沢の螢

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終戦の日
2003年08月15日(金)

国民学校1年生で終戦を迎えた私は、玉音放送も、終戦の日の具体的な記憶もない。
むしろ記憶に鮮明なのは、「その後」である。
父の郷里に世話になっていた時の、母や祖父母、父の兄弟達との思い出、国民学校が小学校になってからのさまざまな出来事である。
東京から疎開してきた子どもは、いじめの対象になったし、食べるものや着るものについて、若い母は、父のいない婚家で、ずいぶんつらい思いをしたはずである。
その一部は、エッセイのページに載せているが、私にもいくつかの記憶の断片があり、しっかりと心に刻まれている。
戦争から帰ってきた父の痩せて小さくなった顔、化粧をするなと父に叱られて、泣いていた母のこと、母の着物を父の妹が着ていて不思議に思ったことなど、それら小さな事柄は、どこかで関連づけられていたに違いないが、子どもの理解を超えたことであった。
いまになって、記憶を繋ぎ合わせ、母の話などから、そうだったのかとわかることも、少なくない。
冬の寒い朝、東京での生活の基盤を作るべく、父は九州の小駅から旅立っていった。
母と私たち3人の子どもは、駅まで父を見送りに行った。
いま思うと、その時の父は35歳、現在の私の息子より若い。
戦争に行き、命あって帰ってきて、戦後の混乱の中で、子どもを育てたことになる。
父母の世代と、その子どもである私の世代と、何という体験の格差かと、驚く。
やがて東京で職を得て、下町の小さなアパートに住まいをしつらえ、父は家族を呼び寄せた。
そこで、もう一人妹が生まれた。4人きょうだいになったのである。
ここで、3年間暮らし、もう少し広い住まいを得て、引っ越した。
このへんの話は、いずれ書くこともあるだろう。

今日のテレビは、広島、長崎の記録も含め、人類が作り出した、核の問題を特集していた。
8年ほど前、丸木美術館で見た絵のことを思い出しながらテレビを見た。
吉永小百合の朗読、井上ひさしのメッセージが、印象的だった。


豪雨
2003年08月14日(木)

夕べから、ものすごい雨である。
台風が来ているのかと思ったが、そういうことでもないらしい。
こんな天気では、とても外に出る気にはならないが、連れ合いが買って置いた食糧が、尽きてしまったので、午後からスーパーに行った。
車で15キロほど行ったところに「西友」がある。
日用品、食料品、電気製品、ちょっとした衣類や寝具、簡単な家具などは、ここで買える。
果物、野菜、魚、肉、パンと牛乳、調味料、酒、それにティッシュペーパー、洗剤など買い込み、雨を気にしながら車に積み込んだ。
そのまままっすぐ帰って来た。
夕食にはカレーを作る事にした。
煮込み用のホーロー鍋に、具を仕込んで煮込み、さあカレールウを入れるという段になって、気が付くと、ルウがない。
いつも、こういうものは、常備しておくので、あるものと思いこんでいたが、そう言えば昨年、調味料やカレールウ、乾物、缶詰など、古いものは処分し、あとのものは全部、東京に持って帰っていたことを思い出した。
「隣から借りてこようか」と連れ合いが言う。
我が家の少し奥に、カナダハウスがあり、そこの住人とは、同じ頃家を構えたこともあって、会えば挨拶くらいはかわす間柄である。
いま、夫婦で来ていることはわかっている。
カレールウぐらいはストックしているかも知れない。
しかし、豪雨の中、暗くなった道を、懐中電灯を頼りに、奥に入っていくのも大変である。
カレーは明日でもいいからと思い直し、ほかのもので夕食を済ませた。
連れ合いは、巨人戦を見ながら食事を済ませると、少しパソコンをかちゃかちゃやって、寝てしまった。
いま、インターネットは、新種のウイルスがかなりはびこっているらしい。
しかし、こちらに置いてあるウインドウズ98は、そのウイルスには感染しないと言うので、私も連れ合いのパソコンに、自分のパスワードを設定して、ログインしている。
ネット用のメールはこちらで使えるし、標準アドレスのメールも取り込める。
ホームページも、webに表示されているページは、どこからでも見えるし、ゲストブックや連作用の掲示板などにも書き込めるので、支障はないが、ドキュメントを入れてこなかったので、日記や、ホームページの更新は出来ない。
仕方ないので、日記はメモ帳に書き込んでいる。
帰ったら、ソフトに移して、まとめてアップロードするつもりである。
ウイルスは困るが、私にとっては、「歓迎すべからざる客」に、土足で踏み込まれる方が、もっと困るし、不愉快である。
友好関係にない人のホームページなんか、わざわざ見に来ることはないではないか。
核査察じゃあるまいし、毎日の張り込みもご苦労なことだ。
昨日、不愉快メールが来た。
メールで人を傷つけ、それをメール一本で修復出来ると思っている。
ひとを甘く見ている証拠である。
バカな!
送信者禁止欄に、そのアドレスを入れた。
いっぱいになったゴミ箱から、それも含め、まとめて削除した。

終戦の日が近づいて、テレビは毎日特集を組んでいる。
うっかりして「冬のソナタ」を見逃すところであった。
あと2,3回で終わる。

雨に降り籠められて手持ちぶさたなので、しばらく休んでいた独吟を開始することにした。


森林浴
2003年08月13日(水)

昨日は怒りのあまり、つい、JR批判をしてしまったが、最後に付け加えることを忘れていた。
差し迫った状況を察知して、素早く対応してくれた窓口の人のことである。
5分後に来る特別快速に乗らなければ、私は目的の列車に間に合わないところであった。
私の前に並んだ10人ほどの客、誰かが文句を言えば、先に受け付けることも手間取ったに違いないが、その駅員は、その場では、特にそれを気にすることなく、事務手続きをしてくれた。
「皆さん、済みません」と私は先客達に言ったが、誰も無言ながら、仕方がないと思ったらしく、自分たちを飛び越しての事務手続きを見逃したようであった。
こんな時、ラテン系の人なら、何か言葉を掛けるところである。
ともかくも、駅員と、消極的協力をしてくれた先客達のお陰で、私は、列車に乗り遅れることは免れたのである。
かかった時間は正味2分ほど、コンピュータの入力が終わって切符が出てくるまでの時間の何と待ち遠しかったことか。
慌ててそのまま立ち去ってしまったが、あの駅員には、素直に感謝したい。

今日は、森の中を散策した。
晴れ間が見え、少し汗ばむほどだった。
歩くコースは大体決まっている。
家の前からなだらかな坂を下り、間道を抜けて幹線道路に出る。
渡って、売店に行き、ちょっとした食料品など買う。
お盆の時期は、朝市が立ち、土地の野菜、果物、日用品、ドライフラワーなどを並べて売る。
15年ほど前には、値段が安く、素朴な自然野菜などが手にはいるので、いつも出かけたものだった。
土地の人が漬けたたくあんや野沢菜、梅干しも魅力だった。
しかし、いつの頃からか、品物がスーパーにあるようなものになり、値段も観光料金になってしまったので、この頃は行かない。
散歩の途中の昼下がりの売店には、あまり買うものもなかったが、珍しい皮の赤いジャガイモ、それにパンとジャムを買った。
帰りは、逆のコースである。
坂を少し上り、森に入り、大回りして、違う道を行く。
俳優のT氏の家の前を通り、少し下ると、我が家である。
今頃は、例年なら周囲の家も、みな誰か来ているのだが、今年はなぜか、人が少ないようである。
天候不順なことも影響しているのかも知れない。
標高1100メートルのこのあたりは、気温が平地より5度ぐらいは低そうである。
カット照りつける夏の日差しの頃に、その良さを発揮する。
どんなに下界が暑くても、28度を超えることはないように思う。
晴れた日に家中を開け放ち、窓もドアも開けたままにしておくと、木々の間からさやさやと吹いてくる風が、虫も鳥もついでに運んできて、家の中を横切っていく。
そんなときが最高だが、今日あたりはそんな感じではない。
もう6年前になるだろうか。
乳ガンの手術をした友人が、森林浴をしたいといって、来たことがあった。
近くのペンションに1泊、私の家で1泊して、帰っていった。
1年半後、彼女はガンの再発で死んだ。
絵の好きな人だったので、車でマリー.ローランサン美術館、ガラス細工のある北沢美術館に案内した。
彼女は、私のロンドン在住中も、巴里からの帰りだと言って、訪ねてきた。
そんなことを思い出す。
想い出の中の人は、いつまでも若く、美しい。


DNA
2003年08月12日(火)

蓼科の小屋にいる連れ合いに電話する。
6月から光ファイバーを導入、プロバイダーが代わり、それにつれて電話のひとつをIP電話にしたので、市外はなるべくこちらを使う。
ずいぶん料金が違うようだ。
向こうからは呼び出し音があって、何回か鳴らして切ると連れ合いの電話の合図である。
そこで、こちらからかけ直す。
「まだ来ないのかい」と言っている。
1週間ひとりでいると、自炊生活も飽きたのかも知れない。
私のほうは、暑さを我慢すれば、東京での一人暮らしは、なかなか快適だが、一昨日で、行事が一段落し、今週は暇なので、行くことにした。
朝、インターネットで特急「あずさ」を予約、午後4時32分八王子発の切符が取れた。
最寄り駅から八王子まで、30分見ればいい。
切符をみどりの窓口で受け取る手続きがあるが、10分か15分くらいあればいいだろう。
そう計算して、留守中の新聞の留め置きを頼んだり、ゴミを出したり、家の中を少し片づけたりし、パソコンの電源も切って、3時ちょっと過ぎ、家を出た。
ボストンバッグとリュック、ウエスとポーチくらいの荷物である。
駅に着いたのは、3時20分、少し早かったなと思いながら、みどりの窓口に行って驚いた。
長蛇の列なのである。
みな、お盆休みの帰省の切符などを取るので並んでいるらしい。
駅員に「もうインターネットで予約してあって、受け取るだけなんですけど」というと、そこに並べという。
仕方なく、列の最後尾に着いた。
八王子までの中央線に乗るには、4時がぎりぎりだが、40分近くあるから、大丈夫だろうと思った。
しかし、切符の窓口は3カ所あるものの、見ていると一向に列が進まない。
これから乗る客と言うより、むしろ、翌日以降の切符の予約に来ている人が多いように見えた。
駅員は、一人一人、時刻表を見ながら丁寧に応対していて、一人5分ぐらいかかっている。
この調子じゃ、「あずさ」に乗り遅れてしまう。
列に荷物を置いたまま、2人ぐらいの駅員を見つけて、「並んで待っていたのでは列車に遅れそうだから、何とかなりませんか」と言ってみたが、あくまで「並ぶことになってますから」との一点張りで取り合ってくれない。
じっと我慢したが、ついに、時計の針が4時を指そうとしている。
私の前には、まだ10人の客がいる。
予約してある切符を受け取るだけなのに、何で乗り遅れなければならないのか。
茅野駅の到着時間には、連れあいが車で迎えに来ることになっている。
その列車を逃したら、次は何時になるのか。
たまりかねて、窓口がひとつ空いたところを見て、ロープ越しに声を掛けた。
「皆さん並んでいらっしゃるのに、大変申し訳ないんですが、4時32分八王子発の特急券をインターネットで予約してます。
受け取るだけなんですけど、ダメですか。
もう40分並んでます。いまから行って間に合うかどうかぐらいなんですけど」
窓口の係は、時計を見て、席を立ち、私をロープの中に入れてくれた。
「ちょっと待ってください」と言って席を立ったが、すぐに戻ってきて「5分後に特別快速が出ます。それに乗れば間に合います。」と、私の予約のメモを見ながら、すぐに、コンピュータを弾いてくれた。
切符が出て、クレジットカードで支払い、列の先客に「済みません。ごめんなさい」と挨拶し、「あと2分ですよ」との声を背に、荷物を持って階段を駆け下りた。
同時に中央線特快がホームに滑り込んできた。
乗り込んで席に掛けて、ドット汗が出てきた。
何だか腹が立って仕方がなかった。
わざわざインターネットで、クレジットカードの番号まで書き込んで登録し、予約している。
予約番号も名前も入っている。
窓口で、「何日の何時頃の列車ありますか」なんて、時刻表まで調べさせて切符を取っている悠長な客と、なぜ一緒くたに扱うのか、窓口をわければ済む話ではないか。
ハイシーズンには、窓口が込むのは仕方がないが、なぜもっと臨機応変に出来ないのか。
「当日用」と「翌日以後」と、手続きをわければいいのである。
それに、イオカードなどを販売している駅員だって、急いでいる客のために、何とかしてくれたっていいではないか。
私の仕事ではありませんといった感じで、客の身になって考えようとはしなかった。
その駅には「何か解らないことがあったらどうぞ駅員まで」と書いてあった。
40分も待った挙げ句、予約の列車に乗り遅れたら、どうしてくれるのか・・。
予約番号を持っていれば、すでにコンピュータに入力されているはず、直接乗って、列車の車掌が手続きすればいいではないか。
そんなことを反芻しながら、憤懣やるかたない気持ちでいるうちに、電車は八王子に着いた。
一旦ホームにおり、幸い同じホームに目的の列車が来ることがわかってホッとした。
4分後、「あずさ」が到着、無事、乗ることが出来た。
巡回のサービスで、熱いコーヒーを頼んで、やっとホッとした。
到着駅には、連れあいが待っていた。
切符の受け取りに40分もかかって、危うく乗り遅れそうになった話をし、怒りをぶちまけたら、「だって国鉄時代のDNAで動いてるんだもの、そう簡単に体質が変わる訳じゃないよ」と連れ合いは言った。
「折角インターネットで予約という最新のシステムを取り入れていても、現場は、旧システムで動いてるんだろうね」と笑っていた。
私は、ネット上で、特定団体、個人の実名を上げて誹謗中傷めいた事を書くのは、ルールに反することを知っているし、いままで、このたぐいのことは書いたことがない。
しかし、今回は、特定団体と言うにはあまりに巨大な鉄道の話、ちっぽけな私のような女が太刀打ちしても叶わない相手であり、実際に体験したことだから、敢えて書かせてもらった。


「杜若」
2003年08月10日(日)

連句でご縁のある人から招待券を送られたので、国立能楽堂に行った。
金剛流の演奏で、出し物は「杜若」。
私は能楽には、詳しくないが、年に一度、こうした機会にめぐまれる。
知った顔もちらほら見えて、それぞれカップルや、グループで来ていたようだ。
正直、途中で少し眠くなってしまったが、たまにはこういう古典芸能に接するのも悪くない。
終わって、招待券を送ってくれた人に挨拶して、会場を出た。
駅までの道筋にある喫茶店に入り、コーヒーを飲んだ。
歩道に向かった席に座っていたら、知った人が何人も横切っていくのが見えた。
夫婦ではないが、それぞれ連れあいを亡くし、応援したくなるような年配のカップルもいた。
私に気づき、二人が手を振った。

能では、何年か前に見た観世流の「道成寺」が印象に残っている。
見せ場があるし、鳴り物も華やかで、面白かった。
古典芸能では、文楽が割合好きだ。
最近あまり足を運ばないが、ひと頃はよく行った。
国立劇場の文楽、この秋には行ってみたいと思っている。
私の好みでは、近松の世話物が、やはりいい。

今月に入り、6日9日と、二つの原爆の日を迎えた。
広島で私の叔母が死んでいる。
母のすぐ下の妹で、未婚のままの死であった。
数年前、中国新聞が調査して、爆心地でなくなった人の名前がかなり明らかになった。
母の実家は、爆心地のまさに真ん中、中島本町にあった。
両親と他のきょうだいが、田舎に行き、一人留守番をしていたその叔母が、犠牲になった。
跡形もなくなった場所で、どこの誰ともわからぬ骨を拾って、葬式をした。
私は、父の出征したあと、弟と、生まれて2歳の妹と共に、母に連れられて、福岡県の父の実家に疎開していた。
原爆が投下されて2ヶ月後、母は私を連れて、叔母の葬儀のために広島へ行った。
その時の、広島の光景は、私の目にはっきりと焼き付いている。
真っ黒な立ち木と、瓦礫の山、その中で、路面電車が走り、人々が行き交っていた。
まだ残留放射能もあったに違いないが、そんなことは、知るよしもなかった。
40代に入って、私は広島在住の友人を訪ねて、広島に行った。
その時原爆資料館に行き、幼い時に見た光景が蘇ってきた。
その後2度、広島を訪れている。
必ず、いまは平和公園になっている、母の実家のあとに行く。
エノラ.ゲイが旋回を始めた時刻、地上では人々の日常が息づいていた。
一瞬にして、10数万という人の命が失われ、生き残った人も、悲惨な苦しみの中で次々と死に、いまも後遺症に悩まされている。
こんな事は、絶対に赦されない。

一墓下の骨の声聴く晩夏かな
叔母の忌やわけてもしるき蝉の声


神の手の広げしもの
2003年08月09日(土)

台風が北上しつつある。
東京も、夕べからかなりの雨に見舞われた。
今朝一旦止んだが、昼近くになって、また猛烈な風雨である。
午後からの連句の会に行くことになっていて、しかも捌きを引き受けたので、休むわけに行かない。
家を出た時は、ちょうど雨の一番激しい時であった。
すっぽり隠れる長めのレインコート、長靴で完全武装して、バス停まで歩いた。
激しい風に、何度も傘を取られそうになったが、無事バスに乗り込み、渋滞もなく、幸い電車の遅れもなくて、無事、時間内に会場に着いた。
集まった人は、男女5人ずつの10人。いつもより少ないのは、台風の故か。
二つの席に分かれて始まった。
私のところは男性3人に、女性が私ともう一人。

神の手の広げし秋の夕焼けかな

これを発句に始まった。
これは昨年、あるインターネット句会に出すはずが、締め切りに遅れ、選句外になった句を作り直したもの。
原句は夏で、神の手の空に広げし夕焼けかな という句だった。
この句会は、とても趣向が面白いので、途中まで参加していた。
アドレスが変わり、しばらく知らずにいた。
偶然わかって、参加申し込みをし、6月まで半年ほどまた参加させてもらった。
しかし、7月からまたアドレスが変わったらしく、なぜか私には、知らされないので、今は、参加していない。
残念だが、閉ざされた門をこじ開ける趣味は私にはない。
これも、バーチャルな世界と、現実とを一緒にしたたぐいの、ひとつの現象であろう。
私の周囲にいて、私と親しくしている人たちを片端から誘いながら、敢えて私だけを排除するという、子供じみた「イジワル」な仕打ちをする人というのを、私は理解出来ないが、向こうには、そうせざるを得ない、隠れた理由があるのであろう。
そんなことに遭遇するたびに、つらい思いはするが、逆に、そのことがバネになって、創作上のモチーフになり、また逆境を跳ね返す力にもなるのだから、人生そう捨てたものじゃない。
この一年、そんなことも含めて、私には、理不尽に人から疎外され、拒否されるという、つらいことがあった。
そのための涙も1リットルくらいは流しているが、失ったものより、多分、それで得たこと、わかったことの方が大きいと、今は思っている。
この1年で私の連句は、自分で言うのは変だが、飛躍的に伸びたと思う。
「前とずいぶん変わった」と何人かの人から言われた。
「鬼気迫るものがあったね」という人もいる。
それが何の故かと言うことは、わたしの心の問題だから、人には言わないが、表面だけの平和や、不正義の世界に安住していたら、いまの私はなかったということは言える。
これはひとつの例である。
人間のいるところ、どこにでもある誤解や、嫉妬、軋轢、悪意。
人の目、人の評価はどうでもいい。媚びることもしたくない。
私らしさを大事にし、いつも、いまの自分が一番好きだと思いたい。
人から裏切られても、自分で自分を裏切ることだけはすまいと、こころに決めている。
例えそのために、不利益を被り、つらいことになったとしても、そんな私を理解し、思ってくれる人が5本の指くらいはいるからそれでよい。

今日の連句は、短歌行(24句)の形式でやった。
ゆっくりと丁寧に、5時間足らずで巻き上げた。
7日8日は、江ノ島で泊まりがけの連句会があった。
愉しい人たちばかりの男女17人夏物語は、幹事の献身的働きのお陰で、愉しくいい想い出になる会だった。
台風直前の好天気、折角江ノ島まで行って、泳ぎもせず、海にも行かず、朝から夜中まで連句に浸って過ごした。
今日は、それに引き続いての連句である。
疲れもあって、少しばかり頭の回転が鈍くなっているものの、まあまあ満足のいく出来となった。
夕方6時、終わって外に出ると、まだ少し雨が降っていた。
2人は帰り、あとの8人で駅近くのビヤホールに行って、食事した。
話が弾んで2時間、店をあとにした。
もう雨はすっかり止んでいた。


ヘアスタイル
2003年08月05日(火)

むさ苦しく伸びた髪を気にしつつ、なかなかまとまった時間が取れずに・・・と言うのはいいわけで、本当は無精なだけなのだが、明日は連句の会があるし、あさっては江ノ島連句合宿があるので、少しさっぱりしたいと、美容院に行った。
美容院に行くのが億劫なのは、もうひとつ理由がある。
パーマをかけない私の髪は、カットだけで、スタイルを決めねばならない。
ところが、これがなかなかうまくいかないのである。
いつも、今ひとつの処で気に入らない。
この10年ほどの間に、ぴたりと、こちらの要求どおりに仕上げてくれた美容師は、5本の指に満たない。
あとは、妥協するか、あきらめるか、理想の美容師を求めてあちこちハシゴするかである。
5年前、駅まで行く途中の、小さい美容院に行ったことがあった。
やはり、その前まで行っている美容院が気に入らないので、変えてみようと、あまり期待せずに入ったのであった。
ところがここで、素晴らしいカットをしてくれた美容師がいたのである。
「洗いっぱなしでも、どんな姿勢になっても、ちゃんと元に戻るような形にしてください」という私の注文を受けて、その通りに仕上げてくれたのである。
若い女性の美容師であった。
それからいつもそこに行って、カットしてもらっていた。
ところがある日、行ってみると、その美容師はほかに移ったとかで、もういなかった。
このギョウカイは、経営の違う店に移る場合は、行き先をお客に言わないことになっているらしく、「わかりません」という店の返事であった。
それから、別の店を探したが、どこに行っても、あまり気に入るカットには仕上がらなかった。

昨年夏、最寄り駅の近くに、新しい美容院が出来た。
キャンペーンを張っていて、割引券をもらったので、試してみようと入ってみた。
ここで私は、二人目の、理想の美容師に巡り会ったのである。
今度は、男の人。
美容師のランクによって値段が違うというので、折角だからと、店長の次にランクされている美容師を頼んだ。
ライオンのような金髪を肩まで垂らしたその美容師は、私の注文を聞くと、「かしこまりました」と言って、助手の女性に指示して、まずヘアマニキュアをしてくれた。
それが済むと、カットに取りかかった。
鋏の細やかな使い方に、ビックリした。
私の髪が、繊細な薄ものの生地を扱うがごとき、なめらかな動きで、魔法のように、整えられていく。
私は眼鏡を掛けるので、耳に架かる髪が、いつも収まりが悪いのだが、それも、少しも気にならないカットの仕方で、スタイルを作ってくれた。
ところが、その次に行くと、新しくできた別の店に変わったと言うことで、その人はいなかった。
そちらの店に、行けないことはないが、ちょっと遠く、不便である。
しばらく別の美容師の手で、カットをしてもらっていた。
しかし、やはり、あの美容師には及ばないので、今日は、思い切って、バスに乗り、そちらの店に行った。
昨日予約を入れておいたので、すぐに鏡の前に案内された。
1年前のことなので、覚えてはいないようだったが、今日も、いい感じで髪型が決まった。
出世したと見えて、ランクが上がり、料金が1000円高くなっていたが、満足して帰ってきた。
髪型ひとつで、人はずいぶん印象が変わる。
外国にいた時も、美容院には苦労したが、お客のいいところを最大限生かして、仕上げてくれたのはブラジルの美容院。
美に対する感覚が、違うのである。
その代わり、シャンプーは石けん分が残ったままだったり、細やかな技術は、劣る。
しかし、お客をこれ以上ないくらいに、素敵に仕上げてくれるセンスは、素晴らしかった。
奥さんだからとか、いい年だからというような先入観は一切持たず、押しつけがましいことも言わずに、髪型を作ってくれるのが、一番良かった。
イギリスは、日本と似ている。いかにも、奥さんは奥さんらしく、無難に仕上げてくれる。
安心だが、冒険心に欠け、感動がない。
美のセンスは、ラテン系のほうが、数段上だと思った。



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