沢の螢

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暑い!
2003年08月03日(日)

気温としては、それ程でもないのだろうが、ずっと梅雨寒の日が続いていたせいか、急に暑くなったようで、こたえる。
「こんな雨ばかりじゃ、行く気にならないよ」といって、出かける気配のなかった連れ合いが、明日から蓼科の小屋に移るべく、支度を始めた。
夏休みにもなり、昨日あたりから、あちらも、人口が増えていることだろう。
例年なら、とっくに東京脱出しているところ、梅雨が長引き、私は、東京での予定が詰まっているし、連れ合いのほうも、会合が重なって、まだ腰が上がらずにいた。
今回も、私は、6日連句、7,8は江ノ島での連句合宿、9日、新宿で連句、10日は、国立能楽堂に招待されているので、東京を離れるわけに行かない。
二人の予定が合わないので、とりあえず明日は、連れ合いだけ先に行くことになった。
11日には、私も特急あずさで追いかけることにしたが、18日には井上ひさし「頭痛肩こり樋口一葉」という芝居の切符を買ってあるので、そのために帰ってこなければならない。
連れ合いが、リタイヤしたら、夏のうちは、ずっと信州で過ごすのが、当初の計画だったのに、自由な身になってからのほうが忙しい。
少なくとも私は、連れ合いの現役中は、そちらに合わせて長年生活していたので、今頃になって、自分中心の生活が主となり、夫婦別行動が多くなって来たのは、何とも皮肉なことである。
元気で、自由な時間があるという証拠だが、本当は、もう少し、ゆっくりしたいものだ。

ホームページの改装を思い立ち、手を付け始めた。
時々、気分を変えたくなるのである。
壁紙を張り替え、写真や画像を入れ替え、レイアウトを変えたりしていると、面白くて、時を忘れる。
私のページは、連作の掲示板は例外として、全くの個人サイト。
どんなコンテンツを入れるか、また何を外すか、自分の意のままである。
知っている人には、こちらからはアドレスを教えないことにしているので、どこからか検索して、こっそり覗いている人があったとしても、それは、向こうの勝手、私のほうは、あくまで、ネット上の見えない相手に向かって、発信している。
市井で平凡に生きている女が、自分の頭の中で思いついたことを、どう書こうが、一吹きの風ほどの影響力があるわけではないのである。
ホームページなどというものを作るようになって1年半、二つのソフトを使い分け、複数のサーバーに分けて表示しているが、ファイルの中身も、大分ダブってきた。
全部合わせると、100ページくらいになる。
テーマによって、サイトを分けてみようかと、ファイルを見直している。
削除するものはひとつもないが、あちこちでダブって公開しているものを、整理することにした。
今日は、いつの間にかたまってしまった画像を、思い切って、かなり削除した。
それだけでも、空き領域が増えた。
信州に行っている間には、ディスプレイを修理に出さねばならない。
突然、画面の上の方に黒い横線が入ってしまい、メーカーに訊いたら、直るというので、入院させることにした。


「農民の歌」
2003年08月02日(土)

梅雨明け宣言は出ていないようだが、今日は久しぶりに晴れた1日だった。
気温も30度を超えるほど。
合唱の練習で、オリンピック青少年センターへ。
連れ合いと私は、大学時代、同じ混声合唱団にいた。
今年は、その合唱団の定期演奏会が50回目にあたるというので、ここ数年、OB、OGの集まりも活発になっている。
毎年秋に、現役団員との交歓会に、何曲かを歌うことになっていて、今年は、清水修作曲の「農民の歌」。
方言がそのまま歌になっていて、それを音楽的に美しく歌うのは、かなり難しい。
アカペラで、リズムがよく変わる。
現役時代も難しかったが、それから40年も経って、声も、リズム感も悪くなっているので、なかなかうまく合わず、指揮者が苦労していた。
午前中2時間の練習が終わり、みんなで食堂の昼食を摂って、散会した。
来年の定期演奏会には、OBにもワンステージどうかという声があって、モーツァルトのミサをやることになっている。
還暦を過ぎる年になり、仕事や子どものことから解放され、また、こういう遊びを愉しめるようになって、嬉しい。

2年前、プロのオーケストラ付属の合唱団に入っていたことがある。
オーディションを受けて、入団したが、あまりに練習がきつく、とても楽しんで歌うところではないと悟り、3ヶ月で辞めた。
毎週一度、夜2時間半の練習の他に、演奏会が近づくと、土日を含め、週3回の練習、しかも、演奏会の度に、出演オーディションというのがあり、それに合格しなければならない。
もちろん原語で暗譜、指揮者や、パートリーダーなどの前で、一人ずつテストを受けるのである。
入団した時、ベートーヴェンの「ミサソレムニス」の練習に入ったところだった。
9月の演奏会に向かって、6月からハードな練習が始まった。
12月の「マタイ受難曲」の練習も併行して始まっていた。
「ミサソレ」のオーディションは、8月の終わり頃。
だんだんみんなの目が血走ってくるのがわかる。
周囲は、みな競争相手なのである。
6月から入団した私たち新人は、最初のステージには、ほとんど出られないといわれたが、何でも経験と、受けてみることにした。
「ミサソレムニス」はラテン語、フーガの難しい箇所がある。
当日は、私は連句の合宿の帰り、リュックを背負ったままの姿で、試験場に行った。
行ってみてビックリした。
皆、数日前から、有料の練習場を借りたり、アルバイトのピアニストを頼んだりして、練習を重ね、試験に臨んでいるのである。
服装からして、違う。
旅行先から、そのままなどという不心得者はいないのである。
さんざん連句で愉しんで、私のアタマは、空っぽに近い状況だったので、試験など受かるわけはないのである。
指揮者が指定したページを、はじめはパート一人ずつの4人で歌い、次に、女性2人、男性2人に分かれて歌った。
中断せずに終わりまで歌ったものの、結果は聞かなくてもわかった。
36人の新人のうち、合格したのは、8人。
私のパートのアルトは2人だけ、いずれも若い人だった。
それから演奏会までの練習は、合格者のみが参加出来る。
「マタイ受難曲」の練習が、そのあとに始まることになっていたが、私は、そこですっぱり辞めた。
3ヶ月の練習で、時間的、肉体的に、厳しさは充分身に沁みたし、連句や他の楽しみとは、とても両立しないこともわかった。
もう少し若ければ、意欲もわいたかも知れない。
他のことを全部捨てるには、私は、欲がありすぎる。
中途半端にやっていても仕方ない、3ヶ月一流の指揮者などから、充分音楽的なものはもらった、これでいいと思った。
すぐに退団届けを出した。
「折角入団テストに受かって入ったのにもったいない。2回3回と挑戦していれば、出演の機会も来るのに・・・」と言われたが、迷わず退団した。
9月、「ミサソレムニス」の演奏会を聴きに、サントリーホールに行った。
大変素晴らしい演奏だった。
合唱の声はひとつにまとまって、完璧に近い出来だった。
私は、観客席から、惜しみない拍手を送った。

それ以後、合唱からは遠ざかっていた。
少人数で、ハーモニーを愉しめるようなところなら、行ってみたい気はある。
時々、調べてみるが、なかなか見つからない。
「モーツアルトのレクイエムをやるからいらっしゃい」と誘われたが、今ひとつ、考えあぐねているところである。


名残の夏
2003年08月01日(金)

今年の夏は妙な滑り出しだった。
冬が長く続き、春になったと思ったら、急に暑くなった。
そのうち、長い梅雨に入り、いまだにその名残である。
梅雨明け宣言は出たのだろうか。
まだ聞いていないような気がする。
気は若いつもりでも、年だなと感じるのは、外出が数日続くと、疲れがなかなか快復しないことである。
先週は三日連続で、新宿の連詩の講座に行き、1日おいて土曜日は、また連句の会であった。
今週に入り、水曜日に渋谷で連句に参加した。
きのうは母のところに行き、今日は、本当は美容院に行きたかったが、少し暑いせいか、体がだるく、結局家でぶらぶらしてしまった。
出かけている時は、元気で、ホットな気分でいることが多く、大体酒席にもマメに付き合って、帰ってくる。
気分が高揚しているので、その時は感じないが、次の日、ぐっと疲れを覚える。
パソコンに向かう時間も多いので、つい夜更かしになり、不健康だと自覚しつつも、気が付くと夜中の2時、3時という事がざらである。
ぐうたらな女房と苦々しく思っているらしいが、連れ合いのほうも、最近はあきらめてしまい、文句も言わない。
今日は、午後から散歩をかねて、郵便局に行き、遠回りして帰ってきた。
周辺の植え込みに、サルビアの花の赤さが目にしみた。
まもなく立秋。
夏らしい暑さの来ないうちに、歳時記は秋を迎える。
明日は学生時代の合唱OBで練習。
7日8日は連句の合宿で江ノ島へ。
参加者が多いらしく、男女ほぼ同数。
愉しい行事になりそうだ。




七月尽
2003年07月31日(木)

文月最後の日、両親のところへ。
母好物の最中を買って持っていく。
午後から出かけて、ちょうど三時のティータイムに着くぐらいが丁度いい。
父は昼寝していたが、しばらくして母が声を掛けると起きてきて、一緒にお茶を飲んだ。
母は私が行くことを言ってあったので、昆布の佃煮や、サラダ、炊き込み御飯を作って、待っていた。
父は、あまり自分から喋らないので、母の話を聞くことが主になる。
ケアハウスの住人の噂や、私のきょうだいのこと、孫のこと・・。
わずかに健在の、親たちの友人、知人の話もある。
ほとんどは、皆あの世に行ってしまったが、九〇歳を過ぎていれば、残っている方が珍しいのだろう。
5時半になったので、帰ることにした。
母の手作りの料理をタッパーウエアに入れてもらって、ハウスを出た。
道路から、2階の母達の部屋が望める。
二人が、ベランダから手を振るのに応えながら、見えなくなるまで、振り返りつつ、角を曲がった。
いつものように、もしかしたら、この次は、こんな風景は見られないかも知れないと言う思いが、脳裏をかすめながら・・。


水平思考
2003年07月30日(水)

亡くなった草間時彦氏が、連句をやる人は、垂直思考より、水平思考であるほうがよいと、あるところに書いていた。
その正確な意味は、よくわからぬが、たとえば、企業で、タテ社会の論理を最優先するタイプの人は、文芸にはあまり、向かないだろうと言うことは、何となく推測出来る。
最近連句友達から「あなたは水平思考だから連句に向いてますね」と言われ、草間氏の言を思い出して、これは勲章だと思った。
ただしその人が言った言葉には「私は垂直思考だから論文のほうが向いてるんです」というおまけが付いていたのだが・・。
その人の頭の中には、多分、水平思考より垂直思考のほうが、すぐれていて、アタマがいいのだという、考えがあったのかも知れない。
むかし、エッセイを書くグループに入っていたことがあった。
お互いに、身辺のことを書いて、小冊子にするだけのささやかなものだったが、そこに定年退職した男性が入ってきた。
書くことが沢山あるのでと、張り切って参加した。
毎回、せっせと、作品を発表した。
ところが、立派な文章を書くのだが、読んでいて、面白くないのである。
魅力がないといったらいいのだろうか。
女性達は、どちらかというと、文章は苦手だけど、何か表現したいと思って参加している人たちだった。
家庭内の些細な出来事、主婦の目で見た政治や社会に付いての意見、論理的ではなく、稚拙ではあっても、自分の身の丈にあったものを書いているので、それぞれ、その人なりの個性が出ていた。
ところが、件の男性の書いたものは、新聞か雑誌に出てきそうな非の打ち所のないような文章でありながら、その人らしさがどこにもなかった。
合評会でもその人の書いたものに話が及ぶと、あまり発言する人がなく、その人は、こんなシロウト集団でやっていられるかと思ったらしく、まもなくグループを去り、もっと、やりがいのあるところに移ったらしかった。
今思うと、その人は垂直思考のひとで、エッセイも、論文みたいな書き方をしていた。
独りよがりというのか、上から下に教え諭すようなくささがあって、やたらと難しい言葉を使い、どうでしょう、うまく書けてるでしょうという気持ちが、見え隠れしていた。
ご立派です、恐れ入りましたと、言うほかないのである。
読者に立ち入る隙を与えない。
そのようなものは、論文としてはいいかも知れないが、感動にはほど遠い。
うまくなくていいから、感動のある文章を書きたい。
連句の魅力は、自分の句だけで完結しないところにある。
次の人のために、余情を残しておく。
気遣いと発見が連句の命であろう。
文は人なりというが、連句も人なりと言えるかも知れない。
ミューズの神よ、我に詩心を与えよ。
人の評価は関係ない。
遙か高みに心を遊ばせ、魂の震えるような一句が出来たら、それでいい。


影の内閣
2003年07月29日(火)

私にはいくつかの趣味があり、それに伴って、いろいろなグループに身を置いている。
一番多いのが連句関係だが、地域で参加している短歌のグループ、朗読のボランティアをしていたころの集まり、また両親が家にいた時に付き合いの出来た、介護に関した会もある。
歌をならっていた時の付き合いも少しある。
学生時代の合唱のサークルも、最近になって、また活発化してきた。
それに全部付き合っていては身が持たないので、あちこち不義理しつつ、出来る範囲で顔を出している。
それらの集まりを通じて感じるのは、ある年齢以上の集まりは、総じて、しっかりした女性が仕切っているところの方が、うまくいっているということである。
女性は、割合公平だし、少なくとも、ハーレムを作ったりしない。
どこの集まりでも、数は女性のほうが男性を上回るところが多い。
そんな処で、男性がリーダーになった場合は、いろいろな意味で余程すぐれているか、逆にサービスボーイ的に、狂言回しの役に徹していないと、うまくいかない。
気に入った女を周りに置いて、ハーレムに君臨するがごときやり方をするのは、一番愚かで、マズイ運営の仕方であろう。
女性は、公平さを欠く扱いというのは、皆キライだし、そう言うことは、すぐに見抜くのである。
表面で取り沙汰されなくとも、「あの人、えこひいきするわね」という影の囁きとなって、ウラで伝わっていくものである。
知らぬは君主と、ハーレムの女あるじだけと言うことになって、いい話の種になる。

息子の妻が、職場での面白い話しを時々聞かせてくれる。
数年前、彼女は、同じ頃に入社したもう一人の女性と比較して、明らかに公平さを欠く扱いを上司から受けていたらしい。
要求された以上の仕事の成果を上げてるのに、評価は、なぜか自分のほうが低く、不思議に思っていたという。
第三者から見ても、彼女のほうが、より高い成績を上げており、周囲の人も、上司のやり方をおかしいと思っていた。
ある時、その疑問が解けた。
仕事のことで、上司の部屋に入った時、件の女性を膝に載せている上司の姿を、偶然目撃してしまった。
語るに落ちる話しである。
「その時どうしたの」と訊くと、「知らん顔して出てきちゃいました。向こうは気が付いたみたいですけど」と息子の妻は言った。
それから評価はどうなったか訊いたら、別に変わらなかったという。
「でも、それですっきりしたんです。評価が、仕事じゃないことがわかって・・」と彼女は笑っていた。
その後、会社は、日本経済の下降と共に、他と合併し、その上司もリストラされてしまったらしい。
息子の妻のほうは、その前に見切りを付けて会社を辞め、外資系の会社に再就職して、今は、部下15人を抱えて仕事している。
「私は仕事している時は、男なんです。それを今の会社は、評価してくれるからいいですね」と言っている。
彼女も、女を武器にはしないタイプ。
日本的常識のべったり染みついた以前の会社では、自分を生かせなかったのだろう。
どこにでもいる魑魅魍魎。
あの会を動かしているのは、ホントはあの人という、シャドウキャビネットの存在も、知っておくほうがいいのかも知れない。

今日、母のところに行こうと思って電話した。
すると出てきたのは、妹であった。
それならかち合わない方がいいからと、2日ずらすことにした。
私の一族のシャドウキャビネットは母である。
最近は老齢化が進み、昔ほどの精彩はないが、本人はまだまだ娘を操っているつもりなのである。
しかし哀しいかな、時々、ぼろが出る。
それを見るのがつらいので、他のきょうだいのいない日に、行くことにしている。
今日も、午後からひとしきり雨が降った。


逃げぬ男
2003年07月27日(日)

久しぶりの晴れ間。
夕べは「送り梅雨」という風情の、激しい雨が降っていた。
何度かこんな雨が続いたあとに、梅雨は終わり、かっと照りつける夏がやってくる。
今年は少し梅雨明けが遅いようだ。
涼しくて助かるが、冷害の影響があるかも知れない。

連れ合いが先程から庭仕事に精を出している。
隣のご主人と話している声が聞こえたので、訊いてみたら、境の塀の両側に伸びている下草の取り方について、相談していたのだった。
この隣人は、親の代からのご縁だが、お互い、節度をわきまえた付き合い方で、30年続いている。
まだ親の一人が存命中なので、代替わりしたわけではないが、長男に当たる人が、近くに住んでいて、時々留守宅のケアをしに来るのである。
私たちより少し年上だが、夫婦とも、つかず離れずの付き合い方の理解出来る人たちなので、隣人としては、最高である。
明治生まれの親たちは、私の父と同じ年だった。
そんなこともあって、ここに引っ越してきた時から、ずいぶん世話になった。
奥さんのほうは、短歌をたしなんでいて、若い頃、婦人記者をしていたという経歴もあり、そんな話題をかわしたこともある。
人付き合いの下手な私だが、なぜか私にはシンパシイを持っていてくれて、何かと庇ってもらった。
2年前に亡くなり、その連れ合いは、今病院にいる。
二人の息子も、良くできた人たちで、べたべたした付き合いはしないが、何かあった時は、黙って、お互いを気遣うという関係が続いている。
「隣は選べませんから」というのは、亡くなった奥さんの言葉だった。

我が家では、外交は連れ合いの役目、ケンカする時は私という役割分担が出来ていて、息子がいた時は、父親と同じ、外交を引き受けていた。
回覧板を廻すのは連れ合いの仕事、市役所などに文句を言うのは私の役目である。
普通の家とは、どうも分担が逆らしいが、長年の習慣でそうなったのである。
家にお金を運んでくる連れ合い、これから世の中に出なければならない息子が、世間から敵視されるのは困るが、私は、人によく思われなくても構わないと思っているので、敵役を買って出たのである。
でも、それは、家族の支えがあってこそ出来ることで、いざというとき、絶対に味方になってくれるという信頼感がなければ、敵役は出来ない。
昔からある嫁姑の問題、私の若い頃も少しあった。
出来すぎた連れあいの母と、気の利かないヨメである私とは、時に些細なことでケンカをした。
そんなとき、私が一番ありがたかったのは、連れ合いが、間に立って、正面から問題に立ち向かったことだった。
妻も母も、どちらも自分には大事、だから、逃げないという態度で通した。
時に、二人を前に並べて叱り、つまらないことでも、解決しようとした。
姑は70歳でなくなったが、私が連れあいの母を懐かしく思うのは、お互い本音で付き合えたからで、それには、連れ合いの態度が大きく影響している。
女同士の争いは、些細なことが原因であることが多い。
その時、間にいる男が、片方に味方したり、自分だけいい子になって、問題から逃げていたら、やがて小さな目の筈のことが、取り返しの付かないことにふくれあがることもあるだろう。
逃げる男。家長としては失格である。
逃げない男と、縁あって暮らしている私は、幸せと思わなければならない。



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