沢の螢

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最高の恋愛書
2004年01月19日(月)

友人が夢中で読んでいるので、共通の話題のためにと、野次馬根性で読み始めた「ダーム・ギャラント」。
都内の図書館から取り寄せて貰った物であるが、途中まで読んで、あまりにくだらないので、もう沢山という気になり、3日間で、返してしまった。
艶書と言っても、似たような話を、これでもかこれでもかと、繰り返しているだけ。
ロマンもなければ、本当の意味でのエロティシズムもない。
この本が、バルザックやラ・ファイエットに影響を与えたと言うが、ホントかいなと思う。
こういう本があるのを知ったと言うだけが取り柄である。
この本のひとつの逸話から、河野多恵子が「後日の話」という小説を書いたというので、それも読んでみたが、こちらの方が余程面白かった。
しかし、いずれも、私好みではない。

私が今まで読んだ中で、最大の恋愛書だと思うのは、「アベラールとエロイーズ」である。
12世紀はじめ頃のフランスの哲学者アベラールと、彼の愛人であり後に妻となったエロイーズの間に交わされた往復書簡集。
ふたりは、はじめ師弟の間柄だったが、すぐに恋愛関係になり、やがて不幸な出来事によって、間を引き裂かれ、別々の修道院にはいる。
10数年後、アベラールが友人に当てて送った、生涯の物語を書いた書簡が、エロイーズの手に渡り、それに在りし日の恋愛感情を蘇らせた彼女が返事を送ったことで、ふたりの間に、手紙の遣り取りが始まる。
その12通の書簡集である。
私がこれを読んだのは、20歳の時。
大学3年の時であった。
合唱仲間のある男性が、この本を読んでいたく感激したことを聞き、早速買って読んでみたのである。
12世紀はじめと言えば、日本は平安末期から鎌倉時代に入る頃。
同じ頃に、海の向こうでは、こんな激しい愛の物語があったのかと、ショックを受けたことを覚えている。
今もその本は手元にあるが、岩波文庫で、旧仮名で書かれてある。
アベラールとエロイーズが俗世の恋愛関係にあったのはわずか3年。
その後は両者は、共に修道院で神に仕える身となり、往復書簡を取り交わすだけで、一度も会ったことはなかった。
特に、17歳でアベラールと出会い、彼との愛に生きたエロイーズの、真剣で一途な手紙は感動的である。
肉の愛の思い出と、神への愛とのはざまにあって、苦しむ痛ましい叫びが、生々しく語られ、心を打つ。
彼女は20歳からの人生を、修道院で、アベラールの指示に従って、敬虔な祈りの中で送り、アベラールの死後、その遺体を引き取って、遺言された修道院に埋葬したのである。
いまもう一度読んでみると、若い頃によくわからなかったことが、気づかされる。
往復書簡は、後半は基督教の教義や哲学的考察が主になっていて、なかなか難しい。
どういう本かと訊かれても、一口には説明できない。
書名は知っていたが読んでないと言う友人に貸した。
彼女が艶書と比べて、どんな感想を持つか、興味がある。
「アベラールとエロイーズ」。
これ以上の恋愛書を、他に知らない。


女友達
2004年01月18日(日)

今日は私の所属する文芸集団の新年会があった。
都心のホテルで、5,6人ずつのテーブルに分かれ、総勢80くらいの、賑やかな会だった。
その中での、式典や、催しも滞りなく終わり、有志が近くの飲み屋に流れて、また話が弾んだ。
そこで帰れば良かったのだが、地方から日帰りで来た男の人が、長距離バスに乗るまで、だいぶん時間があるというので、女性6人にもう一人男性が加わって、コーヒーショップでお茶を飲むことにした。
女性達は、いつも顔を合わせて、忌憚ないことを言い合っているメンバーである。
顔をつきあわせて、なにやら難しい話をはじめた男性ふたりを横目に、女性達は、気ままなことを言い合っていた。
そこで、私は、聞き捨てならないことを言われたのである。
言ったのは、私と最近よく付き合っている人で、彼女は、親しさのあまり、うっかり口を滑らせたという感じで言ったのだった。
そのこと自体に悪意はない。
彼女は、わたしが2年前にいたグループの人たちと、最近よく付き合っている。
そのグループのある人と行き違いがあって、私はそこをやめたのだが、それは当事者同士にしかわからないことである。
私がやめるに至った直接のきっかけには、私に悪意を持つ女性が関わっている。
彼女の言うことだけを鵜呑みにした人が、一方的に、私をやめるべく、仕向けたのであった。
彼女は私がやめると、邪魔者が居なくなったとばかり、それまで欠席勝ちだったグループに復帰し、いまは中心的存在になって活躍している。
他の人たちは、この件には何も関知していないし、何故突然、わたしがいなくなったかも、正確には知らない筈である。
関わった人たちにとっては、自分たちを正当化するためには、居なくなった人間を悪者にした方が簡単だから、そんな風に言っているのだろう。
やめた私が、出かけていって、異議を唱えることは、ないからである。
一人よりは、二人の方が力があるし、やめた人間より残った方に分がある。
欠席裁判で、どんな風に言われているのか、こちらには全くわからないことである。
しかし、そのグループの代表者をはじめ、何人かの人たちは、よく事情がわからぬまま、いまでも変わらずに、年賀状をくれたり、一緒に飲みに行ったり、私のネット連句に参加してくれている。
グループの中では私が悪者にされていても、実際に付き合う私は、全くイメージが違うはずだから、戸惑っていることもあるだろう。
わたしのいる集団と、そちらのグループとは、共通の文芸を志していて、どこかで接点があるからである。
共通の場で、仲違いしている人たちが居た場合、他の人たちはどうしたらいいのか、大変、困っていることは想像できる。
どちらとも付き合わねばならないが、片方から聞いたことを、もう片方に喋るのは、仁義に反するし、どちらの味方も出来ないからである。
そんな状態のまま、2年近く経つ。
一度は、件の相手から、修復したいような話もあったが、それがあまりにも一方的で、自分本位なので、私のほうから断り、それきりになっている。
私とは和解したいが、問題の女性の機嫌を損ねたくないから、グループには戻って欲しくない、内緒で縒りを戻したいと言わんばかりの、そんな手前勝手な提案に、こちらが応じると思っているのだろうか。
虫が良すぎるし、人をバカにするにもほどがある。
私にとっては、思い出すだに不快なことだったし、いまでも、その人達を赦しては居ないが、もうそこからすでに前に歩き始めている。
喫茶店で私に聞き捨てならないことを言ったひとは、そうした正確な経緯も知らず、そちらから生半可に聞いたことを種にして「この人は、xxグループから出入り禁止になったのよ」と言ったのであった。
その場では、聞き流したが、その言葉が引っかかった。
事情を知らない人たちのまえで、そんなことを言ってほしくなかった。
考えた挙げ句、メールを送った。
メールはマイナスのことには使わない主義だが、「そんなこと言ったかしら」と、あとでとぼけてしまわれるおそれがあるので、敢えてメールにしたのである。
「一方的な情報で、人の人格に関わることを言われては困ります。人を批判する以上は、正確なことを調べてから言ってください」と書いた。
彼女からすぐ返事が来て、場所柄を考えずに、余計なことを言って、申し訳なかったと書いてあった。
しかし、何故私にそんなことを言ったのか、その根拠になったのは、どういうことからなのかという、肝心なことについては何も書かれていなかった。
しかし、正直な人である。
相手方から聞いた話を鵜呑みにしていますと、白状したようなものだからだ。
彼女は、自分自身が人からいろいろなことを言われても、すぐに忘れてしまえる人なので、ほかの人も皆そうだと思っているのだろう。
糠に釘というのは、このことである。
「節操がない」と、いつか私は彼女に言ったことがある。
いままでにも、同じようなことが2度あった。
繰り返すのは、ことを軽々しく考えて、反省していない証拠である。
腹を立てつつも、話題の豊富な彼女と居ると愉しいので、赦してきたのだった。
こういう人には、こちらも同じ付き合い方をすればいいのだろうが、私にはそんな器用なことが出来ず、時にグサッと来てしまうのである。
あなたはピュアな人ですね」と、何人かの人に言われたが、褒め言葉と思わない。
生き方が下手だと、言いたいのであろう。
女友達。
異性よりは本当のことを言ってくれるし、信用できると思っていたい。
しかし、裏切るのも、女友達である。


山中貞雄の映画
2004年01月17日(土)

私の住む市では、小ホールで、年に3回ほど、古い名画を特集で取り上げる。
昨年秋は、アメリカ映画と落語を組み合わせての催しだったが、今回は3月まで月に一度、戦前戦後の日本映画を上映する。
今日はその一回目、山中貞雄の映画2本だった。
「丹下左膳余話・百万両の壺」と「人情紙風船」。
江戸末期の庶民を対象とするもので、どちらもはじめて見る作品だが、いたく感動してしまった。
丹下左膳は、大河内伝次郎主演。1935年のもの。
百万両のありかを地図に塗り込んだという、こけざるの壺をめぐって、繰り広げられる、喜劇タッチの話。
壺を探す侍、知らずに屑屋から貰った壺に金魚を買う子ども、その子どもを我が子のように面倒見る左前と女房。
江戸の風俗や庶民の暮らしが出てきて、大変面白く、終わると一斉に拍手がわいたほど。
観客はみな地元の、中高年が主である。
懐かしい俳優や、よく知ったような生活の場面が出てくると、愉しいのである。
2本目の「人情紙風船」は、ぐっと変わって、静かでもの悲しい、長屋の人間模様。
この映画は、題名だけは何度かきいていた。
長屋に住む浪人。
父親を亡くしてから、知り合いの武士を頼るが、足元を見た相手は、取り合わない。
その話をタテに、同じ長屋の庶民達のそれぞれの世界がヨコになって、人間模様を描き出す。
最後は、浪人が妻もろとも心中して終わるが、しっとりと人情の機微を描いて、傑作だと思った。
山中貞雄が28歳の作品。
完成直後に赤紙が来て、中国戦線に従軍。翌年現地の野戦病院で死ぬ。
「陸軍歩兵伍長としては男子の本懐。されど映画監督山中貞雄としては『人情紙風船』が遺作ではチトサビシイ。負け惜しみにはあらず」という遺書を残している。
山中は、映画会に入ってから死ぬまでに、26本の映画を撮ったが、現存するのは、わずか3本という。
いずれも23歳から28歳までの作品である。
小津安二郎とは、中国戦線で再会しているが、山中も生きていれば、小津に負けずとも劣らぬ映画作品を残したであろう。
戦争は、こうした優れた才能も、犠牲にしているのである。


ホームページの行く末
2004年01月16日(金)

私は典型的アナログ人間、まさかインターネットの世界に入り込むとは、3年前まで全く考えてみなかった。
20年近く前に、日本語ワープロが普及し始め、私が仕事していた日本語教育の現場でも、機械に強い人は、使い始めていたが、まだ個人で持つには高価だったため、オフィスや学校、物書きの人たち以外には、家に置いている人は少なかったと思う。
しかし、それから数年後に、個人用の小型のワープロが出始めて、みるみる広がった。
私も10万円也を投じて、買ってみたが、その頃のワープロは窓が小さく、2,3行の表示がやっとだったので、手で書いた方が早いと言うことになり、すぐに納戸行きになってしまった。
パソコンは、すでに企業や学校、病院で使われていたが、個人レベルにはなっていなかったと思う。
それが爆発的に普及し始めたのは、1995年のウインドウズ95が出たときであろうか。
機械には、関心のない私も、街中の電気屋で、大きな垂れ幕が下がっていたのを見ている。
パソコンスクールもどんどん出来て、機械に強い若い人たちは、すぐにインターネットの世界に入っていったようだし、個人でも何とか買える値段に近づいてきたせいもあって、パソコンの販路も広がっていったのであろう。
私は人ごとのように見ていたが、夫がウインドウズ95のノートパソコンを買い、メールなどを使い始めるようになってから、はじめて、パソコンを身近に見ることになった。
夫はその前に、ワープロを買って、私と同じく挫折していたので、とてもパソコンまでは行かないだろうと、思っていたのである。
文書を入力してプリントアウトしてもらったり、夫のメールから、私の関係者に、代わりに連絡メールを送ってもらったりしているうちに、「君も自分でやりなさい」と言うことになったのだった。
夫がパソコンを98型に買い換え、古くなった95型を貰い受けて、私もメールの送受信を覚えた。
そのうちに、インターネットにも参入、今度は私専用の机とパソコンを買い、とうとうホームページを立ち上げるところまで行ってしまったのだから、わからないものだ。
この正月で、丸2年経ったが、サイトの運営も、どうやら、自力で出来るようになり、ソフトの使い方も、幾らか馴れた。
この頃になって、今まで増やすだけだったページを、少しコンパクトにし、あちこちのサーバーに分散して表示してあるサイトを、2つくらいにまとめようかと、考え始めている。
昨年のある時期、「天敵」の襲来を集中的に受けた。
愛情籠めて作っているホームページを、土足で陵辱されたような気がした。
ネットと現実とを混同するタイプの人に掛かると、コワイ。
一度は、そのために、サイトごと引っ越した。
しかし、執念深く検索で追いかけてきたのである。
それとなく警告し、アクセス解析を付けてから、やっと、収まったようだが、また来る可能性はある。
有料だが比較的安く、しっかりしているサーバーを見つけ、今、サイトの引っ越しを検討中である。


冬の散歩
2004年01月15日(木)

先日ある男性から「○○さん、ずいぶん太りましたね。それじゃあ、膝が痛くなるはずですよ」と、遠慮のないことを言われてしまった。
年上で、日ごろやさしくしてくれている人だから、腹は立たないが、やっぱりそうかと、ちょっとショックである。
昨年夏、足の骨を折って、40日ほどギブスを嵌めて、ジッとしていたので、その間に4キロほど目方が増えてしまい、そのまま戻らないのである。
連句の座に出る機会が多いので、その都度外での飲み食いが加わり、確実に体重が増えてくる。
そこで、少しでも、脂肪を減らす為に、暇なときは、日に一度は、30分ほど歩くことにした。
昼前に夫が駅まで歩いて、そのあたりにある図書館に行くと言って出かけた。
2時間後に帰ってきたので、おそい昼食を一緒に食べ、今度は私が歩く番である。
買い物を兼ねて、などと思うと、運動にならないので、純粋に歩くだけ。
手紙と振り込みの用事で郵便局に寄ったほかは、ひたすら歩くことにした。
30メートル道路の広い歩行者通路を行く。
少し早足で30分。
丁度いいところに、幹線道路に面して、本屋があったので、ウオーキングとしての歩きはそこで止め、本屋に入る。
雑誌、新刊書をざっと眺め、パソコンの本を見て、ふと気づいた棚に、「冬のソナタ」を特集した雑誌があったので、手に取って見てしまう。
昨年、2度に渡って放映された20回のドラマ。
ペ・ヨンジュンの写真に見とれる。
マフラーの結び方が話題になったが、図解して出ていたので、頭に入れる。
1000円出して、本を買うところまでは行かない。
セキュリティに関する本を買い、帰途につく。
いつの間にか日が暮れかけている。
たまたま毛糸の長いマフラーをしてきていたので、歩きながらさっそく「ペ・ヨンジュン結び」をしてみる。
昔、「君の名は」が映画になったとき、岸恵子のマフラーの巻き方が評判になり、ドラマのヒロインの名を取って「真知子巻き」として、大いに流行った。
今度の「ペ・ヨンジュン巻き」はどうだろうか。
携帯で夫に連絡。
お風呂を沸かしてくれるように頼む。
本屋から歩いて家まで30分。
一度歩いただけで、目方が減るわけではないが、運動した気分になる。
昨年初め、月に1キロずつ減らすなどと公言したのに、守ることが出来なかったので、今年は人には言わないが、春までに、3キロくらいは減らしたい。
少し風があったものの、寒さは感じないくらい、爽快だった。


寒風
2004年01月14日(水)

池袋の連句会へ。
月に一度、駅近くの喫茶談話室に10数人が集まっての、小連句会。
その会としては今年初である。
13人が3席に分かれての付け合いになった。
昼前から、喫茶店の一隅を占領し、お茶やサンドイッチの昼食を挟んで連句を巻き、早く終わった順に帰る。
そのうちの有志が誘い合わせ、駅近くの多国籍料理屋で、飲みかつ喋って、6時か7時に散会する。
きょうの飲み会メンバーは、いつも来る2人が欠席したので、女性3人、男性2人になった。
連句にまつわる人間模様の、あれやこれやを話題にする。
誰それを巡る5人の女とか、わけありカップルの噂とか、ここだけの話といいながらも、大体は公然の秘密になっているようなことばかりである。
他には口外しないという暗黙の了解の中の話だから、その場だけで済んでしまう。
人間いくつになっても、その種の話はキライではないとみえ、つい、盛り上がってしまうのである。
色っぽい話に縁遠くなっている我々には、話題がある人たちが、半ば羨ましいのである。

風の強い1日。
地元の駅構内の本屋を、少し探索して帰る。
夫は、今朝仕込んであった鍋を肴に、一杯やっているところであった。


若きピアニスト
2004年01月13日(火)

連句の先輩から、音楽会の誘いがあった。
その知人の息子の、ピアノリサイタルがあるので、席がガラガラだと困るからと言う。
夜、上野文化会館小ホールに行く。
早めに付いたが、もう席は7割方埋まっていたので、後ろの方に座った。
私と同じように誘われた人たちが、7,8人。
フランス帰りの若きピアニストは、ダイナミックな演奏で、プーランク、ショパン、シューマンを弾いた。
27,8歳の若さ。これからの人である。
暖かい拍手がわいた。
終わって、駅構内のコーヒーショップで、お茶を飲んで帰宅。
音楽会というと、私は声楽に限ってしまうが、たまには、器楽の演奏もいいと思った。
帰ると11時近く。
都心のホールからはやはり遠い。



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