沢の螢

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骨折りの記
2003年08月25日(月)

家の中での、簡易車椅子生活も三日目になった。
この家を建てるとき、将来親たちが同居することを考え、家の中はなるべく段差を付けないようにと注文した。
13年前である。
まだバリアフリーの考え方は、それ程一般的ではなかった。
だからこちらの注文にもかかわらず、手がけた大工さんの美学で、ドアというドアには、全部敷居を付けてしまった。
「とにかく一階だけでも、平らにしてよ」と強行に言って、廊下から居間に通じる入り口と、廊下から風呂場に入るドアの部分だけ、段差をなくしてもらった。
廊下と階段は、二人並んで歩ける広さにした。
まだバブルの最中、効率と経済性が優先していた時代である。
家の作り方としては、見栄えのいい部分を犠牲にした形になったが、いまになってみると、良かったと思う。
キャスター付きの椅子で、ともかくうちのなかの一階部分は、どこにでも移動出来る。
キャスターの向きによっては、多少引っかかるところもあるが、大きな車輪の付いた本格的な車椅子なら、わけないだろう。
足を痛めたお陰で、図らずも、将来なるかも知れない車椅子生活の、入門編を体験することが出来た。
今日、早く整形外科に行った。
痛みそのものは、あまりなくなっているが、腫れは広がっているようである。
親のいる頃からちょくちょく通った整形外科は、家から車で5分くらいの処にある。
足でなければ、歩ける距離である。
月曜日なので、待合室は混んでいたが、半分以上は、リハビリや処置の患者で、初診の患者はそれ程多くないように思えた。
それでも、たっぷり1時間以上待たされた。
医者はハンサムな若先生、父親が院長をしていた頃から知っているが、いまは、若先生の時代になっている。
「ああ、これは骨が折れていますね」といい、レントゲンを撮ることになった。
結果は、左足、小指から続く骨が、折れていて、大した骨折ではないけど、このままだと変形するので、ギブスを嵌めましょうと言うことになり、その場で、ギブスを作ってくれた。
この程度の骨折だと1週間くらいで次の骨が出来て、固まる筈だけど、無理に動かしたりすると、変形してしまうので、安静にしてくださいと言われ、連れあいの車で帰宅した。
もう痛みもあまりないというと、薬も無し、あとは、氷で患部を冷やせばいいそうである。
いま思うと、骨の折れた足で、ヒールの靴を履いて、電車に乗ったり歩いたりして、よく家まで帰ってきたものだと思う。
「痛くなかったんですか」と、医者も呆れていた。
「その時歩いたから、骨が少しずれちゃったんですね」とのこと。
でも、いまのうちなら、大丈夫だからと、慰められた。
ギブスを嵌めている間は、外出は出来ない。
なるべく、足を高く上げているようにと言われて、いま、椅子に腰掛け、その先に丸椅子を置き、その上に足を乗せた姿で、パソコンに向かっている。
夕べは早く寝たし、ホームページの更新もした。元気である。
別サーバーのサイトも更新、これでホームページは、全部で4つになった。
メカに弱い私であるが、ホームページも1年半絶ち、どうやら、ソフトも使いこなしている。
HTML言語も、ごく初歩的なことはマスターした。
あとは、内容を充実させること、いい観客に来てもらうことである。
絶対人には媚びない。いやな客は、お引き取り願う。
アクセス数の多少は気にしない。
虚構性を守る。
自分のためのサイトだから、責任も権利もすべて私個人にある。
その代わり、人の指図は受けない。
文字にすると、過激になってしまうが、集団の力を頼まず、たった一人で何かをやるには、そのくらい強気でなければならない。
でも、本当に大事なのは、私自身が愉しいかどうかである。
書きたいことは山ほどある。
今度はどのコンテンツを更新しようかと考え、ページのデザインや、レイアウトを考えるのも愉しい。
この楽しみがあったお陰で、私は昨年、一番つらかった時期をなんとか切り抜けることが出来た。


女友達
2003年08月24日(日)

昨日、足の痛みで、1日ごろごろしていた。
「整形外科に行こうか」と連れ合いに言われたのに、まさか骨が折れたりしているわけではあるまいと高をくくって、湿布を宛てていたが、痛みは治まらず、少し腫れてもいるようだ。
今朝になって、連れ合いが医療センターに電話し、救急の整形外科を教えてもらった。
「入院になるかも知れないね」と言われ、シャワーを浴びたり、御飯を食べたりしているうちに、痛みは薄らいでしまい、「救急の時はろくな医者がいないから明日行った方がいいよ」と言うことになり、今日はうちで安静にしていることにした。
いま思うと、一昨日、麻布で転けたとき、すぐに救急車を呼べば良かったのである。
あるいは、帰宅の途中で、駅長室にでも駆け込んで、「もう歩けません」と言えば、119番に電話ぐらいしてくれたかも知れない。
こういう事が出来ず、我慢してしまうのが、私の、見かけに寄らず気の弱いところなのである。
うちにいると、にわか主夫になった連れ合いのいらだちがよくわかる。
普段家の中のことは妻任せにしているので、いざ台所に立っても、何がどこにあるかわからない。
いちいち私に訊かねばならず、時間も手間もかかるので、だんだん眉間にしわが寄ってくる。
挙げ句の果ては口げんかになる。
「君はおとなしく寝てなさい」などと言うが、それが言葉だけである事は、行動でわかる。
いずれは私が後始末することを期待して、そのままにしていることばかりである。
家庭の平和は、私が元気であることが必要条件であることがよくわかる。
自分が病気になった時のことを考えればわかりそうなものなのに、そう言う想像力に欠けたのが、男というものらしい。
イヤ、一般化した言い方は、適切ではないだろう。
15年間、奥さんの介護をして、見送った人を知っているし、現在要介護のお連れ合いを、常に気に掛けつつ、連句の座に来ている人も知っている。
もちろん、人に見せる顔と、うちにいるときの顔が、そのまま同じであるとは限らないので、こういう事には、人にはわからない多少の修羅はつきものかも知れないが・・。
高校時代、陸上競技をやっていた息子に電話すると、「骨折にしろ、捻挫にしろ、なるべく早く処置した方がいいから、明日すぐ医者に行きなさい。お母さんは、こういう事にはグズいんだから」と、叱られてしまった。
さきほど、洗濯機の前で、まごまごしている連れ合いに、口で言うより手を出した方が早いので、私は、キャスター付きの椅子をごろごろ片足で移動させながら、洗濯場に行って、ボタン操作をしてきた。
この椅子は書斎の椅子だが、キャスター付きがこういう場合便利であることは、知っていた。
以前、ガンで歩けなくなった友人の家に行ったとき、家の中でやはりキャスター付きの椅子で、移動していたのを見たからである。
ただし、車椅子と違い、ホンの1センチほどの段差でも、引っかかってしまうので、そのときは、体を浮かせなければならない。
こんな事も、そういう身になってみなければわからないものだ。

昨日の夕方、友人から電話があった。
私は座敷で、横になっていたが、「あら、足を痛めてるの?そりゃ大変ね」といいながらも、私の声が元気なのを知ると、「ねえ、ちょっと訊いて頂戴よ」と、お喋りが始まり、こちらもそれに付き合って、小一時間喋ってしまった。
彼女は、ここ5年ほどシャンソンに凝っていて、二人の先生に付き、ちょっとしたライブにも、時々出演するほど腕を上げている。
一人は女の先生、もう一人は男の先生である。
彼女が時々鬱憤を晴らしに電話を掛けてくるのは、この男の先生を巡る女弟子の間のあれこれである。
美人で、頭が良く、芸大出の彼女は、基礎的な音楽能力が備わっているので、歌も、なかなかいい線まで行っているらしい。
だから、年下の男の先生からも、結構目を掛けられていた。
ところが、最近、強力なライバルが現れた。
彼女より10歳も若く、歌の実力はイマイチだが、どうも男の先生の気を惹くところがあるらしく、すっかりお株を取られてしまったという。
「とにかく、彼女は抜け駆けするのよ。先輩も後輩もないんだから」と憤慨している。
年一回の発表会で、彼女が歌うつもりでレッスンしてきた曲を、いつの間にかその女が自分の持ち歌にしてしまったという。
「それを事前に断りもしないの。ホント失礼なんだから」と怒っている。
先生のほうも、すっかりそちらの虜になっているので、頼まれるままレッスンをしてあげているらしい。
「私が歌う歌だと言うことは、先生はわかっているはずなのに・・」と、憤懣やるかたない様子である。
「そっちの彼女は団塊の世代なんでしょ。あの世代はダメよ。競争に勝ち抜くことで生きてきているから、そんな礼儀も、先輩後輩もないのよ。欲しい物は、人の物でも手に入れる人たちなんだから・・」と私も言いながら、彼女に同情した。
その先生は、そのギョーカイにしては珍しく、堅い人物で、弟子の扱いも公平だと聞いていたので、彼女の悔しさがよくわかった。
違う世界のことでありながら、共通する問題は、私の属する世界にもあるので、一緒になって、悲憤慷慨したのであった。
一人の女に目を奪われたとき、日ごろは理性的で、判断力のある男が、バランスを欠いた行動を取ってしまうことは、よくあることである。
そう言う意味では女はコワイ。
クレオパトラの鼻まで行かずとも、並の男が、ちょっと気の惹く女に心を奪われて、われしらず常識を欠いたことをしてしまうのは、私の周りにも見聞きする事である。
それが二人だけのことなら、第三者の知ったことではないが、集団の場に持ち込まれると、全体に影響してくるから困る。
「でもそういう女って、自分が悪いとは思わないし、反省のない人種だから、怒ってもダメよ。多分、向こうは、自分には関係ないと思ってるから、シラッとしてるわよ」と言うと、彼女も、そうねと言った。
ひとしきり喋ると、彼女もどうやら気持ちは少し和らいだようだった。
「もうあの先生に見切りを付けるわ」というので、「その方がいいわよ。そんな先生、幾ら才能があっても、指導者としては失格よ」と、私も言った。
団塊の世代が全部そうだとは言わないが、私も、この年代の女に何度か煮え湯を飲まされている。
虫も殺さないような顔をして、凄いことをするのが、この種の女の共通点である。
「素手でデモをした世代と、ゲバ棒を持った世代の違いかしらねえ」と、話は変なところに落ち着いた。
女友達というのは、つまらないグチをお互い、ゴミ箱になり合って、張らせるから良い。
ただし、横になったまま、フリーハンドの電話で長話した私のほうは、電話を切った途端、どっと疲れてしまった。

明日は、「頭痛肩こり樋口一葉」を、もう一度見ようと思って、チケットを買ってあったのだが、この足では行けそうもない。
千秋楽、きっと盛り上がって芝居の質も先週より上がっているはずだ。
前から5番目という最高の席である。
連れ合いは、別の会合と重なっている。
残念だが、せめて誰かに行ってもらおうと、6月にオペラのチケットをもらった人に、連れ合いが電話してみた。
家から歩いていけるところに、住んでいて、連れ合いのもとの職場仲間、夫婦で付き合いのある人である。
「飲み屋のたたきで転けちゃいましてねえ」なんて、よけいなことを言っている。
でも、「井上ひさしなら是非」と言ってくれたので、連れ合いがチケットを届けることにした。


祭りの夜
2003年08月23日(土)

昨日は麻布十番のお祭りに引っかけて、連句をやるという案内をもらい、出かけた。
麻布というのは、縁の深い場所である。
連れ合いの実家があり、私も新婚時代その近くに1年ほど住んでいた。
連れあいの母は賢母というか、孟母三遷を地で行ったような人で、連れ合いが麻布中学に合格すると、それまで住んでいた芝浦から、麻布に家を求めて引っ越した。
学校には歩いて行ける距離で、住まいの近くは、十番通り、六本木にも歩いて行け、住環境としては申し分なかったようだ。
俗に十番祭りというのは、氷川神社の祭りだが、父親がお祭り好きで、その時期が来ると、地元の人たちと、祭りの準備などに働いたという。
結婚して、私たちは、連れ合いの家から歩いて10分のあたりに、アパートを借りて住んだ。
そこを見つけたのは連れあいの母であった。
私は会社勤めをしていたので、何かあると姑の知恵を借り、何かと助けてもらった。
その頃は、週6日制で、休みというのは日曜日だけだった。
日曜日の夕食は、連れ合いの家で、母や弟と一緒にすることになっていて、時には、十番通りの寿司屋に行ったりした。
十番通りは、昔ながらの店が軒を連ねていて、私も、日常の買い物はいつもそこに行った。
生鮮食品は、新鮮で、質のいい物が多く、事に魚はとびきり良かった。
昨日、何十年ぶりかで行ってみたら、ほとんどの店は様変わりしていて、昔の面影はなかったが、魚屋や、蕎麦屋など、懐かしい屋号がまだいくつか目に入った。
お祭りも、昔はもう少し地味だったと思うが、昨日行ってみたら、地下鉄の駅のあたりからものすごい人出でビックリした。
浴衣姿の女の子、歩道にビッシリ並んだ屋台、真ん中の車道は歩行者天国になっていたが、人、人、人で、前に進めない。
目的の小料理屋にたどり着くのに、20分ぐらいかかってしまった。
昔見慣れた風景とあまりにも違ってしまっていたので、道を迷いそうになり、途中で屋台の人に尋ねたが、あまり知らない人が多かったのを見ると、屋台は地元の人より、祭りを当て込んだ、業者が出張して来ていたらしい。
昔は、外からの業者が繰り出してくることはあまりなかったそうだ。
ともかく、少し遅れて会場に着き、連句に参加した。
周りの喧噪が店の中にも伝わってきて、離れた席の人の声が届かなかったが、同じテーブルを囲んだ人たちとは、愉しく、酒を酌み交わし、連句にも、人並みに参加出来て愉しく終わりまで付き合った。
ここで、離れた席の人のところへ行こうとして、たたきに降りたとき、足を捻挫してしまい、その時はあまり痛みはなかったのに、帰るときになって、靴を履いたとき、痛みがかなり来ているのに気づいた。
人と六本木までタクシーに乗り、あとは地下鉄とJRを乗り継ぎ、やっとの思いで電車を降り、タクシーで家まで帰った。
もう深夜の1時近かった。
家に入った途端、歩けなくなってしまい、連れ合いの肩にすがってやっとベッドに横になった。
骨には異常はなさそうなので、湿布をして、いまは車付きの椅子で、家の中を移動している。
今日は、立ち上がっての仕事は出来そうもない。
連れ合いにちくちく嫌みを言われつつ、パソコンに向かっている。
麻布には、もっと静かな環境の時に、ゆっくり行ってみたい。


色さまざま
2003年08月20日(水)

今日の連句会は、「色」をテーマにした賦し物。
11時開始に合わせて、八丁堀まで行く。
参加者は25人、4つのテーブルに分かれた。
私のテーブルは、捌きが日を間違えて欠席したため、急遽別の人に代わり、少し遅れて始まった。
通常だと捌きが発句を用意してくるが、今日は、アクシデントのため、みんなで発句を出し合って、互選した。
形式は、歌仙。
色をどう扱うかは、席毎に自由なので、捌きの考え方でやる。
詠み込まれた色は、発句の銀鼠に始まり、レモン、赤、朱、闇、黒、茄子色、紺、茶、黄色、白、紅、透明、金、桜色、藍、青、緑、バラ色、さび色、など。
直接これらの色を出すのでなく、言葉や、間接表現で色を感じさせるのである。
私の句のひとつ、
紙芝居弁士の首の剃りの痕
青をイメージしている。
停電のあと増える人口
は黒い闇を表現しているという具合である。
話も弾んで、5時前に終わった。
連句の時、私はみんなで会話を愉しみながらやるのが好きである。
黙って一生懸命句だけを考えても、気分が高揚しないし、堅苦しい。
沈黙に耐えられずに、つい口を出すので、いつもほかの席から「うるさい」と言われる。
でも、賑やかにだべりながらやると、思わぬ発想が生まれたりするので、その方が愉しいと思う。
自分で意識せずとも、一見関係ないようなおしゃべりから、ひらめくことがあるので、おしゃべりは連句の必需品と思っている。
終わって、またいつものメンバーで、近くの飲み屋に寄り、1時間あまり、酒と会話を愉しんで帰ってきた。
この連句会は、しっかりした女性が仕切っていて、大変雰囲気がいい。
初めて行ったのは、もう8年ほど前になるが、私はまだ初心者で、いつもおどおどしていた。
その後数年遠ざかっていたが、昨年からまた復帰して、ほとんど皆勤である。
最近人数が増え、メンバーの顔ぶれも新しくなって、なかなか繁盛している。
圧倒的に女性が多く、男性はちらほら。
その少ない男性がみな、呑み友達なのである。
酒席に付き合いのいい女性はと言うと、半永久的、一時的独身者がほとんど。
上品な良妻賢母型の奥さん達は、早く帰り、私は独身女性や男の人たちと、飲み屋に行くのである。

昨日は、健康診断にいった。
結果は来週になるが、「酒量を控えなさい」と言われそうで、コワイ。
お酒はいいが、それにつれて、食べるので、最近体重がずいぶん増えたように思う。
もしドクターストップがかかったら、その後は潔く2次会は欠席する決心をしている。
22日は、また麻布のお祭りの中での連句に誘われたので、申し込んでしまった。
行けば呑まないわけに行かない。
医者の言うことは、それが終わってから訊くことにした。


森を去る
2003年08月18日(月)

雨も止み、気温も少し高いようだ。
一旦東京に帰ることにした。
雨の間、掃除もしにくく、そのままになっていたので、掃除機を掛け、ふき掃除もし、ゴミの分別もした。
車の掃除は連れ合いの役目、外で話し声がするので、見たら、奥のカナダハウスの夫婦が、車で出かけるところで、声を掛けてきたのだった。
「じゃ、お気を付けて」などと言って、どこかへ出かけていった。
西側の住人は昨日帰ってしまっていない。
奥のもう一軒は犬を連れてきていたが、やはり夕べ遅く帰ったようだった。
カナダハウスの人たちは、うちが来ている時は、いつも顔を合わせるので、しじゅう来ていると見える。
まめな人たちで、敷地内の木を拾って、細工物を拵えたり、アウトドアでバーベキューなどをするのが好きなようだ。
顔を合わせれば、挨拶する程度だが、いい人達だと言うことはわかる。
お互い領分を侵さない付き合い方を、理解出来る人たちである。

ゴミの始末をし、戸締まりをして出発したのは、12時40分。
道が混んでなければストレートで2時間半、食事などで寄り道すればその分かかる。
それは臨機応変にすることにした。
森を抜ける途中、ある家の前で、連れあいが車のスピードを落とした。
そこに繋がれている大きなシェパードが、一昨日、飼い主に殴られたり、蹴られたりしていたからである。
妙な鳴き方をするので、前から気になっていた。
雨続きで、犬も運動不足になって、いらだっているのかと思っていたが、そこを通りかかった時、イヤな光景を見てしまった。
「何であんな事をするの?虐待じゃないの」と私が言うと、「きっと躾をしてるんだよ。」と連れ合いが言うので、そうかとも思ったが、躾のために、殴ったりするのだろうか。
それからは、遠くで、どこかの犬の鳴き声がすると、その犬が、虐められているようで、気になった。
私は、犬も猫も飼っていないし、特別興味もないが、生き物が、人間によって、そんな仕打ちを受けているのを見るのはつらい。
徐行しながら様子を見ると、件の犬は、ベランダに繋がれて、おとなしく座っていた。
飼い主の姿は見えなかった。
私たちが知っているその家の主は、もう大分年を取っているはずだから、代替わりしたかも知れない。

新しくできた道を使って、少し近道しながら高速に乗った。
渋滞はさほどなさそうだった。
1時間ほど走って、パーキングに寄り、軽く腹ごしらえをした。
大きなトンネルが2カ所あり、そこで少し渋滞したが、あとはスムーズに流れ、4時に家に着いた。

一休みして、新宿サザンシアターに行った。
井上ひさし「頭痛肩こり樋口一葉」を見るためである。
芝居仲間の友人と一緒。
この芝居は、15年ほど前に一度見ているが、主役の夏子役は、その時の方が良かった。
今回は、芸達者な幽霊役や、そのほかの脇役に比べ、存在感が薄く、すっかり喰われてしまっていた。
留守中、パソコンのウイルスチェックなど、連れ合いがすべてやってくれていたので、インターネットを少し愉しむ。
長い1日だった。


停電
2003年08月17日(日)

ニューヨークで起こった大停電も、修復されてきているようだ。
こういうアクシデントに付き物の掠奪などの事件もあまりなかったようで、良かったと思う。
停電で思い出すのは、1970年代中頃、ブラジルにいた時。
よく停電に見舞われた。
私の住んでいたアパルタメントは、16階にあり、停電すると、エレベーターが止まり、真っ暗になる。
自家発電が働き、駐車場のドアの開閉作動やや、最低限必要な明かりは確保されるが、部屋の電燈は消えたままなので、暗い中で、点くのを待たねばならない。
現地の人は馴れたものだが、長時間の停電という現象に、あまり馴れてない私たちは、はじめ、ずいぶん戸惑ったものだった。
ある時、子ども連れで遊びに来た人がいて、一緒に食事していると、突然停電になってしまった。
しばらく待ったが、一向に明かりが点かない。
ハウスキーパーに訊くと、「さあ」と首をすくめて、ケロッとしている。
1時間も経って、ついにしびれを切らせた客人が、帰ると言いだし、子どもの手を引いて、16階の階段を降りてしまった。
表玄関はエレベーターでしか出られないのでダメだが、裏口は、階段がある。
「真っ暗だし、踏み外して怪我をするといけないから、もう少し待ったら」と言ったが、訊かずに降りていった。
幸い無事に下まで辿り着いたらしかったが、真っ暗な部屋で、待っているのは、耐えられなかったのであろう。
停電でなくても、ブラジルの電球は、よく切れた。
電球はまとめて買っておくが、持ちが悪くて閉口した。
一番ひどいのは、買ってきて取り替えた電球が、3分も経たずに切れてしまったことである。
長くても、ひと月保ったものはない。
店に行くと、取り替えてくれることもあったが、電球はそんな長持ちするもんじゃないと言うことになっているらしく、店のひともケロッとしていた。
こんな話はごまんとある。
30年も経って、記憶の底に沈んでしまったが、覚えていることもある。
いつかそんなことも、書きたいと思う。

夕べから、このあたりも、人口が減りつつある。
今日も、一軒明かりが消えた。
Uターンのラッシュを避けて、深夜に発つ人もいる。
私たちは、明日東京に帰ることにした。
買い物は、14日にしたまま、間に合わせてしまった。
いつもは、湖の近くのレストランで、一度くらい食事を愉しむことにしているが、寒さと雨の中、そんな気分にならず、手持ちの食料で済ませてしまった。


森の癒し
2003年08月16日(土)

昨年の今頃、一体どんなことを考えていたのかと、古い日記を読み返してみたら、「森の癒し」について、何度か書いていたのだった。
やはりここ信州に来て、静かな暮らしの中で、感じたことや思ったことを綴っている。
昨年は、ホームページを別のサーバーで作っていて、まだページ数も多くなく、連句の付け合いも、さほど頻繁ではない。
7月に、つらいことがあって、わたしの心はカミソリで切られたようになっていた。
正当な理由なく、ひとから疎外されるという経験は、大人になってはじめてだった。
こちらの問いかけに応えはなく、そのまま、捨て置かれた。
傷口は思いのほか深く、ここに来ても、そのことから解放されなかった。
時間が経って自然に解決されるという種類のことではない。
はじめの段階で、誠実な対応をされずに来たことは、いつまでも尾を引く。
昨年は、暑い夏で、高原の気温も高かったが、ここまで来ると、日陰はひんやりして別世界だった。
持ってきたパソコンは、95型のノートパソコン、まだダイヤルアップだったので、インターネットもままならず、時間を気にしながら日に一度だけ開けてみるという具合だったので、ちょうど良かった。
毎日、付近を歩き、森の木を眺めたり、虫、鳥の声を聴きながら過ごした。
東京と信州を何度か往復し、森の自然に触れているうちに、だんだん心が癒されていったようだ。
8月の終わりの日記は、少し元気な文章で終わっている。
それからちょうど1年経つ。
問題は何も解決されていないし、一度絶ちきられた人の繋がりは、元には戻らないし、心の傷も、すっかり癒えたわけではない。
でも、こうして森の生活に戻って過ごすうちに、そんなことは、無理に解決しようとしなくてもいい、傷は傷のままでもよいと思うようになった。
傷を負わせた相手だって、それで幸せというわけではあるまい。
どんなに自分を正当化しようとしても、まともな人なら心のどこかで、ちくりと蘇るものがあるはずだからだ。
せめて、そう言う人であると思いたい。
いい思い出も少なからずある。
私自身のために、それは汚さずに取っておきたい。

今日は久しぶりに晴れた。
付近を少し散歩した。
同居人である私の秘書兼カメラマン兼ボディガードと、森から続く公園や、小川のほとりを歩いた。
昨年、同じ場所で、ある野党政党の大物と会った。
向こうには、複数の連れがいた。
すれ違う時、私たちは、森で人と会う時の礼儀として「こんにちは」と声を掛けた。
すると向こうは、ちょっとビックリして、挨拶を返しながら探るような目で、こちらを見た。
本能的に、相手が敵か味方かを察知しようとする目が、身に付いているのだなと思った。

ローカルテレビで美空ひばり特集を見る。
私はこの人を、ジャンルを問わず、日本が生んだ戦後最大の歌手だと思っている。
晩年近くの彼女の歌は、完成度が高く、オペラアリアから、都々逸まで、並の歌唱ではない。
音域が広く、声のコントロールが良く、どんな歌も、自分の歌にして消化している。
天から授かった才能だろう。
加藤一枝としては、あまり幸せではなかったらしいが、あれだけの素晴らしい歌を残している。
ひばりの名は、永久に消えることはあるまい。



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