沢の螢

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拠って立つ場所
2003年09月02日(火)

外国に住んでいるとき、自分のidentity(identidade)がどこにあるかということは、常につきまとう問題だった。
日本語ではどういう言葉がふさわしいのだろう。
自己の存在証明、身元、立場、いろいろあると思うが、この概念は、小さな島国で、個性よりも、周囲の人たちとの和を何より大事にしてきた国民性とは、ちょっと相容れないような気がする。
自分の拠って立つところ、という風に言えばいいだろうか。
老父母と暮らした3年間の中で、当初、私の考えから欠落していたのが、人間は年をとり、自分のことが出来ないような状態になっても、identityが大事だと言うことだった。
「親の介護」と一口に言うが、親ひとりの面倒を見ると言うことは、その親の背負ってきた歴史も、人間関係も、丸ごと引き受けると言うことである。
衣食足りて、済むという簡単なことではない。
どんなに立派な設備の整ったところで、一見手厚いケアを受けていても、その人のidentityを尊重するという基本がなければ、老人は、幸せではないのである。
たとえば、母が家にいたとき、盆暮れに欠かさず、届け物をする先があった。
それがどこそこの何という品物と、決まっていて、そのために、遠くのデパートに行かねばならず、正直、面倒であった。
「もう家に引っ越してきたんだから、ここから送れるものに出来ないの」と私は言った。
父も母も、我慢強い人たちである。
娘夫婦によけいな手数を掛けてはいけないと思ったようだった。
「別に、ほかのものでもいいのよ」と母はいい、「でも、家からあれが届くと思って、楽しみにしてくれている人もいるんだけどね」と、遠慮がちに付け加えた。
私はハッとした。
ただ何でも送ればいいというものではないのだ、そこには、長いこと培ってきた母達の人付き合いがあるのだと気づいた。
娘夫婦の世話になっているという意識は、十分すぎる位ある親たちであった。
でも、親たちにも、生きている間拠って立つところはちゃんとあるのである。
老人のわがままではなく、それが大事なのである。
一緒に住んでみて、わかることだった。
今、親たちは、ケアハウスにいるが、「元気にしてる?」と母から電話があったときは、来て欲しいという意味である。
でも、私に対してはあくまで、母親であることを堅持する。
それが、母のidentityである。
今朝、しばらく行ってないので、電話した。
「ちょっと足を捻挫したので、行けないでいたけど、治ったら行くからね」というと「足は大事だから、無理しちゃダメよ。よく冷やして、あまり動かさないようにしないと・・・」と、母は言った。
そして「こっちは、何かあれば、誰にでも頼めるから、何にも心配要らないのよ」と付け加えた。
実は、10日ばかり前、親戚関係で、相談事があるからと、電話が掛かってきて、そのままになっていた。
行こうと思っていたところに、足の骨折だった。
本当は、早く来て欲しいのである。
でも、母親の顔をすることで、母は少し頑張れるのである。


待合室
2003年09月01日(月)

病院、医院の待合室は、社会の縮図みたいな処がある。
私は、今世紀に入ってから、市の健康診断で行く以外には、ほとんど医者に掛かったことがないのだが、今回、「骨折り」で止む終えず、整形外科に行くことになった。
先週月曜日、ギブスを嵌められ、今日また行った。
もう痛みもほとんどないので、ギブスが外れるつもりで行ったら、「骨が5ミリずれてます」と言われ、またしっかりとギブスをした姿で、帰ってきた。
先週は待ち時間1時間、今日は、特別込んでいて、1時間40分待たされた。
待合室の会話や、人の動きを観察していると、なかなか面白いことがある。

私の近くにいた母と息子の会話。
息子は膝を痛めたらしく、股のあたりまで付帯で巻いた姿、母親は、小柄だがしっかりタイプ。
息子は、長い事待たされてイライラしている。
息子「ねえ、こんなに長く待つのイヤだよ」
母「だってしょうがないわよ。月曜日はいつも込むんだから」
息子「順番通りにやってるのかなあ。あの人あとから来たのに、先に呼ばれたよ」
母「リハビリの人は早いのよ。それに、診察券だけ先に出してあったかも知れないでしょ」
息子「じゃ、そうすれば良かったのに」
母「だって、いつも込んでるわけじゃないし、2度も来るのはイヤだもん」
そのうち、やっと順番が来て、母子は診察室に呼ばれる。
続いて、レントゲン、診察室と一連の流れのあとで
母「ほら、先生が、家でもリハビリしなくちゃダメだっていったじゃない。」
息子「リハビリなんてイヤだよ。続かないよ。近くの医者でやってもらうよ」
母「お医者にかかれば、その都度お金を払わなくちゃならないけど、うちでやればタダじゃない。やり方を教えてもらったんだから出来るわよ。」
息子「だって、うち狭いもん。すぐにあちこちぶつかって、痛いんだよ。近所の医者に代わりたいって、頼んでよ」
母「そう言うわけに行かないわよ。またレントゲン摂られて、初診料払わなくちゃならないもの」
息子がしきりにゴネて、母親がなだめたりすかしたりの会話は、思わず聞き惚れてしまうくらい、面白かったのだが、うまく再現出来ないので、止める。
この親子、母親は60代後半くらい、息子は40前後かと思われた。
マザコンというのは、こういう男のことかなあと思いながら、駄々っ子をあやすがごとき、母親の巧みな誘導に感心してしまった。
「あの母親は長生きするよ」と、連れ合いが言った。
やがて、会計を済ませた親子。
体の大きな息子を車椅子に乗せ、小柄な母親が、それを押して、帰って行った。

私の隣に腰掛けていた老婦人が話しかける。
「私、俳句の先生してるのよ。オタクどの辺に住んでるの」
私が地名を言うと、
「あら、じゃ、うちのほうのコミセンに来れるでしょ。6人ぐらいで愉しくやってるのよ。来ない。第3土曜日の午後からよ」
ちょうど、連句の会合と重なっている。
「あいにく・・・」と断った。
「アラそう、俳句なんかやりそうな顔に見えたのに、残念ね」
俳句顔って、あるのだろうか。
美人じゃないという事だけは、わかる。
俳句の話が消えたと思ったら、3年前に入院したいきさつやら、外国旅行の話、「今はね、何か目的を持たなくちゃいけないから俳句と、絵に絞ってるの」等々、話の聞き手を勤めさせてもらった。
「アラ、ご主人どこにいるの。奥さんほっといてダメじゃない」と、ほかの患者の邪魔にならないよう、隅っこで小さくなっている私の連れあいを、側に呼んでくれた。
80歳だという。
「来てみたら、リハビリがひとつ増えて、薬もよけいに飲まなくちゃいけないなんて、ガッカリだわ」といいながら、帰っていった。


詩的空間
2003年08月31日(日)

昨夜、面白いテレビを見た。
「詩のボクシング」と名付けられた催しの、中継録画である。
リング上で、互いに自作の詩を朗読し、トーナメントで勝ち進んでいくもの。
7人の審判員がいて、その場で判定する。
16歳の高校生から、68歳の男性まで、それぞれ地区別の大会で勝ち残った人が、決勝大会に臨んだものだった。
朗読に、ラップのようなリズムを刻んで、パフォーマンスの効果をねらった人、正攻法で淡々と、詩を読み上げた人、お国言葉をそのまま取り入れて、喋り言葉で訴えた人、詩の内容も、朗読の仕方もひとさまざまで、なかなか興味深かった。
はじめは、パフォーマンス豊かな人が、勝ち進むかのように思われた。
しかし、選者は、割合冷静である。
見かけにとらわれず、詩の中身をよく読みとっていたようであった。
最後に残ったのは、奈良代表の23歳の女性と、東京代表25歳の男性、若い二人だった。
いずれも、正攻法で、まっすぐに立って、淡々と詩を読み上げていた。
決戦は、自作の詩の朗読と、その場で与えられた課題を、即興で詠み上げるという項目が加わる。
古来の吟遊詩人に還るわけである。
詩はもともと、それが出発だった。
書いたものを、文字だけで、黙って読むというのは、人間の歴史の中では比較的新しい。
女性が与えられた課題は「鞄」、ここで彼女は、それまで被っていた仮面から、地の顔に戻った。
少し、力みすぎたのだろうか。
いろいろなことが一度に浮かんできて、整理が付かなかったようである。
ゴングが鳴って、男性の番になった。
彼が受け取った課題は「先生」、彼は、対戦相手の「鞄」と言う言葉を、うまく導入に使って、短いがまとまった詩にして、読み上げた。
それまでのポーカーフェイスは、最後まで、崩れることはなかった。
自作の詩も、やや頑張りすぎの女性に比べ、一貫して、両親や妹のことを、素朴に歌って、好感が持てた。
軍配は、6対1で25歳の男性に挙がった。
公平な判定だったと思う。
優勝した男性は、グラフィックデザイナー、実家は甲府で寿司屋を営んでいる。
決して抽象的な、難解な言葉を使わず、彼の生活の中で血となり肉となっている言葉を駆使して、感情に流されずに、等身大で訴えていたのが良かった。
出演者の中では、一番地味で、目立たなかった彼の、訥々とした語り口が、次第に心にしみ通って、今度はどんな詩を聴かせてくれるだろうという気にさせられた。
この催しは、今年で3回目だとのこと。
プロの詩人や歌人が、こうしたことをしているのは、前から知っていたが、普通の人たちの間でも、いわゆる「ポエトリー・リーディング」は、盛んになっているらしい。
私の沿線の近くでも、ピアノやシャンソンのライブの間に、「朗読」をプログラムに組んである喫茶店がある。
これは、アマチュアでも、出演出来る。
いつか、自作の詩で、そんなところに出てみたいというのが、私のひそかな夢である。
この前、詩ではないが、連句の集まりの余興で、即興で俳句を作るというトーナメントに参加した。
題が与えられ、3分以内に俳句を作る。
一戦毎に、5人の選者が交代で判定する。
参加者、30人以上はいただろうか。
私も何度か、選者になって、句を選んだ。
もちろん、一回戦からの対戦にも参加した。
どういうわけか、勝ち進んで、決勝まで行ってしまった。
対戦相手は、呑み仲間であり、ネット連句でも私の常連になっている女性。
「ふわり」というのが題であった。
俳句だから季語を入れなければならない。
相手は、すぐに句が浮かんだらしく、さらさらと短冊に書き込んでいる。
私の句は、

色街のふのりふわりと初仕事

というのである。
彼女の句は、勝手に引くわけに行かないが、蝶の飛ぶさまを詠んだものであった。
結果は、彼女に軍配が挙がった。
私は、賞品の白いハンドバッグをもらって、帰った。
骨の折れたことも、気づかなかったのは、その集まりが、面白かったからである。
初戦からの課題と、その時即興で作った句を、今になって思い出せないのは、残念である。


bone
2003年08月30日(土)

今朝、連句仲間の男性から電話。
先日頼まれたファイルを、メールで送った。
その時「骨折りで、外出不能」なんて書いたので、様子を尋ねてきたのだった。
「大したことないのよ。この間骨密度を検査したとき、年齢平均の1割り増しなんて言われたから、骨には自信あったんだけど・・・」と言うと、「そういうことは、自信過剰になってはいけません。」と、以前自分がアキレス腱を切った体験談を話してくれた。
治るのに、ひと月掛かったそうである。
彼の時は、手術したそうだが、いまは、骨に関してはあまり手術などせずに、直すやり方だそうである。
「さすがの・・さんも、今はおとなしくじっとしているしかないんですね」というので、「その代わり、頭と口は冴えてるわ」と言うと、笑っていた。
骨を折ったときのことを話して、「その時は痛かったけど、ただの捻挫だと思ったの」というと、「そんな状態で、よく自力で家まで帰りましたね」とあきれていた。
でも、私の状態が大したことはないのを知ると、用件を告げ、「くれぐれも骨をお大事に」と切ってしまった。

骨という言葉は、いろいろな意味を持っていて、熟語も多い。
「気骨ある人」というのは、褒め言葉だし、「骨を折る」というのも、いい意味で使う。
「骨の折れる仕事」と言えば、マイナスイメージのほうが強いのだろうか。
「骨惜しみする」というのも、悪い意味で言う。
折角「骨を折って」立てた計画が「骨抜きにされて・・」なんて言う。
「骨に刻む」と言えば、しっかり記憶していること。
「骨を刺すような言葉」というのは、あまり良い意味ではなさそうだ。
「骨休め」に、コーヒーでも飲むとしようか。
英語では、boneを使った熟語は沢山あるのだろうか。
私はボーンチャイナと、歌の「ドライボーンズ」くらいしか知らないが・・。
ボンレスハムは知っている。
ハムで思い出したが、肉も魚も、骨の周りが一番おいしい。
私の好きなのは、豚のあばら骨(スペアリブ)をニンニクやレモン、塩こしょうで味を付けて、オーブンで焼いた料理である。
隠し味に、オレンジの絞り汁と醤油を加えるとよけいおいしい。
南米の肉屋は、あばら骨の丸ごとを、ぶら下げて売っていて、まさかりのような大きな刃物で、豪快に切って、売ってくれた。
日本では、スペアリブは、きれいに切り分けて、売っている。
オーブンのほかに、これを大根のぶつ切りと共に、スープで煮込んだものもおいしい。
私は試したことはないが、牛の尻尾というのも、それなりの方法で料理するとおいしいそうである。
やはり南米にいた頃、牛の瘤というのを食べたことがある。
脂がのっておいしかったが、ちょっとシロウトが料理するのは、大変そうである。
骨のことから逸れてしまったが、外国で食べたものの話は、話題が尽きない。
いずれ、これも、まとめてみたい。

今日、連れ合いは、人に誘われて、講演会に出かけていった。
思わぬ事で、家事代行をする羽目になり、ずいぶん気疲れしているらしい。
「三度の飯の支度だけで、1日が終わってしまう」と嘆いている。
その上、一昨日は、私がうっかりして、ホームページのファイルを削除してしまい、何とか復活出来ないものかと、あれこれやってみたが、ftpでも取り込めないことがわかり、その手伝いも加わって、「疲れたよ」と言うことになったのだった。
37ページものファイル、半分くらいは、いくつかのパッケージに分けて保存しているので、修復可能だが、全く残ってないものもある。
仕方がないので、また作り直すことにした。
テキスト部分は、web上からコピー出来るので、あとは、webページを印刷し、それを見ながら、画像などを復元することになる。
とんだ事になった。
サーバーにあるのがせめてもの慰めである。
どじな人のことをbone headと言うそうな。
まさに言葉通りの失敗であった。


ヘヘヘー
2003年08月29日(金)

にわか車椅子の身になっていても、世の中の動き、周辺の人間模様は伝わってくる。
大きな事から言えば、世界で、未だ絶えない国と国との争い、人種や宗教の違いから来る軋轢は、人間がこの世に存在する限り、果てしなく続くのであろう。
ひとりひとりは、みな平和で愉しい人生を送ることを理想としているに違いないのに、それが、そのようにいかないのである。
そして、種々の迫害を受けてきた人たちが、立場を変えて、別の人たちを迫害する側に廻ることもあり、人間はいつも流動的な混沌とした中で生きていることを感じさせられる。
小さな事で言えば、家族や友人、集団、それらを取り巻く社会の中での、さまざまな葛藤。
はじめは、ごく小さな誤解から生まれたことが、時が経ち、周囲の事情が変わるにつれて、風化するどころか、逆に、溝を深め、取り返しの付かぬ事態になることも、哀しいかな、事実である。
最近つくづく感じるのは、もし、自分が大事にしている人との関係の中で、それを維持しようと思ったら、やはりそれなりの努力はしなければならないだろうと言うことである。
いつか、私はある人とちょっとした言葉の行き違いから、気まずいことになったことがあった。
しばらく経って、私のほうが謝るべきかなと思ったので、率直に、非を詫びた。
本当は、どちらが悪いと言うことではなく、売り言葉に買い言葉になってしまった些細なことであった。
そのまま時間が経てば、お互い、忘れてしまうようなことだったかも知れない。
ただ、私の性格として、小さな事でも、曖昧にしておきたくなかったのである。
相手は私より年長で、いわば先輩にあたる人だから、こちらが先に謝ったほうがいいと思ったのであった。
するとその人はこう言った。
「あなたは、大変ケジメのきちんとした人ですね。それは大変結構だけど、こんな事は、むしろ何もなかったようにヘヘヘーと話しかけてきた方が、にくめないですよ」。
それに対して、私は反論はしなかった。
それは向こうの考え方、私とは生き方が違うと思ったが、そこで論争しても仕方がない。
それよりも、人間関係を維持する方が大事だったからである。
そのことは、それで済んだ。
しかし、私の中には、小さな拘りが残った。
この場合は、へヘヘーで済むことだったかも知れないが、物事によっては、そうはいかないこともあるのではないか。
たとえば、立場の違いがある場合。
親が子どもを叱る場合、不用意に言ってしまう、子どもの心を傷つける言葉。
私も子どもの頃、そう言う経験がある。
ぐさりと刃で切り裂かれたような言葉は、半世紀経っても、まだ覚えている。
また、そんな経験を持っているにもかかわらず、自分が親になったとき、どれだけ子どもの心を傷つけてきたか。
思い出しても、自分の舌をかみ切りたいような言葉を投げたことが、ホンの1,2度だがある。
子どもにとって、それは、へヘヘーで済むことではないだろう。
会社の上下関係はもちろんのこと、学校の教師と生徒、地域社会の中、医者と患者の間でも、見られることである。
入院先で、医者や看護婦から言われた無神経な言葉は、いまだに忘れない。
医術よりも、人の気持ちを学んで欲しいと思ったものである。
本当はみな平等で、公平に扱われるべき筈の、趣味のサークルでも、それはある。
リーダー的存在である人が、集団を、自分の恣意的な考えで、動かそうとする場合、正面切ってものを言う人は厄介な存在である。
そこで、理由にならない理由を付けて、邪魔者を切り捨てる。
周りは、一見おとなしいイエスマンばかりが残る。
その連中が真から従っているかというと、そうではなく、帰りの下駄箱会議や赤提灯で、鬱憤を晴らすのである。
リーダーは、そんなことは、うすうす感じているが、表面、何も起こらないことを良しとするので、ほかの人が何を考えているかと言うことは、問題にする必要はないのである。
半世紀以上前の、ある社会主義国のリーダーがそうであった。
彼によって粛清された人々の血で、その国土の一部は赤く染まっているはずだ。
その人達のほとんどは、釈明の機会も与えられず、公平な裁判も受けることなく、屠られたのであった。
そして、リーダーの力を恐れる人たちは、わかっていながら、その人達を庇うことも出来なかったのである。
いまの日本、言論の自由は表向き保障されている。
しかし、社会の小さな処では、似たような不正義が行われ、理不尽に人を追いやり、すべての罪を、追いやった人に被せ、なおかつ、それでも足りずに、集団の力を借りて、追いやった人を誹謗中傷し続けると言う、卑劣なことが、平気で行われている。
エヘヘーで済む話ではない。
そして、援軍もなく、たったひとりで、孤独な戦いをしなければならない人間は、せめて残された武器たるペンで、対抗するしかないのである。
少しばかり筆が滑ったところで、それがどうだというのだ。
これは、私がかつて住んでいた、ある国の、ある地方の、ある人に起こった出来事である。


新涼
2003年08月27日(水)

骨の痛みは大分薄れているような気がするが、まだ、床に直接足をつけると痛い。
ギブスと言っても、足の裏と膝の裏側を支えているだけの簡単なもので、これで骨を庇っていることになるのかしらと思うが、必要にして十分な機能は備えているのであろう。

昨日は、息子の妻から電話がかかってきて、骨の具合を尋ねてきた。
彼女は、10年前、結婚直前に足の指を折り、結婚式は予定通りおこなったものの、足を少し引きずりながらの花嫁であった。
細いヒールの靴を履いて出勤途中、バスから降りる際、転けてしまい、全治3週間かかったらしい。
わたしが「医者に1週間と言われたわ」というと、「えっ、そんなに早く治るんですか」とビックリしていた。
わたしの場合は、彼女より、ずっと軽症だったと言うことだろう。
でも、彼女と話しているうちに、息子が腰を痛めて、整形外科に通っていることを知った。
土曜日に電話したとき、そんなことは一言もいわなかった。
「きっと、お母さんに心配掛けたくなかったんですよ」という。
体重が増えすぎて、足に負担がかかり、それが腰痛に繋がったらしい。
「じゃ、私のことどころじゃないわ。そっちを大事にして頂戴」と言って、電話を切った。
夜遅く、今度は息子から電話がかかってきた。
「骨のほうはどう?」と訊いている。
「もう痛みもないから、あとは時間の問題よ。そんなことより、整形外科に通っているって言うじゃないの。いまからそんな事じゃ大変よ。よく養生しなさい」というと、息子は、話を逸らせてしまい、「骨を折ったり、捻挫したときはねえ・・・」と、むかし陸上競技生活をしていたときの経験談を話してくれた。
息子というのは、普段何もないときは、音沙汰なく済ませているが、いざというときは、やはり真っ先に心配してくれる。
優しいのだなあと思う。
もう17年も前のことだが、私が3ヶ月ほど入院したことがあった。
連れ合いは、一番仕事の忙しいときで、息子は浪人中だった。
受験勉強をしながら、時々母親を見舞い、留守中の家のことまで、さぞや大変だったに違いないが、息子は、私に一度もグチめいたことを言ったことがなかった。
真夏から秋にかけての時期だった。
ゴミの処理が適切でなくて、ウジがわいてしまったり、ちょうど町会の当番に当たっていて、心ない人から、回覧板の回し方が悪いと、文句を言われたこともあったらしい。
「最近、少し料理がうまくなったよ」と、枕もとで話してくれたことがあった。
「何を作ってるの」と聞くと、「とにかく何でもマーガリンで炒めちゃうんだよ」と笑っていた。
「お父さんが早く帰ったときは、御飯を作るのはお父さん、僕が後片づけ」と言った。
「勉強のこともあるのに、大変ね」というと、「イヤ、大丈夫だよ。それより早く元気になってよ」と言って、息子は帰っていくのである。
一度、しばらく姿を見せないので、心配していたら、秋口で寝冷えをしたらしく、熱を出していたという。
私は、病室から電話を掛け、「冷房掛けすぎないで」と言った。
そんなことがいくつかあり、父子の共同生活も、限界に思えたので、近所に住む友人に訳を話して、週に2度、洗濯や掃除を手伝ってもらうことにした。
ただ好意に甘えるのはイヤなので、1日幾らと金額を決め、それで引き受けてもらった。
彼女は、私が退院するまで、留守中の男二人の、洗濯掃除、そのほかのこまかなことまで、面倒を見てくれた。
病気と入院、これは私にとって、やはり人生の大きな転機となった。
医療に関しての疑問、入院生活で感じたことも沢山ある。
入院中、大学ノート3冊の記録が出来た。
いつか、まとめて書きたいと思っている。

今日は涼しい1日だった。


口とアタマ
2003年08月26日(火)

簡易車椅子生活四日目。
人間というのは面白いもので、体のどこかが支障を来すと、ほかの機能が、それをカバーするために、働くらしい。
視覚障害のある人は、その分聴覚がすぐれていると聞くし、数学は出来なくても、絵がうまいとか、ほかの人にないすぐれた点があったりする。
俗に美人は心根が悪いというのも、この逆を行く理屈であろう。
すべてを兼ね揃えた人もいるかも知れないが、そんな人はむしろ、個性がなくて、魅力に欠けるのではないか。
そんな気がする。
いま私は、一時的車椅子生活者であるが、ただ黙って座っているのもつまらないので、家中をキャスターの音をごろごろさせながら移動し、そのお陰で、いままで気の付かなかったことを発見したり、面白いこともある。
私の場合、足をカバーするのは、アタマ(頭脳という意味ではない)と口である。
夕べ、連れ合いは会合があると言って出かけた。
「ひとりで大丈夫かい」と言いながらも、内心、久しぶりにひとりで出かけるのが、愉しいようであった。
私は座敷で横になっていたが、日が暮れてきたので雨戸を閉めようと思った。
しかし畳の部屋には、椅子が使えないので、這って、雨戸の処まで言ったが、スチール製の雨戸は重くて、とても動かせない。
そこで考えた。
無理をして閉めても、帰ってきた連れ合いは、私がどんなに苦労して雨戸を閉めたか、きっとわからないだろう。
いつものように、自然に動いている家庭内の現象で終わってしまう。
このままにしておこう。
内側の戸は閉まっているから、それで泥棒が入ることもあるまい。
夜遅く帰ってきた連れ合いが、雨戸が閉まっていないことに気が付けば「あ、そうか」と思って閉めるだろうし、気が付かなくても、夜が明けば、「夕べ閉め忘れたんだな」とわかる。
いまの私の状態では、出来なかったことに気づくだろう。
私が元気であれば空気のようにしか感じないことも、雨戸というのは、空気が開けたり閉めたりするのではないことがわかる。
今朝早朝、私の寝ている間に、連れ合いはゴルフに出かけていった。
起きたとき、まだ暗かったはずだが、一階に下りたとき、座敷の雨戸が開いたままだったのに、気づいたかどうか。
でも、食卓には、私の御飯茶碗とお椀、箸が置いてあり、台所には、みそ汁が作ってあった。
お椀には、庭で取ったミョウガが、刻んで入っているのが嬉しかった。
私は、みそ汁を温め、お椀に注いで、食事をした。
ギブスをしているので、少しの間なら立ち上がることも出来る。
ギブスを外し、シャワーを浴びることにした。
浴室には、老父がお風呂にはいるとき使っていた介護用の椅子を入れ、それに腰掛けて、シャワーを使った。
椅子で移動したり、階段を這って上がったりすると、床の汚れが目に付く。
少しさっぱりさせようと、掃除用ペーパータオルを棒に挟んで、床を掃除した。
キャスター椅子を動かしながらいなので、簡単である。
この方法は楽だな、今度から足が治っても、これでやろうと思った。
このことは、連れ合いには黙っていることにする。
口のほうは、元気な時もだが、足が故障してますます冴えてきた。
普段から連れ合いは、私のくだらないお喋りには、よく付き合ってくれる方だが、一緒にいる時間が増えると、話も多くなり、少しゲンナリしているらしい。
「君はやっぱり、ほどほどに出かけてたほうがいいね」などと言っている。
夜遅く、私が呑んで帰ってきても、文句を言わないのは、自分の代わりに、話し相手になってくれている人があると思うからであろう。
私が、何でも連れあいに話すのは、私が先に逝くようなことがあったとき、知らずに「天敵」から香典などもらって欲しくないからである。
私の遺影の前で、天敵がシラッとお線香など上げるさまを想像しただけで、死ぬに死ねなくなるではないか。
どうか安らかに成仏させて欲しい。
「この人とこの人は、天敵だからね」と教えてある。

外出できない分、暇になったので、ボード連句を再開することにした。



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