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いつも年末から正月にかけて、我が家に泊まりに来る息子夫婦が、今回はハワイに行って来なかった。 息子の妻の作るおせち料理は食べられなかったが、若いふたりは、海外での正月を愉しく過ごしたらしかったし、夫と私も、それなりにのんびりと静かに過ぎた。 ふるさとに帰る人たちには、正月には、いろいろと計画があるだろうが、親子三代に渡り、すべての親族が東京近辺に集まっている私たちには、正月だからと言って、特別なことはないのである。 それでも、日ごろはお互い忙しく、なかなか一緒の膳を囲む機会も少ないので、年に一度の新年を、そのチャンスにしてきたのだった。 ただ、女の身になると、身内と言っても、大勢の人間が集まるというのは、大変である。 家の中を片づけ、掃除をし、買い物を済ませ、料理の支度をし・・・と言う具合で、最近は、出来合いのおせち料理を頼んだりもするが、やはり多少の準備はしなければならない。 来る方もそれなりに気を使う。 息子の妻は、よく躾の出来た人で、家事能力は私より上なので、彼女の作るおせち料理が、このところ我が家の正月の定番になっているが、ぎりぎりまで会社に行って、やっと休みにはいると、こちらに持ってくる料理の支度をするのは、大変だろうと思う。 「料理は好きですから」と言うが、家に来ても、台所を行ったり来たりで、何だかかわいそうになる。 ハワイに行くと聞いたときは、むしろ、その方が、いいと思った。 遠くに住んでいるのではないので、誕生日や母の日などにかこつけて、また会う機会はあるからだ。 そんなわけで、正月は、久々に夫婦だけの日となった。 今日は、ハワイのビデオも見せたいからと行って、ふたりがやってきた。 ささやかなお土産も持ってきた。 芸能人はじめ、日本人の観光客でいっぱいで、ハイシーズンとて、旅行費用も、ずいぶん高かったようだが、愉しかったらしい。 ただ、雨期にあたっていて、滞在の間、ほとんど雨だったそうだ。 「ホントはもっといい時期に行きたいんですけど、ふたり揃っての休みが、なかなかとれないものですから・・」。 それで、今度のハワイ行きになったという。 息子夫婦は、同じ会社で働いてたが、途中それぞれ転職し、今は別々のところで働いている。 「遅ればせながら・・」と新年の乾杯をし、息子の妻が作ってきた料理を食べて、半日過ごした。 息子の持ってきたビデオを見ると、30年近く前に泊まったホテルが写っていた。 南米からの帰りにアメリカに寄り、更にハワイを経由して帰ってきたのだった。 5月始め、新婚カップルでいっぱいのワイキキ浜辺を歩いたことも、覚えている。 帰りは、ホノルルから東京経由で香港に行くという飛行機に乗った。 息子は、日本人とは見なされず、私もスチュワーデスから中国語で話しかけられた。 日本的な背広を着ていた夫だけが、日本人として対応された。 私はいたずら心を起こして、そのまま通したが、息子は、ショックだったようだ。 英語と中国語で話しかけられても、頑として返事をせず、いよいよ飛行機が日本に着いたとき、スチュウワーデスに大きな声で「さよなら」と声を掛けた。 はじめて発した日本語の言葉だった。 ビックリして絶句したスチュウワーデスの顔が面白かった。 そんなことも思い出す。 それから3年後に、もう一度南米に行った。 現地で息子は中学生になった。 子どもの時に、海外を2度往復して育った息子が、当時のことをどう思っているか、あまり訊いたことはない。 一度だけ、中学生の終わり頃、「僕は外国で、いろいろな人たちを見たから、自分は非行化してはいけないと思っている」という趣のことを言ったことがある。 南米では、貧しくて、街中で物乞いをしている人が沢山いたし、小さな子どもが、靴磨きもしていた。 そんな光景は、多分、息子の心の中に刻み込まれているはずである。 外国帰りと言うことで、理不尽なイジメにも遭っている。 まだ息子には子どもは居ないが、多分、自分が父親になったとき、それらの経験が、どこかで生かされるのだろう。 夕方、明日から仕事だからと言って、息子達は帰っていった。
子どもの頃は、正月に家族や年始に来た親戚の人たちで、必ず百人一首のカルタとりをした。 近所のお兄さん、お姉さんが加わることもあった。 「むすめふさほせ」の札を覚えておくことや、目指す札をとばす技術なども、その人達から教わった。 私が高校を卒業する頃まで、この行事は続いたように思う。 古典の授業には、百人一首の歌が、必ず出てくるし、カルタとりの面白さに加えて、歌の意味を探ることも、興味があった。 読み手に廻るのも好きだった。 札が少なくなると、中央に並んだ何枚かの札を睨んで、皆の目が血走ってくる。 そこを、わざと焦らすようにゆっくりと読み上げる。 百人一首をしないと、正月気分が出なかったものだ。 家庭の中で、カルタとりをしなくなったのはいつからだったろうか。 父の社会的立場が、だんだん忙しくなり、正月にその関係の客が増え、子ども達が大きくなって、外の世界での楽しみが多くなり、交友関係が広がって行ってからであろう。 また、正月の遊びも変わって、カルタ遊びも流行らなくなったのかも知れない。 家には、ずっしりした百人一首があったが、いつの間にか、どこかに行ってしまった。 今日の連句会は、百人一首の賦し物。 百首の歌の言葉を詠み込んで、連句を巻いていくのである。 14人集まり、ベテランの捌きがリードして、4時間ほどで28句の付け合いが終わった。 心あてに寄らばや君の止まり木に 某 いなばの山で三行半書く 私 墨染めの袖にもあるか身八つ口 私 行くも帰るも違ふをのこと 某 花を追ひいくのの道の遠き酔 某 からくれないに立てる陽炎 私 こんな具合であるが、この数年、新年初のこの座での恒例になっている。 終わってから、乾杯すべく、飲み屋に繰り出した。 男5人、女4人が参加、お酒とお喋りを愉しんで帰ってきた。 健康を考えて、飲み会は半減しようと思っていたが、無理である。 ニトログリセリンを持ち歩きつつ、飲み友達との縁を優先することになりそうだ。
今年になって最初の連句会に行く。 もちろんインターネットの連句をやっているので、連句には年末年始に関わりなく接しているが、座での付け合いは、今日が最初である。 ベテランの人たちでやっているこの会に、2年前から時々呼んで貰っている。 今日は6人と5人に分かれて2席。 歌仙である。幸い良い天気で、愉しい座だった。 今日は女性ばかり。 この会にははじめてという人が3人招ばれていて、うちひとりは無断欠席。 主催者側がお弁当も人数分用意して、ちゃんと2度も案内状を出しているというのに、断りの電話もなかった。 その人には、私も、一度、すっぽかされたことがあって、それ以来、絶対声を掛けないが、当人は「アラ、そうでしたっけ」とけろっとしていた。 団塊の世代。 この年代の人には、よくあることである。 礼儀知らず、無責任、無反省、プライバシーの感覚に乏しく、人のアイデアを平気で盗用したりするのも、この年代に多い。 こんなことを言うと、同年代で、きちんとしている人から反発を喰うだろうが、自分の妹を見てもそう思う。 ベビーブームの中で生まれ、常に競争の中で育っているので、自己主張も強い。 この人達と付き合うときは、かなりこちらがソンをすることを覚悟しなければならない。 何年か前の話だが、連句の付け合いについて質問のメールを寄越した人がいた。 私もそれ程連句に詳しいわけでなく、また特に親しい間柄ではなかったが、こちらは調べて、一応きちんと返事した。 それに対して、返礼のメールはなかったものの、大したことではないからと、そのままにしていた。 すると、その人はその連句作品をコンクールに出し、入選した。 知ったのは、入選作品集を偶然見たときである。 それまで、その人から何の知らせもなかった。 私だったら、「おかげさまで」ぐらいは言うだろうと思う。 実際にはお陰様でなくても、それが、普通の礼儀である。 第一、人に物を訊くのに、メール一本で済むと思っているところが、そもそもおかしいのである。 終わればケロッとして、報告もしない。 それこそメール一本で済む話なのに。 「やらずぶったくり」というのかも知れない。 やはりその世代。 何度か似たような経験をして、私はその人とは、こちらからは付き合わないことにした。 若い頃は、全共闘で暴れ回り、古い価値観を破壊していった人たちだから、どこかにその片鱗があるのかも知れない。 連句が終わってから時間があったので、何人かで駅近くの喫茶店に行き、お茶を飲んで帰ってきた。 明日は、また別の連句会がある。 連句の会には、率先して参加することにしているので、今月はあと5回予定している。 連句を追っているうちに、いつのまにか月日が経ってしまうが、行けるうちが花かも知れない。 この分野は平均年齢が高いので、今まで元気に来ていた人が、自分や家族の病疾で、来られなくなったりすることはよくある。 10年前、連句に足を踏み入れたときから、指導的存在の人が2人亡くなった。 その代わり、新しいメンバーも加わっているが、もともとマイナーな文芸なので、実際にやる人は、そう増えない。 連句を広めようと言う人はいて、熱心に新しい人を誘ったりしているが、私は、その点では消極的である。 自分が好きだからと言って、無理に人を誘うことはないと思っている。 ゴルフや麻雀を、いくら勧められてもやらないのと同じで、人が誘ってもダメなのである。 興味があれば、誰から言われなくても、探して入ってくる。 趣味というのは、そういうものである。 連句に多くの時間を割き、出かけていく私を、夫はどう思ってるのか、まともに訊いてみたこともないが、子どもが独立し、自分もリタイアしたからには、女房にも好きなことをさせてもいいと思ってくれているだろう。 そのように勝手に解釈して、せっせと、歳時記の入った鞄を提げて、出かけていく。 行けば、2次会まで付き合って、夕飯の支度は、期待できないことが解っているので、夫は、最初からアテにしないのである。 今日も、夕食に間に合う時間に帰ってきたら、夫の方はさっさと、自分の好きな物をあつらえて、食事を始めたところであった。 歳末から正月にかけて、ふたりでべったり過ごしていたので、夫の方も、うんざりしている。 「明日も連句なの」というと、「どうぞどうぞ」と、明るい返事が返ってきた。
BSで、暮れから小津安二郎の映画作品をやっている。 今日は「戸田家の兄妹」。 主演は、佐分利信と高峰美枝子。 1941年の物だから、出演者はみな若く、今存命の人はほとんどいないかも知れない。 日本が太平洋戦争に突入した年の映画である。 上流社会に属する家庭の主が亡くなり、残された妻、未婚の娘が、兄や姉の家を転々としながら、つらい思いをして過ごす。 お金があっても、どこかに身を寄せなければ生きていけない当時の女性の状況がよくわかり、なかなか興味深い。 満州に行っていた次男が、帰ってきて、母と妹を一緒に連れて行くことになって、終わるが、佐分利信演ずるこの次男は、小津の自画像らしい。 正義感が強く、自分の母や妹につらい思いをさせた兄や姉たちを、激しく非難する。 小津の映画で、似たような家庭の状況が繰り返し描かれているのは、彼自身の体験の投影かも知れない。 高峰美枝子は当時20代初めくらいだろうか。 控えめで美しい令嬢役がはまっていた。 暮れにも、「東京物語」を始め、いくつか放映された。 これらは、小津の晩年のもので、私が小学校高学年から中学生くらいの頃。 父親が映画好きで、幼い子を抱えて外出できなかった母に遠慮して、私をお供に映画館に行ったのである。 お陰で、大人向きの映画を沢山見せて貰った。 小津映画は父の好みだった。 当時は、原節子がきれいだなと言うくらいの印象しかなかったが、今見ると、映画の内容がよくわかって面白い。 明日は何が放映されるのか、毎日楽しみである。
今日から図書館が開館。 暮れに頼んであった本が来たというので、取りに行く。 ブラントーム作、小西茂也訳の「ダーム・ギャラント」。 ”Les Dames Galantes” がフランス語の原題である。 文字通りの意味は「優雅な貴婦人達」とでも言うのだろうか。 しかし、実は別の意味がありそうである。 ひょんなことで、この本を読む羽目になった友人が、暮れの忘年会で話題にしたことから、私も野次馬根性で読んでみることにした。 16世紀に書かれた一種の艶書である。 近くの図書館には置いてないので、都立図書館から取り寄せて貰った。 今にもページが溶けそうに痛みの激しい本で、特別の箱に保護されて届いた。 昭和27年発行だから無理もない。 私の家には、父の代からの、100年近く経った本があるが、大事に扱っているので、いまだに印刷も製本もしっかりしている。 公共の場に置いてあった本は、半世紀保つのが珍しいのかも知れない。 件の本には、フランス王朝期の、上流社会における艶話が、挿絵入りで克明に書かれているようだ。 日本の源氏物語もそうだが、貴族の男女関係というのは、相当乱れていたらしく、それは古今東西を問わないらしい。 友人がそんな本を何故読む羽目になったのか。 私は見たことがないので、間接的に聞いた話だが、どこかのサイトの読書に関するページで、誰かに仕掛けられたらしい。 その周辺の事情の方が、面白いドラマになりそうである。 似たようなことを、別の人から聞いたことがある。 その人は、あるところで、ある男性から、「こんな本がありますよ」と、こっそりメモ書きを渡された。 「性愛対話」という題であった。 どうして?といぶかる彼女に、「ちょっと面白かったものですから」と言われ、地元の図書館に行って、借りてきた。 それぞれ夫があり、妻がある人同士の、恋愛に関する内容で、往復書簡になっている。 すぐに読み終わり、面白い本を教えていただいて有り難うございましたと、鄭重な葉書を出した。 内容に一切触れなかったのは、彼女の賢さである。 それに対して、向こうからは、返事はなかった。 あとになって何かのついでに、どうしてその本を自分にすすめたのか、さりげなく訊いてみると「そんなことがありましたっけ」と、相手は話を逸らせてしまったそうだ。 人に特定の本を薦める時は、何か意味があるか、その本にメッセージを籠める場合である。 彼女は、釈然としない顔で、私に話してくれた。 「試されたのよ。性愛に関する本なんて、普通は女の人に、ストレートには、すすめないわよ。その人は、あなたをからかったのかも知れないし、何か意図があって、あなたの反応を見たかったんじゃない?」と私は言ったが、今度の「ダーム・ギャラント」の一件で、同じようなケースだなあと、思い出した。 前の話と、今回の場合と、両者の間に、知己の関係はないから、私は余計なことは言わないが、教養ある女性に、艶書などすすめる男性というのは、一体どんな人物なのか。 そちらの方に興味がある。 そして、頭のいい彼女は、きっと仕掛けを上回る反応を示して、相手の鼻をあかせることだろう。
今年の三が日は、記録的な暖冬だったとテレビが報じている。 確かに、暖かい正月だった。 昨日は郊外に墓参りに行ったが、昼時だったので、西に向かう車は、太陽の光を受けて熱いほど。 正月に墓参をする人は多くないと見えて、静かな公園墓地で、ゆっくり墓参りをすることが出来た。 ここには、夫の両親と、生まれてまもなく死んだ弟が眠っている。 私は、秋の彼岸に、足の骨折で行けなかったので、いつもは夫と息子夫婦に任せている元日の墓参りを、したかったのである。 道路の選択がよく、渋滞もせずに帰ってくることが出来た。 今日は夫と共に、私の両親のところへ。 ふたりとも、年なりの衰えはあるが、病気もせず、元気である。 午後から出かけ、母の作った煮物などを食べ、5時頃帰ってきた。 「これで、両方の親に挨拶したことになるね」と夫が言った。 明日は息子夫婦もハワイから帰ってくる。 そして、通常の日常が始まる。 大晦日の除夜の鐘から始まった私のネット連句も、順調に進行している。 今年も連句に磨きを掛け、座にはなるべく出席、ネット連句も常時続けて、仲間を増やし、その間連の人付き合いは大事にしたい。 今年最初の連句座は9日の俳句文学館。 10日にも新宿界隈で予定されている。そのあとにも、5回の連句座があり、忙しくなりそうである。 今日までに来た年賀状は、例年より少ないが、結社の主宰が亡くなったので、出さないと言う人が居るからである。 私は、追悼の気持ちはあるにしても、身内ではないので、文面を地味にして通常出す人には出した。 例年来ていて、今年は来なかったという人も、4,5人いる。 人間関係は常に流動的で、移ろいやすい。 この人とは、もう付き合いたくないと思ったら、年賀状から外していくのだろう。 その人達は、私のほうからも外したので、五分五分である。 こちらから外したのに、くれた人には、まだ可能性があると見て、丁寧に返事を出した。
テレビドラマ「向田邦子の恋文」を見る。 久世光彦演出、山口智子主演。 いつも向田邦子の作品を構成あるいは翻案したドラマを、正月作品として久世が作ってきたが、今回は、いつものドラマと違う。 向田の妹が、姉の隠されていた恋の話を書き、それをもとにドラマになっている。 向田は、生涯独身のまま、50歳を過ぎたばかりの若さで、飛行機事故で死んだ。 すぐれたテレビドラマを多く書き、エッセイを出し、そのうち小説を書いて、それが直木賞を取った。 事故にあったのはそれからしばらくのことである。 作家としては脂がのって、上昇気流にあり、これからまだまだ沢山の作品を書き、ドラマも見せてくれるだろうと期待されながらの死であった。 私は向田邦子のドラマも、著作も好きで、昭和50年代半ばまでの「あ・うん」「阿修羅のごとく」「幸福」などのテレビドラマは、今でもよく覚えている。 久世光彦は、彼女が亡くなってから毎年、正月に向田ドラマを放映してきたが、昨年だったかその前だったか、もう向田ドラマは終わりにすると宣言していた。 しかし、向田の妹が書いた本は、いたく久世の心を揺さぶったのか、今回久々のドラマとなった。 いつも出てくる田中裕子は今回登場せず、山口智子になったのは、面差しが似ているからかも知れない。 知的な美貌の主なのに、向田には、恋の噂もなかった。 しかし、実は、彼女には、たったひとり愛した人がいたらしく、ひそかに保存してあった恋文を、死後20年以上経って、その妹が明らかにしたのだった。 ドラマはドラマ、そこに描かれたことがすべて事実そのままではないだろう。 しかし、彼女の一途な恋の深さは、何げないエピソードの積み重ねから、よく伝わってくる。 恋人の母親役で出てくる樹木希林のうまさ。 このドラマが成功しているのは、彼女の存在感が大きい。 病気で半身不随の体になり、妻子と別れて母親と暮らす男。 その男のもとに、仕事の合間を縫って、訪れる邦子。 ある時母親が言う。 「あなたが居なければ、あの子はしっかりすると思う。あなたに頼って、すっかりダメになってるのよ」 呆然とする邦子に母親は言う。 おいとまをいただきますと戸を閉めて出てゆくようにゆかぬなり生は これは斉藤史の歌である。 それを聞きながら邦子は「私もあの人に頼ってるんです。私には必要なんです」という。 母と恋人。 ふたりの女が、ひとりの男にかける愛の形の違いと深さ。 ずしんと来る場面だった。 男は、やがて自ら死を選び、その母と邦子は、共にこの歌を反芻しながら、それぞれの涙を流すのである。 向田邦子が30代初め頃の話だったと言うが、彼女の文章のどこにも、書かれていない。 向田ファンとしては、彼女にそんな体験があって良かったと思う。 そんなことがあったから、あれほど人情の機微に通じたドラマが書けたのであろう。
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