訣別して以来、私は、こんな場面を想像してみたことがある。
想像するだけで、私の胸に、じわっと悲しみが押し寄せて、涙が溢れてくることがあった。
その時には、どんなことばが出てくるだろう、そして彼は、どんな顔をするのだろう・・。
でも、月日が経つにつれ、そうした思い入れのようなものは、どこかに沈潜してしまったらしく、予期しないときに迎えた「邂逅」の場面は、実に事務的かつ、感情のこもらないものだった。
やがて時間が経ち、それぞれの席でのプログラムが始まった。
彼の席は、偶然私と背中合わせの、隣の席だった。
背中越しに、時々聞こえてくる彼の声に、耳をそばだてるでもなく、私は自分の席の連句に集中し、うまく雰囲気をつかんで、ひとより多くの句を採ってもらうことが出来た。
後ろを向けば、すぐ小声で話が出来るところに彼がいる。
しかし、どちらからも、互いに顔を向けることも、話しかけることもなく、時間が流れた。
30人以上の人たちが集まっての会は、話し声が絶え間なく聞こえ、華やいだ雰囲気に包まれていた。
しかし、その合間に、彼のことばが、ふっと耳に入ってくることがあった。
控えめではあったが、席にいるメンバーに、戦争の悲惨さを訴えているのだった。
その席での様子はどうだったのか、知る由もないが、終わると彼は、周囲の誘いを断って、すぐに帰っていった。
私は、いつもの仲間と一緒に、近くのそば屋に入り、1時間ばかり談笑して店を出た。
日が長くなり、6時近くになっていたが、まだ明るかった。
園内の桜は、まだうっすらとピンク色に染まるくらいで、昨年より開花が遅れていた。
2年ほど前、この会で、違う席にいた彼が、先に予定が済み、私のほうが終わるのを、それとなく待っていたことがあった。
出口まで一緒に歩いているとき、私は誰かから、そば屋に誘われた。
「行きますか」と彼に言うと、「イヤ、私は飲まないから」と言って、そのままバス停に歩いていった。
酒を飲まない彼は、そうしたつきあいは、あまり好まないようであった。
話したいことがあり、コーヒーにでも誘えばよかったなと思いながら、私はそのまま、誘われたそば屋に、みんなと行ったのである。
その前後の半年ばかりの彼とのつきあいが、私にとっては、最も充実して、愉しいときだった。
文芸に造詣が深く、詩的感性のすぐれた彼から、私は、それまでにない、さまざまなことを教えてもらった。
ひとつの開眼と言っていいかも知れない。
それが、望まぬ形で、断ち切られたのだった。
バスに揺られながら、去る者は日々に疎しというのは、本当だなあと思った。
一時は、心の中にいつも深く位置を占めていたひとが、時の流れと共に、紙のような存在になっていたのだった。
彼のことば、彼の心の有り様を、いつも気にしていた私の心は、別離の悲しみを和らげるために、押し込められ、石のようになってしまったらしい。
これでいいのだ、それを乗り越えたところに、いまの私の詩心があるのだと、自分に言い聞かせながら、八ヶ月という時間の流れを思ったのだった。


ノンポリ
2003年03月25日(火)

私はいわゆる活動家ではない。
若いときは、ハシカのように、左翼思想に走ったり、学生運動に明け暮れたりする人の多い中で、私はどちらかというと、無関心だった。
大学に入ってすぐ、原水爆禁止のデモに行ったことがあるが、上級生の強引な指図ぶりに嫌気がさして、すぐやめた。
女子大では、あまり過激な人はいなかったのだが、ほかの大学から、男子学生がやってきて、運動に勧誘するのである。
その手下のようになって、私たち新入生を、あごで使おうというところが、カチンと来たからである。
左翼社会では、思想と別に、結構な男女差別があって、女は人間と見なされず、もっぱら男どもの走り使いや、彼らの汚れ物の洗濯、炊事に使われたりする例も聞いた。
プロレタリア文学の中にも、そうした描写が出てくる。
私は、普通のサラリーマンの娘で過ごしてきて、生活の中に、左翼の匂いはなく、必然性も感じていなかった。
ただ、何でも見てみたい若さの好奇心のひとつに、高校生までは、禁止されていた、社会活動、その一つとしてのデモがあったのである。
典型的ノンポリ学生の私だったが、安保闘争が起こり、樺美智子さんがでデモの中で命を落としたときは、さすがに黙っていられなくなり、級友たちと、国会前に座り込んだ。
このときの一連の体験は、私の心に深く刻まれている。

今度のイラクに対する米英の攻撃、日本の若い人たちは、どう思っているのか気になる。
関連サイトを見ると、若い人たちが、戦争反対デモに多く参加し、真面目に考えている人が、多いのに、感心し、少しホッとする。
戦後の長い平和と、物質的豊かさの中で、いまの学生たちは、何を考えているのだろうと、時に、疑問がわいてくるような空気を感じていたからである。
捨てたもんじゃないなあと思う。
私たちの若い頃はこうだったなんていってみても始まらない。
どんなに悪い平和でも、偽りの平安であっても、戦争よりはましだといった人がいて、私もそう思う。
戦争は、破壊、憎しみ、悲惨さを生み出すだけで、何も残らない。
だから、ノンポリ主婦の私も、自分のサイトでは、戦争に反対する考えを表明しているのである。
連れ合いは、アメリカが戦争に至ったのは、仕方がないと言う。
理屈はともかく、戦争はイヤだという私と、意見を異にする。
テレビでは、捕虜になったアメリカ兵の不安そうな表情を映し出していた。
攻撃によって死んだイラクの人たちも、命令によって、戦いに赴いた兵隊も、決して心から望んでいない場面に立っているのである。
早く、戦争が終わって欲しい。
それを願うことしかできない。

私の持っている掲示板で、考えを表明し、サイトのトップでも、戦争反対の意思表示をしているが、そのせいかどうか、掲示板の書き込みもなくなってしまった。
人さまざま。それもやむなきことである。
サイトは、私自身のためにあるのだから。


桶屋の風
2003年03月24日(月)

「桃李歌壇」というサイトの「百韻連歌」に参加している。
初めのうちはゆっくりした進み方で、日に一度、それまで投句された句の中で、主宰が吟味して捌き、次の句を募集するというやり方で進んだ。
初折の裏に入るところから、句を採られた人が次の付けを一回休み、その代わり、次の句の選句をするというやり方に変わった。
選句した句をさらに主宰が吟味して治定、次を募集するので、同じくゆっくりのペースで初折が終わった。
2の折に入り、膝送りが終わってから、出勝ちにになった。
速く出した人の句を採る。
採らない場合は、返句する。
それを見定めて、同じ人、あるいはほかの人が、違う句を出す。
このやり方で、付けはどんどん進んだ。
3の折に入り、はじめの6句は、決められた人たちの膝送り。
7句目から、競作と出勝ちをミックスしたやり方で、やはり、かなり進み方は速い。
いま、3の折の裏の、終わり2句目まで来ている。
パソコンを開けたとき、自分の感性に合った句を付けられそうなときに、ポット浮かんだ句を出し、思いがけず、採られたりする。
私の採られた句の中で、一番速かったのは、今日、主宰が募集を顕示して3分後に付けた句であった。
前の人が、遠いところで戦争を聞く、というような句を出して、治定されたので、思わず付けたのが、

柔東風吹いて転がった桶

というものであった。
そこで、パソコンを閉じて、郵便局に行き、帰ってくると、その句が採られていた。
「早技ですね」との主宰のことばだったが、これは、技というようなものでなく、たまたま前句と私の感覚が、うまく合ったと言うことに過ぎない。
戦争は、悲惨を生み出すものだが、他方では、そのことによって、儲かる人間がいるのである。
イラクに仕掛けた戦争が、果たしてアメリカ、イギリスの言うような、「正義のための戦い」だけであるかどうか。
石油の利権を巡る、戦後の動きが速くも水面下で行われている現実。
風が吹けば桶屋が儲かるという、言い慣らされたことばに、皮肉を込めたつもりであった。
日本では、平和でのどかな春の風だが、かの地では、激しい戦争の嵐が吹きまくっている。
そんな思いも込めた。



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