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パソコンなどというものが、我が家に存在しない頃、通信手段は、1に手紙、2に電話だった。 6年前、まず連れ合いがノートパソコンを購入、IT教室に何度か通って、電脳生活に入った。 常勤の仕事を退いて、時間が出来たので、まずメールを使い始め、それから3年後にPCを買い換えて、念願のホームページを立ち上げた。 暇があるとパソコンに向かって、せっせと、ページ作りを始めた。 私は、機械ものがもともと苦手な上に、インターネットに偏見を持っていたので、はじめはまるきり関心がなかった。 特に、メールについては、あんなものと、内心ケイベツしていた。 速くて便利だとは聞くが、必要性は感じなかった。 メールにまつわるコワイ話も、新聞種になったりしたので、まず自分がメールを持つことはあるまいと思っていた。 しかし、連句作品などを清書するには、手書きよりワープロのほうが見やすいので、その都度連れ合いに頼んで、入力とプリントアウトを頼んでいた。 「しょうがないなあ」といいながら、1,2枚のことなので、手伝ってくれた。 連句の会を催すことになり、当番幹事を引き受けたことで、パソコンの出番が増えた。 気安く手伝ってくれていた連れ合いが、あまりいい顔をしなくなり、やはり私もパソコンぐらい出来ないとダメかなと思い始めた。 特に、会が終わって、作品集を作る段になり、人にものを頼むことの下手な私は、結局、連れ合いを煩わすことになった。 「今後は君も、自分でワープロぐらい出来るようになりなさい」と言われ、いよいよその時期が来たことを痛感した。 2000年の暮れ、市のIT講座に申し込み、どうやらメールの操作だけマスターした。 インターネットは、それから半年あとになる。 食堂の隣に、ささやかな私の書斎が建ち、自分の机とデスクトップのパソコンを購入して、私も電脳生活の仲間入りをした。 ADSLになり、インターネットの環境も良くなったので、あちこちのwebサイトを見て歩いた。 そのうちに、私もホームページを作りたくなり、ジオシティにアドレスを取った。 連れあいの使っているホームページ作成ソフトを入れて、ホームページを立ち上げた。 それが昨年初めである。 それから日々更新を重ねて、今日の形になっている。 私もメールアドレスを持っているが、一時は頻繁に使っていたメールを、最近は顔見知りの間では、事務的連絡以外には、使わないことを原則にしている。 便利ではあるが、使い方を誤ると、とんでもないことになる不快さを経験したからである。 顔を見てはとても言えないようなことを、メールでは簡単に言ってしまう。 手軽である反面、気遣いも、礼儀もない。 本来顔を見て、ちゃんと話すべき内容を、前置きなしに送って、相手がどう思うか考えない。 もともとメールは、気持ちを正確に伝えるには、大変不完全なものである。 不完全なものに不完全な返事を送って、本当の人間関係が成り立つわけはない。 相手のメールを削除もせずに、そのまま表示して返事をよこす。 ひどい人は、件名と関係ない分まで、貼り付けたままになっている。 「返信」とキイを押せば、返信モードになるので、削除の手間を惜しむのである。 こんな失礼なことは、手紙ならしないだろう。 感情的なことは、メールでは解決出来ないことが多い。 顔を見て言えないようなことを、メールなら言えると思うのは、間違いである。 ネット用のメールは、知らない人に、礼儀正しく、用件だけ伝える点で、重宝している。 ホームページは、顔の知らない人に向かって発信するのだから、メールをうまく使えば便利だし、画面で伝わりにくい情報を、補うことが出来る。 バーチャルな世界と現実とが混同して、見境が付かなくなった時、人を見誤り、錯覚の上に作り上げた幻想と実像との差異に苦しむことになる。 メールを始めた頃、連れ合いが言った。 「メールは人と仲良くするための道具、これでケンカをしてはいけません」。 今更ながら、この言葉を噛みしめている。 拝啓も敬具もなしのEメール機械のごとき言葉並べて
今日7月24日は河童忌、芥川龍之介の命日である。 37歳の若さで、睡眠薬自殺をした。 芥川作品の最初に触れたのは、小学4年の時読んだ「魔法」。 父が買ってきた子ども向けの読み物の中に入っていた。知らない人も多いと思う。 好きなのは「奉教人の死」。 クリスチャンではなかったらしいが、彼は、基督教にテーマを取ったものを、いくつか書いており、そのうちのひとつ。 火中に飛び込んで子どもを助けた少年が、実は少女だったという話は、読んだ当時、ひどく感動した。 彼の自殺を、文芸上の原因に取る理論が多いが、実は、その頃親戚の金銭問題に関わって、心労の極にあったということも伝えられている。 案外と、そちらのほうが大きいのではないかと推測する。 当時文藝春秋社にいた、親友の菊池寛が、お金を貸してやっていたら、芥川の死はなかったかも知れないという話を、どこかで読んだことがある。 真偽はともあれ、幼い3人の子と、年若い妻を残しての自死である。 いたましいことには違いない。 3人の男の子のうち、一人は戦死、一人は俳優の芥川比呂志、3人目は音楽家の也寸志となった。 20代の若さで残された妻は、未亡人として芥川の分まで長生きし、亡くなったが、まだ記憶に新しい。 河童忌や田端に急ぐ待ち合わせ 昨年作った句。自分では気に入っている。 今日は新宿で、連詩の三日目。 「18連作りたい」という講師の目標には届かなかったが、15連まで行って、お開きとなった。 「なるべく違う人の声を聞きたい」と言うことで、詩は、一人1連ずつ取られ、皆満足したようだ。 最終候補詩には、私も何度か読み上げられて、愉しかった。 終わって、同じビルの土佐料理屋で、打ち上げの会食を愉しみ、来年の再開を約束して、散会した。
梅雨明けはまだ先になりそうで、そのせいか、昨日今日は寒いくらいだ。 それなのに、電車の中も高層ビルの中も、異常なくらい冷房が効いていて、体が冷えてくる。 うっかりして半袖で出かけたら、電車の中で十分に体が冷え、カルチャーセンターのビルの中の冷房も、たっぷり効いていて、幸い夏用のスカーフを持っていたから良かったものの、終わる頃には、喉が少し痛くなった。 外に出ても、気温は高くなさそうで、歩いているうちには、体が温まってきたが、なぜあんなに人間の体を冷やすほど、冷房を入れるのだろう。 一度設定してしまうと、臨機応変に変えると言うことが出来ないのだろうか。 人間の体は、汗をかくように出来ているのに、真夏にセーターでも持ってきたいほどに冷やすというのは、少し異常じゃないかと思う。 多分、オフィスに働く男の人が、背広を着ても暑くないくらいの温度にしてあるのかも知れない。 昨日は、連詩の講座のあと、新宿駅近くで、メール両吟をした相手と、合評会をした。 私はパソコンから、彼は携帯メールから、互いに句を送信して、20韻を巻いた。 2月の立春に始めた付け合いが、なかなか進まず、終わったのが5月終わり頃。 打ち上げの乾杯をしましょうと言っていて、昨日になった。 出来上がった作品をそれぞれ批評し合って、気が付いたら7時になっていた。 食事をすることになり、デパートの上の方にある釜飯屋に行った。 冷酒を一本ずつ、それに釜飯、呑みかつ食べながら、そこでも話が弾んで、腰を上げたのが九時。 私がトイレに行っている間に彼は、さっさと勘定を済ませてしまい、払おうとしたら「きょうはいいですよ」というので、ご馳走になってしまった。 大勢で食事する時は、男も女も関係無しで、きちんとワリカンというのが、大体どこでも普通になっているので、男の人からおごってもらうのも、久しぶりのことだった。 連詩の講座二日目。 昨日は、ひとつも採られなかった私の詩、やっと今日、採ってもらった。 連詩だから前後があるが、ほかの人の詩を勝手に引用するわけに行かないので、自分の詩だけ載せる。 連詩七連目 インターネットのホームページに PEACEというロゴを貼り付けた 戦場に息子を送り出す母の目は 底の深い湖の色をたたえている 連詩は18連まで続けたいと講師は言うが、今日で10連終わった。 明日8連行くかどうかわからないが、終わってから、昨年と同じく、講師を囲んで会食をすることになっている。
私のサイトには、連句のボードがあり、そこで、付け合いを愉しんでいる。 ホームページ上に載せている二つのうち、ひとつが先日満尾、もうひとつも、花の句を募集中で、あと一両日中に満尾するはずである。 今の私の日常にしっかりと位置を占めつつある心遊び。 とてもエキサイティングで愉しい。 ホームページでは、このように連句浸りになっているが、実際の私の生活では、連句の占める時間は、それ程多くないし、より沢山の人たちと、別の場で繋がっている。 連れ合いを含めた学生時代からの付き合い、もうひとつの趣味である音楽を通しての交友、外国で一緒だったり、昔の仕事仲間や、大学の公開講座などでの付き合いもある。 そうした中で感じる様々な問題、常にいいことだけではない側面も含めて、それが、日々暮らしていくと言うことであろう。 どんな人でも持っている生活体験、人生の場面というのは、他人の目で見て、単純に推し量れないことも多く、たまたま見聞きした人の一面を、その人のすべてであるかのように思いこむのは、短絡的かつ傲慢なことであろう。 私が、折にふれ書いている日々の心覚えの中には、いろいろな場面が設定され、種々の人物が登場するが、そのことの事実関係と言うのは、実はあまり重要ではないのである。 学生時代の友人が、歌仲間になってみたり、中学時代の教師が、近所に住むうるさいおばさんに化けていたり、そんなことは、書く方も、読む方も、どうでもいいことなのである。 お役所の報告書ではないし、学生のレポートでもない。 ネット上の名前で、自分のホームページに何を書こうが、本来自由であろう。 政治、宗教に関する偏見、人種差別、特定団体や個人の情報を漏らしたり、実名をあげて誹謗中傷する、公序良俗に反する表現、そういうネット上のルールに反したことをしない限り、文章の書き方を、人に指図される理由はないのである。 今日は、「連詩」の講座に行った。 昨年一度行って、なかなか刺激的体験だったので、今年も案内が来てすぐに申し込んだ。 講師は女性詩人で、近年、連詩を多く手がけている。 今日は、講師の発詩、それに、二行詩と四行詩を交互に付けるというやり方で、五連まで進んだ。 私の出した詩は、ひとつも採られなかったが、それは二の次である。 静かに、正確な言葉で語る詩人の姿勢が、気に入っている。
海の日 6月7月8月の3ヶ月は、旗日がないと、ずーっと思っていたが、いつの間にか海の日なんて言うものが出来ていたのだった。 学校に行く子どもがいたり、現役で働いているひとが家にいないと、国民的休日なんて言うのは、忘れる。 郵便局から振り替えで送金する用事があり、午後から行ったら、締まっている。 そこで、ああ、そうか、今日は、連休の最後だったなと、思い出した。 まだ梅雨明けではないと見えて、毎日しょぼしょぼと雨模様。 家の中が湿っぽい。 暑くないからいいようなものの、気づかないうちに、あちこち黴が生えているんではなかろうか。 旅行社からシベリア旅行の案内が来た。 おととしシベリア鉄道1万キロというツアーに参加し、いまだにその続きのような気分があるが、昨年は、なぜかシベリア関係は無し、今年また計画があるらしく、前回の参加者に送っているらしい。 費用が10万円ほど高くなっている。 行きたい気はあるが、もう2年ほど間を空けることにした。 そんな折、とても興味のある話が入ってきた。 連れ合いの大学時代のクラスメートに、中国東北地方(旧満州)に仕事でちょくちょく行く人がいて、先日の集まりで話題になった。 満州で生まれたり、育ったりした人も何人かいて、一度行ってみたいという話になった。 気の合った7人が、年に3度ほど都内の飲み屋で会って、旧交を温めている中でのことである。 それならと、現地に詳しいその人が、みんなを引き連れていくことにしたが、「良かったら奥さんもどうですか」という話になったという。 「君は、行かないだろ」というので、「そんな機会またとないチャンスだから、行くわよ」と答えた。 旧満州を中心に、一般のツアーで行かないような処もあちこち歩くというので、是非行ってみたい。 来年の秋の予定なので、今から戦争中の歴史も含め、少し研究してみようかと思っている。
連句の面白さは、人との共同作品の中で、思わぬ世界が展開されてくるところにある。 森羅万象すべて含み、虚実取り混ぜて、その中に身を置き、心を遊ばせる。 実生活では、個人の些細な体験しか持っていなくても、連句の世界で、それをあたかも経験するかのごとき、広がりを愉しむのである。 文芸上の虚と実、そのあわいを愉しむ気持ちがないと、連作の世界には入れない。 たとえば恋句。 連句の一巻の中で、恋句は、ひとつの山場だが、ここは最も虚の世界を愉しむところでもある。 私は恋の座が好きである。 想像力と創造性と働かせ、波乱に満ちた恋の場面を作っていく。 自分の連句ボードでも、月や花はどうでもいいが、恋句は懲りたいほうだ。 あるとき、少しありきたりでない恋句をといわれ、それならと、少しきわどいが、メタファーで包んでいて、わかる人にはわかるという句を出した。 するとメンバーの年配の女性が、わからないというので、「わからないような句は、ダメですよね」と、それを取り下げた。 しかし、説明して欲しいと言われ、付け句の説明など、私の好みではないが、「こういう事です」と、一応説明した。 ところが、「へえ、そういう意味なの。あなたずいぶん経験豊富なのねえ」と言われ、ビックリした。 「いいえ、経験とは別ですよ。経験があると、その貧しい経験にとらわれてしまうけど、こんなものは経験のないほうが、自由に想像が働いて、いい句が出るんです」といったが、どうも、良く理解されないようであった。 そんな風な思いこみが、時にあるのである。 特に、女性に多い。 こういう人は、人の句を見て、そこに盛り込まれた内容が、作者の実体験だと思って疑わないのであろう。 何でも実際に経験しなければ句が作れないと言うなら、それこそ殺人までしなければならなくなる。 文芸の面白さは、ウソをいかに本当らしく思わせるかというところにあるので、それを理解出来ない人は、創作者としてのセンスに欠けると言わざるを得ない。 昔こういう話をきいたことがある。 昭和40年代はじめ、文学賞を取って作家デビューした女流の話である。 海外生活経験を持つ彼女は、そこに場を設定し、小説を書いた。 そこで生活する日本人の主婦が、街中で、ふと知り合った男と、行きずりのホテルに入っていく。 でもそれが小説のテーマではなく、変化のない日常のなかのけだるさをモチーフにして、その一つの場面として、ホテルが出てくるのである。 ところが、商社マンである作家の夫は、妻の作品が日本で賞を取ると、「あなたの奥さんは、アンナ事をしてるのか」というたぐいの質問に悩まされたという。 そして、小説に出てくる人物を、いちいち実際の人物に当てはめて、あれこれ詮索をするので、困ったという話だった。 「これは、私の小説のなかの人物で、どなたのことでもありません」と言ったそうだが、人間というのは、多かれ少なかれ、似たような状況で生きているので、思いこんだ人には、なかなかわかってもらえなかったそうだ。 「小説家を妻に持つと大変です」と、連れ合いは、嘆いたそうな。 プロの小説家ならずとも、なにかを表現する時、そういう問題はついて回る。 以前、シナリオの習作をしていた頃、生活経験のあまりない私は、新聞の記事や、見聞きしたことから、ドラマになるものを探し、それを材料にシナリオを書いた。 刺激的な事件やおどろおどろしいようなものは性に合わないので、もっぱら日常に近いところにテーマを求めて、書いた。 主婦を主人公にすれば、生活描写は、自分の体験が生かせるし、そこにドラマの肉付けをしていけばいい。 どこにでもいるような人物、どこにでもあるような場面で、しかしどこにもないような話を組み立てていくのである。 もし、それが映像化されたら、見た人は、「あら、私の事かしら」と思うような、場面が出てくるであろう。 人間の持っているいやらしさ、狡猾さ、あくどさ、やさしさ・・それらも、太古から持っている人間の本質だから、「まるで私の事みたいねえ」と思っても不思議はないのである。 でも、いささかでも文芸に携わっているひとなら、「私のことみたいだけど、でも私じゃないわ」と思うセンスがある。 連句をやっている時、良く「面影付け」などといって、そこにいるひとを彷彿とさせるような句を出したりするが、それを、その人そのままだとは、誰も思わないのである。 昨日の連句で、恋句を出すところがあった。 前からの流れの中で、古拙の微笑もこわばってしまうというような句を出した。 それに付ける句がなかなか出ず、あれこれ喋っている中で、「この頃は、キャリアウーマン達の中では、普通に結婚するなんて煩わしい、 それよりも、奥さんのいるひとを、ちょっとだけ借りる方がいい、身の回りの世話みたいな事は、全部奥さんに任せて、いいところだけ戴いて、付き合えばいい。そんなことを書いたものを、読んだことあるわよ」と私が言った。 もう一昔になるが、実際に、ある女性評論家が書いた記事であった。 すると「じゃ、それを句にして頂戴よ」と言うので、ちょうど短句の場所なので、 お借りするのはよそのご亭主 いう句にして出し、治定された。 二十韻一巻、そんな風に話題が弾んで、愉しい付け合いになって、散会した。 あとで、もし、その作品が公表されて、句の人物と同じ状況にある人が目にし、虚実の理解の出来ないタイプだったとしたら、それは自分のことだと思いこみ、文句を付けてくることもあるのかなあと、ふと思った。
ある人の告別式に行く。 夫も一緒である。 私たちは、大学時代、同じ混声合唱団にいた。 はじめは、プロの女性指揮者が振っていたが、1年目の終わり、指揮者がお産のため来られなくなり、学生指揮者で凌ぐことになった。 それが、きょうの告別式の主であった。 合唱団員は、みな音楽が専門ではないが、好きで集まっているので、かなり詳しい人たちもおり、最初の学生指揮者として選ばれたその人は、理科の学生だが、合唱にはアマチュアの域を超えたものを持っており、特に、宗教曲が得意だった。 モーツアルトの「レクイエム」をやることになり、1年がかりで取り組んだ。 私は、楽譜の係、当時は、今のようにコピーもなく、ガリ版で切った楽譜を使うのである。 勉強もそっちのけで、毎晩、楽譜を切るのに没頭した。 それを、部室で、男子学生に謄写版で刷ってもらい、みんなに配る。 今でも、ぼろぼろになったわら半紙の楽譜が一部残っているが、読みにくく、良くこんな楽譜でうたったものだと思う。 「レクイエム」は、ちょっとページが嵩むので、私鉄沿線の印刷屋に頼んで作ってもらった。 レクイエムは、今なら当然オーケストラつきだが、当時は、ピアノの伴奏だけだった。 12月の定期演奏会に、日本青年館で「レクイエム」をうたった。 その時の演奏はレコードになっていて、きょうの告別式の間にも流された。 二十歳前後の学生達の声は、幼いが、初々しい。 透き通っていて、今聴くと、美しい。 指揮をしたその人は、大役を果たすと、しばらく合唱から遠ざかったが、1年後にまた復帰して、小曲を振り、東北地方への演奏旅行の指揮者として、付いていった。 私は、演奏旅行の渉外担当として、行く先々の役所に、宣伝に行った。 雪の降る中での、秋田県での演奏会も懐かしい。 そんな事を思い出しながら、斎場にいたが、当時の合唱仲間が多数来ていて、速すぎる死を惜しんだ。 前から肝臓が悪かったらしいが、仕事に夢中で、病院通いも怠っていたらしい。 急に容態が悪くなり、救急車で運んだ時は、もう手遅れだったという。 「お酒が好きで・・。とうとう帰らぬところに行ってしまいました」と、その妻は挨拶の中で言った。 合唱団の中で、恋愛結婚した人である。 高くてきれいなソプラノの声を持つ人だった。 故人は、中学生の時、火薬遊びで片手を失い、右手の残った指だけで、すべてを自力でやっていたが、その詳しいことは、学生時代、誰の口からも、話題にすることはなく、きょうの告別式で、はじめて原因を知ったのである。 寡黙で、意志の強い人、周りから一目置かれていたが、話してみると、ユーモアのある、シャイな人だった。 音楽とは、終生付き合ってたらしいが、「あの方の指揮で、もう一度モツレクを歌いたかった」というのが、きょうの皆の感想だった。
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