沢の螢

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「薮原検校」
2003年07月14日(月)

「藪原検校」をみる。
新国立劇場。この芝居は10年以上前に一度見ている。
その時は、検校役に原康義、塙保己一が藤木孝であった。
舞台に繰り広げられるブラックユーモア、鋭い人間批判に圧倒された。
検校とは、座頭である。
背景は江戸時代、田沼から松平定信に変わる頃、東北の貧困の家に生まれた主人公は、生まれながらの盲人である。
父に死なれ、食うや食わずで育った主人公は、母親を殺して江戸に出る。
座頭がのし上がるためには、その最高の位である検校になるのが一番の出世の道で、そのために彼は、あらゆる悪事を重ねる。
師匠である薮原検校の妻と通じ、師匠を殺し、2代目薮原検校に上り詰める。
最後に捕まって三段切りという、残酷な刑を受けるのだが、芝居の展開の中でふんだんに発せられる、いわゆる差別語、そのそこに籠めた健常者といわれる人たちの偽善を暴いてみせる。
主人公と対照的な人物として、学問に生きる高潔な塙保己一が登場するが、これを演じた藤木孝は、偽善の持ついやらしさを、たっぷりと表現して、見事だった。
「薮原検校をどういう刑にしたらいいか」と、お上に聞かれて答えたセリフの、ぞっとするようなもの凄さを、覚えている。
お上への民衆の不満をかわすための祭りのひとつとして、検校の死を盛大に利用することを提案する。
デフォルメされた検校の体が舞台に持ち込まれ、胴が切られ、頭がはねられ、最後に残った首から、食べたばかりのそばが流れ出る。
それを見て、狂喜乱舞する民衆。
舞台を見ている観客も、その中のひとりだよと言っているかのようなグロテスクな幕切れは、刺激的で、たっぷりとアイロニーを含んで印象深い。
狂言回しを金内喜久夫、これは前から変わらない。
検校役は若手の役者に代わり、堅さはあるが懸命に演じて好感が持てた。
塙保己一は、重要な役であるが、今回、別の役者に変わって、少し、印象が薄かった。
これは、藤木孝でもう一度見たかった。


バス小景
2003年07月06日(日)

いつも乗るバス。
込んでいる時間ではないが、席は埋まっており、立っている人が、4,5人いた。
停留所で、年の頃70くらいかと思われる女性が乗ってきた。
少し席を見回すような風だったが、空席がないと知ると、前のほうの吊革につかまった。
それを見て、近くの席に腰掛けていた男性が、「おばさん、ここにすわんなよ」と声を掛け、すぐに席を立った。
言葉は、丁寧ではないが、スポーツ刈りの、人当たりのよい感じの人だった。
「おばさん」は、そちらを見たが、「いえ、もうすぐに降りますから」と、いいにくそうに断って、そちらに行こうとしなかった。
私には、その理由がわかった。
男性が譲ろうとした席は、ちょうどバスの車輪が下に来るところで、他の席より、少し高めになっている。
足をおろすところが狭く、年配者や、タイトスカートの女性には、大変座りにくい席なのである。
立つ時にも、窮屈で、少し手間がかかる。
「おばさん」は、それがわかっているので、親切には恐縮しながらも、辞退したのであった。
女性なら、みな覚えがあるので、わかることだが、人の良さそうなその男性には、そうしたことは、想像出来なかったのだろう。
せっかくの親切が宙に浮いた感じで、彼は「どうしたの、座らないのか」といった。
別に腹を立てているようではなかったが、彼にしてみたら、自分の譲った席に、座って欲しかったに違いない。
「おばさん」のほうも、人の親切を断ってしまったという申し訳なさがあり、逆にますます座りにくくなり、ひたすら、自分の降りる停留所に着くのを待っている風情になっていた。
いくつかの停留所を過ぎ、「おばさん」は降りていった。
件の男性の目を避けるように。
男性のほうも、一度立った席にもう一度座る機会を失ったように立ち続けた。
親切の行き所をなくした空席は、ついに誰も座らぬまま、終点の私鉄駅に着いた。


「君の名は」
2003年07月03日(木)

木曜夜10時からの韓国ドラマ「冬のソナタ」を愉しみに見ている。
すれ違い、いくつもの枷、結ばれるべきカップルの間に次々襲いかかる嵐、メロドラマの王道を行くような作品だが、美男美女が、ヒーロー、ヒロインを演じて、昔なら多くの女性のハンカチを、涙でぐしょぐしょにしたであろう作りになっている。
車や携帯電話、ヒロインが働く女性である点など、現代の社会的状況を取り込んではいるが、そこに流れているのは、太古から少しも変わらぬ、恋する男女の心理と、リアクションである。
そこで思い出すのは「君の名は」。
最初は、ラジオドラマだったらしい。
放送時間には、銭湯の女湯がからになるという「神話」が残っている。
私は、「笛吹童子」のほうが面白い年頃だったので、放送は聴いていなかった。
放送が終わると、次の年に映画化され、大変な反響であった。
続編、続々編も作られ、愛し合う二人が苦難を乗り越えて、やっと結ばれるところで、完結した。
私は、近所の子ども達と、やはり近所に住んでいたお兄さんに連れて行ってもらって、第一作目を見た。
ヒロイン真知子を演じたのは、売り出し中の新人だった岸恵子、当時19歳。
恋人春樹は、佐田啓二。敵役が川喜多雄二。
真知子をイビる姑役が市川春代。
そして、このドラマには狂言回しとして、二人の蔭で、何かと世話を焼く女性(役名は思い出せない)が登場するが、それを演じたのが、芸達者な淡島千景だった。
監督は、大庭秀雄。
なぜそんなことを覚えているかというと、そのころ、娯楽は、本と映画しかなかったので、細部に渡って、よく記憶しているのである。
岸恵子は、この映画の中で、最初から最後まで、泣き通しである。
典型的な美女、ホッソリとした容姿、いつもうつむき加減で、あまり自分の意志を出さないヒロインの役を懸命に演じたらしい。
キャストは、最初、津島恵子と鶴田浩二が有力だったそうだが、あとで代わり、結果的にはそれでメロドラマとしては成功した。
岸恵子は、この映画ですっかりスターになり、数々の作品に出たが、「君の名は」の真知子のイメージから脱するのに、苦労したらしい。
その後、演技派の久我美子、有馬稲子と「にんじんくらぶ」を設立、徐々に単なる美人女優から存在感あるスターになっていった。
フランスとの合作映画が縁で、イヴ・シアンピと結婚。
それ以後の生活の大半は、彼の地で過ごしている。
フランスから一時帰国した時、NHKの強力な口説きにあって、大河ドラマ「太閤記」の、お市を演じたが、もはや「真知子」の岸恵子ではなかった。
その後の彼女の活躍は、演技者に留まらず、何冊かの著書も出して、オピニオンリーダーとしての側面も加わっている。
佐田啓二は、私の好きな俳優だったのに、交通事故で亡くなってしまった。
十数年前、NHKが、何を思ったか、「君の名は」をテレビドラマとして、リバイバルさせた。
鈴木京香が真知子を演じた。
しかし、やはり時代が違う。
すれ違いも、枷も、今の社会的状況とはあまりに合わなくなっている。
嫁いびりということが、今の社会では見られなくなっているし、男女の関係は流動的である。
ひとりの人を、十年も思い続けるということが、想像しにくい。
すれ違いも、通信手段や交通網が発達した今となっては、決定的な障害とはならない。
ただ、人の気持ちは、永遠に変わらない点もあるから、その意味では、普遍だが、それだけで、状況を変えて一年間続けるには、無理があったと見え、あまり芳しくない批評のうちに終わってしまった。
「冬のソナタ」を見ていて、古典的メロドラマの枠を脱してはいないながら、あまり違和感なく見ていられるのは、韓国の状況が、日本に比べると、まだまだ儒教の精神が生きており、ドラマの成り立つ要素は多いということかも知れない。


ベスはなぜ死んだか
2003年07月02日(水)

少女の頃、何度となく読み返したのが、ルイザ・メイ・オルコットのリトル・ウイメン「若草物語」である。
もうひとつは「モンテクリスト伯」だが、対照的なこの本については、別の機会に取り上げる。

最近私は、興味深い本を読んだ。
ロイス・キース「クララは歩かなくてはいけないの?」という本、(少女小説に見る死と傷害と治療)という副題が付いている。
作者は、欧米で、昔から子どものために「よい本」といわれているものを読んで育ち、その中で少年向きの本と、少女向きの本とのちがいを感じながらも、現実とは違った世界を愉しんでいた。
「ジェイン・エア」「ハイジ」「秘密の花園」「ポリアンナ」、そして「若草物語」もある。
これらの物語は、私も少女時代、面白く読んだものである。
ことに若草物語は、映画化されて、4人の少女を演じた女優達が、みな素晴らしかったこともあり、すっかり夢中になってしまった。
映像で見るアメリカの家庭生活、家具や調度品、少女達の長いスカート、決してハイクラスの人たちをモデルにしたのでないとはいえ、敗戦の色濃く残る昭和25年前後の、日本の子どもの目には、豊かな夢の生活に思えたのであった。
寿岳しづ訳の岩波文庫、「4人の少女」と名付けられた原作を読み、ジョーを演じたジューン・アリスン、エイミ役の美少女エリザベス・テイラー、ベスを演じて、日本にも来たマーガレット・オブライエン、彼女たちの顔や姿が、活字の上を生き生きと動き出すのであった。
健全なアメリカ市民のモデルのような話は、成長期にあった私の興味を、いやが上にも引き立てた。

しかし、ロイス・キースは、「クララは歩かなくてはいけないの?」の中で、面白い理論を展開している。
作者は子どもの母となってのち、交通事故に遭って車椅子を使うようになり、娘達と共にこれらの本を読み返した時、別の見方をするようになったという。
それは、1850年以降の少女小説には、必ず次のような人物が登場するというのである。
なにかの事故か、名前のわからない病気によって麻痺になり、その麻痺が確実に治癒するという登場人物。
そのような境遇を背負った子どもが、物語の中でどのように扱われているか、ごく最近まで、作者の描き方は、主に二つの方法で為されていたという。
そのような人物が自分の道徳的欠点を直すことによって突然歩けるようになる。
あるいは、病弱であり、障害を持ちつつ、現実にはいないような素晴らしく気高い精神を持った少女の、早すぎる死である。
時代背景としては、当時、症例の多かった小児麻痺があり、それによる子どもの死亡率は高かったらしい。
当時の医学では治療の見込みのないことに対して、なぜ物語の中でそれが可能なのか。
作者は、そこに、「いい子になれば治るのよ」と子どもに教訓を与える、物語の作者の意図があることを指摘している。
もうひとつは、身体に障害があったり病弱であったりする子どもの、他の人たちへの影響についてである。
「若草物語」の中で、他の3人の姉妹と違って、最も心根の優しい、清らかな魂を持ったベスが、よくわからない病で死ぬ。
そのことで、ベスを心のよりどころにしていた男勝りのジョーが、大変ショックを受け、「期待される少女」像に少し近づく。
創造力に溢れ、バイタリティに富んだジョーの姿はもはやない。
ベスの死によって、彼女は、家族への愛に生きる女に変質する。
当時、健全な家庭の少女達が受けた教育のように。
そのために、ベスの死が必要だったのだ。
童話に登場する魔法使いのおばあさんが、なぜ揃って、背中が曲がっているのか、悪者はなぜみな醜い姿をしているのか。
何げなく読んでいた懐かしい物語を、別の視点から見ると、今まで見えなかったものが見えてくる。
なかなか刺激的な本だった。


文月
2003年07月01日(火)

きょうから今年も後半にはいる。
7月、文月とも言う。。
風待月、蝉羽月というのは旧暦の水無月の別称らしいが、このへんは歳時記でも、晩夏として一緒になっている。
私の誕生月でもあるのだが、本当は、4月に生まれたらしい。
昔はよくあったことらしいが、役所に届けるのが遅れたそうな。
はじめて生まれた子なのに・・と思うが、当時は珍しいことではなかったらしい。
お産の日、母はひどい難産で、一度は母親の命と引き替えに私は、この世には生まれてこない筈だったという。
「それなのにお父さんたら、お花見に行って、酔っぱらって全然いなかったのよ」と母が、話してくれた。
母を病院に連れて行き、お産が済むまで待機してくれたのは、父の義兄であった。
この話で、私が花見時に生まれたことはわかる。
だから子どもの時の誕生祝いは、いつも4月だった。
いつからか戸籍上の7月に直されたが、多分、戸籍謄本などが必要になる時があって、その機会に直したのであろう。
もうずっと7月を誕生月として過ごしているので、私にとっては、こちらが本当である。
結婚して、私の実家で古いアルバムを見た夫が、「きみ、確か7月生の筈だよね。どうして、5月の写真があるの」と訊いた。
母に抱かれて写った写真の下に、日付が書いてあったのである。
両親も、私も、何度も見ている写真でありながら、不思議に思わなかったのであった。
他人の目で見た夫だから、そんなところに目を止めたのであろう。
それから夫は、時々私をからかって「君は、年齢詐称だぞ」といった。
この頃そんなことも言わなくなったのは、すでに夫婦としての時間が、娘時代を大きく上回り、今更、3ヶ月くらいの誤差など、誤差のうちに入らないくらい、人生を過ごしてきたと言うことであろう。
たまに「私、ホントは4月生なのよ」と言ってみると、「きみは7月だよ。今更直したってダメだよ」と、夫のほうが言う。
だから私は、7月生、誕生花は百合、誕生石はルビーである。
それが私の人格の一部になっている。


六月尽
2003年06月30日(月)

まだ梅雨は明けないが、きょうで今年の半分が終わる。
今年に限らず、この15年は速かった。
黒柳徹子が、いつかテレビで「50歳過ぎる頃から、10年が束になって飛んでいく感じ」といっていたが、まさにその表現がぴったりである。
昭和さえ遠くなりけり春の雪
と友人が詠んだのは3年前。草田男の本歌取りである。
昭和が平成に変わってすぐ、英国から帰国したが、平成という年号が、なかなかなじめなかった。
いつも昭和の年号に切り替えて、考えていた。
この頃は、あまり抵抗なくなり、会話の中でも平成が、普通に出てくる。
それだけ、平成になってからの生活体験が増えてきたと言うことだろう。
今、私は俳諧連歌の世界に身を置いているが、それは平成になってから始めたことである。
何でも10年続ければ、本物になるといった人がいた。
私の連句が、本物になっているかどうか解らないが、腰が据えてきたことは事実である。
いつ止めようかと思っていた最初の3年を過ぎ、だんだん面白くなり、この頃は、生活の一部になっていて、外出の用事のほとんどは連句関係だし、付き合う人たちの多くはそれである。
昨日は、浅草寺境内伝法院で、正式俳諧があった。
私とは違う結社の主催する会で、案内状が来たので、参加させてもらった。
同じ結社の人たちが7人ほどいたが、私は、個人として申し込み、彼らとは離れて、座を愉しんだ。
趣味の世界で、団子のように繋がって行動することはない。
結社の一員ではあるが、内部の行事に参加する以外の場所では、結社の人間であることは表に出さず、個人の名前だけで参加することに決めている。
他流試合は、面白い。
多少のやり方の違いが、かえって新鮮であり、発見もある。
正式が終わって、座に分かれての連句も、順調に進み、早めに終わった。
外に出ると、日曜日のこととて、雷門あたりは、沢山の人出であった。
人並みに紛れて、あちこちの店を冷やかしながら少し歩き、おまんじゅうなどつい買ってしまった。
地下鉄に乗り、帰途についた。
途中の本屋で、「芭蕉の恋句」他数冊新刊書を買った。
連れあいは、蒸し暑い東京を避けて信州へ。
今朝電話したら「こっちはインターネット環境が悪くてねえ」とぼやいている。
4月に行き、その時、いつも入れっぱなしになっている冷蔵庫の電源を切ってきたが、今回行ってみたら、中に黴が生えていたとか。
その始末が大変だったそうな。
私は、予定が断続的にあるため、今回は、東京に残ることにした。
しばらくお互い、束の間の独身生活を愉しむことにする。


女友達
2003年06月26日(木)

先週の土曜日、連句の帰りの飲み屋で、私は数人の人たちから、集中砲火を浴びた。
どういういきさつでそんなことになったのか忘れたが、いつも親しく呑んでいる人たちの間のことである。
私は、気の合わぬ人たちとは、あまり付き合わないし、ましてや呑む時は、男女もなく話が出来る人たちでないと面白くない。
その席にはちょっと先輩格で気を遣う人たちも2,3いたが、私の近くには、いつもの仲間が集まっていて、話が弾んでいた。
そのうち、誰かが「あなたは正直で、深くひとと付き合おうとするから、相手には負担になるのよね」といい、それに同調したひとが「もう少し広い気持ちで、ひとを赦さなければダメです」といい、さらにもうひとりが、「トゲに射されたくないから近づくまいとするひとと、とげに刺さってもいいから近づきたいというひとと、あなたを見る人は極端ですね」と、私を評したのであった。
彼らが、悪意で言っているのでないことは充分わかった。
なにか思い当たる事実があって、それぞれに、私に忠告、あるいは、気遣っているのだった。
前にも、「あなたはナイーブだから・・」と言った人がいて、多分、人付き合いの下手な私を、心配しているのであろうと、善意に解釈した。
しかし幾ら善意であっても、3対1はちょっとこたえる。
その時は、ケンカにならないように、引き下がったものの、内心穏やかではなかった。
特に、私より若手の男が言った「ひとを赦さなければ・・」という言葉に引っかかった。
店を出る時、「さっきあなたが言ったことだけど、誰を私が赦すというの」と訊いた。
すると彼は、困って、「イヤ、世の中には、いろいろな人がいるという意味です」と、はぐらかしてしまった。
ははあ、なるほど、「天敵」から何か聞いた話しがあるのだなとわかった。
この2年ほどの間に、私に大変非礼なことを言った男、私の人間性を貶めることを言った女、私を正当な理由なくグループから閉め出す策略をした女、その3人を「天敵」として位置づけている。
男のほうは、私だけでなく、特定の女性をターゲットにして、非礼なことを言う癖があり、だんだん顰蹙を買って、みんなから爪弾きされているので、この頃は、「天敵」のカテゴリーから外している。
弱い立場になった人を攻撃するのは、私の望むところではない。
しかし、残りの二人の女性は別である。
いずれも、庇護する男が沢山いて、強気だし、私より、優位にある。
何かをカサにきてものを言う人は、私の最も嫌いとするところであり、同性より、異性を大事にする人は、あまり信用出来ない。
私が「赦す」理由はないのである。
そんなことを私に「忠告」した人は、どんな事実を差して言っているのか判然としないが、どこでも誰とでもうまく付き合いたいタイプなので、どこかで、私に対する悪口でも、耳に挟んだのであろう。
呑み仲間であり、私に悪意がないことはわかるが、それだけの人と思うことにした。
もうひとり、「トゲ」の話をした人は、年上の男性だが、私を批判すると言うより、日ごろから兄貴意識でものを言う人なので、それも好意の表れと解釈した。
それはいいとしても、私と仲のよい人が言った「人と深く付き合おうとするから相手に負担になる」といった言葉が、心に残った。
二晩考えて、月曜日の朝、彼女に電話した。
「私は、あなたを友達だと思ってるし、今後もそのように付き合いたいと思ってるから、土曜日にあなたが私に言ったことに付いて、ちゃんと話しをしたいんだけど」といった。
彼女は、ちょっとビックリしたようだった。
社交的で、誰とでも付き合い、人気のある彼女は、私とは正反対、誰とでも仲良くするが、逆に誰とも仲良くないのである。
そんな風に、突き詰めて言われたことはあまりないのかも知れない。
でも、私の気迫に押されるように、その日、共通に出ている講座のあとで、時間を取って、話しをすることを約束してくれた。
そして、講座の終わったあとに向かい合った喫茶店で、彼女と、小一時間に渡って、話しをした。
「人の人格に関わることを言う以上は、具体的なことじゃないとダメよ。私が誰と、深く付き合っていて、誰が負担に思っているの」と聞いた。
彼女が答えた言葉から、ひとつのことが浮かび上がったが、それはかなり第三者の憶測の範囲を出ないものだった。
「勝手に、想像して、言ってもらっては困るわ」と私はいい、それに関して、事実だけを話した。
ほんのわずかな事実から、憶測が生まれ、話だけが一人歩きしていることがわかった。
「私は、浅く広く人と付き合うタイプだから、傷つかない代わりに、それだけのものしか得られないけど、あなたは、その逆だから、傷も深いのよね」と彼女は言った。
「それは生き方の違い、人との関わり方の差だから、お互いの生き方を認めるのが、友達じゃないの。私が、どんな付き合い方をして、どんなに傷つこうが、それは私が負うことであって、人から心配してもらうことではないでしょう」と私は言った。
店を出て、途中まで帰ってきたが、もうその話には触れなかった。
彼女が、私に善意で接してくれていることは確かだから、小さな裏切りはあったとしても、それを解った上で、付き合っていこうと思った。
何よりも、私は彼女の、天性の詩的感覚や、頭の良さを認めている。
昨日の会でも一緒だった。
終わってまた八人ほどで呑み、いい気分で帰ってきた。



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