沢の螢

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炎症庵
2003年10月15日(水)

昔から俳諧師という人たちは、何かしらの庵号、座名を持っていた。
その伝統を引き継いで、私の周辺にも、宗匠と呼ばれる人たちはこうした名前を持っている。
「・・庵」または「・・亭」といったたぐいである。
今日の連句の会のあとで、例によって有志が20数人、飲み屋に繰り出したが、そこでも、そんなことが、私の周りで話題になった。
立机して宗匠となる人たちの庵号は、真面目な話だから、それとして、飲み屋での話は、もし、自分に庵号を付けるとしたら、どんな名前がいいかということを、ちょっとふざけたのであった。
私は、自分のサイトで、複数の連句ボードを置いているが、それぞれに名前を付けている。
「俳諧みづき座」、「俳諧蘭座」、あるいは「リリック連句座」といった具合である。
以前は、「連句燦々」とか、「連句遊々」などと名乗っていた。
常時付け合いを愉しみ、ほかの人のサイトにリンクしてもらっていたこともあった。
しかし、いろいろな経緯があって、それらのボードは削除、いまは三つのボードを交互に運営している。
ひとりで全部やっているので、管理が大変なときもあるが、参加者が愉しんでくれればいいので、気の向くまま、好きなやり方で運営している。
現実の連句座では、私は結社の一員に過ぎないし、本名以外の偉そうな名前があるわけではない。
しかし、インターネットは、虚構の世界だから、そこでは、勝手に座名を付けて、亭主気取りでいるわけである。
もし、もうひとつ名前を付けるとしたら、少しひねって「艶笑庵というのはどうかしら」というと、「ナニ、炎症庵?」とそばにいた男性が言って、笑った。
私が足の骨を折って、ひと月半も、連句座に出られなかったことを、茶化したのである。
「炎症庵、悪くないわね」と私も言って、その話はそれで終わった。

先週末から3日ほど、連句関係の行事で山形に行った。
連句は文芸の中ではマイナーで、俳句や短歌に比べると、関わっている人はまだ多くはないが、関わり方の深さにかけては、かなり上ではないかという気がする。
それは、連句が、文字通り「座」の文芸だからであろう。
複数の人たちで、座を作り、一つの作品を作り上げていく過程は、音楽に例えると、オーケストラであり、合唱である。
この魅力にとりつかれると、なかなかやめられなくなる。
その代わり、人間的な繋がりも関わってくるので、なくもがなのトラブルの果てに傷ついたり、人間関係がうまくいかずに、時にそこから遠ざかりたくなることもある。
それでも、やはり、やめられずに、また戻っていく。
連句によって、癒されることも少なくないからである。

ひと月ほど前、私はある人に長文の手紙を出した。
この1年ほど、明快な答えがなくそのままにされていることについて、責任ある立場の人に宛てて書いた質問状だった。
ある小さなグループから、私は事実上「追い出された」のだが、その「罪状」と理由を明らかにしてもらいたいこと、私の人格にも関わるそうした仕打ちについて、私にすべての原因と責任があるのかどうかを、あらためて正面から問いかけたものだった。
直接の関係者にとっては、「一人抜けた」ような小さな事であり、時間が経てば忘れてしまえるようなことかも知れない。
しかし、私にとっては、ちゃんとした答えが得られない限り、終わりがないのである。
きっかけになった人が、何も関係ないような顔をして残り、私だけが「断罪」されたのは、納得しがたいし、それに同調した人たちを、いつまでも許せずにいるからである。
追われた人間にとっては、「個人的な些細なこと」ではないのである。
追い払っただけでは足りずに、こちらの実名を挙げて弾劾し、さらに傷を深めるようなことをする。
そんなことを、なぜ、たったひとりで、耐えなければならないのか。
しかし、3週間も経って来た返事は、実に、誠意のない、実の籠もらないものだった。
質問に対する答えは、何もなく、言質を取られないように用心深く、短く終わっていた。
そこには、何も起こらず、関係者は誰も存在していないかのような書き方だった。
どこかの国の代議士の国会答弁のほうが、まだましだと思えるくらい、狡猾で、老獪だった。
怒りと失望を感じたが、これで、気持ちの整理がついた。
こちらが真摯に問いかけたことに対して、応えない人たちというのが存在するのである。
彼らにとっては、いなくなった人間より、現在いるメンバーのほうが大事であり、グループを守るためには、どんな手段も使うのである。
共同作品を作り上げることを目的とするグループの、唱っていることとは異なった正体を、見た気がした。
人の心を、土足で踏みにじって、平然としている人たちと、2年近くも、付き合っていたことになるのかと、愕然とした。
判ったのは、一見民主的で、公平を心がけているかのようなところにも、理屈抜きに、支配する力があり、闇の部分があると言うことだった。
その人達と「連句」を巻くことは、今後おそらくないだろう。
「炎症庵」とはよく言ったものである。
炎症を起こしたまま、彷徨っている心にも、休む場所がなければならない。


夢のありか
2003年10月10日(金)

私は睡眠時間は、それ程多くない。
短い間に熟睡するほうである。
健康なときは、6時間ぐっすり寝れば、疲れは快復する。
そして、めったに夢はみない。
しかし、何かで、興奮しているとき、考え事をしたり、悩みがあるとき、あるいは、体調の悪いときは、夜中にしじゅう目が覚めるし、長い時間寝ている割には、すっきりしない。
そして、そんなときは、必ず夢をみる。
2,3日前から風邪を引き、熟睡していないせいか、このところ、バカに夢をみる。
目が覚めれば、記憶に残っていないことが多いが、時に、妙に鮮明に、夢の内容を覚えていることがある。
登場した人の名前、顔が判っている場合は、もちろんだが、知らないはずの人まで、絵心があれば復元できるくらい鮮明に顔かたちが浮かぶことがある。
夢というのは、心理学的に言うと、やはり、現実の世界と、深く関係があるのだろうか。
フロイトに依れば、さまざまな分析が出来そうだが、その辺は、詳しくないので、単純に夢は夢として、愉しんだり、ちょっと考えたりする。
漱石「夢十夜」風に、こんな夢をみた、と始めてみよう。

長い道を歩いていた。
遠くに高い建物があり、そこに行こうとしているのに、いつまで経っても、建物の大きさはそのままだった。
はじめは一人だった。
そのうちに、となりに誰かが一緒に歩いている。
横を向こうとしても、なぜか首が回らないので、その人の顔を見ることが出来ない。
しかし、知っている人のような気がした。
多分あの人だと思った。
そのうちに、隣からタバコの煙が漂ってきた。
タバコを吸わないはずの人が、なぜタバコを吹かしているのだろう。
私は前を向いたまま、「タバコはやめてください」と言った。
すると、その人は、「あなたは何でも否定形でものを言うんですね」と答えた。
そして「ふふふ」と笑う声がした。
それが女の声だった。
いつの間にか、もうひとり増えていた。
3人が横に並ぶと、道が狭くなるわと言って、そちらを見ると、誰もいない。
前を見ると、2匹の白い生き物が、走っていく。
「ふふふ」という声が遠ざかっていった。
追いかけようとするのに、足が進まない。
叫ぼうとするが、声が出ない。
生き物のうちの一人が振り返った。
手で、目を隠し、長い舌を出した。
もうひとりの生き物は、そのまま建物に入っていった。
「待って」と言ったが、声にならなかった。
目隠しをした生き物が、「ふふふ」と笑いながら、建物に入っていった。
そこで目が覚めた。

なぜこんな夢をみたのかわからない。
直後は、もっと細部まで覚えていたが、だんだん忘れてしまって、残っているのは、かけらのような、断片的な場面である。
脈絡のない、何も話に関連性のないのが、夢というものなのだろう。
バスや電車に乗っているとき、吊革につかまって、ぼんやりしているときにも、一瞬ではあるが、夢のようなものを見ることがある。
そして、すぐに、消えてしまう。
夢だったのか、ふと浮かんだ考えだったのか、判然としない。
忘れてしまうと言うことは、考えと言うより、一瞬の夢か幻と見た方がいいのだろう。
ホンのたまに、惜しかった、続きを見たかったと思うところで、目が覚めてしまうことがある。
慌てて、もう一度目をつぶっても、続きを見ることは出来ない。
「折角いい夢を見てたのに」と、恨めしい。
夢を食べてふくらんだ貘のお腹の中を、覗いてみたいものだ。


金木犀
2003年10月09日(木)

今週に入り、急に寒くなり、ちょっと油断をして軽い風邪を引いてしまった。
夫が、4,5日留守をして、おととい帰ってきたが、「オレのいない間、ろくなものを食べなかったんだろう。栄養失調じゃないか」という。
確かに、主がいないと、自分の食生活は、いい加減になる。
誰かが作ってくれれば食べるが、わざわざそのために、買い物に行ったり、時間と手間を掛けるのは、はっきり言って面倒くさい。
ふと気が付くと、昼抜きになっていたりする。
出かける用事があれば、外でついでにと言うことになるが、たまたま、外出の予定もなかった。
朝は、夫がいれば、必ず和食だし、みそ汁も、納豆も食べる。
夫は三食欠かさないので、昼は、パンか麺、単品と言うことはなく、野菜炒めを作ったり、オムレツを焼いたりする。
しかし、自分一人の場合、朝と昼を一緒にしたブランチ、それも、パンに紅茶、ゆで卵がせいぜい、サラダを作ったり、炒め物をするのは、面倒である。
時々、芯からイヤだなあと思いながら、食事作りをするのは、自分のほかに食べる人がいるからかも知れない。
夫に先立たれたら、私はきっと、すぐに栄養失調になって、死んでしまう。
何日も、泣き暮らして、痩せていき、そのうち、気力もなくなって、誰も知らないうちに、あの世に旅立ってしまう。
こんな事を言ったら、連句の悪友どもが、「いやあ、そんなことないと思いますよ。すぐに、ニコニコして、ひと月も経たないうちに復帰して、後顧の憂いがなくなったとばかり、ますます意気軒昂になるんじゃないですか」なんて言う。
イマニミテロ。
息子が、ウチに来ると、「お父さん、長生きしてよ」とは言うが、私には、そういわないのは、私のほうが残されると、かなり厄介だと思っているからに違いない。

金木犀の花がそろそろ落ち始めた。
香りが年々薄くなってるのは、木が弱ってきたからか。あるいは、環境の変化か。
昨日は、夫の母の命日だった。
24年前の10月8日、亡くなった。
脳出血で倒れ、救急車で運んで、まもなく意識不明になり、1週間後の死だった。
二人の息子と、その連れ合いに見守られながらの静かな最後だった。
ちょうど、金木犀が、見事な香りを漂わせていた時期で、母の入院していた間に、雨が続き、花は次々と散っていった。
母が倒れる前の晩、私が覚えているのは、台所で何かをしていた母が、「さあ、もう寝ましょう」と言って、エプロンを外し、「おやすみなさい」と私に声を掛けて、自室に入っていった姿である。
「おやすみなさい」と私も、答えて、母の背中を見送ったが、それが、元気な母との最後の会話となった。
70歳になったばかりであった。
50歳そこそこで、夫に先立たれ、大学を卒業したばかりの長男、まだ高校生だった次男と3人になった。
それから、二人の息子が、家庭を持ち、孫にも恵まれ、これから穏やかな老後を愉しみたいと思っていたはずである。
私たちが南米で暮らしていた頃、たった一人で、太平洋を横断して、母はやってきた。
寒い日本の冬を避けて、1,2ヶ月の予定であったが、結局半年そこで暮らした。
いろいろな思い出がある。
いつか母の事も書きたい。


読書する女
2003年10月06日(月)

2,3日前に電話したとき、母の声が元気がなかった。
私が骨折して以来、行ってないので、「近々行くからね」と言っておいた。
今朝、電話をして、「今日か明日行こうと思うんだけど」というと、「明日は歯医者に行くから、今日の方がいい」というので、午後から行くことにした。
電話を切ったと思ったら、すぐ母から掛かってきて「廊下の本箱に五木寛之の『大河の一滴』があるはずだから、探して持ってきて」と言う。
3年前まで、父母は私の家で暮らしていたが、その部屋は、そのままになっている。
庭に面した広い廊下には、父の本箱があり、それも、そのまま置いてある。
「大河の一滴」は、母が読みたいというので、文庫本になったものを、私が買ってきたのだった。
一度読んだが、また読み返したくなったらしい。
本箱からそれを抜き、ほかにも、気軽に読めそうな数冊を取り出した。
母の元へ行くのは、午後からお茶の時間を挟んで、夕食前までの頃がよい。
昼食を済ませ、そろそろ行こうかと支度をしていたら、母から電話。
「今雨が降っているでしょう。滑ると危ないから、今日はやめた方がいいわ」と言う。
確かに、明け方から小雨が降っている。
母には、「捻挫」と言ってあるが、私の足を心配しているのである。
でも、最初に掛けたとき、そんなことは言わなかった。
あるいは、誰かほかの人が、行くことになったのかも知れない。
母は、自分の娘達であっても、複数の人間が、鉢合わせすることを好まないのである。
90歳になってもなお、母はゴッドマザーを演じたいのである。
しかし、言われたことだけ素直に受け取ることにし、「じゃ、今日はやめるわ。また、2,3日中に行くからね」というと、母は安心したように、電話を切った。

母はもともと、そんなに読書をするひとではなかった。
父のほうは本がなければ1日も生きられないような人だったので、戦後の混乱期にも、狭いアパートに、父の本箱だけは、場違いなスペースを占めていた。
私が小学生の頃、忘れられない記憶がある。
多分、冬の夜遅くだったと思う。
話し声がするので、目が覚めた。
火鉢を囲んで、父が母に本を読んでやってるのだった。
縫い物をしながら母は、ぽろぽろ涙をこぼしていた。
読んでいる父の声も、涙にくもっていた。
何か、声を掛けてはいけないようなものを、子供心に感じて、私はそのまま、また目を閉じた。
あとで、その本が、上林暁の「聖ヨハネ病院にて」であったことを知った。
私の目に映る母は、いつも父と私たち4人の子どものことで、忙しく働き、ゆっくり本を読んでいる姿を見たことはなかった。
だから、読書などしない人かと思っていた。
でも、冬の夜に垣間見た父母の姿で、母も本当は、本が好きなのだと知った。
この数年の間に、父は本を読む力がなくなり、その代わりのように、母は本を読んでいるらしい。
いつか行ったときも、母のベッドのそばには文庫本が置いてあり、見ると「啄木歌集」だった。
「退屈なときに、読んでるの」と母は、悪いことをして見つかった、子どものような表情をした。
文庫本は、疲れるに違いない。
後で図書館に行き、「大河の一滴」が大型活字本になっていたら、借りてこようと思った。


祭りのあと
2003年10月05日(日)

骨折で家に引き籠もっている間も、インターネットの連句は続けていた。
こんな時、パソコンを覚えていて良かったと思う。
居ながらにして参加できる、インターネットの有り難さを感じる。
全快するまで、出かけての座に参加できないとなると、ネット連句だけが頼りである。
今7人での付け合いのほか、独吟もやっているが、もしこういう物がなかったら、かなりつらい日々だったと思う。

今日は、座の連句にも復帰するべく、骨折以来45日ぶりに、深川の連句に行った。
ここでは、参加者は多いときで25人、最近少し減っているようで、今日は11人だった。
私はくじ引きで、6人の席に配され、歌仙に参加した。
終わったのが6時過ぎ、それから食事に行くという人たちと、小さな飲み屋に付いて行き、久方ぶりに会話と酒も愉しんだ。
飲み屋では、5人という気安さもあって、最近問題になっている訊かずもがなの話も聞いた。
風の便りに入ってきた、別の人の話と比較して、自分なりの判断材料を持つことが出来て、大変良かった。
人の口から語られる話というのは、錯綜して、少しずつ違っており、こういうことは、情報が多いほどよい。
もはや解決済みのことであり、やがて公式見解が発表されることではあるが、そこに大きく関わった人の口から、直接経緯を聞くことが出来て、見えてきたものもあった。
その人と、帰りの電車が一緒だった。
来週に迫っている行事の話などをしながら、電車に揺られていた。
5,6年前までは、ふざけたことを言い合っていた仲間だった。
その人が、時の成り行きで、重い役を持つことになり、今、心労の多い立場にいるのだった。
そのことには、お互い触れなかったが、大変だろうなと、その心の内を想像した。
私のほうが先に乗換駅に着いた。
降りるとき、彼は「ホームの先に、エレベーターがあるから、利用するといいよ」と、教えてくれた。
その人は、私の骨折のことは、誰かから聞いていて、いたわってくれたのだった。
折角教えてくれたからと、エレベーターのほうに行きかけたが、思い直し、階段を使って、電車を乗り換えた。
昨日は美容院、今日は連句と、2日続けての外出だったが、それ程の疲れは感じない。
まだ足は引きずるが、それも、やがて直るだろう。
昨日、美容院の帰りに靴屋に寄り、医療用の靴を買おうと思ったが、それよりも、普段の履き慣れた靴で慣らす方がいいと考え直し、買うのをやめた。
昨年、中国旅行の際、馴染んだ靴がある。
今日はそれを履いて出た。
骨折経験者が何人かいて、医者よりも有益なアドバイスをしてくれた。
明日は、両親の顔を見に行こうと思う。


社会復帰
2003年10月03日(金)

昨日は、42日ぶりに電車に乗って、都心まで出かけた。
ある大学の公開講座に出席するためである。
足の骨折以来、家に籠もっていたが、もう6週間経ち、新しい骨も出来ているので、いつまでも、引きこもり状態を続けるわけにはいかない。
「社会復帰」は10月からと決め、ギブスが取れてから2週間は、家の中でのリハビリに徹した。
リハビリと言っても、特別なことをするわけではない。
居間と台所、私の書斎の間をいったり来たりするだけで、結構な歩行の量になる。
階段の上り下りは、日に何度かするので、自然にリハビリになる。
ずっと夫に任せていた家事を、夫が「大政奉還」するというので、外回りやゴミ出し以外の仕事は、元通り、私がやることになった。
一昨日は、近所のスーパーに一緒に行ってもらい、買ったものを家まで運んでもらった。
まだ自転車に乗るのはコワイ。
思わぬことで、足に力が入って、骨がポキリといきそうな気がする。
理屈の上では、そんなことはないのだが、左右のバランスが悪くなっているような不安がある。
そこで、まずは近場を歩くことから始めた。
休んでいる間に、季節が変わり、スーパーの食料品も、様変わりしている。
夫は料理が一番苦痛だったようで、半調理品や、ナマのまま食べられる豆腐、はんぺん、トマトや果物を、切ったり洗ったりするだけで精一杯だったので、食生活がずいぶん偏ってしまった。
「入院しててくれれば、君の分を作らなくて済むのに」と、よく言っていた。
自分だけなら、どこかに食べにいったり出来るのに、私がいたために、食事抜きというわけに行かなかったのである。
洗濯物を干したり取り込んだり、習慣にないことは忘れてしまうので、時々私が、座ったまま指図したりした。
おとといは「全快祝い」ということにして、ワインを開け、乾杯した。

昨日の公開講座は、一緒に行く友人がいるので、駅で早めに待ち合わせた。
時間があるので、駅ビルの中のイタリア料理の店に入り、パスタを食べた。
それからゆっくり大学構内に入り、講座の開かれる会場に行った。
この大学の社会人公開講座は、20年ほど前から、時々通ったことがあるので、懐かしかった。
6時45分からの講座なので、始まる頃には、暗くなっていた。
「俳句研究」と題した講座は、講義と実作を取り混ぜて、進行することになっている。
昨日は、全体のアウトラインを話し、来週から俳句、連句の実作があるというので、楽しみである。
週一回、12回続く。終わるのは、12月半ば過ぎ、そう考えると、今年も、そう長くない。
授業が終わって、駅までの道を歩きながら、「疲れたね」ということになり、駅構内のコーヒーショップで、濃いめのコーヒーを飲んだ。
久しぶりに話も弾んで、家に帰ったのは10時過ぎ。
夫が心配顔で迎えてくれた。
今日は秋晴れ。
夫は蓼科に行った。
山荘を閉めるためである。
私も行きたかったが、今回は、残って、こちらの秋支度をすることにした。
夏物、冬物、処理しきれないまま、あちこちに散乱している。
寒くならないうちに、片づけねばならない。
連句の作品集を作る仕事もあるし、忙しくなりそうだ。
蓼科は、秋の日射しが降りそそいで、とても、いい景色だとか。
4,5日、家から離れれば、夫にとっても、いい骨休みになるだろう。
私は、郵便局に手紙を出しに行き、図書館に寄って、6冊ばかりの本を借りた。


それぞれの正義
2003年10月02日(木)

子どもの頃、ターザンの映画が好きだった。
もとオリンピックの水泳選手だったジョニー.ワイズミューラー演ずるところの初代ターザンは、森の中で暮らしている。
皮の腰布を付けただけの姿で、妻と子ども、動物たちと、原始に近い生活をしている。
木から木へ跳び、川を泳いで、獲物を捕り、平和で、愉しい暮らしである。
そこに時々、侵入者が現れて、悪いことをする。
強いが優しいターザンは、平和を乱す悪人達と、決然と戦う。
その姿はとても、素晴らしく、当時の映画館は、観客がスクリーンと一体になってみる習慣があったので、妻や子や、動物たちの危機を救うためにターザンが現れると、拍手したものだった。
日本映画でも、鞍馬天狗などはそうだった。
悪を懲らしめる正義のヒーローは、人々が持っているひとつの夢かも知れない。
水戸黄門のテレビが、長寿番組になっているのも、これと同じ理由であろう。

しかし、現実の人間社会は、もう少し複雑で、正義の姿は、誰が見ても同じとは限らないのである。
特に、企業や政界、学校、地域社会、小さなグループにあっても、個人の正義と組織の正義が、いつも一致するわけではない。
最近、話題になったいくつかの医療事故、病院の名誉と社会的地位を守るために、まず事実を隠すか、あるいは、公にして、社会の審判を仰ぎ、潔く断罪される道を選ぶか、それを決めるのは、そこに働く人たちの正義が、どこにあるかと言うことで決まるのであろう。
こういうものが、外に出るのは、多くは内部告発かららしいが、告発する人も、組織の正義と、人としてのあるべき正義との狭間で、悩むに違いない。
あるいは、そんなこころざしの問題とは別の、利害が絡んだ結果かも知れない。
人が集まるところには、必ずそうした問題がある。
組織、あるいはグループの対面を守るために、本当は正しくないと解っていながら、邪魔になる人を切り捨てるということも起こる。
これは、大変理不尽なことであるが、現実には、あちこちで見られることである。
その場合、切り捨てられた人間はどうするか。
黙って、しばらく様子を見る。
正面から、反論なり抵抗を試みる。
そこから離れ、別のところに居場所を探す。
まあ、こんなところであろう。
もっと、元気のいい人なら、別の組織を作って、そちらに人を集めることもするかも知れない。
邪魔者を追い出した方は、組織としての正義を守るために、すべての罪を追いやられた人に被せ、メンバーにもそのように言い含めて、相手があきらめるのを待つ。
しかし、自分たちの不正義は解っているので、そのままで済むかどうかという不安は、常につきまとう。
黙って、済めばいいが、いずれ何かの形で、返ってくるかも知れない。
それが怖さに、相手を抹殺して、殺戮を繰り返していったのが、ソビエト時代のスターリンであった。
独裁者の正義は、相手を殺すことによってしか、守られないのだから。
小さなグループであっても、生きながら殺すという点では同じである。
抹殺された人間が、真剣に問いかけた疑問に答えず、握りつぶし、あるいは、とぼけてはぐらかす。
そんな人が、例え世界平和を唱え、平和運動に身を挺していたとしても、それはまやかしであり、ポーズにしか過ぎないのである。
直接肉声を訊ける相手に対し、誠実な態度を取れない人が、口先で人類愛を唱えても、誰が信用するだろうか。
それが見抜ける人というのは、実はそう多くない。
だから老獪な妖怪が、大手を振って歩けるのである。
水戸黄門に出てくる悪代官は、見るからに悪相をしているが、現実の悪人は、見分けるのがむずかしい。
しかし、そういう人がいないと、ドラマは平坦で面白味に欠ける。
その意味では、悪人も、存在意義があるのかも知れない。



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