沢の螢

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あらたまの
2004年01月01日(木)

人の幸不幸、喜びや悲しみに関わりなく、年は巡ってくる。
子どもの頃の1年は長かったような気がするが、ある年からは、時の流れが速い。
10年が束になって、飛んでいく感じである。
考えてみると、イギリスで暮らしたのはついこの間だったような気がするのに、帰国してすでに15年経っている。
この15年は、本当に速かった。
息子が結婚して、すでに10年が過ぎた。
息子が妻を迎え、新しく所帯を構えて家を離れたとき、夫の友人から「これからは、自分の楽しみを持ちなさい」と言われ、連句を勧められた。
心が動いて、連句を始めたが、それも10年経ったことになる。
勧めた友人の方は連句を離れ、いくら誘っても、やろうとしない。
10年の間に、あんなにしっかりしていた両親は老いを深め、夫も私も最近心身の疲れを感じるようになった。
これからの10年は、確実に死に向かっていくのだが、果たして、今の精神生活が保てるかどうか。
考えると恐ろしい。
しかし、私は、元来楽天的なところがあるから、その日その日は、さほど悲惨なことも、不幸な思いをすることなく過ぎていくのだろう。
人との出会いや別れを繰り返しながら、傷ついたり、喜んだりして、また1年経つのだろう。
大晦日の街を歩きながら、そんなことを思った。

その息子夫婦が、暮れからハワイに出かけてしまった。
例年、息子の妻が、おせち料理を拵えて持ってくる。
姑が、料理の下手なことを知っているからである。
暮れまで働いて、やっと時間が出来たところで、素早く買い物と料理作りをし、車に詰め込んで持ってくる。
私には、とても出来ないことなので、いつも感謝して、彼女の才覚に任せている。
息子達は、大晦日から元日の二日まで、我が家で過ごし、そのあと、今度は彼女の実家に泊まりに行く。
今年は、暮れのうちに、「実はハワイに行きたいんだけど・・」という話があり、夫も私も賛成した。
嫁にとって、夫の実家で過ごす正月は、気働きばかりが先に立って、休めないことを知っているので、いつも、かわいそうだと思っていた。
なかなか夫婦で一緒にまとまった休みも取れないので、今回は、いいチャンスだから是非行ってらっしゃいと送り出した。
除夜の鐘の鳴る頃、息子から電話。
向こうの時間だと早朝の五時くらいである。
「気を使ってるんだよ」と夫が言った。
いつもと違って、夫婦ふたりの静かな正月となり、もうおせち料理もいいわねということになって、今朝は、少しばかりの料理を並べて新酒を酌み交わし、午後から義弟の家に出かけた。
例年なら向こうから一族揃ってくるところ、今年はこちらから行くことになった。
私たちは長男長女、正月に親戚が来ることはあっても、自分から行くことは、ほとんどないのである。
快晴とは行かないが、寒さもそれ程でなく、湘南電車に乗って、義弟の家に着いた。
甥夫婦、姪も揃って、迎えてくれた。
飲んだり食べたり、充分愉しんで帰ってきた。
行きも帰りも、電車はすいていて、道路も順調だった。
初詣の帰りらしい人たちにも、会った。
2004年の最初の日は、穏やかに終わりそうである。


冬景色
2003年11月06日(木)

今の季節は秋と冬の境目、天気が良ければTシャツ一枚でもいいが、朝晩は、寒さを感じるときもある。
今日は、少し生暖かいようだ。
俳句の講座に行く。
今日は、教室になっている都内の大学近くを吟行して、俳句5句を作るという課題である。
今の時期、5時になるともう暗い。
大学近辺には桜並木があり、土手に上れば電車の線路が見下ろせる。
少し早めに家を出た。
夕方から出かけるときは、困るのが食事で、外で一人で食べるのも、あまり好きではないので、家を出るとき、軽く何かつまんで行く。
講座が終わるといつも、一緒に行っている友人と、コーヒーくらいは飲むが、帰りの時間も気になるので、あまりゆっくりもできない。
今日は、朝、昼の食事時間がずれたので、牛乳を温め、バナナを一本食べて家を出た。
駅に着き、そこで、浮かんだ句を2句。

追い越せる片減り靴や冬の駅
冬駅や携帯音のあちこちに

歩道を渡るところで一句。

四つの谷在りし町とや冬木立

学校に行く途中の桜並木は、今はもちろん花はなく、枯れ木だが、土手が続いているので階段を上る。
人気がなく、もう暗いのでちょっと怖い。
ところが、人気がないのではなく、いくつかのベンチには、カップルが座っていて、蠢いているのだった。
これでは、覗きになってしまうではないか。
しかも、一人で歩いてくる男がいる。
慌てて下に降りた。
そこで一句。

カップルのほか誰も居ず冬の土手

気持ちを取り直して、空を見ると学校の尖った屋根に十字架が見える。
そこで一句。

尖塔の影浮かび来る冬の月

凡句ばかりだが、五句出来たのでそのまま校内に入り、図書館に入る。
原稿用紙に清書し、短冊にそのうちの三句をしたためて、教室に向かった。
私は、連句はやるが俳句は全く初心者である。
先生のところに集まった俳句を、皆で選句するが、私の句は、一人か二人選ぶくらいがやっとである。
前回は、二句を選んでくれた人があったが、今回は片べり靴を採ってくれた人だけ。
あとで気が付いたが、「冬の」という季語だけしか使わなかったのは、いかにも芸がなかった。
厳密にはまだ秋なので、秋の季語でも良かったし、冬の季語なら、日短か 暮れ早し 息白し 帰り花 など、幾らでもあったのに・・。
先生の評は、月の句に○が付いていた。
友人と帰りながら、「私たちはきっと連句的発想で作るから、俳句の人たちとは、ちょっと発想が違うのかしらね」と話した。
連句の発句は、あとに付けると言うことを考えて作るが、俳句は、一句でぴたりと完結しなければならない。
それに、あまり主観が入ってはいけないらしく、ほかの人の句は、皆、スケッチである。
俳句はもともと俳諧、今で言う連句の発句が独立して出来たのだが、一句で言い切ると言うことが、人に受けて広がりを見せたのであろう。
その点で言うと、連句は伝統的な式目があり、共同作品だから、ある意味で難しい。
でも、一旦この魅力にとりつかれると、やめられなくなる。
いまの私の精神生活は、これが中心である。
でも、人に勧めようと思わない。
自分が愉しければいいのである。
連句を広め、結社を発展させようとする人たちの気持ちも、わからないではないが、私自身は、それとは離れたところにいたいと思う。
自分の感性を大事にし、句の質を高め、その中で自由に遊ぶ。
受け入れてくれる人たちと良い付き合いをしたい。
所詮人間がやっていること、愉しいことばかりでないこともある。
この一年、つらいこともあった。
しかし、それも乗り越えた。
人に媚びず、自分を保って、精神の貴族を目指したい。
今はしみじみそう思っている。


生きた歴史
2003年11月05日(水)

この1年ばかり、多摩川を越えて神奈川県に入ったところで、月に一度、連句の座に参加している。
私を入れて6人くらいの小さなグループ。
メンバーは、60代後半から70代半ばまでの男の人3人に、50代終わりから60代前半の女性3人。
男性メンバーと女性メンバーとの間に、平均10年ほどの差があることになるが、これは結構いい組み合わせである。
リーダー格は、地域で俳句を教えている男の人。
私以外は、みなそこの教室の生徒だから、彼を「先生」と呼ぶ。
私は連句の習慣で、彼も含めてみんなをファーストネームで呼んでいる。
私が行く前は、私と同じ結社の人が連句を教えに行っていたらしい。
何かの都合で行けなくなり、私に代わりに来て欲しいと話があった。
たまたま、そこの「先生」が、私のインターネット連句に参加していたので、ネットが取り持つ縁である。
「教えるなんてことは出来ませんし、そんな柄じゃありませんから、皆さんと一緒に愉しむということで参加させてください」といい、それから行き始めて、この9月で1年過ぎたところである。
「先生」は、連句もかなりできるのだが、「私は俳句がメインですから」と言って、連句に関しては、一応私を立ててくれている。
午後から4時間足らずで一巻仕上げなければならないので、あまり長い物は出来ないが、前に来ていた人が、懇切丁寧に教えていたらしく、その成果が出て、皆、上手になっている。
お陰で私は、いつも愉しませて貰っている。
連句が終わると、近くの喫茶店などに寄って、お茶など飲みながら、雑談を愉しみ、散会する。
このときに聞く、男の人たちの話が実に面白い。
一人は、戦争に行ったことのある人、「毎日何千人という人が、バタバタ死んでいくんだから・・・」と、実際の体験談を聞かせてくれる。
もうひとりは、戦後、アメリカの駐留軍の施設で働いたことがあって、その時の、ヤクザまがいの体験や、危ない眼にあった話が出てきて、まるで映画を見ているようで面白い。
どちらも、映画やマスコミの世界で長く仕事をしてきた。
残る一人は、終戦当時思春期、それまでの軍国少年としての教育が、急に変わって混乱した経験を持つ。
それに引き替え、女性のうち一番年かさの私が、やっとかすかに戦争の記憶が残っている程度、ほかのふたりは、物心付いてからは平和の中で成長してきている。
その落差は大きいが、その人達が、同じ場所で、文芸の遊びをしながら、それを通じて、お互いの経験を追体験し、知識を深めていくことが、非常に尊いことだと、最近思うようになった。
若い人が物を知らないのは当然である。
経験がないのだから。
あと20年もすれば、もう戦争を知らない人たちが、日本の人口のほとんどを占めることになる。
些細なことでもいい。
戦争の体験を持つ人は、いろいろな機会に、それを、伝えるべきである。
想像力の欠如は怖いことなのだから。
最近、つくづくそういう感を深くしている。


露時雨
2003年11月03日(月)

昨日はよい天気だった。
こんな晴れた日に、どこかへ出かけたいと思いながら、雑事に紛れて出そびれてしまった。
昼下がり、夫と散歩がてら買い物に行こうと、支度をしていたら、夫のほうに電話が掛かり、朝から問い合わせていたウインドウズの設定に関することだったので、またパソコンの前にへばりつくことになってしまった。
仕方ないので、私は一人で、郵便局に手紙を出しに行き、図書館で本を借り、帰りにスーパーに行くと、用事が終わって来ていた夫とばったり。
スーパーの買い物は、重いからと、迎えに来たのだった。
夫婦二人の生活は、こんな風に過ぎていくことが多い。
連休も、家にいる限りは普段の日常と変わらない。
新聞が休刊になったりして、はじめて気がつくこともある。

今日は少し雨が降っている。
息子の妻の誕生日が近いので、今日あたり4人で一緒にどこか、食事にでも行かないかと昨日電話したら、二人とも、すでに予定があるというので、来週に延ばすことにした。
いつも仕事に追いまくられて、忙しい。
若いし、仕事があるのはいいことかも知れないが、ゆっくりする時間がなくて、何だかかわいそうである。
夫は友人の展覧会に行くと行って出かけた。
私は、懸案になっている文集作りをしなければならないのだが、なかなか手を付ける気分にならない。
自分が引き受けたことではあるが、熱が入らないのである。
ついつい、ほかのことを優先してしまう。
「そろそろ・・・」と遠慮がちに催促が来たが、「4,5日中に」と言いながら、もう2週間経っている。
フロッピーに入っているものを移して、編集し、表紙を作って印刷、それを閉じるだけのことで、昨年は10月半ばには出来ていた。
今年は足の故障を口実に怠けていて、時間が経てば経つほど気が入らないのである。

おととい知った昔の友達の状況が、その後わかった。
脳をやられていて、どのくらい快復するかわからないと言う。
原因も、詳しい経過も、聞いていないが、「アクシデント」と言っているので、急なことだったに違いない。
昔歌った歌をハミングしたら、歌詞を覚えていて、小さな声で歌ったという話を聞いて、泣けてしまった。
碁を趣味としていたその人は、碁盤を見ると反応を示すという。
「会話にならない会話をして、帰ってきました」と友人のメールにあった。
私には、ただ祈ることしかできないのだ。


君ありて窓昏し
2003年11月01日(土)

学生時代の混声合唱団で、ひそかに慕う人がいた。
年は2年上だったが、彼は浪人しているので、同学年だった。
鶴のように痩せて、背の高い彼は、高いテノールの美声を持ち、私は、まずその声に心を惹かれた。
私はアルトなので、彼の声の傍で歌うと、よくハモるような気がして、好きだった。
鉄分が足りない体質らしく、よく貧血を起こし、時々学校も休むらしかった。
私は、彼と団の楽譜係をしていたが、半年の任期中、一緒に仕事をしたことは、ほとんどなかった。
当時は、今のようなコピーマシンはない。
楽譜は原紙に鉄筆で切り、謄写版で刷るのである。
すべて手作業だった。
彼が、貧血を起こすと、私は、誰かを代わりに頼んで、部室で謄写印刷をするのである。
時には、たった一人で、謄写版のインクと格闘せねばならなかった。
体の弱い彼を、恨めしく思ったものである。
しかし、3年生になる頃から、彼は、見違えるほどたくましくなり、時にラジカルな理論をふっかけて、みんなを煙に巻いたりした。
夏の合宿の帰りに、彼を含む数人のグループで、キャンプに行ったことも懐かしい。
やはり彼を含む混声6人で、中世のマドリガルを一時夢中になって歌ったこともあった。
彼は学生運動にも熱心で、デモなどにもよく行っていたようである。
私はノンポリだったので、政治的なことには疎く、関心もなかったが、60年安保で樺美智子さんが死んだときには、さすがに黙っていられなくなり、教育実習中の現場から、国会へのデモに参加した。
それを知った彼から、葉書が来た。
無関心な態度をやめたことはいいことだと書かれ、最後に「くわしいことは、いつか一緒になれたときに話しましょう」と結んであった。
それに、私は返事をすることが出来なかった。
すでに、別の人と将来を約束していたからである。
卒業して2年後、私は約束していた人と結婚、その半年後に、彼は私の友人と結婚した。
共にマドリガルを歌っていた仲間だった。
互いに別の人生を歩むことになったが、彼は、いつもわたしの心のどこかに存在していて、いつも気になる人だった。
同窓会で年に一度会うくらいだが、私は彼の傍で、その声に合わせて歌うのが、今でも好きである。

その彼が、今、快復できるかどうかわからない状態で、病院のベッドにいる。
その妻である私の友人からのメールで知った。
突然倒れ、救急救命センターで10週間、一般病棟に移って5週間になると言う。
友人は、心の強い人である。
繊細で、どこか不安定な夫を庇って、これまで過ごしてきた。
余程のことでも、人に頼らず、切り抜ける精神力がある。
しかし、今回は、さすがに、こたえているようだ。
でも、今まで誰にも言わず耐えてきた。
「何かお役に立つことがあるかしら」とメールを送ると、「ありがとう」と涙に暮れたらしい調子の返事があった。
そっとしておいて、と言う彼女に、私は何もしてあげられない。
それ以上に、意識があるのかどうかわからない状態で、病床にある人に、何も出来ないでいる。
「いつかきっと、また一緒に歌える日が来ることを信じて、快復を祈ってます」と返事を書きながら、わたしの心も涙でいっぱいになった。


鼬の道
2003年10月31日(金)

先日新宿での連句会で、私は次のような句を出した。

月浴びて鼬の道を分け入らん

これは前句に恋の句があり、もとの恋人がオーソレミオを唱っているという内容だった。
次の句は恋離れをと言うので、鼬の道を出した。
ちょうど月の句を出す場所でもあったので、うまく冬の月になり、治定された。
鼬は同じ道を二度通らないと言うところから、人との往来、交際が途絶えることを「鼬の道」というのである。
この言葉を教えてもらったのは、二年前、ちょうど今頃だったが、ある人とメールで連句の付け合いをしていたときだった。
その人の句に、この言葉を詠み込んだものがあり、辞書を引いて、意味がわかった。
百科事典のように、何でも知っているその人は、私にとって、得難い存在だったが、その付け合いを最後として、だんだん疎遠になり、昨年夏、些細なことから、決定的な亀裂が入って、文字通り、今は「鼬の道」の間柄である。
もう振り返るつもりはないし、元に戻ることもないだろうが、ひとつ残念なのは、その過程で第三者が入ったことである。
そのことが、わたしのこころに拭いがたい傷を遺した。
どんなひどい争いも、一対一で為されたことなら、まだ救いがあったろうに、そこに不純なものが入ったことで、修復も、転換も出来ない結果となってしまった。
しかし、これは私の側からの見方である。
信頼を寄せ、それを理解してくれていると思ったのは、私のほうの思いこみで、実は、向こう側の人たちにしてみると、私のほうこそ、邪魔な第三者であった。
その後の経過を、間接的かつ人の口を通して窺い知ると、それがよくわかる。
邪魔な存在がなくなって、平和で愉しく行き来している様子が伝わってくるからである。
「人間物事を決めるときに、最終的に働くのは、好き嫌いの感情ですよ」と言った人がいた。
理屈も、正当性も、好き嫌いの感情にはかなわないということであろうか。
それを言った人は、「あなたが悪いんじゃない。だからもうそんなことをいつまでも引きずるのはやめなさい」と、私を元気づけようとしたのだった。
それから更に時が経つ。
物事の記憶というのは、時間経過と共に薄れる。
しかし、感情の記憶というのは、なかなか消えない。
子どものイジメで、いじめた側がすぐ忘れても、虐められた方の子どもが、その記憶を長く引きずっているのは、当然のことだ。
その記憶は、時として深く沈潜し、人格に影響することもある。
子どものイジメを、軽く考えてはいけないのである。
大人の間でも、イジメはある。
私は、子どもの頃いじめられることが多かったせいか、イジメに対しては敏感で、ひとのことでも、捨てておけない。
代理戦争してしまって、当の本人がケロッとしているのに、いつの間にか私に矛先が来てしまうと言うことがよくある。
「バカだなあ」と、言われる。
「ソンな人ですね」と、同情されたこともあった。
「鼬の道」に入り込んだのも、多分、そんなところに原因があるのだろう。

十月尽。日が短くなった。
一年の終わりを、そろそろ意識する頃となった。


秋晴れ
2003年10月30日(木)

家の中でも、一階と二階では、温度差があるようだ。
朝、日が昇り、少し暑さを感じて起きあがり、下に降りていくと、まだ、ひんやりと寒いくらいである。
2,3度の違いがあるのではないかと思う。
今日は、日中は、ほどよい陽気だった。
振り込みなどがあって、郵便局に行き、図書館で借りた本を返し、ついでに、3冊ほどの、連歌関係の本を借りると、本が重いので、一旦帰宅した。
玄関先に、宅配便が届いている。
段ボールに入ったジャガイモだった。
夫が公開しているホームページには、写真のコーナーがあり、デジカメで撮った四季折々の写真を載せている。
ひと月ほど前、北海道の人から、夫宛にメールが来た。
ホームページに載ったジャガイモの花の写真を、使わせて欲しいという趣旨だった。
面識はなく、ホームページを見て、言ってきたのである。
農家の人で、ジャガイモを出荷している先のホテルのロビーに、宣伝用のジャガイモの花の写真を飾りたいと思い、いろいろ探して、夫の写真が目についたのだという。
ちゃんと礼を尽くして言ってきたので、承諾し、あらためて写真を送ってあげたら、その御礼にと、収穫したジャガイモを一箱、送ってきたのだった。
夫は、ホームページを、普通に公開している。
地味で、どちらかというと固い内容なので、掲示板に訪れる人も、少ないようだが、たまにはこんなことがある。
私のホームページは、もっと地味で、しかも、自分から全くと言っていいほど宣伝もしないので、公開とは名ばかりである。
友人達は、私がホームページを作っていることは知ってはいるようだが、URLも教えていない。
ただ、連句という共同作品の場に参加してもらっているので、その人達には、別サイトを作って、そちらを見てもらっている。
ほかに、URLを教えていなくても、何か目的があって、検索で探し当てて、こっそり覗いていた人もいたらしい。
友好的態度で見ているのではないから、「見ています」なんて挨拶もない。
別に挨拶などしなくても、ネット上のルールを守って、見る分には、仕方がない。
「誰それさんが、こんな名前で、このタイトルでホームページを公開しています」なんてことを、やたらに触れ回ったりしたら、それは匿名性を守るべきネットの法則を侵したことになるので、プライバシー侵害にあたる。
こちらも、防御策をこうじなくてはならない。
現在は、そのたぐいの人たちは、いなくなったようだ。
夫婦であっても別人格なので、夫と私は、お互いのページをリンクしていない。
夫は、自分のページを、友人知人に公開しているので、時々「奥さんのホームページも、見せてくださいよ」と言われることがあるらしい。
「ダメなんです。私にも、教えてくれないくらいですから」と断ると、「どうしてですか」と訊かれる。
「何だか亭主のワル口とやらを書いているらしいので、具合が悪いんでしょうよ」と答えたそうだ。
その通りである。
公開するが、公開しないと言うのが、私の行き方である。
天敵はもちろん困るが、友人知人、亭主の関係者でも、私のホームページを見るなんて考えただけで、ぞっとする。
そんなことになるくらいなら、潔く、閉じるつもりだ。



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